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2006-05-31

問題を切り分けてそれ用の策を練る

少々乱暴な物言いになるが、子どもの水難事故を受けて「なぜ子どもが川に近づけないように柵を設けておかなかったのか」なんていうのはちゃんちゃらおかしい、という話を2004/9/29に書いた。これはその続編。というわけで、もしお時間が許せば、ご面倒ですがまずは上の話を読んでみてくださいな。

別に柵を設けるのが絶対的におかしい!という話ではなくて、まずその水難事故が起こった根本的な原因は何かを考えて、それをもとに最も妥当な解決策を導き出すのが大事ということ。柵も何もなく住宅地の隣にででーんと隅田川が流れていれば、そこには何らかの柵的なものが必要ということになるかもしれないし、普段はさらさらと穏やかな小川だけど、事故が起こった時はたまたま台風が来ていて川が荒れていたということであれば、必ずしも柵の設置が最も妥当な解決策にはならないかもしれない。災害時の注意喚起が最も重視されるべき問題になるかもしれない。はたまた人の力の限界で、どうしようも策の講じようがない事故だってあるかもしれない。

かもしれないばっかりだけど、仕方ないのだ。だって、これは全部人の価値観に依存している判断なんだもの。隅田川と住宅地の間だろうと、絶対的に柵が必要なんていえない。ところ変われば、時代変われば、文化変われば、最大公約数の判断さえ異なるもの。とはいえ、その土地、その時代、その文化の中で、妥当な落としどころを決めて、解決策を講じる必要は出てくるのだ。

じゃあその問題に策を講じようという段になって、何は仕組みをつくってカバーし、何は運用でフォローするかを見極めることも大事だと思う。子どもの命はもちろん大事だけど、「この問題を軽視しているように思われてはならないから」とびくついて、何でもかんでも予算を投じて大掛かりな仕組みづくりに及んでいては、世の中は柵だらけ、税金は枯渇する(か国民負担増である)。また、隣町でこうしていたから前例にならってこうすればいいというものでもない。先に挙げた問題の根本的な原因を踏まえて、割ける予算とかその土地の状況とか文化とか、そういうものを考慮して、どういう規模感で、どういうアプローチで対策を講じるかを考えることが、次のステップで大切なことだと思う。

なんでこういうふうに考える必要があるかといえば、何かを変化させる場合、何かが付け足されれば、もう一方で何かが損なわれるからだ。何らかの仕組みを作ろうとすれば、そのメリットの反面、相応のコストが発生するし、人も時間を割かれる。割ける予算にも労働力にも限界があるから、安易に「何もしなかったら叩かれる度」に振り回されて予算配分していては、主体性をもった良質な企画にいつまで経っても予算が割けなくなる。

また、柵ができれば川と人との距離は確実にそれ以前より遠のくし、人間の都合で自然界にまた一つ人工的なものを持ち込むことにもなる。気づけるか否かは別として、多くの場合何らかの変化は、付け加えられるものと損なわれるものの複合体で成り立っている。バカの一つ覚えみたいに、何か問題が起こったら皆の気がおさまるようにお金をかけて王道の策を講じればいいというものではない、と思うのだ。

あんまり整理してまとめきれていないんだけど、うーん、ちょっと今の私の力量だと当分これより飛躍的にまとまっているという文章は書けそうにないので、とりあえずUP。つまるところ、ここに書いていることを仕事場面に応用して、自分もきちんとしないとなって思うのであります。

2006-05-29

中学の学年的関係

胃が痛い。明らかに「精神的なもの」からくる胃の痛みだ。食間とか食前・食後とかじゃなくて、会議中とか会議前・会議後に飲む胃薬が出たら売れると思うんだけど、どうだろう。会議前にはイブクロスイミン酸配合のネブクロンを。

