2025-03-18

企業と労働者で認識がズレる「OJTの実施状況」

企業と労働者それぞれに「人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査」を行ったレポートが、私の中で話題。注目したトピックの一つが、企業と労働者で認識のズレが際立つ「OJTの実施状況」だった。

企業と労働者の「効果的なOJT実施」状況の認識差(クリック or タップすると拡大表示)

企業と労働者の「効果的なOJT実施」状況の認識差

企業のほうに「日常の業務のなかで、従業員に仕事を効果的に覚えてもらうための取り組み」を質問して、「何も行っていない」と回答したのは、たった2.9%。何かしらはやっている、というのが企業サイドの認識だ。

一方、労働者のほうに「仕事を効果的に覚えるために、いまの会社で仕事をするなかで経験したこと」を質問して、「特にない」と回答したのは28.0%にのぼる。3割近くの人たちが、会社に何かしてもらった覚えはないがなぁ、という認識。

ざっくり言って3%と30%、この開きは大きいなぁと思った。

この調査は、厚生労働省からの要請を受けて独立行政法人労働政策研究・研修機構が行ったもの。上の図は、同じ観点で、企業と労働者それぞれに調査した結果レポート(6ページ目、14ページ目)を取り出して並べたものだ。

これに興味をおぼえて、手元でがっちゃんこしてみたのが、下の棒グラフだ。

企業と労働者の認識別「具体的なOJTの取り組み」(クリック or タップすると拡大表示)

企業と労働者の認識別「具体的なOJTの取り組み」

具体的なOJTの取り組みとして、「企業が、やっていると認識している」ものは青色の棒で、「労働者個人が、会社のなかで経験したと認識している」ものは赤色の棒で引いて、上下に並べてグラフ化してみた。

1つ目でいえば、従業員には「とにかく実践させ、経験させる」ことをやっていると認識する企業が6割あるのに対して、「とにかく実践させてもらい、経験させられた」と認識している労働者は3割にとどまった。

2つ目は、「仕事のやり方を実際に見せている」と認識する企業は6割におよぶが、「仕事のやり方を実際に見せてもらった」と認識している労働者は3割程度にとどまるというわけだ。

グラフの右側に、企業と労働者の認識ギャップが大きい取り組みには星をつけてみた。上の2つは、極めて認識ギャップが大きいが、それ以外も一つずつ下ってみていくと、企業サイドはやっていると認識している施策が、労働者サイドではそう認識されていないんじゃないか疑惑が募るばかりの結果だ。

ちなみに、この調査、企業調査と労働者調査それぞれ別個に行っているようなので、労働者調査の回答者は、企業調査の回答企業に勤めているわけではない。

全国、業種さまざまで、従業員数5人以上の企業と、従業員数5人以上の企業に勤める個人(正社員&直接雇用の非正社員、男女、18〜65歳)に、それぞれ調査。調査実施時期はいずれも昨秋2024年10〜11月、公表日は今春2025年3月13日。詳しくは下のリンク先で。

人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査┃独立行政法人労働政策研究・研修機構

こういうのを眺めていると、「企業、経営陣、人事部門、上司は、やっていると認識している施策」が、「従業員、現場、部下からは、やっていると認識されていない施策」というのは、これに限らず各所でいろいろあるんだろうなぁと妄想が広がってしまう。

おたがい「相手方も、当方と同じ認識であろう」と思い込んでしまって、あえて問いただす機会もないまま、認識ずれが顕在化せずに放置され続けて早幾年か。こういうのを解消する突破口は、なんとかフレームワークとか作ったり使ったりしている場合じゃなくて、「ねぇねぇ、ところでさぁ、ちょっと聞いてみたいんだけどもさぁ」みたいな一言だったりするのかもしれないなぁとか。職場の「ねぇねぇ」は、けっこう大事だ。

2025-03-17

父と映画館で観た作品が100本を超えた

週末に父と映画館に通うようになって早2年、一緒に観た映画が100本を超えた。いつまでも続くことなんて一つもないと思い知りながら、穏やかに続く習慣に感謝と尊さをおぼえる。101日目を無事に進み出してから記念するところが、私の堅実で臆病なところ…。Instagramでぱしゃり。

習慣的に父と観た映画だけ登録しているアプリがあって、先週アプリ画面上に100って表示されているのを見て、ほぅっ!となった。

途中、父の短期入院が入ったのと、一緒に旅行に出かけたのと、2、3日行かなかった週を挟むけれど、基本的に2年間、毎週末。すると必然100作品に達する。

「毎週末、父と映画館に行っている」なんて言うと、「すばらしい、素敵だ、終わった後に映画の感想を話し合ったりして?」なんて期待されるのだけれど、とんでもない。観終えたそばから、今日は豆腐を買うだのなんだのと買い物の話をはじめる始末。ときどき双方のぼやきは交換されども、高尚な感想戦などまったく展開されない。

