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無料ブログはココログ

2017-07-01

学び手と教え手を支援する、外野仕事の面白み

この7週間は、平日35日のうち研修本番が16日と詰まっていて、その準備と実施と評価で目まぐるしく働いていた。まだ研修後のスキルチェック課題の評価、7月以降の案件などあれこれ残っているけれど、ちょいと一息、久しぶりに仕事しない週末を迎えている。

いくつかの研修プログラムを並行で走らせていたのだけど、大方は完全オリジナルのオーダーメイド。一般の受託ビジネスと同じだ。与件を整理して、要件を定義して、コンセプト立ててプログラムを構成し、講義・演習を設計して教材を開発し、研修を運営して、結果を振り返って効果や課題点をレポートする。私は講師以外の裏方仕事をする。

昨今は、実務コミュニティの間で勉強会イベントが活発だ。それを教えられる人が起案して、学びたい人を集め、勉強会を開くということが、すごくやりやすくなった。参加者を募集するイベント開催支援サービスは「Peatix」とか「Connpass」とかあるし、事前に参加費や受講料を徴収することもできる。無料や、当日払いでやっているのも多い。

私は、それ自体すごくいい流れだと思っている。テクノロジーを活用して、楽に集い、教え合うことができるようになっている。だからこそ、中身を教えられるわけじゃない外野の自分が、ぽつんとそこに立ち、学習の場をデザインする立場から役立てることはなんだろうと考える。私は外野から補完したら現場が有意義なことをしたい。

そうすると、セミナー形式で伝えるだけでは成し得ない構造をいかに作り込んで、学習効果をあげられる仕組みづくりに貢献できるかということになる。与件をしっかり整理して、スコープをしっかり定義して、どう作り込んだら、学び手の実務のパフォーマンスがぐいっと上がるかを、その人たちのモチベーションや業務環境などもしっかりイメージしながら考えて作っていく。

必ずしも、そういうことを丁寧にやっていける案件ばかりではない。そういう意味で今回は、すごくそこに力を注げる案件でよかった。こういうことに柔軟に対応してくれる講師に参画していただいて、一方的に教えるのではなく、押さえるべきポイントはプチ講義した上で、鍛えたい能力に焦点を絞った課題を作り込んで、それを受講者にやってもらう。

そのアウトプットを個別に評価して、全体的に何が理解できていないのか、個別には誰が何を理解できていないのか、何を教えてどんなアドバイスをしたら、それが理解できるか、アウトプットが変わるかを整理していって、それをもとに補講プログラムを組んで講義を行ったり、みんなのアウトプットを見比べながら表現のバリエーションを学び合ってもらったり。

実際に受講者が作ったものをもとに、ここでこういうアウトプットになっているのは、こういう観点でまずくて、それはこういうことが理解できていないからなので、こういうふうに改めるとよいと、そういうステップを踏めた。

それは、ものすごく骨が折れる仕事であるけれども、それが私のやりたい丁寧な仕事であり、中身は教えられないけど、教え学ぶ構造を作る、私のような人間が骨をおってやるべき仕事なのだと思っている。

一般の勉強会では、なかなかその部分はケアするのが難しい。あるいは、現場でもそうかもしれない。自分のアウトプットに対して、自分の能力の観点から適切なフィードバックを返してくれるメンターに恵まれている人は少ないのではないか。

ワークショップは流行りでもあるけれど、必ずしも能力開発のために開催されているわけじゃないし。参加者の不足スキルを特定して、そこに焦点化して特定の知識やスキルを身につけるための演習課題を設計するのは、事前調査も必要なら、適切なネタを課題化するのも骨が折れる。

受講者がすぐにでも手がけそうな案件想定を起こすとなれば、そこで担当している案件をヒアリングして、実案件の資料を読み込んで課題に起こし直したり。そうやって学習効果性と、リアリティと、課題として適切な複雑性のチューニングとをやりくりしながら演習課題をこしらえる。それはそれで専門性も求められる。

さらに、出てきたアウトプット一つずつを見て評価して、それについて個別に評価を数字と所見コメントを起こして返していくのも大変だ。

わかる人(講師)が、ここができてないんだよなぁというのは、それをわからない人(受講者)がそのまま聞いても、何がよくないのかわからなかったりする。だから、どうできていないのかを、わからない人に伝わる言葉に翻訳していくことを、私はよくやる。

