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2017-09-18

「みんなを生きるな。自分を生きよう。」に触れて

デジタルハリウッド大学の2017年秋のキャンペーン「みんなを生きるな。自分を生きよう。」に触れて。Facebookに書いたことだけど、とても大事な気持ちなので、ここにも残しておこう。Facebookでは、うずもれてしまう…。

デジタルハリウッドは1996年、小僧の私を拾って社会人にしてくれた会社。インターネットにつなげてくれた会社でもある。

杉山先生はいつも目をキラキラさせて、夢ではなく事業を語る人だった。いつか誰かの夢でなく、来たるべき社会の姿と、自社の理念と事業をかけ合わせて、いつもワクワクした顔をして私たちに話をした。

まっさらな私に、リアルな「会社」の概念を与えた人でもある。会社も、仕事も、事業も、ビジネスも、全部有意義なものなのだという当たり前を、私にインストールした人。

当時一緒に働いた先輩方も、へんてこな会社に転職してくる、自分を生きてる人の集合体だった。私に「働く大人」の当たり前をインストールしたのは、この人たちだ。

最初にここで働けたことの意味を、私は10年20年して改めて感謝している。なので、一般の感覚では到底評せないけど、いいコピーだと思う。

ユングの、人の成長とは個性化の過程という考え方が好き。人が成長するってことは、他の人と違っていくということ。みんなと同じになっていくことじゃなくて。私の周辺には、そういう人がうじゃうじゃいて楽しい。私も私なりに、自分を生きている。

2017-09-03

ビンタについて

あるメディアが、ある人の「ビンタ」を問題として報じて以後、他メディアでも多く、強度へのさしたる言及なく「ビンタ」という言葉を採用しているのが気になっている。

あの会場にいたという人のtweetで、「ビンタは「目を覚ませ」な感じで音も聞こえないピタピタ、とほっぺた触った感じ」と書いているのをみて、私の脳内にあったビンタイメージを、バチーンからピタピタに挿し替えてみた。だいぶ場面が落ち着いた。

バチーンだと「叩く」だけど、ピタピタとかペチペチだったら、限りなく「触る」に近づく。先のtweetも一人の意見で絶対視できるわけじゃない。けど、他に見た、強度に言及していない多くのビンタ記事より、具体的なイメージを提供してくれているし、少なくともバチーンじゃない平手打ちを、私のビンタイメージのうちに放り込んでくれた点で、ありがたかった。

「ビンタ」って擬音っぽい印象あったけど、調べたら「鬢た」って頬らへんの位置を含んだ名詞だった。確かに、よく考えてみると、ビンタしたときに「ビンタっ!」という音はしない。よく考えなくても、そうか。

「ビンタ」の意味は、頬を平手で打つこと。強度については辞書に書かれていなかったけど、もとは軍隊用語で暴行・暴力の類いに分類される行為ってことだから、やはり「触る」とは一線を画す。「ビンタ」を動詞で言い換えると、はたく、叩く、ぶつ、ひっぱたくあたり。される側が、痛い!と感じてこそビンタだ。

ビンタというと、私はまず「バチーンという音を立てて、思い切りよく頬を平手打ちする」シーンを脳内再生してしまったが、ビンタの一般的なイメージがどれくらいの強度なのかは、よくわからない。どれくらい共通化されているのかも、よくわからない。人によっては、パチンかもしれない、ペチっとかパチっとか、バシっとかベシっとか、ペチーンとかパチーンとか、パンパンパパァンとか。実体験というより、読んでいたマンガとか見ていたドラマに影響するんだろうか。

いずれにせよ擬音じゃないから、わりといろんな強度を内包するのかもしれない。が、少なくとも「触る」と一線を画す「打つ」領域に突入してこそビンタなんだろう。

しかし、「触る」と「打つ」の間に明確な線は引かれていない。このての言葉の線引きは人が勝手にするもので、自然界に答えを求められない。触ると打つの間に実線は引かれていない。

そして、多少盛った表現をあえて選択する人たちもいる世の中である。受け取る側も、疑問を持たずに与えられた言葉から自分の脳内イメージをこれと固めてしまったりするし。「たしなめるようにして触れる」という、叩くとは違う触れ方があることを自分の中でイメージとして持っていなければ、触ると打つの両方を想定してかかることも難しい。