この習慣は、何より習慣として続くことが大事なのだ。もちろん私は毎回、映画を楽しんで選び、楽しんで観ているのだが極論、映画がおもしろくなくても、主たる問題ではない。映画の前に、顔を見て、視線を合わせて、一緒に食事をすることが大事なのだ。

そこで、その週にあったこと、最近気がかりなこと、ふと思いついたことなどを思いつくままに、あれこれおしゃべりしたりして父のもやもやが晴れること。なにか大ごとになる前に、問題の芽が摘まれて解消すること。

娘が、あるときは軽口をたたき、あるときはけらけらと笑い、あるときは気にするなかれと嗜め、あるときは発破をかけ、あるときは励まし、ときに小競り合いをしても、再びたわいのないおしゃべりに戻ること。

父の子どもの頃の話、大学時代のこと、社会人になってからの仕事のこと、社会をどう見ていたのか、どうつきあってきたのか、友人のこと、上司のこと、同僚のこと、取引先のこと、両親のこと、兄姉弟のこと、親戚のこと、自分のことをどう見てきて、今どういうふうに考えているのか。暮らした町、故郷のこと。そういう話をゆったりと聴くこと、引き出すこと、引き継ぐこと。

映画の後には連れ立って、豆腐やら魚やらネギやら、ときに靴やら帽子やら塗り薬やら、必要なモノを買いものして歩くこと。ただ、ただ、庶民の家族のコミュニケーションが繰り返されることに尊さをおぼえる。

別れ際には私が「お疲れさまでしたー」と言い、父はいつも「ありがとう」と言う。そう挨拶を交わす度、なんだかんだ言ってやっぱり父のほうが、うわてだと思う。

2025-03-09

量を減らして、一つのことを自分に丁寧に織りこむ

自分が書くエッセイは、豆腐を作るときに出るおからのようなものだと、吉本ばななさんが言っていた。彼女にとっての豆腐とは、もちろん小説だ。

先日おからのほうの『「違うこと」をしないこと』を読んでいたら、やっぱり豆腐も食べたくなって「花のベッドでひるねして」という小説を読んだ。立て続けに読んでみると、2つの作品はかなり密接につながっていて、「花のベッドでひるねして」には切々と、「違うこと」をしないことが書いてあった。

この小説のほうは、なぜだか家に文庫本があって、実際は再読。ページの最後のほうまで折り目がついていたので、数年前に一度読み切ったはずなのだが、全然記憶に残っていなかった。なので今回、新鮮な気持ちで改めて読んでみたのだ。すると今このタイミングで読むべくして読んだという気がむくむくわいてきた。調子がいいものである。

おそらく、これを最初に読んだ頃と比べて、私は今、そうとう静かなところにいる。身の回りで起きる出来事はそんなに多くなく、騒音混じりの情報を大量に浴びまくって生活することも、ほとんどない。

自分のキャパシティは、そんなに大きくも奥行き深くもないので、手に余りすぎて自分じゃどうにもならないところに浸かりにいくより、量を減らしても自分がきちんと負えるところで、傷すらきちんと負ったほうが糧になると、そんなふうに落ち着いている。

傷ついたら傷を負ってしまった…と、きちんと戸惑い、自分はその出来事の何に傷ついたのだろうかときちんと吟味する。あぁ、自分はこういう人間だから傷をおったのだと考える。そういうことを一つずつ、うやむやにしないで丁寧に向き合っていくのだ。

それが痛みであっても、そこから自分の糧にして発見できることもあるし、成長の機会とできることもある。あるいは、これは自分の生涯だと突破すべき壁には当たらない、関心もないしなぁと手放すこともある。

他方、嬉しいことも、充実感を味わえることも、人や自然に感謝することも、味わいは増している体感だ。量が少ない分、一つから味わい尽くそうという渇望がわきやすいのかもしれない。人と話し込んで感じ入ることも、読書から味わえることも、本と出来事をつなげて学びを得ることも、とても豊かになった。

人と会っては別れ、本を読み終えては次の本へとせわしなくしていると、一つのことが何かに結びついて広がっていったり深まっていったりというのが、なかなか展開しきれず雲散してしまったりもする。そうではなく、自分の身の丈にあわせて慎重にインプットに向き合っていると、一つのことを大事に育める。

