2026-01-12

傾向には例外がある。例外を働くのが人間

今朝がたSNSで「IQが20違えば話が通じない」という話が話題になっていた。この辺が発生源なのかな。ざっくり取り出すと、


  • 思考のレベルが釣り合う者同士でないと、長期的な関係は築けない
  • 無理に背伸びして自分より遥かに思考レベルが高い人と付き合おうとしても、どこか居心地が悪くなってしまう
  • 逆に、思考を磨き成長し続けてる人が「現状維持の人(毎日頭が衰退してる人)」に合わせ続ける関係というのも続かない
  • 「IQが20違えば会話はできない」という言説があるが、本当にその通りかも
  • 思考の深さが極端に違う人とはせいぜい「天気の話」「共通の知人の噂話と悪口」くらいしかできないのが現実

という弁。「IQテストの得点が違う」「思考のレベルが違う」「思考を磨き成長し続ける vs 現状維持(毎日頭が衰退している)」「思考の深さが違う」が、どれくらい同一のものとして語れるかというのもあるけれども、そこはXのポストであるからして。

これに対してか、けんすう(@kensuu)さんがうまいこと言っているのも見かけた。

「IQが20違えば話が通じない」という話があるんですが、頭のいい人ほど「ああ、そうだね、賢い人と話すと全くついていけていなくて的外れなことを言っているのをすごく自覚する」みたいなことを言い、頭の悪い人ほど「そうだよな、バカってマジで話が通じないよな」みたいなことを言いがち・・・

と、こういうSNS画面にふれながら私の頭にふと思い浮かんだのが「傾向には例外がある」だった。こっちが本題なので、上の件は、下のことを考えたきっかけとして置いたにすぎない。

いろんな研究成果を共有し、新たに発見された「傾向」を活かすというのは、そこここでやられている人間の営みだ。最近ではSNSを通じて、その学術分野の専門知識をもたない人も参加するかたちで、その発見された「傾向」を共有し、意見する風習がある。

共有されている研究成果というのはたいてい、一定の条件を整えた実験室(比喩的な意味で)で得られた結果であろうけれども、その辺は無視して「人間とはこういう傾向にある」「なんとか属性の人は、こういう傾向をもつ」というのは伝播しやすい。人間のあれこれというのは、自分が人間であるだけに関心になりやすい。

だけれど、傾向には例外がある。人間は例外的な行為をするのも特徴で、それによって発展してきたのだと前置きするなら、現代人は発見した「傾向」内に収まろうとするから、衰退していっている気がしてならない。

発見した「傾向」を活用してIQ違いの生活圏を分けようだとか、「傾向」に最適化して不快・不穏をもたらす環境を排除しようだとか、すればするほど「例外」は発生しづらくなり、人間は(個体の生き物としても、人間社会としても)停滞、弱体化するばかりではと。

IQが大きく異なる人同士が、一つの町や村の中で協同して暮らすなんて、歴史上いくらでもあっただろう。一緒に暮らせば、「天気の話」「共通の知人の噂話と悪口」だけでは済まない話題が持ち上がる。共通の問題を解決するために、共通の目的を達成するために、役割を分担して協力する必要が出てくる。

人間個々人の違いは、IQ以外にもさまざまな軸を立てて分けられる。性格も違えば体格も違う、何に興味をもつかも、何を面倒くさいと思うかも違う。IQ一辺倒で人を分けるという見方が貧しい。

ある人がどこかで何かに取り組んでいるとき、その人は物理的に別の場所で他のことはできない。体を壊しているとき、眠っているとき、食事しているときにも、その人は他のことができない。その仕事に長けた人ができることを、別の人が代わりまでできないかもしれないが、一定期間それを維持できたりする。

知能の一つとったって、ハワード・ガードナー氏に言わせれば、「言語的」「論理・数学的」「身体・運動的」「対人的」「博物的」「内省的」「空間的」「音楽的」の8つに分けられる知能が、ある程度の独立性をもって、それぞれ機能している。そのスキルの量や組み合わせは一人ひとり異なる。

ギリシャ時代には、こうした知能がほぼ等しく同等に尊重されていたと言うが、1905年にアルフレッド・ビネーらがIQテストを作って以来、知能のとらえ方に多元性が失われていったという話。それぞれを独立的に観られなくなり、一つの物差しで測ることしかできなくなるとすれば、それはものの見方がギリシャ時代より貧しくなっているということではないか。

もし人間がそうなっていくのだとしたら、それはある種の退化ではないか。それにはまた別の進化があるのかもしれないし、そこらへんはなんとも言えないけれど。

"Every individual is an exception to the rule."

