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2005-11-27

結局とっぷり日暮れまで

今日は友だちと「装丁の仕事187人展」を観にいく予定だったのだけど、神田駅から15分も歩いて会場にたどり着いてみたら、休みだった。彼女が装丁に興味があるというので、これは面白そうだと思って誘ったのだけど、千葉から呼び出しておいて、ひどいですね、私。日曜が休みだなんて思わなかったんだもの。しっかり書いてあったけど……。

まぁでも、実はあまり気にせずにぶらぶら散歩を続けた。なんというか、お互いの中に、今日はそうなるようになっていた、とストンと納得できちゃう感じがあったのだ。このコと会うときはたいていそんな感じで、会うべくして会っているし、会う段取りは、例えばそれが神さまの仕事に組み込まれているかのように、必要なときにちゃんと用意されるようになっている、という感がある。

それで結局、少し歩いた先のタリーズコーヒーに入って日暮れまでおしゃべりをした。ベーグルを半分こして、コーヒーであったまりながら、窓際のカウンター席に腰かけて、のんびりと濃厚に話をした。

休日のこの辺にはそんなに人がいないようで、お外には近所に住んでいるのだろう家族連れがちらほら、御茶ノ水の方から流れてきたらしい落ち着いたカップルがちらほら、就職活動だか若手ビジネスマンを扱うらしき雑誌の撮影隊がちょろちょろ、でもその風景は、窓から望める開けた空間の中ではいたって静かだった。

お店の中もあまりお客さんが入っていなくて、お店の人には悪いけど、静かでゆったりとしたいい時間だった。11月最後の週末、くったりできて良かった。

2005-11-26

雨季

例えば日本が6、7月によく雨を降らすように、人にもそれぞれに雨季があるという仮説は、どんなもんでしょう。私の人生を振り返ると結構「あるある」と思うんだけど。

「1年の中から2ヶ月、自分の雨季を選びなさい」といわれたら、私は4、5月と即答できるなぁ。そういう月って、それぞれにあるものじゃないのかしら。

私の場合、4、5月は他と比べてほんとよく泣いた記憶がある。まぁ、よく考えてみると思い出せるのなんてここ数年のことなんだけど、それでもこれまでの人生の雨量を月別でグラフにすると、4、5月が飛びぬけていると思うんだな。

これの統計を、国勢調査……までいかずともエンターテインメント業界のマーケティング調査とかでとってもらって、結果が10、11月とか「秋」という季節に集中していたりすると、なるほどねぇと思うんだけど。思うだけなんだけど。

いやはや、秋も終わり、寒くなりました。そろそろ私の体温が劇的に低下する季節。今日試しに体温を測ってみたら、すでに夏から1度下がっていました。

2005-11-23

父のおこのみプログ

今日は月に一回の「家族でお食事会」。毎月両親を東京に呼び出して、妹と私と4人集まり、ちょっといいお店でお食事をしているのだけど、そこで語られる父の暮らしぶりはなかなか良好だ。

株の話、パソコンの話、スポーツクラブの話、読書の話、孫の話……(まぁパチンコの話とかもあるんだけど)。父は今年のゴールデンウィークで定年退職し、新しい生活づくりをしている最中。父なりにいろんなことを楽しみながら暮らしているようでほっとする。

さて、久しぶりに会うと、父の口から新しい用語が出てきて「へぇ」と思ったりするんだけど、なんかいっつも若干間違えて覚えているんだよな。「プログを見てる」なんて口にするから最初感心したのに、何度も言うのを聞いていると「ブログ(blog)」じゃなくて「プログ(plog)」って言っているし。

ブラウザの「お気に入り」は、なんでそうなるのか「おこのみ」って勝手に名前つけ替えている。まぁ意味通じるからいいんだけど、でもあえて替えなくても。父「おこのみに入れておいたはずなのに……」、私「だからお父さんのおこのみは……」なんて会話していると、なんか調子くるってきて吹き出してしまう。

さらに、実家のある地域では有名なNAS(ナス)というスポーツクラブに登録に行ったらしいんだけど、これのことを父はNASA(ナサ)という。これもまた「昨日はNASAに行って登録してきて、1時から5時まで云々かんぬん」「明日からはNASAに通うので云々かんぬん」と何度も会話に出てくると、また顔がゆがんできてしまう。ちなみに、父は関西人なので「宇宙開発してんのかい」なんて突っ込まれると喜んでしまって当分やめない。ツッコミは妹の担当。