なにを本の読み方一つ知らないで、まったくテキトーにものを言うものだなと、外からみると呆れるほかない生き様だと思う。キャパを超えて浴びても無、数を減らして慎重に向き合っても無。ならば私は数を減らして、慎重に向き合う後者の道を選びたい。外野からみれば、ひどく幼いまま、いろんなものを取りこぼして本質を掬いきれずに生涯を終えていく人間だとしても、それをわきまえてもなお、自分の身の丈で自分の人生を充実させていくことができれば本望なのだ。

「花のベッドでひるねして」の中に、こんな言葉がある。おじいちゃんならきっとこう言葉を掛けるだろうという主人公の脳内セリフ。

そのつど考えて、肚(はら)に聞いてみなさい、景色をよく見て、目を遠くまで動かして、深呼吸しなさい。そして、もしもやもやしていなかったらその自分を信じろ。もやもやしたら、もやもやしていても進むかどうか考えてみなさい。そんなもの、どこからでも巻き返せる。

これは、おじいちゃんと幹ちゃんの共作であり、ばななさんが「私にとって世界一の父でした」とあとがきで述べる吉本隆明氏と、ばななさんの共作にも読めた。この機に再読できたのは良き誕生日プレゼントとなった。

*吉本ばなな『「違うこと」をしないこと』(角川文庫)
*よしもとばなな「花のベッドでひるねして」(幻冬舎文庫)

2025-03-02

専門家の志しは、ときに正体の把握を遠のける

小林秀雄のこのくだりは「作家」を志す者に限らず、ビジネス界隈でも「論は饒舌でも、現場仕事ができない」人の増殖を糾弾するようにも読めて興味深い。

文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお蔭で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。当人そんなことには気がつかないから、自分は文学の世界から世間を眺めているからこそ、文学が出来るのだと信じている。事実は全く反対なのだ、文学に何んら患らわされない眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来上るのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。巧いとか拙いとかいっている。何派だとか何主義だとかいっている。いつまでたっても小説というものの正体がわからない。<br><br><br><br><br><br><br><br>
小林秀雄『作家志願者への助言』新潮社『小林秀雄全作品4』より

横線を引いた「文学」のところを、職業家として専門性を極めんとする概念ワードに置き換えてみる。「リーダーシップ」でも「◯◯デザイン」でも「◯◯コンサルティング」でも「◯◯マネジメント」でも「◯◯マーケティング」でも「◯◯カウンセリング」でもいいが、置き換えて読むのだ。

後半に出てくる「小説」のところは、「現場仕事」だか、自分がその職業で作っているアウトプット、その専門性を発揮して現場でこなしている働きなり身のこなしに置き換えてみる。

すると、あら不思議、「読める、読めるぞ!」という興奮がわいてきて、「天空の城ラピュタ」に出てくるムスカみたいな気持ちになる。正体は、そこにはなく、ここにある。

良い本の読書体験って、実に豊かだ。小林秀雄は、これを昭和7年に書いている。

* 小林秀雄「小林秀雄 全作品4」(新潮社)

2025-02-28

定位置にあり続ける対象に、観る側が解釈力を駆使して近づいていく人間業

一昨年の秋に初めて「能楽堂でお能を観る」体験をした私だけれども、以来おりおりに能楽師の親戚に誘ってもらって能楽堂を訪ね、このたび7回目にして京都での観能を果たした。それまでは、東京は銀座にある観世能楽堂、千駄ヶ谷にある国立能楽堂のいずれかで観賞していたのだが、今回訪ねたのは京都観世会館。「能にして能にあらず」とも言われる「翁」(おきな)という演目は、ぜひ観てみたいなぁと思っていたところ、ちょうど親戚が小鼓を勤める舞台があるというので京都まで出かけていったのだ。

お能について自分が語れることなど何ももたないのだが、これほど「私は何も知らない」という前提認識をもって、門外漢よろしく自分勝手に夢想できるものもない。と開き直って、能楽堂の席に座っているときの私は、だいぶ好き勝手に考えごとしたり感じとったり全身で遊びほうけている。

今回思っていたのは、お能という「時代を超えて定位置を保ち続ける対象」に対して、「時代時代で入れ替わる観る側・受け取る側」(つまり私)が、そこに普遍的な価値を見出して、ハイコンテキストな解釈力をフル稼働させて歩み寄り、そこから自分なりの時代観をもって考えを導くこと、感じるところをもつというのは、とても創造的で尊い人間活動ではないかと、そんなことであった。

そしてこれは、どうかすると一般庶民の生活において今後、稀有な体験になっていくかもしれないという危惧も覚えた。なんであれ私はそれを、自分個人の人生観としては生涯を終えるまで大切に育み続けようと思った。

