2019-01-05

家族の当たり前と非日常

この年末年始は妹も帰省したので、家族みんなで会えて嬉しかった。大晦日は父と妹と私そろって近所のスーパーで買い物をして、家に帰って年越しそばを食べ、父が寝ている横でNHKの紅白歌合戦を妹と観た。松任谷由実が出て、サザン・オールスターズが出た。ユーミンと桑田さんが、一画面にドアップで一緒に歌って踊って胸騒いで腰ついて笑っていた。平成30年が暮れた。

元旦は3人で近所のスーパー銭湯に行った後、母のお墓まいりへ。今回はお正月なので松を選んだのだけど、花筒にさすと、ひときわ凛として美しく華やかだった。

その後はお刺身やらお寿司やらスーパーで買い物して家に帰り、お昼すぎに兄一家を迎えた。居間と食卓をかねた広間に7人。奥の間で、母の写真がこちらを向いて笑っていて8人。集合写真を撮った。

甥っ子たちが年々大きくなっていくので、おせちもお刺身もお寿司もお雑煮も、どんどんなくなっていく。頼もしい。彼らが持参したお年賀の、どら焼きもみかんももぐもぐ甥っ子らの胃袋へ。持ち込んだものも結局全部持ち帰ってもらうので、「お年賀には自分が食べたいものをもってくるといいよ」と甥っ子らにアドバイス。2段重に減らしたおせち料理も、来年は3段重に戻してもいいかもしれない。

日が暮れだした頃、兄一家は義姉のほうの実家へ移動。私たち3人は、母の姉夫婦の家に挨拶に行く。父と私は、暮れに亡くなった祖母の葬儀で12月にも会っていたけれど、妹は数年ぶり。再会できて良かった。

そこで伯母から、祖母の遺産相続の話があった。うちは母(祖母の末娘)が亡くなっているので、相続権が私たち孫3人に移っていると言う。即答で、妹も私も辞退を表明。当たり前、という共通の感覚。家族だな、と思う。

翌日の1月2日は、恒例の成田山新勝寺へ3人で出かける。妹が帰省すると、車で連れて行ってくれるのでありがたい。朝早めに出たので、渋滞に巻き込まれることもなく、参道で牛歩することもなく、かなりスムーズに参拝できた。

それにしても朝8時、近所のパン屋でカツサンドやらカレーパンやら食べて出かけて、スムーズな参拝の後、10時半すぎには特上のうな重を食べられる父と妹の胃袋ってどれだけ活動的なのか。感心して2人が頬張るのを眺めつつ、私はお茶をすすってのんびりする。

さらに父と妹は、帰りの車の中で食べる甘栗を参道で買っていた。「これは助手席の人がむいて、運転手に渡すんである」と父が言うので、助手席の私はせっせと甘栗をむいては妹に手渡す。まさに助手。

それにしても、家族と恒例行事をするっていう当たり前は、なんだかすごく心地いい。家族と過ごすというのが非日常になって久しいけれど、それだけに味わい深い年末年始、歳を重ねるごと大事に感じられる。

2019-01-03

陸と海の境い目

波打ちぎわに行くと、陸と海の境い目はずっと揺らいでいる。波が寄せれば、そこは海となり、波が引けば、そこは陸となる。

ものの定義をたどれば、そんなことはないのかもしれない。0.0001秒ずつの変化をとらえれば、境い目は変化しながらも常にあり続けているし明解であると言えるのかもしれない。

でも、概念として常に明解に分けられるかどうかより、そこにあり続ける揺らぎのほう、明解に分かちがたいリアルワールドに目を向けたい。

そう思うのは、概念的に頭の中で考えて同定したり結論を出してしまいそうな危うさを恐れてのことかもしれない。

現実は、頭の中で思いえがく概念世界よりもっと境い目が曖昧で、ぐちゃぐちゃで、その時々で変化してってものなのに、概念世界だけにとどまって思案していると、そのことがわからなくなってしまう。

一方で、リアルワールドに直接触れてみれば人は一瞬にして理解することができるし、自然界は有無を言わさず人に飲み込ませる力をもつ。この世界の混沌を、この世界に概念上の矛盾があまた存在するという常識を。

