2025-05-06

教える側の効率より、学ぶ側の能率

ある算数の授業を、同じ教え方、同じ授業時間で条件を合わせて、一方のグループには「1回にまとめて120分」で教え、もう一方のグループには「4回に分けて120分」で教えてみて、学習効果に違いが出るかを実験した研究がある*。

Spacedlearning

学習効果に違いは出たか。出たとすると高かったのは、どちらか。

一見すると効率が良さそうな「集中学習」だが、結果は「分散学習」のほうに軍配が上がった。間隔をあけて教えたほうが、生徒はよく学習したという。記憶に定着しやすく、学習内容の理解も深まりやすかった(Hattie, 2008)。

この手の実験は何十年も前から行われていて、分散学習の有効性はよく知られたところ。なのだが、なかなか教育現場に取り入れられないまま今日に至るのが実状。

素人アタマでどうしてだろうって妄想してみると、一つに「いや、知らんがな」、一つに「変えるの面倒くさい」が思い浮かんだ。

長く続けてきたものがある界隈では、変えるのは面倒くさい。重たい腰をあげて変えるメリット、変えないデメリットをひしひしと感じないかぎり、なかなか人は変える気になれない。

また一回にまとめて行ったほうが、教育プログラムの計画上も、運用上も、教える側の手間を考慮しても、何かと楽で効率がいい。

そういうことだとすれば、つまり「学ぶ側が、学び終えるまでの能率」ではなく「教える側の、その場かぎりの効率」によって、集中学習スタイルが採られ続けている、ということになるまいか。

(妄想から結論するな、という話だが)だとするならば、分散学習の有効性を知らなかっただけで、有効ならやるさ!という身軽な層は、必要な現場で、どんどん取り入れていったらいいよな、と思った次第だ。

ことに会社の部署内の勉強会、同業界・同職種コミュニティの勉強会あたりでは、教えるアプローチや教材リソースにそう長大な歴史的蓄積を抱え込んでおらず、能率アップするなら身軽に変化を加えていける現場も多いだろう。そういうところで積極的に分散学習を取り入れていったらいい。

全面的に今やっている集中学習スタイルを刷新するとか、極端なことを言い出さずに。部分的に分散学習のやり方を取り入れてみたり、一部の集中学習を分散させてみたり、考え方として取り入れてみたり、柔軟に思考を巡らして、柔軟に試行してみたらいいのだ。

極論や曲解は、もうたくさん。古いAの画一から、新しいBの画一へと、全面移行する発想は貧しい。AもBもうまく取り入れて、自分とこの、それぞれの文脈で活かす態度こそ、人間の教養の尊さよ。

同じ会社の部署内であれば、年に一度の研修プログラムに寄せて育成施策の整理をつけないで、ふだんの定期ミーティングに15分程度の勉強会タイムを設けて、連続的に展開してみるという手もある。

上司や先輩が、部下や後輩に個別に教えるなら、教える側にとっても隙間時間をうまく使って教えるほうがやりやすいことも多々あるだろう。「これはちょっと厄介だから、まとまった時間がとれたときに丁寧に教えてあげよう」と思いながら先延ばしにしてきたことはないか。

その中にはもちろん、説明にまとまった時間が必要な事柄もあれば、厄介で複雑だからこそ、小分けにして連続的に教えたほうが良い事柄もあるだろう。

時間をあけて同じ情報に約6回出会うと、学習した情報は長期記憶に残るようになるという。そんなイメージに差し替えれば、一度で覚えられない部下・後輩にヤキモキしている心持ちにも、いくらか心の余裕が生まれてくるかもしれない。

車の運転が好例だが、とくに何かの操作・やり方を学ぶようなスキル習得においては、最適な状態で15〜30分を一区切りにすると費用対効果が高いとされる。車の運転なら、2時間ぶっ続けて学ぶより、1週間以上の間をあけて各20分間を6回以上に分けて練習したほうが効果が出やすい。

