2026-02-05

流行と、新常識と、自分のやり方と

ものを書くのが難しくなった。いろいろ理由は挙げられそうだけれども一番は、一つ書き出すとあれもこれもといろんなことにつながってしまって収拾がつかなくなるから。どこで終えるか、どういう文章として収めるのか、拠り所がなく心許ない気持ちになる。だから自分の手元に中途半端なメモがうずたかく積み上がっていくばかり。ちっちゃなことでも書き出すと、すぐこのありさま。一例に。

ネットのさざなみで「お礼を言わないのが流行っている」という文字の連なりを目にして、しばらく固まってしまった。自分の友だちが急に「世の中の流行にのって、自分にお礼を言わなくなった」らドン引きしないか?

「お礼を言わない」のが流行ったら「自分もお礼言わなくなる」のか。それって事象としてありうるか?一人二人じゃなく、流行として認められる一定数に起こりうる現象だろうか。

服の流行りとは種類が違う。「人に謝らない」「人と目を合わせない」「人に挨拶しない」のが流行ったら、それに自分のふるまいを変えられるのか。逆に「見知らぬ人にも、がんがんもの言う、批判も非難もいける」とか真逆の攻めにも、それが流行になったら転じられるのか。受け身として「見知らぬ人に、がんがんもの言われてもOK」になれるのか。なんだ、その柔軟性の高さ、これが21世紀の新人類か。

それで、また流行が変わったら、新しい流行に従って変われるのか、流行に合わせて変えたくなるのか、変えなきゃって思うのか?流行らなくなったものは「ダサい」「時流に合わない」といってやめられるのか、やめたくなるのか?ダボっとした服着るか、ピチッとした服着るかと同じ感覚で、自分のふるまいも着脱自在だというのか。いや、ダボっとした服を着慣れた人がピチッとした服着るのだって相当な困難を伴うか。

と、まぁ、悪態と極論で自分の脳内がおかしくなったところで、「私がダメだ」と溜飲を下げて一息つく。

さて、そのSNSの投稿をいくらか掘り起こしてみると、ビジネス文脈でいう「お礼だけのメールは、いちいち返信しないのが新常識」みたいな話っぽい、ちがうかもしれないが。さっきのよりかは、ずいぶんと理解と許容ができる。

いっときの「流行」じゃなくて、古いやり方から入れ替える「新常識」。そう言葉を置き換えるだけで、人の許容度はこれほどまでに変わるものかと思う。

こんな言葉の差し替えと認識のこんがらがりが、SNSでは個人から多数へと伝播されるたび行われている。無意識のもの、恣意的な操作が混じり合っている。それだけで途方に暮れて、またしばらく固まってしまう。

ビジネスコミュニケーションの常識が変わっていくのは、私も目の当たりにしてきたから分かるぞ。郵便から電子メール、メールからSlackなんかに変わっていって、今じゃメールを日常的にチェックしない人もいるそうじゃないか。私も見落とされた経験がある。

私は相変わらず日常的にメールチェックしている(そしてSlackを日常使いしていない)旧態人間だが、郵便ポストを毎日必ずチェックする習慣は途絶えたクチなので、高橋源一郎さんの「これは、アレだな」みたいな感じで理解はできるのだ。

自分のほうがアップデートしていない人間と思えば、読み落とされても許容できる。まぁその人も大事な人からのメールは読み落とさなかったりするのだろうが、そこでいじけても仕方がない。

それはそれとして、これは「自分として」新常識をどこまで取り入れて、どこは取り入れずに自分のこれまでのやり方に踏みとどまるか、あるいは新しいものをマージして自分のやり方にアップデートかけるか、そういう話に発展する。

これは激しい変化の時代を背景に敷くと、けっこう大事な見極めであり、頻発する意思決定の案件であり、個々に委ねられるところ大きい日常の創造的営みだと思う。「流行に乗るか反るか」とは一線を画す話だろう。

変化の激しい環境下では、自己の行動や考え方を柔軟に適応・順応させ、自律的にキャリアや状況を構築していくアダプタビリティ(適応能力)が必要だと言われ、プロティアン・キャリア(変幻自在なキャリア)が提唱されて久しい。

ただ、自分のアイデンティティを持たずんば、アダプタビリティは上手く働いてくれない。「自分はこう」という足場たる自己意識がないと、どこを時代変化に適応させて変えていって、どこは自分のやり方として残し続けるのか、自分としてあり続けるのか、判断がつかない。足元が不安定だと、どんどんしんどくなっていく。

「お礼を言わないのが新常識だか今どきの流行だか知らんが、自分はこの件について、この人にすごく感謝の気持ちをもって、気持ちを届けないではいられないから送る」という、そういうものがあったら送ったらいいし、そんなふうに思って自分の日々の行動を選択して生きられたら、それこそが人間本来の健全な生き方だろうと思う。

