2025-01-17

力量差あるメンバーにタスクを割り当てるアプローチ

山口周さんの「外資系コンサルが教えるプロジェクトマネジメント」を読んでいて、ほへぇと思った一つが、メンバーのアサインメントのアプローチについて。

プロジェクトメンバーに「優秀な人」「それほどでもない人」がいるとき、著者はパターンAを「やりがちなミス」だと評し、パターンBを選ぶべし!と勧めている(伝えたいことを分かりやすく示すために、そう書いたのかなと思うけれど)。

ともかく、実際にはパターンAが妥当なこともあろうかなぁと私は思ったので、なんでそう思うのかを考えてみたのが、赤い文字。

力量差あるメンバーにタスクを割り当てるアプローチ(クリック or タップすると拡大表示)

Memberassignmentapproach_projectmanageme

結論、「パターンA一択」ではなく、選択肢をもっておいて都度意識的に選べるのが健全というなら、おっしゃる通りと思うなど。

実際には、メンバーの「優秀」「それほどでもない」は単純に二分できるものじゃない。個々の経験値や力量差も、それをどの程度把握できているかも都度違うし。

必ずしも「PM」が最も優秀で、「優秀なメンバー」はその下に配するわけでもない。

タスクも単純に「難しい」「易しい」では二分できない複雑性をもつ。

「それほどでもないメンバー」の育成、「優秀なメンバー」のモチベーションをどの程度配慮すべきかでも採択すべきアプローチを変えるべきではないかなぁと。そんなことを考えた次第。

2025-01-05

小さな私を主語にして

例年どおり帰省するつもりで冷蔵庫の食材をすっかり空っぽにした小晦日(こつもごり)の夕方、体調が急降下しだした。朝起きたときは確かに平熱35度台だった体温が、その晩には38度を超えていた。万事休す。

2年前にも、年末ぎりぎりにコロナにかかって実家に帰れないことがあったが、そのときは症状が出たのが12月29日の朝。ぎりぎりその日の午前中までクリニックも薬局も開いていたので、コロナとも判定がついたし、薬局も一度は閉じたシャッターを半開きにして薬を処方してくれた。

今回は、具合を悪くしたのが12月30日の晩。夜があければ大晦日で、クリニックはやっていないだろうし、こちらにも移動する気力体力がない。インフルかコロナかただの風邪かもわからぬまま、体内ではたらく細胞に全乗っかりして寝正月を決め込むことと相なった。年末に映画「はたらく細胞」を観ていたのだ。

まず帰省は断念するほかない。大晦日の朝、家族に詫びを入れた。父、兄、妹それぞれに引き継ぎ事項をこさえて、あーしてくれ、これを頼むとベッドの中からLINEで送った。それだけでへとへとになり、あとはひたすら眠った。

しかし二晩眠り続けても、熱は38度を下回らない。さすがに、はたらく細胞だけになんとかしろというのは虫が良すぎるのではないかと思い至る。寝るたびに様々な不穏で不可解な世界に閉じ込められる夢をみるのにも疲れ果てた。

それで以前、歯の治療のときにもらったロキソニンのあまりが薬箱にあるのをがさごそ取り出して一錠飲んでみることに(遅い)。これが元日の午前3時頃だったろうか…。一眠りして熱を測ると、まぁ不思議、一気に37度台におちている。とりあえず一日(3錠)は続けてみようと思い、すると平熱35度台まで戻した。

ロキソニン、おまえいったい何者だ?と訝しむ。薬の効き目がきれれば熱はまた上がってしまうのか、それとも飲むのをやめても平熱は維持されるのだろうか。そこで1月1日夕飯後に3錠目を服用した後、翌朝までに10時間は経つので、そこで様子をみてみることに。

1月2日の朝に目覚めて熱を測ると、ロキソニンがきれた体温は38度超えに逆戻りしていた。熱を測るまでもなく絶不調ふたたびだった。起き上がって3歩移動するだけで気持ち悪くなり、3歩戻ってベットに倒れ込んだ。昨日からの落差が大きい。

しかし、それでは今日もロキソニンを服用しないことには仕方ないし、ロキソニンを服用すれば昨日レベルの安定は取り戻せるということだ。そうして時間をおきながら、どうにかしておかゆを数口腹にいれ、ロキソニンを飲み込んだ。どうにかこれで起き上がれる程度に戻し、また一日(3錠)続けてみたところ、1月3日朝には薬の効き目はきれているであろうに平熱を維持することに成功した。

とはいえ熱以外の、頭が何かに押さえ込まれているような感覚、喉の痛みと咳は残っていたので、3日も4日もほぼ寝て過ごした。そんなわけで、私のお正月は2年ぶり二度目の寝正月で過ぎ去ってしまったのだが。

とにかく妹も帰省してくれ、兄一家も元日に実家にやってきてくれて、例年どおりに父を囲んで実家の恒例行事が滞りなく行われたのが何よりだった。ここさえ守られれば私の心はずいぶんと穏やかだ。

世の中はとてもとても大きな問題を抱えていて、それは至る所であり、複雑に絡み合っていて、途方に暮れるばかりのことも多い。だけど、混迷の時代などと一言で表したところで事態を好転する策は立たない。メディアよろしく365日事態を追い続けて自分の営みをおそろかにしてしまっても、社会は停滞してしまう。小さな私を主語にして、私は私の述語を繰り出していこう。私が今年、縁をいただいた人たちの力になれることを丁寧にやっていきます。

