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2007-02-28

うっぷん

うふんじゃない、うっぷんだよ。ちょっと、うっぷんがたまってたのかもしれないなぁと。それで(かどうか)今日は靴とCDを買った。それにしても、靴もCDも前に買ったのはいつのことだろう。全く思い出せない。我ながらひどい生活。

今日は思わずちっこい椅子も衝動買いしそうになったけど、狭い家で待つ家具たちのご機嫌をうかがったら一様に迷惑顔を向けてきたのでやめといた。家具より弱い主人。靴一足、CD一枚、満足まんぞく。でもあの椅子、何かとちょうどいいんだよなぁ。気になる。心の戸棚にしまっておこう。

そういえば靴屋さんで「箱にお入れしますか?」と訊かれて、「いえ結構です」と返したのに、おうちに着いてみたら箱に入ってた。あの会話はなんだったんだろう。

ソファに腰掛けて一息、メールチェックしてみたら、ただいま地方巡業中の父から「今日も長崎は晴れだった」と一行メールが届いてた。長崎は今日も晴れだったんだ。良かったねぇ、うん。良かった。

うっぷんなんてさ、思うほど動かしがたいものじゃなくて、中はけっこう空洞だったりして、案外あっさり吹き飛ばせてしまうものかもしれないね。口先少しとがらせてロウソクの火を吹くようにふぅーってふぅーってやれば、それでどっかいっちゃうものなのかもしれない。なんたってうっぷんだもの、うふんじゃない。

2007-02-26

wizpyがほしい

つかず離れず、中途半端ながらインターネットとはそれなりに長いつきあいだ。日常的に使うようになって、もうかれこれ10年半になる。最初に触ったのが1996年8月。その会社に入社するやいなや、メールアカウントは何がいいかと尋ねられ、は?となった。

当時はなんでもかんでも手作業で、数千人にメールを送るのもアドレスをBccに入れてメーラーから配信していたし、Webサイトの会員管理をするのも「サーバーに入ってコマンド打てばアカウント作ったり削ったりできるから」というので、ど素人ながらUnixの入門書片手に黒い画面と格闘して会員のアカウントを管理していたりした。そんな時代……、あるいはその会社がただおかしかっただけかもしれないが、とりあえずいろんな原始的な経験をさせてもらったものだなぁと懐かしく思い出す。

それが影響してか、90年代はノートPCとは別にノンブランドのデスクトップを持っていた時期があって、それにはWindow NTとturbolinuxを入れていた。当時にしては結構マニアックな入れ方だったと思うけど、結局全然使いこなせずに終わった。

で、なんでこんな昔話を思い出したかと言えば、wizpy(ウイズピー)である。中にturbolinuxが入っていて、数週間前から妙に心ひかれている。USB接続して起動すれば、世界中のパソコンが「あなた」のパソコンに。私が使うのはたぶん自分のと実家の2台に限られるだろうけど……。でも単体としてもメディアプレイヤーとして使える。FMラジオも聴けるのが素敵。

心配性なだけかもしれないけど、私は自分のデータが全部ネット上に上がっている自由度より、自分のデータが身軽に持ち歩けてどこでも接続可能なモバイル環境をもっている自由度のほうを好む。高層マンションの上のほうに住むより、地に足着いた一階に暮らすことを好むのだ(関係ないようだけど、たぶんこの感覚と近しい)。

自分の誕生日に店頭に並びだすというのも、なんだか運命を感じてしまう。これはやっぱり買いだろうか。うーん。でも、もっと大元の基本特性として、モバイル機器をモバイルとして使いこなせないんだよな、私。傘すらモバイルできない(関係ないようだけど、たぶんこの感覚と近しい)。きっと使いこなせないと思うんだけど、でもやっぱり欲しいような。ちなみに私が物欲を持つのはけっこう珍しい。お店で手にとって検討予定。

2007-02-25

目がかゆい

金曜の晩から妙に目がかゆい。これはもしや……と思ったけど、そんなの認めたくないから、原因のないかゆみだと思い込んで一晩やり過ごしてみた。人間はある自覚に病名をつけた時点で病人となるのだ、ならば病名をつけなければずっと健康ではないか。と、またかわいらしくないことを思って納得していたのだけど、一晩眠ってもやっぱりかゆみは消えなかった。

