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2006-08-31

曖昧なものづくり

私が仕事でつくっているのはセミナーとかトレーニング、企業研修といったサービスだったり、それを効果的、効率的に運用するための仕組みや社内外の体制だったりと、一般的にモノとして分かりにくいものが多い。

数ヶ月せっせこまとめてきて今日リリースしたものは「自宅でできる課題セット」という、私の仕事の中では結構モノっぽいもの。とはいえやっぱり毎度のことながらアウトプットの主体は紙資料なので、「ものづくり」と括ると違和感があるかもしれない。が、仕事で何かをつくるときの大まかなプロセスは、どういうものであれ共通するところが多いはずで、私のこれも例外ではないはず、と勝手に信じている。(以降、頭の整理で書き出してみたメモ延々)

まずある大くくりなミッションから具体的な課題をこれとつかんで、こういう感じで解決できるかなぁという方向性をまとめて、じゃあ今回はこういうアプローチでこういうものをつくってあなたのお悩み解決します!と一つの企画にまとめてお客さんや関係各位に提案して、了解を得たらそのための具体的な道具なり仕組みなり体制なりを設計していく。それが形のあるものであれ、ないものであれ、この設計部分が一般に「ものづくり」イメージの一番強いところで、「編集する」とか「デザインする」とかいった表現もたぶん同じ感じだと思う。

ただ、実際設計段階に入ると周辺はとりあえず仕上がりまで姿を消すので、本当に問題解決のアプローチとして活きるように設計できているのか、できるだけ客観的な評価の目も自分に備えながら、一人この地道な作業に没入する。この時間が実は、まったく光が当たらないのに、最も職人気質のオタク心をくすぐる有意義な時間だったりもする。その辺のある種心地よい孤独感みたいな心もちも、ものづくりする人に共通する感覚なのではないかとひそかに思ったりしているのだが、そんな質問なかなかする機会がもてないので実際のところはよくわからない。

そうして、あるものは形ある何かとして完成し、またあるものは「資料一式整えました」という分かりにくいゴールに到達する。でも結局つくっただけでは外へのインパクトが何もないので、私のように家庭内手工業みたいなものづくりをしている場合は、人がそのものの価値を理解して、積極的に関わったり使ったりする状態までもっていくための動きを自分でとることがセットになる。

「はい、つくりました」で終わってしまうと、資料の見栄えだけで評価されることもあるので、実際にそれを利用してほしい対象や、そのために協力してほしい人たちにはオリエンやプレゼン機会をセッティングして、その特長や用途、価値や効果、使い方や手順を、別途プレゼンツールにまとめて直接働きかけていく。アーティストがテレビに出たりしてプロモーション活動しているのは、彼らにとって仕事の軸ではないんだなと実感する。一番には自分のつくったものを届けたい人たちに届けたいからなのだと。だからプロモーション活動っていってるじゃない。そうか、そうか。

そうしてあるところに着地させて、それを定着させて、最初に設定した目的に適っているか、課題が解決されているのか効果を検証していって、また次の課題に結び付けていく。これってあらゆる仕事に共通するものづくりプロセスではないだろうか。

つくったものがしっかりと人に受け入れられて価値を生んでいくように、みんなに愛されながらより良いものに育まれていくように、一つひとつのプロセスを重ねて曖昧なものづくりをしていく。生粋のものづくりの皆さんと、共通……していないでしょうか。していなかったらすみません。今のところ、同じような感じにちがいない、と信じています。

2006-08-27

蝉のおなか

私の住まいは、目の前が明治期に建てられたお屋敷になっていて、それをおおうようにして大きなヒマラヤ杉がそびえ立っています。これは短い生を謳歌する蝉の住まいとしては、もう極上に違いないわけで、毎年たくさんの蝉がそこでひと夏のアバンチュールを愉しんでいます。