集中学習と分散学習の組み合わせ技でオーソドックスなのは、最初に集中学習をもってきて、その後を分散学習で継ぐやり方じゃなかろうか。最初、まとまった時間を設けて講義中心に研修を行う。それ一度きりでやりっぱなしにせず、ちょっと期間をあけて、次からは分散学習スタイルに切り替える。ちょっとした時間を使って、課題を与えて、やってみさせて、フィードバックを与えて、修正させて。そういう時間なら、小分けで展開しやすい。少しずつ課題の難易度をあげていって、基礎知識の記憶定着と並行で、熟練化を狙うこともできる。

集中学習と分散学習、両スタイルを教える手段の選択肢に入れてイメージすることで、実現できる打ち手もいろいろ発想しやすくなるかもしれない。身軽に変えられる教え手・環境にある人たちから、分散学習をうまいこと取り入れていったらいいなぁと思う。

*ジェフ・ペティ「科学的エビデンスに基づく最適の教え方実践ガイドブック」(東京書籍)

2025-05-01

学習効果が高いフィードバックの仕方(ルース・バトラーの実験)

何かを誰かに教えようというとき、フィードバックは有効な策だ。一方的に「話を聞かせておしまい」ではなく、「課題に取り組ませて、本人の回答や作品に個別のフィードバックを与える」ことは学習に効果的(というか、それなしに完遂する学習なんて、そうそうない。その割りに前者どまりの教示活動が多いことを危惧している)。

ただ、フィードバックすれば、やり方はなんだっていいというものでも、もちろんない。フィードバックの仕方を誤れば、むしろ興味の維持、能力の向上を阻害することだって、ある。

「今この相手にとって、どのタイミングに何をフィードバックすれば学習に効果的か」の最適解を探る、文脈に応じたチューニングが肝。ということを腹落ちさせるのに、なかなか示唆的なルース・バトラーの実験(1988)が興味をひいた。

実験手順としては、こうだ。

1)学力が高い層と低い層を混ぜた3つの生徒グループを作り、3つの課題に取り組ませる。
2)課題に取り組んだ後、グループごとに異なる方法で、生徒にフィードバックを与えた。

Experiment

さて、3つのうち、どのフィードバックを受けた生徒グループの成績が向上したか。

Aタイプ)コメントのみを与える
Bタイプ)グレードのみを与える
Cタイプ)コメントとグレードを与える

Question

一見すると、コメントとグレードの両方を与えるフィードバックが、最もフィードバックが充実していて学習効果を高めそうなものだが、少し冷静になって考察してみると、いやいや…という気持ちがわいてくる。

そう、実験結果はこうなったのだ。

Answer1

Aタイプの「コメントのみを与える」だけ、成績が伸びた。他のグループと比べて約33%アップ。Bタイプ「グレードのみを与える」はもちろんのこと、Cタイプ「コメントとグレードを与える」フィードバックも、成績の向上はみられなかった。

BタイプとCタイプのフィードバックを受けたグループの生徒たちの変遷をみると、「学力が低い層」は、3つの課題を進めるごとに「課題への関心」が低くなっていった。学んでいるテーマそれ自体に興味を失っていったわけだ。これではフィードバックしている意味がない。

しかし、学習の道半ばで不用意に「E判定」(最下位)と突きつけられれば、やる気を削ぐのは想像に難くない。「自分には無理だ」と思わせるフィードバックは、育成上マイナスに作用する。

では、BタイプとCタイプのフィードバックを受けた「学力が高い層」の変遷はどうだったかというと、「課題への関心」は維持していた。が、3つの課題を進めるごとに、教師が与える「コメントへの関心」が低くなっていった。

A〜Eの5段階で「B判定」と通知されれば、まぁこれくらい取れていればいいかと、現在地に安住する気持ちもわいておかしくない。人は修正することを面倒くさがるもの。そこそこできているという判定を受け取って尚、コメントを読んで、修正を加えて、完成させようという気を起こすのは、なかなか至難である。

Answer2

この実験から得られる示唆は、むやみに「グレード」を付けてフィードバックすると、学習の質が落ちるということ。

「コメントのみ」にしぼったほうが、「他の人より自分は上か下か」といったことに意識を散らすことなく、自分のことに集中して「何を間違ったか」「何が(理解)できていないか」「間違いを直すにはどうしたらいいか」に意識を向けやすいということだ。

