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2004-08-29

ノルウェイの森を彷徨い、六本木へ

土曜日に村上春樹著の「ノルウェイの森」上下巻を文庫本で購入。実はこの歳にして初めてこれを読む。読書が習慣づいてきたのもごく最近のことなので、とてもメジャーな文学作品の類も、私は読んだことのないものがほとんどだ。なんとも情けない話だが、見方によってはこれからの楽しみが人一倍残されているともいえる、と無理やりしておこう。

まだ読み終わってはいないのだが、やっぱり村上春樹はスゴイ。一人の作家の頭の中にこれだけの世界が創られていて、だけどやっぱりそれは一人の人間の頭の中の想像に過ぎないのだと思うと、私の生きるこの世界はなんて果てしないのだろうと途方に暮れてしまう。そして前者の想像の世界が上下巻あわせて千円足らずで手に入る世の中。これはもう彷徨い歩くほかない。

週末の時間のほとんどをこれの読書にあててしまったので、村上菌の血中濃度が高くなりすぎて明日の職場復帰が不安。適当なところで切り上げておかないとまずいか、というところで日曜の夕方に電話が鳴った。

前職で運営していた塾の受講生が、上京しているのでこれから飲みませんか?とお誘いをくれる。しっかりと日が落ちた19時半頃に家を出て六本木へ。全然関係ないけど「六本木へ繰り出す」というのは「ナウい」に匹敵する古めかしさなのだろうか。ちょっと危険を感じて、思わず書くのを躊躇。おばあちゃんの日記に「今日は巣鴨に繰り出した。」なら、現代でも有りなのか。

それはさておき、「日が暮れてから家を出て、夜の六本木に向かう」という自分の行為には、一歩一歩ひしひしと違和感を感じてしまう。なんというか、ものすごく自分の生活に馴染まない行動。もともと「六本木の人」ではなかったのだが、それにしてもこの順応しなさ加減は「老け込んでる」としか言いようがない。良くも悪くもだが、最近本当に若さがなくなりました、と強く自覚。

とはいえ久々に受講生と会えたのはとても嬉しかった。元気な顔を見られて、ゆっくりおしゃべりできて。そして夜更けまで続いたおしゃべりは、最近なんとなくパサパサとしてしまっていた自分のありようにハッとさせられるところもあり、昔の自分から今の自分に問題提起してもらえたようなひと時でもあった。

と、なんとなーくな日記で8月終了です。

2004-08-28

幸せな夢にうなされる

今朝、同じ夢を10回ぐらい連続でみた。繰り返し繰り返し、結構しっかりしたシナリオの夢が終わっては始まり終わっては始まって、あー夢かぁ、はぁ夢か、まぁこれも夢だったの…と、夢の中で夢を繰り返す私。こうして話の終盤だけ毎回シナリオが違うというのもまた、ずいぶん都合の良い話だなぁと思うのだが。最後の回など、こんなにリアルだし、今度こそこれって現実だよねぇと登場人物に確認するようなシナリオになっていた…。

しかしまぁ、幸せな夢であればあるほど、その分だけ夢から醒めるのはつらいものだったりもして、×10回分重たい。そして、今晩眠りつくのも怖くなり、読書に逃れながら夜更かしをしてしまう。

2004-08-27

強い女

昨日に引き続き、今日も夜に人と会った。今晩は前職の仲間三人で。先日久々に連絡いただけたのをいいことに、私の方から彼にあるものを拝借したいと身勝手なお願いをし、ではその引渡し日に小さく飲み会でも、という話に。久しぶりに落ち着いておしゃべりすることができて、とても楽しかった。

のだが、後々まで心に引っかかってしまったのは、帰り道に一人からかけられた「変わった」「落ち着いた」という言葉。私のことである。それがどういうことなのか、帰宅途中の電車の中で考えこんでしまった。今日の私のどういう振る舞いが彼にそういう印象を与えたのか、私は本当に変わったのか、それとも久々に再会した今晩数時間の私と一緒に働いていた当時の私の印象が彼の中でたまたまちょっとずれていただけなのか。