しかし、今年も8月はあとわずか。この頃になると、ヒマラヤ杉の下を歩く度、小道に横たわって動かない蝉を発見することが多くなります。夏の太陽に照らされた蝉のおなかを見ていると、もう夏も終わりなんだなぁとさびしい気持ちになります。句のひとつも詠んでみたくなります。そのまんまですが……。

蝉のはら ヒマラヤ杉の 木の下で

でも日が暮れてから同じ小道を行くと、虫の音が夏から秋へと確実に移ろいでいることに気づき、耳元に届くその音色を、それはそれでたいそう心地よく受け入れている自分がいます。

とっても勝手なもので、一日の間でも日中は夏に想いを寄せて、日が暮れると秋に胸をときめかせている、そんな感じです。そういう時期なんじゃないかしらと、自分の身勝手を移ろいゆく季節のせいにしながら、8月最後の週末を過ごしました。秋の訪れを感じながら、夏の余韻を愉しむ、あとしばらくはそんな日々を送っていきたいものです。シゴトが仁王立ちして不敵に笑ってますが。

2006-08-23

何かが起こったときを想像する

車の運転がいい例だけど、世の中のいろんな決まりごとは非常時用に用意されているのだと思う。「運転中は危ないから携帯電話を使わないように」っていうのは、別に普通に運転しているときのことを心配しているんじゃなくて(私なら危険だが)、何かあったときに危ないでしょって話をしているんだろう。

だから平常時のドライビングテクニックの上手い下手は、この決まりとあまり関係ないと思う。でも非常事態にならないように運転すりゃいいんでしょって思うかもしれないけど、どんなに自分が正しく見事な運転をしていても、居眠りや酔っ払いの対向車、飛び出してくる歩行者のコントロールまではできないし、実際外部要因によって非常事態に陥るケースはままあるのが世の常だ。

携帯電話を使いながら非常事態に運転した経験がない(どころか、携帯電話を使いながら運転したこともないし、運転だけに集中していても十分危険な)私に、この件についてこれ以上に語る言葉は何もないのだが……、ここで主張したいのはそっちじゃなくて、想像力の話であるよ。

平常時だけをみて「自分は大丈夫」って結論づけてしまうのは、想像力を欠いた行為だと思う。車の運転に限らず、日常のあれこれも、非常事態をイメージしたときに、平常時である今をこのままにしておいていいのかなって意識的に想像力を働かせてみるのは大切なことだ、というのがここでの青年の主張。

何かが起こったときをイメージすると、今の状態ではたまったものじゃないぞと思うことでも、普通に過ごしているうちはさして気にせずやり過ごせることって意外と身の周りに転がっているじゃないかと思う。でも、たいていのものは、いつの日か何かが起こってしまうものなのだよ。大小の差こそあれ。きっと。そのまんま10年、20年というのは想像しがたいものの方が圧倒的に多い。

そんなことばっかり考えていても疲れちゃうから、「風まかせ」とうまく調合させてバランスよくって感じなんだろうけど、何かが起こったとき、後悔してもしきれないと途方に暮れて、その後もずーっと引きずって生きていくことがないように。そのためにはやっぱり、大切なテーマについては日頃から想像力を働かせて、大切を意識していくっていうのが大事。かけがえのない人生っていうのを送るためには。うむ。

2006-08-22

おとなの学びを創る

今日は先々を見据えて、とあるセミナーに参加した。ひと通りの講演終了後、お仕事の話も兼ねて講演者の方々のところへご挨拶にうかがったら、一人の講演者が名刺交換を終えるやいなや、穏やかな口調で私にこう尋ねてきた。

「どうでしたか?」

セミナーが終了してすぐに前の方へ出て行ったので、たぶん一番初めにその方にお声がけした受講者は私だったと思うのだけど、セミナー終了後受講者にまず「どうでしたか?」と訊きたくなるこの方の心持ちって、もの静かにものすごいんじゃないかと思った。

