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2007-05-09

定義とは何か

少しややこしい話をしますが、「定義する」ってどういう意味かっていうと、大辞林の辞書には「ある概念の内容やある言葉の意味を他の概念や言葉と区別できるように明確に限定すること」とあります。ややこしいですね。つまり「それは他の似たようなもんとどこが違うわけ?」に答えるものといいましょうか。

さて、この辞書の説明には時間の概念は含まれていないようですが、どうも私たちのイメージには、「定義」というのは今後も変化しない絶対的な枠組みというのか、「もう完成していますので、お手を触れないでください」みたいな付加イメージがくっついてくるような気がしますが、どうでしょうか。

何かの定義を検討することはあっても、「定義」の定義を検討するというのをこれまでしてこなかったので、今回考える機会を得て、ふーむとそんなことを思った次第なのですが、あるいは私固有の印象かもしれません。エライ人が決めたから、きっとそうに違いない、ずっとそうに違いない、みたいな庶民思考。

でも「定義」って決して絶対的なものじゃないんですよね。今信じている定義だって必要十分じゃないかもしれないし、今はそうだけど今後はどうなるかわからないもので言えばそれが大半だと思います。

それでも現時点の「定義」にはそれぞれに存在価値があるわけで、その一つひとつには当然創造主がいるわけです。そして、その主は当然神ではなく人なわけで、そこに到達するまでには大変な思考と熱意と勇気が注ぎこまれていると思うわけです。それについて考えていたら改めて、仕事でもやりとりさせていただくことが多い「発信者」に対する敬意の気持ちがむくむくわいてきます。

こんなことを考えさせてくれたのは、私が愛してやまない國分康孝先生が書いた本「カウンセリングの原理」の中の一節でして、そこの要点のみをかいつまんで共有します。総表現社会の現代では、こういう意識がとても大切な気がします。

◆定義とは、ある事象を理解するための道具
◆ある定義にもとづいて資料を集めたり、実際体験を重ねているうちに定義が徐々に修正されることは大いにありうること
◆可変性があるから頼りないように見えるが、しかし定義があるから言動に一貫性が保たれる、道具なしにある事象を理解するのはきわめて不便
◆定義という思考の枠組みがあるから、それを手がかりに調査研究できる、人とコミュニケートできる、思考がはかどる
◆自分の人生で深いかかわりのある事象については、とりあえず自分なりの定義をもつ必要がある
◆「人はどのような定義をもっているか知らないが、私はこういう定義です」といつでもいえるほどの意識性が必要である

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コメント

「定義」ってすごくテンポラリなものだと思ってます。それは必ず時間とともに変化し、変わっていくものだと。もしその時間の単位が100年とかであってもそのテンポラリ性の本質は全く変わらないかと。

でもって最後の引用部分は全部そのとおりだと思いました。

しかし「定義」という言葉の定義についてはあんまり深く考えたことなかったのでちゃんと考えるように心がけます。

絶対的な定義はないと思います。
そもそも絶対というのは100%のことですが、
絶対に絶対ということはありえないと思います。
小さい頃、父親の本棚に”絶対の探求”という
文庫本があり、興味を持ったのですが、当時の
私には難しくて理解できず3ページくらい読んで
読むのをやめてしまいました。

定義とは漢文的に読むと”義を定める”ということに
なろうかと思いますが、上にも書いてありましたが、
辞典によると、
>〔definition〕ある概念の内包を構成する諸属性の
>うち、本質的な属性を挙げることによって、他の概
>念から区別しその内包を限定すること。
と定義されています。

確かに”定義”がなければ、事象やものに対する
観念が不統一で、知的創造のできる人間同士
のコミュニケーションにおいて、圧倒的に障害と
なります。

簡単に言えば、定規がなければ、TVを買おうと
するときに○○インチという概念がない訳であり、
実際に現物を見比べないと分からない訳です。

でも、”インチ”という長さの尺度があることにより
人間は32インチの液晶TVを現物を見ずにネット
で購入できる訳です。

”定義”はやはり絶対ではなく、時間や知恵により
変化をすることもありますが、やはり、人間という
特殊能力を有した動物には欠かせないものです。

人間って不思議な動物ですよね。
他の動物にはありえないことを行ってますよね。

人間以外の動物は、子孫繁栄のためだけに交尾
しますが、人間は子孫繁栄という本能に付随して、
”性欲”という別の欲求があります。
人間は子孫繁栄する目的以外にも交尾をします。
だから、風俗という商売があり、需要がある訳です。
他の動物ではありえない世界です。

結局、こんな深夜に酔っ払って何が言いたいのかと
いうと、貴女の言うとおり”定義”の”定義”ってあまり
考えたことはありませんが、少なくとも各種定義は
我々知的動物には必要なものであり、絶対的な
ものではなく可変的なものなのだということです。

最終的に言いたいことは、固定観念にとらわれず、
常に柔軟に色々なことに接して行きたいということです。
絶対と思っていてもそうでないことも多々あります。

そして、自分の常識が他人の異常ということもあります。

こういうこと、ぐだぐた考えるの割と好きです。

次回は”常識”の定義について議論しましょう。

おやすみなさい。

コメントありがとうございます!嬉しい。またプラスして書くかもしれませんが、とりあえず朝の一言。

とっても大事なことは「定義とは可変的なものである」ということに、いかに日頃から自覚的であれるかということですよね。そうありたいなぁというか。

もう一つ大事なことは。

この本にも例として挙げられていたんですけど、「先生、カウンセリングって何ですか」と尋ねられて、ある講師が「君、それがわからないから自分は勉強してるんだよ。それがわかっていれば、それが何かについて研究なんかしてないよ」と答える。っていうか、答えを回避してる。これを目にして、國分先生は認識論的に異論はないけど、教育的にみると不親切だとみる。まずは自分が今出せる定義をきちんと出すというのが親切だと。

これにじんわりきたんですよねぇ。そこにはやっぱり、教育に限らずとも人に伝えることへの「熱意」とか、今時点の自分なりの定義をアウトプットすることへの「勇気」とか、とにかく今はこれで世に出せると納得するところまで引き上げる「思考」過程が必要不可欠なんだよなぁと。

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