2024-12-28

なりたい自分像とか、ありたい自分像とか

小説って、豊かな人物描写があるのが魅力の一つだ。登場人物の人となりを、言葉でスケッチしたような文章がふんだんに詰まっている。そういう中には、自分はこういうふうにありたいと思う人物像との邂逅もある。これが、映像作品のそれとも違うし、日常出会う人とのそれとも違う、小説には独特の斬れ味がある。

作家は言葉を用いて、簡潔明瞭な一節をもって、読者に人物像を提示してみせる。彫刻を彫るように姿を浮かび上がらせて、私の脳内に顕現してくれる、とでも言おうか。これは小説家の筆致力なくして叶わない。

2024年のノーベル文学賞を受賞したハン・ガンさんの「別れを告げない」に、それがあった。主人公が、彼女の友人のことを、こう表していた。

しばらく話すだけでも、混沌、おぼろげなもの、不明瞭さの領域が狭まってくるような気がすることがあった。

そして、こう続く。

私たちの行為のすべてに目的があり、苦労や努力が毎回失敗に終わっても意味だけは残ると信じさせてくれるたくましい落ち着きが、彼女の言葉遣いや身ごなしには染みわたっていた。

私は、この一節に出合いがしら、あぁ本当にこの本を読んでよかったと思った。まだ話の入り口、40ページに書いてあるのだけれど。

私は、なんとかの職業で名を馳せたいという欲もないし、ワークとライフでどっちを重視したい?といった仕事観にも、これといった志向性を持たない。なんなら、そんな既成枠組みに侵されて、且つそのことに無自覚なまま、この手の設問を乱用する世の中に嫌悪感すら覚えている。

とりわけ仕事を経験していない未成年に対して「あなたはワークライフバランスを重視しますか?」などと軽々しくアンケートで回答させて、実際にはない人の心に、少なくとも今は持たない人の心に、自分の志向性なりこだわりなりが、さもあるかのように捏造させる設問に暴力性を感じている。

ワークとライフ(プライベート)は「便宜的に分けて捉えることもできる」だけであって、概念的ワードを「はなから分かれているもの」と見て扱うほどアホなことはない。こういう問いかけ方は、「誰しもがどちらか一方を選好する人間の性質がある」とでも思い込んでいるような、その自分の思い込みを、知らぬ間に若者のうちにも植え付けるような、うげげ感がある。

愚痴が過ぎた、閑話休題。自分の話をしよう。私は、先の一節がとても気に入ったのだ。これは、私がこんなふうにあれたらなって思う人物描写だった。人との接点で、社会との関わりの中で、こんなふうに自分が働けたら至福だと思う自分像を描いた文章だった。

仕事の場はもちろん、公私問わず人とのやりとりを終えて、こういうふうに作用できたかなぁって手ごたえを覚える帰り道は、この上ない幸せが心にわきあがる。ただの自己満足だ。けれど自己で満足する以上に人生で至福を得られることなんて、あるだろうか。そういう物差しこそ、自分の中に見出して尊び、大事に磨くべきなのだ。

ところで、この引用は慎重に読まれなければならない。上の文では別に「行為のすべてに目的がある」か否かは、問われていない。

行為の目的は後づけも可能であり、行為してみた後に目的が見えてくることもあれば、行為前に掲げていた目的とは別のところに真の目的が発見されて置き換わることもある。たとえ目的が見当たらぬまま行為したとしても、あらゆる行為は無駄にならない、そのように後から必ず意味づけが可能だ。

見当たらなければ一緒に考える用意があるという眼差しで、相手を送り出す。その関わりが相手に「たくましい落ち着き」として届き、相手の支えとして働く。「言葉」ではない、「落ち着き」であり「言葉遣いや身ごなし」であることも決して見逃してはならない。

それは静かな働きで、ほとんど相手に意識されない。むしろ、こちらの働きが意識されて相手の気を散らしてはならない。労働市場で数値化され評価されることも難しい、特別の高度な専門性も認めがたい。そういう類のものに尊さを見出して、そこに力を注ぐか否かは結局、自己判断だ。

微力で端っこで働くことをわきまえて按配を見極められるからこそ、その人が自分で歩く主体性を奪わないで済む。相手を飲み込んだり、覆い被さって潰してしまうようなことがない。その人が、あわてたり、うろたえるところから解放する力を静かに注ぎ込みながら、相手が自分の力で立ち、歩き、自分の握力で大事なものを握り続けていけるための関わりを大事につとめる。そんなの、自己満足するほかない、自分の物差しでしか測れないし、自分の物差しを持ち替えながら試したり、それを洗練させ続けるほかない。

情報をあびまくるこの世界で、なりたい自分像、ありたい自分像がここにこそあると、そのありかに気づいて言葉でとらまえるのは、難儀だ。川上からどんぶらこんぶら情報は流れてくるけれども、川岸とは別のところに、例えば背にしていた山のほうに、自分のなりたい像、ありたい像が埋まっていて、土を掘り起こすように小説の中にひそんでいるのを発見する作業なのかもしれない。

とても、分かりづらい。けれど邂逅したときには、たぶん自分で、あっ!て気づく。自分でゼロから表現することはできなくても、行き当たりばったり遭遇すれば、あ、自分のはこれだなと、たぶん気づくのではないか。

