2026-09-11

つくり始めの人は、トゥーマッチになりがち

岡村靖幸・俵万智「短歌ご一緒しませんか」を読んだ話は先月もこのブログに書いたが、他にもいろんな観点で読めどころが満載で大満足だった。

そもそもこの本を手にしたのは、歌人の俵万智さんが短歌を「初心者にどう教えるのか、どう関わるのか、どう野暮から粋への手ほどきをするのか」を一冊を通して観察してみたかったから。なのだけれど、その収穫は多方面に及んだ。

その一つが「初心者はトゥーマッチになりがち」という俵万智さんの指摘に始まる金言の数々。その指南は胸に響くものばかりだった。

俵)短歌というコップの中に入るちょうどいい濃さというのがあるんです。濃すぎても美味しくないし薄くてもダメ

これって短歌以外にも言えるなぁと。ブログの文章でもそうだし、仕事のプロジェクト計画でもそう。「スコープと焦点を定めると洗練される」というのは共通するところ。

人に伝えたいことがあって、その相手に届けるために作るものであるなら、載せる媒体、入れる器に適した情報量や濃度に、中身をうまく合わせて作らないといけない、届かない。

なんだけど、このブログしかり、「うまく枠にはまっていない、容れ物に対してトゥーマッチ」と、それは承知しているもののうまく削れないのが初心者。せっかく思いついた言葉を削るのは惜しい、削りたくない、削ろうと思っても削り方が思いつかない、だからやっぱり削らない。結果トゥーマッチのまま、作者は初心者にとどまり成長実感もない。

俵万智さんの言葉は、そこで「やーめた」と匙を投げないでいいよう、初心者に救いの手を差し伸べる。トゥーマッチを「野暮」と突き返して終わらせるのではなく、その先に前進する道筋を大小様々に示す。

俵)三十一文字だからといって節約しながらあれもこれもぎゅうぎゅうに詰め込もうとすると、かえって伝わらなくなっちゃう。だから、バラして二首か三首にしたらけっこう良くなることがあるんです。

1首で詠みきろうとせず、2首3首に分けて作ってみたらいいよと。そうしたら3首作れるし、作品のくどさも回避できて一挙両得でしょうと。そんなふうに初心者の気持ちを盛りたてて、この先の創作活動を励ますように具体的に指南している、さすがだなぁと思った。岡村ちゃんとのやりとりの中で、それを自然と成しているのだ。作り手ならではの、すごく実践的で、初心者の気持ちを汲んだ関わり方だなぁと感服した。

小分けにして、削ったほうは別所で活かす。そういうスタンスに立てば、心置きなく手元の一つに集中して、今ここで最適なスコープや焦点を見直せるというものだ。こういう考え方って、短歌じゃないところでも大いに使いどころがある。「潔さの獲得」とでも言おうか。

仕事でプロジェクト計画を立てるときにも、適した情報量や濃度ってある。自分が今この状況でプロジェクト化してやるべきサイズ感。期間、予算、巻き込む人の数、達成水準や範囲など。見えない枠組みというのがある。そこをあんまり逸脱したプロジェクト計画を立ててしまうと実現性を欠いてしまう。自分もマネジメントできないし、人もついてこない。そうなんだけれど、机上で計画を立てている段階では初心者ほど、もりもりトゥーマッチな計画を立てがちだ。

私はプロジェクトの音頭を取るとき、大きな目的は見据えつつも3ヶ月程度に小分けして、フェーズ分けすることが多い。自分の身の丈サイズで短期プロジェクトを積みあげていったほうが、結果的に1年後の目的実効性が高い。自分も人も動きやすいし、途中で発生した調整ごとも、すぐ認識合わせして回収できてスケジュールを圧迫しない。そうして小プロジェクトを成功裡に終わらせ、その収穫を足場に3ヶ月後の現在地を見渡して次フェーズを計画したほうが能率がいい。

「トゥーマッチ」を逃れる方法は、この一冊を通してふんだんに指南されるが、「主語を大きくしない」という話をした後の、俵さんの一言も含蓄があった。

俵)「世界」とか「人類」とかが詠えないわけではないんだけれども、それを詠うためには、焦点を絞ったほうがいいってことですね。

大きなテーマを言いたいときでも、それを届けるためには焦点を絞ったほうがいい。これも短歌に限らない。

大きな言葉をそのまま出しても、ただの一般論で終わってしまう。受け取る方は「そうですね」としか返しようがないし、後にも残らない。せっかくの作品も没個性化してしまう。いかに大きなテーマが自分の内側にあっても、そこに創意工夫を加えて自分ごとに引きよせて焦点化した表現にこだわる。そこに創作の醍醐味がある。

