歴史的な連続性
世の中っていうのは、歴史的な連続性の中で段階的に進化を遂げてきたんだと思うんです。例えば「ぎゃふん」ですが、この言葉は何の歴史的背景もなくいきなり言葉として誕生したのか。「ぎゃふん」は、語源由来辞典によれば「ぎゃ」と「ふん」という2つの感動詞から生まれたもので、「ぎゃ」は驚き叫ぶさまを、「ふん」は「ふむ」と同じ承諾を意味するそうです。驚き叫んで承諾。「ぎゃふん」だって、そういきなり「ぎゃふん」と出てきたわけではないのです。
つまり、世の中のいろんなものは、人間があるものとあるものを関連づけ、組み合わせて、それまでよりちょっと新しいものを創造して、それが歴史の中で何度となく繰り返されて進化を遂げてきたんだよなって最近よく思うのです。どんな偉大な発明も多かれ少なかれそういうことなんだろうと。
人間はときに驚くほど高くジャンプすることもありますが、それでもいきなりどっか全然わけのわからないところにテレポートしちゃうようなことはないんじゃないかと思うのです。移動手段にせよ通信手段にせよ表現手段にせよ、すべては歴史的な連続性の中で実直な進化なり発展を遂げてきたんだろうと。
例えば、電話機を発明した人がいなければ携帯電話は生まれなかったし、地球を見つけてくれた人、地図を作ってくれた人、インターネットを作ってくれた人がいなければ、Google マップだってできなかった。
でも、これを逆方向からみると、ベルやエジソンがいきなり携帯電話を発明することもなかったし、地球を見つけた人、地図を作った人、インターネットを作った人も、Google マップは作らなかったわけです。
つまり、その時代時代に生きる人がそれぞれ、歴史的な連続性の中で、その時代にできることをやってきた、その積み重ねが時代をつくっていて、その積み重ねの上に私たちは立っているんだなぁとしみじみ思うわけです。歳でしょうかね……。
だから何が言いたいかっていうと、ささいなことでも日常的にあるものとあるものを関連づけて何かを創造するって行為は、とても大切なことなんじゃないかってこと。メロン×生ハムでも、インターネット×広告でもいいんですが、そういう関連づけの思考と、組み合わせの実践、創造する挑戦を大切にしたいな、と。それが自然淘汰されて次の世の中を創っていくんだろうなぁと、しみじみ。
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