2020-08-01

「Web系キャリア探訪」第22回、「業績を上げること」と「人を大切にすること」の両立

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第22回が公開されました。今回は旅行サイトを運営するエクスペディア・ジャパンで、アジア圏のSEOチームを率いる田中樹里さんを取材しました。

プレイングマネージャーの今が楽しい! チームマネジメントは「褒める」「期限を設ける」で円滑に

田中さんは、自分がその時どきで何に関心が向いていて何をしたいのかについて、きちんと意識が働いていて、実際にそれができるよう自分の居場所を移すという行動に出ていて、それをすごく自然体でやってこられた印象を受けました。

だから発言としては「あまり絞り込んで何か目指してという感じでもなかったのですが」とか「流されるまま今に至っているような気がしているのですが」というふうにも出てくるんだけど、具体的なキャリア変遷をたどっていくと常に、イヤイヤじゃなく自分が好きなこと、関心が向くこと、意味を感じられる仕事、伸ばしたい能力を選んで、キャリアを歩んでこられているという感じがしました。

SEOのスペシャリストであり、かつエクスペディアのアジア圏のSEOチームを束ねるマネージャーでもあり、今はちょうど五分五分で、プレイヤーとマネージャー両方の役割を務めているそう。

上司も部下も全員海外なので、コロナ以前からネットごしにマネジメント業務をされていたということで、オンラインでの部下とのコミュニケーション、会議のファシリテーションなども、いろいろエッセンスを伺うことができました。

素敵なマネージャー、上司なんだろうなぁっていうのが、チームメンバーとどう関わっているかというお話から伺えて、ブレーク&ムートンが提唱した「マネジリアル・グリッド」のことを思い出しました。

「業績を上げること」と「人を大切にすること」、「仕事ができる能力があること」と「人間関係を円滑に保つこと」は、必ずしも相反するものではなく、両方に対する関心を高めて統合することが可能であるという話。

Managerialgrid_2

※詳しくは、以前書いた「トレードオフの関係」に分け入るにて。

田中さんは、まさにこの両立の実践者という感じ、直接お目にかかることができず残念でしたが、とっても健やかな気持ちになるインタビューでした。よろしければ、ぜひリンク先でご一読くださいませ。

2020-07-13

村上春樹の「アンダーグラウンド」を読んだ

村上春樹の「アンダーグラウンド」*を読んだ。1997年に出た本で、1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件について、被害にあった62人の当事者たちへのインタビューを行って、実に丁寧にまとめられたノンフィクションだ。

特別、今をねらって読みだしたわけじゃないのだけど、読後に振り返ればカミュの「ペスト」以上に、こりゃ絶妙なタイミングで読んだものだなぁと思った。

本が出た当時の私はちょうど、それまでに出ていた村上春樹の作品をあれこれ読みこんでいた時期にあたると思うのだけど、この本は遠のけて手に取らなかった。村上さんの言葉を借りれば、この事件の「名状しがたい嫌悪感」や「理解を超えた不気味さ」が、当時の私には手に負えないと本能的に判断したんだろうと思う。なにせ20歳かそこらだ。

1995年は、1月に阪神・淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件があった。村上さんは、この2つに共通性を見いだす。不可避な天災と、人為的な犯罪、そうみれば全く別物だけれど、被害を受けた側からすれば両者とも「圧倒的な暴力」であり、「それらの暴力の襲いかかり方の唐突さと理不尽さは、地震においても地下鉄サリン事件においても、不思議なくらい似通っている」「怒りや憎しみの向けようがもうひとつはっきりしない」という、それは被害者の声を読んでみると確かにそのように思う。

私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対して、現実的にあまりにも無力、無防備であった。我々はその到来を予測することもできず、前もって備えることもできなかった。またそこに出現したものに対して、機敏に効果的に対応することもできなかった。そこであきらかにされたのは、私たちの属する「こちら側」のシステムの構造的な敗退であった。

このようなことは、コロナ禍にあって、容赦ない天災も続き、大小さまざまな対立も深まるばかりの25年後、今もまさに私たちが直面しているところだなと思った。

村上さんは事件当時、連日の報道にふれる中で一般マスコミの文脈が、被害者たちを一括りに「傷つけられたイノセントな一般市民」というイメージできっちりと固定してしまいたがっているように感じた。