逆に、形式的なお礼の送信なら、新常識に差し替えて無くしたところで痛くも痒くもない、合理的な判断ということになろう。形骸化された運用マニュアルにのっとって、AさんにもBさんにも名前のところだけ差し替えて同じ文面で送りつけているだけのお礼メールなら、ただちにやめて、他の仕事に意識と時間をあてる、ネットのトラフィック量を減らしたほうが合理的だ。それはそれで、そうですねと思う。

人に何かしてもらって、ありがたいなぁ、嬉しいなぁという気持ちが、せわしなさや慌ただしさの中で、芽生える機会を損失しているなら、今こそ取り戻せる時機かもしれない、そうとも思う。

コスパ、タイパを追求した先に得たいものがなんなのか、よくわからない発言を聞くことも多い昨今。私個人的には、お礼の気持ちをもつのって、それを届けられるのって、とても幸せなことじゃないかなぁと思う。

ありがたいことって言葉通り、実は「有るのが難しい」ことだし、感謝を相手に届けられるのも実は当たり前のことじゃない。生きていてこそ、会える人であってこそ、届けても迷惑じゃないだろうって思える人だからこそ、届けられるのだ。人生の限られた時間にしか、その人にそれを届けるってできないことだから、実はけっこう貴重なのだ。

なんて、そういうことを、ここに書いた何倍もうにょうにょ寄り道して考えてしまうから、どんどんとっ散らかっていって、いっこうに文章が着地しなくなる。こういうのを、そのまま描き散らかしていくのも、それはそれでありかもしれないが。noteじゃない、ココログだしな、とも。

2026-01-28

ミドルシニア層のための 自己診断「アイデンティティの状態」

思うところあって「中年期のアイデンティティ再探索」をテーマに最近いろいろ読んだり考えたりしている流れで、今の自分の「アイデンティティの状態」をセルフチェックできるプチスライドをこしらえてみた。

Selfcheck_identitystatus

12のリストを読んで、一番自分に当てはまるものを一つ選ぶ。下のリンク先からアクセスしてもらうと、4タイプ分けした診断結果とプチ解説が読める。

ミドルシニア層のための 自己診断「アイデンティティの状態」┃SpeakerDeck

たくさんの人に診断をやってもらいたいというわけではなく、自己診断の12項目のうち、自分に近しいものを考えてみると、けっこう中年期って「モラトリアムの再来」感があるなぁって思ったことを、同世代とシェアしたくなったというのが本音。あと最後につけた「モラトリアムは一生に一度じゃない」というアイデンティティのラセン式発達モデルを共有したかった。なので、とても簡易なスライドだけど、そこはご愛嬌。

なんというかな、ここに出てくる「将来のことは」っていうのが、若い頃だったら「20代とか30代とか」をイメージしていたのが、アラフィフになってみると「60代とか70代とか」をイメージして、そのまま「今の自分のアイデンティティ状態」を問う設問として成立する感じ。既視感と切実感、懐かしさと新鮮さが同居する文が並んでいて興味深い。

ちなみに「モラトリアム」にネガティブな印象をもつのは日本特有らしく、ポジティブか中立なワードという話。人生二度目のモラトリアムは、少し余裕をもってそれ自体楽しむのもありかも。こういうのは、気にしないときは本当にどうでもいい話題だと思うけれども、ふと興味をもつ時期が各々に巡ってきたりする。というわけで、ネットの片隅においておきます。

2026-01-12

傾向には例外がある。例外を働くのが人間

今朝がたSNSで「IQが20違えば話が通じない」という話が話題になっていた。この辺が発生源なのかな。ざっくり取り出すと、


  • 思考のレベルが釣り合う者同士でないと、長期的な関係は築けない
  • 無理に背伸びして自分より遥かに思考レベルが高い人と付き合おうとしても、どこか居心地が悪くなってしまう
  • 逆に、思考を磨き成長し続けてる人が「現状維持の人(毎日頭が衰退してる人)」に合わせ続ける関係というのも続かない
  • 「IQが20違えば会話はできない」という言説があるが、本当にその通りかも
  • 思考の深さが極端に違う人とはせいぜい「天気の話」「共通の知人の噂話と悪口」くらいしかできないのが現実

という弁。「IQテストの得点が違う」「思考のレベルが違う」「思考を磨き成長し続ける vs 現状維持(毎日頭が衰退している)」「思考の深さが違う」が、どれくらい同一のものとして語れるかというのもあるけれども、そこはXのポストであるからして。

