2021-05-06

高慢と正直

ゴールデンウィーク中に、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」を読んだ。200年も前に書かれた作品だけど、読みやすくて、おもしろくて、一気読みだったなぁ。前から読んでみようと思っていたわりに前知識を全然いれていなくて、タイトル名に気圧されて身構えつつ読み始めたのだけど、拍子抜けするほどポップであった。

訳者のおかげも大きいかもしれない。訳者選び(出版社選び)には慎重にあたった。しろうとが気取った選書をしても、ろくなことがないという教訓が体験的にあって、とにかく読みやすさを重視。原著に忠実な訳か?気にしない気にしない。Amazonのレビューを読んだり、Twitterで「翻訳者の読み比べをしてしまうほど熱心」という猛者の声を参考にして、中野康司さん訳のちくま文庫を選んだ。

「ねえ、お姉さま、コリンズさんはうぬぼれ屋で、尊大で、心が狭くて、そのうえひどい馬鹿よ」って身も蓋もないセリフもあれば、その数行あとに「利己主義を思慮分別と思ったり、危険にたいする鈍感さを、幸福の保証だと思ったりしてはいけないわ」なんて本で読まなきゃ流してしまいそうなセリフも。人のこころの一喜一憂も思慮深さも、人間の愚かさもおかしみも尊さも詰まっていて起伏が豊か。

ダーシーは、下巻では「ぼくは自己中心的な高慢な人間」だったというふうに過去の自分を振り返るんだけど、上巻では自分のことをそうは見ていない。高慢なのではなく、正しいこと、理にかなったことを大事に価値判断してきた、言動や行動を取捨選択してきた。自分が価値をおかないこと、そうだと思っていないことを、へんに人に気を遣って謙遜したり、むやみやたらと相手に調子をあわせることを選んでこなかった。

それは、自分に対して正直に生きているってことじゃないかなぁと思う。また自分が正直に向き合いたい人に対して、率直にもの言って自分のことを伝えようとする姿勢でもある。相手にそれを受け取る度量がないと、高慢ちきと思われることもあるわけだけど、そういうふうに生きる上巻のダーシーを、私はそれはそれで筋が通っていると思うし、その魅力を正面から受け止めたいんだよな。そういう意味では、私はけっこう上巻の(改まる前の)ダーシーの発言が好きだ。

「謙遜ほど欺瞞的なものはないね」と言う。「人の意見を無視しているか、間接的な自慢か、どちらかだ」とダーシー。いやいや、そんなそんなーと言って、相手の言葉をスルーする。あるいは、いやぁ、ただ~なだけですよ!と返して、実は自慢とか。なるほどなと。全員が全員こういうタイプだと大変な世の中だろうけれど、こういうタイプもあっていいのでは、いろんなタイプが交じり合って認め合っているコミュニティのほうが健全だしタフなのではと。

エリザベスも、上巻のセリフが光っている。

うぬぼれのない人なんてめったにいないわ。ほんとに、人間共通の弱点なのよ。でも、高慢は自尊心が強すぎるということだけど、自尊心と虚栄心は別よ。これはよく混同されるけど、まったく別よ。自尊心が強くても、虚栄心が強いとは限らない。自尊心は、自分で自分のことを偉いと思うことだけど、虚栄心は、他人から偉いと思われたいということよ

健全な自尊心か、不健康な虚栄心かは、それを評価している主体が自分か他人かで考えてみると、わりと判断が出しやすいかもしれない。

もうさ、ほんとさ、人の生き方において大事なことはだいたい紀元前のうちに哲学的に言葉になっていて、それをどう解釈して今の自分に展開するのかって命題も200年前には文学的に物語られていて、現代の命題といったら、じゃあその巨人の肩の上で、今の時代に自分はどう生きるのかってことしかないよなぁって。一般市民として生きる身としては、それが難しいんだけど、それを楽しんでこそなんだろうなぁって改めて思った次第。