彼のニュアンスとしては、昔と比べて飲まなくなった、はしゃがなくなった、落ち着いてしまった、若さが消えた、という感じだったと思う。なんというか、「変わっちゃいましたねぇ」的言い回しだったから…。苦笑。まぁ今じゃ一切はしゃがないということでもないのだが、落ち着いて「しまった」感はちょっと自覚あり。でも、おそらくそれだけじゃない。彼がそういうことを感じた深層には、今晩の私との対話の中で「強く主張するようになったなぁ、昔はもっと静かに話を聞いてくれてたのに…」と、潜在意識下かもしれないがそう思ったからじゃないかなと思った。電車の中で今晩数時間の私を振り返ってみたら、そういう部分が「彼の知る当時の私」と違うところだったからだ。かなり憶測だけど。

そんなことを考えるうち、あの頃と比べたら、私は実際変わったのかもしれないな、と思い至った。前職の頃は、自分の考えというのがあったとしても、それを表出することをあまりせず、人の考えや思いを受容して、それを考慮しながら自己完結で「動く」ことに徹していたような気がする。徹するというと言い過ぎなのだが、とにかく物事がうまく進むように静かに動いておく。「違う」とか「そう思わない」と自ら攻撃を仕掛けることは非常事態でない限りほとんどしなかった。関わる人がほとんど最終的には「顧客」か「取引先」という環境でもあり、違うと思うことがあればこの人はそう思うのだなと思い、それを静かに受け止めて吸収するところで終わるようにするのが日常だった気がする。

その頃に比べると、今は「私はこう思う」ということを随分言うようになったと思う。何でもかんでも言うことはしないが、これはこの人に「伝えるべき」「伝えたい」というエネルギーを持ち、自分の信念上これをその人に「伝えても支障がない」という自分なりのGOサインが出れば、結構自分の考えや思いを率直に話すようになった。職場環境の変化で考えると、今は普段上司と同僚という身内に囲まれて仕事をしていることも影響しているのだろう。その分だけ「率直に話す」機会が増え、考えや思いを形にして表出することを日常的に求められるうち、そういう行為に慣れたのだと思う。また、驕る(おごる)という領域には足を踏み入れないようにしているが、自分がある部分の自信と信念をもって人に伝えられる小さな何かが生まれつつあるのかもしれない、とも思う。

それは一つの成長でもあると思うし、TPOに応じてコントロールできるのであれば基本的には良いことだと思う。でも、それなら今日の私はどうなんだろうとも思ったり。加えて、いわゆる女が大人になって強くなるってもしかしてこういう事なのか?30歳を目前に私もその一歩を踏み出したって感じなのか?と、微妙な不安に駆られてみたり。知らぬうちに自分が「強い女」という生き物になっていたら、自分ながらちょっと怖いなぁとか。くわばらくわばら。

確かに自分のできることをしっかり形にして人に届けていきたいという欲は、以前より強くなっている気がする。でも、優しさや柔らかさみたいなものはずっと大切にしたい。それはきっと人の内側に共存させられるものだから、両方を交じり合わせながら、私の中で大切に育んでいきたいと思う。長い道のりだ。

2004-08-26

ベルリンから一時帰国

朝から晩まで怒涛の転職相談攻撃にメールで応戦し、サイトの更新を終えて21時前に会社を脱出。昨年10月にベルリンまで訪ねていった前々職の同僚が日本に一時帰国しているというので、彼女を囲む会に向かう。勤務先から歩いていけるお店だったので、ちょっと疲れた体を引きずりつつも足早に歩く。

やっぱり最後で迷子になったが、なんとかお店に到着。着いた頃には開始予定時刻を2時間ほど過ぎていたのだけど、囲まれる主役の姿はなく、席には囲むメンバーが2人。とりあえず席に腰をおろして事情を確認すると、どうやら主役は今箱根から東京に向かっているところで、そろそろ到着予定という。

そしてそのちょっと後に主役登場。フロアに上がってくるやいなや、ダダダーッと勢いよく駆けてきてハグ。彼女という人は、もう視界に入るだけでパワーを注ぎこんでくれる。生命力に満ち溢れていて、人のオーラが見える超能力者がいたなら、彼女のことなどまぶしすぎて見られないんじゃないかという気さえする。