というか、そもそも混沌とした世界への理解を進めたいがために、人が便宜的にあれやこれやに名前/言葉を与えてしゃべり出しただけで、リアルワールドは今も昔もぐちゃくちゃの混沌に変わりない。

自然界が創造した人の心も、混沌としていて矛盾に満ちている。相反する気持ちを両方とも内包している上、名前のつけられないどっちつかずのもやもやがまとわりついていて、一言ではこう思っている、こう考えていると言い切れないことが、いくらでもある。

一言考えを述べれば「でも反面、こういう気持ちもあって…」と、後追いで言葉を添えたくなる。そういうことは別に珍しいことじゃない。人の心とは、そういうものだと思っている。

やわらかい気持ちと、かたい気持ち。気高さと低俗さ。公平と差別意識。はねつけたい気持ちと、受け入れたい気持ち。ここを発とうとする気持ち、ここに留まろうとする気持ち。挑戦心と恐怖心。人なつこい気持ち、人を遠のけたい気持ち。

いつも揺らぎの中にあって、意思や運や縁や、ちょっとしたきっかけでもって、私たちはあたかもどちらかを自ら選んで意思決定したかのようにみえる外見上の変化を遂げたりもするけれど、変化の前も後も、変化のない日々も、内側には混沌とした気持ちがごちゃまぜにあって、いつもそれを一つの体の中に入れている。

意識できているものもあれば、無意識に潜んでいるものもあって、すがすがしい気持ちで丸ごと受け入れられることもあれば、一体の中に抱え込むのは到底無理ということもある。

概念世界のようにはなかなか、きれいに整理整頓や取捨選択ができないリアルワールドで、その混沌を、矛盾を、大事にみていきたい。ないものとして済まさないで、落ち着かないからと見て見ぬふりをしないで、「あって当然」と正面から受けとめて、両手を広げて受けいれて、今年はとりわけ人の心の揺るぎや多面性を丁寧にみて、大事に関わっていきたいと思う。そんな一年の始まり。本年もおつきあいのほど、どうぞよろしくお願いします。

2018-12-30

仕事納めつつ来年の風をよむ

今年の年末はギリギリまで通常業務だった。年によっては、仕事納めの日は一年を振り返り、お世話になった方々にメールをしたためるなんてこともあるのだけど、今年はそうした余裕がなくて、あれこれ案件にあたっているうちに年内最終日が終わった。

仕事納めの今週、火曜日は今年最後の研修提供日があり客先へ。本番を終えた後は、その日のうちにアンケートを読み込んでレビューしてレポート作ってクライアントに報告して講師の検収して売上計上しての諸々手続き。

翌日の水曜日は、先週引き合いいただいた新規クライアントの訪問。ここのお客さんは、なんとご指名。勤め先のコーポレートサイトの問い合わせフォームから、私の名前を出して問い合わせをくれたのだ。通常、サイトからのお問い合わせは「こういう研修をしたいのだが」といった相談が多く、ご指名なんてめったにないこと。会社の誰も無反応だったけど…笑、ひとりでひっそり感激した。

で即レスしたら、すぐ会えることに。訪問した際のやりとりで期待に応えられたかはわからないけれど、あれこれ聴いたり話したりして帰ってきたら、その日のうちに、段階的にこういう形で関わってほしいという旨ご連絡くださり、その場合の見積もりを求められた。

私も即日にお返ししたいと思い、ひと通りの概算見積もりを試算して速攻で返信したら、第一弾の案件が来月実現と相成った。展開が早い。

一気に契約やら受発注の書類の手配が必要になり、バタバタと作成してはハンコもらって提出して。

嬉しい、と同時に気も引き締まる。この第一弾って、試されてるんだろうなぁとも思うし、期待に応えられるだろうかという思いも去来するけれど、結論、期待に応えられるように頑張るのみだ。

年末になっていきなり浮上したその案件は、私が普段おもに手がけているデジタルマーケティング領域の実務研修(の裏方)ではなく、その人たちのキャリア開発支援をテーマとする仕事で、裏方もあれば、表方に立つ役割も含む。