被害者たちにリアルな顔がない方が、文脈の展開は楽になる。「(顔のない)健全な市民」対「顔のある悪党たち」という古典的な対比によって、絵はずいぶん作りやすくなる。
私はできることなら、その固定された図式を外したいと思った。その朝、地下鉄に乗っていた一人ひとりの乗客にはちゃんと顔があり、生活があり、人生があり、家族があり、喜びがあり、トラブルがあり、ドラマがあり、矛盾やジレンマがあり、それらを総合したかたちでの物語があったはずなのだから。ないわけがないのだ。それはつまりあなたであり、また私でもあるのだから。

これを丹念にインタビュー取材して文章にしたのが「アンダーグラウンド」だ。

事件の前後のことばかりじゃなくて、その人の生まれがどこで、何人兄弟の何番目で、なんて話も描かれている。例えば、牛乳搾取業の牧場に生まれた人の話なんかだと、

牛は一日二回搾ってやらないと、乳がぱんぱんに張ってしまう。だからどこにも行けない。家を離れられない。春夏秋冬、雨が降ろうが槍が降ろうが、ぜったいにやらぬといかぬです。正月もなにも、休みなんか一日もありません。しかし牛乳はほんとうにうまかったね

なんて話が出てくる。またある人は「兄貴は戦争が終わったあと、満州からウクライナのタシケントに送られまして、そこで強制労働をさせられていました」とか。

農家の人、高級車を売る人、呉服卸し業の人、コンピューターソフトを作る人、印刷会社の人、駅員さん、駅の売店の女性…。年齢もさまざま。亡くなった被害者の親御さん、奥さんも出てくる。それぞれの人生もよう、そして村上さんの人物描写を、事件のことと同等、あるいはそれ以上に、ものすごく興味深く読んだ。

こうした一人ひとりの描きこみがあった上で、事件当日が本人にとってどういう一日だったのか(それは本当に、いろんな背景をもった一日だった)、実際どういう目にあって、現場をどう対処して、その後をどのように過ごしてきたのか、その時々でどのようなことを思い、感じ、考えてきたのかが、丁寧にひも解かれていた。

実際には、多くの人が「いつも乗っている時刻に、いつもの電車のいつもの車両のいつも決めている何番目のドアから乗った」わけじゃなかった。その日、たまたまその電車に乗った人がなんと多いことかと思った。家を出るときにこういうことがあって、たまたま一本遅い電車に乗ったというようなことは、決して稀な例外ではない。

それに、たまたま風上にいて軽症で済んだとか、たまたま風下にいて重症になったとか、とにかくよく聴き込んでいくと「たまたま」のオンパレードなのだ。そこから読者の脳裏に自ずと浮かび上がってくるのは、「遭遇者は、誰でもありえたんだ」ということだ。

こうして一人ひとりの話にふれていくと、安易に一括りにするということは、認識を誤り、真実を揺るがすことに通じる、そんな恐れを覚えた。「こちら側」を雑に扱っては「あちら側」も捉え損ねてしまうし、当事者以外の人たちがこの事件に関心を寄せて問題意識を向けることは同時代の私たちですら困難になる。

当時の警察や消防の救助の態勢、要領を得ないふるまいには、少なからぬ批判の声もある。それはそれで見直すべき点が多分にあるのだろうと思う。

一方で、当日現場に居合わせた人たち、大勢の乗客、営団地下鉄(今の東京メトロ)の駅員さん、地下鉄の駅の出口付近で遭遇した人たちの動きをもって考えさせられるのは、警察や消防が機能しない中でも私たち一般市民が当たり前に協力して、助け合える、そこで必要な役割をかって出られることのプリミティブな強さ、社会の健全さというものだ。

当日、乗客はみんなで協力して、タクシーを停めては症状の重い人から順に車に乗せて病院に行かせたり、軽症の人は声をかけあって4人相乗りで病院に向かったりした。

地下鉄の駅の出口付近でやっていた工事現場の人は、具合の悪い人に声をかけ、通りかかる車を片っ端から止めて、次々に被害者を乗せ、病院まで積んで行かせてくれたという。「ワゴンなんかが来ると、そこにどんどん詰め込んでという感じで。小伝馬町の場合は、一般車にずいぶん助けられたと思いますね」という。