具体的な何を自分は観察対象に取り上げて、それのどこに着目して、何を思い出したり考えたのか。それをどう表現しようか。そこに趣向をこらして詠んだ歌が、読み手に響いて、相手の手元で想像が広がっていく。この一冊を通して、いろんな投稿者さんの短歌を読ませてもらうことで、そういうことを体験させてもらった。こうして読者が自分の手元で想像を広げていける短歌的な一冊、重層的な読書体験だった。

ほんで結局、トゥーマッチなブログになっちゃうんだから、もう本当に。たくさん削って、これなのだ。ずっとこの調子、道のりは長いのだ。

* 岡村靖幸・俵万智「短歌ご一緒しませんか」(筑摩書房)

2026-09-09

最短距離を狙う直感が、まわり道を誘う

今日の打ち合わせでおしゃべりのネタにしてみたら、わりとクイズとして行ける感触を得たのでプチ共有。

8歳の子どもたちを集めて、玉投げの練習をしてもらった。8歳児には目隠しをしてもらい、その状態で的に向かって玉投げする練習をしてもらう。そのうち半分(Aグループ)は90センチ離れたところから玉を投げる練習。残り半分(Bグループ)は60センチと120センチ、2通りの離れた距離から玉を投げる練習をした。目隠しをしているので、研究者が本人に「どれくらい届かなかったか/行き過ぎたか」を口頭で伝えた。

12週間後、A・Bグループすべての児童に、90センチ離れたところから玉入れのテストを行った。さて結果はどうなったか?

(画像をクリックすると拡大表示する)

Ballthrowingpracticeresult

どちらかのグループが圧倒的にうまくいったか、AかBか。それともグループによる差は生じなかったか。

12週間後のテストが「90センチ」というのがポイントだ。Aグループは、ずばり90センチで練習している。Bグループは、ずばり90センチでは一度も練習していない。けれど条件の異なる距離で2通りの練習をしている。

正解はBだ。圧倒的にBグループの児童が、うまくできた。これは、なかなか示唆に富んだ調査報告だなぁと思った。「多様練習」の研究成果だ。

私たちは何かを学ぼうというとき、できるだけ短い時間に早く労なく習得したいと思う。そうしたとき、ひとつのことを完璧になるまで一気に何度も練習する「集中練習」が最も効率的だと考えがち。だからAグループの「90センチ」だけで練習を繰り返して玉が入る確率を早く100%に近づけようと頑張っちゃう。

でも実は、いろんな条件下で練習する「多様練習」のほうが、習熟度を高めるには能率がいいことが実証されているという。玉投げのような運動技能の習得にかぎらず、知的技能や認知的スキルでも、同様の研究があって実証されているのだとか。*

試験を受けた後さっぱり忘れても構わない一夜漬けの勉強なら話は別だけれど、せっかく勉強したのに1日で忘れちゃ困る学習であれば(大人の仕事分野では、そればかりだ)集中練習より多様練習のほうが、後まできちんと記憶に残って身につく。学習したことが必要になったときに、新しい状況でも学んだことを柔軟に記憶から呼び出して発揮されやすい。

今どきの仕事は単純作業で済まないし、専門性を発揮したいなら応用力がマストだ。それを「早く専門性を身につけたい」から「それと関連しないことはやりたくありません」とガチガチ集中練習にこだわってしまうと、どんどん多様練習の機会が遠のき、応用力を鍛える機会を損ない、スキルもキャリアも痩せ細ってしまう懸念がわく。

話を飛躍させすぎていると思うかもしれないが、どうにもこの辺のこととリンクしてしまう。こういう時代こそ、おおらかに遊びのある研鑽の積み方を心がけたい。そのほうが柔軟性が高まって「つぶしがきく」キャリア形成ができるだろうと思う。

*ピーター・ブラウン、ヘンリー・ローディガー、マーク・マクダニエル「使える脳の鍛え方 成功する学習の科学」(NHK出版)

2026-08-28

「プロジェクトマネジメント基礎」プチ勉強会の編集後記

久しぶりに「プロジェクトマネジメント基礎」をテーマに、客先でプチ勉強会を開いた。会社勤めしていたときに営業社員向けに一度やったことがあったが、そのときのスライド*を見てみたら2020年秋、丸6年も経っていた。

私が教えられるのは基礎の基礎だけなので、6年経ったら使い物にならないという類いのものではないのだけど、今回下ごしらえしたポイントから3つほどシェアしてみたい。

1)PMBOKを第8版で敷き直した

6年前は第6版だったPMBOK(プロジェクトマネジメントの知識体系)が今年に入って第8版に改まっていたので、レクチャー部のベースを敷き直した。第7版が出た時は、ずいぶんと抽象的でわかりづらくなったものだなぁと思ったのだけど、そこが改まって大枠を1枚で示すのに良かった。(クリックすると拡大表示する)