取り留めのない話ですが、最後に今日行ったお店メモ。白金台にある「さくらさくら」という京料理・京ゆば麺うどんやさん。縁側と呼ばれる席で、八寸などの楽しいコース料理、締めは麺にゆばを練りこんだうどん。おいしかった。もうすぐ父の誕生日ということで、そのお祝いも。最近運動してXLからLサイズに落ち着いた父に、オレンジ色の若々しいニットをプレゼントした。あと、恒例の課題図書。今回は恩田陸特集で「夜のピクニック」と「Q&A」をあげた。

2005-11-21

世界に浮かぶお風呂

私のおうちというのは、かなり生活感のないところである。「生活感がない」を良いようにとると、生活臭がしなくてちょっとスタイリッシュな感じがあるかもしれないけれど(私のおうちという時点でそんな印象はもってくれないかもしれないけれど)、とにかく実際のところはやっぱり「臭いもないが匂いもない」、率直に言い表すとつまり、つまらない、退屈な空間だろうなぁと思う。

とはいえ、それがここでの私なりの生活の営み方なのであって、それはそれでまぁ仕方ない、としよう。それならそういうのをとことん愉しみましょうということで(もないんだけど)、限りなく力の働いていない生活空間の中を、限りなく省電力で過ごしてみるということをしてみる。ときどき、してみる。

「今日は湯船につかってから眠ろう」という夜に、まずは浴槽にお湯をためて、しばらくしたらミニコンポをオフにして部屋を無音にして、さらに使わない部屋の電気はしっかりと消して、無音で真っ暗な部屋を後に残して、文庫本片手にお風呂場に行く。本を読むのでお風呂場の電気はつけるけれど、換気扇は切っておく(まわしておくとすぐ、はっくしょい!と寒くなるから)。

そうすると、本当に本当にシーンとした中にちゃぽんと身をおくことになる。そこで、今自分がいる小さなお風呂場の外は、自分の部屋もその外の世界もすっかり真っ暗なのだと思い描くと、お風呂場だけがほのかな灯りをともして、広い世界の中にぽっかり浮かんでいるような感じがする。

そこにある静けさに、限りない恐怖と、恐怖に包まれた一時の平和を感じる。恐怖というよりは、漠然と「不安定な感じ」というのかな。そういう一時の平和の中で読書を愉しむというのは、なかなか悪くない。うん、悪くない。そう思うのは、ココの住人ぐらいかもしれないけれど。

今は、あさのあつこさんの「バッテリー」(角川文庫)を読んでいる。会社の人が読み終えた本を貸してくれた。次回の父の課題図書候補。面白いです。

2005-11-17

急いでないなら急がない

駅の改札口を抜けると、電車がホームに入ってきている音が聞こえる。あぁ、これに乗らなきゃ……と駆け足になる。繁華街を歩いていると、無目的で倦怠感漂わせた人の群れが何度だって目の前に立ちはだかる。あぁ、この集団を追い抜かなきゃ……と足早になる。

あるとき、ふと気がついた。とくに急いじゃいないのに、なぜ急ぐ、と。

それで、それから急いでいないなら急がないことにした。急いでいないのに急いで、急いだのにその電車に乗れなかったり、目の前の集団がなかなか追い抜けなかったりしていらいらするのって、なんだか変な話だよなぁと思って。

まだ時々、変に気が焦ってしまって急いでいないのに急いでいる自分を発見することもあるけれど、おおむね大丈夫だ。そういう心の持ちようでやっていこうとキャンペーンをはってから結構な年月が経っているので板についてきた。

この方が断然疲れないし、快楽主義者にはおすすめだ。急いでないなら急がない。まだ試したことがない方は、騙されたと思ってぜひやってみてください。

2005-11-16

王様の耳はロバの耳

今日は土曜出勤の振替でお休みを取った。午前中、歯医者に2時間閉じ込められ、2,500円支払って結構大変な目にあった。うってかわって午後は中学時代の友人が遊びにきて、近所のカフェでのんびりおしゃべり。歯医者さんで打たれた麻酔が効いたままで、コーヒーを飲もうとしたらまたぼたぼたーっとやってしまったけど(これはもう本当に情けない)、まぁそれを除けばとても良いひと時だった。