さらに、わかる人は、ここができていないという指摘をすれば、そこを意識してできるようになると思ってしまいがちだが、まだそれをできるようになっていない人からすると、その視界はまだ開通していないので、できていないことを指摘されたからといって、それができるようになる方法を同時に会得できるわけじゃない。できていないところはココ、それができるようになる方法はこう、それは別物として教えるなり、考えさせるなりのステップが必要だ。

その辺を丁寧に構造だてていく仕事は、外野のほうがやりやすいことも多い気がしていて、その辺の現場の補完機能として働ける仕事は、すごくニッチな気はするけれども、すごく面白かったり、やりがいを感じたりする。学ぶ側、教える側が一人で奮闘するよりも、学ぶ側が学びやすかったり、教える側が教えやすかったりするサポートができたら、すごく嬉しい。

私の仕事はそういう小さな仕事の集合体でできているのだけど、人からみれば、ささやかすぎるちょこまかした働きでも、私は私の仕事が楽しい。今の環境がいつまで維持されるかわからないけれど、許されているうちは頑張っていたい。

2017-06-26

仕事は人のため

久しぶりにブログを書きつけている。前の話が「忙しいよー」という話で、それからもずっと「忙しいよー」の日々だった。朝7時過ぎからあれこれやり出して、週に2〜3日は朝から研修を納めにいき、帰ってくると研修を作ったり、演習課題を作ったり、課題の評価をまとめたり、提案書や設計書やレポートを作ったり、それをもってプレゼンやレビューや打ち合わせに行ったりして夜が更ける。ゴールデンウィーク明けから昨日まで、ほぼほぼ休みなく仕事に明け暮れていて、気がついたら6月も最終週である。

今9割がた我が身を捧げているクライアントさんは、当初は6月までに全部!という案件だったけど、おおもとの案件を走らせている間に、中堅向けも、役員向けも、子会社向けも、研修後のスキルチェックも…と、いろいろ別件のご相談をいただいて、一つひとつ提案しているうち、7月以降も継続してサポートさせていただく感じに。なので、7月に入っても、呑めや歌えやという感じにはならなさそうだ(いや、もともとそういうキャラじゃないけど)。

とはいえ、ここんとこの土日なし、平日も遅くまで働きづくめみたいな日々は、昨日をもってちょいと落ち着いた気がしないでもない(けど油断大敵なので、気ははったまま)。5、6月よりは、いくらか穏やかにいけるかもしれない見通し。朝プールも再開できそうだ。

さて、こうして働きづくめでしばらく仕事している中で、自分にとっての仕事っていうものが、すごくシンプルに見えた。やりたい仕事を長くやらせてもらっているので、もともと私にとっての仕事は相当シンプルに位置づけられていたのだけど、このもみくちゃ状態を駆け抜けながら最近ぽつんと思ったのは、仕事は人のためにやるという、私にとっての当たり前だった。

「人は何のために仕事するのか」という問いを立てて、「自己実現」とか「生計を立てるため」とかいう論争を展開したいわけじゃない。人は人。何か掲げたければ掲げればいいし、掲げたくなければ掲げなくていい。そういうのに巻き込まれる系の話じゃなくて、私にとっての仕事の話だ。

あれやこれや、仕事するメリットとかはもう置いておいて、もっとプリミティブで、もっと大前提にあるもの。「人のために仕事する」っていうのが自然で、素朴で、自分にフィットして、もうそれで十分というか。

もちろん、それは、とはいえ体を壊さない程度のバランスをとってやれているとか、会社がきちんとお給料を毎月くれて安定的に生活できているとか、やりたい仕事をやらせてもらえているとか、そういう前提があって思えていることだと思うんだけど。

ただ、仕事の過程や結果を通じて、自分のスキルが上がるかとか、会社から特別な評価をされることに主眼を置いて仕事しているわけじゃないし、できるだけそういう説明に時間を費やさず、お客さんのために働く時間に仕事時間をあてたい。

相談くださったクライアントさんの役に立ったら嬉しいし、そのクライアントさんが果たす社会的役割が社会の誰かの役に立ったら嬉しい。そして、参加した一人ひとりが、それに対する興味・知識・スキル・経験値を高めて、その人のキャリア形成に良い風を送れたら、こんなに嬉しいことはない。