Pmbok8th

2)今回の参加者が手がける実案件でPJ計画書サンプルを作った

今回の参加者が現場で手がけていて、私も概要把握している実案件をもとに「私なら、このプロジェクトをこう見立てて、こういう計画としてマネジメントする」というのを自分でプロジェクト計画書に一通り書いてみて、WBSの素となるタスク書き出しメモまでを示した。

もちろんそれが唯一の正解でも、手本や見本でもない。一例として。概論講義の間あいだに、そのサンプルを挟みながら解説した。

そうすると、なぜこういうプロセスを踏む必要があるのか、それをするとどう美味しくて、それをしないとどういう目に遭いかねないのかが理解しやすい&記憶定着しやすい&実務に即取り入れやすいかなと。

「正解を一人で書き切ることが優秀なのではなく、何がわからないかを明らかにして、みんなに聞き回って不明瞭を潰していく立ち回りをできることが大事」という話が、きちんと通じた肌感を得た。

3)相手のPM力をざっと問診する導入部を入れた

今回の若手社員の方たちとは、面識はあれど具体的な経験値やパフォーマンスレベルをほぼ把握していない状態だったので、一番最初に「どんなふうにタスクやスケジュールを管理している?」というやりとりをして、ルーチン業務以外の仕事スタイルを把握した。

Howtaskmanagement

ちょっと引いている気もしたので、一個一個に回答は述べさせなかったけれど、こういう6項目を見せた上でオープンに答えてもらうと、「自分はこうしている」という具体的な話をしてもらいやすい。

こういうネチネチした仕事管理を、やっている人は無言でやっているし、案件によってネチネチ度を使い分けている。やっていない人は全然やっていないし、そこに違いがあることに気づいてもいない。こうしたものは一旦本人にとって当たり前のやり方となると、職場によっては全然話題にあがらず、ノウハウとして引き継がれなかったりもする。その辺をこれからネチネチ言葉にして話していく、というようなことを言って勉強会をスタートした。

自分が話す時間の割合が長すぎたと反省しながらとぼとぼ帰ったが、プロジェクトマネジメント力はいよいよ誰もが基礎は備えておくといいんじゃないか、健康的に生きやすいんじゃないかと思う世の中に感じられた。味わい深い経験をさせてもらった。

*2020年秋の 誰もが持っておきたいプロジェクトマネジメント基礎知識(SpearkerDeck)

2026-08-22

岡村ちゃんと俵万智に学ぶ、現場の人材育成

岡村ちゃんこと音楽家の岡村靖幸が、歌人の俵万智に短歌を教わるやりとりが実に小気味いい。下のスライドは、岡村ちゃんが自作した一首を、俵先生に提出したところの一節(クリックすると拡大表示する)。

Talkingtankapoetry

上のやりとりを、数字を添えたところのポイントに沿って辿ってみる。

まず、岡村ちゃんの作品、

アミタイツすっかり見なくなったけど 都会のどこかでくしゃくしゃしてる

これに対して俵先生は、
1.本人の成長の足場を取り出して指摘&褒める
2.改良案を実際に作ってみせる

「けど」を「秋」に差し替えただけで、ぐっと洗練された感覚を覚えた岡村ちゃんは、
3.テンションが上がる!改良の糸口をつかむ。伸びたい欲求・伸ばせる期待感も高まる

しかし、ふと冷静になる岡村ちゃん、
4.自分が能力として獲得し、一人で作るときに発揮できるかというと見通しが立たない

そこの学び手の中の道筋ぼんやり感を、しっかりキャッチした俵先生は、
5.乗り越え方・テクニックを具体的に示す

これによって改良するための指針を具体的につかんだ岡村ちゃん、
6.何が野暮で、何が粋か、粋に転換するにはどうしたらいいのか理解を深める

それを受けとめた俵先生は、
7.粋に転換するアプローチの一つを着実に伝授する

なんという手さばき!

「けど」を「秋」にすることで洗練さを増し、「秋」にしたからといって季節の移り変わりに限定されることなく、読者によっては時代の移り変わりをも感じとる意味あいを残している、決して排除されることにはならない短歌の懐も染みわたる。

暴論を言えば、「若手が育たない、どう教えたら伸びるんだ?」と悩んでいるビジネスパーソンは、へたになんとかモデルだのZ世代の特徴だのを読みこんで型だけ取りこむより、俵万智に学んで「秋」を示してあげる手さばきを発揮したほうが話が早いのでは、と思ってしまう。「教える」って、こういうことだと思うんだなぁ。岡村ちゃんは若手じゃないけども。

厚生労働省の調べ(*1)で、「人材育成に関する問題がある事業所」の割合は8割超え(80.1%)。問題点の内訳をみると「指導する人材が不足している」が最も高くて6割近い(59.5%)が、この「指導する人材」って何なのかがぼんやりしていて具体策を見出すまでに至らない。