ジェイン オースティン (著), Jane Austen (原著), 中野 康司 (翻訳)「高慢と偏見」(ちくま文庫)

2021-05-04

今どき高校生のネットリテラシーを読む

昨日のラジオで、今どき高校生のネットリテラシーを話題にしていた。日本学校保健会が、全国の高校生を対象に「メディア・リテラシーと健康行動に関する調査」を行った。調査時期は2020年1〜2月(コロナ感染拡大の直前)、調査対象者は当時の高校2年生8千人あまりで、今ちょうど高校を卒業したばかりの人たちになる。

調査結果のトピックスをいくつか紹介していたのだけど、まず健康に関する情報をどこで入手するか。

●最もよく利用するのは「インターネット」が半数(49.4%)を占めた。「テレビ・ラジオ・新聞」は17%程
●ネットで多く利用されているのは、まとめサイトやSNS。「国、自治体などのサイトは使わない」との回答が半数にのぼった

続いて、メディアで情報をみるときに確認すべき項目を確認しているか。

●いつ作られた情報かを確認するかは、「いつもする」が14.4%、「しない」が1/4を占めた
●情報源を確認するかは、「いつもする」が14.5%、「しない」が1/4を占めた
●情報は科学的な事実なのか、あるいは誰かの意見かを確認するかは、上とほぼ同様だった

とのこと。おしゃべりの中で紹介していたので、結果の全容を把握できるものではないけれど。放送から1週間は聞き逃し配信をネットで聴けるので、よろしければ下のリンク先から。

「ヘルスリテラシーを考える」 三宅民夫のマイあさ!「深よみ」丨NHKラジオ第一(5月3日7:20放送、5月10日7:40配信終了)

メディア側も、健康情報などテーマによっては、ページをデザインするときに「いつ作られた記事か」「何が情報源か」をもっと分かりやすく目に入ってくるように工夫するとか、やりようがあるのかもなぁなどと思いながら聴いていた。Twitterなどで時おり、10年前の記事とか、ちょうど1年前の今ごろという記事が流れてきて、少なくない人が昨日今日の記事と誤解しているふうな状況を見かけるし。

さて調査結果に興味を覚えて、情報源だという日本学校保健会のサイトを見に行ってみた。上に書いた内容は無料で見られなかったのだけど、調査結果レポートの一部が電子ブックで覗けた。

メディアリテラシーと健康行動に関する調査委員会報告書<令和3年3月発行>

この資料では、そもそも今どき高校生のネット利用状況がレポートされていた。不思議に思ったのが、なんでゲームの利用時間だけ、こんなに男女間で差が出るのかなということ。平日「約1時間」以上やるのが、男子は7割、女子は3割強で、はっきりとした違いが認められる。

「インターネットの利用時間」も、「勉強・学習のための情報検索のためのネット利用時間」「勉強・学習以外のネットサーフィン・情報検索」「動画・音楽・電子書籍の視聴」「ネットショッピング」のためのネット利用時間は似たりよったりなのに。ゲームは男の子が好むものという周囲の認識による環境要因なのか、もっと恒久的な生物的?な男女差の好みによる違いなのか。この先20〜30年の間に変化が出てくるのか(男女に違いがなくなってくるのか)、ちょっと興味がある。

ゲームほどのインパクトはなかったけれど、コミュニケーションのための利用時間については、女子は「1時間以上」が6割超、男子は過半数(53.0%)が「30分未満」で立場逆転、こちらもけっこうはっきりした違いが出ている。ほぅ。同じアプリを使っているんだけど、男の子はゲームしていると認識していて、女の子はコミュニケーションしていると認識しているとかはなかろうか、などとも思いつつ。こちらも、この先20〜30年で違いが維持されるか減っていくか、どうだろう。