そんなことはまぁおいておいて、ちょっと思いついたくだらないこと。中学時代にさかのぼってほしいんだけど、中学1年生の時って3年生がすごく大人に見えたでしょう。さらに2年生とは違う、共感性の高さを感じなかったでしょうか。私だけかもしれないけど、2年生はどこか自分世代とは価値観の異なる印象が強くて、反面3年生は妙にかもし出す雰囲気とかに居心地の良さを感じたというか、何を良しとするかの価値観が似通っていたというか。もしかしたら、個人的にそう感じていただけかもしれないけど。

そういう中学1年生と3年生の間にある同質性と、1年生と2年生の間にある異質性みたいなものを今自分がいる現代のこの界隈にあてはめてみると、私世代が中学1年生だとして、まぁ恐れながら同期がはてなの近藤淳也さんとかミクシィの笠原健治さんとかとすると、伊藤穣一さんとかマネックス証券の松本大さんとかが中学3年生という感じ。で、中学2年生はホリエモンとかサイバーエージェントの藤田晋さんとか。

自分の身近にいる先輩がたで考えると一概に実年齢でこれが当てはまる感じでもないんだけど。なんだそれ……。でも、松本大さん藤田晋さんのブログとか読み比べてしまうと、いやぁ、やっぱり、私は中学3年生にしっぽをふってしまうのだ。

2006-05-28

村上龍×伊藤穣一

最近土曜に仕事に出ると、日曜はまったく動けない身体になってしまった。歳のせいだろうか……。というわけで、今日は夕方近くまで家でくったりして、日も暮れる頃ようやく活動を始め、ごくごく近所の本屋に出かけた。

小さな本屋さんなのでそう長居する用もなく、早々に出ようとしたところで入り口近くの平積みの帯に目を奪われる。「村上龍×伊藤穣一」。へぇ、これ面白そう。ということで、タイトルも確認しないままレジへ直行。まぁ、これからどこかへ出かけようという気力もないし、家に帰って読書でもしようと、潔く本日の外出終了の鐘をならす。

購入したのは「個」を見つめるダイアローグ。一番初めにインターネットが日本で騒がれだして、その少し後に「インターネットは儲からない」と言われ、今はというと「インターネットは儲かる」という認識が(その是非はともかく)社会に定着してきた時代じゃないかと思うんだけど、どうだろ。ともあれ私はこの本を読んで、そうか、「インターネットは儲からない」はある種普遍的な見方としてあり続けているんだなと、また振り出しに戻ってみた。

つまり、そもそもインターネットはお金を儲けることが目的のものではないということ。お金を儲けるための手段に使えることもある、というふうに時代が変化してきただけで、必ずしもお金を儲けるための道具じゃないことに変わりはない。ここ数年は経済至上主義をベースにインターネットを捉える傾向が強かったけど、今後ブログが普及するような勢いでインターネット上に民主主義が台頭してくると、多くのものが今以上にそれではお金儲けできなくなっていくんじゃないだろうか。

上質な情報を提供してくれるのは必ずしもマスコミではなくなるし、上質なサービスを提供してくれるのも必ずしも大手のサービスプロバイダーではなくなる。上質な情報を手づくりして、それを無償で提供しても、それが人のためになったらそれだけで嬉しいという個人がいれば、それが全員じゃなくても各分野ごと世界中に100人ずついたら、それだけで世の中は幸せにまわっていけるかもしれない。そうしたら、そこに金銭の受け渡しは不要となる。

発信する側と受信する側が良好なコミュニケーションそれ自体で満足を得られれば、それで十分バランスがとれてしまう。そして、そういうコミュニケーションを本来的な喜びとする人間は結構たくさんいるはずだし、そういう人たちがこれまでインターネットの根幹を支えてきたという実績もある。インターネットの「善」の部分が溢れ出してくる時代は、これから本格化していくのかもしれない。そうなったとき、企業が企業としてある価値は新たな創造の先にある。そんなことを思った。あんまりまとまっていないけど、とりあえず読書感想文。