警察や救急がないでは安全に社会がまわらないだろう現実はわかっている。だけれども、理想形をイメージするとき、警察や救急の態勢がより万全である社会システムとは別に、警察も救急も法律もルールもなくても市民一人ひとりがそこで必要な役割を演じて立ち上がった問題を回避できる、あるいは最小限にとどめられる方向にも、私の想像はふくらんだ。

もともとそういう志向性はあったのだけど、改めてそういうことを考えさせられたし、その中で自分は果たして、どういう役割を演じられるものか、その場で機動力をもってどれだけ立ち回れるものか、自分の気概のようなものを再点検する機会にもなった。

これらの事実を前にしていると、私たち個人個人が本来的に持っているはずの自然な「正しい力」というものを信じられる気持ちになってくる。またこうした力を顕在化させ、結集することによって、私たちはこれからも、様々な種類の危機的な事態をうまく回避していけるのではないかと思う。そのような自然な信頼感で結ばれたソフトで自発的で包括的なネットワークを、私たちは社会の中に日常的なレベルで築き上げていかなくてはならないだろう。

*村上春樹「アンダーグラウンド」(講談社)

2020-06-15

説明されるべきものではなく、呑み込まれるべきもの

最近は、わりと多くの時間を小説を読むことにあてている。村上春樹は「騎士団長殺し」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を立て続けに読んだのだけど、後者→前者の順で書かれたものらしく、多崎つくるのほうが小説としては荒削りな感じがある。だけど、そのぶんメッセージが直截に語られている感じもあって、両者の行き来が豊かな読書体験をもたらした。

小説や音楽や絵画といったものが、どんなふうに私たちに働きかけているものなのか、私たちはそれにどう向き合うべきなのか、改めて感じ入った。それは、「騎士団長殺し」の中の一節で、騎士団長がはっきり言葉にあらわしてくれている。

なぜならその本質は寓意にあり、比喩にあるからだ。寓意や比喩は言葉で説明されるべきものではない。呑み込まれるべきものだ

騎士団長、かっこいい(し、かわいい!)。この小説の中では、別のところにも「呑み込む」という表現が出てくる。

真実とはすなはち表象のことであり、表象とはすなはち真実のことだ。そこにある表象をそのままぐいと呑み込んでしまうのがいちばんなのだ。そこには理屈も事実も、豚のへそもアリの金玉も、なんにもあらない。人がそれ以外の方法を用いて理解の道を辿ろうとするのは、あたかも水にザルを浮かべんとするようなものだ

自分が生業としている「学習の設計」にも思い馳せるところあり、表象をそのままぐいと呑み込むというのが、結局のところ一番能率的な「理解の道」ではないかなって思ったりもするのだった。

「呑み込む」という表現は、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」にも出てくる。

不思議な話を、不思議な話としてそのまますっぽり呑み込んだのだと思います

これを発展させたのが、騎士団長のセリフなのかなぁとも思ったりして、2つの作品を立て続けに読む味わい深さも堪能した。

色彩を欠いているという無個性の自覚が根をはっている自分には、多崎つくるの思うところに共感するところ多く、そういう中でも他者に嫉妬することなく、穏やかに暮らせている理由も、たぶんに言葉に起こされていて、こっちの小説も、なんというか、自己肯定感が高まるというか、自分の幸いを再認識させられ、改めて今に感謝したりした。

読者に多くの考えごとを、さまざまな観点で呼び起こす力をもつ小説、やっぱりすごいなぁ。

2020-05-28

「Web系キャリア探訪」第21回、事例からの学び方

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第21回が公開されました。今回はマネックス証券で、ロボットアドバイザーなど個人投資家の支援ツールを開発しているマネックス・ラボ長、斎藤翔太さんを取材しました。

マネックス・ラボを率いる若手マネージャー。テレワーク時代の新しいマネージャーの役割を模索中

新卒で入社した証券会社を1年で退職し、勃興するソーシャルゲーム業界へ転職、3社目のマネックス証券でラボを率いる32歳。

最後の編集後記(二人の帰り道)にも書いたのですが、「それぞれのお客さんに合ったものを個別最適で提供したいという斎藤さんの思いを形にする上で、インターネットというフィールドは非常に相性がよかったのだろうなぁ」という印象が強く残りました。

