涙の行方
そう半端なものじゃなくて、今晩は文字どおり「号泣」してしまいたい気分なのだけど、そういう発散の仕方を学習していないので、実際やろうと思ってもできない。泣き叫びたいときに泣き叫ばないのは学習の成果であるが、泣き叫びたいときに選択の余地なく泣き叫べないのは原点より後退してるんだな、と思う。
で、結局うーんと心の内でうめきながら静かにしていると、目元と喉元の間を熱いものがぎっこんばったんと何度も断続的に行き来して、シーソー遊びみたいなことをする。ちっちゃい子の公園デートみたいに、胸の内は熱く、見た感じはさりげなく、そんな顔面シーソー遊びしてちゃ頭が集中して仕事できるはずもなく、結局やることいっぱい残して、19時過ぎ会社を後にしてしまった。
しかし、こんな自分のありようでは週末やった方が効率的なことはもう間違いない。問題から目をそむけるのは好きじゃないけど、気持ちが落ち着かない状態できちんとした考えをまとめられるわけでもなし、ひとまず眠って他の仕事を進めて、少し時間を置いてからそれと向き合った方が断然いい、とは思うんだけど、はぁ、やっぱりふがいないというか、やるせないというか。様々な感情や考え、情報がごちゃまぜになって内側が混沌としていて、つまり私自身の基盤が弱いんだなと思う。
そんな感じで会社を後にしてきたときって、皆さんはどういうふうに過ごすんでしょうか。いったいどこに行くんですか。私は途方に暮れてしまいました。顔面を行き来する熱のかたまりを違うものに変換して、その辺に置いてきても人の迷惑にならないような場所があれば、本当に冗談じゃなくぜひ教えてほしい。
で結局、私の身体は家に向かい、途中電車の中で気持ちの向く先はいつもの場所。自分がなんでここにいるのか、その答えが今、今日の時点であるか。今日の選択に自分で責任をもたなきゃいけないし、自分で責任をもてる選択を毎日していかなきゃいけない。そういう自己選択と自己責任をしながら実は毎日を生きているってことを知っておかないといけない。
大人は自分の居場所を問い続け、選び続けて、その答えに一日ごと自己責任をもつ。今日の分も明日の分も。その責任の先に希望をもつ。希望のない責任じゃつらいだけだ。その幹さえ見失わなければ、あとはどんな太い枝葉でも完全に討たれてしまうことはない、と信じよう。ときに顔面でシーソー遊びが繰り広げられようとも。ふーむ、とりあえずプールで水泳かな……。
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