この方、日本どころか米国のインターネット黎明期から本場で活躍されてきたような方なのだけど、まったく横柄なところも気取ったところもなく、自分の話が受講者にとってどんな感じだったのか、為になったのか、面白かったのか、とても率直に、とても純粋に、それを訊きたがっている様子だった。どんな意見でも、受け入れ態勢万全だよといった穏やかな配慮もかもしだしていた。

最近、「おとなの学びを創る」というかなりマニアックな本を読んで、おとなの学習について学んでいるのだけど、本と絡ませつつ、こういう人の姿勢や振舞いに学ぶところはとても大きい。自分のやっていることに対して、振り返りを忘れない。より前に歩を進めるために、より上に引き上げるために、自分がしたことを批判的にみてみるということを恐れない。いや、怖くてもやるのだ。そして見直すべきところを発掘しては、自分のやり方を面倒でも再構成する。

「問題を真正面から受け入れて、自分のやり方を再構成する」のって、まったく新しいものを知っていく子どもの学習プロセスとは違う道のりを歩む必要がある。自分のやり方のダメなところを受け容れなきゃならないプライドとの戦いもあるし、自分のやり方を一旦崩してから再構成するだけのスキルも求められる。そこら辺を乗り越える「おとな学習」の基礎力を備えた人が、学習とは認識せずとも日々学習をして、歳を重ねてもキャリアを伸ばしていくんだろう。

「おとな」ならではの学びプロセス、しっかり勉強して、そういうことを踏まえた効果的な学習機会を提供していけるキャリアの強力サポーターになりたい。そして私自身もしっかり、おとなの学習の基礎力を磨いていかないと。

2006-08-20

自分を責めることなんて容易い

大人になるっていうのは、成長することだと思ってずっと生きてきたけど、大人になるにつれて、ずいぶんと臆病者に退化したもんだな、と思う。その一歩が出ない、ということが多い。多いんだな、これが。こわいんだな、これが。

そうやってココにぶちぶち書き連ねていても行動が変わらなきゃ意味がない。だから、亀のようにのそのそと行動改革を起こしつつ、ココには岡本太郎さんの言葉を残して、くじけそうなときにお尻をたたいてもらおう……。

[自分を責めること]
自分自身を責めることで慰め、
ごまかしている人が、意外に多いんだよ。
そういうのは甘えだ。惨めな根性だと思うね。

傲慢な振舞いをたたく言葉は世の中にあふれているけれど、謙虚な振舞いをたたく言葉は少ない。これはものすごいメッセージだと思う。私はこっちを肝に銘じなきゃいけない人間。人間を大胆に二分するなら、これまで自分が傲慢じゃないことに安住してきた50%の人間は、この言葉に触れるべきだと思う。

でも実際は、自分を賞賛したり責めたりって振舞い自体はたいした問題ではなくて(だから傲慢キャラの人はそのまま傲慢キャラをやればいいし、謙虚キャラの人はそのまま謙虚キャラでいいと思う)、本当に振舞いの奥にあるものに、ごまかしがないってこと、本物がしっかりあるってことが大切なんだろう。そして、その奥の本物が表の行動までしっかり出てこられるように、自分を導いてあげないといけない。

※出典:「強く生きる言葉」岡本太郎著(イースト・プレス)

2006-08-15

道楽する

話すと意外に共感してもらえるので(共感してくれそうな人に話したんだと思いますが……)、今日は片蔭の話を聞いてください。

「片蔭」(かたかげ)ってご存知ですか。ここでも数日前の話で挙げましたが、強い夏の日差しのもと、通りの片側だけにできる日蔭を表す夏の季語だそうです。夏場って日差しがきついから余計に、一本の通りの中で日向の部分と日蔭の部分がくっきり分かれて目に映るじゃないですか。そのかげった方を「片蔭」と言うんですね。ちなみにうちの近所の商店街だと、朝駅に向かう時それは右側にあります。左側は朝っぱらからじりじりと日が照っています。

私は先週この言葉を初めて知ったのですが、それで実際俳句を詠んでみたりして、その過程で感じた「ぉおっ!」という心の揺さぶられようは、けっこう大きなものがありました。