自分の言葉とイメージを、バランスよく豊かに育てていきたいなぁと思う。人から受け取った言葉そのまま、自分の限定的なイメージにつなげて、無意識のうちに事実を歪曲して捉えてしまう落とし穴にはまりたくないなぁと。

言葉はイメージを固定化する。枠組みを規定してくる。それに囚われない手腕も磨いていかないと、尊い言葉を悪役にしてしまう。言葉とイメージを豊かに持っていないと、人に優しくあろうとしても限界が出てくる。自分が発する言葉の一つひとつにも、人が発する言葉の一つひとつにも、慎重に、丁寧につきあいたい。それにはやっぱり気持ちだけでなく知性が必要なんだ。

2017-08-30

枠組みを超えて、融かして

なんだか「ブログを書く」という行為が遠のいてしまっているなぁ。できるだけ頻繁に書きたいという欲求があるわけでもないのだけど、なんで書いたり書かなかったりの時期があるんだろうなぁというのは、不思議である。忙しいときには書かないとか、別段そういうことでもない気がして。

それで今日は、うたた寝から本気寝してしまって、はっと目覚めた深夜になんとなく書き出してみたのだけど、最近の仕事のほうは、というと今年度に入ってからはずっと案件が潤っている。

別に何かの戦略・戦術を打った結果というわけじゃないから、「今抱えている案件が終わったら、その後はわからん」というのらりくらり具合は相変わらず。でも、一つやって信頼してもらえて、同じ会社の別案件や、関連会社からの案件が立て続くというのは嬉しいことだ。

そんなこんなで今期は、4月の提案からにわかに仕込みが始まり、5、6月にひとやま研修提供のラッシュがあって、7月にちょっと一息。7月後半から8月は新たな仕込み時期で、9月は研修の提供が続く。来月は月・水曜がA社、火曜がB社、木・金曜がC社向けと研修本番で埋まっている1週間があり、今はその教材・テスト作りを数時間ごと頭かちゃかちゃ切り替えながらやっている。

こうしたオーダーメイド研修のほかにも、今年度はいろいろ変わり種の相談をいただいている。クライアント側が外部講師は自分とこで手配する感じで、私は講師手配を含まない研修設計担当として相談をもらえるケースがあったり、キャリア系では講演のほか、若い人のメンタリングやキャリアカウンセリングをお引き受けする(私的には)一風変わった受託案件も出てきて、なんか広がり感あるなぁと不思議にみている。

自分の中には特別、固定的な「自分の仕事」の枠組みって持たないでいるつもりだけど、外からはやっぱり、どういう職種の人なのか、どこを任せられる人なのかと枠組みをもって見られるものだと思うので、こうやってお客さんや友人・知人のほうから自分の既存の枠組みを融かすような機会をもらえるのは、すごくありがたい。

それに応えようとすることで具体的目標ができて、その達成に向かうことで自分が変化していくというサイクルは、自ら目標を立てる姿勢に欠ける私にとって、すごく自然でしっくりいく。人から見れば気に止まらないくらいささやかな変化だろうけど、身の丈的にはそれがちょうどいい。

と、まぁもう少しこういうメモを気軽に残していきたい気もするが、どうなることやら。

そうそう、私が引き受けたメンタリングは同業者としてではないけど、「メンタリングを社外の同業者に業務委託する」というのは有意義かもな、と思ったりした。Web業界とかだと個人や小さな組織でやっているところも多い。社内ではなかなか若手育成に時間が割けなかったり、社内では自分がトップなんだけど会社の枠を越えればまだまだで腹割って仕事の相談ができる先輩が欲しいみたいな場合に、メンタリングの外注っていうのはもっと身近な選択にあっていいのかもなと。飲み会や勉強会とかの交流と別に、1対1で、NDAも結んで、外部の○○さんに「メンタリング:月1回○時間○円」で3〜6ヶ月お願いしてみるとか。会社がお金を負担して、そういう仕組みを作るのもいいかもしれない。もうそこら中でやっているのかもしれないけど。

2017-08-19

批判も法なら、共感も

「クリティカル・シンキング」とか「批判的思考」とかが大事と説かれて久しいけれど、それ一辺倒では、これまたバランスが悪いんだよな。今読んでいる「逝きし世の面影」(*1)の中の一節に目がとまって、そんなことを思った。

