最近のトラックバック

無料ブログはココログ

2017-10-08

直やりとり

今期はなんだか案件の引き合いが多い。予算や期間など規模はさまざまながら、半年間に13社ほどとおつきあいがあるのは、自分が法人案件をメインにやり出して10年弱、前例がないんじゃないかと思う(曖昧な記憶…)。というわけで、大変だけど彩りがある。

受託ビジネスに関わる面白みの一つは、「いろんな業種」のクライアントさんと「どっぷり仕事の話」ができること(*1)。生来アクティブな人なら、仕事に関わらずいろんな業種の人と知り合う機会を持つのだろうけど、私は人の集まる場に出ていくタチではないし、そういう場に出ていったとしても、仕事の具体的な話、業務環境や組織の内情をそうそう赤裸々に腹わって話せるものでもないだろう。

一方、人材育成の受託ビジネスとなると、社内でどんなパフォーマンス上の問題があって困っているかを話さないことには提案もできないから、初回訪問して、いきなり話題はそこに入る。初めて会ったその日のうちに、そこを1対1で話し込むのだ(人数は1人とは限らないが)。

私は初対面の人と会って誰とでも軽やかに会話を楽しむ技量に乏しいので、最初から1対1で本題に入って深掘りしていく会話は、性に合っている気がする(頭がおっつかない不安もあるけれど…)。それに問題が鮮明になって、これなら何か役に立てるかも、役に立ちたいという自分の役割が具体的につかめてくると、がぜん話もはずむ。

私は、人が問題を抱えていると思ったときに問題が生起すると思っているので、人が思わないかぎり、そこに問題はないという考え方をする。どんな地球の危機が訪れようとも、それを問題視するのは常に人間であって、地球はそれを問題とは認識しない。問題という概念は常に人間が作るもので、人間だけが事象を「これは問題だ」とか「たいした問題ではない」とかより分けるのだ。

というわけで、解決したいほどの問題意識が当事者にないところに割って入っていって、「これは問題です!解決しましょう」という気概がない。問題を抱えていないというAさんに、外野からBさんが「あなたは問題を抱えている」というのは、それって実はBさんの問題であって、Aさんが問題を保有しているわけではないのでは?という仮説のほうが先立ってしまう。

他者に問題提起することの有意義さは、それはそれであるとも思っているので、もちろん一概には言えないのだけど。世の中のあれこれは概ねバランスの中にあると思っているので、一概には言えないことだらけで何を書くのも大変だ。

って、話が遠くに行き過ぎてしまった…。まぁまぁともかく、そういうわけなので、私にとってクライアント案件は相性がいい。クライアントさんは基本的に問題の認識をもったところで、社外の人間に相談を持ちかけるのだ。

受託側の私はのこのこ出ていき、問題を抱えていることを自認する人にお話を伺う。あれこれ直に質問できて、それを持ち帰って対応策を練り、それを整理して、また直接に提案できる。最初から最後まで直接できる受託ビジネスは、私の性にものすごく合っていると、よく思う。

緊張するし、難しいし、大丈夫かなぁという不安も抱えつつだけど、自分の力のかぎりやってみて、どうでしょうか!って「直接」相手に出してみて、正面から相手のフィードバックを受け止めていく以外にやり方もない気がするし。そうやって素直にやっていくのが一番自分に合うステップの踏み方なんだろうなぁと思う。

なんか、前にも同じような話を書いた気がしてならないのだけど、自分の受託ビジネスのフィット具合いというのは、ときどき言葉にしたくなるのだ。この環境を支えてくれている人たちに感謝する気持ちも、こういう過程をとおして、自分の中でちょこちょこ確認したい。

このところ案件が多いのは、戦略的にどうこうした結果ではなくたまたまなので、山谷の自然現象でいくと、いずれ谷がやって来るだろう見通しなのだけど、とにかく今いただいているお仕事を一つひとつ大事にやっていこうと思う。結果的にそれがまた次の何かにつながっていくのであれば、それが一番いい。自然が一番性に合う。

*1: といってもクライアントは広告、メディア、ネット系(たまにゲーム、映像)にだいぶ偏っているし、クリエイティブ関連の人材育成テーマに限った仕事の話なんだけど

2017-10-04

30過ぎたら関係ない

10月から「TBSラジオクラウド」が大幅リニューアルということで、スペシャル企画のPodcast番組(*1)がやっている。久米宏×ジェーン・スー特別対談「ラジオが踊る未来」、荻上チキ×津田大介 特別対談「ラジオの現場から考えるジャーナリズムのこれから」、どちらも面白く聴いた。