というのは、その言葉を知ったその日から、私は日向と日蔭に分かれた一本の通りを目にしたとき、これまで名前のなかったその風景を「あ、片蔭だ」と呼び、さらにそれを見ることで「あぁ、夏だなぁ」と季節を感じるようになると思うからです。その日まではその風景を気にとめることすらなかったというのに。

あるものを知り、またそのものとそれに関わるものとの結びつきを知ることで、人はそれを知る日まで思い得なかったことを思い、感じ得なかったことを感じられるようになる。そう考えると、新しいことを知っていくってことは、本当に素晴らしいことなんだなぁ、と童心にかえったように思いました。

私にとって俳句は、始めて1週間の道楽に過ぎないわけですが、道楽に過ぎないことをもっているってことが、豊かな暮らしを営む上でとても大切なことなんだとしみじみ思います。何か新しいことを学んでいく純粋な面白さだとか、そこから生まれる広がりだとか味わいの深さだとか、じわじわにじみ出てくる感じがあります。入門書まだ一冊目。これからも楽しくゆっくり読み進めつつ、楽しくゆっくりその深みを覚えていきたいなぁと思います。

2006-08-13

水分

今日でお休み終了、明日から仕事再開だ。一足お先に夏休みをいただいて、世の中が休みに入るところで入れ替わるというのは、ゆっくりした立ち上がりが許されそうで少し嬉しい。現実的には、まったく余裕ないのだけど……。

今年の夏休みを振り返ると、本当におとなしく過ごしたなぁと思う。かろうじてこの週末実家に戻ったことで、家族に会い、甥っ子に会い、古くからの友だちに会い、昨日今日で一気に持ち直し、ココに戻ってきた感じ。休暇中盤など、すこし深い海の底にもぐっているような状態だった。

しかし、明けてみて振り返れば、この期間もまた必要というか、必然だったのかなぁとも思う。もう下りつくしたから、あとは上がるだけなんだな、というか、もう下りつくしたから、あとは上がるしかないんだな、というか。そういう今の感じは、たぶんこの静寂の数日を経てこそある胸のうちなんだろうと思うから。

音楽を聴いていたら、映画を観ていたら、本を読んでいたら、生きていくのには、水分が必要なんだということが、わかった。雰囲気だけで言うけれど、人が生きるってことは、代謝するってことなのかなと思う。そう考えると、夏は生きるのに適した季節だな。人が生きようとするのを後押ししてくれる季節だ。

外に出て 遠くの花火に 耳すまし

2006-08-12

flickrの俳句版とか

一泊二日で帰省するため、家を出た。外には夏らしい雨が降っていた。土のにおいがした。緑のにおいがした。この街は健康だ、と思った。

この時期に降る雨はとくに、その街が本来もっているにおいを眠りから呼び覚ますようなところがある。雨が降ると、都会は一気に異臭が街を包むし、自然の多い街では土と緑の匂いが薫る。まるであぶりだしのように、におい立つ。

実際はものすごく夏っぽい雨だったけど、つい先日気づいたことに、8月8日(立秋)から旧暦では秋を迎えていたので、季語を「秋雨」と添えて句を詠む。

秋雨や あぶりだしのよに におい立つ

と、そのまんまの句を書き留めてみて思ったんだけど、やっぱり俳句というのは横書きもゴシックフォントもまったくしっくりこない。視覚表現オンチながら、やっぱり、どういう姿で表すかというのは、とても大切なことなんだなと思う。
Haiku1
本来はまぁ、(手元の少ない材料でやってみて)こんな感じなんだろうけど、なんか上に書いた俳句と比べると、おんなじものって感じがしない。

