白洲次郎という感動
「何だろう、この瑞々しい感覚は…」と、しばらく宙ぶらりんのままやり過ごしていたのだけど、ようやくそれを端的に表す言葉に辿り着いた。「そうそう、これってつまり“感動”じゃん!」と。あまりに単純な答えだけど、こんな有無も言わさず人の心をかっさらっていくようなモノに久しくぶちあたっていなかったので、この感動という感覚を忘れかけていた。なんとも恐ろしいことである。
というわけで、私は白洲次郎さんにすっかり感動してしまった。先日上司から貸してもらった「風の男 白洲次郎」という文庫本を読んで、ここ最近内向きに入り込んでいた自分がいつの間にかくるりと外側に向き直っている事に気づいた。まるでチェスの駒でも動かすかのように誰かが私の頭をつまんであっさりと向きを変えてしまったようだ。
白洲次郎さんとは「日本国憲法誕生の現場に立会い、あの占領軍事司令部相手に一歩も退かなかった男」(文庫本の裏表紙より引用)。明治生まれにして身長 180cm以上。端正な面持ちに洒落た身なり。英国ケンブリッジ大学を卒業後、各方面で八面六臂の活躍。なんというか、いろんな意味でショッキングなお方なのだけど、何よりその生き様に強く心揺さぶられてしまった。
彼自身の言葉。「ボクは人から、アカデミックな、プリミティブ(素朴)な正義感をふりまわされるのは困る、とかよくいわれる。しかしボクにはそれが貴いものだと思ってる。他の人には幼稚なものかもしれんが、これだけは死ぬまで捨てない。ボクの幼稚な正義感にさわるものは、みんなフッとばしてしまう。」そして実際時の首相であれ、マッカーサーであれ関係なくフッとばしてしまった。あの時代に生きて、これを全うして生き抜いたというのは本当にスゴイ。
彼の生き様に学ぶところはいろいろあるけれど、「これだけは死ぬまで捨てない」というもの、そういうものをもって生きていくという事の貴さを何より深く心に刻まれた。これという信念をもって生きるということが、本当に生きるということなのだと。また、なぜ生きるのかを問うて生きるより、自分はどうやって生きるのかを問うて生きる方が合理的だとも思った。合理性の是非を追求しだすとまた迷路に迷い込んでしまうけど、とにかく前を向いて生きていこうと自然のうちに方向付けられる本だった。
彼は「私利私欲をもってつき合おうとする人間」には容赦なかったが、反面「私心のない人、大所、高所に立って、自分の考えや行動すらも客観的に捉えられる人、本当の愛情のある人」とは晩年に至るまで仲良くつき合っていたという。また子どもたちは、人見知りする子でも彼にはすぐになついたそうだ。このような人がこの世から去ってしまうのは本当に悲しい。そう思う一方で、昭和60年、彼は去るべくして昭和のうちにこの世を後にしたのだという気もする。人はいつか死んでしまう。私は私で、彼に恥じない平成を歩むほかない。
« スターバックスに憩う無賃くん | トップページ | 台風の晩に思うこと »
コメント