また「外から日常的にどう学びを得るか」という観点で、ぜひ共有したいと思ったのは、次のくだり。

ゲームに限らず世の中に出ている他のサービスは、「なぜこういう仕組みになっているのか」、「なぜこの機能が追加されたのか」を、自分で仮説を立てて考えることをしていました

「換骨奪胎」みたいな感じで、他社事例から学ぶときって、何のエッセンスを取り出して、何は捨て去って、自分の手元でそれをどう咀嚼して取り入れるのかしっかり見定めて応用プロセスをデザインしていくことが必要不可欠、そのままスライドするように持ってきてもうまくいかないし血肉にもならない。

そう言われりゃ、そんなの当たり前ってたいていの人が思うわけだけど、そうした一手間かかる外部からのインプットをどれだけ当たり前のこととして習慣的にやり続けられるか、そして本質的にやり遂げられるかというのが至難の業な気がします。

今ものすごいお気に入りで読んでいるのが、村上春樹の「騎士団長殺し」なんですが、その上巻「第1部 顕れるイデア編」の中に、ちょっと重なるシーンがあります。

洋画を専門とする絵かきの主人公が、著名な日本画家が描いた絵を見ながら、そこに描かれた人物を自分の筆致でデッサンするシーンがあるのです。5人の人物、一人ひとりの表情を精密に読みとって描いていくのだけど、そこのくだりがなかなかの読みごたえ。

「日本画はもともと線が中心になっている絵画」で、「その表現法は立体性より平面性に傾いている」、「リアリティーよりも象徴性や記号性が重視される」と。

そのような視線で描かれた画面を、そのままいわゆる「洋画」の語法に移し替えるのは本来的に無理がある

と主人公。それでも何度かの試行錯誤の末に、それなりにうまくこなせるようになったというのだけど、そのためにはどういうプロセスが必要なのか。

そのような作業には「換骨奪胎」とまではいかずとも、自分なりに画面を解釈し「翻訳」することが必要とされるし、そのためには原画の中にある意図をまず把握しなくてはならない。言い換えるなら、私はーーあくまで多かれ少なかれではあるけれどーー雨田具彦という画家の視点を、あるいは人間のあり方を理解しなくてはならない。比喩的に言うなら、彼の履いている靴に自分の足を入れてみる必要がある。

「他社事例に学ぶ」みたいなシチュエーションにも同じようなことが言えて、つまり相当に綿密な、この丁寧なプロセスを踏んでこそ、よその事例から学び得るんだろうなって思うのです。日本画はこうなのに対して、洋画はこうっていうのをしっかり意識した上で、実際に手を動かして洋画としてその人物を成立させる試行錯誤が必要なのと同じように、よその事例はどうなのに対して、自分とこはこうであるっていうのをしっかり整理つけて、何をどう取り入れていくのか見定め、自分とこに有用な形にリデザインする。

こういう学び取り方を修練しないと、よその事例に学ぶことはできないし、逆にいえば、こういう学び方を修練すると、あらゆる外の事柄が学習教材になるとも言える。そんなことを、インタビューと小説とを重ね合わせながら、じんわり考えました。

話を今回のインタビューに戻して…、「入社したときは、ロボットアドバイザーやツールのアドバイス通りに購入して頂ければいいというサービスだとイメージしていたのですが、それだけではうまくいかない〜」というのも、すごくいい転職をしたってことだなぁと勝手に思いながら、お話を伺っていました。

「お客さん」と一括りにみていた像が、入社後に洞察を深めていく中で、もっとずっと多様な像として見えてきた。それによって、入社時点で思い描いていたより一層掘りがいのある、広がりのあるサービス開発に従事する可能性を帯びていったわけですよね。

ただ役立つツールを一方向に磨き上げて優秀な頭脳を提供していくって追求の仕方ではなくて、多様なユーザー像を視野におさめながら、彼・彼女たちの伴走者としてどう長く有効に関わっていけるのかを探求・模索していく、そういう仕事との巡り合いによって、斎藤さんがさらにパワーアップして、創造的に、楽しく仕事に励んでいるように感じられて、画面ごしながら素敵なインタビュー時間を過ごすことができました。