ただ労働者(学ぶ側)が「仕事を効果的に覚えるために、いまの会社で仕事をするなかで経験したことは?」という設問に、「仕事のやり方を実際に見せてもらった」と回答した人が3割程度(31.5%)に留まっている。という労働政策研究・研修機構の調査(*2)を合わせ読むと、「指導する人材」というのを、もう少し解体して見直すことで、打ち手はあれこれ見えてくるんじゃないかと思うのだ。

「指導する人材を採用しないことには」とか「指導できる人材が育ってくれないことには」とか大きく振りかぶって問題を棚上げせず、俵万智が岡村ちゃんの一首をみて「秋」と改良案を示して1分か2分かやりとりしたようなのが、現場の日常に一つでも二つでも増えていくことが、今の時代とても救いになる気がする。

それぞれの現場、現場で、「秋」を提示できる先輩はたくさんいるのではないかと思うのだ。万能でなくていい、人格者でなくていい。これでは無理でも、こっちでは改良案を示せるとか。改良案は示せないけど、考え方のアプローチなら助言できるとか。そういう若手と先輩のラフな日常の人間関係が現場にあること。

「仕事のやり方を実際に見せる」というのは、オーソドックスな教え方だと思うが、ここ10年だか20年だかは「頭脳労働だから、背中を見せても仕方ない」だの「若い人には若い人のやり方がある。古いやり方を教えてもかわいそうだし、合理性もない」だの、教えることを放棄する謙虚で尤もな理由が時代を席巻したが、だからといって一切合切を手放せばいいという話でもない。人間も組織活動も社会も、そんなに単純な作りではないわけで、オーソドックスのどこを残し、どこを変え、どこを排除するか、柔軟に考え直したいものと、あちこちにつまずいては思う。

* 岡村靖幸・俵万智「短歌ご一緒しませんか」(筑摩書房)
*1: 厚生労働省「令和7年度 能力開発基本調査」(2026年7月31日)P24
*2: 独立行政法人労働政策研究・研修機構「人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査(労働者調査)」(2025年11月)P29

2026-08-18

杖の手軽さは、比較すると見えてきた

今回、父が杖を採用するまでにお手製した「歩行補助手段の比較表」。

歩行補助手段の比較表

足腰が心許なくなって、「杖を使うのは嫌だ」から一気に「電気付き自転車に乗る」に一足飛びした父(実際の脳内イメージは、たぶん電動カート的なもの)に、「ちょっと待ったー!」と駆け寄って、あーだこーだのやりとりを経て、4点杖にとりあえず着地した。

父はゆっくりペースながら毎日歩くことを欠かさずやってきたのだけれど、最近ちょっとこれまで通りというのがしんどい状況になった。

しかし基本、毎日外に出かけたい人だし、ここで家に引きこもるようなことはしたくない意志が強い。これを何より大事に守りたい。

それに80年も自立歩行してきた人が、ここで歩くのをやめて一気に筋力を喪失していく恐怖には計り知れないものがある。

父とやりとりしながら、比較表の右側いきなり「電動カート」みたいなのに移行するより、いくらか歩けるんなら左側の「杖」のほうが筋力を維持していけるし、実際出かけた先で置き場所に困ったり盗まれたりしないかといちいち心配しなくていいから、勝手がいいでしょう?と前のめりに説明。

杖の手軽さ、筋力維持にベターという推しポイントを全面に打ち出し、プレゼンに勝利した。

もちろん杖で事足りなかったら、もっと補助してくれるもののほうがいいわけだけれど、そこは引き続き検証中。

とにかく選択肢を情報提供することで、視野を広げる。買うだけでなくレンタルもあるし、杖ならいつもお世話になっている◯◯センターで一本百円ですぐ貸してくれるから試して損はないだとか。

それから、いくらか恩着せがましくとも「ねぇ昨日夜鍋べして比較表作ってきたからさ、ちょっと見て見て」と膝をついて説明し、一人で抱えず一緒に考えていこうという熱を、行動と目力とでしっかり届けること。

兄のサポートや妹の声援、いろいろ奏功して、父はここ数日で杖を試用するスタンスに変わったわけだが、いろんな情緒と思考と体の訴えとが本人の中で交錯する中で、どうにか踏ん張って柔軟に方針を変え、変化に適応していくさまを、私も学ばせてもらっている。

ここ十数年は、父に「自暴自棄になっちゃダメだよ」って励ますタイミングが何年かに一度やってきているのだけど、将来の自分自身にも言っている気がする近年。

2026-08-14

村上春樹「街とその不確かな壁」の読書録

8月2日
ポール・オースター編の短編集を読んでいたら、むくむく長編小説が読みたくなって、久々の村上春樹作品。「夏帆」の前に、文庫化された「街とその不確かな壁」だ。「小さな鳥が二羽並んで上空を素速く横切り、鋭い声で啼く」ことに言葉を与え、意味を与える独特の世界に入り込むまで20ページかそこら、あとはすーっと入っていける。あ、この門の中、壁の内側に以前入ったことあるな、と思う。まだよくわからないものに早々と名前を与えて右から左に処理し続ける世界と距離をおく至福の読書体験。