それと些末なことだけれど、「ネットサーフィング」って言っているのが気になった。いつからネットサーフィンじゃなくなったんだ…。

2021-05-02

自分の大事なものには影響を受けたい

「自分が変わる」ということについて、このところ折りにふれ思い巡らせていた。

きっかけの一つは、先月に読んだ古賀史健さんの「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」*。ライター向けの教科書ながら、「書く」ことを通して「つくる」ことが多い私には、生涯の教科書といえるほど良書だった。その始めのほうに、こんな一節があったのだ(著者は「ライターとは取材者であり、執筆とは取材の翻訳」と説く)。

自分を更新するつもりのない取材者は、どれほどおもしろい情報に触れても「へえー、なるほど」で終わってしまう。情報を、他人ごととして処理してしまう。自分のこころを動かさないまま、自分ごとにしないまま、情報としての原稿を書いてしまう。そんな原稿など、おもしろくなるはずがない。いい取材者であるために、自分を変える勇気を持とう。自分を守らず、対象に染まり、何度でも自分を更新していく勇気を持とう。

(実に豊かな文章の連なりをぶった切って部分を引用してしまっているので心苦しいのだけど)中高年になると、なかなか若い頃のように一冊の本を読んで自分の価値観ががらりと変わるようなことってなくなっていくのでは。そんな話から展開される上の一節を読んで、どきりとした。自分が「へえー、なるほど」の後、何も変化していない経験をふんだんにもっていると思いあたったからだ。

その一方で、時間の使い方、生活、仕事への向き合い方、生き方について、変わったこと、変えたこともある。どういう心もちからかと言えば、自分が大事だと思えた出来事、本、大事な人との出会いを、時の流れの行き過ぎるままに、自分の中で何も刻まず、何事もなかったかのように無意味に終わらせていっていいのだろうかと思ったからだ。私はそのこと、もの、ひとと出会えたこと、交わせたやりとりを無に帰さず、自分の中に取り入れたいと思った。

私は量を追えるタイプではない。本を読むのも遅いし、日ごろ摂取している情報も周囲の人たちに比べて狭く乏しい。人との交流も少ない。そこはまぁ、なかなか変えようも難しい。本はじっくり読みたいし、処理能力が高くない(速く回転できない)ところに無理に量を突っ込んでも仕方ない。今さらパーティーピーポーにキャラ変できるわけでもないし、したい欲もない。

しかし、だ。一つひとつの出来事、見聞きするお話、もの・ことに触れる体験、一冊の本、人との出会い、ともに過ごす時間、生まれるやりとり、それによって私の中で起こる思いや考えを丁寧に咀嚼することも、自分に取り入れることも、自分を変えていくことも、それはできるし、やりたいのだった。

真にやりたいことは、やったほうがいいんだけど、真にやりたいくせに、怠けてしまってできないことがある、続かないことがある。

多くのことは、するすると自分の目の前からなくなってしまう。それと出会い、相対せているのは、人生の中でごくわずかな時間の偶然に過ぎない。そのまま放っておくと、跡形もなく自分の中からも消えていってしまう。

自分の位置が次の時、次の時へとずるずる先へ進んでいってしまう中で、自分が何を失ったのか、何は手元に残り、それを種として何を育てていきたいのか。そういう思いや考えを柱にして丁寧にやっていけたら、ある意味失うものはないという解釈もできるし、心強いし、あったかな感謝の気持ちに満たされるし、きっと豊かに健やかに暮らしていけるだろう、という希望的観測。

*古賀史健「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」(ダイヤモンド社)

2021-04-30

映画ポスター伝説の職人・檜垣紀六が語る

TBSラジオ「アフター6ジャンクション」の特集コーナー「映画ポスター伝説の職人・檜垣紀六が語る~」が面白かった。デザインに通じた映画好きの方なら、めちゃめちゃ楽しめそう。私はどっちも素人だけど、平易な言葉で話してくれているし、玄人がきゃっきゃとおしゃべりしているのを聴くのが大好きなので、たまらなかった。

今はSpotifyでアーカイブが聴ける。登録とか無しで、このコーナーだけ切り出したのを聴けるので、ゴールデンウィーク中によろしければ。いつでもどこでも非同期で聴けるポッドキャスト、最高である。

映画ポスター伝説の職人・檜垣紀六が語る映画広告・ランボーの夕日は熱海だった?!その真相とは?