なんとかの職業で5本の指に入るとか、なんとか業界に入るとか、どこそこ企業で働くとか、どこのポジションに就くとかじゃなくて、世間に出回っている一般名詞や固有名詞に、一つふたつの形容詞をまぶした言葉ではなくて、なかなか言い表せないところに、実は自分がしっくりいく自分像が描かれるのかもしれない。少なくともそういう余地を残しておけば、そうそう簡単に、何者かになれなくて絶望の淵に追いやられることはない。

実際には、何かの職業に就くことにこだわりはない、有名になることも、社会で評価や名声を得ることも、できるだけ多くの人から称賛をされることも、特別ぴんとこない人はけっこう多くいるのではないかと思う。そこら辺の人の志向パターンにフィットする人物描写というのが、そんなにどんぶらこ、どんぶらこと流れてこない世の中に思うのだが、あるいは小説の一節に埋め込まれているかもしれない。そんなことを思うのだった。いやぁ、長くなった。

ハン・ガン著、斎藤真理子訳「別れを告げない」(白水社)

2024-12-11

ネット上に流れづらい多様で小粒な数多くの伝承ノウハウ

しっかり校正者が入っていそうな大手出版社の本でも、私はかなりの頻度で誤植を見つけるほうで、「良い本だなぁ!」と思った本は、感謝の念をもって&重版も見込んで、出版社に「誤植かも?報告」を入れるようにしているのだけど。

下のスライドは、直近で出版社サイトの問い合わせフォームから連絡を入れたとき、その問い合わせ文面を作成するに際して配慮したポイントを、ざざっと挙げたもの。

(画像をクリック or タップすると拡大表示)

Inquiryformtext

言われなくても、わかっている。実にちっぽけなノウハウの列挙だ。

なのだが、世の中は実はこうした小さなノウハウに溢れていて、日常的にそこここで発揮されているのに、各々が物静かに行っているから​、情報としてはカスタマーハラスメント事情ばかり大量生産・流通されて、そっちばかり目立ってしまっているのではないかと、そうした疑念を抱いている。

前者は「口にするのは粋じゃない」ってカルチャーがあるから、流通する情報のバランスが悪いんじゃないかなぁと。家庭で親が子に示したり、職場で上司や先輩が教えてくれたり、そういうところでしか、なかなか伝承されていないとなると、実態より社会が汚く見える人も生み出しちゃっているようで、ちょっともったいないなぁと。

ちなみに上の問い合わせをする前には、出版社サイトで「正誤表」がすでに公表されていないか確認し、「よくあるご質問」ページに誤植報告用の手順説明がないか確認の上、特になかったので「問い合わせフォーム」から送る手順を踏んでいる。「問い合わせフォーム」のページにも、たいてい案内や注意事項が添えられているので、そこは一通り目を通して、必要な指示に従って問い合わせるのを礼儀としている。

そういう一つひとつを、小粒ながら丁寧にやっていきたい。子も、教え子もいないけれど、いろんなところにお世話になっている1市民、1カスタマーとして。

2024-12-10

10年前20代だった人たちの、ここ10年の「職業観」経年変化

厚生労働省が12年続けている調査で、2012年当時に20代だった全国の男女を対象に、結婚・出産や就業実態・意識の経年変化を追っている「21世紀成年者縦断調査」というのがある。

その中に「職業観」という項目があって、10年前(2013年)と最新(2023年)のデータを取り出して比べてみると、こんなグラフになる。

(画像をクリック or タップすると拡大表示)

Occupationalview

2013年に22〜31歳だった人たちが、2023年では31〜40歳になっている。会社でいったら若手から中堅に。

何を読み取るか人それぞれと思うのだけれど、超個人的には「社会に貢献するため」「働くことが生きがい」に、「あと5パー!」と一声かけてしまいたくなる。

昔の価値観を押し付けたいわけじゃ毛頭ない。ただ、仕事、職場、職業経験を活かすことで、単体・個人では生きられなかった人生を謳歌できることも多分にあり、私は平凡な人間ながら、その恩恵を受けて人生で経験できることを拡張させてもらえたような、仕事に生かされてきた感覚があるので。

私のように、個人として特別優秀でない普通の人たちこそ、そういうテコの原理みたいなのを活用したら、楽しく人生時間を過ごせると思うし、その意味では特別な人たちだけが「社会に貢献するため」「働くことが生きがい」を思うのではなく、普通の人たちこそそういうことを職業観としてもっている社会のほうが、なんかいいんじゃないかなぁとか思っちゃうのだ。

多様性社会と言われる中、そういう人の歩き方を撲滅するのではなく、それはそれで何割か残って尊重されていいんじゃないかなぁと。おもてだって下手に発言すると叩かれるかもしれないけれども。

2024-12-08

長篇でなければ実現不可能だった

先月半ばに分厚い長編小説を2冊読み終え、次はいくらか小ぶりな中編小説に手をのばすのかなぁと見立てて本屋を訪れたのだが、文庫コーナーの前に立つと、あいも変わらず600ページ級の長編小説になびく自分がいた。遅読のわりに果敢だなぁと感心しつつ、なびく理由はわからぬまま、自分のそれに従ってレイモンド・チャンドラー「長い別れ」*1を買って帰ってきた。

初めてのレイモンド・チャンドラー作品だ。この作品から入るの?と言われそうだけど、タイトルに惹かれて。原書「The Long Good-bye」は、1958年に清水俊二訳「長いお別れ」、2007年に村上春樹訳「ロング・グッドバイ」が出ているが、今回私が手にとったのは2022年に出た田口俊樹の新訳「長い別れ」。