8月5日
やめられないとまらない。村上春樹の作品は、自分が歳を重ねるほど読み応えが増していくのもおもしろい体験。重層的で解釈に広がりがあって、自分の経験したいろんなことを記憶の底から呼び起こして命題化してくれる。今の世の中を映し出すようでもあり、辻褄を合わせるために矛盾した世界認識を手放すか、世界の矛盾を受け容れて上っ面の辻褄合わせを棄てるか、瀬戸際だなぁと思う。

8月13日
村上春樹「街とその不確かな壁」を読了後もしがむ。実際は不確かな壁なのに、さも確かな壁があるように誤謬させるのが、言葉の恐ろしい力。深呼吸して足下みて素朴に立ち返ってみれば、朝と昼を隔てる壁はなく、ぬるっと昼に入っている。睡眠と覚醒の間はパキッとは分かれていない。海と陸の間に線は引かれておらず、波打ち際で境目は動き続けている。離陸した飛行機がどこで空に入ったのかは曖昧で、厚い雲の日と快晴の日では感覚する空の始まりも高度を違えるだろう。そうした曖昧さがないかのように、混ざらず変わらず固定しているかのように、言葉は使い方をまちがうと見方を単純化させてしまう。自分の知っている言葉だけでラベル貼りして、パキッと分けられないものを言葉先行でパキッと分けて、解釈も価値判断も済ませてしまう。そういう世の中の風潮を背景に敷くと、いよいよ言葉を解体して素朴な目で洞察し、言葉を使って既成概念や固定観念を溶かしていく文学的営みの尊さが身に染みわたる。引き続きしがみつつ、満を持すぎた「羊をめぐる冒険」へ。

※日付のリンク先はInstagram

2026-08-04

「デザイン業」倒産急増の報にふれて

今朝、「デザイン業」倒産が14年ぶり高水準という東京商工リサーチ調べの報にふれた。

ここ半年で40件あったという倒産の要因3つをざっくりまとめると、

1)顧客がデザインを内製化して、受注不振
2)広告市場のデジタルシフトで、紙媒体メインだった企業が受注不振
3)ハウスメーカー(木造建築工事)の倒産急増で、インテリアデザインの企業が連鎖倒産

ここ数年、同じ理由で買収の話も見聞きした。企業買収が行われると、人事制度の見直し、人材開発や組織開発方面も動きが必要になる。

この局面をデザイナー個人のキャリア観点で考えると、王道にして大事なスタンスは「〜デザイナー」や「CDO」といった肩書き、「デザイン会社所属」という見られ方や呼ばれ方にこだわらないことだろうなと、いよいよ思う。

デザインを心底生業としたい人は、自分がデザインをしているかどうかは自分の内心でわかるはず。人からの呼ばれ方がどう変わろうと、マーケットでの職種名・役職名をどうポジションチェンジしようと、自分がデザイン活動を通じて事業に貢献できているかどうかに照準を合わせられれば、デザインそのものの社会的ニーズは増えることはあっても減ることはないと思うので、仕事そのものの価値が損なわれることはないだろう。

ただ、こうした矜持の持ちようというのは意外と自己制御が難しくて、ちょっと持ちどころが違うと、ひどく心を揺さぶられる。一度ここらで真剣に内省して、意識的に自分の手のひらをグーパーグーパーして力みを抜いておくと良いかもしれない。

あと、自分がデザインの何にこだわるのか、場合によっては職業生活からはずれた創作活動も想定されるのかも、ここらで思考実験して確認・掌握しておくと、浮き沈む労働市場変化に柔軟に適応しやすいかもしれない。

キャリアデザインには変幻自在性が求められると言われて久しいが、私はデザイナーこそ、それをやってのける必要にも迫られれば、それをやってのけるだけの柔軟性の高さをもつ気がするのだ。

自分がこだわるデザイン対象があるのか(デジタルプロダクト、紙媒体、顧客コミュニケーション...)、曖昧なものを有形化する過程が面白いのか、自分のデザイン脳を働かせることで◯◯の役に立つことならなんでもやりたいのか。木材で、粘土で、漆でもの作りする素材×人生にこだわりたいのか。

デザイン×キャリア道は、人の数だけ、いろいろある。一人の生涯でも軸は変化する。などと朝っぱらから、この報を機にして遠くまで歩いてきてしまった。

2026-08-03

「事例解説」は、どんな意味をもつか?