2006-05-26

深海散歩の友

昨日は3月まで同じチームで働いていたお姉さんとランチに出かけた。「3月まで」といっても、そのチーム自体昨年10月に新設されたばかりで、私はその時点で配属されたけど、彼女は期の途中からアルバイトという形で入ってきたので、同じチームだったのは数ヶ月足らずだ。さらに「同じチーム」といってもまったく業務はかぶっていなかったし、私は流浪の民となって、この4月にまた新設部署へ異動してしまったから、本当に接触機会は少なかった。

だけど、どうしてかなぁ、彼女との時間はなんだかとっても心地良くて、あんまり話したことないのに二人でゴハンに出かけるということにまったく抵抗感が起こらない人なのだ。1時間強、たぁっぷり濃厚におしゃべりを愉しんだんだけど、後々まで「なんだろうなぁ、この素晴らしい感覚は……」と気にかかっていた。そして、ふっと気がついた。自分が「実はとっても話したいこと」が、二人で話していると自然におしゃべりのメインネタになる人なんだ、ということを。

私は、というかたぶん皆多かれ少なかれそうだと思うんだけど、何気ないおしゃべりでも相手が誰かによって話すネタの要素や深度を変える。特に私の関心事となるネタは抽象的なものを含みやすいので、「いきなりそんなこと言われても」とか「なんでそんなこと考えてんの」と相手を困惑に至らせないように意識する。自ら発信するネタの、特に深度は慎重に調節しようとするのだ。

そういうのが常態化していて、それもまたどうなのかなぁって時々思うんだけど、相当がんばって意識しないかぎりそうなってしまうことが多い。すると当然自分のこれという関心領域について深く話す機会も非常に限られてくる(注:私とて一般に受け入れやすい関心事もそれなりに持っている(はずな)ので、これはごくごく一部のネタを取り上げてのことです、のはず)。

それが昨日のランチでいきなりもたらされて、私はものすごく嬉しかったんだと思う。二人で話していると、どちらからともなく自然とそちらに流れついて、そのまま深海へと一気におりていく。1時間という短いランチの間に、深い海の底にしっかり足をつけて二人とも自然と同じ歩幅で散策を愉しんだ感じ。

なんとなく、この人は一人でも深海をさまよったりしているんだろうなぁという感じがあったので、私も安心しておりていった。躊躇なくおりていったから、その心地よさの理由もすぐにはわからなかったというか。わけわかんないような話だけど、とりあえず記念にここにメモしておこう。

彼女は、しばらく新たな関心分野の勉強をするために、うちの会社でアルバイトをして仕事と勉強を両立させていたのだけど、勉強のほうもひと段落したということで、また本職のWebディレクターに戻ることになった。というわけで、今月でうちの会社を去る。場所は離れても関係性は近くしていきたい人だ。

2006-05-25

嵐の中で羽休め

ものすごい雷雨の中、昨日は会社帰りに恵比寿に向かった。最初に会ったのがもう十年近く前になる先輩がたとちっちゃな会合を催したのだ。これが今の私にはものすごーく効果抜群だった。自分が(社会人としては)はなたれ小僧だった頃を知っている間柄だからか、とにかく日頃無意識に張っているであろうちょっとした緊張も彼らに会えば自然とすっかり解けてしまうようで、自分でも驚いてしまうほど、楽しく笑って話して、気分がすーっきりした。

実は会う直前までは、ちょっと心配もしていたのだ。あんまりパワー満タンな状態でもないし、そういうのが表れて変に気を遣わせてしまったり、はたまた楽しい時間に水をさすような感じになっちゃったら悪いなぁとか思っていた。でも、そんな心配は無用だった。そもそも私みたいな娘っこごときに自分の空間をゆがまされるような器の小さい人たちではないのだ。