ちょっと遅れてやや旅疲れの彼が登場。彼はドイツ人だが英語も堪能。昨年の旅行時に大変お世話になったので、今回はもう少しまともに交流したかったのだけど、やっぱりまともなコミュニケーションができなかった…。昨日今日で英会話の本に目を通してみたりしたんだけど、やっぱりそれだけじゃ言葉は出てきません。当然かぁ。もっといっぱい話せたらいいのに。自分の語学力の無さに落ち込む。次回再会できる時にはこの後悔の思いを少しでも軽くして交流を深められたらいいなぁと思う。努力しなきゃ変わらないのだが。

結局ほとんど日本語のオンパレードでおしゃべりを続けてしまい、あっという間に1時間ほど経過。ほたるの光が流れ出す。今時の都会のイタリアンレストランにしては随分古典的な客の追い出し方をするなぁなんて感慨を覚えつつ、素直にお店を出て少し不完全燃焼ながら解散に。でも、とにかく再会できて良かった。元気な顔が見られただけで、本当に心から幸せだ。

彼女たちは来週の頭には日本を発ち、今秋にはベルリンからスペインはバルセロナへ移り住むという。「今度はバルセロナに遊びにおいで!」って、まぁなんてグローバルな…。でも行きたいなぁ。またしばらく会えなくなってしまうけど、しばらくはネットを歩いてつながっていこう。また近々必ず会いましょう。

2004-08-25

季節の変わり目に思う

そろそろ「季節の変わり目」という時季なのかもしれない。このところ私の周辺は一気に体調を崩し出した。季節の変わり目が大元の原因なのかはわからないが、それが体調を崩すのに強い追い風となっていることは否めない。

チームメンバーが休んでしまうと、チームの仕事が滞るとかそういうこと以上に、とにかくその人自身の体調が心配になる。自然とそう思っている自分に出会うと、私、やっぱりこのチームの一人一人がとても大好きなんだなぁと、こんな状況ながらしみじみ感じ入ってしまったりもする。

無理をして出てこなくてもよいので、とにかくしっかり治して元気に復帰してほしいなぁと心から願う。そういう気持ちが当たり前のように湧き出てきて、そういう気持ちを当たり前のように交し合えるのが、人というものの本来の姿なんじゃないかなぁって、勝手に思ってみたりする。早く元気になりますように。

2004-08-22

Zamio Culcas参上

ずっと延び延びになっていたのだが、今日会社の同僚が遊びにやってきた。私が都内で暮らし始めた春先より、「引越し祝い」を連れて遊びにくる予定だったのだが、何やかやと流れ流れてしまい、気づけば早4ヶ月が過ぎていた。「引越し祝い」もこの間ずっと彼女の家で生活してきたわけなのだが、ようやく同僚宅に住み慣れてきたところでお引越し、彼はどんな気持ちだろうか。

同僚に連れられてやってきた彼の名はZamio Culcas(ザミオカルコス)。名前も猛々しいが、その姿も実に勇ましい。なんというか、見るからに生命力に満ち溢れ、「オレはオレで生きていく」的凛々しさが背中越しに滲み出ている感がある。初対面とは思えないほど落ち着きはらっていて、逆にこちらが「よろしくお願いします」と頭を垂れてしまいそうな勢いだ。その道に詳しい同僚の話では、彼にはラテンの血が流れているというが、ラテンってそういうものなのだろうか。

とはいえ背丈は大変かわいらしく、引越し直後からここに住んでいるサボテンの竜神木と同じくらい、土の表面から測って20cm強だ。そのギャップが彼をより一層愛しいものにさせている。彼の場所はもちろんサボテンの隣、窓辺のカーテンの下。サボテンの方は、入居以来丈の合っていないつんつるてんのカーテンの下に居り、最近は背も伸びていつも頭のところをカーテンの裾にこつんとぶつけている。私はからかってそれをそのままにしているが、ザミオはそういうわけにもいかなさそうだ。自分を邪魔するものに容赦なさそうなので、ちょっと気を遣って裾をよけてみたりした。