私はユングのいう「すべての個人は例外である」を、生涯大事にしてやっていくつもりだ。

2026-01-07

「仕事のやり方を実際に見せる」教え方は、今なお3割が精一杯か

職場で何年か経験を積むと、自分なりに「この仕事を覚えた」という、いくらかの手ごたえを持つ。中堅ともなると「これが自分が発揮している仕事能力の中核かなぁ」というキーワードが、3つ4つ思い浮かぶようになる。業界の知識、職種の専門知識やスキル、業界も職種も問わない汎用的な仕事能力など。

そのキーワードを念頭において、では「その仕事能力をいっぱしに身につける」のに肝となった職場経験は何か?と過去を振り返ってみると、どんなことが思い浮かぶだろう。

というのは、全国1万人の労働者に訊いた「仕事を効果的に覚えるために、いまの職場で経験したことは?」という複数選択の回答結果を見て。

1位:「とにかく実践させてもらい、経験させられた」32.3%
2位:「仕事のやり方を実際に見せてもらった」31.5%
3位:「特にない」28.0%

仕事を効果的に覚えるために、いまの職場で経験したことは?(画像をクリックすると拡大表示する)

Showhowtodothejob

上位3つを見てみると、1位は「とにかく実践させてもらい、経験させられた」。これは、さもありなん。「特にない」が堂々3位なのも注目に値する。が、私が一番引っかかったのは、2位だ。

「仕事のやり方を実際に見せてもらった」が上位なのはいいのだが、それにしたって3割にとどまっているのは、どうなのだろうかと。こんな、ある種、素朴でオーソドックスな手法が3割にとどまっているのは、改めて考えてみると、なかなかおかしくないかと。そこに引っかかってしまった。

ちなみに、これに丸をつけなかった7割の人たちには、「そもそも仕事のやり方を見せてもらっていない」という人と、「仕事のやり方は見せてもらったけれど、自分が仕事を覚えるのに役立ったとは思っていない」という人が入り混じっているのだろうが。

閑話休題。もちろん、いよいよ頭の中でやっている仕事というのが複雑化してきて、「見せてあげてどうにかなるもんじゃないのよ」という教える側の理屈は承知しているつもりだ。

その上で、もしかするとここらで教え方をアップデートできるんじゃないか?と思ったのだ。「仕事のやり方を見せてもらった」「やり方を見せてもらったのが仕事を覚えるのに効果的だった」と答える人を、3割からもう少し増やせるんじゃないか。教える側、育てる側に、もう少し工夫の余地、伸びしろがあるんじゃないかと。

もっとずっと昔、頭脳労働とかホワイトカラー職種といった言葉が聞かれ出した頃だったか、「仕事のやり方を教えるのが難しくなったよね」「背中をみて学んでもらうわけにはいかなくなってさ」「大事なところほど頭の中で暗黙裡にやっていることが多くて」「目の前でやって見せて、本筋を教えるってわけにはいかなくなった」なんて仕事人の話を、よく聞いた。

それから何十年か経て、そんな言い回しを聞くこともなくなった。それは、もはや「そんなことは当たり前」と認識され、それを意識的に「問題として俎上に載せる」こともなくなったからではないのか。あるいは私が隠居生活に片足突っ込んで、知らないだけかもしれないが。

あれから何十年か経った分、教える環境、育てる環境もアップデートされて然るべきで。気づけば当時より格段に、仕事ができる人の頭の中(思考プロセス)は、オンラインツールに乗っかって言語化され、可視化され、みんなに共有される情報として社内に流通する環境になっている。昔メールのCcに入っていたら読める、入っていなければ読めなかったやりとりが今は、Slackだの、プロジェクトマネジメントツールだのにアーカイブされて社内の共有頭脳になっている。

使える素材は、今やふんだんにあるのではないか。それが置きっぱなしになっていて、せわしなく流れ流れ、そのまま不可視の場所へと眠り落ちている気もする。

あるいは、研修や業務マニュアルの整備、ナレッジマネジメントシステムの導入・活性化など大仰なHR施策に絡み取られて、あるいはノウハウの行き先が生成AI活用に一足飛びして、「そっちでやってることだから」というので、現場で「仕事のやり方を実際にやってみせる」が減退していないか。

しかし、それとこれとは別物だ。現場仕事の泥くささや面白みがきれいにウォッシングされ、汎用性の高さと引き換えに脱文脈化されたフレームワークなりチェックリストなりに収斂され、現場の個々人の能力の発展や、仕事のやりがいの活路は行き先を見失っていないか。極端に走らず、組織活動に人も技術も活かした良い按配というのを見定めながら、現場の人材育成が健やかに発展する一年になったらいいなと思う。教える側・育てる側の効果的なやり方には、ずいぶんと伸びしろがあるのではと。