本人の回答、作品、パフォーマンスに評価してグレードを付けなきゃいけない状況、本人にフィードバックすべきシチュエーションというのは、確かにある。得点化してグレード判定し、選抜・採否を決める、等級を上げ下げする、報酬額を決める。本人は「判定と、判定根拠」を受け取ることによって、結論の透明性や妥当性を認めて納得できる。

だけれど、こと「育成」目的において、本人にグレードをつけてフィードバックすることが「常に」必要、妥当、有効ではないということ。そういう認識をもっておいたほうが、教えるという行為に思慮深く向き合える。何を今本人に伝えるべきなのか、伝えるべきではないか、取捨選択の意識が働いて良いのではないかなと思う。

以上、スライドにもまとめてSpeakerDeckに置いたので、勝手が良ければ、こちらでご確認ください。

学習効果が高いフィードバックの仕方(ルース・バトラーの実験)┃SpeakerDeck

*ジェフ・ペティ「科学的エビデンスに基づく最適の教え方実践ガイドブック」(東京書籍)P275-276より

2025-04-26

「普通の人」の見方に、凡庸と非凡が出る

昨日は「来し方行く末」という映画を観た。大学院を出て脚本家を志す青年が、生計を立てるため北京で弔辞の代筆業をしている、とても丁寧に。

静かな映画だった。だからこそ観る側の想像力を駆動させる。セリフが生きて届き、監督から観客へと意味の受け渡しが、うまく運ぶ。

作り手が余白を残して送り出してくれるからこそ、受け手は手づかみして内に取り込み、己に編みこんで育てられる。余白をもって送り出し、その余白が自分の予知する範囲をこえて、受け手側で開拓されることを信じる。そのための最善を尽くして作りこんだら、潔く手放す。これが、作り手や送り手の心得だ。

人の弱さと、善良さは、よく混用される。

こんな短いセリフでも、私たち観客は自分のうちに編みこんで、さまざまに思い馳せることができる。

脚本家は、第一幕で問題を仕かけ、第二幕で展開させ、第三幕で美しいラストを描こうとする。でも多くの人の人生に、第三幕はない。第二幕で閉じる。

そんなふうに「普通の人」の人生をあらわす。その尊さに光を当てた映画。

私は、普通を尊ぶ。「普通の人」を一束でくくる見方を雑だと思う。普通と凡庸は、ちがう。普通を凡庸とみるのは、そう観る人が、いわば凡庸な見方なのだ。

普通の中に、それぞれの個性を観る人間の力こそ尊い。鍛錬したいとも思う。その鍛錬は生涯きっと終わらないだろうとも思う。それは私にとって、とても創造的な活動だ。

予告をみて、この映画を観たいなぁと気にとめたのも、その辺に肌なじむ感があったからだろうなぁと思う。

なんだか、転機にある人のお話をじっくり対面で伺う機会が、重なってあったなと振り返る4月。人と過ごす静閑で豊かな時間。旅にも出た(写真は厳島の満ち引き)。風のようになった。

2025-04-05

300人の若者の表情をみられる単発講師案件

演者としての自分の心許なさを抱えて、うーむと唸りながら準備して臨んだ本番2日間を終え、一息した週末である。天気も快く、すがすがしい。春が来た。

昨年度に引き受けた大学1年生向けの90分単発授業が、なかなか良かったというので、今年度も行うことになった。一年前より実施日程が早まり、4月2日、3日に授業を行うことになったので、もう本当に入学したてだ。ちょっと前まで、高校生だった人が大半だろう。少し前に東京に引っ越してきた人もあるだろうし、国をまたいで今ここにいる人もいるだろう。人生これからだ。

昨年度から、中身もゴールも大きく変更は加えない前提だったものの、そういうときこそ落とし穴にはまりやすいもの。なので、今回も一から準備するスタンスで、けっこう前から前年度の内容を見直し、今回対面する大学一年生に、自分としてどう向き合うか、何を伝えたいかと思案していた。

