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2006-08-23

何かが起こったときを想像する

車の運転がいい例だけど、世の中のいろんな決まりごとは非常時用に用意されているのだと思う。「運転中は危ないから携帯電話を使わないように」っていうのは、別に普通に運転しているときのことを心配しているんじゃなくて(私なら危険だが)、何かあったときに危ないでしょって話をしているんだろう。

だから平常時のドライビングテクニックの上手い下手は、この決まりとあまり関係ないと思う。でも非常事態にならないように運転すりゃいいんでしょって思うかもしれないけど、どんなに自分が正しく見事な運転をしていても、居眠りや酔っ払いの対向車、飛び出してくる歩行者のコントロールまではできないし、実際外部要因によって非常事態に陥るケースはままあるのが世の常だ。

携帯電話を使いながら非常事態に運転した経験がない(どころか、携帯電話を使いながら運転したこともないし、運転だけに集中していても十分危険な)私に、この件についてこれ以上に語る言葉は何もないのだが……、ここで主張したいのはそっちじゃなくて、想像力の話であるよ。

平常時だけをみて「自分は大丈夫」って結論づけてしまうのは、想像力を欠いた行為だと思う。車の運転に限らず、日常のあれこれも、非常事態をイメージしたときに、平常時である今をこのままにしておいていいのかなって意識的に想像力を働かせてみるのは大切なことだ、というのがここでの青年の主張。

何かが起こったときをイメージすると、今の状態ではたまったものじゃないぞと思うことでも、普通に過ごしているうちはさして気にせずやり過ごせることって意外と身の周りに転がっているじゃないかと思う。でも、たいていのものは、いつの日か何かが起こってしまうものなのだよ。大小の差こそあれ。きっと。そのまんま10年、20年というのは想像しがたいものの方が圧倒的に多い。

そんなことばっかり考えていても疲れちゃうから、「風まかせ」とうまく調合させてバランスよくって感じなんだろうけど、何かが起こったとき、後悔してもしきれないと途方に暮れて、その後もずーっと引きずって生きていくことがないように。そのためにはやっぱり、大切なテーマについては日頃から想像力を働かせて、大切を意識していくっていうのが大事。かけがえのない人生っていうのを送るためには。うむ。

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コメント

まりさんの日記、いつもとっても深いです、、内容が。。
私はいつも何も考えずに生きているなぁ、、と恥ずかしくなりました。
とても色んなことを考えていらっしゃり、またそれを上手に言葉にまとめて表現しているなぁ、、と感動します。。

「何かが起こったとき」というのが一般的な災害などの非常事態と、そうではなく個人的な精神面でのショック、、というのとでは若干違うかもしれませんが、
前者の場合は、色々想像して精神的にも物質的にも準備しておくことで自分のパニックをある程度防ぐことができるかもしれませんね。

後者については、私は昔から大変に心配性でネガティブな性格で、先に一番最悪の事態を想像することで自分に覚悟をさせておいたり、心の傷つきを最小限に抑えようという無意識の防御体制が働くようです。
でもあまりネガティブな最悪の状態ばかり想像していても疲れるし、年齢を経るにつれて(こういうのを「オバサン化」ともいうのかもしれませんが)だんだん少し楽観的に考えられるようになってきました。
ただ、私がいつも自分で願っているのは、いつ何が起こっても自分がしっかりしていられることが一番大切なので(自分が壊れたりパニックになったり、ぽきんと折れるのが一番どうしようもないから)、ともかく強くなりたい、、強くなりたい、と常に願っています。。

何が起こっても、自分がしっかりしていられるように、、と。。

こんなことを言うのは大変おこがましいんですけど、私、ベルさんとは本当に思考の仕方や価値観が似てるなって思うんです。ベルさんの文章を読む度。
今回の、一番最悪の事態を想像することで自分を防御しているとか、いつ何が起こっても自分がしっかりしていられることが一番大切って自分を支える方法みたいなのも、もう本当にそのまんまで驚きです。私の場合、昔から「オバサン化」していて先天的に楽観主義なので、心配性とのバランスは比較的とりやすいんですが……。
私の方こそ、ベルさんのブログを読んでいると、泣き出したくなるような感動を味わうことがかなり頻繁にありますよ。ベーシックなものの考え方に共通するところが多いので、そうすると私もそのまますくすく育っていけば、ベルさんみたいな女性になれるのかなぁとひそかに期待したりもしています。。私も「強くしなやかに生きる」というのはよく意識していることですねぇ。難しいですけど、ともに頑張りましょう。

これ以外にも、「書く」という行為について、あれこれ言葉がこぼれてきてしまったのですが、それはまた話にまとめたいと思います。

こんにちは。お久しぶりです。
まとめて読ませていただきました。
相変わらずすばらしいことをいつも書きますね。
こんな文章を書けるようになりたい、ってホント思います。

わたしは悪運だけは強いっていつも思っているので、本当の非常事態にはいつも助けられてるというか、うまく避けてきているのが現状。
(その分、普通のくじ運はよくないが。笑)

非常事態への想像力ばかりたくましいと、
生きる喜びもなんだか少ない感じだし、
風まかせだとホント危ないし・・・確かにそのバランスが本当に難しいところですね。
わたしは根っからの楽観主義なので、想像力を日々働かせないといけませぬわ。

あっくさん!お久しぶりです。訪れてくださってありがとうございます。そうそう、バランスが大切ですよね、ほんと。考えすぎるのもまた病で、風まかせ同様、考えることと感じることのバランスもきちんととらないと!と最近とみに思いますし、とか「考えている」時点で病。

実はこの話、恋愛とか結婚とかって色恋沙汰がこれを考えるきっかけになっているんですが(もちろん自分ネタじゃない、いや、もちろんは要らない、望みは捨てちゃいけない)、「選択を迫られる前に自ら選択する」ってことをしないと、ずるずる決断しないでいるうち、いつかざぶーんと大波小波に飲まれて身動きとれなくなっちゃったりするんだよなぁと思う出来事に触れまして。

「選択を迫られる前時点」ならある程度自由に選択できたものも、「選択を迫られた時点」では、実際のところ選択の余地なし!(または片方は選ぶのがかなり困難)な事態に陥っていることってあったりしますよね。だから、早め早め、今のうち今のうちに自分にとっての答えを自問して自ら行動を促さないとって。で、とりあえず私は、いい加減、三十路健康診断の人間ドックに予約をとらないとイケマセン。

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