年末年始には、年賀メールをしたためながら、いっぱしにさせてもらったなぁと先輩がたへ感謝の念が募る。こういう恩恵って直接対面していた当時は意識が及ばなくて、もうすっかりその職場を離れ、その人と年に一度も会うことが叶わなくなってから、一緒に過ごした日々の貴重さが実感される。もう二度と会うことも、連絡をとることすら願うのをやめた人に、静かに感謝することも少なくない。自分がこういうものの見方ができるのは、あの人のおかげだな。私のあの習慣が今も続いているのは、あの人のおかげだと。その届かぬ感謝が、これからますます大勢を占めていくことも心得ている。私も今年は50歳になる。母は享年59歳。自分が母親と同じ十の位になるとは、不思議だ。

2026-01-06

ここにあるものが尊い

元日に実家で家族全員集合した折、子どもの頃におうちで飼っていたものの話になった。私がインコを飼っていた話をすると、2つ上の兄が同意した。「あぁ、ぴーちゃんね」。義姉が「なんて古典的な...」とツッコミを入れる。げらげら笑う。私がインコ一家が五人家族だった話をすると、兄が「そうだったかも」と返す。

すると3つか4つか下の妹が「九官鳥も飼ってたよね?」と言う。「え、飼ってないよ」私が即答すると、兄も同意する。「九官鳥は飼ったことないよ」。間違いない、うちで九官鳥を飼ったことは一度もない。鳥はインコだけだ。

妹「え、何この記憶、どっからもってきた?飼ってなかったっけ?」、私「飼ってないよ。その記憶の中の九官鳥って、黒くて、黄色いくちばし?インコよりちょっと大きい体の?」、妹「そうだよ」。

私「いや近所の、っていうか坂くだって、なんとか川沿いを行った先の、なんとか町に行く曲がり角を右に折れた突き当たりに、九官鳥を飼っている家はあったよ。鳥籠が表に出てたから、通り過ぎる人がみんな声かけてて、よくしゃべってた。きゅうちゃん、きゅうちゃんって。でも、あそこだと記憶を混ぜ込むには遠すぎるよなぁ。って私も何十年かぶりに取り出した記憶だから全然間違ってるかもしれないけど…。他にも九官鳥飼ってる家が、もっと近くにあったかもしれないし」。

妹「どこでどう記憶がすり替わったんだろう…」、私「徐々に移り変わるっていうより一度すっかり忘れて、何年かぶりに思い出したとき家で飼ってたことにしちゃったって感じじゃないかしら」、妹「そうだねぇ、そうだよねぇ」。

と、この年末年始は、家族にしても、友人にしても、旧交を温めたい人とゆっくりお話ができて、とても豊かだった。思い起こせば一年前は年末ぎりぎりになってインフルエンザらしきものにかかり、急遽お正月の帰省を断念、ひとりで寝どおし寝込んで過ごしたのだった。

今回は、遠方から実家へ帰省した妹にも2年ぶりに会えたし、父と妹と一緒に母のお墓参りにも行けたし、成田山へ初詣にも行けた。父は階段を登りきれるか不安がっていたが、のっしのっしと今年もやり遂げた。やり終えると、それは一つ自信になったようだった。

元日には例年どおり兄一家がやってきて、母の遺影の前に全員集合できた。甥っ子らも背が伸び、すっかり追い越されて、それぞれに頑張って生きている。お年玉の袋を、その場で覗き込むことがなくなった。恒例のことを家族でできることが、ありがたい。家族で顔を合わせてたわいない話を交わす時間が、年を重ねるごと、かけがえのないものに感じられる。

2025-12-31

役に立つことに、意味がある

今年の夏に公開したスライドが、Speaker Deckの「2025年最も視聴されたスピーカーデッキ・プレゼンテーション」に選ばれていた。わたしは自分が作ったスライドをネットで共有したいとき、ここ数年はSpeaker Deckというスライド共有サービスを使っている。そこが年末に公開したブログに、自分のスライドが紹介されていて驚いた。

Speaker Deckは英語を母語としたサービスだけど、上の一覧で取り上げられた他のスライドを見てもfreeeとかメルカリとかLINEヤフーとか日本語のものばかりなので、国別とか分野別とか、実はいい感じに出し分けていて各国に大勢の「最も」さんがいるのかも?とか、そもそも日本語が母語のユーザーが圧倒的に多いサービスなのかも?とか、何個のうちの「最も視聴」なのかもよくわからないのだが。