自分が話したことは、それはそれとして。300人の若者の表情が見られる体験というのは、とてもいい。しかも、自分がこさえてきた授業の反応をもらえるのだ。

どの話を聴いたときに、表情をどう動かすのか。何を話しているときに、私と目線を合わせて「ふむ」と頷くのか。これについてどう思うかと問いかけたときのリアクション。考えてみてと投げたお題を、一人で考えてみているときのアウトプット、数人で話し合いながら検討を重ねていく中でのワークシートの煮詰まり具合。各々のアウトプットから、交わす発言から、頭の中の躍動が(私の妄想こみで)汲み取っていける。

あぁ、ここが壁になっているのだな、ここの突破が難しそうだ、こういうことを考えているのだけど、うまく言葉に表せなくてもどかしそうだ、そういうことが、いくらでも想像を広げて汲み取れる。これはもう、大変な経験である。

なにせ90分授業なので、一つのことに割ける時間は、ごく短い。それでも私的には、相手から勝手にキャッチしていくボールの手触りを、とても豊かに感じる。

私が「そういう怒りのエネルギーが、素晴らしい作品作りの燃料になることもあると思うんですよね」と話したとき、ものすごい目力をもって、私に目線を合わせてくれた学生がいた。

私は、話を続けた。

だけど、その手綱を自分で握れていないと、人の印象操作に簡単にのってしまうし、いちいち感情的に振り回されて、へとへとになってしまっては、自分の創作にも活かせない。私がここで共有したいのは、「そうかもしれないし、そうではないかもしれないと断定できない情報に対して」解釈を拙速に一つに決めこまないことです。

なんとなく、彼が頷いたように見えた。あぁ、この人は、これまでの人生の中ですでに、この言葉に思い致すような経験をもったのだろうかなと想いを寄せながら、話を続けた。

大学1年生の最初にあった90分授業のことなど、なかなか覚えているものではないだろうけれど、無意識的にも何か残るものが働いて、今後の人生を歩む下支えにポジティブに作用してくれたらいいなと思う。

それにしても、作、演出、出演、全部一人でやる先生業を生業にしている人への敬服の念は、年々募るばかり。本当にお疲れさまです。

2025-03-18

企業と労働者で認識がズレる「OJTの実施状況」

企業と労働者それぞれに「人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査」を行ったレポートが、私の中で話題。注目したトピックの一つが、企業と労働者で認識のズレが際立つ「OJTの実施状況」だった。

企業と労働者の「効果的なOJT実施」状況の認識差(クリック or タップすると拡大表示)

企業と労働者の「効果的なOJT実施」状況の認識差

企業のほうに「日常の業務のなかで、従業員に仕事を効果的に覚えてもらうための取り組み」を質問して、「何も行っていない」と回答したのは、たった2.9%。何かしらはやっている、というのが企業サイドの認識だ。

一方、労働者のほうに「仕事を効果的に覚えるために、いまの会社で仕事をするなかで経験したこと」を質問して、「特にない」と回答したのは28.0%にのぼる。3割近くの人たちが、会社に何かしてもらった覚えはないがなぁ、という認識。

ざっくり言って3%と30%、この開きは大きいなぁと思った。

この調査は、厚生労働省からの要請を受けて独立行政法人労働政策研究・研修機構が行ったもの。上の図は、同じ観点で、企業と労働者それぞれに調査した結果レポート(6ページ目、14ページ目)を取り出して並べたものだ。

これに興味をおぼえて、手元でがっちゃんこしてみたのが、下の棒グラフだ。

企業と労働者の認識別「具体的なOJTの取り組み」(クリック or タップすると拡大表示)

企業と労働者の認識別「具体的なOJTの取り組み」

具体的なOJTの取り組みとして、「企業が、やっていると認識している」ものは青色の棒で、「労働者個人が、会社のなかで経験したと認識している」ものは赤色の棒で引いて、上下に並べてグラフ化してみた。