とても好かった。他の訳者と比べた評は何も言えないけれど、すごく自然に脳内描写を誘う文章で読みやすかった。「訳者あとがき」からも、真摯な翻訳への向き合い方が伝わってきて職人魂を感じる。「解説」の591ページに、同じ箇所を3者がどう訳したか読み比べられるところがあるので、比較してみたい人は書店でそっと開いてみるとよいかも。とりわけ村上訳は個性的に感じた。

肝心の中身は、というと、読んでいる最中しばしば「小説を読むのに理由なんていらないんだわ、私はおもしろいから読んでいるんだな」と実感させられるおもしろさだった。それと相反するようだが「私が小説を読んで成し遂げたいことは、長篇でなければ実現不可能」なのだとも、読後に思い耽った。

というのは、「解説」で書評家の杉江松恋さんが書いていた、これの裏返しなのだけど。

彼が小説を書いて成し遂げたいことは、長篇でなければ実現不可能だった

まぁ、書き手のそれと、読み手のそれじゃあ、全然違う。読み手としての私は、長篇でなくとも様々に小説から恩恵を受けられているのが実際なのだが。それでも600ページ級の長編小説をこそ、いま自分が渇望していることに間違いはない。

そのことについて、最近いろいろと考えていた。うまく言葉にできなくて、自分の文章表現力にやきもきもしていた。同じところをぐるぐる思考巡らしているようで途方に暮れていた。

まだその只中にいるのだけど、とりあえず、最近のSNSにぐったりしてしまったことが一因にあっただろう。人を、出来事を、一面的、表層的に捉えて、何かを早々と結論づけてしまう。いったん結論つけたら、その結論ありきで単純なロジックを組み立てて、見立てを柔軟に変容させていくことをやめてしまう。どう見立てたら、より明るい光を先に見出せるかを思案し続けることをやめてしまう。その不健全で怠惰な流れが、きつかった。これは一方で人間の性でもあって、この先どんどんひどくなって、自分も知らぬ間にそれに飲み込まれていってしまうんじゃないか。いや今すでに、無自覚にその流れの中に浸かっているのじゃないかという恐れがあった。

端的に言えば、大江健三郎さんの本*2の中にあったチェコスロヴァキアの作家ミラン・クンデラが遺した言葉(「笑いと忘却の本」King Penguin版、1979)そのままなのかもしれない。

とにかく世界じゅうの人びとが、いまや理解するよりは判定することを好み、問うことより答えることを大切だとするように感じられます。そこで、人間の様ざまな確信の愚かしい騒がしさのなかで、小説の声はなかなか聞きとられがたいのです。

これは1970年代の言葉だけれど、今にも通じている。当時より増しているのか減じているのか、私にはよくわからない。けれど私個人として「小説の声が聞きとられがたい」時代を背景に、切実に、この流れに抗いたがっている。「小説の声を聞きとりたがっている」自分の渇望に応えて、長編小説に手を伸ばしている感じがする。

自分の終わる日まで、たおやかに育んでいきたいものがある。それが何なのかは、書き出すといつまでも止まらないで、だらだらとしたものになってしまって仕方ない。自分の中ではこれと分かるのに、なかなか言葉にまとまらない。でも、これと自分では分かるから、それを大事に育て続けようと思う。伸ばし続け、発揮し続け、縁ある人に役立てて、今の社会に還元して、終われれば良い。いよいよ砂嵐の中に立っているような風景に呆然としてしまうことが増える一方だけど、それもきっと一面的な見方にすぎないのだろう。

*1:レイモンド・チャンドラー著、田口俊樹訳「長い別れ」(東京創元社)
*2:大江健三郎「新しい文学のために」(岩波新書)

2024-11-24

ネガティブ感情とうまいことやるオーソドックスな方法

ネガティブな感情が湧きあがったとき、それとうまいことやる方法というのを、教わった覚えはあるだろうか。気をてらった方法でもなく、有名人の我流でもなく、基本的でオーソドックスな方法。私は、ないと思う。

昭和生まれで義務教育も今よりガサツだった時代に育ち、大手企業がやるような体系だった新人研修も、管理職が受けるアンガーマネジメント研修も受けたことがなく、記憶力もとぼしい私には、こう教わりましたと思い出せるものが、これといってない。

それが先日、とある本*の中で「あぁ、これならやってる、日常使いしてるぞ」と思う感情調整の理屈に遭遇した。普段の生活を送る中で、野良作業しながらスキル獲得していたというやつだろう。本を読みながら、うまいこと自分の感情とやってるもんだなぁと気づくところがあった。

その理屈というのを図示して、おいておきたい。困っている人がいたとき、ぱっとこれを見せながら説明すると話が早そうだ、という自分の説明用にこしらえた一枚なので、足場だけ組んである感じで人には物足りないと思うが。使えそうだと思う方は、困っている人に説明するときなんぞに使えたら使ってください…。

感情調整のプロセス、心の健康との関連性(画像をクリック or タップすると拡大表示する)。

ProcessOfEmotionalRegulation

ざっくり言うなら、同じ状況でも、その状況にはいろんな意味づけができるわけで、多様な解釈スキルを向上させることが感情調整力の肝、心の健康維持にも寄与するという話。

人に伝える場合、実際には、相手に合わせてお手製シチュエーションを具体例挙げて示したり、本人が直面している苦難シチュエーションをネタ提供してもらいながら理解をたどるキャッチボールしてやらないと、知的満足は得られても実用に到達しないと思うので、その伝え方こそが肝になるのだけれど。