隠居生活に片足つっこんだような個人事業主のスライドを、こんなところで年末に取り上げてもらえるとは、お情けでもご褒美でもありがたい気持ちだ。

これをきっかけにX(旧Twitter)で話題にしてくださる方もあって、夏には届かなかった人たちが今、「40代以上に共有したい中年期のキャリア論」を見にきてくれている。ここ2日くらいでビュー数が1万以上も増えて、全部で6万ビューを超えた。インターネットすごい。

盆暮れ正月、すこし長い目で自分のキャリアを考えてみるのに、ちょうどいいかもしれない。何かに役立ててもらえたら、それこそが最も嬉しいことだ。

振り返ってみると、今年はキャリアカウンセラー的な研鑽を積む機会が多めだった。背景事情を明かせば、今年がMBTI認定ユーザーの、来年が国家資格キャリアコンサルタントの5年おき資格更新時期で、それぞれに何十時間と講習を受講して課題を修めねば資格剥奪というタイミング。どちらも何度目かの更新なので、1年くらい前から受講スケジュールを組んで取りかからないと、後がつらいことを承知していた。

こういうのは研鑽の契機ととらえて前向きに臨むが吉である。資格更新講習の他にも、興味を覚えたあれこれを本読んだり勉強しているうち、5年前とはまた異なる自分の関心事に気づいたり、自己洞察を深める機会にもなった。上のスライドに込めた生涯発達心理学も、そのうちの一つ。ミドルシニア層のキャリア支援というテーマに関心を深めたのは、ここ数年のことだ。

興味に任せてあちこち行き来していると、頭の中であれとこれがつながって、ぐんぐん理解が進むような、どんどんとっ散らかっていっていくような。今年は脳内でよく迷い道したなぁと振り返る。

インプット活動って、自分の身の丈やキャパシティにあわせてインプット量も内容も調節しないと、全然ものにできない。

自分なりに咀嚼する、自分なりの理解や考えを整理する、自分の持ち場でどう役立てられるのかを考える。考えたことを人に伝えてみる。考えたことをやってみる、自分のうちに編み込む作業がないと、何ともならないのだった。そんな当たり前のことを改めて身に染みて再確認したのも今年の収穫か。身の丈、身の丈。

終わりに、今年読んでよかった本の筆頭格、東畑開人さんの新書「カウンセリングとは何か」から一節を。

これは「ラポールについて」というミニコラムの中の文章。「ラポール」というのは、カウンセラーと相談者の間で結ばれる信頼関係のことで、カウンセリングに携わる人なら最初に教わる基本的な概念だ。

二人の信頼関係を築くことなしにカウンセリングは深まりようがない。まずは信頼関係を築くこと、それを基盤にしてカウンセリングは次の段階に進められるのだというふうに教わる。

最近だとビジネス文脈でも、上司の部下への関わり方、1on1のノウハウなどで「まずはラポール形成が大事」なんて文句を見聞きした方もあるかもしれない。

じゃあ、入り口でどうやって信頼関係を築くのだ?というくだりで、私はこの文章に大いに賛同した。

通常それはカウンセラーが受容的で、共感的な態度をとることで成立すると書かれているのですが、僕は違うと思っています。「役に立つ」「このカウンセラーは使える」、この感覚があってはじめて、ラポールは生まれてきます。そのためには実際に役に立つアセスメントをし、介入をする必要がある。信頼というのは、人柄とか、人徳とかから生まれるわけではないのが大事です。的確なアセスメントと具体的な対応から生まれる。

役に立つこと。最初からきちんと「役に立つ」、使い終えたら潔く「過去の人になる」。公私を問わず、私はそういう潔さでやっていきたい。今年は今年、来年は来年の。そして今年ご縁があった方に、心からの感謝を胸にして年を越します。良いお年をお迎えください。

* 東畑開人「カウンセリングとは何か 変化するということ」(講談社現代新書)

2025-12-24

20年で激変、「心の病」の最も多い年齢層

企業の人事担当者に訊いた、あなたの社内で「心の病」の最も多い年齢層は何十代?という調査がある。日本生産性本部が報告しており、調査対象者は、新興市場を除く上場企業の人事担当者(有効回答数171社、回収率6.1%)と限定的なのだけれど、ここ20年の激しい経年変化を眺めると、これは...と注意が向く。先月に見たものだが、今年の気になり、今年のうちに。

社内で「心の病が最も多い年齢層」の経年変化(画像をクリックすると拡大表示する)