1つ目でいえば、従業員には「とにかく実践させ、経験させる」ことをやっていると認識する企業が6割あるのに対して、「とにかく実践させてもらい、経験させられた」と認識している労働者は3割にとどまった。

2つ目は、「仕事のやり方を実際に見せている」と認識する企業は6割におよぶが、「仕事のやり方を実際に見せてもらった」と認識している労働者は3割程度にとどまるというわけだ。

グラフの右側に、企業と労働者の認識ギャップが大きい取り組みには星をつけてみた。上の2つは、極めて認識ギャップが大きいが、それ以外も一つずつ下ってみていくと、企業サイドはやっていると認識している施策が、労働者サイドではそう認識されていないんじゃないか疑惑が募るばかりの結果だ。

ちなみに、この調査、企業調査と労働者調査それぞれ別個に行っているようなので、労働者調査の回答者は、企業調査の回答企業に勤めているわけではない。

全国、業種さまざまで、従業員数5人以上の企業と、従業員数5人以上の企業に勤める個人(正社員&直接雇用の非正社員、男女、18〜65歳)に、それぞれ調査。調査実施時期はいずれも昨秋2024年10〜11月、公表日は今春2025年3月13日。詳しくは下のリンク先で。

人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査┃独立行政法人労働政策研究・研修機構

こういうのを眺めていると、「企業、経営陣、人事部門、上司は、やっていると認識している施策」が、「従業員、現場、部下からは、やっていると認識されていない施策」というのは、これに限らず各所でいろいろあるんだろうなぁと妄想が広がってしまう。

おたがい「相手方も、当方と同じ認識であろう」と思い込んでしまって、あえて問いただす機会もないまま、認識ずれが顕在化せずに放置され続けて早幾年か。こういうのを解消する突破口は、なんとかフレームワークとか作ったり使ったりしている場合じゃなくて、「ねぇねぇ、ところでさぁ、ちょっと聞いてみたいんだけどもさぁ」みたいな一言だったりするのかもしれないなぁとか。職場の「ねぇねぇ」は、けっこう大事だ。

2025-03-17

父と映画館で観た作品が100本を超えた

週末に父と映画館に通うようになって早2年、一緒に観た映画が100本を超えた。いつまでも続くことなんて一つもないと思い知りながら、穏やかに続く習慣に感謝と尊さをおぼえる。101日目を無事に進み出してから記念するところが、私の堅実で臆病なところ…。Instagramでぱしゃり。

習慣的に父と観た映画だけ登録しているアプリがあって、先週アプリ画面上に100って表示されているのを見て、ほぅっ!となった。

途中、父の短期入院が入ったのと、一緒に旅行に出かけたのと、2、3日行かなかった週を挟むけれど、基本的に2年間、毎週末。すると必然100作品に達する。

「毎週末、父と映画館に行っている」なんて言うと、「すばらしい、素敵だ、終わった後に映画の感想を話し合ったりして?」なんて期待されるのだけれど、とんでもない。観終えたそばから、今日は豆腐を買うだのなんだのと買い物の話をはじめる始末。ときどき双方のぼやきは交換されども、高尚な感想戦などまったく展開されない。

この習慣は、何より習慣として続くことが大事なのだ。もちろん私は毎回、映画を楽しんで選び、楽しんで観ているのだが極論、映画がおもしろくなくても、主たる問題ではない。映画の前に、顔を見て、視線を合わせて、一緒に食事をすることが大事なのだ。

そこで、その週にあったこと、最近気がかりなこと、ふと思いついたことなどを思いつくままに、あれこれおしゃべりしたりして父のもやもやが晴れること。なにか大ごとになる前に、問題の芽が摘まれて解消すること。

娘が、あるときは軽口をたたき、あるときはけらけらと笑い、あるときは気にするなかれと嗜め、あるときは発破をかけ、あるときは励まし、ときに小競り合いをしても、再びたわいのないおしゃべりに戻ること。

父の子どもの頃の話、大学時代のこと、社会人になってからの仕事のこと、社会をどう見ていたのか、どうつきあってきたのか、友人のこと、上司のこと、同僚のこと、取引先のこと、両親のこと、兄姉弟のこと、親戚のこと、自分のことをどう見てきて、今どういうふうに考えているのか。暮らした町、故郷のこと。そういう話をゆったりと聴くこと、引き出すこと、引き継ぐこと。