共感は批判におとらず理解の最良の方法である

ふむむーと味わった。なにか対象を批判的に捉えてみるって、確かに大事なアプローチなんだけど、それだけだと片手落ち感がある。

批判的に見たら、あとで反対側にまわって、それに気持ちを寄せて見直してみる。まず共感をもったら、あとで反対側にまわって、それと距離をとって批判的にも見直してみる。片方だけ思い切りやって理解した気になってしまうのは怖い。視野が狭まって大事なことを見落としたり誤解してしまっているのに、それに気づけなさそうで怖い。

道標はきっと、自分はそれを理解したいのだという認識。共感も批判もゴールではなくて、私はそれを手段にして、対象の理解に向かっているのだ。そこを見失わなければ、途中で迷っても戻ってこられそう。「批判も共感も、どちらも理解の方法」という一つの見方を、整理してもらった気がする。

そして今は世の中的に、批判より共感こそ意識的に持ち込まないと危うい感がある。

批判的思考というのは仕事場での馴染みもよく、発揮すれば「鋭い指摘だ」「かしこいね」と評価されやすい類いのスキルだ(発揮の仕方にもよるけれど)。評価されるものには、どんどん傾注していくのが人の常。

また情報過多の世の中では、自分は直接関わりをもたない”遠いもの”の情報の一面に触れる機会が多い。数が多く、一面的で、玉石混淆の情報に触れ続ければ、人は疑心暗鬼になっていく。そういう環境下にいると、情報に触れて最初に発動するのって、共感するより批判的に見るほうへと習慣づけられていくのが必然な気もする。

それに、とくに抽象的・概念的な話になると、自分と反りが合わないものの批判を表明するほうが容易く、目に見えない意味や価値を汲み取ったり、相手の背景や可能性に想像を巡らせて共感を表明するほうが難しかったりするかもなと。まぁこの辺は、気分で書いている…。

ともあれ、自分がそれを理解したくて踏み込んでいるなら、批判と同等かそれ以上の共感をもって、それを丁寧にみることを大事にしたいところ。批判と共感をして、発見できるのはきっと違う領域だ。

一方、そもそも理解したいという気がないものなら、下手にあれもこれも顔を突っ込んで批判だけ散らかしていくのは趣味じゃない。理解したいものに、ていねいに時間を使いたい。

これも先の本の中で引用されている、モース「日本人の住まい」の一節。

他国民を研究するにあたっては、もし可能ならば無色のレンズをとおして観察するようにしなくてはならない。とはいっても、この点での誤謬が避けられないものであるとするならば、せめて、眼鏡の色はばらいろでありたい。そのほうが、偏見の煤(すす)のこびりついた眼鏡よりはましであろう。民俗学(エスノロジー)の研究者は、もし公正中立の立場を取りえないというならば、当面おのれがその風俗および習慣を研究しようとしている国民に対して、好意的かつ肯定的な立場をとり過ぎているという誤謬を犯すほうが、研究戦略(ポリシー)のうえからも、ずっと有利なのである。

色眼鏡は、まずバラ色でって、おもしろい。そこからさらに、あちらこちら目線を移して行き来して、真ん中に戻ってきて、それを理解しようという一番大事な気持ちからぶれずに、共感も批判もひっくるめて、それに向き合っていたいと思った。

*1: 渡辺 京二「逝きし世の面影」(平凡社)

2017-08-15

ラッシュの郷愁

帰省ラッシュ、Uターンラッシュのニュース映像を見るのが好きだ。「お盆をふるさとや行楽地で過ごし…」と始まると、なんだか気持ちを持っていかれて毎回、高速道路、新幹線ホーム、空港の映像を見入ってしまう。

私はラジオを聴くのが常で、映像でニュースを見るのはニュースサイトで気になったものをいくつかという日々なのだけど、お盆と年末年始は必ず帰省ラッシュ、Uターンラッシュのニュース映像を選んで流してしまう。

なかでも一番好きなのは、高速道路の映像だ。上から車の行列を固定カメラがとらえているだけで、子どもたちの笑顔も、孫に手をふるおじいちゃん、おばあちゃんの姿も映らない。最も淡々としている映像なのだけど、うちは子どもの頃から連休となると、たいてい母の運転で家族旅行に出かけていたので、あの地味な映像にこそ郷愁を覚える。