それにしても、サボテンを横に並べると余計にザミオの勇ましさが引き立つ。サボテンのやや弱った感じも目に付く。サボテンも彼から元気をもらえるといい。同僚いわく、サボテンの方は「水分は十分だけど日光が足りない」状態。一目見て診断できてしまうなんてお医者さんみたいだ。これからは日差しも和らぐし、できるだけ日に当ててあげよう。

そうすると、色白でひょろっとしたサボテンも、日焼けサロンでコゲコゲのジムでムキムキな即席マッチョマンに生まれ変わるだろうか。それもちょっと無理が感じられて痛々しいかもしれないが。何はともあれ、二人とも健やかに育ってほしい、それだけでいい、とちっちゃな親心(いや、下宿屋のおばちゃん心ぐらいか、っていうと下宿屋のおばちゃんに失礼か)が芽生えるのだった。

その後ザミオとサボテンを残して、同僚と二人近所の公園のようなところをぶらぶらし、ご長寿な大木の下に腰を下ろし、池の辺で亀や魚を眺め、昭和チックなカフェで(室内だけど)夕涼みをし、とても心地よい休日となった。大人になってもこんな時間を共有できる友との出会いがあるなんて、幸せである。

2004-08-15

ひたすら運転の末、和商市場の勝手丼

北海道旅行、最終日。釧路空港から飛行機が飛び立つのは14時半。川湯温泉から釧路までは車で3時間ほどかかるので、今日はあまり遊んでいる時間がない。昨日の川下りのガイドさんによると、釧路駅前の和商市場にテレビでもよく紹介されている「勝手丼」があるというので、とりあえず釧路まで出てしまって、残りの時間で噂の「勝手丼」を食べようということで宿を出発。

今日は川湯温泉から釧路まで、ひたすら私がドライバーを務める。最初は寝るに寝られず不安な表情で目を見開いていた後部座席の母も、少しずつうとうとした感じに。ふふっ、勝った。まぁ、この道、この車通りで何か問題を起こすというのもなかなか至難の業ではあるが。

また私は周囲の車と全く戦う気がないので、「どうぞどうぞ」と快く道を譲る。後ろの車が追い抜きたい車かどうかもチェックするようになる。まずバイクは百発百中抜かす。ここまで他の車を追い抜いて這い上がってきた車も、私の車を抜かしたい衝動に駆られないはずがない。運転席の人の顔や同乗者との関係性も何気に気になる。小さい子どもを乗せたお父さんは抜かさない。でも、子どもがある程度成長していて、かつ大きな車に乗っているお父さんは、だいたい追い越していく。そういうのをできるだけ察知して、できるだけ抜かしやすい環境作りをする。変なところで成長を遂げている私…。

まぁ、とりあえず順調に行っているので、途中釧路湿原展望台に寄っていくことにする。こちらで有料の展望台には上らず、近くのハイキングコースを往復 2kmほど歩く。私は運転疲れでちょっと距離を短縮。日向のベンチに腰かけ、大きなふきの葉に囲まれてぼーっとぼーっとする。

その後もまたドライバーを務め、一路和商市場へ。ここの目玉商品「勝手丼」とは、ご飯の上に売り物のウニやらカニやらイクラやらを自分の好きなように乗せて、自分勝手に丼ものを作ってしまえるというもの。実家にいた頃テレビで見たことがある。私の思い描いていたのでは、「ご飯を入れたどんぶりと箸をもって市場内を練り歩き、皆好きなものをつまんでは食べ、ご飯のあるうちはどんなに食べても料金は一定」ぐらいのずうずうしいことを考えていたのだが、まぁ当然そこまでの自由は利かなかった。