この時代の流れに身をゆだねて、上っ面だけあわせて揺らいでいると、私はこの人間活動に必要な知力・気力・体力を弱らせていってしまいそうだと危惧した。自分の知らないうちに使う機会をもたなくなり、日常使いしなくなると、使わない・使えない・そのことに自覚もない三拍子がそろう。それを恐ろしく感じて、意識的に回避しなくてはというか、生涯すくすく育てていくぐらいの構えでいたいと強く思ったのだ。

とすると毎日を送る中で、大事にしなきゃいけないことはなんだろう。受け取る側として、自分が解せぬものに向ける眼差しを温かく、健やかに持ち続けることが、大前提な気がする。対象に対して、敬意をもって向き合うこと。一見して、無駄だとか、コスパ悪いとか、意味わかんないとか、難解でとっつきにくいとか言って早々と関心を閉じない構え。

そうして一歩、自分が解せぬものに親しんでみる入り口に立ってみる。自分なりに歩み寄れる着眼点を探してみること。焦らず気張らず、等身大で丁寧な観察眼と洞察力を働かせること。ハイコンテキストな解釈力をフル稼働させて、そこに自分が見出せる価値を探索してみること、それ自体をゆったりした気持ちで楽しむこと。まだ自身が承知していない価値への想像力を、わくわくした気持ちで働かせること。

気持ちに余裕があればたやすいことな気もするし、余裕がないと無理だなぁという気もする。そういう意味では、今の自分にはとても大事にできそうな期待がもてる。アラフィフにもなってお能に親しくなったのは、なにか縁だろうなぁとも思う。

2025-02-15

国内ハラスメント事情のリアル2025

なんだか、働く上での問題ばかりが活発に情報流通していて、若い人たちに対して、社会に出てチームや組織で仕事するポジティブな面の情報流通量が少なすぎる気がしちゃっている今日この頃。私の偏見かもしれないが。

折りにふれてやきもきする代表格の一つが、ハラスメント問題。ということで「国内ハラスメント事情のリアル2025」の平和な一面を、4スライドこしらえてみた。ニュース性が乏しすぎるが...。

直接の被害経験をもつ方、強い問題意識をもって取り組んでおられる方には、こんな切り口の発信はひどく気に障るものかとも拝察する。けれど、昨今のハラスメント関連の予防・解決のための熱心な取り組みあってこその2025年現状レポートも、これから社会に出てこられる若い方々には届けられるべき有意義な情報とも思うのだ。

もし必要な若者に、機会に、どこかでめぐり逢いましたら、1枚目だけでもご活用ください(PDFファイルでご覧になりたい場合は、リンク先のSpeakerDeckから。下の画像はすべて、クリック or タップすると拡大表示)。

1枚目:過去3年間にハラスメントを受けた経験がある勤め人は、2割に満たない

H1

2枚目:勤務先に、今以上のハラスメント対策を求めていない人が最多、4割超

H2

3枚目:フリーランスも、トラブル経験「あり」「なし」は五分五分の比率

H3

4枚目:フリーランスのトラブル経験で、ハラスメント系は1割未満と少ない

H4

一見すると「マジョリティ」にくくられる若者の中にも、組織集団の中で上位2割でも下位2割でもない「一般6割」と扱われる私のような人間の中にも、一人ひとり個別の想いがあり、迷いや苦悩、直面する壁がある。一人ひとり個別に、自分しか体験できない人生の時間があって、社会との関わりがあって、ものの見方がある。個別の未来があって、個性化していく可能性を秘めている。

その機会提供や支援が注がれる社会に、私は豊かさをおぼえる。それは、若者にキャリア自律を説くのと両立して展開できる話だし、ハラスメント問題の予防・解決の取り組みとも並行できるはずだ。

私は自分が若いとき「一般6割」の人間として社会に受け入れてもらい、会社の先輩たちにいろんな機会を与えてもらい、仕事に親しみ、やりがいを覚え、自分のキャリアを歩んできたと思うので、自分ができることを考えても、やりたいことを考えても、一般6割のキャリア支援にこそ働きたい。地味で華はないけどもさ、それが私なりの個性だ。

出所

2025-02-10

がたがた昇る学習曲線をスライド10枚で

せっかく「おもしろそう」と何かに興味をもったのに、あるいは必要に迫られて「ちょっとやってみるか」と新しいことを学び始めたというのでも、なかなかものにならないと、やめたくなってしまう。

「なかなか」ならまだしも「早々に」やめたくなってしまうと、つらいし、悲しいし、もったいないし。それが繰り返されると自己嫌悪にも陥りかねない。

こうした状況を回避したり、渦中から救出する術として知っておきたい豆知識が、学習曲線である。

学習曲線とは何か(クリック or タップすると拡大表示)