しかし、ざっと検索してみた感じでみてもインターネット上で詠まれている俳句って、ほとんどがゴシック&横書きで、なんだか句がかわいそうな感じだ。似合わない服を無理やり着せられて本来の味が出し切れていない仏頂面感。

flickrの俳句版みたいなのを作る人いないかしら(超他力本願)。自分のページにログインしてフォームに入力すると自分の俳句が登録されて、和もののフォント&縦書きで、短冊みたいな背景の上に一行で表示してくれるようなの。

背景はいろいろテンプレートが選べて、俳句の季語を拾って、同じ季語の他の人の俳句とか見られたりして、他のサービスの写真とタグつながりでコラボレーションできちゃったりして、管理画面でクリエイティブコモンズとか設定できて、和ものやら季節感のある商品・サービスやら扱う企業に養ってもらって。使い手がいないか……。うーん、なんか、ここに書いたら気が済んだ。

2006-08-11

ブルーノ・ムナーリ

以前から読みたいと思っていたブルーノ・ムナーリ著「ファンタジア」を買った。本の帯は工業デザイナー深澤直人氏。「偉大なデザイナーはたくさんいる。しかし、偉大なデザインの先生は、ブルーノ・ムナーリだけかもしれない。」は、実に言い得ていると思う。

プロダクトデザイナー、グラフィックデザイナー、絵本作家、造形作家、映像作家、彫刻家、詩人とさまざまな創造活動を経たムナーリ氏が、理論家、教育者としてまとめた創造力を養うための指南書。

ものづくりをする人のキャリア支援、なかでも教育を主軸に仕事している自分にとっては、後半に記された教育方法にフォーカスした内容が興味深かった。彼は幼年期の子どもたちに大人がどのような機会をつくって創造力を養っていくべきかを示している。その具体的な方法を提示した上で、そこでみんなで作った作品は壊すべきだというくだりが素敵だ。

「保存されるべきものは、モノではない。むしろそのやり方であり、企画を立てる方法であり、出くわす問題に応じて再びやり直すことを可能にさせる柔軟な経験値である。頭はいつでも自由で、柔軟で、準備の整った状態でいなければいけない。<中略>先入観、凝り固まった考え、好みのモデル、繰り返しのスタイル、こうしたものを所有してはいけない。そんなものをもつと、創造力が顔を出そうとするときにブレーキをかけるようになる。」

幼年期と大人、また教育目的とビジネス目的と違いがあれば、誰しもに同じことが言えるわけではないだろうけど、こういう意識をもっておくことは広くものづくりに携わる人間にとってとても大切だと思う。新しいものを生み出してこそ、その挑戦を楽しめてこそ、ものづくリストだもの。私みたいな、教育分野のものづくリーマン含め。

片蔭に

今日はなんだかとっても切ない。まずいなぁ。一気に押し寄せてきた。周期的なもんかなぁ。いっそざぶんと飲み込まれて大泣きしたいような、どうにかして踏みとどまりたいような…という今日の、一句。

片蔭に 隠れていては 何ひとつ

ちなみに片蔭(かたかげ)っていうのは、強い夏の日差しのもと、通りの片側だけにできる日蔭のことだって。昨日覚えた言葉。夏の季語。

2006-08-10

夏炉冬扇の俳句

間に会社に出たりしているので、あまりそういう感じがしないのですが、一応今週は私の夏休みです。夏休みならば、何か一つ始めようと思い、紀伊国屋さんに行きまして、前からちょっと気になっていた俳句の本を買ってきました。

なんというか、私は長いこと仕事中心の生活を送ってきていて、特に最近は、仕事の性質上、頭の動かし方が凝り固まってきているように感じていました。常に論理性とかそのものの価値の追求に向かっていて、それはそれで大切にしたいんだけど、それ以外を一切排除していく感じって、人として豊かさに欠けるというか、余白が少ないというか、風が抜けていないというか、貧相。

なので、せっかくの夏休みなのだし、松尾芭蕉が「夏炉冬扇」といった俳句に触れてみようというわけです。日頃使い損ねている筋肉を動かす感じで。ちなみに「夏炉冬扇」とは夏の火鉢と冬の扇というわけで、季節はずれで「全然役に立たない」ということだそうですよ。「役に立たない」ってことは、言い換えれば「ゆとりがある」ってことですよね。というわけで、今日つくった俳句。横書きで恐縮ですが。