朝もやの帰省ラッシュ映像にも趣きがあるし、テールランプが光るUターンラッシュ映像も味わい深い。一つひとつの旅行を鮮明に覚えているわけじゃないけど、だからこそ何度も家族とともに行き来した高速道路になじみ深さを感じてしまうのかもしれない。静かな映像に相対するからこそ、自分の内側の動きを感じやすいのかもしれない。

今となっては、それをニュースで眺めて、昔はあの中によくいたよなぁと懐かしむほうが圧倒的に多いのだけど、まれに今でも妹の運転で、父と私と3人で旅する機会をもつと、積み重なった子どもの頃の思い出と入り混じって、なんとも味わい深い時間が流れる。

昨日も、妹の帰省にあわせて、銚子のほうまで父と一緒に日帰り旅行に出かけた(妹がいるとドライブ旅行に出かけられる…)。子どもの頃は、運転席に母、助手席に父、後ろに子ども3人が並んでいたのだけど、今は運転席に妹、助手席に私、後ろに父が座る。

音はラジオ。昔はラジオのほか、母の持ち込んだカセットテープやCDを流していることも多かったけど、音楽はさすがに揺さぶりが強すぎて、まだな、どうかな、と、今のところ持ち込まずじまいでいる。

銚子に着いて、海岸線をドライブして、久しぶりにだだっ広い太平洋を見渡して、素朴な千葉の波音に聴覚を飲み込まれて。展望台にのぼったり、お刺し身食べたり、眼前に海が広がる露天風呂につかったり。

日帰りだったので、のんびりとはいかなかったけど、狙いどおり銚子方面はさほど混雑なく、車通りも人通りも少ない(というか全然いない)通りを走り抜ける時間が長くあって、いい旅だった。お天気はくもり空だったけど、雨にもほぼ降られず済んだし。

地元に帰ってくると、晩は兄一家と落ち合って食事会。孫たちに中華料理の回るテーブルを体験させたいという父の指令を受けて、近場の銀座アスターを手配。予約の電話で「回るテーブルの席を…」とお願いしておいた。甥っ子が楽しげに回していて、ミッション完了。

ちょこちょこと兄一家との食事会は開いているけど、今回は帰省中の妹も参加できて良かった。お盆中だったから、母も参加していたかもしれない。とりあえずお墓参りで会えたので、今夏は家族みんなに会えた感がある。

みんな元気に集まれるのは、身にしみて嬉しい。みんな元気で健康だったら、もう十分だという気持ちで心満たされるようになって早幾年か。この間古い友人と会ったときにも、そんな話をして、歳かねぇと笑った。足るを知るというやつですかな。

2017-08-10

手ぬぐい考

昨年に家族そろって渡英した学生時代の友人が、子どもたちを連れて一時帰国中。実家に帰ったり、再会を果たしたい友人もたくさんいるであろう過密スケジュールに、東京で私たちと会う時間を作ってくれたので、今日は会社を午前休して落ち合う。今回はみんな家族を連れて会う流れとなり、総勢12人が大集合する予定(私は単独参加だが…)。

数日前、子どもたちに何かあげられたらなぁと思い、おもちゃ、おかし、でも荷物になってもいけないしなぁと思案。さりげなく和のものを、なにか持ち帰ってもらえたらと思いついたのが、手ぬぐいだった。日本に住む他の友人たちとも久しぶりに会うので、彼女らの子どもたちにもと思って、神楽坂の「kukuli」というお店で7点の大人買い。

子どもたち、とくに男の子には、ちょっと退屈な贈り物かなと思ったけど、全部ちがう種類を用意して好きなものを選んでもらうことで軽いゲーム性を持ちこみ、どうにかならないかなと…。ピンクのコスモスとか、グリーンの梅とか、グレイの魚とか、ブルーのカモメとか、いろんな色の、いろんな絵柄。でも、どれもやさしい色で、あたたかい絵柄で、やわらかい生地(写真)

風呂敷もそうだけど、手ぬぐいも「一つの主語で、豊かな述語をもつ」和のものって感じが好きだ。何に使うの?と問われれば、なんでもええがなという、意味のふくよかな感じ。ぬぐって良し、拭いて良し、つつんで良し、巻いて良し、かけて良し、敷いて良し、かぶって良し、畳んで良し。