自分の仕事が、社会の利益や組織の事業と、個人のキャリアの両立に貢献するなら、こんなにありがたいことはない。私の仕事観は、そういうもんだなと、なんかすごくすっきりと心のうちに感じとれて、今の仕事、そういう働き方を許してくれている今の職場環境をすごくありがたく思った。

私も20代の頃は、もっと専門的に人のキャリアをサポートできるようになりたいとか、キャリアカウンセラーの資格を取ろうとか、自分の側に目を向けて仕事との関係を考えていた時期が多少はあった気がするんだけど、今はお客さんが叶えたいことや抱えている問題に目を向けて、その人のために自分ができることをやれるだけするというだけになって、すっきり自然体、すごく楽である。

2017-05-18

余生ではなかった

ゴールデンウィーク後半は喫茶店をはしごしながら、カズオ・イシグロの「日の名残り」に読みふけっていて、ほとんど英国の執事と二人きりだった。スティーブンスが「〜ではありますまい」とか言いながら執事のなんたるかをひとり語りするのに、静かに耳を傾け(実際は読んでいたのだけど)、だいぶくったりと過ごしていた。

自分の社会的役割など「喫茶店の客」以外の何者でもないと余生感漂いまくっていたのだけど、あの日々も遠い昔となり、連休があけた初日からなかなか忙しい。

毎日3、4点作っては納品、作っては納品の日々(私が作るのはドキュメントだけど)。また、ここのところ数日にいっぺんのペースでお客さんが新たな相談をくださるので、それのヒアリングから提案作りの仕事も加わって、週ごとに案件が増え続けている。

週末は他のお客さんの調べ物をしたり提案書や教材を作ったりしていて、あっという間のような、いつもより長いような濃厚な一週間を過ごしている。一週間が7日あるって、すばらしい。

4月半ば頃からにわかに忙しくなって、以来社内にいるときはほとんど集中が途切れることがない。それはそれで、なかなか爽快である。もともと寡黙に働くタチなので、従来とあまり変化はないのだけど、それにしたって…という感じで、席に座っているときは、ほぼずっと自分の頭の中に居る感じだ。

一方で、席を立つと、フロア内を移動しているときなど、わりと空っぽである。お手洗いに向かっているときとか、お昼を買いにいくときとか。お手洗いで歯を磨いているときなど、本当に何も考えていない。

ただ、急いでいる。席に戻ったらあれをやらなきゃ、あれをやったら今度あれをやらなきゃ、という頭があるから、社内にいるときは基本的に余裕がない。複合機で印刷して戻ってくるときなど、ときどき小走りでさえある。

表に出たときも、道を歩いているときというのは、ものすごいすっからかんだ。だいたい何も考えていない。ほぼ何者でもなく「街を歩く人」でしかない。

ただ、電車に乗ると、考え出す。客先に向かうとき、その帰り道も、これから打ち合わせで話すことの要旨とか、打ち合わせを受けてこの先どういう段取りで進めようかとかを具体的に考えたり、メモをとったりしている。

日に何度かは、まるで「街を歩く人」になりに行くように表に出る。ノートをもって会社の近所に行き、その道中で「街を歩く人」をやる。それを挟んでから、近所であれこれノートに書きとめて、また、「街を歩く人」を挟んでから会社の席につくと、ことが一歩二歩とスムーズに進む。

これまで、近所でノートに向かうと、ことが一歩二歩進むと思っていたのだけど、近所に向かう途中で「ただの人」をやるから、ことが一歩二歩進むのかもしれないな、とも思う。プールで泳いでいるとき、お風呂に入っているとき、会社から家に帰る途中も、たいてい何も考えていない。「ただの人」だ。

だけど、空気にふれて歩いている。水にふれて泳いでいる。体は体で、なにかを外から受け取ってバランスよく生きているようだ。私にはよくわからないけど。

ともかく、まだ余生ではなかった。やることがあって、ありがたい。一つひとつ丁寧にやって、一つひとつ、やれるかぎりのことをやったなと振り返れるようにしたい。

2017-04-30

ワーホリハイ

4月半ばまで、わりと長いこと定時あがりが基本だったのだけど、半ばから一気に忙しくなった。といって午前様になるほどではないのだけど、平日22時くらいまでと土日の日中も使って、ちょうど収まる感じ。久しぶりに長い時間働いている。まだこれくらいは集中して働けるんだなと、帰りの電車で自分に感心してしまったりしている。目の前に取り組みたい課題があるとタフにやり続けられるものなんだな。