それで土曜の朝出勤するとき、薄っすらサングラスをかけてみた。なんだかかゆくない。嬉しいような悲しいような。いやいや、これはサングラスをかけなくても、もうかゆくないってことなんじゃないかと淡い期待を抱き、最寄駅に着いてからサングラスをはずしてみた。そしたら、途端に目がかゆくなった。

サングラス効果てき面。嬉しいような、逃れようのないこれからの苦境を決定づけられているような。つまり、やっぱり、私は花粉症になっちゃったってことなんだろう、か。いや、まだ認められない。認めたくないよ、お母さん。

良くも悪くも、なんだかわーっと一週間が過ぎてしまった。今週はじっくりと。

2007-02-21

【修正】XHTMLテストを作ってみた

XHTMLの基本を覚えるのに、自分でテストを作ってみたら、作っている間に覚えるんじゃないかと思って、XHTMLの基礎問題を作ってみました。関係各位?は、よろしければやってみてください(間違っていたらすみません)。

 

■問題(間違え探し)
XHTMLを習得しようと奮闘中のマリさんが、練習でXHTMLファイルを作ってみました。が、ソースをみてみると散々なことに。XHTML1.0のマークアップとして不適切な記述内容を洗い出し、問題点を論理的に指摘してとっちめた上で、それぞれの修正方法を優しく教えてあげてください。

 

■マリさんの作ったXHTMLファイル(画像をクリックしてください)
Test070222

 

■補足
・同じ誤りが複数箇所にある場合、それを一つと数えて「8コ」の誤りがあります(もっとあったらすみません)。
・正解はコメント欄にあります。

2007-02-18

ノルマのない仕事

数日前、会議室で話をしていたとき、内的にショッキングなことがあった。その打合せの主旨ではないし、相手にとっては何気ない発言の1フレーズだったと思うんだけど、自分の仕事が、人から「そっちの仕事は楽しそうですね」って思われる可能性もあるのかって気づいて、けっこう堪えた。

私の仕事は明確な数字のノルマをもたないものが多い。一定の目標数値や納期をもつ仕事はあっても、基本的にコストセンターに属す。それでも、そこで働いている自分みたいな人は、プロフィットセンターからみたとき「可でも不可でもない」と見られることはあっても、嫌悪感とともに見られることはないと思い込んでいた。

でも、プロフィットセンターに属す個人の気持ちや、そちらから見たこちら側の視界に想像をふくらませてみると、数字と戦っていない気楽さや、直近の売上にどう役立つのか不透明な仕事ぶり、漠然とした仕事の成果って見え方も十分ありうるよなと、はっとさせられたのだった。

私は私でそれなりに結構なプレッシャーを感じて仕事をしているんだけど、そんな不透明なプレッシャーが見えていない状態でこちらの仕事をみれば、確かに私は何にも背負っていないように見えるわけだし、こちらの仕事は「自分の仕事とタイプは違えど同じようなプレッシャーを背負っている」なんて受け止めるのは無茶な話だとも思う。

数値に表されない不透明なものって、特に数値目標をもって仕事をしている人には見えづらいことが多いし、伝えようと試みて涙をのんだこともある。自分と違う立場の「個人の受け止めよう」について、私はまだまだ理解しようという気持ちが足りていなかったなぁと思った。自分の周辺という超現実世界で、あちら側から見たこちら側にも意識を高めたいと思う。今回の発見は、キャリアカウンセラーとしては貴重な学びだった。が、一社員としては結構きつい。

2007-02-17

妹カウンセリング

週の半ば、妹から「悩みがあるので相談にのってほしい」とメールがあり、今日会社帰りに会ってきた。あれこれ仕事の相談にのり、(たぶん会う前から心の声はそちらに向いていたのだと思うけど)話すことで怒り系の感情も発散できて、自分の答えもきちんと定まったようで、終わりにはずいぶんすっきりした表情をしていた。それにしてもずいぶん成長したもんだ。