以下、理屈メモ。あと、ちょっとしたシチュエーション例も添えておく。

私たちは、いろんな状況で日々、嬉しいとか楽しいとか、腹が立つとかイライラするとか、悲しいとか寂しいとか不安だとか、焦るとか落ち着かないとか退屈だとか、恥ずかしいとか情けないとか、罪悪感がわくとか嫌悪感を覚えるとか、闘争心が芽生えるとかしているわけだが、あれが「感情」である。

で、同じ状況でも、どんな感情を経験するかは人によって違うし、どう処理したり、どう表出するかも人によって違う。個々人の性質(タイプ)によって、何を楽しいと思い、何に退屈さを覚えるかに違いが出るわけだが、それはここで論点としない。

また同じ人であっても、その時々のコンディションや、ちょっとした状況の違いで変わってくる。ふだんなら気に障らないことが気に障ったり、その逆もある。が、それもここでは焦点化しない。つまり「状況同じ、人が違う」「人同じ、状況が違う」いずれによる感情の経験差でもなくて。

ここで焦点化したいのは、その人の「感情調整」の力量、言わば感情を扱うスキルによって、感情の経験の仕方に違いが出るという話題。

感情調整とは何か。

人が、いつ、どのような状況で、どのような感情を経験したり、表出したりするかに影響する一連の過程を捉える概念

「イライラする」「不安だ」という負の感情を抱いても、それを処理する方法は人によって異なり、調整する力量(スキル)次第で、ネガティブな感情に振り回される回数は減らせる。うまく活用できれば、ポジティブなエネルギーにも変えうるという話だ。

上の図は、日々ふつうにやっているプロセスを、くどくど図にしてある感じ。なのだけど、これを意識化して、脳で捕まえて、心で扱えるようになることが大事なので、あえてくどくど図の内容を言葉に起こすならば、

1.感情が4つのプロセス(状況、注意、評価、反応)を経て生起する中で、
2.5つの感情調整(状況選択、状況修正、注意配置、認知的変化、反応調整)が、それぞれ行われうる。
3.世界中に多数ある研究成果をメタ分析すると、5つの感情調整プロセスは「心の健康」と関連するもの、しないものに結果が分かれる。
4.「弱いか中程度の効果」が認められたのは唯一「認知的変化」のプロセスである。
5.「認知的変化」というのは、置かれた状況への評価や捉え方を変えること。

つまり、自分が置かれている状況に対して、それがたとえ自分の力では変え難いと思える状況や環境だったとしても、置かれた状況をどういうふうに解釈するかは、いくらでも発想のめぐらしようがあるということ。少なくとも、解釈が1つで終わる状況などない。そう思うなら、それはスキル不足による思い込みだ。

例えば、ファミレスでパソコン持ち込んで一人仕事をしていたとして、家族連れが隣りの席に座った。子どもらがわいわい騒いで一気にうるさくなり、仕事に集中できなくなった。最初にイライラする感情がわいたとして、「でも、ここ、ファミリーのレストランだしな」とか「静かな空間で仕事に集中したいんだったら、それをサービス料に含んだ場所に行くなり、職場なり自宅なり自由がきく場所に行かなきゃいけないのは自分のほうだ」というように、自分の状況解釈に変更を加えるのが「認知的変化」だ。

こういうプロセスを加えると、最初にわいたイライラ感というのが、少なくともそれ単体で自分の心を占拠している不健康状態から解放されているだろう。

このファミレスのシチュエーションで、他のプロセスを例示するなら、

「状況選択」は、そもそもうるさい環境を予見してファミレスには行かないとか。
「状況修正」は、人気が少ないほうに席を移動させてもらうとか。
「注意配置」は、自分の注意をそらすべくイヤホンをするとか。
「反応」は、深く息を吐くとか、むっとした表情をするとか、睨むとか目を閉じるとか、だろうか。

この辺を解説する本のくだりを読んでいて、確かに「認知的変化」は、心の健康確保に日常使いしているなぁと思ったわけだ。

「自分自身」あるいは「話す相手」が直面している状況に合わせて、認知的変化を加えながらポジティブ感情を引き出すアプローチを考えていければ、日常かなり開放的に心の健康を維持・運用できる。その感情をエネルギーにして、「反応」後の具体的な行動選択、あるいは回避行動、人間関係づくりを展開していくこともできよう。

結局やっぱり、ちょっとお堅い文章になってしまったが、日々いろんな状況に直面する中で、いらっとすること、しょんぼりすること、ネガティブ感情を抱えることはままあることであり、むやみに周囲に変更を迫ったり、我慢して心を疲弊させたりせず、自分の「状況の評価の仕方、捉え方」を、うまいことチューニングして再解釈を与える。このオーソドックスな方法は、もっと日常使いされていいのではないかと素朴に思ったのだった。

いや、私以上にうまいこと使えている人もわんさかいるだろうことは承知の上だが。このスキルのたゆまぬ鍛錬は、感情の味わい方を豊かにするばかりでなく、人生の味わい方を豊かにするんじゃないかなぁって思うのだ。