そして、別に何かのために働かなくても良し。ただ、つるして愛でる、さわって味わうだけでも良し。「こう使うと役立つのだ」という有用性を箇条書きで挙げきった後に、まだ語りきれていない価値が残されている気がする。有用性の枠外にあって、それ自体に内在する価値を語りそこねている気がする。そうした存在意義を感じさせるゆとりが、心地いい。

私にとっては、水泳とも仕事とも近しい感じがする。毎朝の水泳も、12年勤める会社も、個人的には、これという目標をもっていない。泳ぎが上手くなりたい、早く泳げるようになりたい、ここでキャリアを積んでこういう人間になりたい、そうした目標を全然もっていない。

ただ、泳ぐことは、それ自体が私にとって意味があることで、だから続いている。仕事も、日々やっている一つひとつのことが、私にとって意味があることをやっている。意味があると思うことをやっていると、日が経っていて、結局やり続けている状態が続く。ただ、それだけだ。そこに私の意思がある感覚は乏しく、言わば自然現象のようなものに身を任せて泳ぎ、働いているだけだなと思う。それを私は、今のところ肯定して暮らしている。

こりゃまた、前後つながっているようで(もないか)、全然つながっていない話を書いたな…。この間、目標はないのか、持ったほうがいいのではないか?と問われて、なんとなく最近考えていたことだ。引き続き、答えをこれと定めず自由に変えていく。

とりあえず、手ぬぐいは良い。薄くて、軽くて、畳むとコンパクトで、乾くのが早くて、使いこむほど馴染んで、やわらかくなって。いいなぁと思いつつ、数時間後には一枚も持たない人間になるのだけど…。それもまた良し。

2017-08-08

GameBusiness.jpにイベント記事

先日登壇させていただいたDeNAさんのイベント(*1)について、GameBusiness.jpが記事にしてくださったので、記念にここにも残しておく。こういうときの写真は、いつも耳がひょっこり出ている…。

ゲームクリエイターのステップアップに必要なものとは? 教える側・切り開く側の視点で語られたキャリアセミナー | GameBusiness.jp

参加された方のアンケートの声も後日、主催者の方に見せてもらったのだけど、「とても満足」という声が多くて心底安堵。ジタバタの事前準備が実を結んだ…。

感想コメントで、身にしみた、腑に落ちた、反省したというふうに自分ごととして受け取ってもらえた声を聴けるのは、自分の伝えようとしたことを、きちんと手渡せたのかなと思えて嬉しかった。

5時間くらい聴きたかった、自分の会社にも来てほしいといった声をもらえたのも、めちゃんこ嬉しかった。

声が聞きとりやすい、話が理解しやすかった、好感がもてたといった声も、パフォーマーとしてはぺーぺーなので、ペーペー前提のご評価ながら嬉しかった。

また一方で、理論化してこの話ができる人がいるとはびっくりした、揚げ足のとりどころのない話だった、難しい話だったけど整理されていてわかりやすかったというあたりは、構成とか演出といった、言わば自分の本業ど真ん中のところなので励みにもなりました。本当にありがとうございました。

ってここにお礼書いても大方届かないんだけど、きちんと感謝して、次へ進もう。余韻にひたらず、ありがたいご褒美はここにしまって、また身ひとつで、次へ進むのが好きだ。

*1: DeNA主催「Game Developer's Meeting」シリーズ ゲームクリエイター向けキャリア勉強会Vol.2

2017-07-26

イベント出演録というか、奥手の奥義

昨日は、DeNAさん主催「Game Developer's Meeting」シリーズのゲームクリエイター向けキャリア勉強会Vol.2に登壇。4月にVol.1でお話しさせていただいて、引き続き今回もお話しすることに。私のお題は、クリエイティブ現場の若手育成。

定員60名のところ、早々に70名様の申込みをいただいて締め切り。シリーズ展開していることで、他の回に参加した方もいれば、今回初めてGDMに参加したという方もけっこういらして、当日は大変盛況でした。

Game Developer's Meeting (GDM) ゲームクリエイター向けキャリア勉強会Vol.2
http://gdmcareer02.peatix.com/view

私の話もなんとか無事にまとまり、後半のMeetUpで交流させていただいた感じだと、まずまず好評だったよう。講演内容を肴(さかな)に、現場の皆さんの人材育成に関するお話をたくさん伺うことができて、たいそう有意義に過ごすことができました。