LearningCurve

学び出して早々やめたくなる理由、その一つに「やったらやった分だけ、伸びるんじゃないの?」「なんで伸びないの?」「わからない」「つらい」「もう止める」という流れが透けてみえる。

これに飲み込まれないためには、そもそも一番最初の「やったらやった分だけ、伸びるんじゃないの?」に立ち入る前に踏みとどまれる知識が役立つのでは、そう考えた。

自分は大丈夫なんだけれど、後輩や部下に新しいことを覚えてもらうとき、なかなか成長がみられず困ることもある。本人もつらそうだし、自分もやきもき。といって気の利いた助言も思い浮かばない、テキトーな励ましの言葉もかけたくない。そんなときにも、この知識は使えるかもしれない。

新人さんが基本的なことを学ぶときに限らず、一通りのことは一人でできるようになったが、そのあと足踏み状態に。いつもやることは同じで、スキルも停滞、ルーチン業務の繰り返しで仕事へのモチベーションも下がっていく日々。そんな界隈にも応用がきく知識の源だ。

ここで紹介するのは、エビングハウスが提唱した学習曲線(ラーニングカーブ)。学習時間が増すほど、経験的効果が上がり、習熟度が増すという右肩上がりの学習曲線を示したわけだが、ここからが本題。というか分解して10枚のスライドに展開してみたというか。あとはリンク先で。

学習曲線をスライド10枚で整理してみた┃SpeakerDeck

自分が打ち合わせの場なんかで、必要に応じて手っ取り早く見せられると話が早いかなぁと思ってこしらえたところ多分にあるスライドなので、時々のシチュエーション次第で言葉足らず or 言葉多すぎなスライドだと思うけれども。その辺は文脈に応じて、使い方や強調点を変えたり、加えたりはしょったりしながら。

なんというかな、最近は「誰々が提唱した、なんとか」がネット上に出回ってはいるのだけれど、そういうのをたくさん知っていることより、一つの意味を深く理解しておいて、自分の現場で使えるシーンに遭遇したら都度思いついて、実際に使いこなして役立てられる、そういう丁寧なつきあい方が大事だよなぁっていう思いがあって。

2025-02-01

「ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験」を読んで

これは会社で人事に関わる人、必見!な新書「ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験」*。2008年、10年ぶりにJAXAが宇宙飛行士を募集した際の選抜試験の密着取材。めちゃくちゃ面白い上に、業界を選ばずさまざまな企業の採用・育成施策に応用できるネタやら発想の種やら考え方やらがてんこ盛り。

面白いから先を読みたいのに、あちこちで立ち止まっては考えに耽り、最終章「宇宙飛行士はこうして選ばれた」まで来ると、あぁ読み終えたくない!とすら思って、読了までけっこうな時間がかかってしまった。

著者は、選考試験に密着取材した「NHKスペシャル」の番組スタッフ。2009年3月に「宇宙飛行士はこうして生まれた 〜密着・最終選抜試験〜」と題して番組を放送した1年後、新書に姿をかえて出版された。

900名以上の応募があり、ざっくり示すと下の表のような選考プロセスを経て、最終試験前に10名まで絞り込まれた。

2008年「宇宙飛行士選抜試験」の選考プロセス(クリック or タップすると拡大表示)

Astronautselectionexaminationjaxa2008

宇宙飛行士特有の専門能力は、最終試験前に厳選されているため、この本で多くを割いている最終試験は、かなり汎用的な宇宙飛行士としての「資質」に迫る審査だ。

最終試験の前半1週間は、筑波宇宙センターに集まった候補者10人が、同じ閉鎖空間施設(直径4m、長さ11mのカプセル)の中に入って寝泊まりする共同生活を送る。ストレスフルな環境下で、20以上の課題をこなしていく一部始終をカメラがとらえ、マイクが音声を拾い、管制室から審査員が評価する。毎日の睡眠の質から、食事の仕方まで審査対象となる。

こういう選考試験を、宇宙飛行士ではないどこかの企業が行ったら速攻で世間にバッシングされるだろうか。では、なぜ宇宙飛行士だったら、さもありなんって思うのだろうか。各社が入社試験で測るべきストレスの質・量だって千差万別であり、グラデーションの中にあるはずだ。個別的で個性があるからこそ、いろんな人といろんな組織がマッチングする。もちろんそこにはアンマッチもある。だからこそ入社前に選考プロセスが在るわけだ。そのやり方を画一的に縛りつけて、それぞれの組織・個人がやり方を個別化し、存在を個性化する機会を奪っていかないといい。私はそこに、過剰な社会の縛り圧を感じることが最近多い。