歳重ね 聞いても涼し 蝉の声

読解不能?まぁまぁ、本当なんだから仕方ない。今朝目が覚めて窓を開けたときに思ったことです。休み明けも、その日感じた季節の変化を思い起こしながら、句を考えつつ電車に揺られて帰るようなゆとりをもち続けたいものです。

2006-08-09

ブログをお供につける

私のよもやま話も気づけば数百に及び、サイトの構造上前に書いたことが気になってもさくっと取り出せなくなってしまったので、現在個人的な検索ツールとしてブログに放り込み作業中です(まだまだ先長し)。

ブログに入れておくと、たとえば今日みたいな台風の日、あぁ、前にああいうこと考えたよなぁとは思い出すんだけど、いつどんなことを書いたのか曖昧なときも、以前考えたことがすぐに掘り起こせるわけです。今のところ過去全部の話を1ページに引っ張り出して「台風」で検索するぐらいのもんですが。

というわけで機能性低すぎやしますが、ブログの機能で使いようがあればぜひ一緒に使いましょう。この話で言いたいことがあるとか(→コメント)、更新したら教えてほしいとか(→RSS)。今後当面は同時並行で更新していきます。

https://hysmrk.cocolog-nifty.com/blog/

それなら完全に乗り換えちゃえばいいじゃないって話なんですが、今のところそれは踏ん切りがつかず。なんでかってそりゃ「枕がかわると眠れない」って不安心理ですな(枕がかわっても眠れるけど)。使いこなすだけの技術力をもっていないと、技術に使われてしまうのがいや、というか。へたっぴでもお手製のほうが、落ち着いて言葉と向き合える、というか……。

2006-08-06

新米×ベテラン×常連客

その日、仕事の合間にほぼ毎日通っているスターバックスへ行くと、レジの前に新米の女の子が立っていた。私がいつもの注文をしようと口を開きかけると、脇からベテランのお姉さんが「チョコレートチャンククッキーとショートアメリカーノ」、そう少し強めの語調で指示を出した。私は「あぁ……、はい」と照れ笑いするような格好で、ベテランお姉さんの代弁に同意の言葉を添えた。

なんというか、ベテランのお姉さんもたてないといけないし、でも私が向き合っているのは新米の女の子のほうなのだから彼女に注文をしたいし。とすると、「あぁ……、はい」という同意は新米の女の子に向けるべきなんだけど、同意すべき対象はベテランのお姉さんだし。それだと、どっち向けばいいんだ?とか、そういうことをあれこれ考えながら、そういうことをあれこれ考えつつレジ前に立っている客ってどうなんだろう、と後ろのほうでまた別の私が傍観していたりした。

私の注文はこのセットが定番なので、店員さんによってはレジに立つやいなや「いつものセットで?」と声をかけてきたり、姿を見せた時点でカフェアメリカーノを作り出したりする。会社近くのお店では「いつものセットでよろしいですか?」っていうのが定番で、おうち近くのお店では「そうかなぁと思うんですけど、やっぱり最後まで聞いちゃうんですよね」と言って、毎回私の注文を聞く。

人によって好みがあると思うけど、私はどっちも好意的に受け止めている。前者はちょっと気恥ずかしいけど、ありがたいことだなぁと素直に思うし、自分がもてなす側だったら、たぶん後者をベースにして、お客さんが前者を好んでいそうな場合はそっちに切り替えるようにすると思う。

結局、もてなす側にももてなされる側にもいろんな人がいるし、別に一つの答えがあるわけじゃないと思う。大事なのは、よりスムーズでより心地よいコミュニケーションに向かっていること、お客さんが注文を変えられる遊びを残しておくこと。目的がぶれなければいいんだと思う。