Agegroupwiththehighestincidenceofmentali

グラフの上に、角を丸くした四角い箱を3つおいて時期を分けてみた。ここ20年ほどの動きを俯瞰すると、下の3つに分けられそうなのである。

2002年〜2010年:30代が圧倒的な最多
2012年〜2019年:10〜40代が平準化する
2021年〜2025年:10〜20代が急進

今現在に注目すると、社内で心の病が最も多い年齢層は「10〜20代」が最多。前回の43.9%ほどではないが、37.6%と依然として高い。「10〜20代」と回答した企業の割合は、2014年調査と比較して、2倍の水準(18.4%→37.6%)だ。

10〜20代に不調者が多い理由として、レポートはこのように見解を述べている。

コロナ禍中に入社した若年層がテレワーク等で対人関係や仕事のスキルを十分に積み上げることができない中で、成長実感や達成感を持ちにくく、孤立感や孤独感を感じやすくなっている可能性

もともと高かった30代の不調者が多い理由としては、こんな記述。

仕事の責任は重くなるが管理職ではないという“責任と権限のアンバランス”

50代については、こんな記述。

50代との回答は10.0%と低水準だが、過去最高値となっているため注意が必要

自分が実際に、それぞれの年代でどういう接点をもって関わっているか、関わっていくか、地に足つけて考えたい。私はマスではなく、1対1か少数で人と関わって仕事をするので、何歳だからどうこうという見方を中心に置かないのを常としているけれども、わきまえておきたい情況ではある。

1対1で世代違いの若い人と話し込んでいると、やっぱり、自分が(相対的には)老輩なりの助言なり励ましを手渡して、それが彼・彼女の助けになっていることはあるっぽいなと思う。世代差がある人と、できるだけ関わりを断つこと、関与を差し控えることに努めるのではなくて、うまく関わっていくこと、関係を築いて手渡せるものを有意義にしていくことが肝要なのだろうなと思う。老害老害、言ってないでさ。

あと、われらミドルシニア層のキャリア支援活動は、自分ができることを研鑽して増やしていきたい。なんとなく、そんな年の瀬なのだった。

※上の画像のPDFファイルは、リンク先のSpeakerDeck(スライド共有サービス)にて。

※もとの調査レポートは、下のリンク先で。
第12回「メンタルヘルスの取り組み」に関する企業アンケート調査概要┃公益財団法人 日本生産性本部(2025年11月10日)

2025-12-21

人を支援する仕事の報酬に「あなたのおかげで」を期待するのは御法度

先日久しぶりに、山をくだっていってか谷をあがっていってか煌びやかな恵比寿の街へ出向いていって、同世代アラフィフの気の置けないおしゃべりに参加させてもらった。まぁとめどなくあれやこれやくっちゃべって帰ってきたのだが、ひとネタ後日まで考えいったことをここに記しておきたい。

仕事のやりがいでいうと、よく「自分がやった仕事が人の役に立って、ありがとうって言われると嬉しい」というのが挙がる。これは素朴にして絶大、ほんとうに多くの仕事に共通するやりがいだと思うし、そういうことを仕事のやりがいとして実感するところに人間の美しさも覚えるというものだ。

一方で、こと「人を支援する仕事」を生業にすると、これはまったく御法度となる。

30歳を過ぎた頃に出会った恩師に学んだのは、人を支援する仕事をする人間が「ありがとう」を期待して仕事しては、まともな仕事はできないということ。

「あなたのおかげで治った」とか「あなたに会えたから今の自分がある」なんて感謝を、内心でも相手に期待しだしたら基本姿勢が崩れる。

逆の立場にたったら、ぱっとわかるだろう。自分が弱っているときに、はなからそんなことを期待して自分に関わってくる人の世話になりたくない、信用ならん、と動物的に拒否反応が芽生えるだろう。何がまずいって、相談者に対する「カウンセラー側の依存心」が認められるからだ。

相談者本人が「自力で快復できた」「自力で問題を解決できた」と思い、場合によっては「カウンセラー、役に立ったかな?」と思えるくらいでちょうどいいことだって少なくない。その時「私がいたから!」とか、くどくど言い出したら、そりゃもはやコントである。言わないまでも、内心でそのことにもやもやが募り過ぎるのは自分の側のプロとしての至らなさなのだ。

これから、カウンセラーがいなくても自立的にやっていけそうだ。そう思う相談者を快く送り出せること。相談者に依存心をもつ自分を認めたら、それはそれで静かに発見して、認めて、自分自身でいさめられること。相手の船出を気持ちよく励まし送り出せること、その役割を全うできないといけない、自分を冷静にモニタリングしてマネジメントできないといけない。