私は好んで舞台の上には上がらないのだけど、彼女と一緒にいると、時々「王様の耳はロバの耳」に出演することがある。彼女と私、変わりばんこで「地面の穴」役と「王様の床屋さん」役を引き受ける。今日は結構役になりきって「王様の耳はロバの耳ー、ロバの耳ったらロバの耳ぃー」と叫んでみた。少しすっきりしたかも。

言葉にするという作業は、良くも悪くも、それに形を与える作業であり、比喩的にいえばある魂に肉体を与える作業である。それの存在感を限りなくゼロに近い状態から「1」という自然数に引き上げる。それって結構な作業だけど、必要なときに機を逃さずきちんとやっておくべきだと思う。そして、時と人と場合によっては軽率にやらないこと。今日の魂には(もう長いことそれを欲していたし)肉体を与えて良かったんだろうと思う。随分おとなしそうなコだし。

2005-11-15

オフィスで喜声

今日は、今期の肝となる商談?が実を結び、OKの返事が聞こえてきた受話器片手にまたオフィスにあるまじき「やや叫び」を発してしまった。時々これをやってしまって社内の注目を浴びることになる。私の声は少し高音域なので(それが理由だと訴え続けているんだけど、なかなか認めてもらえない)、それをやると結構目立ってしまうんだけど、注意して思い留められるようなものなら最初から我慢しているわけで、これはきっと直らない。まぁそう頻繁にやっているわけでもない(と思う)ので勘弁してもらいたい。

とにかく、このOKの獲得は非常に大きい。これまでに立てた企画の具現化にあたってキーになるポイントだったのだ。本当にOKさんに感謝、感激、感動。昨日2時間コースの説明で送った自分の想いが相手にしっかり届いた感触。昨日OKさん(と、この際仮にそう呼ぶ)を見送った段階では、結論は明日に持ち越し、YESかNOかは五分五分という感じで、本当に「やるだけのことはやった、けどどうなるかわからない」と受験生のような心持ちだったんだけど、晴れて合格。いやいや、本当に良かった。

私は基本的に臆病者なので、何か素敵なことがあっても、「それでもこの先何があるかわからない」と何があってもいいように心構えをし続けておく性質で、今もまぁ確実にそういう部分はあるわけだけど、とにかくこのOKには心から感謝している。

これをしっかり命あるものとして育んでいかなきゃという責任を感じられたり、素敵なことが長く続くとそれが当たり前という感覚に陥りがちなところ、そうならずに幸いと感じ続けられるのは臆病者ならではの特典だと思う。まぁ、ずっと一定のビクビクを背負っていなくてはならないのでそれなりに疲れるけど、それは体質だから無意識に行われることで慣れっこだし、がんばっていこう。

2005-11-13

あばらをさすって歩く

犬も歩けば棒にあたるといいますが、皆さんはどれくらいの頻度で電柱にあたりますか?私は、1年に1回くらいかな。

それで、今年もあとわずかということなので、今日電柱にあたりました。それも結構思いっきり。あばら骨をやられました。痛いです。でも、頭突きをせずに済んだということでは不幸中の幸いといえましょう。幸い、といえましょう。

今日の教訓は、転ばぬ先の杖、覆水盆に返らず、ただほど高いものはない、なんか違うな。よそ見して歩くと危ない。これだ!これで1年間はあたるまい。

2005-11-12

晩秋の六本木

私はたぶん3ヶ月に一度くらいのペースで夜の六本木に散歩に行っている。アクティブに「遊びに行く」んじゃなくて、限りなくパッシブに「散歩に行く」。

もうすっかり日が暮れてしまって、だけどさして日中どこかに出かけたわけでもないし、せっかくの土曜なのにこのまま一日が終わってしまうのも、どこかもったいない気がするなぁという夜に。

たいていは近所のコーヒーやさんに行って本を読んだりするんだけど、春夏秋冬に一度くらいずつ、もう少し遠出をしたくなって六本木の本屋さんまで足をのばす。なんで六本木かっていうと、単純に六本木の本屋さんならきっと夜遅くまでやっているんだろうという田舎者の発想なんだけど、夜どころか朝方までやっていて、人も当たり前のようにいっぱいいる。ビバ!六本屋&六本人。