大谷くんが高校生だったときに書いたというマンダラチャートを、最近じっくり見てみてびっくりたまげた。ロサンゼルス・ドジャースで活躍する大谷翔平選手のそれだ。これが話題になったのは、もうだいぶ前のことだが、そのときは実際に何を書きこんだかまで観ていなかったのだ。

そのすごさは、高校生にしてマンダラチャートを使っていたことでも、書き上げたことでもない。書いたことの全部を成し遂げたかどうかも私は知らない。

私が度肝を抜かれたのは、「運」を引き寄せるために自分は何をしたらいいか考えて、大谷くんが展開した8つの連想ワードである。これをみると、マンダラチャートを使いこなして目標に近づけるだけの中身を、能力的にも人格的にも当時の大谷くんがすでに築き上げていたことに、あっぱれ!と思うほかないのだった。

ちなみにマンダラチャート(マンダラートとも)とは、9×9の合計81マスを使って目標やアイデアを整理する思考フレームワーク。中心にメインの目標を置いて(黄色い背景のところ)、周囲の8マスに連想されるワードを書き込む(グレイの背景のところ)。さらにそれを周縁に展開し、8要素から連想されるワードを書き込んでいくことで行動計画に具体化していく。アイデアの品質を担保してくれるわけじゃないので、発想を広げるためのツールと言えるだろう。

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高校生の大谷くんは、メインの目標に「プロ野球8球団から、ドラフト1位指名されること」を置いた。そのために必要な要素として彼が書き込んだ8マスには「体づくり、コントロール、キレ、メンタル、スピード160km/h、人間性、運、変化球」とある。

その8項目を、周縁の9マスの中心(グレイ背景のところ)に転記して、それぞれをものにするために何をするか、8つの連想ワードをアイデア出ししていく。

そこまでブレイクダウンした大谷くんのマンダラチャートが下図だが、「運」のところだけ隠してみた。さて、大谷くんが「運を味方につけるには?」と考えて挙げた8つとは何か。と、これをクイズにするのも一つだが、大谷くんの答えを当てるより、自分だったら何を書き込むか?について考えるほうが筋がいい。どう筋がいいかは、この後で。

大谷選手が高校時代に作ったマンダラチャート(クリックすると拡大表示する)

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そして、「自分の答え」と「大谷くんの答え」を見比べてみるのである。どうだろう。

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私は、まず1つ目の答えにびっくりした。運を味方につけるには「あいさつ」と発想する、その能力と人格とが、10代にしてすでに形成されていることに拍手喝采だ。

1にあいさつ、2にゴミ拾い、3に部屋そうじ、4に道具を大切に使う、5に審判さんへの態度、6にプラス思考、7に応援される人間になる、8に本を読む。「神頼み」なんて方向には発想しないんである。

「自分が向かう発想を、どこに方向づけるか」にこそ、大谷くん事例からの学びどころがあると思った。

ここで、話の方向も急展開する。セミナーやら講座やらで設けられる「事例解説」というのは、こうして一工夫「問いかけ」をもちこんで受講者に提示するだけで、学習効果に好影響を及ぼす。

単に「これはマンダラチャートを活用した事例です」と紹介して終わらせるのではなく、教える側がその目利き力をもって、ここだと思うところを一部隠してクイズ形式だててみるのだ。

そうすると、受講者本人に「自分の答え」を考えてもらうことができ、その後に「良い事例」を紹介することで、おのずと受講者は「自分の答え」と「模範的な好事例」とを対比でき、自分とそれとのクオリティギャップをつかむ機会を得る。自分に何が足りないかを具体的につかんだり、どういう見方・使い方を獲得すれば新たに学んだ概念やノウハウを自分のものにして活かせるか、学習上の克服課題を方向づける収穫を得られたりする。

ここの学習プロセスは、一対多の一方的な講義形式では成し得ない。できることは、個別に「自分の課題」をつかんでもらう機会作りである。いかに構成・演出上で、その個別の学習機会を組み込むかが問題だ。

「事例解説」っていうのは、いろんな実務エキスパートが後進育成にあたって講師を務める際に、オーソドックスに組み込まれているが、なんとなく「そういうもんでしょ?」的に概論講義の後に組み込まれているばかりで、うまく使われていないなってもどかしく思うことが少なくない。ちょっとした工夫で、もっと効果的に使えるのになぁと。

教える側として「事例解説」を、先に講義した概念知識の具体イメージをもってもらうための「理解促進」だとか、「興味喚起」や「記憶定着」を意識して組み込んでいる方は少なくないと思うが、もう一声!もう一工夫!と思う。

受講者に考えてもらうだけの時間的余裕はない場合も、事前の仕込み時間が教える側で確保できるなら、「教えたことをうまく活用できている事例」と「ダメな事例」を両方とも自分で用意しておいてセットで提示してあげると、ぐっと伝わり方の濃さが増す。