これは人を支援する仕事に就く人が、陥りやすい落とし穴でもあるから、落とし穴、あるぞあるぞと肝に銘じて、自分も落ちる落ちるぞと声をかけながら、そこを突破する足腰を鍛えないことには始まらない。私は大丈夫とか思っているようでは、それこそ危ういし、いつもは大丈夫な足腰を鍛えても、常に自分が平常なわけではないから、そこへの目配せも必要だ。

人の仕事には、いろんなやりがいがある。自分の仕事の一切が「ありがとう」のフィードバックない仕事ではきつい気もするが、そういう仕事もあれば、そうではない仕事もあるバランスがとれれば、けっこううまくつきあっていけるのかもしれない。自分が今、どっちの仕事をやっているのか自覚的になれれば、自分の仕事に向き合うスタンスもコントロールしやすくなるかもしれない。

もともと現場のプレイヤーをしていたが、歳を経て経験を重ねて、チーム単位であれプロジェクト単位であれ現場のマネジメントをしていく段になり、部下や後輩を支援する仕事領域を預かるようになってきた人にも、この2つを分別して関わるような意識が、いくらか時々の振るまい方選び、ストレス軽減の助けになるかもしれない。すごく共有するのが難しいけれども、とりあえずメモ。

2025-12-20

20年前に50代だった人たちの今

正確に言うと19年前なのだけれど、ざっくり言うと20年前(2005年)から厚生労働省が毎年追っかけ調査している「中高年者の生活に関する継続調査」というのがある。その第20回レポート(2024年調査分)が、このほど公表された。そこから私がとりわけ注目した個人的トピックを取り出した(だけの)スライドを、下のリンク先にて共有。3枚だけなので、酒の肴、喫茶のお供にでもなれば幸いです。

20年前に50代だった人たちの今┃SpeakerDeck(スライド共有サービス)

2005年時点で50代(50〜59歳)だった全国の男女を対象に、毎年11月に郵送で調査票を送って、本人に回答を送り返してもらっているというもの。最新レポートは、昨年2024年11月の回答。調査対象者は、ざっくり70代(69~78歳)になっている。

「健康・就業・社会活動について、意識面・事実面の変化の過程」を訊いて、先輩の暮らしぶりに学ぼうというもので、我らアラフィフのための調査といっても過言ではない。第1回調査から第20回調査まで集計可能な14,980人の回答がまとめられている。

取り上げた3トピックのポイントをざっくり挙げると、


1枚目:中高年の「世帯構成の変化」
50代では「親なし子ありの世帯」が首位(39.7%)だったが、60代のうちに「夫婦のみの世帯」に首位が交代。70代では「夫婦のみの世帯」が半分近く(48.0%)に達している。

2枚目:中高年者の「就業状況の変化」
この19年間で「正規の職員・従業員」が激減(39.0%→2.1%)した一方、「仕事をしていない」が激増(17.9%→65.9%)の大転換

3枚目:中高年が「日頃から頼りにしている人」
1位「同居している親族」、2位「同居していない親族」、3位「友人」。10年前と今とを比較すると、「同居している親族」は減少傾向、「同居していない親族」が大幅アップ、「友人」は微減ながら大きな存在(女性で47.4%、男性で35.9%)。


感想を一言でいうと、友だちって大事だなぁ!です。

さらに詳しく見たい、他の調査結果も見たいという方は、下のリンクから原本レポートをPDFファイルで見られます。

第20回中高年者縦断調査(中高年者の生活に関する継続調査)┃厚生労働省(2025年12月17日)

2025-12-16

ちまたの野生な役割とフォーメーション考

昨日の昼下がり、東京は赤坂TBS近くのオフィスビル地下街でコーヒーを飲んでいると、隣りの二人席をおばさま2人が確保しに来た。うち一人が少し先へ向けて「そっち座る?」と声をかけた。雑然と混みいった店内だが、ちらと目線の先を見ると、別の二人組が離れたところで(ぎり)二人席を確保して着席したところ。

きっと4人で座りたいだろうと思い、私はテーブルの上の本やらノートやらを片づけて席を立ち、最初の声の主に「どうぞ」と声をかけた。「まぁ!いいの?」、「はい、そろそろ出ようと思っていたところなので」。

彼女は「ちょっとちょっと、こちらのお姉さんが席を譲ってくださるって!」と、向こうの二人組に声をかける。呼び寄せられる二人、見守るもう一人、もてはやされる私。できるだけ早く失礼しようとリュックに急いでものをしまい、コートは着ずに手にもって出ることにして、「どうぞどうぞ」と出口に向かおうとする。