檜垣紀六(ひがき きろく)さんは映画デザイナー。「時計じかけのオレンジ」「燃えよドラゴン」「ダーティハリー」「ランボー」「ターミネーター」「ダイハード」「スーパーマン」「プリティ・ウーマン」「ゴジラ」「ルパン三世 カリオストロの城」など、誰もが知る名作映画の広告デザインを、洋画だけでも600点以上手がけてこられた今年81歳。昨年でデザイナー生活60年。30、40年じゃない、60年である。すごいっ。

このたび作品の数々をまとめ、自ら解説した『映画広告図案士 檜垣紀六 洋画デザインの軌跡』(*)が出版され、編集を担当した桜井雄一郎さんとともに番組にゲスト出演した。

「ランボー」のポスターで、マシンガンを持つシルベスタ・スタローンの背景の夕日は、檜垣さんが会社の社員旅行で熱海に行ったときに撮った写真だったという話に始まり。

Amazonにある「ランボー」のポスター画像

50分ほどのお話が頭からお尻まで、ものすごい楽しかった。柔和な語り口、ロジカルな分析と、分析に基づく創意工夫の種明かし。映画に造詣が深い宇多丸さんが手際よく話を引き出していくのも心地良い。

1枚の絵(ポスター)でどう劇場に誘うか、横並びで同時公開する映画とどう差別化するか。幼少期の戦艦大和、防空壕の話も出てくれば、スピルバーグ監督の先々のキャリアも見据えてデザインを考える話なども出てきて、いやぁなんかもうほんとに、この1本聴くだけで仕事人としての生きざまに敬服しちゃう。

制約ってどんな仕事にもありますけど、それを乗り越えていくのってけっこう楽しいですよ

って、にこやかにはさんでくるのも、60年やってきた人の言葉の力は、ちょっとありがたみが違う。

でも何より心に残ったのは、檜垣さんが終盤に口にした「ありがとうございます」と「ありがとね」って言葉だ。番組パーソナリティの宇多丸さんとは初対面だから、宇多丸さんの賞賛の言葉には「ありがとうございます」って、また本を一緒に作ってきた編集者の桜井さんの賞賛の言葉には「ありがとね」って返すんだけど、その声がすごーく染み入った。

褒め言葉って、受け取る側に立つと、照れが入ったり、お世辞だろうって思ったりで、せっかく相手が贈ってくれた言葉を真正面から受け取るのを拒んでしまう、はいはいって受け流しちゃったりする。でも自分が本当に気持ちをこめて、素晴らしいって思ったって気持ちを言葉にしてご本人に伝えたときのことを思い起こすと、こんなふうに正面から言葉を受けとめて「ありがとう」って言ってもらえるのが一番うれしいかもなぁって。

檜垣さんは、ものすごく正面から宇多丸さんや桜井さんの言葉を受け取って、ありがとうって言うんだ。その声が、ものすごく温もりがあって、いいんだなぁ。もちろん、この「ありがとう」は、宇多丸さんや桜井さんの言葉が、深い洞察と敬意に満ち満ちたメッセージだったからこそってものなんだけど。いやぁ、実に豊かなおしゃべりを聴かせてもらいました。

*檜垣 紀六 (著), 桜井 雄一郎 (著, 編集), 佐々木 淳 (著, 編集)「映画広告図案士 檜垣紀六 洋画デザインの軌跡: 題字・ポスター・チラシ・新聞広告 集成」(スティングレイ)

2021-04-28

YouTube「キャリアデザイン講座」第13回を公開(キャリアの市場価値)

勤め先のYouTube公式チャンネルで「キャリアデザイン講座」第13回を公開しました。今回のテーマは「キャリアの市場価値」について。

【クリエイターのためのキャリアデザイン講座13】(キャリアの市場価値)