自分を1市民としてみても、提供されるサービス単体の価値だけではなくて、こういう「中の人」がいる企業と長くつきあっていきたいという感覚が、ここ10年くらいで高まっていっているように感じています。というわけで、ぜひ一息入れたいときなどに、上のリンクからインタビュー記事をご一読いただければ嬉しいです。

2020-05-20

[共有]コロナ禍における企業の人材育成(WebSigモデレーターMTG拡張版)

昨晩は「WebSigモデレーターミーティング拡張版」なる、オンラインライブ配信のトークセッションにゲスト出演させていただきました。

先週お声がけいただいて、テーマは「ゲストが最近興味をもっているトピックス」ということだったので、じゃあ2部構成にして、私から最初「コロナ禍における企業の人材育成」の話を少しさせてもらって、その後みんなで「Webクリエイティブ職のマネジメント・評価」あたりに話を広げ、コロナ禍・リモートワーク下で、それぞれがどんな感じで会社やチームをマネジメントしているかとか、どんな課題に直面しているかとか、もう少し先の人のマネジメントスタイルがどう塗り替えられていくかみたいな未来像を聴かせてもらえたら面白いかなぁと思って、ネタ振り役的に参戦してみました。

内容は、今からでもアーカイブ動画を視聴できます。私のショートプレゼン(といっても30分くらいしゃべりましたが…)の内容は、スライドだけでささっとご覧いただくこともできるので、Webクリエイティブ職界隈の人のマネジメントにご関心ある方は、お時間のあるときに見てみていただければ幸いです。

アーカイブ動画(YouTube)

スライド(Slideshare)

私は、オンライン公開セッションぽいのに家から参加して話し手を務めるって初めての体験だったのですが、「緊張しているのに家にいる。家にいるのに緊張している」という感覚は、これまでに経験がない不思議な感じがしました。今、就・転職活動でWeb面接とか受けている方も、これに近い感覚を覚えているのかも。

やっぱり格好は整えておくべきで、「下はパジャマ」とかだとテンションが定まらないので、全身、普通に表に出ていく格好にしたほうがいいよなぁって改めて思いました、はい。実際、普段からパジャマは寝るときだけにしているのですが。

ともあれ、そんな感覚を味わっていられるのも本番始まったところくらいまでで、始まってしまえば、あとはせっかくいただいた機会、少しでも何か考える踏み台なり、選択肢を広げる情報なりを提供できればということで、事前に整理しておいたことを頑張って話すに尽きるのでした。

本編でも言い訳してしまいましたが、私は自分のうち側から出てくることって本当にオーソドックスなことばかりの人間なので、別段すばらしくハッとすることを言えるわけじゃないんですが、人というのは何か目の前に提示されると、それをきっかけにいろいろ考え始められたりもするものなので、皆さんの中で何か新しい考えなり選択肢なりを生み出す踏み台になれたら、これは大変うれしいことです。そう他力本願にかんがえると、腹をくくって人前でもしゃべれるもの。

今回は、私が1部で話した「同期・非同期」という言葉を、2部で皆さんがけっこう使って話してくださっていたので、それを静かに喜んでいました。踏み台として一定の機能を果たしたんじゃないか!と、そういうところで地味にひっそり自己満足しています。

2部では、リモートワーク下で社内のコミュニケーション空間をどう確保していくかとか、スタッフが困っていたり業務が滞っていたりするのをどう発見してケアしていけるものかとか、社内はわりと改善重ねてうまくまわるようになったけれどもクライアントとのコミュニケーションは相手があることなので、まだまだ…とか、そのための仕組みとか取り組みとかに話が及びました。

社内コミュニケーション的なところの話を聴いていて思ったのは、「せっかく作った仕組みなんだから、みんな使って!参加して!必ずやって!」と、全部の仕組みに全員を巻き込んでいくんじゃなくて、誰かがどれかを使って、あるいはたとえ新たな仕組みをどれも使わない人がいても、それぞれが、うまく会社と、上司と、同僚と、得意先と、取引先とコミュニケーションをとりながら、支障なく、良い形で仕事に取り組めているなら、それを各々のやり方として良しとする。そういう組織運営が、今後は多様性を受けいれた本質的で合理的なまわし方ってことで発展していくのかなぁという、なんとなくそんなことです。