すると去り際、最初の声の主がテーブルの上に置いた冊子のようなものを見せ、「ひるおび。私たちね、今これを見てきたの」と満面の笑顔で教えてくれた。さんぜんと輝くコミュ力、私の顔はほころぶ。

まぶしい光線。そう言えば、とびきりお洒落な装いにばっちりメイク。特別な一日なのだ。0.5秒で正気を取り戻し、その熱冷めやらぬうち、たくさん4人でおしゃべりしたいだろうと思い、「まぁ、そうですか。では、ごゆっくり」と席を促し、ささと失礼してきた。

「ひるおび」というのは、あれだろう。TBSでやっている平日お昼の帯番組というやつだろう。あれの観覧に行ってきた帰りということだろう。たまたま、その番組の冊子か何かを手に持っていたということももちろんあるだろうけれども、なんというかな、あそこで私に、うふふっと笑顔して「ひるおび。私たちね、今これを見てきたの」と一言はさめる愛らしさたるや。

私にはない、そういうの。深々頭を下げて、お礼を言って、きっと終わってしまうだろう。

でも4人集まると、ああいう人は自然ひとり入っているのが常ではないか?と思い立つ。そうして思い返してみると、中学、高校、短大時代、自分がよく行動をともにしていた4人〜8人のグループには、ああいう場面でああいうことを自然と言う子が、それぞれ確かに思い当たる。

また、それを踏まえて思い直すに。もし、ああいう場面に今の自分が4人グループ側の一員として遭遇した場合、誰もその役を果たさなかったら、私は「ひるおび」役を自分が買って出ているかもしれないなぁ、そうも思った。あれは役割なのだな、4人くらい集まったときに自然と組まれるフォーメーションのようなものなのだなぁと、なんかすごく学んだ気分になった。気分になっただけだが。

2025-12-08

人間は心の脆弱性に対して無防備で

話題の東畑開人さんの新書「カウンセリングとは何か」の中に、カウンセリングが求められる現代の像、社会の変化について言及するところがあった。

近代以前、お互いが名前を知っているような小さな村落で暮らしていた頃は、宗教の役割が大きかったし、治療においては霊的な治療、社会的支援といった「問題を外在化する」治療(というか介入)アプローチが機能しやすかった。

これが近代以降、科学が発展してくると、現代医学の身体的治療、カウンセリングといった「問題を内在化する」治療アプローチが、機能しやすくなってくる。

社会や他者、霊や神の差配といった「外側」に原因の所在や治療・介入策を求めるのではなく、当の本人、個人の皮膚の「内側」の身体や心に治療すべき箇所を見出す。

表に整理すると、下のような感じ。個人主義の現代社会では、カウンセリングを含む「問題を内在化する治療」が、打ち手として機能しやすい。

医療人類学者アラン・ヤングが対比した2つの治療アプローチ(画像をクリックすると拡大表示する)

Externalandinternaltherapy

個人主義がうたわれ、「自分の生活スタイルや人生行路を自分で選んで決めていく」個人の生き方が尊ばれて久しい。となれば、それと引き換えに「自分の答えの出し方、それに納得して生きていく孤独と自立」が個人課題として立ち上がってくるのは当然のなりゆき。

そのわりに、人間は心の脆弱性に対して極めて無防備なまま。最近いろいろ学び直していても、そのことに思いふけることが多い。

この本の最終章に、ふたたび第1章に書かれていた上の話題に帰ってきて、一冊の本を結んでいたのも印象的だった。

神がいなくなり、王も貴族もいなくなる。僕らは自由な個人になった。その分、世界はひどく不確実になり、流動的になった。だからこそ、人は身分でも、宗教でもなく、自分の物語によって自分を証明することになり、人生行路を決めていくことになる。これが個人です。こうして生まれた個人たちの集合体として社会を作っていく。

「これが個人です」という言葉が、「個人主義」の現代社会を背景にして、ずしんと脳内に響いた。

著者は最後の最後、こう締めくくっている。

カウンセリングとは、近代の根源的なさみしさの中で、人が可能な限り、正直に、率直に、ほんとうの話をすることを試み続ける場所である。

私は「カウンセリングとは」を外しても、こういう場所が社会のそこここに、広くも大きくもなくていいから一人ひとり個々人の身近にあることが大事だろう、と読んだ。著者も、想いをともにしているように読めた。