いくら鮮明に自分のやりたいこと、できること、譲れないことを分析できても、それが労働市場で求められるものでなければ仕事として成立しない。ということで、市場価値の探り方などご紹介しています。ご興味ありましたら覗いてみてくださいませ。

なんというか、ここまで作ってきて改めて、台本づくりの奮闘に対して、絵づくりがひ弱すぎるなと痛感するわけですけれども、ともかくここまでやってきまして、次回で最終回とします。

「キャリアデザイン」という抽象度をテーマにずーっと続けていくことには意味を感じないので、これはこれでおしまいにして、また別のコンテンツづくりとか、組織内のナレッジマネジメント推進的なこと、会社内の編集業や構成作家的な役まわりを果たせるように縁の下で頑張りたいなと思います。今後とも、ごひいきに。

2021-04-16

つまみとレバー、ひもの昭和

今40代の私の幼少期というと、昭和50年代。この頃は、まだ暮らしの中にボタンが少なかった。物心ついたくらいの私の家では、家電の調節ごとは大方つまみとレバーによってなされていた。

テレビのチャンネルまわしが代表例だ。テレビ本体の所まで歩いていって、画面の右上についたつまみをつかみ、がちゃがちゃ大きな音を立ててつまみを回していた。子どもがまわすには、親指と人差し指だけで事を成すのは困難で、いつも中指も参加させて3本指で握って回していた。

千葉では、1、3、4、6、8、10、12チャンがイキで、2、5、7、9、11チャンは映らなかった。9チャンとかでつまみを止めると、ジーっという音がして、ザーッという黒い画面が表示された。1チャンから8チャンにしたいときは、6チャンくらいで一休み入れて、つかみ直して8に合わせていた気がする。

洗濯機も、ガスコンロも、電子レンジも、全部つまみをまわして、加減やら時間やらをセットしていた。炊飯器は、たぶんレバーだったような。天井の電気は、ひもをひっぱって点灯→豆電球→消灯を切り替えていた。エレクトーンは、ストリングスの音を入れるのか入れないのか、フルートの音を入れるのか入れないのか、ONとOFFをレバーの上げ下げで切り替えていた。私はもっとボタンを押したかった。ボタンを求めていた。

そんな我が家にインターホンが導入されたときは、たいそう興奮した。家の建て替えに伴ってインターホンもついてきた次第なので、家が新築されたことがビッグな話なのだけど、私が新しいおうちに入って興奮した思い出と言えば初インターホンだ。

「インターホン押してくる!」と言って、いったん入ったおうちから表に出ていって、外の門のところからインターホンのボタンを押したときの快感。おー、もう、これで、ボタンを押したいときには心置きなく押す場所があるという充足感というか、すごいものを手に入れてしまったと気分が高揚したのを今でも覚えている。

もともとの家には確か、インターホンがついていなかった。昔は大人でも「ごめんくださーい」と門の手前から叫んだり、玄関の扉をノックして呼び出していた。私も小学1、2年くらいの頃は、友だちの家に遊びに行くと玄関の前に立って「○○ちゃーん、あそぼー」と大声はりあげて呼び出していた。昭和だ。

この頃に、おそらくラジカセやらゲームウォッチやらファミコンやらどんどこ家に入ってきて、私のボタン生活は一気に華やいだ。そこに突入する前までは、お菓子の缶についてくる梱包材のプチプチつぶしが極上の喜びだった。(私が触れる)世界にはボタンが本当に全然なかったのだ。

「ボタン押すのが好き」という感覚は、その後もけっこう長いこと、色濃く自分の中に残っていたように思う。平成も一桁くらいまでは「パソコンを使う仕事がしたい」「コンピューターを使う仕事に就きたい」という言い回しが、わりとよく聞かれたと思うけれど、私の中にいくらかあったそれは全く高尚さを欠いていて、「ボタンを押す仕事がしたい」ではなかったかと今にして思う。プログラミング楽しいとか、デジタル社会が到来するとか、工学的なり概念的なり社会的なりの意図をもっていたわけではなく、もっとフィジカルなものだったような。