閑話休題。宇宙飛行士として、どんな資質を測られるのかといえば、次のようなものだと言う。

  • ストレスに耐える力
  • リーダーシップとフォロワーシップ
  • チームを盛り上げるユーモア
  • 危機を乗り越える力

一気に親近感がわくのではないか。取材した著者は、次のように書いている。

あえて短い言葉で表現するなら……どんなに苦しい局面でも決してあきらめず、他人を思いやり、その言葉と行動で人を動かす力があるかその”人間力”を徹底的に調べ上げる試験だったのである。

宇宙とまったく関わりない我ら、いろんな業種・職種にも応用できるところがふんだんに詰まっている。そんなわけで、読んでいると頭の中で、あちこちへの道草が止まらないのだった。

もちろん4項目いずれにも「極限状態での〜」が頭につく。ゆえに、審査のやり方はキレキレに洗練され、候補者のふるまいをどう捉えるかという測定・評価の仕方も単一的・表層的ではなく、いろんな切り口で、奥行き深く洞察・評価されるのが読みどころになる。

例えばグループワークの1シーンを取り上げても、「ここでAさんはリーダーシップ、Bさんはフォロワーシップを発揮している」というように、リーダーシップ単体でAさん一人を評価するようなことはしない。

審査する側の見方が貧しいと、評価も表層的なものにとどまってしまうわけで、どう審査を作り込んでおいて、候補者のふるまいをどう洞察力豊かに汲み取れるか、審査の裏側にふれて学ぶところは多い。裏側の「一端にふれている」とも「真髄にふれている」とも言えるわけだが。

他方、採用する組織視点でなく、候補者個人の側に視点を移してみても、学びや気づきは大いに詰まっている。

最終試験は2週間に及ぶため、途中で「あぁ、しくじったなぁ」という局面に陥っても、そこで終わらない。候補者の動揺を取り上げて、そこからどう本人が内省し、どう気持ちを切り替え、どんなふうに立て直していったか。さすがは最終候補者!という珠玉の振り返りの弁にふれることができる。みんな、とっても魅力的だし、著者もさすが描写がうまいのだ。

宇宙飛行士を目指しているわけじゃない多くの人は、客観的に、審査する側・される側の双方の立場を味わうことができるので、学生の就職活動、社会人の転職活動、企業内での昇進・昇格試験に類する資質をどう磨き、どうアピールするかを考えたい人・場面にも、いろんな有効活用アイデアが思い浮かぶ。

例えば、次のようなケーススタディを、「JAXAで実際にあった採用面接のやりとりなんですよ」と取り上げれば、就活生向けのキャリアデザインの授業や、社会人向けの転職活動ガイダンス、求人企業が社内で面接官を担当する社員向けに行う研修・勉強会のネタにも使えるだろう。

「これは2008年にJAXA(日本宇宙航空研究開発機構)が10年ぶりに宇宙飛行士を募集したとき、研究職のバックグラウンドをもつ候補者と、面接官との間でなされた面接選考のやりとりです」といって、下のスライドを示す。実にひりひりするやりとりだし、宇宙飛行士だと、みんな興味本位で食いつき良さそうではないか。

採用面接のケーススタディ、志望動機を問うオーソドックスなやりとり(クリック or タップすると拡大表示)

Caserecruitmentinterview

真っ先に思い浮かぶシンプルな使い方は、求職者向けの就・転職活動ガイダンスで、職業理解、募集ポジションをきちんと理解して応募しないと、面接でこんな窮地に立たされますよーとか。

求人企業の人事が、面接官を担当する社員向けの研修に使うなら、「志望動機を問うことで、候補者の何を確認したいのか」「どういう回答によって、どう本気度を評価するのか」話し合ったり。あるいは、ここで答えに窮する人を必ずしも「不採用」と即決するのでなくて、「募集ポジションの仕事理解が不足していても、こちらから入社メリットを訴求して口説くアプローチだって考えられるよね」というような認識合わせに使うこともできる。「カジュアル面接の段で、こんなやりとりは御法度よ」と注意を促すのに使うやり方もありかもしれない。

あまりにいろんな目的・ゴールに使える素材なので、ここで深追いはしないけれども、自分ごと、自社の現場ごとに落とし込むパーツとして、いろんな用途に応用展開できるケースだなぁと、ひとり道草を楽しんでしまった。

終わりに。我らの仕事にもぞんぶんと応用がきくという実利をそっちのけても、この一冊には宇宙飛行士の選考試験に挑む人たちの魅力がふんだんに詰まっていて、ぐいぐいと読ませる。そして最終章は泣いちゃう。

