世の中のいろんな物事は、ある「目的」のもとに「仕組み」と「運用」の階層に分けられると思うのです。例えば「基本1日3食」「遅く起きた朝には1日2食」という人がいたとして、意識しているわけではないけれど、それはおそらく「健やかな生活を送る」ために行われている。この場合、「健やかな生活を送る」のが目的、「基本1日3食」が仕組み、「遅く起きた朝には1日2食」が運用時の例外対応、というように。
この3つが整理されていないと、社会生活はものすごくおかしなことになる。目的と仕組みの共通認識がないままだらだらと各々に運用だけがなされていたり、運用領域に余地を残さずなんでもかんでも仕組みに組み込もうとして無理が生じたり、そもそもの目的を見失ったり。こういうのは、仕事場面でも結構目にする機会があるものだ。
新聞の社会面に載るような話題にも同じことがいえると思う。というか、新聞記事を読んだ後、その話がラジオのニュースでも取り上げられていて、この話を書き出したわけなのだけど。
福岡の中学校の授業で、先生が生徒に「赤紙」を配り戦争に行くか行かないかを回答させ、行かないと回答した生徒には「非国民」とコメントをつけた用紙を後日返却したというニュース(より正確には「個人的な事情で断るのは非国民」というコメント)。
朝日新聞の記事には「学校や町は授業に問題はなかったとしている」と書いてある。じゃ、いいじゃんと思う。だってこれは各地域や各学校、各クラスでの運用上の問題だ。共通の目的意識のもとに運用上で何がなされるかは、国や社会の単位(仕組みづくり担当)で取り決めたり判断できる領域ではない。どうしてそういうことをしたのか、教師が何を伝えたかったのかを生徒にわかってもらうフォローは欠かせない。でも頭からこの演出を非難することもない。
朝日新聞の記事は、一定の公平性を保った書き方がなされていると思う。でも、この後ラジオから流れてきたニュースでは、この事実の一側面だけを切り取って「~行かないと答えた生徒には、非国民と書いて返していたことがわかりました」と報道され、「非国民」のところにこれを非難するアクセントがつけられていた。これだけの情報にしぼって編集しておいてそんな言い方をしたら、聞き手は事実の総体をつかみきれないどころか、マイナス面にひきずられた偏狭な捉え方しかできないことを、人に伝える仕事をしている人間ならわからないはずがない。そういうことをわかった上で報道する内容を組み立てられるからこその報道機関のはずなのに、なんてお粗末なんだろうと思う。
マスコミが頭から非難するつもりで報道していなくとも、今の日本では安易に非難に走りやすい。「マスコミが取り上げた」という事実だけで、ワイドショー的第二マスコミ群やその先の市民は批判意識を持ちやすい。それは、物事の良い面を浮き彫りにするより、物事の問題点を挙げる方がはるかに簡単だからだ。特に解決策や代替案を提示する責任をもたずに問題点だけ指摘するのはたやすい。
こういうことでまた「マスコミからたたかれる前に」と、国や社会の仕組みづくり機関が新たな運用上の取り決めをしたり、授業からより一層の自由排除運動をしたりすると、もう本当に教室では何も学べなくなってしまう。日本の教師は演出力を欠き、教室からは創造空間が消えうせて、それでいったい何を子どもに伝えようというのか。
ということで、知ったような顔して随分偉そうなことを述べましたが、もとに戻ってくると、私たちは「目的」と「仕組み」と「運用」を整理して物事を捉えるべきだし、自分が各テーマにおいて「仕組み」を作る役割なのか、「運用」する役割なのか、自分の立ち位置を強く意識するべきだと思う。仕組みを作るところが安易に運用領域に踏み込んで自由を奪ってはいけないし、運用するところが目的を見失って仕組みに動かされてもいけない。目的を実現する上で既定の仕組みがうまいこと機能しないケースがあれば(いや機能する場合でも)、運用する役割は目的を実現するための運用のあり方を創造すべきだし、仕組みを作る役割は運用する側に歩み寄るべきだ。
個々の生活レベルでどうこうということではないけれど、集団で形成する社会生活においては、とても大切なことではないかと思うのです。長くなりました。長くなった割りに、話があんまりまとまっていない……。
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