なんで唐突にこんな話を?というのは、疲れた平日の晩につまみ読みしていた春風亭一之輔さんのエッセイまくらが来りて笛を吹くで、サザエさんて昔、日曜の晩だけじゃなくて火曜の晩もやってたよねって話を読んでのこと。

そうだった!そうだった!と興奮を覚えた勢いついで。オープニングは「まーどを開けーましょ、ルルール、呼んでみましょー、サザエさーん」、エンディングは「たらちゃん、ちょっとそれとってー、母さん、この味どうかしらー」。どうしても節を思い出せなくて、結局YouTubeで調べて聴いてみたら、ほんと押入れの奥のほうから記憶がずるずるずるーっと引っ張り出されて、そーだったーと心ふるえた。ちなみに、日曜のお隣りさんは小説家の伊佐坂さんだけど、火曜のお隣りさんは画家の浜さん。お隣さんのペットの犬はハチじゃなくてジュリー、三河屋さんは三郎さんじゃなくて三平さん。いやぁ、なんとなく違うよなぁってくらいの認識で、ずーっと見てたなぁ。懐かしい。ずいぶん遠くまで来たもんだ。

2021-04-14

YouTube「キャリアデザイン講座」第12回を公開(キャリアの棚卸し)

勤め先のYouTube公式チャンネルで「キャリアデザイン講座」第12回を公開しました。今回のテーマは「キャリアの棚卸し」について。

【クリエイターのためのキャリアデザイン講座12】(キャリアの棚卸し)

自分の好きなこと、嫌いなこと、やりたいこと、やりたくないこと、得意なこと、苦手なこととかって、なかなかズバリとは言えないし、全容を把握しきれていないもの。また実際の自分というより、こうありたいという理想の自分像にゆがめられて認識しているケースも少なくありません。

そこで自分の実像に迫る自己分析アプローチとしてご紹介するのが、今回のキャリアの棚卸し。過去の自分の経験を振り返って、どんなときにどう思ったか、何を好み何を嫌ったか、何を楽しみ何にうんざりしたか、何を選んで何を選ばなかったか。何を身につけて、どんなふうに自分は変わったか。そうした自己理解を掘り下げていく段取りをご紹介しています。

会社で新卒5年目向けとか30歳向けとかでキャリア研修を行っている場合、キャリアの棚卸しがプログラムに組み込まれていたりするんじゃないかと思いますが、そういう機会なかったな、ちょっとここらで振り返ってみようかなという方は、転職するしないとかに関わらず、ぜひ活用いただければ幸いです。

ちなみに私は、キャリアカウンセラー資格をとるときに受講した講座の中で1回(20代半ば)、あと親会社主催でグループ各社の30歳社員を集めて行うキャリア研修みたいなので1回(30歳)、わりとがっつりやる機会がありました。個人的には去年も結果的に近いことをやった感あり(44歳)。それぞれに発見がありました。

が、真剣にやると疲れるし、やり始めるの億劫だし、時間もとるのは確か。会社の仲間でとか、同業者の寄り合いでとか、数人で集まって半強制的にやらねばな場を設えてやるのもありかと。ご興味あれば、ぜひ覗いてみてください。

中身はオーソドックスなキャリアデザインの基礎知識ですが、今の時代感をつかみながら、クリエイターの皆さんにできるだけ親しみやすく、1本10分程度で気軽に見られるものを念頭において作っています。2週間おきで更新していますので、どうぞ、ごひいきに。

2021-04-13

日常生活に変更を加える

4月に入って水泳を再開し、足元はニューバランスのスニーカーを常用しだし、食事は自炊を中心にし、ラジオは若干控えめ、ポッドキャスト番組を若干増し、本は仕事もの・エッセイ・自伝・小説と雑食して半月ほど過ぎた。あれこれ日常生活に変更を加えて歩みだした新年度。