仕事、職業、キャリアというものの価値を、安易に狭く価値づけして畳んじゃ人生がもったいない。仕事が何を指すか、世の中の見解が統一されることはないだろう。とりわけ、こんな概念のカオス環境では難しい。

でも、仕事にも職業にもキャリアにも、尊い光を当てた解釈は許されるはずだ。一人ひとりの人間がそれぞれに、社会とのつながりの中で自分の人生の時間を使って何の役割を果たしたいかとか。社会基盤を舞台として見立てたときに、どういうふうに壇上の役割を演じる使命感がうごめくかとか。

そういうことを自分の言葉でつむいでいくようなのがキャリア形成であり。そういう時にむにゃむにゃした思考の彷徨いというのは、あんまり形式ばらずに、既存の概念的なフレームワークに押し込まれて結論されることなく、もっと開放的なのがいい。人間なんて、will、can、mustのベン図に整理整頓されて何十年と行儀正しく生きる生き物じゃないのだからさ。はぁ、まとまらないまま終わるさ。

* 大鐘 良一、小原 健右「ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験」(光文社新書)

2025-01-30

「不当ではない差別」はあるのかないのか問題

素人考えながら私は、「差別」って行為は「不当な差別」と「不当ではない差別」とに分けられるものだと認識して、これまでやってきた。

たぶん、ここ数十年いろんな公式文書で「不当な差別」という表記に数多く遭遇してきたから、「不当な」とつけるからには「不当ではない」差別もあるという前提で、みんな差別というワードを使っているのだろうと、たぶんそんな流れで、この解釈を定着させてきたのだろうと思う。

しかし、それにしてはどうも最近おかしな論争を見聞きすることが頻発しているので、今朝がた試しにググってみたのだ。すると検索結果のトップに「AIによる概要」として端的に示されたのが、これだった。

区別とは物事の客観的な違いを認識すること、差別とはその違いに合理性のない価値観を持ち込み、一方を不当に扱うことです。

これに私は、たじろいだ。お、おまえもか…。っていうか、おまえのそれは民の認識の結晶か?私は涙目だ。

まず足場づくりに「区別」を確認しよう。人間はいろんなものを区別する能力をもつ。あれと、これは、違うよねって、ものを分けられる能力だ。これが「差別」の下敷きにある。区別が働かなきゃ、差別はできない。

太陽と月は違うよね。夏と冬は違うよね。陸と海は違うよね。山と平地は違うよね。蒸し蒸しする空気と、空っからの空気は違うよね。

平らな道と、坂道は違うよね。平らな道を行くのは楽だけど、坂道を行くと疲れるし、スピードが遅くなるし、同じ距離を行くのでも時間がかかったりするよね。

人類は、分ける必要に駆られて、あれとこれを区別してきた。区別したものそれぞれに名前をつけ、呼び分けることで他の人ともその区別を共有できるようにしてきた。あれとこれの取り扱いに差をつけることで知性を発達させ、文明を発展させてきた。いろんな分野で知識を体系化してきた。分ける必要がなければ「菜っ葉」をそれ以上には分けないし、必要が生まれれば「根菜類の葉」「青菜」などと分け出すのだ。

この区別したものに対して「取り扱いに差をつけること」が、私にとっては「差別」という認識で、これまでやってきたわけだ。

「取り扱いに差をつけること」のすべてが一気に、「不当な差別」に解釈されるというのは、ちょっと雑すぎないか、手荒すぎないか?

不当でなく取り扱いに差をつけるなんて、これまで人類がいくらでもやってきたことじゃないか。うまく活用してきた能力じゃないのか。

春によく育つ野菜と、冬によく育つ野菜を区別して、育てる季節を分け、取り扱いに差をつけてきたのじゃないのか。

子どもと大人を区別して、「子どもは学ばせ、大人は子どもに教育を受けさせる義務をおう」としようって、憲法で取り扱いに差をつけて、それに皆合意して運用してきたのじゃないのか。

事故や災害の現場で、怪我していない人と怪我人を区別して、怪我人を先に救助するとかいう判断も、取り扱いに差をつける行為だろう。これは「不当に当たらない差別」というものじゃないのか。

どちらか一方を、優先的に扱う。もう一方を、後回しにする。どちらか一方に、優先的に何かを与える。もう一方には与えない。

合理性がある価値観を持ち込んで、取り扱いに差をつけるという「不当に当たらない差別」も、人間はこれまでやってきたでしょう?と思うのだけれどなぁ。

いや、これは言葉をどう定義して記述するかとかいう定義闘争ではなくて、AIがどうかという話でもなくて。現実社会の現場で、ちまたの言論空間で、どんどん、そういう真ん中の選択(「区別」と「不当な差別」の間にありうる「不当ではない差別」を認識すること)が許容されなくなっている言い争いに遭遇するたび、なんていうかな、悲しい気持ちになるというか、そらおそろしくなるというか。