ラジオ番組らしさがよく出ていて、30分強のおしゃべりをじっくり聴き入ってしまう。久米さんが番組の中で、テレビを観るよりラジオを聴くほうが、はるかに脳内作業量が多いんですよ!という話を力説していて、「だなぁ」と思いつつ聴いた。そりゃ個人差やその時々の状況次第ってのはあるだろうけど、ラジオを好んで聴く人の多くは、「だなぁ」と思うのではないか。

ラジオを聴いていると、自分の頭の中でやることがたくさんあって、考えて、想像して、作り上げていくことになる。テレビのようには「見えない」ことこそがラジオの魅力、強みであるという久米さんの話に聴き入った。

久米宏さんは御年73歳。「ザ・ベストテン」をやっていたのが30代で、「ニュースステーション」の番組を引き受けたのが41歳。「ニュースステーション」は、それから18年間続いた。そのくだりでジェーン・スーさん、「40代って、どうやって乗り切ったらいいんですかね?」と久米さんに問いかける。

このときの久米さんの返しが、また「だなぁ」だった。

「今から振り返ると、40代でニュースステーション始めたとか、30の時にベストテンとか、そりゃ、あんまり関係ないよね。40代も50代も30代も、20代はちょいと若いけど、自分が思うほど周りはね、あなたの年代は気にしてませんよ。自分が気にしてるだけ、自分が41だって。周りはね、ジェーン・スーだっていうのを気にしてるだけ」

私はあまり(良くも悪くも)年齢って気にしていないので、この返しには、なんとなく自分が思っていた感覚を言葉にして提示してくれたような感じがあって、すごく良い話を聴いたなって思った。

「40とか55の人って、そんな差別してないもん。できるかできないかくらいでしょ。イイやつか悪いやつかとかさ、センスがいいか悪いかとかね。何が趣味かとか、そういうことで、歳のことって、もうそんな関係ないと思う、30過ぎたら」

「だなぁ」と。って、そんな感想だけじゃ「引用」条件に見合わないんだけど…。こういう話を長尺で、いろいろもやもや考えつつ、想像しつつ、自分の頭の中であれこれこねながら「だなぁ」と聴けるのがラジオの魅力。ちゃんとした話はラジオじゃないとできない、考えていることをちゃんと話せるのがラジオという媒体の特性なのだという話をしていて、それも「だなぁ」と。

*1: 「TBSラジオクラウド」大幅リニューアル記念のスペシャル企画Podcast番組:ここでしか聴けない&3ヶ月限定配信なので、ご興味のある方はお早めに。

2017-09-23

新規クライアントの初回訪問

今期は4〜6月(春)、7〜9月(夏)と、3ヶ月タームで数案件が立ち上がっては収束して、お客さんの入れ替わる感がある。この3ヶ月ターム、10〜12月(秋)も続くもようで、今は夏案件の実施レポートや評価フィードバックと、秋案件の新規引き合いの束が折り重なっている。

今週・来週は縁あって3件の新規訪問があるので、人見知り引っ込み思案緊張しぃの私にとっては、わりと大変な日々である。それぞれに下調べをし、営業&ヒアリングの準備をし、訊きたいこと、いろんな仮説を持って、いざ訪問。そこであれこれお話を伺った後は、問題を整理して企画を立て、1週間程度で提案書にまとめて提出する大仕事が待っている。

客先にヒアリングに行くと、たいてい先方から複数メンバーが出てくる。4、5人のことも多い。そこで先方にいろいろ質問を重ねていくと、「あ、これはもしかすると、私個人の意見かもしれないですけど…」という前置きに遭遇することがある。わりと、ある。私が尋ねることは、組織的にみれば結構ニッチな論点と思われるので、そういう場面に遭遇しやすいのだと思う。

ヒアリング中、こうした前置きを聞くのは好きである。私の質問を引き受けて、誰かが何か答えてくれようとする。ひと言発した後「あっ」と一旦止まって、ちょっと他のメンバーの顔を見回す。そして、他の人が同じ意見かわからないんですけど…と前置きしてから、再びこちらを向いて話し出す。