大谷くんの例でいえば、ほんのちょっと「神頼み的なのが一個もないですね」とか「部屋の角に何色の物をおくとか、財布の中に何それを入れるとかもないですね」とかを一言はさむだけで、「好事例」と「ダメな事例」の境界を、受講者の脳内に立ち上がらせることができる。ダメに使うとはどういうことで、ダメに使うとどう滑稽で意味がないのかを印象づけたり、わかってもらる補助として「事例解説」が働いてくれる。

ユーモラスでセンスいい「ダメな例」を用意するのは手間がかかるが、それはそれで創意工夫の面白さがあるし、講座時間はさほど圧迫しないで済む。こういうのを織り交ぜて、学ぶ側本人の頭を動かす仕掛けを組みこんでうまく「事例解説」を使うことで、学習効果を上げることを狙いたい。セミナーや講座の中の「事例解説」には、まだまだ伸びしろがあるのだ。

2026-07-12

活かすか捨てるかは若者が判断すればいい論

自分と同世代か、その周辺の、年齢にして40〜60代くらいの人たちが、「自分たちのやり方は今の時代にそぐわないだろうから、若い人は若い人たちのやり方でやったらいい」というのに、「ちょっと待った!」と思うことがある。

実際そうすべき現場やシチュエーションというのも、世の中には多分にあるのだろう。現場現場で個別具体の事情が異なるから、長いこと不特定を相手にもの言う気にはならなかったのだが、ここでぼそっと書きながら自分の脳内にうごめく考えを整理してみたい。

私は「その取捨選択って、年輩の自分たちが判断することじゃなくない?」って胸がざわつくことが、ままあるのだ。

次の時代・次の世代に「それまでのやり方、考え方」が使えるのか使えないのか。ちょっと応用することで使いものになるから基礎としては知っておきたい、身につけておきたいことなのか、そういうものじゃないのか。断じて使いものにはならないが、それを下手に使わないためにも年輩者からじっくり教わっておくのが得策か、話半分で切り上げたいか。そうしたことは、受け取る側の若者が判断することであって、受け渡す側の年輩者が判断つくことじゃなくないか?と。

それを、何を勝手に、自分にその判断ができると思い込んで、あれもこれも渡す前から「若い人には使えないもの」と決めこんで、「教えない、伝えない、授けない」に、謙虚な風情で断定しているのだ?と。

アナログな作り方。基礎から作る工程や要諦。一定のストレスを自分にかけて突破していく面白さ。見知らぬ人と仕事を通じて出会い、少しずつ信頼関係を結んでいって志しが通じ合い、活動を励まし合って多様な世代と親しんでいく楽しさ。自分ひとりではできなかったり思いもよらなかったことを、勤め先や業界の後ろ盾をもって自分が社会的役割を果たしていくやりがい。

そうだな、こう書いていると私は「自分が経験的に嫌だった、不毛だと思ってきた」慣習などを、年輩者が自分のところで断ち切っている様をみても、別に「ちょっと待った!」とは思わない。

どういうときに「ちょっと待った!」と思うのか自己洞察してみると、自分では経験的に「楽しかった、面白かった、充実感をおぼえて今も自分はそのやり方、生き方を大事にしている」ということを、若者に教えない、伝えない、「いやいや、今の若い世代は違うんでしょう?」と勝手に決めつけて「私らおばさんおじさんは、とち狂っちゃってるけどさ。気にしないで若い衆は若い衆で自分たちの楽しいこと自由にやんなさい。押しつけたりしないから」みたいなことを見聞きする場面だ。

そんなに世代で全部を言い切れるもんじゃなかろう?人間という生き物は、ひと世代でそんなにがらっと一斉に、興味関心を総入れ替えして、画一的に性質を変えるものだと思うのか?と。

それを、さも自分が寛容で賢明で、新しい時代精神をわきまえている人間のようなふるまいをしているのに「ちょっと待った!」って思っちゃうのだ。

自分は上の先輩たちから、上の先輩たちはさらに上の先人たちから、たくさんのものを教わり、たくさんの人や新しい機会との出会いを授けられてきたのに、なぜその伝承・継承のあれもこれも思慮浅く、自分のところで断絶していいと思っちゃうのか。その判断の根拠は、どれほど確かなものなのかと。

とりあえずは押し付けでなく若者に伝えてみて、それをどうするかは若者に判断を任せたらよかろう。そうしたものが、今伝えることを差し控えている年輩者の「楽しい」「面白い」「有意義」な経験の中に、まだたくさんあるのではないか。

いらなかったら若手が捨てる。いるなら若手が活かす。今流に改良を加え、自己流にアレンジして活かすものもあろう。なぜ、そのリソースの提供を出し惜しむのだ。押し付けでなく、いったん教えてみたら、伝えてみたら、披露してみてもばちはあたらないんじゃないかと。

勝手な決め込みをはたらく腹のうちを探っていったとき、実は「教えたくない、自分の仕事や役割、ポジションをとられたくない」という保身のためであったり、「教えるのが面倒くさい、面倒くさい人と思われたくない、自分のことだけこのままやっていたい」という怠惰のためという自分都合ってことはないかと。