こんなふうに呼び出されることは今までなかったんだけど、ずいぶん頼りにされるようになったなぁと嬉しい感じがする。会って良かった、会って良かったと繰り返し言っていて、彼女に対してちょっとは姉らしいことができたかなぁと。基本的に彼女は突っ込み、私はボケキャラなので、誉められるのって珍しい。

お会計のあたりで妹が「今日は自分がおごる」というので(ちなみに彼女は超貧乏)、私はそれをさえぎって偉そうに(というか、酔っ払いのおいちゃんのように)彼女に語った。

私は私より年上の先輩たちからいろんなものをもらってきた。たくさんのことを学ばせてもらってきたし、おごってもらったことも数え切れない。それと同じように、私はあなたや私よりずっと若い人たちに、自分があげられるものは惜しみなくあげたいと思う。出し惜しみもしたくないし、変に謙虚になってその人に役立ててもらえそうなものを出さずじまいにしてしまうこともしたくない。

それと同じように、あなたは今もそうだし、先々稼ぐようになっても私におごりかえそうなんて思わなくていいから、自分の提供できるものを惜しみなく自分より若い人たちに提供して、私からおごってもらった分、若い人たちに惜しみなくおごってあげなさいと。

ほんと、飲み屋のおいちゃんのように身振り手振りつけてあーだこーだと語ったら、妹も良い表情で受け止めてくれた。で、お財布を開いてみたら姉の財布には5千円しか入っていなくて、妹に2千円出してもらった。かっちょわるい。

これは以前、とてもお世話になっている仕事の先輩から学んだことで、早い話受け売りなんだけど、そういう気持ちって素敵だなぁと思うし、そういうふうに人の気持ちがバトンを渡すようにして後々まで長く広がりをもって伝わっていくといいよなぁって思うんだ。

2007-02-15

2月のコラム

毎月恒例の「コラムを書きました」報告。withD「キャリアデザインのススメ」で、今回は「キャリア・アンカー」という概念について。若いときは、どちらかというと短期的な「あれやりたい、これやりたい」で突っ走ってきた、でも歳や経験を重ねていくと、新しい判断軸みたいなものもあわせもって、長期的な自分のキャリアを見据えて舵取りしていく必要が出てくるよねぇ、という話です。

先週の自分の知力・体力・割ける時間で、できるかぎりのことはしたのだけど、もっと早くからテーマ設定して勉強して臨めば、あそこをこうできたのに、とか自分の準備不足に反省もあります。

が、今回の内容は長く置いておくことで、それぞれのタイミングで検索に引っかけて使ってもらえるかもしれないと、そういうところをちょっと意識してまとめてみました、ささやかに。まぁ、いいじゃないか。いつか、誰かの役に立つさ。

で、次回は今回の反省も活かしつつ、また違うアプローチで書きたいなぁと思っているんだけど、別段これというアイディアももっておらず。このひと月で何を手にすることができるかなぁ、と近未来の私にゆだねています。

いつか「どこかでじーっと何かを定点観測して、それをレポートする」みたいな怪しいのをやりたいと思っているんだけど、ただそれをしたいだけなのでまだテーマがない。キャリアについて「こういうことを語ってみろ」みたいなことがあれば、ぜひご意見ください。できるかどうかはわかりませんけども。

2007-02-13

赤い目

この連休中ずっと目を酷使していたので、白目のところが充血どころの騒ぎじゃなくなってしまって、自分で見ていても気味が悪いくらいの赤い目に。週明けの今日も結局赤みがひかずに出社。いろんな人に「大丈夫?」とか「寝てないんでしょ」とか声をかけていただくことに。あぁ、早く赤みひかないかなぁ。

明日から少し画面を見る時間をおさえて、できるだけ目を休ませてあげようと思う。幸い、今目の前にうずたかく積まれている仕事の多くは、私が基本「紙とシャープペン」で立ち向かう類のものばかり。これが大変なわけだけど、少なくとも目には優しい。今日感じたいろんな人の支えに感謝して、気持ちを入れ替えて、気合いを入れて、気持ちよく仕事しよう。