*小塩真司 編著「非認知能力: 概念・測定と教育の可能性」(北大路書房)

2024-11-16

長編小説「ザリガニの鳴くところ」が与えてくれるもの

先月半ば、本屋で平積みされていた分厚い文庫本を2冊買って帰った。いずれも600ページある長編小説で、ひと月近くかけて1,200ページを読破したのだけど、終えてみると、なんだか2つの旅を終えて帰ってきたような心持ちに。長編小説を読むというのは、ひとり旅をする体験に近いなぁと思った。

どちらもハヤカワの文庫本で、「未必のマクベス」「ザリガニの鳴くところ」も、同じような夕焼け色の表紙をしている。その静けさに惹かれて手に取ったのだけれど、中身を開けばまったく違う世界が広がる。かたや2000年頃からの香港の大都会を舞台に、かたや1950〜60年代のノースカロライナ州の湿地を舞台に、1ページ目から全然違うところに連れて行かれる。見た感じ、ほとんど同じ物体なのに(というと装丁家に失礼だけど、買ったのは装丁のおかげだ)。

私が大型書店で目にとめてひょいと気分で買って帰る小説というのは、つまり、すでにめちゃめちゃ売れていて、読んだ人が世の中にわんさかいる作品ということだ。「ザリガニの鳴くところ」は、2019年、2020年にアメリカでいちばん売れた本とのふれこみで、映画化もされているのだとか(知らなかった)。

そういう長編小説を読んでいる最中よく思うのは、「私の前に、こうして同じようにページをめくり、一人でこの小説を読み耽って時間を過ごした人が、この世界にはたくさんいるのだ」ということ。この読書時間を尊く思い、この物語に心をおいて過ごした人たちが、この世の中にわんさかいるという心強さ。その人たちは今この時も、私がまだ知らない別の物語を、ひとり読み耽っているかもしれない。そうして、この不穏で不透明な世の中への信頼を回復しながら、小説の続きを読む。

「ザリガニの鳴くところ」は、動物学者が69歳にして初めて書いた小説だそう。人間そのものの野生や、人間をとりまく自然界の底知れなさを全景にした物語には、彼女の人生経験を総動員して作り上げた作品の力が宿っている。

社会を騒がすトラブルが浮上するたび、人間のクリーンでない側面、倫理的に許しがたい素行を、その場しのぎで覆い隠して、個人を消して罰して、底浅く善悪判定をつけて片づけようとしている世の中を糾弾しているようにも感じられた。

人間の野生や、自然界がもつ野蛮さをさらしてみせ。人間のもろさ、不完全で、いびつで、偏ったものの見方・考え方から決して逃れられない性質を突きつけてみせ。その一方、人の、個人のもつ並はずれた環境適応のポテンシャルにも光を当ててみせる。

誰にも覚えがあるだろう「人から拒絶される」体験、誰とも分かち合えず抱え込んでしまう孤独感を、とことん掘り下げていく。

もし、もっと人間社会が成熟した先に、誰も「人から拒絶される」という体験を覚えることなく、孤独感に苛まれることなく、理不尽も不条理も経験することなく生きていけるようになったら、こうした小説の読書体験価値は衰えてゆくのかもしれない。けれど今の10代が経験した苦悩話を聞くかぎり、私にはまだ当面そうなる見通しをもてないし、それこそが人間の追求すべき未来展望かと問われて、安易に首肯もできない。

何十年と生きていけば、たいていの人が、むごたらしい現実に直面させられる。たとえ助け合ったり慰め合ったりできる仲間がいても、それだけでは根本解決ならず、本人が個として対峙しなきゃならない難局というのが、特別な人にだけではなく、たいていの人にやってくるものじゃないかと、私はそのように人の生を見立てている。

もちろん、おかれる境遇は千差万別で、人と比べて自分の境遇が軽く見えたり重く見えたりもする。けれど共通するのは、それぞれに自分のそれを抱え込むということ。だから、ノースカロライナの湿地に生まれて親にも兄弟にも置き去りにされ、たった一人で生きてきた少女の極限の嘆きにふれて、彼女と境遇は大いに異なるのに、読者はその痛みに共鳴する。だから、これほど読まれているのではないか。そこに私は、心強さと励ましを得ているように思う。

自分だけじゃない、他の多くの人たちも、人は代々、自分と同じかそれ以上の難局を個人で体験してきていて、それを歯を食いしばったり、やり過ごしたり、時間かけて乗り越えたり、それと共生する覚悟を決めたりして、どうにかこうにか生きているんだと発想が及ぶ。それを支えに、自分も自力で立ち上がって、自家発電で自走を再開する脳内展開力が働く。

人ひとりが普通に人生を全うするのは、なかなか難儀なもので、こうしたものを備えていかないと、なかなかどうして、やりきれないんじゃないかと。古い人間と言われればそれまでの話、20世紀人間の杞憂かもしれない。あとはもう、それぞれの世代が、それぞれの時代を生きてみて、その次の世代が振り返ってみるほかないけれど。

ともかく今を生きる私は「これを読んでいる人が、世界中にたくさんいるのかー。これを読んで、素晴らしいと評する人たちがたくさんいる世の中というのは心強いなぁ」と感嘆しながら、長編小説に力をもらって、のらりくらりやっていくのだ。