世の中のサービスは、インフラやプラットフォームの進化に引っ張られる形で、どんどんパーソナライズされていっている。人は、よりパーソライズされた仕事空間や生活空間を求めていく。人も組織も、きっと多様な価値観を体現して、いろんな個性が表出してくる。人も組織も「一般的にこう」という画一性から解放されて、「うちは出勤するのが基本」「うちはリモートが基本」といろいろ出てきて、個々人も自分にあった組織を選んでいく。だから組織は、そういう個性を求人情報なり何なりを通じて表明していくことが大事になるし、人は自分がどういうところで働くと快・不快かをもっと自覚するようになって、そういう観点で会社選びする意識も高まっていくんだろうというような。

一方で、まだまだそういう人の多様性を受け入れるマネージャーの度量、同僚の度量、部下の度量、組織の度量、社外の人・社会の度量みたいなのは技術に対してふつりあいで、技術進化のようなスピードでは人の価値観は変容を遂げないから、これから少なく見積もっても何十年か100年単位かで徐々に変化していくってことなのかなぁとも思いました。もちろん、どんどんそういう組織、働き方、体現する人たちは出てくるのでしょうし、今もたくさんいらっしゃるのでしょうけれど。

表層的な仕組みだけ充実させていって中身の人が変わらないと、画一的に全員に参加を求め、可視化しなくていいものを可視化して掘り下げ、人のモチベーションを下げ、人を傷つけ、後に何も残らない改革すら起こしかねないことも危惧されます。私はその「人の多様性を尊重する部分」を損なわいように注視して、大事に大事にしながら変わっていけるように、この創造期、みんなと一緒に仕事していけたらなぁなんて思いました。

この辺、なかなか考えたことを言葉に表すのが難しいのですが、お時間ある方は2部のほうの皆さんのお話もあわせて、ぜひ「ながら観」とかでも、してみていただければと思います。

終わった後は、「大丈夫だったですかね!!!」という不安感に襲われていたのですが、ひと通り観てくれていた人が直後に連絡をくれて「問題なかった」という回答だったので、そのまま安眠に至りました…。朝振り返ってみると、「大丈夫だったか」「問題なかった」という、かなり最低限きわまった感じのやりとりで安眠に至れた自分にびっくりしてしまいましたが、まぁとりあえず問題なかったのだということで。刺激的な機会をいただき、本当にありがとうございました。

2020-05-14

[共有]IAワークショップ ー「新しい生活様式」の代替案を考える

身近で自分ごとの最近の話題を用いて課題にあたると、学習効果が高いことがわかっています。コロナ禍では、これを題材にIAについて課題を検討し、代替案を練ってみるのもよいでしょう。ということで、IAワークショップのネタ提供です。

IAワークショップ ー「新しい生活様式」の代替案を考える

どうも日々暮らしていると、これでひとネタ作ってみたいという職業病をもちだした。「使えるかどうかは受け手に判断を委ねる」というちょっとした迷惑行為かもしれないが…、自分のワークショップ設計の筋トレとしては良いことな気もする。使いものになりそうだったら、部分的にでも使っていただけたら嬉しいかぎりです。

2020-05-07

AirPods Proという「静寂」を買った

ゴールデンウィーク中に思い切って「AirPods Pro」を買ってみた。つけてみて、びっくりたまげた。噂には聞いていたが、本当に静寂。イヤホンではなく、静寂を手に入れたのだった。ノイズキャンセリング機能というやつである。21世紀は、こんな小型サイズで静寂が売られている世界なのかと、しみじみ感動した。

これまで使っていたイヤホンは、音の本体とはBluetooth接続できるものの、右と左のイヤホンは有線でつながっているタイプだったので、マフラーだったり帽子だったり襟だったり髪の毛だったりに絡まって、微妙なところで使い勝手が悪かった。しかも、どこかでイヤーピースを片方落としてしまって、あぁあーと思いながら片方だけで使っていたりした。

そこからのジャンプアップである。ひさびさに贅沢すぎる買い物をしてしまった。

まさに、時を忘れてしまう空間。今日も仕事のときに試しに使ってみたのだけど、ものすごい集中できちゃって自分じゃないみたいだった。私がこんなに長いあいだ集中できるなんて、何かの間違いじゃないかと。