しかし、今日はひどく泣きたくなった。なぜって、六本木ヒルズの木々がそこら中青くライトアップされていたから。昨年とまったく同じイルミネーション。あぁ、だめだよ、それは……と思う。今年の初めに亡くなった伯母と最後に会ったのは昨年の今頃で、この街だった。彼女と私はこの青い光の中で語らい、この青い光の中で別れた。彼女の溢れんばかりの笑顔に、もうすっかり元気になったのだと安堵していたのに、それが永遠のお別れになってしまった。

私はこの先何年だって、この街でこの青い光を見る度、彼女が最後に見せてくれた最高の笑顔を思い出して悲しくなるんだろうなぁと思いながら街を歩く。クラシックのCDを一枚、梨木香歩さんの文庫本「西の魔女が死んだ」と仕事の本を一冊買って、深夜らしくひっそり静かな電車に揺られて帰ってきた。

2005-11-09

移ろいゆく中で

今日は土曜出勤の振替でお休みをとった。上野駅で待ち合わせ、以前に同僚だった友だちと会った。前回会ったのは半年くらい前。彼女は、その時には私はもちろん本人も予想だにしなかった激動の半年を送ってきた。いやいや本当にね、驚きますよ、そりゃあね。結婚して、コウノトリもやってきてと。とにかく、今日会った彼女が穏やかに幸せそうに笑っていてくれて何よりでした。

一年前には同じフロアの同じ島で肩を並べて仕事をしていたのにね、不思議だね、今はお互いすっかり違う生活を送っている。ほんの一年前にはこんな現在をまったく想像できなかったよね。だけど、会えば(半年会わなくたって)あの頃と同じ距離感で時間を忘れて話しこんでしまう。そういう関係性はこの変化もどこ吹く風、当たり前のように全然変わっていなくて。

お互い、「今」のそれぞれの生活に乗っかって、「今」の笑顔を交換している。一年前の笑顔はどうしたって化石なのであって、それにしがみついたりそれを懐かしんだり、それをどうにか持ち出して交換しようとしても何も始まっていかない。今日会った私たちは当たり前のように「今」を交換しあっていたよね。そして、きっとずっと「今」を交換しあっていけるよね。当たり前のように。

変わっていくもの。変わらないもの。両方のバランスの中でいつだって「今」を大切に生きていく、そういうのがきっと一番健全なんだなぁ。そんなことを思いながら彼女に手を振って、背を向けて、違う方向へと歩いていく。すると、それはそれで、ものすごく切なかったりもする。それは、やっぱり一年前とは違う「今」を大切な人と別々に生きていることに対して感じる切なさに他ならない。

上で言っていることと下で言っていることが真逆なんだけど……。真正面からすがすがしく受け入れてみたかったり、ちょっと切なくなってしまったり、そういう気持ちを同居させながらバランスをとって生きていくのが大人ってやつなのかなと思ったり思わなかったり。

2005-11-05

父の成長

私が送った文庫本をすべて読破したらしく、父からメールがあった。乃南アサさんの「風紋」、それを読み終えたところで「晩鐘」(ともに双葉文庫)を郵送。この2つのお話は続き物で、どちらも上下巻あってどれもかなり分厚い。

以下、父からの報告メール。1つ目が「風紋」上下巻を読み終えた時。2つ目が「晩鐘」上巻を読み終えた時。3つ目が「晩鐘」下巻を読み終えた本日。

[2005/10/21]
今完読しました読みごたえがありました

[2005/10/31]
只今上巻を読了しました。約700ページ有り読みごたえがありました。

[2005/11/5]
今完読しました。年をとったせいか悲しい結末に涙が出ました。

気づきましたか、わが父の目覚しい成長に。1通目と2通目を送る間に、父は句読点が打てるようになっています。すごい。ずっとずっと打てなかったのに。この10日間にいったい何があったのだろう。

そして2通目と3通目を見比べると、メールの文面にも進化が見られる。この5日間にいったい何が……。おかげで娘は、なんだかとってもとっても切ない気分です。また父の本探さなきゃな。

2005-11-03

今どこを歩いているのか

これは前にも何度か話題に挙げた話だけど、今の会社に入ってからというもの企業さんのところに出向いて提案する機会というのが結構ある。ヒアリングして要件をまとめて、企画や実施スケジュールをまとめてご提案して、協力者と詳細を詰めたり諸々手配したりして、得意先にサービスを提供してレポートをフィードバックして、プロジェクトを完了させるところまで責任を持ってやる。