これに対してか、けんすう(@kensuu)さんがうまいこと言っているのも見かけた。

「IQが20違えば話が通じない」という話があるんですが、頭のいい人ほど「ああ、そうだね、賢い人と話すと全くついていけていなくて的外れなことを言っているのをすごく自覚する」みたいなことを言い、頭の悪い人ほど「そうだよな、バカってマジで話が通じないよな」みたいなことを言いがち・・・

と、こういうSNS画面にふれながら私の頭にふと思い浮かんだのが「傾向には例外がある」だった。こっちが本題なので、上の件は、下のことを考えたきっかけとして置いたにすぎない。

いろんな研究成果を共有し、新たに発見された「傾向」を活かすというのは、そこここでやられている人間の営みだ。最近ではSNSを通じて、その学術分野の専門知識をもたない人も参加するかたちで、その発見された「傾向」を共有し、意見する風習がある。

共有されている研究成果というのはたいてい、一定の条件を整えた実験室(比喩的な意味で)で得られた結果であろうけれども、その辺は無視して「人間とはこういう傾向にある」「なんとか属性の人は、こういう傾向をもつ」というのは伝播しやすい。人間のあれこれというのは、自分が人間であるだけに関心になりやすい。

だけれど、傾向には例外がある。人間は例外的な行為をするのも特徴で、それによって発展してきたのだと前置きするなら、現代人は発見した「傾向」内に収まろうとするから、衰退していっている気がしてならない。

発見した「傾向」を活用してIQ違いの生活圏を分けようだとか、「傾向」に最適化して不快・不穏をもたらす環境を排除しようだとか、すればするほど「例外」は発生しづらくなり、人間は(個体の生き物としても、人間社会としても)停滞、弱体化するばかりではと。

IQが大きく異なる人同士が、一つの町や村の中で協同して暮らすなんて、歴史上いくらでもあっただろう。一緒に暮らせば、「天気の話」「共通の知人の噂話と悪口」だけでは済まない話題が持ち上がる。共通の問題を解決するために、共通の目的を達成するために、役割を分担して協力する必要が出てくる。

人間個々人の違いは、IQ以外にもさまざまな軸を立てて分けられる。性格も違えば体格も違う、何に興味をもつかも、何を面倒くさいと思うかも違う。IQ一辺倒で人を分けるという見方が貧しい。

ある人がどこかで何かに取り組んでいるとき、その人は物理的に別の場所で他のことはできない。体を壊しているとき、眠っているとき、食事しているときにも、その人は他のことができない。その仕事に長けた人ができることを、別の人が代わりまでできないかもしれないが、一定期間それを維持できたりする。

知能の一つとったって、ハワード・ガードナー氏に言わせれば、「言語的」「論理・数学的」「身体・運動的」「対人的」「博物的」「内省的」「空間的」「音楽的」の8つに分けられる知能が、ある程度の独立性をもって、それぞれ機能している。そのスキルの量や組み合わせは一人ひとり異なる。

ギリシャ時代には、こうした知能がほぼ等しく同等に尊重されていたと言うが、1905年にアルフレッド・ビネーらがIQテストを作って以来、知能のとらえ方に多元性が失われていったという話。それぞれを独立的に観られなくなり、一つの物差しで測ることしかできなくなるとすれば、それはものの見方がギリシャ時代より貧しくなっているということではないか。

もし人間がそうなっていくのだとしたら、それはある種の退化ではないか。それにはまた別の進化があるのかもしれないし、そこらへんはなんとも言えないけれど。

"Every individual is an exception to the rule."

私はユングのいう「すべての個人は例外である」を、生涯大事にしてやっていくつもりだ。

2026-01-07

「仕事のやり方を実際に見せる」教え方は、今なお3割が精一杯か

職場で何年か経験を積むと、自分なりに「この仕事を覚えた」という、いくらかの手ごたえを持つ。中堅ともなると「これが自分が発揮している仕事能力の中核かなぁ」というキーワードが、3つ4つ思い浮かぶようになる。業界の知識、職種の専門知識やスキル、業界も職種も問わない汎用的な仕事能力など。

そのキーワードを念頭において、では「その仕事能力をいっぱしに身につける」のに肝となった職場経験は何か?と過去を振り返ってみると、どんなことが思い浮かぶだろう。

というのは、全国1万人の労働者に訊いた「仕事を効果的に覚えるために、いまの職場で経験したことは?」という複数選択の回答結果を見て。

1位:「とにかく実践させてもらい、経験させられた」32.3%
2位:「仕事のやり方を実際に見せてもらった」31.5%
3位:「特にない」28.0%

仕事を効果的に覚えるために、いまの職場で経験したことは?(画像をクリックすると拡大表示する)