それを一通り聴いた後、他の方にも答えを求めていくと、これまで先方社内で話し合われたことがなかったことについて認識をすり合わせる機会を持ったことになる。さらに、そこで落とし所まで一緒に話し合えれば、社内の合意形成までその場で進めたことになる。この先の私の提案が先方のお眼鏡にかなうかどうかに関わらず、少なくともこの打合せを持ったこと自体は、先方にとって無駄ではなくなるのだ。

ヒアリングを終えて外に出てくると、大丈夫だったかなぁと毎回不安になるけど、このセリフに遭遇した打合せの後は、ともかく皆さんが、このテーマでざっくばらんに意見交換し、どう施策を打っていくか方向性をすり合わせる機会にはなったのだ、と一呼吸入れる。今週訪問した先でそのセリフが聴けて、あぁ、良かったと思った。自分は自分で、これを持ち帰って、いい提案を考えて持っていこうと思う。

受注後ともなると、先方から10人近く参加する打合せもある。そういうときは先方の社内打合せに、私がちょこんとお邪魔している感じになる。私はキャラ的にあまり異物感がないらしく(存在感が弱いとも)、そういう感じでやりとりできると、個人的には仕事がやりやすい。

もちろん一人だけだいぶ立ち位置が違うので、混ぜてもらっている立ち位置から意見を出していく必要があるのだけど、客先で社内の議論を前進させるざっくばらんな打合せに関わらせてもらえるのは楽しい。毎回客先に一人でのこのこ行くのも、これを作り出すにおいては、なにげに大事にしたいこと。影薄キャラも、大事にして活かしていきたい。

2017-09-18

「みんなを生きるな。自分を生きよう。」に触れて

デジタルハリウッド大学の2017年秋のキャンペーン「みんなを生きるな。自分を生きよう。」に触れて。Facebookに書いたことだけど、とても大事な気持ちなので、ここにも残しておこう。Facebookでは、うずもれてしまう…。

デジタルハリウッドは1996年、小僧の私を拾って社会人にしてくれた会社。インターネットにつなげてくれた会社でもある。

杉山先生はいつも目をキラキラさせて、夢ではなく事業を語る人だった。いつか誰かの夢でなく、来たるべき社会の姿と、自社の理念と事業をかけ合わせて、いつもワクワクした顔をして私たちに話をした。

まっさらな私に、リアルな「会社」の概念を与えた人でもある。会社も、仕事も、事業も、ビジネスも、全部有意義なものなのだという当たり前を、私にインストールした人。

当時一緒に働いた先輩方も、へんてこな会社に転職してくる、自分を生きてる人の集合体だった。私に「働く大人」の当たり前をインストールしたのは、この人たちだ。

最初にここで働けたことの意味を、私は10年20年して改めて感謝している。なので、一般の感覚では到底評せないけど、いいコピーだと思う。

ユングの、人の成長とは個性化の過程という考え方が好き。人が成長するってことは、他の人と違っていくということ。みんなと同じになっていくことじゃなくて。私の周辺には、そういう人がうじゃうじゃいて楽しい。私も私なりに、自分を生きている。

2017-09-03

ビンタについて

あるメディアが、ある人の「ビンタ」を問題として報じて以後、他メディアでも多く、強度へのさしたる言及なく「ビンタ」という言葉を採用しているのが気になっている。

あの会場にいたという人のtweetで、「ビンタは「目を覚ませ」な感じで音も聞こえないピタピタ、とほっぺた触った感じ」と書いているのをみて、私の脳内にあったビンタイメージを、バチーンからピタピタに挿し替えてみた。だいぶ場面が落ち着いた。

バチーンだと「叩く」だけど、ピタピタとかペチペチだったら、限りなく「触る」に近づく。先のtweetも一人の意見で絶対視できるわけじゃない。けど、他に見た、強度に言及していない多くのビンタ記事より、具体的なイメージを提供してくれているし、少なくともバチーンじゃない平手打ちを、私のビンタイメージのうちに放り込んでくれた点で、ありがたかった。

「ビンタ」って擬音っぽい印象あったけど、調べたら「鬢た」って頬らへんの位置を含んだ名詞だった。確かに、よく考えてみると、ビンタしたときに「ビンタっ!」という音はしない。よく考えなくても、そうか。

「ビンタ」の意味は、頬を平手で打つこと。強度については辞書に書かれていなかったけど、もとは軍隊用語で暴行・暴力の類いに分類される行為ってことだから、やはり「触る」とは一線を画す。「ビンタ」を動詞で言い換えると、はたく、叩く、ぶつ、ひっぱたくあたり。される側が、痛い!と感じてこそビンタだ。