市場内で一店舗ココと決めて、そこに並ぶ勝手丼用のネタから自分の好きなものを選ぶ。お店の人がそれをご飯の上に乗せていき、マイ勝手丼の完成。私は 100円の小盛りご飯に200~300円のウニ、ホタテ、エビ、中トロ、サーモンを一盛りずつ。おまけでタコも付いてきた。たぶん一人分で千円ちょっと。私は運転疲れで、実はあまり食欲がなかったので、ご飯はほとんど妹にあげておいしいところ取り。しかしまぁ、さすがにおいしい。どれを食べても「本物だぁ!」という感動がある。舌の肥えた父も納得していた。

市場はやっぱり活気があって観光客もたくさん。道内でもこれまで訪れたところはどこもカニ一杯1万5千円とか驚くほどの金額で売っていたが、ここでは大きなカニも数千円。市場はやっぱり安い。その上、勝手丼の「ちょい食べ」でその品質の高さを知ってしまうから、これはもう迷わずお土産を買ってしまう。千円の勝手丼を食べにきた観光客が、箸を置くやいなや「万」のお土産を買い込む客に早がわり。恐るべし、勝手丼マジック。これにやられた観光客が、母然りあれこれみやげ物を買い込んでいた。

その後運転を妹に交代し、後部座席で気を失っているうち釧路空港に到着。レンタカーを返して東京行きの飛行機に乗り込む。2時間ほどのフライトを経て無事羽田空港に着陸。東京も今日は猛暑を一休み。北海道と同じ20度の気温に迎えられて帰途に着く。モノレールから見下ろした東京の海は黒かった。

2004-08-14

網走監獄から川下り、テレビ鑑賞まで

北海道道東巡り2日目。朝風呂に入りご飯を済ませると、まずは網走監獄へ。明治時代から最近まで網走刑務所として使われていた建物を移築して公開している博物館。校外学習っぽいけど、結構真剣に見入ってしまった。今自分が生きる「平成」まで使われていたという記述に関心が高まる。北海道の中央道路は、昔ここに収容されていた千人を超える人によって作られたものだそう。そのうち、百人以上の人たちが途中で命を落としている。私たちは本当にさまざまな人たちの手に、命に、支えられて生きているのだと再認識させられる。等身大の人形が随所に展示されており、一人では歩く気になれない臨場感があった。

その後は網走を離れ、屈斜路湖へ向かって南下。北海道はひたすらまっすぐな道が多く、車通りも少ない。カーナビがあれば私も一人で走れそうな気がしてくる。駐車場も込んでいないので車もどこかしらに止められそうだし・・・。空港でレンタカーを借りてぶらり一人旅。いいなぁ。いつか晩夏の北海道でぜひ実現したいところである。

屈斜路湖に向かう道中、まずは美幌峠で車を降り、湖の全体像を見下ろす。湖面が光り輝いていて本当に美しい。周囲はなめらかな曲線で縁取られていて、とても女性的な印象。その周辺も広大な緑が広がっており、360度どこを見回しても大自然である。そんな大自然を背景に、ファインダー越し全く見ず知らずの親子を目にして、人間ってちっぽけだよなぁ、と思う(ちょっと失礼)。親も子も、この自然界を思えば大差ないちっぽけな生き物なのだと感じる。

美幌峠から屈斜路湖の近くまで車で下ると、湖畔では多くの家族連れが海水浴ならぬ湖水浴を楽しんでいた。その後、ごくごくフツーの喫茶店でお昼ご飯を食べ(スパゲティ2、カレーライス1、ラーメン1)、2日目の目玉企画である川下りスポットへ。母&妹チームと父&私チームに分かれ、ガイドさん付きのカヌーに乗って屈斜路湖から釧路川に入り、7kmほど川を下る。

釧路川は本当に穏やか。最後の方に3箇所だけジャブジャブいうところがあり、私は後からきた母&妹チームが拍子抜けするほどぎゃーぎゃー叫んでしまったが、あとはずっとのんびりコース。途中、ヤマセミ(野鳥)が見られたり、ミンク(襟巻きとかになってるやつ)が忍者のように水面を泳いでいったり、透き通った川の中に魚の群れが見られたり、急に水温が下がったかと思ったら近くに湧き水が流れ出ていたり。そのまま残されている自然の中をぼーっとしながら下る。妹よ、見事なプランです。前日人に聞いて知ったところだけど。