といって、「そんなの痛くも痒くもないわ」とただわが道をゆくのでもなく、周りを巻き込んで自分以外の人もハッピーに導いてくれる懐の深さがある。オトナだ。そして私は何も気張ることなく、無意識のうちどっぷりとその空間に寄りかからせてもらっている(人には寄りかかってない)。

お酒も気づけばもう何年ぶりか?で6~7杯は飲んでいて、「へぇ、そんなに飲んでも一人でおうち帰れるんだ、私……」と翌朝振り返って感心してしまった。が、最寄り駅から家までの記憶が不鮮明。やはり、少し飲みすぎたか。

でも、たとえ翌日までお酒が残ろうとも、とにかく気分爽快。翌朝5時くらいにふと目覚めると、しみじみ「こうやって人間は人に支えられて生きているんだなぁ」と武田鉄矢みたいなことを思ふ。とにかく、こういう羽休めがとても大切なんだ!と強く強く認識した次第。覚えておこう。感謝、感謝。

2006-05-23

あったようでなかったもの?

今日は30分しか働かなかった。朝家を出る時から調子悪いなぁとは思っていたんだけど、とはいえまぁ明日は振替休日の予定だし、今日も外出や接客があるわけじゃないからとひとまず出かけていったものの、やっぱりダメだったという次第で。メールの対応をして、明日の振休を今日に申請し直して、結局同じ部署の人とは誰とも顔合わせることなく会社を出てきた(私は朝が早い)。

夕方まで電気つけっぱなしで気を失っており、目を覚ましてもぱっとしない。少し怠惰にお笑いでも味わおうかとyoutube.comを開いてみる。ちょっとこれ、感慨深いなぁ。ダウンタウンのごっつええ感じ-シンガー板尾(後日確認したところ削除されていた)。一番上の「テント」とか、ちょっと下の「海びらき」とか、昔見たのを憶えてる。1993年オンエアだから私は高校生。すみません、ごくごく庶民的な記憶で。

でもこういうのをいくつかまとめてみると、もうおなかいっぱいになって、テレビ疲れしてしまう……体質になっていることに今日気づいた。昔はテレビっ子だった私が。環境は人を変えるものだ。テレビのない生活も早10年近いのだ。それでこれまでに増して、しばらくテレビを買うことはないだろうなぁと思った。

それにしても、youtube.comはすごい。何がすごいって、私はこれで今日久々に「テレビ」を味わったわけだけど、結局これはテレビじゃなくてウェブだってところがすごい。テレビでテレビを見ない時代。梅田望夫氏の「ウェブ進化論-本当の大変化はこれから始まる」ですよ、まったく。早く全部読まなきゃ、いい加減。

なんてことをぼーっと思いながらくたっとしていると、今度は蛍光灯がカチカチと期限切れを訴えだした。何もこんな具合の悪い日にと思うけど、入居以来一度も変えてこなかったのだからまぁ取り替え時期もきましょう、そろそろ。

私の部屋は、狭い部屋の閉塞感を少しでも軽減しようという鹿島建設の粋な計らいで、天井が床から3mは離れたところにある。どうやって取り替えよう。不動産やさんに確認すると、管理人さんに変えてもらうか脚立を借りて自分で取り替えるか。管理人さんが不在だったので、結局脚立を部屋に持ち込んで、雨の中夜の街を蛍光灯求めて歩き回り、4店舗目で発見した蛍光灯を雨にぬれないよう抱え込んで帰宅。恐々取り替え。今日の大仕事、無事終了。

あったようでなかった日、じゃなくて、なかったようで確かにあった日。そんな一日だからこそ、ここに残しておく。私たちはいつだって、あったようでなかったようなものに囲まれていて、今もあるようなないようなものに囲まれている。

2006-05-19

膝かっくん

ここに言葉残さぬまま日が行き過ぎてしまうのは、なんとなーく心が口をつぐんでしまっているからだ。確かにそれなりに忙しくもしているんだけど、でも書こうと思えばそういう時間は作れるだろうし、話のネタがないのかと言われればそういうこともない。実は、ちょっと書き留めておきたいということはあれこれある。あるんだけど、どうも言葉を残せずにきてしまっている。