ビンタというと、私はまず「バチーンという音を立てて、思い切りよく頬を平手打ちする」シーンを脳内再生してしまったが、ビンタの一般的なイメージがどれくらいの強度なのかは、よくわからない。どれくらい共通化されているのかも、よくわからない。人によっては、パチンかもしれない、ペチっとかパチっとか、バシっとかベシっとか、ペチーンとかパチーンとか、パンパンパパァンとか。実体験というより、読んでいたマンガとか見ていたドラマに影響するんだろうか。

いずれにせよ擬音じゃないから、わりといろんな強度を内包するのかもしれない。が、少なくとも「触る」と一線を画す「打つ」領域に突入してこそビンタなんだろう。

しかし、「触る」と「打つ」の間に明確な線は引かれていない。このての言葉の線引きは人が勝手にするもので、自然界に答えを求められない。触ると打つの間に実線は引かれていない。

そして、多少盛った表現をあえて選択する人たちもいる世の中である。受け取る側も、疑問を持たずに与えられた言葉から自分の脳内イメージをこれと固めてしまったりするし。「たしなめるようにして触れる」という、叩くとは違う触れ方があることを自分の中でイメージとして持っていなければ、触ると打つの両方を想定してかかることも難しい。

自分の言葉とイメージを、バランスよく豊かに育てていきたいなぁと思う。人から受け取った言葉そのまま、自分の限定的なイメージにつなげて、無意識のうちに事実を歪曲して捉えてしまう落とし穴にはまりたくないなぁと。

言葉はイメージを固定化する。枠組みを規定してくる。それに囚われない手腕も磨いていかないと、尊い言葉を悪役にしてしまう。言葉とイメージを豊かに持っていないと、人に優しくあろうとしても限界が出てくる。自分が発する言葉の一つひとつにも、人が発する言葉の一つひとつにも、慎重に、丁寧につきあいたい。それにはやっぱり気持ちだけでなく知性が必要なんだ。

2017-08-30

枠組みを超えて、融かして

なんだか「ブログを書く」という行為が遠のいてしまっているなぁ。できるだけ頻繁に書きたいという欲求があるわけでもないのだけど、なんで書いたり書かなかったりの時期があるんだろうなぁというのは、不思議である。忙しいときには書かないとか、別段そういうことでもない気がして。

それで今日は、うたた寝から本気寝してしまって、はっと目覚めた深夜になんとなく書き出してみたのだけど、最近の仕事のほうは、というと今年度に入ってからはずっと案件が潤っている。

別に何かの戦略・戦術を打った結果というわけじゃないから、「今抱えている案件が終わったら、その後はわからん」というのらりくらり具合は相変わらず。でも、一つやって信頼してもらえて、同じ会社の別案件や、関連会社からの案件が立て続くというのは嬉しいことだ。

そんなこんなで今期は、4月の提案からにわかに仕込みが始まり、5、6月にひとやま研修提供のラッシュがあって、7月にちょっと一息。7月後半から8月は新たな仕込み時期で、9月は研修の提供が続く。来月は月・水曜がA社、火曜がB社、木・金曜がC社向けと研修本番で埋まっている1週間があり、今はその教材・テスト作りを数時間ごと頭かちゃかちゃ切り替えながらやっている。

こうしたオーダーメイド研修のほかにも、今年度はいろいろ変わり種の相談をいただいている。クライアント側が外部講師は自分とこで手配する感じで、私は講師手配を含まない研修設計担当として相談をもらえるケースがあったり、キャリア系では講演のほか、若い人のメンタリングやキャリアカウンセリングをお引き受けする(私的には)一風変わった受託案件も出てきて、なんか広がり感あるなぁと不思議にみている。

自分の中には特別、固定的な「自分の仕事」の枠組みって持たないでいるつもりだけど、外からはやっぱり、どういう職種の人なのか、どこを任せられる人なのかと枠組みをもって見られるものだと思うので、こうやってお客さんや友人・知人のほうから自分の既存の枠組みを融かすような機会をもらえるのは、すごくありがたい。

それに応えようとすることで具体的目標ができて、その達成に向かうことで自分が変化していくというサイクルは、自ら目標を立てる姿勢に欠ける私にとって、すごく自然でしっくりいく。人から見れば気に止まらないくらいささやかな変化だろうけど、身の丈的にはそれがちょうどいい。

