いちばん切実な自分像
強くありたい、しなやかでありたいとは、今時点で自分に不十分だと思っている類のもので、だから意識の上にもよく登場する。厳密に言えば「ありたい」というより「なりたい」ってもの。
じゃあ「ありたい」を中心に置いたとして、「なりたい」の反対側にあるのは何だろうなって考えてみたら、「でなければならない」という自分観がわいて出てきた。“私が私であるためには、常にこうでなければならない”といったもの。
そう言っちゃうと、ひどく堅苦しく聞こえちゃうかもしれないけど、「ありたい」とか「なりたい」とかそんな「あったらいいなぁ」的ゆるみのあるものじゃなくて、もっと切実に、もっと大前提なるものとして、私が私であるために必須の自分像みたいなものも、自分観の一つにあるんだと思う。知らぬうちにこれ失っていたら、私が私でいるってことにならないし、自分として健やかに生きてることにならないって類のもの。
そういうのって、基本自分の内側に染み付いていると思っているものだから、普段意識することって少ないと思うんだけど、それだけ重要なものだったら、やっぱり季節の変わり目だか年に一回だか、自分の意識の棚に上げてみるくらいのことはした方がいいような気がした。実際、そういうことしていないと結構気づかぬ間に何かに流されて失ってしまってることがあるんじゃないかと。
で、私にとってそれが何なのかというと、ものすっごい平凡だけど、「善良であること」「素直であること」「真面目であること」みたいな、人と、世界と、自分と向き合うときの姿勢、態度みたいなものかなぁと。この平凡を全うできたら、私はかなり満足な一生を終えられると思った。
自分が自分であるために大前提にしている、でも無意識下に置いたままになっている私らしさの原石みたいなものを、時々自分の手ですくい上げて、いろんな角度から眺めてみたり、きゅっきゅっと磨いてみたり、触れてみたり転がしてみたりするといいんじゃないかなぁと、そんなことを思った朝だった。
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