やっぱりサラリーマンはいいよなぁと思う。私の体質的にフィットするのだな。まぁいろいろあるけれど、尊敬できる人や協力してくれる同僚が「身内」として手を伸ばしたらすぐ触れられるところにいてくれることのかけがえのなさをしみじみ感じてしまう。会社によっかかろうとは思わないし、プロフェッショナルなサラリーマンとして自立してありたいなぁと思うんだけど、その上で組織人であること、上司や同僚をもてる幸いに自覚的でありたいなぁと心から思う。

2007-02-12

「幽霊たち」

Paul Austerの「幽霊たち」を読んだ。深い、深すぎるよ、ポール。平衡感覚を失ってしまってふらふら。私には引用するぐらいしか彼の作品性を表す術がない。でも書き留めておきたい。というわけで、この話の核をなす『』内はすべて引用です。予めご了承ください。

まずは訳者柴田元幸氏のあとがき。彼の作品は『何ひとつ起こらない状況からきわめて刺激的な文学を生み出す』という文学的上質さをもっている。お話としてまず面白い。これってとても大事なことだ。「面白くないけど深い」というのは小説としてはイケテナイわけで。

その上でさらに、彼の作品は『登場人物が何かについて考えるとき、それは必然的に考えるということの本質を読者に考えさせずにはいない』という特徴を持つ。例えがチープだけど、本当にまるで魔法にかかったように、考えるということについてとことん考えさせられるように仕組まれている。

帰り道を迷ってしまうような、平衡感覚を失ってしまうような恐怖感がずっとつきまとっていて、オースターが好きな人ってほんと度胸あるなぁと感心してしまう。私も一冊で一気にとりこになってしまったものの、二冊目を読むときは心して取り掛からなければ、とちょっと力んでしまう。でも次の休みに買いにいってしまいそう。

最後に「幽霊たち」の作品の中から。しびれる言葉を取り上げていったらそれこそきりがないんだけど、最も短く独立性があって心を鷲づかみされたもの。『書物はそれが書かれたときと同じ慎重さと冷静さとをもって読まれなければならない』す……素敵だよ、ポール。

2007-02-09

ひとり北斗の拳

うーん、正直まいってしまった。なんでこんな打たれ弱いんだ、まったく。ここ数日人に注意したり問題提起したりすることが立て続けにあって、その後のリバウンドみたいなのをまともにくらって、くらい続けているうちにも仕事はずんずん積みあがっていき、実はかなり疲弊ぎみなのだ。やられてるのも自分なら、攻撃してるのも自分なので、まったく世話ない。

守るべき何かのためだったり育てるべき誰かのためには、表向きのいい関係にばかり逃げ込んでいられない。責任もって仕事に向かっている以上、必要なときには注意したり問題提起する行為にも立ち向かわないといけない。それに私自身、本当に優しいってどういうことかを考えたとき、表層的なものじゃなくて、痛くても本質に向かっていく強さをもった人間でありたいとも思う。

それで意を決してそれをするわけだけど、その後必ずやってくるのが「ひとり北斗の拳」タイムだ。じゃあ自分はどれほどのことをできているんだとか、本当に私の指摘は一点の曇りなく正しいのかとか、いやそれはありえないだろうとか、っていうか確実に自分のほうにも見えていない何かがあるはずで見誤ってるのはむしろ自分にちがいないのだとか、「良かれと思って」って自己満足に陥ってるだけなんじゃないかとか、わぁーって、わぁーって、1回やるごと10倍返しで自分にアタタターッとぶち返ってくるのだ。泣くでしょ、これ。

自分でやってるんだったら適当なところでとめればいいじゃないかと思うかもしれないけど、自分だからこそとめようがない。相手が自分だけに逃げ場もないし、受け止めるしかなくてとことんズタボロされ放題になる。でも、だからといって考え抜いた上で必要と思う指摘をやめてしまっては、それこそ自分に対する逃げに他ならない。まぁ結局そういう振り返りはあってしかるべきだし、あるときはこれで良かったんだと評価し、あるときはもっとこうすべきだったんだと自己反省できる、そういうふうに正面から受け止められるだけの精神力を、頑張って鍛えていくしかないんだよね。