と、まぁもう少しこういうメモを気軽に残していきたい気もするが、どうなることやら。

そうそう、私が引き受けたメンタリングは同業者としてではないけど、「メンタリングを社外の同業者に業務委託する」というのは有意義かもな、と思ったりした。Web業界とかだと個人や小さな組織でやっているところも多い。社内ではなかなか若手育成に時間が割けなかったり、社内では自分がトップなんだけど会社の枠を越えればまだまだで腹割って仕事の相談ができる先輩が欲しいみたいな場合に、メンタリングの外注っていうのはもっと身近な選択にあっていいのかもなと。飲み会や勉強会とかの交流と別に、1対1で、NDAも結んで、外部の○○さんに「メンタリング:月1回○時間○円」で3〜6ヶ月お願いしてみるとか。会社がお金を負担して、そういう仕組みを作るのもいいかもしれない。もうそこら中でやっているのかもしれないけど。

2017-08-19

批判も法なら、共感も

「クリティカル・シンキング」とか「批判的思考」とかが大事と説かれて久しいけれど、それ一辺倒では、これまたバランスが悪いんだよな。今読んでいる「逝きし世の面影」(*1)の中の一節に目がとまって、そんなことを思った。

共感は批判におとらず理解の最良の方法である

ふむむーと味わった。なにか対象を批判的に捉えてみるって、確かに大事なアプローチなんだけど、それだけだと片手落ち感がある。

批判的に見たら、あとで反対側にまわって、それに気持ちを寄せて見直してみる。まず共感をもったら、あとで反対側にまわって、それと距離をとって批判的にも見直してみる。片方だけ思い切りやって理解した気になってしまうのは怖い。視野が狭まって大事なことを見落としたり誤解してしまっているのに、それに気づけなさそうで怖い。

道標はきっと、自分はそれを理解したいのだという認識。共感も批判もゴールではなくて、私はそれを手段にして、対象の理解に向かっているのだ。そこを見失わなければ、途中で迷っても戻ってこられそう。「批判も共感も、どちらも理解の方法」という一つの見方を、整理してもらった気がする。

そして今は世の中的に、批判より共感こそ意識的に持ち込まないと危うい感がある。

批判的思考というのは仕事場での馴染みもよく、発揮すれば「鋭い指摘だ」「かしこいね」と評価されやすい類いのスキルだ(発揮の仕方にもよるけれど)。評価されるものには、どんどん傾注していくのが人の常。

また情報過多の世の中では、自分は直接関わりをもたない”遠いもの”の情報の一面に触れる機会が多い。数が多く、一面的で、玉石混淆の情報に触れ続ければ、人は疑心暗鬼になっていく。そういう環境下にいると、情報に触れて最初に発動するのって、共感するより批判的に見るほうへと習慣づけられていくのが必然な気もする。

それに、とくに抽象的・概念的な話になると、自分と反りが合わないものの批判を表明するほうが容易く、目に見えない意味や価値を汲み取ったり、相手の背景や可能性に想像を巡らせて共感を表明するほうが難しかったりするかもなと。まぁこの辺は、気分で書いている…。

ともあれ、自分がそれを理解したくて踏み込んでいるなら、批判と同等かそれ以上の共感をもって、それを丁寧にみることを大事にしたいところ。批判と共感をして、発見できるのはきっと違う領域だ。

一方、そもそも理解したいという気がないものなら、下手にあれもこれも顔を突っ込んで批判だけ散らかしていくのは趣味じゃない。理解したいものに、ていねいに時間を使いたい。

これも先の本の中で引用されている、モース「日本人の住まい」の一節。

他国民を研究するにあたっては、もし可能ならば無色のレンズをとおして観察するようにしなくてはならない。とはいっても、この点での誤謬が避けられないものであるとするならば、せめて、眼鏡の色はばらいろでありたい。そのほうが、偏見の煤(すす)のこびりついた眼鏡よりはましであろう。民俗学(エスノロジー)の研究者は、もし公正中立の立場を取りえないというならば、当面おのれがその風俗および習慣を研究しようとしている国民に対して、好意的かつ肯定的な立場をとり過ぎているという誤謬を犯すほうが、研究戦略(ポリシー)のうえからも、ずっと有利なのである。

色眼鏡は、まずバラ色でって、おもしろい。そこからさらに、あちらこちら目線を移して行き来して、真ん中に戻ってきて、それを理解しようという一番大事な気持ちからぶれずに、共感も批判もひっくるめて、それに向き合っていたいと思った。