学生時代、東京でお酒を飲んで結構酔っ払って千葉のおうちに帰る夜を思い出す。夜中の下り電車はたいてい混んでいて、なかなか座れない。でも、夜だし酔っ払ってるし、電車の揺れもあってどんどん眠くなっていく。つり革を握る指先から腕の辺りまではどうにか起きているんだけど、あとはもうすっかり睡眠モードという状態になっていて、こんな時に膝かっくんされたら、皆さんに抜群のかっくんをご披露できるだろうと思う。

全然関係ない話のようだけど、なんとなくそういう身体状態に似た心理状態なのだ。やらなきゃって仕事とか、読まなきゃって本とかがあって、かろうじてつり革につかまっているんだけど、膝にはもうほとんど力が入っていなくて、腕の力でもってきちんと立っているように見せかけているだけのような。ちょっと押されたらかっくんとへたれこんでしまいそうで、その割にどうしようかなぁと冷静に考えているんだけど、今のところ。

ものすっごいハードっていうわけでもないし、ものすっごいライトって日々でもない。重量感のある仕事もででーんとあって、でも今日明日中にどうにかしなきゃいけないという事態でもない(明後日は知らないが)。いろいろひっかかっていることもあるけど、今すぐ何かの解が見出せそうな感じでもない。なんというか、ここ最近のお天気のように梅雨でもないのに雨が降り続いている感じで、なんともどうしようもない。

ということで、どうにもしないで数日数週間経過している気がする。うーん、なんか意味不明だけど、こんなことを書き留めているうちに駅に着いて、なんとはなしにおうちに帰れてしまうのかもしれない。

2006-05-14

母の日

我が家ではいつからか家族のお食事会が毎月の恒例となり、妹と私が交互に幹事役を務めて両親を東京に呼び出しては、各所で会食を愉しんでいる。

今月は来週末に会を催すことになったので、先ほど母に「こんばんは。いつもありがとう!という私の母の日は、来週末に変更となりました。もうしばらく、ぐっとこらえて、お待ちください」とメールした。けっこう気楽めに。

そしたらば、「こんばんは。私のほうこそ三人が皆立派になってくれてとっても幸せです」と1行返ってきた。

まいった……。まいりました、あなたには。

2006-05-07

ゴールデンウィークの成長

今年のゴールデンウィークはこまごまとした単発のお出かけがあって、あとは勉強なんかをして過ごしました。なんだかんだ、けっこう豊かで贅沢な日々だったなぁと振り返る最終日。この間私とともに時間を過ごしてくれた人と本に、心から感謝の気持ちを送ります。大いに成長させてもらった感あり。

出かけた先は、神楽坂、銀座、表参道、浅草と、黄金週間にしては小ぶりと言えましょうがなかなかに味わい深い散策でした。表参道では、予期せずして「ブルーノート東京」を初体験できてしまって、これは贅沢この上なかったです。こういう過ごし方は、そう頻繁にできるものではないでしょうが、ときにはドドーンとセットして自分の人生に褒美つかわしてやるもんだ!と思いました。「墓場に銭は持っていけませんぜ、だんな」というやつです(今作りました)。

心的にもある面でちょっと吹っ切れた(というところまではいかないか)、少し割り切れたようなところが出てきて、少し変化(たぶん成長)がありました。といってGW明けの私を見ても、表向きはなんら変化はみられないと思いますが、これはひっそりとやっていく自分磨きです。しばらく経ってからじっと見てみると、私の内面に人としての潤いが増幅している予定(予定は未定)です。