案件もA社とB社に加え、C社とD社案件も登場し、うまく時間を割りふって全部をよい感じに進行させていかねばという感じになった。と言いつつ、この一週間は平日のほとんどを一社にかかりきり。ちょっと急ぐ案件で、日ごとに話が進行しては次の提案をまとめる必要が出てくるので、客先で話を聴いては持ち帰って考えて提案書作って出して、またその日のうちに客先に行って説明して意向を聴いて、また持ち帰って別の提案書も作って出したり、役員向けにもこういう観点で説明してほしいという依頼をいただいてプレゼン資料作りこんだり。

締めくくりに金曜はおっきいビルの最上階で役員の方にプレゼン。一通り聴きおえた役員の方から、ホッとした、安心した、よろしくお願いしますと言葉をもらえたときの安堵と、この信頼にしっかり応えていかねばという緊張と混じり合って、なんか生きているなぁと感慨を覚えるプレミアムなフライデーとなった。

こんなのが日常茶飯事なわけではなく、久しぶりにいろいろ動いて、いい汗をかかせてもらっている感じだ。私は仕事以外、ほんとぼんやりと何の役にも立たない感じで暮らしているので、こうやって働ける機会をお客さんに与えてもらえるのはありがたいなぁと思う。

自分が自分の取り組みたいと思える仕事を役割にして働かせてくれる会社にも感謝だ。自分が有意義だなぁと思う仕事をして、それをやると会社が期待する役割を全うしたと思ってくれるなら、こんなにありがたい環境はない。

この一週間は家とプールと会社と客先とコンビニをぐるぐるまわっていて、へたをするとワーカホリックハイみたいな状態になりかねないなと週末、自分に警戒心。そんな罠にはまって視野が狭くなって浮足立った仕事をしたくない。外に慌ただしさのある中でも、内はできるだけ穏やかに保って、静かな目線で思慮深く構えて、お客さんにとって、いい仕事をしたい。

2017-04-23

仕事な週末、仕事な春

この週末は、ひたすら仕事。土曜日は10時半にスタート。何度か場所を変えながらペンと紙で情報整理を繰り返し、提案の中身を作ってだいたいの目処が立つと、夕方から会社の自席でPC作業に突入。23時ごろまで集中してカタカタするも、終わらなくて日曜日に続く…。

ざわざわした喫茶店から始めたのだけど、思考が集中しだすと、次第に人の話し声が音に変わっていって、いつしか聞こえなくなる。ふと我にかえると、そこそこ時間が過ぎていて、しばし紙とペンの世界に滞在していたことを知る。プールで泳いでいるときの龍宮城体験にも近い。これはなかなか贅沢な時間である。なかなか集中できない人間であるがゆえ…とも言えるが。

この一週間は、木曜のイベント登壇を控えてどきどきしつつも、メインの裏方仕事がそれはそれで大きな宿題を抱えていて、頭に汗をかきかき提案作りに勤しんでいた。

先々週に訪問したA社の提案骨子を粗く紙に書きあげて、参画してほしい方に相談して講師依頼、諸々すり合わせて承諾のご連絡をいただけると、テンションがまたぐっとあがる。この人たちと受講者をぜひとも良い形で引き合わせたい!と腕まくり。提案書の締め切りを一昨日の金曜に設定していたので、とりあえず最優先。

その先週半ば、別に引き合いいただいていたB社を訪問。腹を割ってお話しくださって2時間近く話しこむ。いろんな問題意識を聴かせてもらったので、来週末までに課題を整理してご提示しますねと持ち帰ってきて、きちんと形にして力になれたらなぁという思いを抱えたまま、ひとまずA社の提案書作成に戻る。

木曜のイベント登壇を終えてほっと一息すると、あとは今日中にA社の提案書を仕上げて提出だ!という金曜の朝、A社から状況に変更が生じたとの報。もうひと枠大きな&急ぐ相談ごとに進化したもよう。その日の夕方、直接その進化版を聴きに行くことに。