2024-11-07

親戚を訪ねて、再会と別れと再会の約束と

3連休明けの朝を迎えて世の中が気合いを入れ直しているさなか、通勤ラッシュが一段落した頃合いを見計らって父と私は東京駅に集合、新幹線に乗って京都・奈良旅行に出かけた。ちょっとした気晴らし旅行というふうをよそおって父を誘い、心のうちにはひそかな思いと、小さな企てがあった。

父のふるさとは京都だ。京都は本家に会いに、奈良は父の兄夫婦に会いに行く旅。きっかけは、最近足が弱くなって表に出歩けないと伝え聞いた父の兄(私の伯父)を励ましに行こうというもの。父も最近病院の世話になって、あれやこれや大変だったので、父に「兄を励ます」キャスティングをして舞台に上げれば、伯父を励ますだけでなく、父を元気づける作用もあろうかと期待したのはここだけの話。

やってみると一泊二日は強行軍で、父には申し訳ない気持ちもわいたけれど、誘って、行って、良かったと心から思える旅となった。それもこれも温かく迎えてもてなしてくださった親戚の皆さんのおかげで、濃縮度たっぷり満天の2日間を過ごした。

今回は、それぞれのお宅へ東京土産のほか、小さな写真アルバムをこさえていった。あまり大がかりなものを持っていっても、重いし、見る側にも無用の圧をかけてしまうので、良き時間があればさっと取り出して、ささっと見てもらえるようにしたい。

というわけで、L判(通常サイズ)の写真を24枚だけ入れられる手のひらサイズのアルバム(ナカバヤシのコット)を買って、そこに私の子どもの頃の分厚いアルバムから父方の親戚が写っている写真を24枚厳選、それをスマホで撮ってセブン-イレブンでカラー写真印刷して挟みこんで持っていった。

写真には40年前とかの、みんながよく知る懐かしい顔が並んでいるので、これが誰々ちゃんで、これが誰々さんで、これが誰それさんの家のお庭で、これが玄関前で…とページをめくる度に指さして説明を加えていく。すると、ほぅ、ははぁ、若いなぁ、パーマかけてるやん、これは誰や?などと声があがる。

私は見ても分からないけれど、皆さんであれば、ここがどこなのか分かるかもしれないと思い、背景に何が映りこんでいるかも気にかけて写真選びしたのだけど、このお店は、どこそこや。ここは今もほとんど変わっていないだとか、これはどこのお寺さんや?とか、しぜんと背景にも意識を向けて見てくださっている声を聞くことができて、幸せな気持ちに満たされた。

父は親戚と時間をともにしている間、ずーっとずーっとしゃべり続けていた。人の発言も制する勢いでずっとテンション高く、とってもごきげんで、皆さんにはずいぶんとご面倒をかけたけれど、これぞ我が父という感もあり、みんな寛容に、親切に、そんな父の奔放をにこにこと受け止めてくださった。

ここで「みんな」というのは、親戚の皆さんはもちろんのこと、晩にごちそうになった割烹料理屋の大将、お若い店員の皆さんがたに加え、カウンターに並ぶお客さんがた全員ひっくるめてだから、本当に「皆さんがた」がすぎるのだが。私が折を見て平謝りすると、皆さん柔らかく親密な笑顔を浮かべて、時にはそれも味わいとでもいうような寛容さをたたえて微笑み返してくださった。これが千年の都のふところか。

またいとこ夫妻にすっかりおんぶに抱っこでお世話になって、2日目は京都の旅館から、近鉄線に乗って奈良へ向かう。最寄り駅までは、父の兄の奥さん(私の伯母)が車で迎えに来てくれた。と思ったら、足を弱くしている父の兄(私の伯父)もわざわざ車の後部座席に乗って出迎えに来てくれていて、そわそわして家で待っていられなかったのだろう、父を心待ちにしてくださっていたことが伝わってきた。

奈良で過ごした時間は短く、お宅を訪問してお茶菓子をいただきながら、先のアルバムをめくったりして談笑した後、お寿司屋さんへ行ってごちそうになりつつおしゃべり。あっという間に帰りの時間を迎えてしまった。

もっと長居できるようにすべきだったのか。父が軽口をたたくように、長居すると喧嘩になるから、これくらいがちょうどいいというのが正解なのか。私には答えがない。

父が、足を弱らせて寡黙になった兄を見つめる眼差しには、深く複雑な思いが去来しているふうが感じられて、私にはどうにもほどきようがない。けれど、アラウンド・エイティーな兄弟を引き合わす機会を作ったことに、後悔はない。私にできることは、それくらいしかないし、それ以上に何か働こうとするのも違うだろうし。引き合わせたら、あとはただ隣に腰かけて、たわいもないおしゃべりを挟みつつ、兄弟の再会を邪魔せぬよう見守るばかりだ。

お寿司屋さんを出ると、もう一度一緒に家に戻ってゆっくりしていったら?ととめてくださるのを父は断って、駅へと頼む。最寄り駅まで車で送ってもらって、車道の脇に車をとめて降りると、伯母が数百メートル先の改札口まで案内してくれる。

伯父は車の助手席にかけたままだが、50メートル先で振り返っても、100メートル先まで歩いたところで振り返ってもなお、助手席からこちらに向かって大きく手をふってくれていて、その姿を思い出すと今でも、というか今だからこそ、涙がぽろぽろこぼれてきてしまう。その時は私が泣くわけにいかないし、気が張っていたのだけど。伯父の思いは、父の思いは、いかばかりかと、推しはかる力量もないのに思いが募ってしまって、私のどこにもそれを収められる器はなくって、ただあふれてしまう。