ただ、川下りは時期に注意。ガイドさんいわく2週間ほど前はハチが大量発生して、カヌー1艘に200ぴきぐらいのハチがくっついてきたとか。なんて地獄。絶対無理。泣いちゃう。7kmなんて生きて帰れない。2週間前というと、7月下旬から8月上旬は注意!ということで、晩夏の北海道にまた来たい!と先に述べたのはこういうわけである。

川から上がると車を止めているところまでお迎えの車が連れて帰ってくれる。今日の宿は、山の斜面が黄色に染まり湯気が立ち上っている硫黄山の近く、川湯温泉。宿泊先の温泉も嗅覚がやられそうなくらい硫黄のにおいがぷんぷん。最近各所で水道水や井戸水のお風呂を温泉と謳っていた温泉宿がマスコミに取り上げられているが、これは間違いなく温泉だと思う。というか、これがもし温泉じゃなかったら、かなり気持ち悪い成分でできていると思う。

夜はちょっと夜更かしして、家族が寝静まる中テレビを観る。映画「スターシップトゥルーパーズ」とオリンピックの柔道(谷選手と野村選手のW金メダル)。テレビのない家に住んでいるので、久々の映像刺激でちっちゃい子どものように強い衝撃を覚える。そして思春期の子のように命のこととか考えてしまう。うーん、こんな強度の刺激に慣れちゃいかん。やっぱりテレビは時々見るのがイイ!と思う。映像の持つ力は強大だ。でも、オリンピックはやっぱり映像で観たいですね。旅行話から脱線したまま本日終了。支離滅裂。

2004-08-13

家族旅行で北海道へ

お盆休みは恒例の家族旅行。28歳になっても恒例の家族旅行。今回は北海道の道東編。北側の女満別空港に降り立ち、レンタカーでドライブをしながら南下、帰りは南側の釧路空港から発つ二泊三日の旅。今回は兄夫婦が欠席のため、参加者は両親と妹と私の4人。

我が家の家族旅行は大変ありがたいことに旅行費用全額親もち。お金持ちの妹が時々ご飯をおごってくれるが、お姉ちゃんはぎりぎりの生活なので何もできない。プライドも何もないので、素直に「ごちそうさま!」と言って喜ぶ。

余談だが、妹の稼ぎは私には真似できない。本業の仕事も確かにお金はいいが、彼女にはさらにパチンコという副業がある。今回おごってくれたお金の出所は副業の稼ぎ。最近儲けた5万円が目の前のカニやウニになっている。今春ニューヨークに旅行に行ったのも、実は副業で24万円稼いだためというから、まぁおったまげます。でも、私はパチンコをする気がないから仕方ない。妹は間違いなく父の子であり、私は間違いなく母の子ということである。

って旅の話を全然してないが、午前10時過ぎ羽田空港で家族と落ち合い、少しお茶をする。今回の旅は妹が全面的に企画を手がけているようで、いつもの旅行に比べて下準備にかなり気合いが入っている。航空券や宿泊先の手配だけでなく、レンタカーの手配からクルーザーの予約、道中の観光スポットまでしっかり押さえている。いつもが緩過ぎるだけだが、何ともたのもしい。

10時45分発のJALに乗っていざ北海道へ。JALなんて家族旅行じゃないと乗れない…。といっても昼過ぎにはあっさり女満別に到着。早速レンタカーを借りて、女満別から網走(北)、網走からウトロ(東)までオホーツク海沿いに車を走らせ、知床半島へ。

途中60kmぐらい、北海道なら大丈夫だろうと家族に命を預けてもらい、久々に車を運転する。「右がアクセル」「ブレーキも右足で操作」「曲がる時には右側についているウィンカーで合図」など、基本的なことを確認。まぁこれで大丈夫だろうと思ったら、運転者が私に代わったところで神のいたずらか、山道が始まり、雨が降り出し、トンネルも出てきて、皆で大騒ぎ。助手席の妹がサイドブレーキの係を担当。なんだか西村知美になった気分。しかし、まぁだいたい勝手はわかってきて目的地にも無事到着。