もともと作っていた提案書を午前中に仕上げ、出来たてのほやほやのそれを持参しつつ、大きくなった話のほう中心に、あれやこれや話しこむ。これもまた2時間近くに及ぶ。じゃあこうしませんか?という全体の方針とか設計図とかを可能なかぎりドキュメントに起こして、来週月曜の会議までに用意してもらえないかというので、お引き受けして客先を後にした金曜の夜。

からの週末。この感じ、久しぶりである。締め切り迫る中、お客さんに喜んでもらえる提案を模索して頭の中が活性化し、緊張と高揚と集中が入り混じったような静けさ。私的には、人の相談ごとに自分のやりたいことを作ってもらっているような仕事人生なので、これだけで十分ありがたいが、自社に貢献する上ではきちんと案件化もしないと。日曜のうちにA社の着地点をみて、B社に入っていけますように。この仕事、やっぱり春に引き合いが多いのだろうか?と今さら…。というわけで、変わらず受託仕事に励んでおります。

2017-04-22

DeNA「Game Developer's Meeting」出演録

先日ここに書いた、DeNA主催「Game Developer's Meeting」の出演が無事に終わった。緊張したけど、終わってみれば楽しかった。と書いてみて、「緊張したけど、終わってみれば楽しかった」という経験をするのは貴重なことだなぁと、しみじみ読み直してしまった。機会をくださった主催者に感謝だ。

参加者募集は、定員30名のところ50名ほどに申し込みいただくことができて、前倒しで受付終了。当日は40数名の方がご参加くださった。

第1部で自分が話し終えるまでは、うまく話せるかなぁ、時間超過しないでしゃべれるかなぁ、聴いて良かったと思ってもらえるかしらとドキドキするばかりだったけど、ご参加者の柔和な表情と、うんうんといううなずきに助けられて、話し始めたら、わりとリラックスして最後まで話せた。時間も45分ちょうどにおさまり、そこでふぃーっと脱力。

その後の第2部「トークセッション」ではDeNAからの登壇者4名の方のお話、第3部「懇親会」では10人ほどのご参加者に対面で話を聴かせてもらえて、たいへんに有意義だった。

人のお話を聴くのは、やっぱり面白い。DeNAの登壇者の皆さんとは、事前に顔合わせの場を設けてお話を聴かせてもらい、そこからどんな話をしてもらったらよいか整理、話すテーマをざっくり構成だてて臨んだのだけど、顔合わせでお話を伺っている時点で、ほんと皆さん魅力的な人柄で、お話もすごく素敵だったので、当日はただただ話に聴き入らせていただいた。

懇親会で伺ったイベントご参加者のお話も、キャリアがテーマで集まっているということもあって、みんな初対面でものっけから、ど真ん中で自分のうちにあることを語ってくれている感じがあって、とても濃い時間を過ごせた。

年代、経験年数、職種はさまざまでも、みんなゲーム業界のクリエイター。彼・彼女らがまとう雰囲気に触れ、なんとなく昔懐かしい感覚を覚えたのも感慨深い。

私が社会人なりたてで入った会社、1990年代に触れた、あの空気感だ。不夜城のビルで遅くまで仕事して、私は夜中に家に帰るんだけど、数時間後に戻ってくると、照明を落としたフロアの仮眠ベッドや寝袋、あるいは隅っこの床で、よく人が転がっていた。

あの職場で私は、クリエイティブ分野のオタクがもつ創作意欲、熱量、想像力、素直さ、謙虚さ、真面目さ、不器用さ、素朴さに触れて、こういう人たちのキャリアをサポートする仕事はものすごく有意義だと感じる自分を発見した。私の職業人生は、そこから始まっているのだ。学生時代には、なんのアテもなかった。

イベント翌日に拝見したアンケートのコメントも、〜にハッとした、発見があった、視野が広がった、自分のキャリア形成のヒントが得られた、難しく考えすぎていたことに気づいた、分かりやすく解説されていて驚いた、とにかくすごかった(これは、なんだろう…)とか概ね好評だったようで胸をなでおろした。

いやぁ、ほんと良い経験をさせていただきました。この先も、このご縁が良い形で通じていきますように。ありがとうございました。

2017-04-14

DeNA「Game Developer's Meeting」に出演

縁あって、ディー・エヌ・エー(DeNA)さんが主催する「Game Developer's Meeting」で、ゲームクリエイター向けにキャリアのお話をさせていただくことになりました。