静寂って、概念なんだなって思った。私のような人間1.0は、静寂っていうと誰もいない広い空間なんかのイメージが先にたっちゃうのだけど、そうやって場所をとるものって決まりはない。「これ」って指し示せるモノではなく、静寂は、やはり言葉どおりコンセプトなのだった。何らかの意味づけをして、人間が価値を認められるコンセプトなのだ。

このあいだ読んだ本(*)に、こんな節があった。

存在するというと、いつも空間的なものを考えてしまうのです。これは僕らの悟性の機能の習慣に過ぎない。存在するものが空間を占めなくたって、ちっともかまわないわけでしょう。空間的には規定できない存在も考えうるのです。むしろ、空間的に存在するものは、潜在的な存在が顕現するのを制限している機構だというに過ぎない。

むずカッコいい斬り方が印象的だったのだけど、この話が「AirPods Pro」を体験したときに呼び起こされた。

いま私たちが日常生活で使っている技術は、すでに概念の本質を多様に展開できる力をもって、いろんな有形・無形に体現されて、それを享受して私たちは暮らしているんだなぁと、しみじみ感動する機会となった。

「悟性の機能の習慣」からちょっと距離をとったところの目線は、こういう実体験を通してしか育んでいけなさそう。大事だなぁ。そういう意味でも、たいそう尊い買い物をした。音楽を聴くより、静寂を得るのに使いこんでしまいそう。

*小林秀雄「学生との対話」(国民文化研究会、新潮社)

2020-05-06

ともあれ英文読解の習慣をもつ

4月半ばに腰をぐきっと痛めてしまい、今年のゴールデンウィーク改めステイホーム週間は「腰痛を治す」ことだけに努めて地味に暮れていった。といっても過言ではないのだけど、完全にそれだけなのもやりきれないというので、こもるの必至な長期休暇、ずっと読み途中になっていた英文法のベストセラー本を手にとった。Amazonによれば購入したのは3年近く前のこと…。

NHKでラジオ英会話の番組もやっている大西泰斗さん、ポール・マクベイさんの「一億人の英文法 ーすべての日本人に贈る『話すため』の英文法」というの。凶器になるレベルの650ページを超える厚ぼったい本。

これを1から読み直す気にはとてもなれず、もちろんだけど読み途中だったところから最後を目指した。なので昔読んだ最初のほうに何が書いてあったか、説明しろと言われても無理なんだいという感じだけれども、まぁそんなことはひとまず気にしないことが大事なんである。

で、ともかく、この分厚い本を、ほぼほぼ最後まで読み進められた。ぜいぜい。正直、これを読了といっていいかは、だいぶ怪しいのだけど。

よく使う動詞、副詞、前置詞を一つひとつ取り上げては、これはこういうふうに使われ、こういうふうに使うのは違くて、ネイティブの人はこういう感触で使っていて、こう使うんじゃないんだな…みたいなのを事細かに書いてあるあたりは、むぎゅむぎゅ情報が詰まっていて、「読み終えた」どころか「読んだ」と表するのも躊躇われる。頭に残っている気が全然しない。

けれど、まぁ、ともあれだ、純粋に「英文法の理解」に焦点をしぼるなら、そうだそうだ、こういう感じだった、そうだったと思い出す機会としては有効に働き、自分なりに読んだ収穫があった感触はある。自分的には、これでいいのだ!という感じである。目標は低く狭く、現実的に…。

どういうBefore/Afterの変化があったかというと、英文法の理屈が理解できて(知識習得)、日常的に英語の文章を読もうという気になって(態度形成)、実際何らかの記事を最後までざっくり読めきれるようになった(スキル習得)ということである。

理屈の理解はしたが、記憶はできていない。読もうという気になるのは、関心あるネタにかぎって1日に数記事がせいぜい。Weblio英和辞典で単語を調べ調べ、Google翻訳に文脈を尋ね尋ね。のんびりゆったりしたもんである。

けれど、これまでは、それすら億劫だったし、読み解くあてとなる知識にも欠けて、お手上げだった。これが、なんとかできるようになり、英文に親しむスタート地点に立ったという感じだ。ここで、あれ、英文科じゃなかったっけ?とか野暮なツッコミはいいんである。