「人のキャリアを支援する」というのは常に私の中で、自分の仕事の中枢においているテーマだし、実務研修の裏方仕事も、その一環ととらえて個人的にはやっているんだけど、ど真ん中のキャリア開発支援を案件としていただくのは稀なこと。

今回いただいた案件も、私の仕事の出来次第では、発展的にサポート領域を広げていけそうなので、来年はそちら方面の仕事を厚くしていくって流れにあるのかもなぁと、風まかせに思う年末だ。

また、こうして外部委託を含まず、自分単体で受託してクライアントと二人三脚、そうやって成立する仕事領域も来年は、もう1つ2つ増やしていけるとバランスいいなぁとも思う。

「こだわり」は、わりと勝手に発動されるから自分の無意識に預けておくとして、自分のやり方、役割、活動範囲を変えていったらいいところは、意識的に開放していきたい。

そんなこんな年末に振り返れるのも頑張ろうって思えるのも、ほんと出会い関わりをもってくれる方々のおかげ。感謝して、来年も自分の仕事を大切にしていきたい。

2018-12-22

親戚に送る喪中はがきの文面

祖母が亡くなったのが12月も半ばで、ちょうどその一週間ほど前に、父の年賀状を手配したばかりだったので、こりゃいかんと郵便局に急いで「待った!」をかけた。

父の年賀状は「郵便局の総合印刷サービス」というのを使っていて、印刷から投函まで一通りネットで手配して、向こうでやってくれるのだけど、Webサイト上でみるかぎり、「キャンセルは申込みから1時間以内」としか書いていない。

もはや止められないのか…とあきらめかけるも、わりとでかでかとウェルカム風に「インターネット専用お問い合わせ先」が案内されていたので電話をかけてみると、すんなりキャンセルしてくれた。電話客とネット客で、受けられるサービスに違いがあるのかぁなどとも思ったのだけど、電話かけてみるものだな。今や電話というのは「押しの一手」手法とも思える。

さて、年賀状をキャンセルした後は、同じサービス、同じ送り先で、喪中はがきの手配をしなくては。しかし、ちょっと待てよ。父方の親戚筋と、親戚以外の皆さんには一日も早く喪中はがきを送らないといけないが、一方で母方の親戚筋には、祖母の初七日も過ぎないうちから喪中はがきが届いては、ちょっと手際がよすぎやしないか、配慮に欠けるよな…。

ということで、前者は早々に送る手配をし、後者は1週間待って、初七日を過ぎてから送る手はずを整えることにした。父にその旨伝えると、「おまえ、芸が細かいねぇ」と笑う。いや、お父さん、これは芸じゃなくて気遣い、心遣いです。

誤って送っちゃいけないと思い、「○○さんは何系の人?」と、よくわからない人名をリストアップして一人ずつ電話で確認をとり、「あー、それは会社の同僚でさー」とか「そいつは部下だったやつ」とかやりとりしながら情報整理。一通りの分類を終えて、第一弾の喪中はがきの印刷・投函手続きをした。

告別式を終えた週末には第二弾、母方の親戚筋に喪中はがきの手配をする。ここで迷ったのが、喪中はがきの文面だ。父の立場からすると、私の祖母は「丈母」(妻の母)という続柄となる。喪中はがきを送る先は、喪主だったり、もっと祖母と近しい関係の人たちだったりで、葬儀でも顔を合わせている面々だ。

喪中につき新年のご挨拶をご遠慮申し上げます
丈母○○○○が○月○日に九十九歳で永眠いたしました

までは、上のサービスでは文面固定なので変更はきかない。呼び捨てなのも仕方ないとして、その後に続ける文章は相手に合わせたい。が、いまいちしっくりいく文面が「喪中はがき」のテンプレートにないのだった。

同一人物の他界で喪中にある親戚にあてた文面というのは、郵便局も想定していないようだし、ネットで調べてもなかなか文例に行き当たらない。仕方ないので、いくつか文例を参考にさせてもらった上で、お手製で次の文面にした。