熱い技術とかじゃなく、キャリアの話をテーマにすえて、どれくらい皆さんが会場に足を運んでくださるものかと不安もあったのですが、わりと順調にご参加申し込みをいただいているようで、ほっとしています。

皆でわいわいできそうな雰囲気なら行ってみようかな!という方は、今も受付中なので、ぜひお申込みくださいませ。きっと高層階からの渋谷の夜景も楽しめます(会場みていないけど)。

ゲームクリエイターのキャリアについて、みんなで考えてみる
http://gdmcareer01.peatix.com/

私の話では、勉強会というのではなく、自分のキャリアについて力まずに考えてみる時間をつくれたらと思っています。

私の話の後は、DeNAさんでゲーム開発に携わる方たちのトークセッション。大きい会社だからこそいろんなキャリアを歩んできた人たちが出入りしているだろうと思って、バラエティ豊かなキャリアを歩む4名の方のお話を聴ける構成としました。

●コンシューマーゲームからソーシャルゲーム開発に転向
●デザイナーから、現場に寄り添ったマネージャーへ
●新卒入社で運営プランナーから新規開発プロデューサーに
●ライフステージが変化しても働き続ける女性
といった方々に登壇いただくので、ちょっと気になるキャリアの方がいらしたり…とかあれば、ぜひ。

第3部はMeetUp(立食懇親会)、飲んだり食べたりできるっぽいです(無料)。数十人の会なので、この人のキャリア話、もっと突っ込んで聴いてみたいとかあれば、気軽に声もかけやすいと思います。いやいや、むしろ自分のキャリア話を聴いておくれよ!という方もぜひ。参加申込くださった方々も、いろんなゲーム会社の方がいて、職種もバラエティがあって、キャリア年数も様々なので楽しいと思います。

エンジニア、デザイナー、プランナー、サウンド、ディレクター、プロデューサーほかゲーム開発に携わっている方でしたら、コンシューマゲームの方もソーシャルゲームの方もウェルカムです。

2017-04-04

枠組みを融かして

4月になった。渋谷の桜は満開まであと少し。朝晩はまだ寒いけど、日中はだいぶ暖かくなったし、夜は雷がごろごろいったりして、なんだか一気に春もようだ。

今年度の仕事は「広げていく」感じなのかなぁと思っている。潮目を読むに…と言えれば格好いいけれど、直感で言っているだけ。なんとなく「広がっていく」感じがするから「広げていく」といいのかなというだけなのだけど。

研修サービスの枠組みを超えて、組織の人材開発・組織開発へ。
Web業界の枠組みを超えて、ゲーム・映像業界にも。
スキル開発に留まらず、キャリア形成のサポートにも。

欲張り、散漫にはなりたくないんだけど、系統だった研修というより、ゲリラ的に問題解決の施策として、あの手この手。まぁこれまでもちょこまかとはやってきて、延長線上の話ではある。

へんに専門領域みたいなことを考えて、外で築かれた枠組みに自分を押し込めずに、この場所で、直面する問題で、今の自分が貢献できること、やりたいこと、価値があると思うことに仕えていくのが自分の自然体だと思うので、そうできたらなと思う。

Every individual is an exception to the rule.
人はみな、例外である。

ユングが残した言葉。言葉で言うだけでなく、本当にそういう人間観をもって人と向き合っていきたい。そういうキャリアカウンセラーでありたい。だだっぴろい枠組みでのキャリアカウンセラーに。

2017-03-24

しょんぼりズム

誕生月というのは放っておいても、星の巡りかなにかで勝手に快い風が頬をなでていくものかと期待していたけれど、今年はどうも閉塞感が漂う、ここ数週間。

普段からだいぶ地味な暮らしぶりなので、人様からみて分かりやすく何がどうという変化はない。特別誰かに指摘されることもなく、いつも通りといえばその通り。ただ自分の中でひっそり静かに、このしょんぼりズムを様子見していた。