海から知床半島を望もうとクルーザーに乗り込む。雨は降ったり止んだりだったけど、非常に気持ちよかった(詳細は写真をご覧ください)。それにしても、ちょうどクルージング中に熊が登場したのはどういうことか。熊の着ぐるみを着た人が待機していたんじゃないか?と勘ぐってしまうほどタイミング良すぎ。でも、写真では黒い点だけど、肉眼で見たところ間違いなく熊。それも魚を捕まえた瞬間。野生の熊も魅せてくれます。

そんなこんなで、北海道の大地を車で、オホーツク海を船で走りぬけ、大自然を満喫した初日。クルージングを終えると、車で網走まで戻って網走グランドホテル泊。ここはなかなか洒落たところで、ご飯もおいしく温泉も24時間。露天風呂とサウナもあり。接客も品があって良いところでした。

2004-08-12

父が兄に手をあげた話

私の父は何でも自分ペースであれこれやってしまう人で、あまり他人ペースで動かない人だ。ずっと営業畑でやってきたので、外ではいろいろ気を遣っているのだろうけど、家にいる父しか知らない私からみると、根本あまり協調性のない人だと思う。逆にいえば、自主的に動くことに長けているといえるかもしれない。よく言われる「B型の長所と短所」を正確に併せ持った人だと思う。

私たちが子どもの頃、父は毎週末私たちをどこかに連れて行ってくれた。父がこういう性格であると想定して当時のことを思い出すと、きっとあれは父が心の底からそうしよう!そうしたい!と望んで動いてくれていたんだと思われ、幸せを感じてしまうことがある。娘の勝手な思い込みだが。そんな父だ。

先月、父の社長就任祝いということで実家に戻り、兄夫婦も呼んで幕張のホテルでお食事会を開いた。その時どういう経緯でだか「父が兄を殴った」という話が出た。もう十数年も前の話だろうけど、兄が反抗期の時、母になにやらいちゃもん?をつけた事件があったらしく、それを受けて父が兄に手をあげたことが一度だけあったそうだ。(注:反抗期後の兄は穏やかで優しい人です)

その話を聞いて、私は(たぶん妹も)本当に驚いてしまった。私の知る父は怒らない人なのである。会社でどんなか知らないが、家庭で怒るのは見たことがない。手をあげるなんて全く想像できない。別にいつもにこにこ穏やかなタイプではないし、決して怒りを感じにくいタイプでもないと思う。でも、私たち家族に対して感情に身を任せて怒るようなことは絶対にしない人だ。そういうことを、お食事会で「父が兄を殴った」という昔話を聞いて、初めて意識した。

父が笑って言う。「子育てで怒ったのはあの一度きり。おまえ(兄)がお母さんの言うこと聞かないっていうから。俺は子育てをお母さん任せにして何もやってこなかったから、子どもたちがお母さんの言うことを聞いてくれないと困るんだ」と。母は「そうよ!さんざん人任せにして」という表情だったし、まぁそういうあれこれも夫婦間にはいろいろあったのだろうけど、私はこの父の言葉を聞いて、家族の大黒柱として母と子どもたちを守ってきたのはやはり父なのだなぁと静かに感動してしまった。

父は自分のやり方で、私たち3人を育ててきたのだ。母とは別の立ち位置で、その位置でこそできる役割に徹してきたのだと思う。怒ることを人任せにするのは楽な部分もあるけど、何十年という間、3人もの子育てを通じて怒らない役割に徹するというのは、それはそれで大変なことだと思う。そして、母ではない立場から父である自分が怒るべきと判断した一度だけ、感情からではなく自分の役目として、兄を殴ったのではないかと思う。母を守るため、兄を守るため、家族を守るために。そして、私はそんなことがあったとは露知らず、いつも父という「揺るがない安定」を感じながら人生を送ってきた。父は長い年月をかけてしか教えられない「安定」を、身をもって私に教えてくれた。

