流行と、新常識と、自分のやり方と
ものを書くのが難しくなった。いろいろ理由は挙げられそうだけれども一番は、一つ書き出すとあれもこれもといろんなことにつながってしまって収拾がつかなくなるから。どこで終えるか、どういう文章として収めるのか、拠り所がなく心許ない気持ちになる。だから自分の手元に中途半端なメモがうずたかく積み上がっていくばかり。ちっちゃなことでも書き出すと、すぐこのありさま。一例に。
ネットのさざなみで「お礼を言わないのが流行っている」という文字の連なりを目にして、しばらく固まってしまった。自分の友だちが急に「世の中の流行にのって、自分にお礼を言わなくなった」らドン引きしないか?
「お礼を言わない」のが流行ったら「自分もお礼言わなくなる」のか。それって事象としてありうるか?一人二人じゃなく、流行として認められる一定数に起こりうる現象だろうか。
服の流行りとは種類が違う。「人に謝らない」「人と目を合わせない」「人に挨拶しない」のが流行ったら、それに自分のふるまいを変えられるのか。逆に「見知らぬ人にも、がんがんもの言う、批判も非難もいける」とか真逆の攻めにも、それが流行になったら転じられるのか。受け身として「見知らぬ人に、がんがんもの言われてもOK」になれるのか。なんだ、その柔軟性の高さ、これが21世紀の新人類か。
それで、また流行が変わったら、新しい流行に従って変われるのか、流行に合わせて変えたくなるのか、変えなきゃって思うのか?流行らなくなったものは「ダサい」「時流に合わない」といってやめられるのか、やめたくなるのか?ダボっとした服着るか、ピチッとした服着るかと同じ感覚で、自分のふるまいも着脱自在だというのか。いや、ダボっとした服を着慣れた人がピチッとした服着るのだって相当な困難を伴うか。
と、まぁ、悪態と極論で自分の脳内がおかしくなったところで、「私がダメだ」と溜飲を下げて一息つく。
さて、そのSNSの投稿をいくらか掘り起こしてみると、ビジネス文脈でいう「お礼だけのメールは、いちいち返信しないのが新常識」みたいな話っぽい、ちがうかもしれないが。さっきのよりかは、ずいぶんと理解と許容ができる。
いっときの「流行」じゃなくて、古いやり方から入れ替える「新常識」。そう言葉を置き換えるだけで、人の許容度はこれほどまでに変わるものかと思う。
こんな言葉の差し替えと認識のこんがらがりが、SNSでは個人から多数へと伝播されるたび行われている。無意識のもの、恣意的な操作が混じり合っている。それだけで途方に暮れて、またしばらく固まってしまう。
ビジネスコミュニケーションの常識が変わっていくのは、私も目の当たりにしてきたから分かるぞ。郵便から電子メール、メールからSlackなんかに変わっていって、今じゃメールを日常的にチェックしない人もいるそうじゃないか。私も見落とされた経験がある。
私は相変わらず日常的にメールチェックしている(そしてSlackを日常使いしていない)旧態人間だが、郵便ポストを毎日必ずチェックする習慣は途絶えたクチなので、高橋源一郎さんの「これは、アレだな」みたいな感じで理解はできるのだ。
自分のほうがアップデートしていない人間と思えば、読み落とされても許容できる。まぁその人も大事な人からのメールは読み落とさなかったりするのだろうが、そこでいじけても仕方がない。
それはそれとして、これは「自分として」新常識をどこまで取り入れて、どこは取り入れずに自分のこれまでのやり方に踏みとどまるか、あるいは新しいものをマージして自分のやり方にアップデートかけるか、そういう話に発展する。
これは激しい変化の時代を背景に敷くと、けっこう大事な見極めであり、頻発する意思決定の案件であり、個々に委ねられるところ大きい日常の創造的営みだと思う。「流行に乗るか反るか」とは一線を画す話だろう。
変化の激しい環境下では、自己の行動や考え方を柔軟に適応・順応させ、自律的にキャリアや状況を構築していくアダプタビリティ(適応能力)が必要だと言われ、プロティアン・キャリア(変幻自在なキャリア)が提唱されて久しい。
ただ、自分のアイデンティティを持たずんば、アダプタビリティは上手く働いてくれない。「自分はこう」という足場たる自己意識がないと、どこを時代変化に適応させて変えていって、どこは自分のやり方として残し続けるのか、自分としてあり続けるのか、判断がつかない。足元が不安定だと、どんどんしんどくなっていく。
「お礼を言わないのが新常識だか今どきの流行だか知らんが、自分はこの件について、この人にすごく感謝の気持ちをもって、気持ちを届けないではいられないから送る」という、そういうものがあったら送ったらいいし、そんなふうに思って自分の日々の行動を選択して生きられたら、それこそが人間本来の健全な生き方だろうと思う。
逆に、形式的なお礼の送信なら、新常識に差し替えて無くしたところで痛くも痒くもない、合理的な判断ということになろう。形骸化された運用マニュアルにのっとって、AさんにもBさんにも名前のところだけ差し替えて同じ文面で送りつけているだけのお礼メールなら、ただちにやめて、他の仕事に意識と時間をあてる、ネットのトラフィック量を減らしたほうが合理的だ。それはそれで、そうですねと思う。
人に何かしてもらって、ありがたいなぁ、嬉しいなぁという気持ちが、せわしなさや慌ただしさの中で、芽生える機会を損失しているなら、今こそ取り戻せる時機かもしれない、そうとも思う。
コスパ、タイパを追求した先に得たいものがなんなのか、よくわからない発言を聞くことも多い昨今。私個人的には、お礼の気持ちをもつのって、それを届けられるのって、とても幸せなことじゃないかなぁと思う。
ありがたいことって言葉通り、実は「有るのが難しい」ことだし、感謝を相手に届けられるのも実は当たり前のことじゃない。生きていてこそ、会える人であってこそ、届けても迷惑じゃないだろうって思える人だからこそ、届けられるのだ。人生の限られた時間にしか、その人にそれを届けるってできないことだから、実はけっこう貴重なのだ。
なんて、そういうことを、ここに書いた何倍もうにょうにょ寄り道して考えてしまうから、どんどんとっ散らかっていって、いっこうに文章が着地しなくなる。こういうのを、そのまま描き散らかしていくのも、それはそれでありかもしれないが。noteじゃない、ココログだしな、とも。



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