「理由を挙げよ」と言われれば、身近なものから社会情勢まで5つ6つ具体的な事象は思い浮かぶのだけど、「それが理由なのか、どれが一番の決定打?」と問いただしても、どうかなぁとぼんやりした答えになる。そういう因果律にのせる話じゃなくて、なんとなくそういう時期ってことなのではと思ったほうが自然な受け止め方なのかもって気もする。

それでまぁ、どれかに要因を定めて応急処置を試みることもなく、しばらく無理に元気ぶらずに(ってもともとがあれなのであれだけども)、本を読んだりラジオを聴いたりして(ってこれもいつもと変わらなすぎるけど)、淡々と経過観察して過ごすようにしていた。キャリアカウンセラーとして、極力こういうときには自分の心の動きを丹念に観察するようにしているというのもある。

それで気づいたのは、こういう気持ちのしぼんだときに、「サピエンス全史」みたいな壮大な世界の話だけ読んでいると、私はダメなんだなってことだ。

地球の始まりや人類の始まりから今をながめる世界の捉え方に触れていると、対する自分のちっぽけさを感じざるをえない。自分の気持ちの塞いでいるのなんて、それこそちっぽけなことに思われるので、最初は大いに健全な過ごし方だと思って読んでいた。今こそ、こういう壮大な話を読むべきなのだ、と。

はじめは本当にそうだったのだけど、なにぶん読むのが遅いので、何日もかけて読み続けていると、頭の中が自分がちっぽけであるということだけに埋め尽くされてしまって、これはこれでバランスが悪いのではないかと気がついた。

外界は壮大であり、自分はあまりにちっぽけである。というのは、あまりに当たり前のことである。と同時に、とはいえこのちっぽけな自分の人生を、壮大なものとして生きているちっぽけな自分もいるのである。

一人の人間として生きていく以上、このちっぽけさからは逃れられないから、私の外側に広がる世界の壮大さと同等の壮大さをもって、私の内側にも小宇宙のようなものが広がっている、そう捉えないと健全なバランスを欠いてしまう。

外側ばかりに目を向けて、自分はなんてちっぽけなのだ…というだけで何日も何週間もやっていると、ちっぽけな自分が、自分にとっちゃそれでもすさまじい人生を生きていくということを、どう価値づけていいのかわからなくなってしまう。この浮遊感は、ちょっと健全じゃないなって思った。

なので、一旦「サピエンス全史」を手放して、一人の人間の物語を読んだり、ユングや河合隼雄さんの心理学の本を読み直すことにした。この処方箋はあっていたようだ。

あと、稀有な友人たちとのおしゃべり時間をもって、はぁ、やっぱり人は人と触れ合って生きていくのだよなぁと実感したり。ちょっとした仕事の声かけがあって、はぁ、やっぱり私は人に仕事をもらって、それでかろうじて生きているのだなぁと再認識させられたり。なんかぎりぎり乗り切った感があるけれども、そろそろ誕生月も終わるし(関係ない)、4月は久々に新しい気持ちで迎えてみようと思う。

2017-03-08

教養に向かう興味の源泉

子どもの頃から、理科や社会は苦手科目だった。たぶん最初の出会い方を失敗したのだ。物心ついたときには、すでに理科や社会が「覚えなきゃいけないこと」の集合体に見えていた。中学、高校と進むごとに苦手意識は高まって、受験はいつも国語と英語で切り抜けてきた(数学は論外…)。

大人になってから、おしゃべりの中で「え、それって小学生のときに習わなかったっけ?」という返しをもらって、「え、小学生のときに習った理科のこと覚えてるの!?」と真剣に驚いた。

そうした非凡な人たち(私からみると)との出会いに恵まれたことが、私の幸運だった。彼・彼女らが子どもの頃から純粋に興味をもって「へぇ、そうなんだ」とインプットしてきたことを喜々として語る様子に触発され、私は大人になってから理科とか社会で取り上げられる類いのことに(わりと)純粋な関心を向けるようになった。

ただ一方で、私の中に芽生えた興味は、非凡な友人らのそれとは異質なものに感じられるのも事実。生物でも化学でも歴史でもいいけれど、友人らが興味対象に向ける純粋な知的好奇心は、それ自体にまっすぐ伸びて、それに直接接続する強さが感じられる。一方の私には、それを「とことん知り尽くしたい」とか「とことん考え抜きたい」とか「とことん調べ尽くしたい」といった気概がない。