あとは、読む気になるこの心的状態を持続させて、日常的に読んでは、ふむふむと英語で書かれた文章から情報を得て実利を得ている状態にすること。この習慣づけ、生活づくりまでが当面の目標。習慣さえ身につけば、あとは10年も続けたら語彙力も今よりついているだろう(目標低い)。その土台づくりとして、自分にしてはよくやったゴールデンなウィークだったんである。ぱちぱち。

この本は、また読み直そう。いい本だった。持ち歩こうとすると腰の負担がものすごいという以外は、実にいい本。

2020-05-03

アンケートの選択肢の設け方

このあいだ仕事で、人が作ったアンケートのたたき台に、このままでは出せない!と前のめりになって全面的な加筆修正版を作って提案を返したのだけど(無事に通ったが、納得したためか私の過剰な熱っぽさによってかは不安が残る…)、アンケートの設問の構成・文面はもとより、選択肢をどう用意するかってのも、一言一句ものすごく繊細かつ大事なところで、回答者に対する誠意をもって臨まなきゃいけない仕事だと思っている。

アンケートで設問を送り、それに答えてもらうというのは、広義にとれば「人間同士の会話」とも括れるものだ(ということにして)。

批評家の小林秀雄さんは、「人間同士の会話とは意味と同時に言葉を植えつけることだ」と言っている。「学生との対話」*の中にある、こんな氏の言葉が頭の中に立ちのぼってくる。

問題を出すということが一番大事だ、問題をうまく出せばすなわちそれが答だ、いま物を考えている人がうまく問題を出そうとしない、答ばかり出そうと焦っている

憲法記念日の今日は、憲法改正に関する全国世論調査の結果が各メディアで報じられていて、改正賛否を問う回答選択肢(と回答率)に目がとまった。

▼読売新聞社
改正する方がよい(49%)
改正しない方がよい(48%)
答えない(3%)

▼NHK
改正する必要があると思う(32%)
改正する必要はないと思う(24%)
どちらともいえない(41%)

ちなみに、朝日新聞社も賛否を二分する訊き方で「その他・答えない(11%)」とあり、共同通信社は「どちらかといえば」どっちという選択肢を入れているよう、毎日新聞社は「わからない」を設けているようでNHKに近い。

2つ見比べてみて、読売新聞社は「どちらともいえない」という選択肢を設けなかったのだなぁというのと、人は「どちらともいえない」が与えられていない設問を提示されると、賛否のどちらかを選んでしまうものなのだなあというのを、感じた。

その結果、出てきた数字がコピーライティングされて、意味と同時に言葉を人々に植えつけ、人々の認識をぬりかえていく力をもつ。

自分が答える側の立場としては、与えられた選択肢から選ぶというだけでなく、与えられた選択肢をきっかけに自分でその問いに向き合い、自分の答えを検討する姿勢を大事にしたいって改めて思った。

自分が問う側の立場としては、相手の声を正しく聴こうとすること、引き出そうと努めること、問いかけるときに何を聴いて、どう訊かないか、言葉を丁寧に選ぶことを、改めて大切にしようって思った。

*小林秀雄「学生との対話」(国民文化研究会、新潮社)

2020-04-27

[共有]ワークショップの型「デザイン批評力を養う」

「デザイン批評力を養う」ワークショップの型を(ざっくりですが…)こしらえてみましたので、ネットの片隅に置いてみます。

ワークショップの型[デザイン批評力を養う]

こちらもまた、汎用的に使えるよう意識した分、オーダーメイドのような落としこみに欠ける枠組みですが、「チームでデザイン批評力を高めていきたい」という希望はあれど、まだ手を打っていない、どこから手をつけようかなという現場などあれば、その第一弾として使えるとこ使ってもらえたら。

まだ野暮ったい書き方で、道半ばな自覚はあるんですが、まぁ、そこは寛容に。うまいこと現場に合うようカスタマイズしていきながら洗練させていっていただければ、これ幸い…。

withコロナのもと、個人ワーク+オンライン会議で行う想定で、何らかのデザインプロセスに関わる職業人が集って、わりと気軽にデザイン批評を始められる小規模な勉強会イメージです。

ここは割愛していいなという部分を削ってライトにしていただくのもありだし、こういうアレンジもできるよという話は、最後の「補足」に入れておきましたので、そちらも参考まで。まぁ、とりあえず、置いても罪にはならないということで…

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