映画の後には連れ立って、豆腐やら魚やらネギやら、ときに靴やら帽子やら塗り薬やら、必要なモノを買いものして歩くこと。ただ、ただ、庶民の家族のコミュニケーションが繰り返されることに尊さをおぼえる。

別れ際には私が「お疲れさまでしたー」と言い、父はいつも「ありがとう」と言う。そう挨拶を交わす度、なんだかんだ言ってやっぱり父のほうが、うわてだと思う。

2025-03-09

量を減らして、一つのことを自分に丁寧に織りこむ

自分が書くエッセイは、豆腐を作るときに出るおからのようなものだと、吉本ばななさんが言っていた。彼女にとっての豆腐とは、もちろん小説だ。

先日おからのほうの『「違うこと」をしないこと』を読んでいたら、やっぱり豆腐も食べたくなって「花のベッドでひるねして」という小説を読んだ。立て続けに読んでみると、2つの作品はかなり密接につながっていて、「花のベッドでひるねして」には切々と、「違うこと」をしないことが書いてあった。

この小説のほうは、なぜだか家に文庫本があって、実際は再読。ページの最後のほうまで折り目がついていたので、数年前に一度読み切ったはずなのだが、全然記憶に残っていなかった。なので今回、新鮮な気持ちで改めて読んでみたのだ。すると今このタイミングで読むべくして読んだという気がむくむくわいてきた。調子がいいものである。

おそらく、これを最初に読んだ頃と比べて、私は今、そうとう静かなところにいる。身の回りで起きる出来事はそんなに多くなく、騒音混じりの情報を大量に浴びまくって生活することも、ほとんどない。

自分のキャパシティは、そんなに大きくも奥行き深くもないので、手に余りすぎて自分じゃどうにもならないところに浸かりにいくより、量を減らしても自分がきちんと負えるところで、傷すらきちんと負ったほうが糧になると、そんなふうに落ち着いている。

傷ついたら傷を負ってしまった…と、きちんと戸惑い、自分はその出来事の何に傷ついたのだろうかときちんと吟味する。あぁ、自分はこういう人間だから傷をおったのだと考える。そういうことを一つずつ、うやむやにしないで丁寧に向き合っていくのだ。

それが痛みであっても、そこから自分の糧にして発見できることもあるし、成長の機会とできることもある。あるいは、これは自分の生涯だと突破すべき壁には当たらない、関心もないしなぁと手放すこともある。

他方、嬉しいことも、充実感を味わえることも、人や自然に感謝することも、味わいは増している体感だ。量が少ない分、一つから味わい尽くそうという渇望がわきやすいのかもしれない。人と話し込んで感じ入ることも、読書から味わえることも、本と出来事をつなげて学びを得ることも、とても豊かになった。

人と会っては別れ、本を読み終えては次の本へとせわしなくしていると、一つのことが何かに結びついて広がっていったり深まっていったりというのが、なかなか展開しきれず雲散してしまったりもする。そうではなく、自分の身の丈にあわせて慎重にインプットに向き合っていると、一つのことを大事に育める。

なにを本の読み方一つ知らないで、まったくテキトーにものを言うものだなと、外からみると呆れるほかない生き様だと思う。キャパを超えて浴びても無、数を減らして慎重に向き合っても無。ならば私は数を減らして、慎重に向き合う後者の道を選びたい。外野からみれば、ひどく幼いまま、いろんなものを取りこぼして本質を掬いきれずに生涯を終えていく人間だとしても、それをわきまえてもなお、自分の身の丈で自分の人生を充実させていくことができれば本望なのだ。

「花のベッドでひるねして」の中に、こんな言葉がある。おじいちゃんならきっとこう言葉を掛けるだろうという主人公の脳内セリフ。

そのつど考えて、肚(はら)に聞いてみなさい、景色をよく見て、目を遠くまで動かして、深呼吸しなさい。そして、もしもやもやしていなかったらその自分を信じろ。もやもやしたら、もやもやしていても進むかどうか考えてみなさい。そんなもの、どこからでも巻き返せる。