キョンキョンが最近始めたポッドキャスト番組*で、ポール・ギャリコの「雪のひとひら」という小説の名を挙げているのを聴いて、興味をもって読んでみた。

擬人化された雪の誕生は、人が生まれる神秘と重なり合う。上空で雪が生まれて、ひとひらが地上へと一方向に向かって降りていく様子は、人が死に向かって直進しているのと重なる。でも、それが物語の始まりでもある。

そういえば人間は、こういう世界もイマジネーションを働かせて創作することができたんだったと、久しぶりに思い出させてもらったというかな。なんだかんだいって自分の想像領域、ずいぶんせせこましいことになっていたかもなぁと頭の中の境界線を融かしてもらった感じ。

この間、友人とのおしゃべりで、まりこさんは生きる意味をどうとらえているか聞いてみたいと言われて、マクロとミクロで率直に思っていることを話す機会があったんだけど、なんかシンクロニシティを感じたりもしたな。豊かなおしゃべりだった。さぁ新年度を歩もう。

*ホントのコイズミさん「#1本にわくわくした⻘春時代、時を経て今思うこと。」

2021-04-01

「Web系キャリア探訪」第29回、上司の器が規定するもの

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第29回が公開されました。今回は、リーガルテック分野で急成長中のスタートアップ、LegalForceのマーケティング責任者、高品美紀さんを取材しました。

20代 キャリアに迷ったどうすべき?――急成長のスタートアップでマーケティング責任者の仕事観

マーケティング専任として入社して、わずか1年半の間に、マーケティング担当者が1名→10名に拡大、その責任者としてチームを率いています。

高品さんは30代で、たぶん私と一回りくらい年齢差あると思うんですが、なんともしっかりした歩みと志しで、以前ラジオで久米宏さんが言っていたけど「30過ぎたら関係ない」って、改めて本当だよなぁって思いました。

あと、なんとなく後引いたのが、社長から「上司の器がチームの成長上限」と言われているというお話。本編で述べたとおり、高品さんへの社長の期待が伝わってくるなぁというのが第一に思ったことなんだけど。おまけで考えたのが「上司の器が、部下個人の成長上限にならないようにマネジメントする」って上司の立ち回りも、けっこう大事かなぁなんて。チームの成長上限が、必ずしも部下個人の成長上限とイコールではないかとも、もにょっと考え転がしたりしました。

閑話休題、高品さんの今後のキャリアデザイン。自分で自分のキャリアの行く末を描くより、会社の成長に応えて自分のやるべきことをやっていくことで、自分の想像を超えたキャリアを実現したいというお考え、とっても素敵だなって思いました。ご興味ある方は、ぜひ読んでみてくださいませ。

2021-03-31

期をまたぐ前に

この4月から、いちおう部署が変わることになっている。といっても事業部は同じだし、最小単位のグループも変わらない。「事業部」と「グループ」の間に挟まっている「部」というのが、この春に新設される事業推進部に変わるという次第で、体感する震度は1に満たない。

なんて書くと、組織改編しているのに自分の役割を見直そうとしない意識低い系社員に思われるかもしれないが、ちがうのだ。すでにこの一年でやってきた仕事の体感7〜8割が、所属グループの枠をはみ出した事業推進としかくくりようがない仕事領域で占められていたのだ。なので感覚的にはこれまでと地続きの期初を、明日迎えることになる。気がつけば、また春到来だ。

私はこの一年、会社の人と新たな仕事を始める入り口でよく、自分が役立てる能力は「国語力」だと冗談まじりに伝えていたのだが、この何か言っているようで何も言えていないワードが、わりとうまく働いてくれたかもなぁと振り返る。

