メールの漂流
出したメールというのは、だいたいどれくらいの割合で漂流してしまうものなんだろう。0%じゃない気がするな。なんら問題ないメールアカウントに向けて送信しても。というか、膨大なネット上のメール流通量と、セキュリティという名のさまざまな関門をかいくぐっている様を頭の中に思い描くと、よくぞここまでたどり着いてくれましたと麦茶でも差し出したくなる勢いだ。
今日mixi経由でメールが届いたんだけど、それは5/14に送信されたメールだった。けど、手元に届いたのは今日5/18だった。これはmixiの画面上でも新着メールの通知が出ていなかったから、単純にmixi内の問題だろうけど、でもまぁ遅れてでも手元に届いたから遅延の域内。
今年のお正月、自分の送ったメールが相手先に届いていなかった一件は、それはそれで発覚したから良かったものの、たぶんそのメール自体はいまだに届いていないし、今もどこかを漂流しているのかもしれない。これはもう遅延の域ではない。こういうことがあると、発覚しないことでそのまま疎遠になってしまっている人間関係も世界中にはそこそこあるのかなぁと思う。
あるべき連絡であればメールが届かなくても問題の掘り起こしができるけど、あったらいいなぁとかいうメールは、届かなくても先方にそれを確認するという行為に及ばず、例えば自分の送ったメールに対して返信はなしという仮の現実に着地して終わってしまう。まぁ多くの場合、本当に反応がなかったからメールが届かないわけで。
そういう落とし穴みたいなのは、技術進化があって使う道具が変わっても、なんらかの形であり続けるのが必然なのかもしれない、とも思う。ハトに手紙をお願いしたら、海を渡っている途中で、あ、落っこどしちゃった、みたいなのと同じで。人生ってそういうもんかもなぁと。届かなかったメールの件が後から発覚して良かったとなれば、それはそれで一つの必然に感じられるし。私、なんか必然思考なんだなぁ。現実をとことん許容する非現実思考というか。
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そうそう。メールって便利だけど、いろいろな意味でメリデメはあるよね。
その辺しっかり認識して、使い分けないとね。
【事例1】
明日の朝一までに急遽経営会議資料を作成することが必要になりました。その資料の一部の数値の妥当性につき部下に確認を依頼しました。
しかし、その依頼は面と向かって口頭では伝えず、メールで依頼&指示をしました。メールの方がファイルも添付でき、履歴も残り、効率的と考えたからです。
翌朝、その部下が体調不良で休みました。その”数値の妥当性”については、その時点では今日休んでいる部下しか分かりません。。。
彼は困ってしまってわんわんわわんわんわんわわんっ。。。
これも、メールだけでなく口頭で一言「明日の朝一までに確認しといて、すまん」と言うだけで、その部下が休んでいても、解決できるだけの情報を取得できていたかもしれません。
要するに何が言いたいかっていうと、思ったことをしっかり相手に伝えて理解いただくこと、その上で自分の心を知ってもらって、さらに納得(咀嚼、消化)してもらうことです。
投稿: かず~San | 2007-05-20 00:30
そちら界隈ではメリットとデメリットのことを「メリデメ」というのか!
メールでのやりとりって日常化したからこそ、届いていることが当たり前って認識になっているし、「瞬時に届く」「人の手を介さずに届く」みたいな特性から、人為的なミスが生じないものって認識に定着していきやすいもんだよなぁと思ったわけですよ。少なくとも送ったメールが届いてないなんて事態が発覚しない限りは。
「送ったメールは届くもの」とか、何かを前提にしないとなかなか思考が前に進まないし、あらゆる前提認識をくつがえしながらじゃ生活がもたないし。って何話してるんだか。
かず~さんの指摘も、メールを使うにあたって自覚しておきたい大きなポイントだよねぇ。メールを使うとき最も大切なポイントだと思います。それを伝えるのに最適な伝達手段を選べるかどうかということ。
投稿: hysmrk | 2007-05-20 10:02