これは、おじいちゃんと幹ちゃんの共作であり、ばななさんが「私にとって世界一の父でした」とあとがきで述べる吉本隆明氏と、ばななさんの共作にも読めた。この機に再読できたのは良き誕生日プレゼントとなった。

*吉本ばなな『「違うこと」をしないこと』(角川文庫)
*よしもとばなな「花のベッドでひるねして」(幻冬舎文庫)

2025-03-02

専門家の志しは、ときに正体の把握を遠のける

小林秀雄のこのくだりは「作家」を志す者に限らず、ビジネス界隈でも「論は饒舌でも、現場仕事ができない」人の増殖を糾弾するようにも読めて興味深い。

文学志望者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお蔭で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起る。当人そんなことには気がつかないから、自分は文学の世界から世間を眺めているからこそ、文学が出来るのだと信じている。事実は全く反対なのだ、文学に何んら患らわされない眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来上るのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。巧いとか拙いとかいっている。何派だとか何主義だとかいっている。いつまでたっても小説というものの正体がわからない。<br><br><br><br><br><br><br><br>
小林秀雄『作家志願者への助言』新潮社『小林秀雄全作品4』より

横線を引いた「文学」のところを、職業家として専門性を極めんとする概念ワードに置き換えてみる。「リーダーシップ」でも「◯◯デザイン」でも「◯◯コンサルティング」でも「◯◯マネジメント」でも「◯◯マーケティング」でも「◯◯カウンセリング」でもいいが、置き換えて読むのだ。

後半に出てくる「小説」のところは、「現場仕事」だか、自分がその職業で作っているアウトプット、その専門性を発揮して現場でこなしている働きなり身のこなしに置き換えてみる。

すると、あら不思議、「読める、読めるぞ!」という興奮がわいてきて、「天空の城ラピュタ」に出てくるムスカみたいな気持ちになる。正体は、そこにはなく、ここにある。

良い本の読書体験って、実に豊かだ。小林秀雄は、これを昭和7年に書いている。

* 小林秀雄「小林秀雄 全作品4」(新潮社)

2025-02-28

定位置にあり続ける対象に、観る側が解釈力を駆使して近づいていく人間業

一昨年の秋に初めて「能楽堂でお能を観る」体験をした私だけれども、以来おりおりに能楽師の親戚に誘ってもらって能楽堂を訪ね、このたび7回目にして京都での観能を果たした。それまでは、東京は銀座にある観世能楽堂、千駄ヶ谷にある国立能楽堂のいずれかで観賞していたのだが、今回訪ねたのは京都観世会館。「能にして能にあらず」とも言われる「翁」(おきな)という演目は、ぜひ観てみたいなぁと思っていたところ、ちょうど親戚が小鼓を勤める舞台があるというので京都まで出かけていったのだ。

お能について自分が語れることなど何ももたないのだが、これほど「私は何も知らない」という前提認識をもって、門外漢よろしく自分勝手に夢想できるものもない。と開き直って、能楽堂の席に座っているときの私は、だいぶ好き勝手に考えごとしたり感じとったり全身で遊びほうけている。

今回思っていたのは、お能という「時代を超えて定位置を保ち続ける対象」に対して、「時代時代で入れ替わる観る側・受け取る側」(つまり私)が、そこに普遍的な価値を見出して、ハイコンテキストな解釈力をフル稼働させて歩み寄り、そこから自分なりの時代観をもって考えを導くこと、感じるところをもつというのは、とても創造的で尊い人間活動ではないかと、そんなことであった。

そしてこれは、どうかすると一般庶民の生活において今後、稀有な体験になっていくかもしれないという危惧も覚えた。なんであれ私はそれを、自分個人の人生観としては生涯を終えるまで大切に育み続けようと思った。