Showhowtodothejob

上位3つを見てみると、1位は「とにかく実践させてもらい、経験させられた」。これは、さもありなん。「特にない」が堂々3位なのも注目に値する。が、私が一番引っかかったのは、2位だ。

「仕事のやり方を実際に見せてもらった」が上位なのはいいのだが、それにしたって3割にとどまっているのは、どうなのだろうかと。こんな、ある種、素朴でオーソドックスな手法が3割にとどまっているのは、改めて考えてみると、なかなかおかしくないかと。そこに引っかかってしまった。

ちなみに、これに丸をつけなかった7割の人たちには、「そもそも仕事のやり方を見せてもらっていない」という人と、「仕事のやり方は見せてもらったけれど、自分が仕事を覚えるのに役立ったとは思っていない」という人が入り混じっているのだろうが。

閑話休題。もちろん、いよいよ頭の中でやっている仕事というのが複雑化してきて、「見せてあげてどうにかなるもんじゃないのよ」という教える側の理屈は承知しているつもりだ。

その上で、もしかするとここらで教え方をアップデートできるんじゃないか?と思ったのだ。「仕事のやり方を見せてもらった」「やり方を見せてもらったのが仕事を覚えるのに効果的だった」と答える人を、3割からもう少し増やせるんじゃないか。教える側、育てる側に、もう少し工夫の余地、伸びしろがあるんじゃないかと。

もっとずっと昔、頭脳労働とかホワイトカラー職種といった言葉が聞かれ出した頃だったか、「仕事のやり方を教えるのが難しくなったよね」「背中をみて学んでもらうわけにはいかなくなってさ」「大事なところほど頭の中で暗黙裡にやっていることが多くて」「目の前でやって見せて、本筋を教えるってわけにはいかなくなった」なんて仕事人の話を、よく聞いた。

それから何十年か経て、そんな言い回しを聞くこともなくなった。それは、もはや「そんなことは当たり前」と認識され、それを意識的に「問題として俎上に載せる」こともなくなったからではないのか。あるいは私が隠居生活に片足突っ込んで、知らないだけかもしれないが。

あれから何十年か経った分、教える環境、育てる環境もアップデートされて然るべきで。気づけば当時より格段に、仕事ができる人の頭の中(思考プロセス)は、オンラインツールに乗っかって言語化され、可視化され、みんなに共有される情報として社内に流通する環境になっている。昔メールのCcに入っていたら読める、入っていなければ読めなかったやりとりが今は、Slackだの、プロジェクトマネジメントツールだのにアーカイブされて社内の共有頭脳になっている。

使える素材は、今やふんだんにあるのではないか。それが置きっぱなしになっていて、せわしなく流れ流れ、そのまま不可視の場所へと眠り落ちている気もする。

あるいは、研修や業務マニュアルの整備、ナレッジマネジメントシステムの導入・活性化など大仰なHR施策に絡み取られて、あるいはノウハウの行き先が生成AI活用に一足飛びして、「そっちでやってることだから」というので、現場で「仕事のやり方を実際にやってみせる」が減退していないか。

しかし、それとこれとは別物だ。現場仕事の泥くささや面白みがきれいにウォッシングされ、汎用性の高さと引き換えに脱文脈化されたフレームワークなりチェックリストなりに収斂され、現場の個々人の能力の発展や、仕事のやりがいの活路は行き先を見失っていないか。極端に走らず、組織活動に人も技術も活かした良い按配というのを見定めながら、現場の人材育成が健やかに発展する一年になったらいいなと思う。教える側・育てる側の効果的なやり方には、ずいぶんと伸びしろがあるのではと。

年末年始には、年賀メールをしたためながら、いっぱしにさせてもらったなぁと先輩がたへ感謝の念が募る。こういう恩恵って直接対面していた当時は意識が及ばなくて、もうすっかりその職場を離れ、その人と年に一度も会うことが叶わなくなってから、一緒に過ごした日々の貴重さが実感される。もう二度と会うことも、連絡をとることすら願うのをやめた人に、静かに感謝することも少なくない。自分がこういうものの見方ができるのは、あの人のおかげだな。私のあの習慣が今も続いているのは、あの人のおかげだと。その届かぬ感謝が、これからますます大勢を占めていくことも心得ている。私も今年は50歳になる。母は享年59歳。自分が母親と同じ十の位になるとは、不思議だ。

2026-01-06

ここにあるものが尊い

元日に実家で家族全員集合した折、子どもの頃におうちで飼っていたものの話になった。私がインコを飼っていた話をすると、2つ上の兄が同意した。「あぁ、ぴーちゃんね」。義姉が「なんて古典的な...」とツッコミを入れる。げらげら笑う。私がインコ一家が五人家族だった話をすると、兄が「そうだったかも」と返す。