もう本当にこの日・月曜で気分を総入れ替えしないとダメだ。ためこんだ仕事も、めいった気持ちもこの週末でどうにかして。少しずつですが、成長遂げてまいります。だから皆さん、今後とも懲りずにおつきあいください。あぁ、もっと強くしなやかな大人になりたいよ。アタタターッじゃないよ、まったく。

2007-02-07

言葉は文脈の中にある

今日は休日でした。昨年からためこんでいる振替休日を、年明けから少しずつ平日にあてて消化していっています。結局毎週土曜出勤しているので、振休の残数が少なくなっているわけではないのですが、さらに積みあがっていく状況は回避できています。仕事量の積みあがり具合を考えると、来週から確実に平日休みは無理になる気がしますが、半休消化とかまだ策はあります。

そんなわけで、今日もやらなくてはならないことは方々に散在していて、朝からそれに時間をあてなくてはならなかったはずなのですが、結局日が暮れるまでほぼすべての時間をカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」に費やしてしまいました。忙しい忙しい言いながら、結局普通に休みをとってるじゃないか、と我ながらあきれてしまいます。でも、どうしても手をとめるわけにいかず、一度手にしたら読み終えるまで心を離さないお話でした。と、本のせい。

深い洞察と描写があちらこちらに埋め込まれていて、どう表現していいのか、自分の表現力の無さを感じざるをえませんが、人に表現できないまでも、自分がこの本から感受できたことの幸いを、とても嬉しく思いました。私にとって物語の素晴らしさの最たるは「文脈」にあって、登場する言葉やそのいくつかの連なり、またお話の結末は、二の次という感じがあります。

本に限らず、いろんなことに思うところですが、文脈をいかに豊かに汲み取れるかが、とても大切なことに思えてなりません。私にとっては、人としての優秀さを表す最も重要な要素の一つではないかとさえ感じられます。伝え手の思いを、その文脈からいかに適正な方向で、より豊かに受け止められるか、それが人としての優秀さを表す一つの要素になるのではないかと。

その優秀さを高めていくのに、頭の良いのも一つ、器用なのも一つ、心の健やかなのも一つ、感受性豊かなのも一つ、いろいろな高め方があるところに救いがあって、私はよくありがたいなって思います。私が頭の良さでは太刀打ちできないから勝手にそう信じこんでいるだけかもしれませんが、私はそれと違う方向で人としての優秀性を磨いていけばいいんだ、とある時から開き直るようになって、頭はそこそこ、心はごしごしと磨くようになりました。

2007-02-03

喜劇の脇役

勘定してみると、この一週間で5人のひとに「大丈夫?」と声をかけられていたわけで、そんな言われると私が私に「大丈夫なのかい」と尋ねたくなってしまうんだけど。まぁ夜も更けてから社内で交わされる一般的な挨拶の一種なのかもしれない。

それにしても日に日にやることが増え、また一つひとつが大きくなっていく。仕事ふられないよりふられる人間でありたいし、仕事の中身もしょんぼりしていくより意気揚々と成長していったほうがよいわけで、大きくみれば幸いということか、というところに着地するんだけど。

とはいえ、いろいろためこんでいるところもあって、うじうじしているような、まいっかー的どんぶり勘定のような、どっちつかずの数日が行き過ぎ。昨日それを外にふぃーっとはきだしてみたら(いや無意識だったけど)、思いのほかいろんなことが一気に客観化されて、ずいぶんと自分の中のバランスがよくなった気がする。

悲劇のヒロインにはなりたくないし性にもあわない。喜劇の脇役あたりで地に足つけて自分のできることをやっていけたら幸せだなぁと思う。自分の心を鏡に照らしながら恥ずかしくない自分でありたい。それが一番大切だ。もう細かいことはいいから、男らしくどどーんと構えて、わっさーと頑張ろう。と、健やかに戻った。良かった、良かった。

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