実際、これってものすごく大変なことで、私なんか当然まだまだこれからなわけだけど、プロジェクトの大きさは関係なく、「プロジェクトを良い形で完了させるところまで最後まで責任をもってやる」ことの積み重ねが、まずはとにかく大切なんだよな、と思う。

これをしっかりできる人って、実は大きな?大人の中でも結構少ないかもしれない。アイディアを企画化して提案書に落としたり、プロジェクトをある成果にしっかりと導いて完了させるのってすごく厄介だし難解だし、だから途中で投げ出してしまう人も多い。もちろん役割分担があるから、ある部分は自分でやってある部分は他の人がやるケースもあるわけだけど、場合によってはやっているつもりなのにできていなくて無自覚的に他に委ねていることもある。

私としては、小さいところからでもこつこつ経験を積んで、法人向けのプロジェクトでもなんでも、きちんとまっとうできる人になりたいと思う。その対応の幅や質を少しずつでも高めていきたい。そこにはきっと上限なんてないだろう。

一年前までは個人向けのサービスばかりやってきたし、法人向けというのは個人向けと異なる特有のスキルを必要とするので、そこに少なからぬ抵抗感や苦手意識を抱いてきたのだけど、ここに来たらとにかくそういう仕事がふってきたので、何事も経験と思って最初から快く受け止めてやることにした。

なんとなく、そういうものを習得していくべき時期に来ていて、来るべくしてあちらからやって来てくれたという気もした。面倒見の良いなんとかさんが「これが絶好の、そして最後のチャンスだよ」と耳元で囁いて置いていってくれたような感じもあって、この機会を大切にしないといけない、という気がした。先日あるプロジェクトを良い形で終えられ、お客さんからとても喜んでもらえた。少し遅いスタートかもしれないけれど、私もなんとか歩き出している。

最近読んだ村上春樹著「遠い太鼓」(講談社文庫)より。「歳を取ることはそれほど怖くはなかった。歳を取ることは僕の責任ではない。誰だって歳は取る。それは仕方のないことだ。僕が怖かったのは、あるひとつの時期に達成されるべき何かが達成されないままに終わってしまうことだった。それは仕方のないことではない」。今歩むべきところをしっかり歩んでいきたいと思う。それにしても、村上春樹さんの思考空間を浮遊する読書時間はなんとも心地よい。

2005-11-01

コーヒーやさんの常連

このところ日中席に座っている時間が極端に少ない気がする。会議室にこもっていたり、トレーニングルームにいたり、お客さんのところに行ったりしているうち、あっという間に日が暮れてしまう。最近は夜5時には暗くなってしまうということもあるんだけど。とにかく夜6時くらいにようやっと落ち着いて自席に腰をおろし、「さて、これからが本業だぞ!」と気合いを入れ直すことになる。

と、その前に近くのコーヒーやさんに行くのが習慣化している。タバコを吸う人の「一服」にあたるものだ。おおよそ同じ時刻に現れて毎度おなじみの注文をするので、一人の店員さんは私の顔を見ると注文する前からカフェアメリカーノを作り出す。注文しようとすると、「カフェアメリカーノですね」と確認される。私は「あ、はい」といつもなぜだか少し恐縮して応えている。なぜだろう。

そういうやりとりのとき時々思うのだけど、私はコーヒーやさんでもご飯やさんでも居酒屋でも、あきれるほど飽きずに同じ注文を繰り返す性質なので、こういう店員さんの心遣いはそのままありがたいものとして受け止めるのだけど、時に注文を変えたい人にとってはあるいは迷惑だったりしないものだろうか。

自分がいつも注文するコーヒーを先回りして作ってくれちゃっているのがわかったら、もし他のコーヒーを飲みたくても気を遣って違う注文をできないのではないか。まぁ強い意志で他に飲みたいものがあれば別かもしれないけど、そうでなければ。それくらいの意志ならどっちに流されてもいいのかもしれないけど、見方によっちゃ機会損失といえるかもしれない。まぁ、そういう人にはそういう人に向けた別の心遣いをしているのかもしれないし、それはそれでステキなことだということになるんだけど。

とにかく私は毎日のようにコーヒーを買い求め、比較的短い待ち時間でおいしいコーヒーを手にすることができており、それを手になんともいえない幸せ感をじわぁーんと味わう。それでお姉さんにお礼を言って会社に戻って、腰をすえて思考する仕事に入る日々。コーヒーやさんには大変お世話になっている。

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