すると3つか4つか下の妹が「九官鳥も飼ってたよね?」と言う。「え、飼ってないよ」私が即答すると、兄も同意する。「九官鳥は飼ったことないよ」。間違いない、うちで九官鳥を飼ったことは一度もない。鳥はインコだけだ。

妹「え、何この記憶、どっからもってきた?飼ってなかったっけ?」、私「飼ってないよ。その記憶の中の九官鳥って、黒くて、黄色いくちばし?インコよりちょっと大きい体の?」、妹「そうだよ」。

私「いや近所の、っていうか坂くだって、なんとか川沿いを行った先の、なんとか町に行く曲がり角を右に折れた突き当たりに、九官鳥を飼っている家はあったよ。鳥籠が表に出てたから、通り過ぎる人がみんな声かけてて、よくしゃべってた。きゅうちゃん、きゅうちゃんって。でも、あそこだと記憶を混ぜ込むには遠すぎるよなぁ。って私も何十年かぶりに取り出した記憶だから全然間違ってるかもしれないけど…。他にも九官鳥飼ってる家が、もっと近くにあったかもしれないし」。

妹「どこでどう記憶がすり替わったんだろう…」、私「徐々に移り変わるっていうより一度すっかり忘れて、何年かぶりに思い出したとき家で飼ってたことにしちゃったって感じじゃないかしら」、妹「そうだねぇ、そうだよねぇ」。

と、この年末年始は、家族にしても、友人にしても、旧交を温めたい人とゆっくりお話ができて、とても豊かだった。思い起こせば一年前は年末ぎりぎりになってインフルエンザらしきものにかかり、急遽お正月の帰省を断念、ひとりで寝どおし寝込んで過ごしたのだった。

今回は、遠方から実家へ帰省した妹にも2年ぶりに会えたし、父と妹と一緒に母のお墓参りにも行けたし、成田山へ初詣にも行けた。父は階段を登りきれるか不安がっていたが、のっしのっしと今年もやり遂げた。やり終えると、それは一つ自信になったようだった。

元日には例年どおり兄一家がやってきて、母の遺影の前に全員集合できた。甥っ子らも背が伸び、すっかり追い越されて、それぞれに頑張って生きている。お年玉の袋を、その場で覗き込むことがなくなった。恒例のことを家族でできることが、ありがたい。家族で顔を合わせてたわいない話を交わす時間が、年を重ねるごと、かけがえのないものに感じられる。

2025-12-31

役に立つことに、意味がある

今年の夏に公開したスライドが、Speaker Deckの「2025年最も視聴されたスピーカーデッキ・プレゼンテーション」に選ばれていた。わたしは自分が作ったスライドをネットで共有したいとき、ここ数年はSpeaker Deckというスライド共有サービスを使っている。そこが年末に公開したブログに、自分のスライドが紹介されていて驚いた。

Speaker Deckは英語を母語としたサービスだけど、上の一覧で取り上げられた他のスライドを見てもfreeeとかメルカリとかLINEヤフーとか日本語のものばかりなので、国別とか分野別とか、実はいい感じに出し分けていて各国に大勢の「最も」さんがいるのかも?とか、そもそも日本語が母語のユーザーが圧倒的に多いサービスなのかも?とか、何個のうちの「最も視聴」なのかもよくわからないのだが。

隠居生活に片足つっこんだような個人事業主のスライドを、こんなところで年末に取り上げてもらえるとは、お情けでもご褒美でもありがたい気持ちだ。

これをきっかけにX(旧Twitter)で話題にしてくださる方もあって、夏には届かなかった人たちが今、「40代以上に共有したい中年期のキャリア論」を見にきてくれている。ここ2日くらいでビュー数が1万以上も増えて、全部で6万ビューを超えた。インターネットすごい。

盆暮れ正月、すこし長い目で自分のキャリアを考えてみるのに、ちょうどいいかもしれない。何かに役立ててもらえたら、それこそが最も嬉しいことだ。

振り返ってみると、今年はキャリアカウンセラー的な研鑽を積む機会が多めだった。背景事情を明かせば、今年がMBTI認定ユーザーの、来年が国家資格キャリアコンサルタントの5年おき資格更新時期で、それぞれに何十時間と講習を受講して課題を修めねば資格剥奪というタイミング。どちらも何度目かの更新なので、1年くらい前から受講スケジュールを組んで取りかからないと、後がつらいことを承知していた。

こういうのは研鑽の契機ととらえて前向きに臨むが吉である。資格更新講習の他にも、興味を覚えたあれこれを本読んだり勉強しているうち、5年前とはまた異なる自分の関心事に気づいたり、自己洞察を深める機会にもなった。上のスライドに込めた生涯発達心理学も、そのうちの一つ。ミドルシニア層のキャリア支援というテーマに関心を深めたのは、ここ数年のことだ。