伯父は車から、伯母は駅の改札から、私たち二人が見えなくなるまで、大きく手をふってくれていた。間をおかずに再訪の機会を作って、ちょこまか再会できるのだと、父にも伯父と伯母にも思ってもらえるように働けたらなと思う。

親戚というのは、この歳にもなると妙に深みを帯びて、独特の親しみを覚えるところがある。私は生来人見知りで、若い頃はずいぶん遠い存在に感じていたのだけれど、人生も終わりが見えてくると、これほど深いご縁もないように思えてくる。顔を合わせると、すっと手をさしのべて、ふわと包みこみたくなるような気持ちがわいてくる。それと同時に、ふわと自分の身を包みこんでくれるような温もりも感じられる。

たぶんそれは、私が親戚として出会うお一人おひとりに恵まれているからなのだろう。親戚だからというコンセプトワードに丸呑みされてはいけない、この人だから、あなただから、ということを一人ひとり、一つひとつのことを大事にして、この世界を見つめていかなければもったいない。大事なことを、見誤ったり、見逃してしまう。

帰りの新幹線で東京に着く手前、父が「充実した旅だったなぁ」と口にした。私は、みんなに見せた小さなアルバムを、父にプレゼントした。

2024-10-31

サービス劣化を食い止める、真っ当なクレームは存続するか

私が一方的にフォローしている藤野英人さん(SBIレオスひふみCEO)のFacebook投稿にふれて、自分が思ったことメモ。

元の投稿(2024年10月28日23:22)を、ざっくりまとめてしまうと、藤野さんが2年ぶりの引っ越しに際して日本のサービスのポンコツ化を実感した話。引越業者、小売店、運搬業者とのやりとりで、日にち間違い、忘れ物、連絡の行き違いなど大小さまざまなミスに遭遇し、2年前と比べて引越業者の仕事も明らかに雑になっていたと言う。

カーテンが届かないのも、運搬業者と小売店の言い分が食い違っていて、なんだかなぁという感じだったのだが、次のとおり、あまり事を荒立てず、現場対応にあたった様子がうかがえる。

まあそこを解明したところで意味はなく、カーテンの取付は明日以降に。

しかし、これを愚痴りたいわけではなく、次の胸のうちのほうが投稿の主旨と見受けられる。

しかしそれは、人手不足による人材の品質と教育機会の低下が背景にあるだろうし、「運んでいただけるだけ感謝」というように顧客側も思わなければいけない。時代はそう変化しているのだ。お客様だから威張れる時代ではない。

投稿の最後の一文は「全般的には日本のポンコツ化はすすんでいるような気がする」で終わるのだが、これを読み終えて私が思ったことを書き留めておきたい。藤野さんが書きたい論とは軸のずれた話を展開しているのは承知の上で、なのだけども…。

知性的で誠実で善良な市民こそ、一顧客としてトラブルに遭遇しても、背景事情を慮って現場でクレームを言わず、打開コミュニケーションを図らなくなっていることも、ポンコツ化の歯止めをきかなくしている一因では?と思うところがある。

「一因がある」というのは、責任の一端があるという意味ではなくて、ポンコツ化を好転させるのに影響を及ぼせる余地をもつのに、その力を眠らせているという意味で言っているのだけども。

その場でクレームをあげる、率直に思うところを相手に伝えてみるという平易な行為が、ずいぶんと平易でないところに遠のいてしまったな、とも思うのだ。

「この人に言ってもな」という物分かりの良さ、背景に理解を示して現場の個別具体より社会情勢に焦点をあわせようとする知性が働いて、知性的で誠実で善良な市民こそ、現場でもの言わなくなっていく。それは事を荒立てない道筋であると同時に、事態の好転をあきらめる道筋でもある。

そうすると、いよいよクレームというものが、無知性で不誠実なカスハラ的な人の行為として色濃さを増していって、一般の人が「クレームを言う」行為に対する抵抗を頑なにしていく。それはそれで社会全体でみると悪循環にはまっているようにも思えてくる。

カスハラに括られるような極端な顧客は声をあげるけれども、真っ当な顧客は事情を慮って現場でも何も言わないし、カスタマーサポートセンターにもクレームをあげない。そうすると企業の上層部もなかなか問題を検知できない、そうして静かに着実に、組織も社会も腐っていく。

善良な市民こそが顧客として、その組織がサービス改善する機会提供をできないものだろうかとも思う。「威張って文句を言う客」と「一切文句を言わない物分かりのいい客」の間に、いくらでも真っ当な客としてコミュニケーションを作り出す余地はあるのではないか。

現場でクレームを飲み込み、その後一切のコミュニケーションを断つのではなく、あるいは抽象化して世を憂いたり嘆いたり社会問題的に語るばかりでなく、直接に被害を受けた顧客として、現場で伝えてみるとか、組織に伝わるように問題点を送ってみるとか。

それで動くか動かぬかは組織の力だけれど、そこに網をはっている経営層はいなくはないだろうという期待がある。それでも言おうか言うまいか、今言おうか、後でサポセンには送ってみようかと、遭遇するたびに逡巡する小市民ではあるのだけれども。一切合切のコミュニケーションをあきらめたくはないなぁとは思う。

«遊びと研究と仕事がない交ぜになった、エキサイティングな場所としての会社組織