皆さまにおかれましては静かにご越年のことと存じます
向寒の折くれぐれもお体を大切にお過ごしください

ちなみに第一弾で、父方の親戚筋、親戚以外に送った文面はこちら。

新年のご祝詞を申し上げるべきでございますが
喪中につき勝手ながら欠礼させていただきます
明年も変わらぬご交誼のほどお願い申し上げます

同一人物の他界で喪中となる親戚同士の喪中はがきの文面というのも、ネット上で共有知をもてるといいのでは、と思った次第で、簡単にメモを残しておく。これが適切だというわけでは全くないけれど…。

ちなみに、喪中はがきの文面には句読点はいれない&近況報告は入れないこと。あくまで、喪中のため新年の挨拶を控えさせていただくことを告げるのが趣旨である、とのこと。

2018-12-16

祖母が99歳の生涯を終える

おばあちゃんが亡くなった。母方の、私の祖母だ。数日前に、満99歳になったところだった。大正、昭和、平成ときて、あと少しで、もう一つの元号を経験するところだったけれど。99年、生きたのだ。ここ数年、健康状態は落ち着いているようだったから、老衰ということになるだろうか。

母が亡くなったのが59歳だから、祖母は母より40年長い人生を生きた。人の一生って、99年もあれば、59年の人生もある。40年て、すごいよな。私の人生が、ほぼまるまる入ってしまう。祖母には人のおばあちゃんになってからの人生が40数年もあったのだ。母がおばあちゃんとして生きたのは5〜6年ほどだろうか。

祖母はひいおばあちゃんとして10数年、おばあちゃんとして40数年、私の母親を含む女の子3人の母として70数年、そのずっと前から続く人生が99年。大正時代から毎日が続いていたのだ。

そんな通りいっぺんの区切り方と別に、祖母には本人ならではの、自分の人生のくくり方というのがあるのだろう。とりわけ、どのへんの時代を懐かしく思い出すのか、そんなことはまったく想像つかないほど、たいしたおしゃべりもせずに見送ってしまったけれど、身内というのはそういうものかもなぁという気もする。

私たち一家は、祖母の家の近くに住んでいたので、子どもの頃はよく、祖父母と、母の姉一家が住む家に顔を出していた。私たちは、いとこらと一緒に遊んで過ごした。けれど私は人見知りで、さほど打ち解けていなかったので、なんとなく週末連れていかれては数時間をそこで過ごすという感覚だった。

「おばあちゃんこ」というには程遠い。おばあちゃんにしても、私に対して特別な印象はもっていなかったように思うけれど、「末娘の長女」ということでは気にかけてくれていたという感じか。成人式には着物を用意してくれて、それを着て挨拶に行ったときは喜んでくれていた気がする。

そんな孫の目線から今「おばあちゃんとの思い出」を振り返ると、やっぱり一番印象深く思い出されるのは、母がなくなる数日前におばあちゃんが病院にやってきて、親子対面したシーンだ。

母の姉が、おばあちゃんを施設から病院へ連れてきてくれて、私は病室の外でおばあちゃんを出迎えると、車いすを押して、母のもとへ連れていった。だから私の視界にあったのは、ずっとおばあちゃんの後ろ姿だ。ベッドの上でおばあちゃんを迎える母の表情と、おばあちゃんの小さな背中が、光景としてやきついている。

おばあちゃんは、母が余命わずかということを知らなかったけれど、病院のベッドで病いを患っている様子をみるや、車椅子から起ち上がって「かわいそうに」「どこが痛いの」と母に近づき、手をとって優しくさすった。泣いていた。

当時書きとめた話「おばあちゃんが来た」を読むと、目頭が熱くなってしまう。何を言っていたか、何を感じたか、書きとめておいてよかったな、と思う。

祖母と最期に会ったのは、1〜2年前の年末年始に帰省したときだ。実家から車で数十分のところにある老介護施設に、父と伯母(母の姉)夫婦と一緒に挨拶に行った。その日は機嫌も良かったらしく、私たちを笑顔で迎えてくれたが、私のことは誰だかわからない様子だった。体は一回りちっちゃくなった感じで、手をとってしばらくさすっていたのだけど、家事をしなくなった手はすべすべしていて、あったかかった。