私はどうにも「裏方が本業」という意識が強くて、表舞台に立つときは毎度おっかなびっくりです。まぁ実際、圧倒的に自分の人生の時間を割いているのが裏方仕事っていうのもあるのですが、性格的に奥手、人見知り、引っ込み思案、臆病者、内気、出不精と、そういった言い訳言葉はつらつら浮かんでくるタチなのも、その背景にあります。

ふだん手がけているクライアントさん向けの社員研修で、講師が話す前後にちょい役で話すことはわりと頻繁にあるのですが、それはあくまで脇役、合いの手。数十分や数時間まとまった話をしてその場をリードするというのは全く別物です。ふだん講師業務はそれぞれの専門家に委託しているだけに、自分には分不相応なのではないかという思いが出てくる心の動きを止められません。

止められないものの、頭で考えると、何が本業だとか言って、自分で自分の枠組みを下手にくくるものではないということもよくわかっている。そういうふうにして、せっかくいただいた機会を無にするのは「違う」なぁと思うので、まれにお話をいただくと引き受ける。

そこで、頭が心に言い聞かせる。別に立派な人じゃなくたって、そのテーマで自分から出せるものを共有して、それがきっかけで、参加してくださった方が考えたり振り返ったり、何か持ち帰れるものがあれば、それでいいのだと。

しかも、私が話すのは「仕事の教え方」だとか「人のキャリア」だとかいう類い、絶対の「こうだ!」という答えがあるような話じゃないのだから、話題提供をして、みんなでわいわい話したことが有意義だったら、それでいいのだ、それがいいのだと。

そうやって、頭が心に説教して度胸を据わらせるわけです。心のほうは、そうか、そういうふうに考えれば、自分は脇役のまま登壇することができる、あくまで私は参加者が本編で話を深めるためのネタ提供者なのであると。これは心の落ち着きを得るのに、だいぶ効果的です。

そうして、参加者が後に交わす話のネタになるように、たとえ初対面の人同士でもすぐに「さっき講演の中で出てた、あの話さー」というところから一気に深い情報・意見交換ができるように、自分の話すことをあれこれ考えます。

それで実際イベントでお話をさせていただいた後、そういう光景が見られたり、自分も輪の中に交わっていろいろお話しさせていただけたりすると、あぁ良かったなぁと。今回もMeetUpで、皆さんが自分の育て方の悩みとか、自分はこういうふうにやっているとかって意見交換しているのをみて、また私も話に加わっていろいろお話しできて、あぁ良かったなぁと思いました。

経験を重ねても肝っ玉は小さいままで、こうした機会をいただく度、本番直前に足がつったり、身の周りの空気が薄く感じたりを繰り返しているのですが、まぁお手洗いが近くなるよりはいいのかもしれません。

それで今回やってみて思ったのは、肝っ玉が小さく奥手な人間ほど、思いきって話し手を務めちゃうと、その後の交流会でみんなと話しやすくていいなぁということ。

奥手な自分が、交流会からいきなり、その場にいる参加者の方々と関係づくりをして、意見交換を繰り広げるというのは相当に難儀です。それより最初に自分の知っていること、そのネタで共有したいこと、思いとか考えとかしゃべっちゃって、それに意見をもらえたり、それに興味ある方にお声がけいただくとか、そこから徐々におしゃべりの輪が広がっていくとか、いやぁ、ありがたすぎる…。

だからこうしていこうという教訓は何も得られない心のうちですが、今回も前回も、別のイベントで少しお話をさせていただいたときにもこれで救われて、有意義な交流をもたせていただいたので、なんとなくメモに残しました。まぁ、やっぱり基本は裏方が合っている人間なんだなぁとも毎度思いますが…。

昨晩もほくほくした気持ちで帰途に着き、ご参加者の皆さま、主催者の皆さまに、心から感謝しています。ありがとうございました。

2017-07-01

学び手と教え手を支援する、外野仕事の面白み

この7週間は、平日35日のうち研修本番が16日と詰まっていて、その準備と実施と評価で目まぐるしく働いていた。まだ研修後のスキルチェック課題の評価、7月以降の案件などあれこれ残っているけれど、ちょいと一息、久しぶりに仕事しない週末を迎えている。

いくつかの研修プログラムを並行で走らせていたのだけど、大方は完全オリジナルのオーダーメイド。一般の受託ビジネスと同じだ。与件を整理して、要件を定義して、コンセプト立ててプログラムを構成し、講義・演習を設計して教材を開発し、研修を運営して、結果を振り返って効果や課題点をレポートする。私は講師以外の裏方仕事をする。