興味に任せてあちこち行き来していると、頭の中であれとこれがつながって、ぐんぐん理解が進むような、どんどんとっ散らかっていっていくような。今年は脳内でよく迷い道したなぁと振り返る。

インプット活動って、自分の身の丈やキャパシティにあわせてインプット量も内容も調節しないと、全然ものにできない。

自分なりに咀嚼する、自分なりの理解や考えを整理する、自分の持ち場でどう役立てられるのかを考える。考えたことを人に伝えてみる。考えたことをやってみる、自分のうちに編み込む作業がないと、何ともならないのだった。そんな当たり前のことを改めて身に染みて再確認したのも今年の収穫か。身の丈、身の丈。

終わりに、今年読んでよかった本の筆頭格、東畑開人さんの新書「カウンセリングとは何か」から一節を。

これは「ラポールについて」というミニコラムの中の文章。「ラポール」というのは、カウンセラーと相談者の間で結ばれる信頼関係のことで、カウンセリングに携わる人なら最初に教わる基本的な概念だ。

二人の信頼関係を築くことなしにカウンセリングは深まりようがない。まずは信頼関係を築くこと、それを基盤にしてカウンセリングは次の段階に進められるのだというふうに教わる。

最近だとビジネス文脈でも、上司の部下への関わり方、1on1のノウハウなどで「まずはラポール形成が大事」なんて文句を見聞きした方もあるかもしれない。

じゃあ、入り口でどうやって信頼関係を築くのだ?というくだりで、私はこの文章に大いに賛同した。

通常それはカウンセラーが受容的で、共感的な態度をとることで成立すると書かれているのですが、僕は違うと思っています。「役に立つ」「このカウンセラーは使える」、この感覚があってはじめて、ラポールは生まれてきます。そのためには実際に役に立つアセスメントをし、介入をする必要がある。信頼というのは、人柄とか、人徳とかから生まれるわけではないのが大事です。的確なアセスメントと具体的な対応から生まれる。

役に立つこと。最初からきちんと「役に立つ」、使い終えたら潔く「過去の人になる」。公私を問わず、私はそういう潔さでやっていきたい。今年は今年、来年は来年の。そして今年ご縁があった方に、心からの感謝を胸にして年を越します。良いお年をお迎えください。

* 東畑開人「カウンセリングとは何か 変化するということ」(講談社現代新書)

2025-12-24

20年で激変、「心の病」の最も多い年齢層

企業の人事担当者に訊いた、あなたの社内で「心の病」の最も多い年齢層は何十代?という調査がある。日本生産性本部が報告しており、調査対象者は、新興市場を除く上場企業の人事担当者(有効回答数171社、回収率6.1%)と限定的なのだけれど、ここ20年の激しい経年変化を眺めると、これは...と注意が向く。先月に見たものだが、今年の気になり、今年のうちに。

社内で「心の病が最も多い年齢層」の経年変化(画像をクリックすると拡大表示する)

Agegroupwiththehighestincidenceofmentali

グラフの上に、角を丸くした四角い箱を3つおいて時期を分けてみた。ここ20年ほどの動きを俯瞰すると、下の3つに分けられそうなのである。

2002年〜2010年:30代が圧倒的な最多
2012年〜2019年:10〜40代が平準化する
2021年〜2025年:10〜20代が急進

今現在に注目すると、社内で心の病が最も多い年齢層は「10〜20代」が最多。前回の43.9%ほどではないが、37.6%と依然として高い。「10〜20代」と回答した企業の割合は、2014年調査と比較して、2倍の水準(18.4%→37.6%)だ。

10〜20代に不調者が多い理由として、レポートはこのように見解を述べている。

コロナ禍中に入社した若年層がテレワーク等で対人関係や仕事のスキルを十分に積み上げることができない中で、成長実感や達成感を持ちにくく、孤立感や孤独感を感じやすくなっている可能性

もともと高かった30代の不調者が多い理由としては、こんな記述。

仕事の責任は重くなるが管理職ではないという“責任と権限のアンバランス”

50代については、こんな記述。

50代との回答は10.0%と低水準だが、過去最高値となっているため注意が必要

自分が実際に、それぞれの年代でどういう接点をもって関わっているか、関わっていくか、地に足つけて考えたい。私はマスではなく、1対1か少数で人と関わって仕事をするので、何歳だからどうこうという見方を中心に置かないのを常としているけれども、わきまえておきたい情況ではある。