いったいぜんたい、この世界はどうなってしまうのかなと。「2つに差をつけて取り扱う行為」のすべてが速攻で、卑劣な行為と糾弾される社会に後退していってしまうのだろうか。私の目には後退と映るのだけれど、そんな見方は不健全とみなされる合意形成が一般に定着していくのだろうか。

とりあえず私は、自分の日々の暮らしの中で、そこんとこの分別を丁寧に持ち続けて人の営みを解釈し、雑にならないよう、粗くならないように心がけて生涯を生き抜いていこうと思うのだ。それはそれで、小さな個人に許された自由空間はいくらでもあるから。

2025-01-26

人生は短いか長いか、セネカの「人生の短さについて」

光文社の古典新訳文庫から出ている、セネカの「人生の短さについて」を読む。古典も古典で、セネカは紀元前1年の生まれ。今から2千年前を生きた古代ローマ帝国の哲学者なのだけれど、書かれていることの現代への通じっぷりが半端なくて、示唆に富んでいる。

人間がいまいち「時間」と上手くつきあえず「人生」を生きて死ぬ悪戦苦闘を、二千年続けてきた感をおぼえる。翻訳者の中澤務さんが、初心者にわかりやすく言葉を編んでくれていることも大きいのだろう。

人生は長いか、短いか。

「人生は長い」と聞くことはないが、「人生は短い」とはよく聞くフレーズだ。これは昔も今も変わらぬようで、セネカは冒頭「ひとの生は十分に長い」と始める。「人生は、使い方を知れば、長い」のだと説く。

われわれは、短い人生を授かったのではない。われわれが、人生を短くしているのだ。われわれは、人生に不足などしていない。われわれが、人生を浪費しているのだ。

どう浪費しているか。「人生」というと大きすぎるが、「時間」に置き換えてみるとわかりやすい。

だれもが、ほかのだれかのために、使いつぶされているのだ。

あの人のこと、この人のことばかり気にかけて、自分のことには気にかけないで時間を過ごしている。

自分の土地や金銭を、安易に人に譲ったりはしない。自分の財産を管理するときには倹約家なのに、自分の時間を使うとなると浪費家に変貌する。時間は目に見えないから、無頓着になる。そうして、いろんな人に自分の時間を明け渡して「多忙な人間」になっている。

私自身は今「多忙な人間」ではないが、そこそこは多忙に過ごした時期を経て今。多忙に過ごした時間も、今の静かな閑暇も好きだし、愛おしく思っている。

今は静かなので、自分の声がよく聞こえる。自分の時間を過ごしている感覚がある。仕事している時間も、自分のための時間を使っている感覚がある。それは私の中で両立する。私はもともとそういう感覚で仕事もしてきたのだが、いよいよシンプルに合一した。

自分の時間を過ごすというのは「怠惰に過ごす」こととは違う。

あなたの人生のうちのかなりの、そして間違いなく良質な部分は、国家に捧げられた。これからは、その時間を少しでも自分のために使いなさい。

わたしは、あなたに、怠惰で退屈な休息を勧めるつもりはない。あなたのうちにある生き生きとした活力を、惰眠や大衆好みの娯楽に浸せと言うつもりはない。(そもそも、そんなものは休息ではない。)そうではなく、あなたは、そこに大切な仕事を見いだすことになるのだ。それは、あなたがこれまで一生懸命に果たしてきたどの仕事よりも、大切な仕事だ。あなたは世間から離れ、心静かに、その仕事に取り組むことになるのだ。

へたな危険、へたな重責を背負わず、大切な仕事に戻ること。心静かに、大切な仕事に取り組んで暮らしていけたらなぁと思う。その仕事が何なのかは巡り合わせ次第で、未来は不確かなもの。そういうものと受け止め、今を大事に重ねていけたらいい。

巻末の年譜をみると、セネカが「人生の短さについて」を執筆したのは48歳頃。つまり2千年を超えて今の私と同世代、どうりで話が合うはずだわ。波乱万丈すぎる生涯を生きたセネカに共感をおぼえるのは軽薄な気がするけれど…、今の私の「時間」への向き合い方によく馴染んだ。

*セネカ(著)、中澤務(翻訳)「人生の短さについて 他2篇」(光文社)

«力量差あるメンバーにタスクを割り当てるアプローチ