そういう意味で、今回は明らかに、目的が手段に打ち負かされていた。お客さん役である私は完全に置き去りだった。注文を変えられる遊びは残されていないし、こんな光景を目の前にしてしまっては、やりとりに心地よい余韻が残るわけでもない。彼女はただ、自分の力を新米さんと常連客である私にしらしめたかっただけ、そういう欲に飲み込まれた格好になってしまっていた。

そこで自分に負けちゃだめだ。そこで飲み込まれちゃダメだ。そこが踏ん張りどころなんだよ。そう、なんだか応援したくなってしまった。こういう場面が一番、一時的に目的を見失いかける難しいポイントなんじゃないかって思った。新米さんが入ってくる前まではもてていた純度100%のホスピタリティが、外的な環境変化によってにわかにバランスを崩していく。

そこで何が本当に大事なことか、本当に大切にしたいことは何なのか、改めて自分の立ち位置や目指す方向を冷静に見つめなおしてみて、本来目的に立ち返ることが必要になる。もしかすると一度その穴に落っこちて、そこから這い上がったときにこそ、本当に本物になれるのかもしれない。

2006-08-04

痛みは栄養に

昨日から一転、今日はある人が放った一言にざっくりやられてしまった。見事に真正面から受けすぎた。危ない、危ないと日頃から注意していたんだけど、まさかそんなふいをついて豪速球投げられるとは思っていなかったんだもの。

ほんの一言だ。「あぁ?」ってほんの一言。その一言にこもった「気」だけで、人はいくらだってずたぼろになれるのだよ。あぁ、痛かったなぁ。なんというか、実にサラリーマン的痛み。サラリーマンなんだから耐えるしかないか。

この痛み、栄養にしたいなぁ。痛いだけじゃ悲しいし、悔しい。とことんあったかいものに一新させて、人に届けたい。痛みは栄養に。

2006-08-03

戦友との再会

今日は18時半過ぎには仕事からあがって銀座へと走った。大好きな友だちが数日だけ東京に里帰りするというので、これはもうなにがなんでも!という感じで超集中モードであれこれを片付けて会社から出てきた。

彼女との再会はもう本当に素晴らしく、私の中に流れているものが、彼女との会話の中で、どんどん純度高くすこやかになっていく実感があった。私が自分のありたい姿だとか、大切にしたいことなど話していく中で、彼女は私の中にすこやかなパワーを感じてくれたようだけど、私からすれば、彼女と話す時間の中でそれを醸成していってもらっている感じで、そういうパワーって決して自分一人で作り出しているものではないんだなって再認識させられもした。

今は赤ちゃんのママの役割を生活の中心にしている彼女だけど、私は(まぁ仕事しかしていないので)自分の仕事の話をたくさんしたし、烏龍茶を飲む彼女を隣にして、結局梅酒を2杯いただいた。いろんなことを踏まえて、私は私のありのままで中途半端な気遣いはしないことを選んだ。

行為だけの偽物や中途半端はいらない。彼女はきっとやりたい仕事ができるように、守るべきものを守りながら生活を変化させていけると私は心から信じているし、これからもずっとつきあっていって、また一緒にお酒を飲む機会もやってくると思っている。だから、今日一日の中途半端な躊躇や気遣いは無しにしようって思いたかったんだと思う。

一人の人生の中でも、生活の中心にどの役割をおくかにはいろんな時期があって、仕事に奮闘する時期もあれば、奥さん、お母さんと現実的に重視する役割は時期によっていろいろ変化する。ただ、彼女が生活の軸をどの役割におこうと、変わらないことがある。それは、私にとってはずっとずっと私をすこやかにしてくれる大切な友だちで、仕事の魅力を分かり合える戦友みたいな人で、その関係性をこれからもずっとずっと深めていきたいと思う人ってことだ。私が彼女のことを「○○ちゃんのママ」と呼ぶことはないし、ずっとずっと彼女は彼女個人であり続ける。そういうのって、実はとっても大切なことだと思う。

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