私たち昭和生まれの現役世代の中には、全員とは言わずとも、親世代、祖父母世代、あるいは自分より少し上の先輩たちから、こういう場所を与えてもらった人が少なくないと思う。可能な限り、正直に、率直に、ほんとうの話をすることを試み続けられる場所。

そうした人との関わり方を上世代が与えてくれた営みを大事に受け継いで、次の世代に引き継いでいかなきゃいけないのではないかって、最近よく思う。「若者に対して老害は働きたくないから」といって、あらゆる継承を無責任に自分世代で断ち切ってしまうことなく、自分が先代から与えてもらった(自分が)良い・素敵・楽しい・面白い・美しいと思うものを、ここで改めて振り返って、バトンを渡してみること。

先代より、もっと前から脈々と伝承してきた人の営みとか、場とか、人づきあいといったものを次の世代にも伝えていくことって、難しいからこそメディアにはできないことで、目の前で直接関わる人間にしか、腰をすえて長く関わっていく人間にしかバトンを手渡せないものじゃないかなと。それは、ある世代とある世代にはさまった世代の役目として中年が果たしてきた大事な務めではないかと。老害回避が全盛の世の中を前にして、あまのじゃくに思ってしまうのだった。

まずは伝えてみて、見せてみて、共有してみて。それから、それをどう取捨選択するか、どう応用したり断ち切るかは、若い世代が決めたり試行錯誤することであって、引き継ぎ元の自分たちが決めることではないのではないかなぁと。そんなことを思いながら、いくらか厚苦しく、自分なりに細々若い世代と関わっている。

* 東畑開人「カウンセリングとは何か 変化するということ」(講談社現代新書)

「生成AIに代替される仕事」という話題が苦手な理由

「生成AIに代替される仕事」という話題が苦手な理由について考えてみた。

職業という一般名詞単位で未来展望する粗さ

上図のようなのが10年前も今も、メディア記事やSNSで話題になる。見かけると、ねぇ、みんな、これ「営業」とか「人事」とかで仕分けしているけれど、これって職業名にせよ部署名にせよ、相当に大雑把な括りだし、相当に長い期間かけて意味解釈を漬けこんだ既成概念の固まりだし、こんな雑な枠組みで鷲づかみした「一般名詞」で未来像を展望しようだなんて取れ高ゼロじゃない?!と、見ず知らずの人に問いかけたくなる病を患って久しい。ここで列挙している「仕事」って、相当に一般化を遂げた、ほとんど何も特定できていないレベルの概念ワードだと思うのだが。

確かな収穫を得たいなら実直に帰納的アプローチで、まずは既成概念の固まりたる「職業」ラベルを解体して、営業でも人事でも、”自分とこ”の個別具体の現場で、これは生成AIに代替できる、これは部分的に代替できる、これは代替できない、これは代替できるけれど代わりにこういう仕事や役割が人間の仕事として必要になる、というふうに仕分けしていかないと始まらない。なのに、大雑把な括りの表層のところで5年10年とうろうろしていても不毛では、と思ってしまう。

広く世の中に共通の「職業」が再構成されて言葉が普及する道のりを考えると、まずは個別具体が各職場、各職業で既存の職業ラベルが解体されて、生成AI導入環境で段階的に再編成されて、試行錯誤の結果に、まぁこういう括りだよねという一般共通見解が社会全体にわたって束となって見えてきたときに、新しい職業分類が自ずと見えてくる、そういうものではないか。

1)今使われている既成概念の固まりたる「営業」だとか「人事」だとかの一般名詞を解体して、
2)「職業」を構成する要素(タスクや作業単位、果たす役割、発揮される能力など)に分解し、
3)分解されたものの、どれが生成AIに代替されるのか?完全にか、部分的にか整理をつけて、
4)そうしたとき見えてくる「人間が続ける仕事」、その変化から生まれる「人間の新たな仕事」は何か抽出し、
5)職場でも職業でもいいが個別具体の、“自分とこ”で「一人の仕事の預かり方」というのが、いろいろと実現されていった事例が千、万を超えた時に初めて
6)全国的にかグローバルにかで束ねた「職業」としての再編成、一般名詞化を試みられるというものであって、

などと、こういうのにぶち当たっては云々考えこんでしまう。えぇ、わかっているのです、そんな話はしていないんだと。わかっているので、はぁまたやってしまったと落ち込むのを、かれこれ何十回も繰り返しているのです。ようやく、ここから抜け出して先に行けそうなので、この駄文を残していくのです。何ヶ月ぐるぐるしていたのだか...。これも脱皮の一環か。

* 話題の一例(Xのポスト)

«「脱皮」というのは「自分が大きくなること」ではなくて