昨今は、実務コミュニティの間で勉強会イベントが活発だ。それを教えられる人が起案して、学びたい人を集め、勉強会を開くということが、すごくやりやすくなった。参加者を募集するイベント開催支援サービスは「Peatix」とか「Connpass」とかあるし、事前に参加費や受講料を徴収することもできる。無料や、当日払いでやっているのも多い。

私は、それ自体すごくいい流れだと思っている。テクノロジーを活用して、楽に集い、教え合うことができるようになっている。だからこそ、中身を教えられるわけじゃない外野の自分が、ぽつんとそこに立ち、学習の場をデザインする立場から役立てることはなんだろうと考える。私は外野から補完したら現場が有意義なことをしたい。

そうすると、セミナー形式で伝えるだけでは成し得ない構造をいかに作り込んで、学習効果をあげられる仕組みづくりに貢献できるかということになる。与件をしっかり整理して、スコープをしっかり定義して、どう作り込んだら、学び手の実務のパフォーマンスがぐいっと上がるかを、その人たちのモチベーションや業務環境などもしっかりイメージしながら考えて作っていく。

必ずしも、そういうことを丁寧にやっていける案件ばかりではない。そういう意味で今回は、すごくそこに力を注げる案件でよかった。こういうことに柔軟に対応してくれる講師に参画していただいて、一方的に教えるのではなく、押さえるべきポイントはプチ講義した上で、鍛えたい能力に焦点を絞った課題を作り込んで、それを受講者にやってもらう。

そのアウトプットを個別に評価して、全体的に何が理解できていないのか、個別には誰が何を理解できていないのか、何を教えてどんなアドバイスをしたら、それが理解できるか、アウトプットが変わるかを整理していって、それをもとに補講プログラムを組んで講義を行ったり、みんなのアウトプットを見比べながら表現のバリエーションを学び合ってもらったり。

実際に受講者が作ったものをもとに、ここでこういうアウトプットになっているのは、こういう観点でまずくて、それはこういうことが理解できていないからなので、こういうふうに改めるとよいと、そういうステップを踏めた。

それは、ものすごく骨が折れる仕事であるけれども、それが私のやりたい丁寧な仕事であり、中身は教えられないけど、教え学ぶ構造を作る、私のような人間が骨をおってやるべき仕事なのだと思っている。

一般の勉強会では、なかなかその部分はケアするのが難しい。あるいは、現場でもそうかもしれない。自分のアウトプットに対して、自分の能力の観点から適切なフィードバックを返してくれるメンターに恵まれている人は少ないのではないか。

ワークショップは流行りでもあるけれど、必ずしも能力開発のために開催されているわけじゃないし。参加者の不足スキルを特定して、そこに焦点化して特定の知識やスキルを身につけるための演習課題を設計するのは、事前調査も必要なら、適切なネタを課題化するのも骨が折れる。

受講者がすぐにでも手がけそうな案件想定を起こすとなれば、そこで担当している案件をヒアリングして、実案件の資料を読み込んで課題に起こし直したり。そうやって学習効果性と、リアリティと、課題として適切な複雑性のチューニングとをやりくりしながら演習課題をこしらえる。それはそれで専門性も求められる。

さらに、出てきたアウトプット一つずつを見て評価して、それについて個別に評価を数字と所見コメントを起こして返していくのも大変だ。

わかる人(講師)が、ここができてないんだよなぁというのは、それをわからない人(受講者)がそのまま聞いても、何がよくないのかわからなかったりする。だから、どうできていないのかを、わからない人に伝わる言葉に翻訳していくことを、私はよくやる。

さらに、わかる人は、ここができていないという指摘をすれば、そこを意識してできるようになると思ってしまいがちだが、まだそれをできるようになっていない人からすると、その視界はまだ開通していないので、できていないことを指摘されたからといって、それができるようになる方法を同時に会得できるわけじゃない。できていないところはココ、それができるようになる方法はこう、それは別物として教えるなり、考えさせるなりのステップが必要だ。

その辺を丁寧に構造だてていく仕事は、外野のほうがやりやすいことも多い気がしていて、その辺の現場の補完機能として働ける仕事は、すごくニッチな気はするけれども、すごく面白かったり、やりがいを感じたりする。学ぶ側、教える側が一人で奮闘するよりも、学ぶ側が学びやすかったり、教える側が教えやすかったりするサポートができたら、すごく嬉しい。