ときにはドドーンと。自分らしい、潤いのある暮らしを大切にしようと思います。小ぶりだけど実りある休暇でした。みんなでまた夏休みまで頑張りましょう。

2006-05-05

Webじゃなくてキャリア支援が軸足ならば

GW中日の気づきの影響もあってか、連休の後半はPhotoshopの習得より何よりキャリア支援の勉強でしょう!という気がしてきて、あっさり方向転換。あれこれ本を買い込んで、久しぶりにカウンセリングやキャリアのお勉強。

それも素晴らしい良書に出会ってしまった。國分康孝先生、最高。あぁ、最近「素敵!」って思う人が皆ものすっごい高年齢な気がする……。國分先生は今年で76歳くらい。ピーター・ドラッカー氏はもはや亡くなってしまったしなぁ。

それはさておき、自分が専門としたい分野についてしっかり勉強し続けることは大事。最近Web関連の本ばかり読んでいて、本業の勉強を怠っていた。受講者に勉強しなさいって言っていて、自分が怠ってちゃ世話ないですね。

私の仕事はWebトレーニングの開発だから、当然Web関連の知識があるに越したことはないわけだけど、やっぱりそれは周辺知識に過ぎない。私の職場環境だとWebの専門家には比較的恵まれていて、彼らは本業のために日々勉強をしている。そういう中にいると、私ももっと勉強しなきゃって大いに刺激を受けるし、新しい情報もいろいろ耳に入ってくるので自分が勉強すべき内容も具体化しやすい。ゆえに放っておくとWebの方の勉強に傾きやすい。

でも、私の本業はWebトレーニングの開発を中心としたキャリア支援にある。そっちの知識・スキル習得にしっかり時間を割かないと本末転倒だ。キャリアカウンセラーの資格を取ったときが一番知識を保有していたなんて情けないのはいやだー。そこを起点にして着実に伸びていかないと。

キャリア支援の専門家に囲まれて仕事している環境ではないから、きちんと自分で意識的に勉強時間を作ってカリキュラムを起こしていかないと、どんどん役立たず化していってしまう(現状維持は退行よ)。専門家がいないからこそ未熟者の私でも今の職場に雇われて存在する意味が多少なりともあるわけだし、今のうちに本当に内外に貢献できる人間に成長しておきたい……。

それに、私みたいな者たちのために國分先生は忙しい中こんな良書をまとめてくださって、きちんと勉強できる場を与えてくださっているのだから、そういうものを活かさないとねぇ。あぁ、本ってなんて優しいものなんでしょう。GWを終えても、キャリアとカウンセリングそのものの勉強はしっかり続けていきます。

2006-05-04

編集とは

以前あるところで「あなたにとって編集とは何ですか?」と尋ねられたことがあって、その時何だろうなぁと考えた末、私が返した回答はこうでした。

伝えたい人に伝えたいことの本質をわかりやすく伝えるための優しい行為。

自分でも、自分の考えを結構しっかり言葉にできたかなって思って、もう4年も前のことですが、けっこう印象深く憶えています。

これって、狭義の編集に留まらず、広い意味での編集シゴトにいえることで、私がしているシゴトの多くは広義の編集に属するものなので、ときどき思い出しては、ふむふむと味わっています。今日もふむふむ。明日もふむふむ。

2006-05-02

日常の中にひっそり仕込まれているもの

ゴールデンウィーク中日の5/1、2は普通に出勤。とはいうものの、「世の中はお休みモード全開なのだよ」という、仕事を割り切ったような吹っ切ったような風が心のうちにそよそよと流れていて、要するにこの2日間は結構のんびりと仕事をした。ランチミーティングに出かけたり、本屋やコーヒー屋に消えたり。

さて、意図せずしてのことなんだけど、この2日間で1日目は以前一緒に仕事をしていた姉御と(コーヒー屋に消え)、2日目は今同じ部署で仕事をしているお姉さまと(スペイン料理屋に消え)、少し落ち着いてお話する時間がもて、両日で同じような話に流れ着き、個人的に深い学びを得ることになった。