1対1で世代違いの若い人と話し込んでいると、やっぱり、自分が(相対的には)老輩なりの助言なり励ましを手渡して、それが彼・彼女の助けになっていることはあるっぽいなと思う。世代差がある人と、できるだけ関わりを断つこと、関与を差し控えることに努めるのではなくて、うまく関わっていくこと、関係を築いて手渡せるものを有意義にしていくことが肝要なのだろうなと思う。老害老害、言ってないでさ。

あと、われらミドルシニア層のキャリア支援活動は、自分ができることを研鑽して増やしていきたい。なんとなく、そんな年の瀬なのだった。

※上の画像のPDFファイルは、リンク先のSpeakerDeck(スライド共有サービス)にて。

※もとの調査レポートは、下のリンク先で。
第12回「メンタルヘルスの取り組み」に関する企業アンケート調査概要┃公益財団法人 日本生産性本部(2025年11月10日)

2025-12-21

人を支援する仕事の報酬に「あなたのおかげで」を期待するのは御法度

先日久しぶりに、山をくだっていってか谷をあがっていってか煌びやかな恵比寿の街へ出向いていって、同世代アラフィフの気の置けないおしゃべりに参加させてもらった。まぁとめどなくあれやこれやくっちゃべって帰ってきたのだが、ひとネタ後日まで考えいったことをここに記しておきたい。

仕事のやりがいでいうと、よく「自分がやった仕事が人の役に立って、ありがとうって言われると嬉しい」というのが挙がる。これは素朴にして絶大、ほんとうに多くの仕事に共通するやりがいだと思うし、そういうことを仕事のやりがいとして実感するところに人間の美しさも覚えるというものだ。

一方で、こと「人を支援する仕事」を生業にすると、これはまったく御法度となる。

30歳を過ぎた頃に出会った恩師に学んだのは、人を支援する仕事をする人間が「ありがとう」を期待して仕事しては、まともな仕事はできないということ。

「あなたのおかげで治った」とか「あなたに会えたから今の自分がある」なんて感謝を、内心でも相手に期待しだしたら基本姿勢が崩れる。

逆の立場にたったら、ぱっとわかるだろう。自分が弱っているときに、はなからそんなことを期待して自分に関わってくる人の世話になりたくない、信用ならん、と動物的に拒否反応が芽生えるだろう。何がまずいって、相談者に対する「カウンセラー側の依存心」が認められるからだ。

相談者本人が「自力で快復できた」「自力で問題を解決できた」と思い、場合によっては「カウンセラー、役に立ったかな?」と思えるくらいでちょうどいいことだって少なくない。その時「私がいたから!」とか、くどくど言い出したら、そりゃもはやコントである。言わないまでも、内心でそのことにもやもやが募り過ぎるのは自分の側のプロとしての至らなさなのだ。

これから、カウンセラーがいなくても自立的にやっていけそうだ。そう思う相談者を快く送り出せること。相談者に依存心をもつ自分を認めたら、それはそれで静かに発見して、認めて、自分自身でいさめられること。相手の船出を気持ちよく励まし送り出せること、その役割を全うできないといけない、自分を冷静にモニタリングしてマネジメントできないといけない。

これは人を支援する仕事に就く人が、陥りやすい落とし穴でもあるから、落とし穴、あるぞあるぞと肝に銘じて、自分も落ちる落ちるぞと声をかけながら、そこを突破する足腰を鍛えないことには始まらない。私は大丈夫とか思っているようでは、それこそ危ういし、いつもは大丈夫な足腰を鍛えても、常に自分が平常なわけではないから、そこへの目配せも必要だ。

人の仕事には、いろんなやりがいがある。自分の仕事の一切が「ありがとう」のフィードバックない仕事ではきつい気もするが、そういう仕事もあれば、そうではない仕事もあるバランスがとれれば、けっこううまくつきあっていけるのかもしれない。自分が今、どっちの仕事をやっているのか自覚的になれれば、自分の仕事に向き合うスタンスもコントロールしやすくなるかもしれない。

もともと現場のプレイヤーをしていたが、歳を経て経験を重ねて、チーム単位であれプロジェクト単位であれ現場のマネジメントをしていく段になり、部下や後輩を支援する仕事領域を預かるようになってきた人にも、この2つを分別して関わるような意識が、いくらか時々の振るまい方選び、ストレス軽減の助けになるかもしれない。すごく共有するのが難しいけれども、とりあえずメモ。

2025-12-20

20年前に50代だった人たちの今

正確に言うと19年前なのだけれど、ざっくり言うと20年前(2005年)から厚生労働省が毎年追っかけ調査している「中高年者の生活に関する継続調査」というのがある。その第20回レポート(2024年調査分)が、このほど公表された。そこから私がとりわけ注目した個人的トピックを取り出した(だけの)スライドを、下のリンク先にて共有。3枚だけなので、酒の肴、喫茶のお供にでもなれば幸いです。