*1: 渡辺 京二「逝きし世の面影」(平凡社)

2017-08-15

ラッシュの郷愁

帰省ラッシュ、Uターンラッシュのニュース映像を見るのが好きだ。「お盆をふるさとや行楽地で過ごし…」と始まると、なんだか気持ちを持っていかれて毎回、高速道路、新幹線ホーム、空港の映像を見入ってしまう。

私はラジオを聴くのが常で、映像でニュースを見るのはニュースサイトで気になったものをいくつかという日々なのだけど、お盆と年末年始は必ず帰省ラッシュ、Uターンラッシュのニュース映像を選んで流してしまう。

なかでも一番好きなのは、高速道路の映像だ。上から車の行列を固定カメラがとらえているだけで、子どもたちの笑顔も、孫に手をふるおじいちゃん、おばあちゃんの姿も映らない。最も淡々としている映像なのだけど、うちは子どもの頃から連休となると、たいてい母の運転で家族旅行に出かけていたので、あの地味な映像にこそ郷愁を覚える。

朝もやの帰省ラッシュ映像にも趣きがあるし、テールランプが光るUターンラッシュ映像も味わい深い。一つひとつの旅行を鮮明に覚えているわけじゃないけど、だからこそ何度も家族とともに行き来した高速道路になじみ深さを感じてしまうのかもしれない。静かな映像に相対するからこそ、自分の内側の動きを感じやすいのかもしれない。

今となっては、それをニュースで眺めて、昔はあの中によくいたよなぁと懐かしむほうが圧倒的に多いのだけど、まれに今でも妹の運転で、父と私と3人で旅する機会をもつと、積み重なった子どもの頃の思い出と入り混じって、なんとも味わい深い時間が流れる。

昨日も、妹の帰省にあわせて、銚子のほうまで父と一緒に日帰り旅行に出かけた(妹がいるとドライブ旅行に出かけられる…)。子どもの頃は、運転席に母、助手席に父、後ろに子ども3人が並んでいたのだけど、今は運転席に妹、助手席に私、後ろに父が座る。

音はラジオ。昔はラジオのほか、母の持ち込んだカセットテープやCDを流していることも多かったけど、音楽はさすがに揺さぶりが強すぎて、まだな、どうかな、と、今のところ持ち込まずじまいでいる。

銚子に着いて、海岸線をドライブして、久しぶりにだだっ広い太平洋を見渡して、素朴な千葉の波音に聴覚を飲み込まれて。展望台にのぼったり、お刺し身食べたり、眼前に海が広がる露天風呂につかったり。

日帰りだったので、のんびりとはいかなかったけど、狙いどおり銚子方面はさほど混雑なく、車通りも人通りも少ない(というか全然いない)通りを走り抜ける時間が長くあって、いい旅だった。お天気はくもり空だったけど、雨にもほぼ降られず済んだし。

地元に帰ってくると、晩は兄一家と落ち合って食事会。孫たちに中華料理の回るテーブルを体験させたいという父の指令を受けて、近場の銀座アスターを手配。予約の電話で「回るテーブルの席を…」とお願いしておいた。甥っ子が楽しげに回していて、ミッション完了。

ちょこちょこと兄一家との食事会は開いているけど、今回は帰省中の妹も参加できて良かった。お盆中だったから、母も参加していたかもしれない。とりあえずお墓参りで会えたので、今夏は家族みんなに会えた感がある。

みんな元気に集まれるのは、身にしみて嬉しい。みんな元気で健康だったら、もう十分だという気持ちで心満たされるようになって早幾年か。この間古い友人と会ったときにも、そんな話をして、歳かねぇと笑った。足るを知るというやつですかな。

2017-08-10

手ぬぐい考

昨年に家族そろって渡英した学生時代の友人が、子どもたちを連れて一時帰国中。実家に帰ったり、再会を果たしたい友人もたくさんいるであろう過密スケジュールに、東京で私たちと会う時間を作ってくれたので、今日は会社を午前休して落ち合う。今回はみんな家族を連れて会う流れとなり、総勢12人が大集合する予定(私は単独参加だが…)。

数日前、子どもたちに何かあげられたらなぁと思い、おもちゃ、おかし、でも荷物になってもいけないしなぁと思案。さりげなく和のものを、なにか持ち帰ってもらえたらと思いついたのが、手ぬぐいだった。日本に住む他の友人たちとも久しぶりに会うので、彼女らの子どもたちにもと思って、神楽坂の「kukuli」というお店で7点の大人買い。