興味を覚えるようになったとはいっても、一般向けの入門書を読んだら、もうお腹いっぱい。しかも読書中から数行・数ページ読んでは、その少量を携えて自分の内側に向かっていってしまうことしばしばで、読書は遅々として進まない。

思索と言えば格好もつくが、別段どこに到達するわけでもない。読み終えれば詳細はほとんど忘れてしまうから、人に教えられるような知識も残らない。なんの分野にも一向に精通しない。

ただ自分の、世界や自分ごとをとらえる物差しが増えたり伸びたりして、自分自身が楽になっているだけだ。

昔から、この時代・この地域・今の自分周辺の価値観に限定した当たり前や常識にとらわれたモノの見方にはまりたくないという性向はあった。けど、若いときのそれはせいぜい100年200年前との比較を想定したものだった。高校生くらいのときは、江戸時代にもその考えって通用するだろうか?と、よく自問していたものだ。

その尺が、大人になってぐわっと伸びた。「ソフィーの世界」(*1)を読めば紀元前600年から、「サピエント全史」(*2)を読めば45億年前の地球誕生どころか、135億年前の物質とエネルギーの誕生とか、原子と分子の誕生から今までと、世界をとらえる物差しが一気に伸びるのだ。

持ち替えられる物差しが手もとに増えれば、そのぶん自分のモノの見方も自在になる。長いの短いの、都合にあわせて持ち替えられると、いろいろな場面で楽である。少し経つと「あれ、何億年前だっけ?」「あれ、何の始まりだっけ?」と忘れちゃうのだけど…、私は自分の物差しが増えたり伸びたりしただけで、わりと満足してしまうのだった。ここに、友人らの非凡さと、私の凡庸さがはっきりくっきり出る。

それでも、ないわけじゃない私の極めてはかない興味の芽生え。この源泉はいったい何なんだろうかと考えていて思い浮かんだのが、以前読んだ本の一節だ。

ヘーゲル的な「教養」には、自分にとっての「よい」が普遍的に「よい」ものかどうかを判断するための能力という意味がある。教養は、共同体における「よさ」が多様なものであることを教える。(*3)

こういうことかと合点がいった。私はヘーゲルが言うところの教養を欲しているのではないかと。物質とエネルギーとか、原子と分子そのものにはさしたる興味をもてないのだけど、自分のモノの見方をちょいとでも普遍的で多様なほうへもっていくことには興味がある。

普遍的なモノの見方、多様なモノの見方を完全に手中におさめるなんて、人間には到底無理な話だ。それは、あきらめている。それは前提として、昨日より今日、今日より明日の自分が、少しでもそっちのほうに近づいていけたらいいなぁという、だいぶ控えめで平凡な願いをもっている。今もっている自分の前提を崩し続けて、一段ずつでも普遍的な見方に近づいていくために教養を欲しているのだと考えれば、なるほどと思う。

この世界はどっちつかずな物事にあふれていて、狭い了見で極論を一択すれば、いろんなところに無理が出てきてしまう。そうではなくて、あれとこれの真ん中に立って、その不安定さを許容して、うまくバランスさせようとするところに、人間ならではの聡明さがあるんじゃないか。そうせんと動機づけ、その過程を下支えしてくれるのが教養だ。それを欲していると考えれば、なるほどと思う。

純粋な知的好奇心に比べれば、きわめて微弱ではあるけれども、自分なりにこの「教養に向かう興味」を大事にしていけたらと思う。

多様なモノの見方を受けとめた上で一つの着地点を見出そうとする過程で、人は優しくなれたり、強くなれたり、創造的になれたりする。ときに難しくて、もろくなったり、コントロールがきかなかったりもするけれども、教養はそこでも助け舟を出してくれる。別のやり方、別の見方、別の気の持ちようを与えてくれる。大人になって教養科目に惹かれていったのは、そうした背景があるのかもと思った。

ともあれ長きに渡って魅力的な人たちと出会い、つきあってこられてこその変化。本当にありがたい。そんなことを思いつつ書き連ねつつ、まもなく四十を終える。

*1: ヨースタイン ゴルデル「ソフィーの世界」(NHK出版)
*2: ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエント全史」(河出書房新社)
*3: 平原卓「読まずに死ねない哲学名著50冊」(フォレスト出版)

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