蝉のおなか
私の住まいは、目の前が明治期に建てられたお屋敷になっていて、それをおおうようにして大きなヒマラヤ杉がそびえ立っています。これは短い生を謳歌する蝉の住まいとしては、もう極上に違いないわけで、毎年たくさんの蝉がそこでひと夏のアバンチュールを愉しんでいます。
しかし、今年も8月はあとわずか。この頃になると、ヒマラヤ杉の下を歩く度、小道に横たわって動かない蝉を発見することが多くなります。夏の太陽に照らされた蝉のおなかを見ていると、もう夏も終わりなんだなぁとさびしい気持ちになります。句のひとつも詠んでみたくなります。そのまんまですが……。
蝉のはら ヒマラヤ杉の 木の下で
でも日が暮れてから同じ小道を行くと、虫の音が夏から秋へと確実に移ろいでいることに気づき、耳元に届くその音色を、それはそれでたいそう心地よく受け入れている自分がいます。
とっても勝手なもので、一日の間でも日中は夏に想いを寄せて、日が暮れると秋に胸をときめかせている、そんな感じです。そういう時期なんじゃないかしらと、自分の身勝手を移ろいゆく季節のせいにしながら、8月最後の週末を過ごしました。秋の訪れを感じながら、夏の余韻を愉しむ、あとしばらくはそんな日々を送っていきたいものです。シゴトが仁王立ちして不敵に笑ってますが。
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