日航機墜落事故、あれからもう20年も経ったのか……と思う。引き算すると、私が9歳、小学4年生の時のことだ。あの事故があって程なく、だから夏休みのことだったと思うけど、小学生だった私と兄はいつも通りとてもささいなことで口ゲンカをした。そして、私が母のところへ泣きつきに行ったときのこと。
「けんちゃんが“死ね”って言ったぁー、びぇー」とか何とか、兄の悪事を言いつけにいったのだったか。具体的なケンカの原因は憶えていないし母がどんな言葉をかけたのかもはっきりとは憶えていない。ただ、その時母に言われたことが、今の私の一部、それも相当に大切な部分を育んだのは間違いない。
その時“死ね”という言葉を兄だけが言ったのか、私も口にしたのかは、これまた憶えていない。母も、兄だけが言ったのだろうが私も口にしたのだろうがそんなことは大した問題じゃないといったふうに兄と私の双方を叱ったので、余計に記憶が曖昧だ。とにかく母は、ケンカの原因はさておき、金輪際一切のその言葉の使用(「死ぬ」を命令形で使うこと)を厳しく禁じたのだ。
その時の母の、何というか、今私はあなたたちに絶対的に正しいことを教えているという眼差しや姿勢みたいなものが、強く印象に残っている。これはもう絶対に間違いのないことで、生きていく上でとてもとても重要なこと。だから私はこの言葉を母への絶対的な信頼をもって受け止めなくてはならないと、そんなこと子どもの私に言葉にする術はないわけだけど、形にはならないながら「ドスン!」という感じで、そういう想いを受け止めていたのだった。
だから私は、以来兄とケンカしても妹とケンカしてもその言葉を発しなかったし、ケンカしても子どもなりにそこだけは冷静さを保って、「ばか」とか「あほ」とか無難な言葉を選んで口ゲンカした。最近じゃテレビでも街中でもこの言葉が氾濫しているけど、私は今だって冗談でもその言葉を発しない。他の人が口にするそれは、その人なりの使い方を汲んで受け止めるようにしていてあまり気にしないけど、自分の言葉としては決して採用しないでいる。親から学んだ、自分でも大切だと思うことは、とことん大切にしたいと思う。
価値観というのは、そういうふうに親から、身近な環境から身につけていくものなんだな、と思う。身近にいる大切な人から、「誰が何と言おうと、それはそういうものなの!」と有無を言わさず絶対的な眼差しと姿勢でもって注入されるもの。それが言葉として発せられたものであろうと、そうでなかろうと。その大元の価値観がそれぞれの成長過程で、いろんな人やもの、事象と交わりあってその人なりの変容を遂げていく。ただ、さまざまな変容を遂げても、その根幹には始めに注入された大元の価値観がどっしり居座っていることが多く、それを軸にしてポジティブにもネガティブにも着実に育まれていくのだと思う。国と国の歴史の問題とかもそういうところに通じているのだと思う。
実際その時母から学んだことは「死」という言葉の使い方に留まらなかった。軽く発してはならない言葉があるだけでなく、言葉というのはものすごい力をもっていて、その力はプラスにも働くし、使い方を間違えればものすごい凶器にもなる。私なりにさまざまな変容を遂げながら、そういう両面への理解を深めてきたつもり。また日常の何気ない言葉の積み重ねがその人の人となりを形成していくことも、それを起点に考えるようになった。だから、言葉を大切にする。もちろん、自分が発した言葉への後悔はまだまだ日常的にあるけど。
母の言葉とその時の眼差しと姿勢は、今の私の言葉の使い方、言葉とのつきあい方の根幹を成し、それを軸にして私は言葉との関係を人一倍意識して育んできた。20年。それなりの時間だな、と感慨深く思う。
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