私の仕事はそういう小さな仕事の集合体でできているのだけど、人からみれば、ささやかすぎるちょこまかした働きでも、私は私の仕事が楽しい。今の環境がいつまで維持されるかわからないけれど、許されているうちは頑張っていたい。

2017-06-26

仕事は人のため

久しぶりにブログを書きつけている。前の話が「忙しいよー」という話で、それからもずっと「忙しいよー」の日々だった。朝7時過ぎからあれこれやり出して、週に2〜3日は朝から研修を納めにいき、帰ってくると研修を作ったり、演習課題を作ったり、課題の評価をまとめたり、提案書や設計書やレポートを作ったり、それをもってプレゼンやレビューや打ち合わせに行ったりして夜が更ける。ゴールデンウィーク明けから昨日まで、ほぼほぼ休みなく仕事に明け暮れていて、気がついたら6月も最終週である。

今9割がた我が身を捧げているクライアントさんは、当初は6月までに全部!という案件だったけど、おおもとの案件を走らせている間に、中堅向けも、役員向けも、子会社向けも、研修後のスキルチェックも…と、いろいろ別件のご相談をいただいて、一つひとつ提案しているうち、7月以降も継続してサポートさせていただく感じに。なので、7月に入っても、呑めや歌えやという感じにはならなさそうだ(いや、もともとそういうキャラじゃないけど)。

とはいえ、ここんとこの土日なし、平日も遅くまで働きづくめみたいな日々は、昨日をもってちょいと落ち着いた気がしないでもない(けど油断大敵なので、気ははったまま)。5、6月よりは、いくらか穏やかにいけるかもしれない見通し。朝プールも再開できそうだ。

さて、こうして働きづくめでしばらく仕事している中で、自分にとっての仕事っていうものが、すごくシンプルに見えた。やりたい仕事を長くやらせてもらっているので、もともと私にとっての仕事は相当シンプルに位置づけられていたのだけど、このもみくちゃ状態を駆け抜けながら最近ぽつんと思ったのは、仕事は人のためにやるという、私にとっての当たり前だった。

「人は何のために仕事するのか」という問いを立てて、「自己実現」とか「生計を立てるため」とかいう論争を展開したいわけじゃない。人は人。何か掲げたければ掲げればいいし、掲げたくなければ掲げなくていい。そういうのに巻き込まれる系の話じゃなくて、私にとっての仕事の話だ。

あれやこれや、仕事するメリットとかはもう置いておいて、もっとプリミティブで、もっと大前提にあるもの。「人のために仕事する」っていうのが自然で、素朴で、自分にフィットして、もうそれで十分というか。

もちろん、それは、とはいえ体を壊さない程度のバランスをとってやれているとか、会社がきちんとお給料を毎月くれて安定的に生活できているとか、やりたい仕事をやらせてもらえているとか、そういう前提があって思えていることだと思うんだけど。

ただ、仕事の過程や結果を通じて、自分のスキルが上がるかとか、会社から特別な評価をされることに主眼を置いて仕事しているわけじゃないし、できるだけそういう説明に時間を費やさず、お客さんのために働く時間に仕事時間をあてたい。

相談くださったクライアントさんの役に立ったら嬉しいし、そのクライアントさんが果たす社会的役割が社会の誰かの役に立ったら嬉しい。そして、参加した一人ひとりが、それに対する興味・知識・スキル・経験値を高めて、その人のキャリア形成に良い風を送れたら、こんなに嬉しいことはない。

自分の仕事が、社会の利益や組織の事業と、個人のキャリアの両立に貢献するなら、こんなにありがたいことはない。私の仕事観は、そういうもんだなと、なんかすごくすっきりと心のうちに感じとれて、今の仕事、そういう働き方を許してくれている今の職場環境をすごくありがたく思った。

私も20代の頃は、もっと専門的に人のキャリアをサポートできるようになりたいとか、キャリアカウンセラーの資格を取ろうとか、自分の側に目を向けて仕事との関係を考えていた時期が多少はあった気がするんだけど、今はお客さんが叶えたいことや抱えている問題に目を向けて、その人のために自分ができることをやれるだけするというだけになって、すっきり自然体、すごく楽である。

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