20年前に50代だった人たちの今┃SpeakerDeck(スライド共有サービス)

2005年時点で50代(50〜59歳)だった全国の男女を対象に、毎年11月に郵送で調査票を送って、本人に回答を送り返してもらっているというもの。最新レポートは、昨年2024年11月の回答。調査対象者は、ざっくり70代(69~78歳)になっている。

「健康・就業・社会活動について、意識面・事実面の変化の過程」を訊いて、先輩の暮らしぶりに学ぼうというもので、我らアラフィフのための調査といっても過言ではない。第1回調査から第20回調査まで集計可能な14,980人の回答がまとめられている。

取り上げた3トピックのポイントをざっくり挙げると、


1枚目:中高年の「世帯構成の変化」
50代では「親なし子ありの世帯」が首位(39.7%)だったが、60代のうちに「夫婦のみの世帯」に首位が交代。70代では「夫婦のみの世帯」が半分近く(48.0%)に達している。

2枚目:中高年者の「就業状況の変化」
この19年間で「正規の職員・従業員」が激減(39.0%→2.1%)した一方、「仕事をしていない」が激増(17.9%→65.9%)の大転換

3枚目:中高年が「日頃から頼りにしている人」
1位「同居している親族」、2位「同居していない親族」、3位「友人」。10年前と今とを比較すると、「同居している親族」は減少傾向、「同居していない親族」が大幅アップ、「友人」は微減ながら大きな存在(女性で47.4%、男性で35.9%)。


感想を一言でいうと、友だちって大事だなぁ!です。

さらに詳しく見たい、他の調査結果も見たいという方は、下のリンクから原本レポートをPDFファイルで見られます。

第20回中高年者縦断調査(中高年者の生活に関する継続調査)┃厚生労働省(2025年12月17日)

2025-12-16

ちまたの野生な役割とフォーメーション考

昨日の昼下がり、東京は赤坂TBS近くのオフィスビル地下街でコーヒーを飲んでいると、隣りの二人席をおばさま2人が確保しに来た。うち一人が少し先へ向けて「そっち座る?」と声をかけた。雑然と混みいった店内だが、ちらと目線の先を見ると、別の二人組が離れたところで(ぎり)二人席を確保して着席したところ。

きっと4人で座りたいだろうと思い、私はテーブルの上の本やらノートやらを片づけて席を立ち、最初の声の主に「どうぞ」と声をかけた。「まぁ!いいの?」、「はい、そろそろ出ようと思っていたところなので」。

彼女は「ちょっとちょっと、こちらのお姉さんが席を譲ってくださるって!」と、向こうの二人組に声をかける。呼び寄せられる二人、見守るもう一人、もてはやされる私。できるだけ早く失礼しようとリュックに急いでものをしまい、コートは着ずに手にもって出ることにして、「どうぞどうぞ」と出口に向かおうとする。

すると去り際、最初の声の主がテーブルの上に置いた冊子のようなものを見せ、「ひるおび。私たちね、今これを見てきたの」と満面の笑顔で教えてくれた。さんぜんと輝くコミュ力、私の顔はほころぶ。

まぶしい光線。そう言えば、とびきりお洒落な装いにばっちりメイク。特別な一日なのだ。0.5秒で正気を取り戻し、その熱冷めやらぬうち、たくさん4人でおしゃべりしたいだろうと思い、「まぁ、そうですか。では、ごゆっくり」と席を促し、ささと失礼してきた。

「ひるおび」というのは、あれだろう。TBSでやっている平日お昼の帯番組というやつだろう。あれの観覧に行ってきた帰りということだろう。たまたま、その番組の冊子か何かを手に持っていたということももちろんあるだろうけれども、なんというかな、あそこで私に、うふふっと笑顔して「ひるおび。私たちね、今これを見てきたの」と一言はさめる愛らしさたるや。

私にはない、そういうの。深々頭を下げて、お礼を言って、きっと終わってしまうだろう。

でも4人集まると、ああいう人は自然ひとり入っているのが常ではないか?と思い立つ。そうして思い返してみると、中学、高校、短大時代、自分がよく行動をともにしていた4人〜8人のグループには、ああいう場面でああいうことを自然と言う子が、それぞれ確かに思い当たる。

また、それを踏まえて思い直すに。もし、ああいう場面に今の自分が4人グループ側の一員として遭遇した場合、誰もその役を果たさなかったら、私は「ひるおび」役を自分が買って出ているかもしれないなぁ、そうも思った。あれは役割なのだな、4人くらい集まったときに自然と組まれるフォーメーションのようなものなのだなぁと、なんかすごく学んだ気分になった。気分になっただけだが。

«人間は心の脆弱性に対して無防備で