教える側の効率より、学ぶ側の能率
ある算数の授業を、同じ教え方、同じ授業時間で条件を合わせて、一方のグループには「1回にまとめて120分」で教え、もう一方のグループには「4回に分けて120分」で教えてみて、学習効果に違いが出るかを実験した研究がある*。
学習効果に違いは出たか。出たとすると高かったのは、どちらか。
一見すると効率が良さそうな「集中学習」だが、結果は「分散学習」のほうに軍配が上がった。間隔をあけて教えたほうが、生徒はよく学習したという。記憶に定着しやすく、学習内容の理解も深まりやすかった(Hattie, 2008)。
この手の実験は何十年も前から行われていて、分散学習の有効性はよく知られたところ。なのだが、なかなか教育現場に取り入れられないまま今日に至るのが実状。
素人アタマでどうしてだろうって妄想してみると、一つに「いや、知らんがな」、一つに「変えるの面倒くさい」が思い浮かんだ。
長く続けてきたものがある界隈では、変えるのは面倒くさい。重たい腰をあげて変えるメリット、変えないデメリットをひしひしと感じないかぎり、なかなか人は変える気になれない。
また一回にまとめて行ったほうが、教育プログラムの計画上も、運用上も、教える側の手間を考慮しても、何かと楽で効率がいい。
そういうことだとすれば、つまり「学ぶ側が、学び終えるまでの能率」ではなく「教える側の、その場かぎりの効率」によって、集中学習スタイルが採られ続けている、ということになるまいか。
(妄想から結論するな、という話だが)だとするならば、分散学習の有効性を知らなかっただけで、有効ならやるさ!という身軽な層は、必要な現場で、どんどん取り入れていったらいいよな、と思った次第だ。
ことに会社の部署内の勉強会、同業界・同職種コミュニティの勉強会あたりでは、教えるアプローチや教材リソースにそう長大な歴史的蓄積を抱え込んでおらず、能率アップするなら身軽に変化を加えていける現場も多いだろう。そういうところで積極的に分散学習を取り入れていったらいい。
全面的に今やっている集中学習スタイルを刷新するとか、極端なことを言い出さずに。部分的に分散学習のやり方を取り入れてみたり、一部の集中学習を分散させてみたり、考え方として取り入れてみたり、柔軟に思考を巡らして、柔軟に試行してみたらいいのだ。
極論や曲解は、もうたくさん。古いAの画一から、新しいBの画一へと、全面移行する発想は貧しい。AもBもうまく取り入れて、自分とこの、それぞれの文脈で活かす態度こそ、人間の教養の尊さよ。
同じ会社の部署内であれば、年に一度の研修プログラムに寄せて育成施策の整理をつけないで、ふだんの定期ミーティングに15分程度の勉強会タイムを設けて、連続的に展開してみるという手もある。
上司や先輩が、部下や後輩に個別に教えるなら、教える側にとっても隙間時間をうまく使って教えるほうがやりやすいことも多々あるだろう。「これはちょっと厄介だから、まとまった時間がとれたときに丁寧に教えてあげよう」と思いながら先延ばしにしてきたことはないか。
その中にはもちろん、説明にまとまった時間が必要な事柄もあれば、厄介で複雑だからこそ、小分けにして連続的に教えたほうが良い事柄もあるだろう。
時間をあけて同じ情報に約6回出会うと、学習した情報は長期記憶に残るようになるという。そんなイメージに差し替えれば、一度で覚えられない部下・後輩にヤキモキしている心持ちにも、いくらか心の余裕が生まれてくるかもしれない。
車の運転が好例だが、とくに何かの操作・やり方を学ぶようなスキル習得においては、最適な状態で15〜30分を一区切りにすると費用対効果が高いとされる。車の運転なら、2時間ぶっ続けて学ぶより、1週間以上の間をあけて各20分間を6回以上に分けて練習したほうが効果が出やすい。
集中学習と分散学習の組み合わせ技でオーソドックスなのは、最初に集中学習をもってきて、その後を分散学習で継ぐやり方じゃなかろうか。最初、まとまった時間を設けて講義中心に研修を行う。それ一度きりでやりっぱなしにせず、ちょっと期間をあけて、次からは分散学習スタイルに切り替える。ちょっとした時間を使って、課題を与えて、やってみさせて、フィードバックを与えて、修正させて。そういう時間なら、小分けで展開しやすい。少しずつ課題の難易度をあげていって、基礎知識の記憶定着と並行で、熟練化を狙うこともできる。
集中学習と分散学習、両スタイルを教える手段の選択肢に入れてイメージすることで、実現できる打ち手もいろいろ発想しやすくなるかもしれない。身軽に変えられる教え手・環境にある人たちから、分散学習をうまいこと取り入れていったらいいなぁと思う。
*ジェフ・ペティ「科学的エビデンスに基づく最適の教え方実践ガイドブック」(東京書籍)
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