しょっぱな相手が「ふはっ?」という顔をするのだけど、「とりあえず、この辺相談してみっかな」と相手がイメージする領域をわりと広くとれる。曖昧だけど間口の広い言葉を採用するのも、ときには有効なのだなぁと思い新たにする今日このごろだ。

言葉選びひとつで、相手のうちで引き出される考えや感情は多いに変わってくる。無意識に「これは違うな」と思われて、想起されない領域も作り出してしまう。言葉は人を規定する力をもっているし、潜在的な何かを人のうちから引き出す力ももっているので、よい加減の言葉を選ぶことには慎重を期したい。

そうして、相手が何かやりたいことなり解決したい問題を抱えていて、私がもたない専門性や考え・思いをもっているのを、対面して話を聴いて、引き出す。それを読み解いて構造だててシナリオだてて、前に推し進めたり、形に起こして皆で共有できるようにしたり、価値ある実体に変える。

そういう推進力ひっくるめて、私は国語力というか「編集力」を主力に働いている感覚があり、これの動力となっているのが気合いと献身。編集力と気合いと献身、これで自分が働いている感覚を覚えることが多い一年だった。

そうやって来るボール、来るボール、とにかく自分なりに知恵をしぼって丁寧に打ち返していると、人づてに仕事の依頼主が広がっていって、依頼主が広がると、扱うテーマも広がっていく。アウトプットとしてどういう形に落とし込むのか、スライド、提案書、記事原稿、スピーチ原稿、動画、ナレーション、デリバリーの方法もバラエティに富んでいく。

社内仕事をするようになってから、扱うテーマもずいぶんと広域になった。クライアント仕事をしていると、ある程度先方が依頼してくるテーマも特定分野に絞られるのが常だけど、会社であれこれの依頼に応えていくと、依頼主も上司の上司、隣りの部署、経営企画、経営者、親会社と広がっていくし、あわせて扱うテーマもマーケティング、事業戦略、会社のビジョン、SDGsなど、いろんなテーマに広がりを帯びていく。この広がっていく幅とスピードが、社内仕事ならではという気がする。

お客さん仕事で私にそんなことを頼んでくる人はいないし、私もお客さんの仕事でそんな専門外は預かれない。しかし社内のこととなると、とにかくやれるところまでやってみるということになる。いろんな領域がいい意味で見境なく、タッチャブルである。いちいち営業しなくても、いちいち契約しなくても、自分の仕事領域が広がる機会にありつけるというのは、ありがたい環境だ。

なんといっても、これまで触れていなかった領域の人の想いとか考えとか、見ている景色とか、こういう視点でものを見ているんだなぁとかいうのに、一人ひとり直接触れられるのがいい。いろんな人の頭の中、心の中にふれて、理解を深められたり、気持ちを寄せられるのが味わいぶかい。

理解が深まると、その人のためにどう自分が動けるか具体的に考えられる。気持ちを寄せられると、その人のために自分が動けるかぎり動きたいという動力を得る。考えたことを「こう考えてみたんですけど、どう思いますか」「そういうことじゃなくて、こういうことが求められていると私は思うんですが、どう思いますか」と、社内だとかなり率直に訊きやすいし、こっちが率直だと、向こうも率直になってくれて、そういうやりとりから信頼関係も、話の濃度も深まっていく。そうやって、その人の中にあるものを汲んで何かに展開していくのは、とても創造的な仕事だ。

一方で、それがやはり一つの小さな村の中の依頼主に限定しているという意識も、欠いてはならないなぁと思う。扱うテーマは多方面に広がれど、社外に目を向けてみれば、どの領域にもすごいレベルというのがあって、その外のレベルを自分のモノサシとしてもって、自分のパフォーマンスを絶対評価していかないと、実はなんでもない無価値な仕事をして自己満足している状態に陥りかねない。そこのところの基準をしっかり自分で洗練させながら、今はここでいろんなバッターボックスに立ってバットをふらせてもらえる機会を大事にして、楽しみながら、この一年もしっかり役立てるといいなと思う。

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