今回この事に気づいて、正直今頃になってはっとしている自分に愕然とした。「生まれてから今日までの間、父が私たちを怒らなかった」ことに気づくのは難しい。ある時の流れの中で、ある事柄において、「何も起こっていない」ことに気づくのは難しいことだ。こんな昔話でもなければ、私はもっとずっと先まで気づかなかったかもしれない。でもそれは、実はものすごく偉大なことだったり、尊いことだったりする。そういうことに自ら気づける人でありたいと思う。

2004-08-04

やっぱり熱い!初代上司

昨晩は先週末に引き続き再び恵比寿へ。2004/7/8の「話」に登場した私の初代上司と、2004/1/29の「話」に登場したその上司の下ともに働いた友人と私、3人で会うことになったのだ。

ちょうど、上司は先月退職し、今月から新しい勤め先で仕事を始めたところ。加えて翌日がお誕生日。そして友人は今秋めでたく結婚するということで、さまざまなお祝いを兼ねて集合。私は双方とも数ヶ月前に会っていたけれど、上司と友人はもう5年ぶりくらいの再会だったのではないかと思う。

とはいえ、3人とも驚くほど変わっていないので、不思議なほど当たり前に何の戸惑いもなく久々の会話を楽しんだ。それぞれ着実にステップアップは遂げているし、その事は会話の節々から強く感じられるのだけど、私たちの心地よい関係性は昔とまるで変わっていないのだなと嬉しくなる。

上司は少し遅れてお店にやってくると、席につくやいなや、食べ物に箸をのばすのも惜しいといった感じで、昔と変わらぬ熱いトークを始めた。ものすごーくしゃべった後に「あと5分しゃべらせてね!」と間に挟んで、またまた熱いトークを続けた。その5分後も1時間後も、やっぱり熱いトークを続けていた。昔と全然変わらない。それをしっかり受け止める私たちも変わっていない。そんな3人の姿が、なんだかとてもいとおしく感じられた。

3人とも、会っていなかったこれまでのことや今のこと、今後のこと等、過去・現在・未来の話をあれこれする。私は古くに知り合った人でも、昔の思い出話だけでなく、現在や今後の話ができる関係がとても好きなので、そういうことが自然と行われていることに心から幸せを感じた。

それぞれ今は別々の道を歩んではいるけれど(って言い回しはものすごく古いが)、それでも私たちが今後も交わっていきたいと思えば、それぞれの前にのびる道もしっかり交差していくものなんだよなと思う。だから、そういう意思の力をきちんと意識して大切にしたいと思う。

で、結局0時をまわり電車もなくなり、上司はバイクで、私たちはタクシーで、一旦上司の家に移動し、車で送ってもらうことになる。友人宅を経由し、私が帰宅したのは2時頃。こんな不良娘のようなこと、ものすごく久しぶりな気がする。まぁ翌朝…というかこの歳になると翌日終日に渡って大変なわけだけど、それも許せてしまうほど充実した時間だったと思う。

2004-08-01

あぁ、ニッポンの夏

昨晩はなんとなーく眠ってしまい、今朝もなんとなーくで起きていた。しばらくして簡単な着替えをし、近所のコンビニまで出かけた。朝の空気に触れてふと思ったのだが、なんだか良い陽気になってきたのではないでしょうか。今朝の艶やかで清々しい空気感。自分が子どもの頃のニッポンの夏を思い出す。そういえば、昨晩の深い蒼色にまんまるのお月さんもたいそう美しかった。

7月中は、「ここは本当にニッポンか?」と何度疑念を抱いたかわからない、風鈴さえも汗ばんで「こんなんじゃやってられない!」とストを起こしかねない酷暑が続いたが、ここにきてごく正常な気候に戻った感がある。夏本番の8月を前にして改心したのだろうか。普通に気合いの入った太陽の日差しに、すーっとカラダを通り抜けていく涼しげな風、程よくうるさく鳴き続ける蝉。これら夏の生命たちがお互いを良きライバルとして、絶妙なバランス感覚で競い合っている。あぁ、ニッポンの夏。

窓から運ばれる優しい風を浴びながら、8月はこんな日が続くといいなぁと夢うつつに思う。そうしてまた、昼寝には早すぎる眠りに落ちていった。宿題、、やらなきゃなぁ。くぅ…。

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