もしそうだとすると、これは一度じっくり考えてみたほうがいい案件だ。自分は分をわきまえた賢明で寛容な人間だから、老害をはたらかず若手を自由にしてやっているのだと思い込んでいる場合、そのまま行った先で自分自身のキャリアが急に断絶してしまうリスクもある。

率先して引き継ぐ、教える、伝授する、そうして徐々に自分の役割や立ち位置をずらしていく。空いた時間で他をやってみる体勢にシフトしていくほうが、実はキャリア選択の柔軟性が帯びていって、仕事を長く続けやすくなったりするかもしれない。逆に、出し惜しんで自分の仕事を自分の手のうちに囲っていると、その仕事は組織の中で価値を停滞・後退させていって、気づいた時にはどうとも選択肢を失っているかもしれない。

実際には、丁寧に年輩者から若手に教えている現場というのがいくらでもあるのだろうし、へんな言説がメディアにのって悪目立ちしているだけだとも思うのだけども。

自分の脳内をこうして探ってみるに、自分が面白いと思って生きてきたことは、若者にも出し惜しみせず、まずは教えたれよ、共有してみようよってことかな。自分は先輩たちにたくさん教えてもらって、今ここにいるのだから。

2026-07-11

能力要件を整理・言語化して一覧化する云々

人事院が「国家公務員に求められる能力を整理・言語化、スキル一覧を作成して各府庁に提供した」というリリース。職業柄こういうものはわりと好物で、よく噛んで味わう。

省庁や業務を超えて共通性が高いと考えられるスキルを特定し、57の能力要素を言語化したラベルを作成したという。

説明資料まで目を通してみると、「ヘルスリテラシー」っていうのが私的には新用語だった。巷でそこそこ使われている言葉なのだろうか、それともこの話し合いの過程でオリジナルに作り出したワードなのだろうか。あと「ナラティブ力」出た!と思った。

国家公務員スキル一覧(クリックすると拡大表示する)

Nationalcivilservantsskillslist

「分類」というのは、現実世界のカオスから、どこかの誰かが何かしらの秩序を持ちこんで体系だてる作為であるからして、それをした人らの思想やらポリシーやら美意識やらが反映され、目的やら戦略やら戦術能力やらが顕現する。ときに中の人の無意識のまま、死角やテキトーさが剥き出しとなって露呈していることもある。

非公開の内部資料までつなげてみれば見え方も変わるものだから、外野からの見立てはあくまで妄想と憶測にすぎないわけだが、健全に言い換えれば「検証なき仮説」とでも言おうか。私は、いわば日常のトレーニング教材として、自分の関心ある分野の「分類」というのを外部資料でも、するめのように味わう。

それでいうと、これは、なんというか、別にこれといった出汁の出ていない感じが、味わい深かった。

「国家公務員の〜」をはずして、一般的なスキル一覧として市販書にサンプル掲載されていてもおかしくない感じというのか。地方公務員とどう違うのか、民間企業とどう違うのか立ち上がってこないところに個別具体性の低さを覚え。この後これを足場にして自ずと何が導けて、どう使えるつもりなのか見えてこないところに有用性の低さを覚え。

もちろん、こう見えている私の目が節穴であることを、こう書いていることによって自分で露呈している可能性だって十分ありうるわけだが。

良くも悪くも、この手のものは「作成者の自己満」成果物に陥りやすいので、眉間に皺を寄せながら見る癖がついてしまっている。

分類というのは、どうも人を「漏れなくダブりなく作れたら達成」という気分にさせて、当初目指していた「役に立ってなんぼ」という志しを煙に巻く作用があるんじゃ?と私は疑ってかかっている。

今後は同一覧を人事院が実施する各種研修の充実、主体的な学びの支援などに活用していく。

とあるが、最悪な展開は、個別具体の文脈こそものをいう「ナラティブ力」みたいなのを、これだけ切り出して超脱文脈化した「ナラティブ研修」とかやって満足しちゃう顛末だ。そういうのは、全業種対応、誰でもござれの薄利多売系「ロジカルシンキング研修」で、なんともならなかった事例を彷彿とさせる。

「漏れなくダブりなく」だけ頑張ったキレイな体系図は、受け取る側からすると「ほんで?」「だから?』「So what?」ってなるんだけれど、渡す側があんまり生き生きとした表情で持ってくると、鼻をへし折る気になれず「あぁ、どうも」と受け取って、さらっと置きっぱなしになる。そういうやりとりで終わってしまうと、一向に問題は露呈せず、組織の人材開発も前進しない。声をかけあっていきたいものだ。

とか、いろいろ思っちゃうけれども、こういうのを開示してくれるのはありがたいことだ。感謝して、頭を肥やしていこう。

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