学びの内容は(ちょっと長いけど)5/1の「話」参照ということで。この体験は、1日目が姉御による理論解説、2日目がお姉さまによる体験談という2日間の講座とも捉えられるものだった(と勝手に関連づけてみる)。そして、私は今まさに、この講座から気づきを得て意識転換すべき時なんだと感じている。

別の日の別の人との会話を勝手に講座化して捉えるというのも教育オタクみたいで怪しい感じだけど、「一見したところ関係性をもたない、別の時間に起こった2つ以上の出来事に自分の中で関連性を導き出して有意味化する」という行為は、とても大切だと思う。うーん、やっぱりどこかオタク臭が漂うか。

2006-05-01

「共感」を取り戻して「論理」とバランスをとる

以前一緒に働いていた姉御が仕事の関係でうちの会社を訪れたので、帰り際に挨拶に行ったところ、GW中日という気の緩み?もあって「ちょっとコーヒーでも飲みながら……」と外に出ておしゃべりすることになった。それで話し始めたら、その30分強がものすごい濃厚な時間になった。

そもそも話の発端は、私自身が論理的思考の強化に傾注しすぎて、仕事を進める際に柔和さを欠いている気がするというぼやきだった(という言い回しがすでにイケてない……)。それを強く意識させられることも先日仕事場面で体験したばかりで、なんとなく良くないなぁって感じていたのだけど、話し出す時点ではまだまだ漠然とした思いだけだったのだ。

最近あった出来事っていうのは、論理的思考に基づけば「こちらが正しいと思う」という結論にしか至らないんだけど、結局のところ私たちは「正しいか正しくないか」を結論づけるために仕事しているわけじゃないし、そこで意固地になっても不毛なんだよね。別の部署の人でも別の会社の人でも、できるだけ気持ちよく一緒に仕事をして、より良い成果が出て、結果としてお客さんの幸せに結びつけば、それが一番の目的達成だし、それが一番素敵なことだ。

こう考えると、論理に寄ってばかりではなくて、お客さんはもちろん一緒に仕事をする人たちの気持ちに共感したり、こちらの見解にも共感してもらえるよう気持ちを育みながら仕事することに目を向けられるようになる。今回落ち込んだ一件にしてもそうなんだけど、このところ、そういう意識が少なからず弱まっていたんじゃないかって、自分の今後の課題を突き止められた気がする。

この1年は、論理的に思考して解決策を導き出して、具体的なアウトプットに落とし込むということを集中してやってきた。頭の動かし方もそれを軸にするよう努めた。それはたぶん、もともと私が「共感」を軸にして人と関わりあって仕事を進めてきて、それだけだとものすごく宙ぶらりんで頼りない自分に不安を感じていたからだ。そんな折、この会社では論理的思考力を必要とする仕事に取り囲まれて、これは良い機会だとその筋力を集中的に使って仕事力を高めることに力を尽くした。

実践で使うことで鍛えられる筋力だという意識もあったから、一所懸命がんばってみたんだろうと思うし、結局今時点での論理的思考力はこの1年で集中的に使ったからこそ得られたところも多分にあるので、それを後悔する必要もないんだろう。ただ、ずっとこのままでいいわけでもない。そろそろ少し放り出していた、本来大切にしていた共感性を意識的に取り戻して、今後はこの1年で強化したスキルをバランスよくブレンドしながら、双方の筋力を発揮して一層高めていく必要があるんじゃないかと思い至った。意識的にそういう構えに転換すべき時期がきたんじゃないかという気がした。

姉御が、そろそろ自分は得てきたものを世の中に還元していく時期にきたんだって言っていたけれど、私はまだまだその域には程遠くって、自分に不足しているものを筋トレして鍛えていかないとっていう気持ちが強い。ただ、そういうものと、その力を高めていくことで人の幸いに貢献できることが昨日より今日で高まっていったらいいっていう思いは双方持っているから、そういう意識で頑張ったら、いつか姉御の思いへと昇華できる日がくるのかもしれない。

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