子どもたち、とくに男の子には、ちょっと退屈な贈り物かなと思ったけど、全部ちがう種類を用意して好きなものを選んでもらうことで軽いゲーム性を持ちこみ、どうにかならないかなと…。ピンクのコスモスとか、グリーンの梅とか、グレイの魚とか、ブルーのカモメとか、いろんな色の、いろんな絵柄。でも、どれもやさしい色で、あたたかい絵柄で、やわらかい生地(写真)

風呂敷もそうだけど、手ぬぐいも「一つの主語で、豊かな述語をもつ」和のものって感じが好きだ。何に使うの?と問われれば、なんでもええがなという、意味のふくよかな感じ。ぬぐって良し、拭いて良し、つつんで良し、巻いて良し、かけて良し、敷いて良し、かぶって良し、畳んで良し。

そして、別に何かのために働かなくても良し。ただ、つるして愛でる、さわって味わうだけでも良し。「こう使うと役立つのだ」という有用性を箇条書きで挙げきった後に、まだ語りきれていない価値が残されている気がする。有用性の枠外にあって、それ自体に内在する価値を語りそこねている気がする。そうした存在意義を感じさせるゆとりが、心地いい。

私にとっては、水泳とも仕事とも近しい感じがする。毎朝の水泳も、12年勤める会社も、個人的には、これという目標をもっていない。泳ぎが上手くなりたい、早く泳げるようになりたい、ここでキャリアを積んでこういう人間になりたい、そうした目標を全然もっていない。

ただ、泳ぐことは、それ自体が私にとって意味があることで、だから続いている。仕事も、日々やっている一つひとつのことが、私にとって意味があることをやっている。意味があると思うことをやっていると、日が経っていて、結局やり続けている状態が続く。ただ、それだけだ。そこに私の意思がある感覚は乏しく、言わば自然現象のようなものに身を任せて泳ぎ、働いているだけだなと思う。それを私は、今のところ肯定して暮らしている。

こりゃまた、前後つながっているようで(もないか)、全然つながっていない話を書いたな…。この間、目標はないのか、持ったほうがいいのではないか?と問われて、なんとなく最近考えていたことだ。引き続き、答えをこれと定めず自由に変えていく。

とりあえず、手ぬぐいは良い。薄くて、軽くて、畳むとコンパクトで、乾くのが早くて、使いこむほど馴染んで、やわらかくなって。いいなぁと思いつつ、数時間後には一枚も持たない人間になるのだけど…。それもまた良し。

2017-08-08

GameBusiness.jpにイベント記事

先日登壇させていただいたDeNAさんのイベント(*1)について、GameBusiness.jpが記事にしてくださったので、記念にここにも残しておく。こういうときの写真は、いつも耳がひょっこり出ている…。

ゲームクリエイターのステップアップに必要なものとは? 教える側・切り開く側の視点で語られたキャリアセミナー | GameBusiness.jp

参加された方のアンケートの声も後日、主催者の方に見せてもらったのだけど、「とても満足」という声が多くて心底安堵。ジタバタの事前準備が実を結んだ…。

感想コメントで、身にしみた、腑に落ちた、反省したというふうに自分ごととして受け取ってもらえた声を聴けるのは、自分の伝えようとしたことを、きちんと手渡せたのかなと思えて嬉しかった。

5時間くらい聴きたかった、自分の会社にも来てほしいといった声をもらえたのも、めちゃんこ嬉しかった。

声が聞きとりやすい、話が理解しやすかった、好感がもてたといった声も、パフォーマーとしてはぺーぺーなので、ペーペー前提のご評価ながら嬉しかった。

また一方で、理論化してこの話ができる人がいるとはびっくりした、揚げ足のとりどころのない話だった、難しい話だったけど整理されていてわかりやすかったというあたりは、構成とか演出といった、言わば自分の本業ど真ん中のところなので励みにもなりました。本当にありがとうございました。

ってここにお礼書いても大方届かないんだけど、きちんと感謝して、次へ進もう。余韻にひたらず、ありがたいご褒美はここにしまって、また身ひとつで、次へ進むのが好きだ。

*1: DeNA主催「Game Developer's Meeting」シリーズ ゲームクリエイター向けキャリア勉強会Vol.2

より以前の記事一覧