この時代の流れに身をゆだねて、上っ面だけあわせて揺らいでいると、私はこの人間活動に必要な知力・気力・体力を弱らせていってしまいそうだと危惧した。自分の知らないうちに使う機会をもたなくなり、日常使いしなくなると、使わない・使えない・そのことに自覚もない三拍子がそろう。それを恐ろしく感じて、意識的に回避しなくてはというか、生涯すくすく育てていくぐらいの構えでいたいと強く思ったのだ。

とすると毎日を送る中で、大事にしなきゃいけないことはなんだろう。受け取る側として、自分が解せぬものに向ける眼差しを温かく、健やかに持ち続けることが、大前提な気がする。対象に対して、敬意をもって向き合うこと。一見して、無駄だとか、コスパ悪いとか、意味わかんないとか、難解でとっつきにくいとか言って早々と関心を閉じない構え。

そうして一歩、自分が解せぬものに親しんでみる入り口に立ってみる。自分なりに歩み寄れる着眼点を探してみること。焦らず気張らず、等身大で丁寧な観察眼と洞察力を働かせること。ハイコンテキストな解釈力をフル稼働させて、そこに自分が見出せる価値を探索してみること、それ自体をゆったりした気持ちで楽しむこと。まだ自身が承知していない価値への想像力を、わくわくした気持ちで働かせること。

気持ちに余裕があればたやすいことな気もするし、余裕がないと無理だなぁという気もする。そういう意味では、今の自分にはとても大事にできそうな期待がもてる。アラフィフにもなってお能に親しくなったのは、なにか縁だろうなぁとも思う。

2025-02-15

国内ハラスメント事情のリアル2025

なんだか、働く上での問題ばかりが活発に情報流通していて、若い人たちに対して、社会に出てチームや組織で仕事するポジティブな面の情報流通量が少なすぎる気がしちゃっている今日この頃。私の偏見かもしれないが。

折りにふれてやきもきする代表格の一つが、ハラスメント問題。ということで「国内ハラスメント事情のリアル2025」の平和な一面を、4スライドこしらえてみた。ニュース性が乏しすぎるが...。

直接の被害経験をもつ方、強い問題意識をもって取り組んでおられる方には、こんな切り口の発信はひどく気に障るものかとも拝察する。けれど、昨今のハラスメント関連の予防・解決のための熱心な取り組みあってこその2025年現状レポートも、これから社会に出てこられる若い方々には届けられるべき有意義な情報とも思うのだ。

もし必要な若者に、機会に、どこかでめぐり逢いましたら、1枚目だけでもご活用ください(PDFファイルでご覧になりたい場合は、リンク先のSpeakerDeckから。下の画像はすべて、クリック or タップすると拡大表示)。

1枚目:過去3年間にハラスメントを受けた経験がある勤め人は、2割に満たない

H1

2枚目:勤務先に、今以上のハラスメント対策を求めていない人が最多、4割超

H2

3枚目:フリーランスも、トラブル経験「あり」「なし」は五分五分の比率

H3

4枚目:フリーランスのトラブル経験で、ハラスメント系は1割未満と少ない

H4

一見すると「マジョリティ」にくくられる若者の中にも、組織集団の中で上位2割でも下位2割でもない「一般6割」と扱われる私のような人間の中にも、一人ひとり個別の想いがあり、迷いや苦悩、直面する壁がある。一人ひとり個別に、自分しか体験できない人生の時間があって、社会との関わりがあって、ものの見方がある。個別の未来があって、個性化していく可能性を秘めている。

その機会提供や支援が注がれる社会に、私は豊かさをおぼえる。それは、若者にキャリア自律を説くのと両立して展開できる話だし、ハラスメント問題の予防・解決の取り組みとも並行できるはずだ。

私は自分が若いとき「一般6割」の人間として社会に受け入れてもらい、会社の先輩たちにいろんな機会を与えてもらい、仕事に親しみ、やりがいを覚え、自分のキャリアを歩んできたと思うので、自分ができることを考えても、やりたいことを考えても、一般6割のキャリア支援にこそ働きたい。地味で華はないけどもさ、それが私なりの個性だ。

出所

«がたがた昇る学習曲線をスライド10枚で