あの穏やかな体調のまま安らかに眠りにつけたのであれば、大往生ということになるだろうか。でも、もう何年も施設暮らしだったのは、もの足りなかったかな。できるだけ頭も体も心も健康に歳をとっていきたいと思う。祖母も、母も、身をもって私に生と死を教えて、この世を去っていった。私は彼女のつくりだした自分の生を、私なりに生きるしかない。この世界に母を、私を送り出してくれて、ありがとうございます。

2018-12-10

お客2.0

先日「Designship」 という大規模なデザインカンファレンスがあったようで、私は参加していないのだけど、参加した友人知人のツイート・リツイート・いいねしたものが、開催当日Twitter上に流れてきた。そのうちの一つ、2日目のとりを務められた長谷川敦士さんの発言らしきツイートが目にとまった。

もはやデザインはデザイナーが完成形を出してるのではなく、そこにユーザーが参加することで完成する。by 長谷川さん

これを見て、最近自分の身近にあった出来事が、ふと思い浮かんだ。客先で打ち合わせしていたときのことだ。

そのクライアントさんには今、月1回ペースで半年ほど実施する社内勉強会を提供中。先方の業務パフォーマンス上の課題を整理して、ひと連なりの勉強会を企画し、そのテーマを専門とする外部の実践家を講師に招いて、一緒にカリキュラム設計・教材開発しながら勉強会を提供している只中にある。1回開くごとにクライアントとはミーティングの場を設け、今回の振り返りと、次回の構成を認識合わせする。

裏方を担当する私は、今回のレポートとあわせて、次回カリキュラムの構成を詳細項目まで出して文書にまとめ、その日の打ち合わせに臨んだ。次回の構成案には後半に、こちらの講師ではなく、先方社内の熟練社員が、自社で手がけた案件を事例として解説いただく時間枠を設けて、提示した。

前にクライアントから挙がっていたアイディアを取り入れたものではあるものの、「外部委託した研修や勉強会では、委託先(私)がコーディネートした外部講師がその場の指導役を預かりきるのが基本(責務)」と考えるのがクライアントの常なので、私はすこし前置きをして、先方社員を一部分のスピーカーにおいた構成意図を説明した。

「私の立場でこんなことを言うと、責任逃れのように聞こえてしまうかもしれないのですが、御社の求める内容を講師が単独で完璧にパッケージ化して教えきることが、最も実施効果を上げるとは言えないと考えているんです。外部講師の話を受けて、うちでは実際こういうふうにやっているとか、こういう事例があるとかいうふうに御社内の熟練者が話をひきついで展開していくことで、参加者の頭の中に自分の仕事に取り入れていくイメージが具体的に広がっていく、それによって知識定着や現場活用が促進される効果ってあると思うので、講師が全部話しきることを大前提とせずに、御社が直接話す場も設けて一緒に作っていったほうが有意義かなと思うのですが、いかがでしょうか…」

クライアントさんの中には、大きなジェスチャーでうんうんとうなずきながら聴いてくださる方もいれば、ふむーと深く考え込むようにして聴いておられる方もいた。私はしばし、向かい合う4人の発言を待った。自分の意見が絶対とも思わないし、お客さん次第である。

すると、ふむーと考えていた方が口を開いた。「でも、そういう時間は社内で完結して実施できるものって考えると、研修時間にそれをあてるのはもったいない。研修の場はやっぱり外部講師が話す時間枠として使って、社内の人間が話すのは別の機会を設けてやればいいんじゃないですかね」

それは一理ある。私は静かに、その意見をうなずいて聴いた。が、他の意見も出そうだったので、間をおいた。すると別の方が「でも、別に機会を設けて実際やりますかね?人集まりますかね」と声を発した。

私は、これを後押しする何かうまい例えがないかと考えながら、先方のやりとりを静かに見守った。「チャーシューは、チャーシューだけで食べるより、チャーシュー麺として一緒に食べたほうが、よりおいしく食せるのと同じように…」というのを思いついたが、なんだこの「なんにも同じじゃない」感は、と思って口をつぐんだ。言わなくて良かった…。

結局その場は「確かに」ということで落ち着いて、この勉強会の起案者の一人である先方の熟練社員さんが事例解説と、用意できれば自社で導入しているツールを使って、サンプルデータを扱いながら実演してくださることになった。こうやって一緒に作れるのは、すごく有意義な展開で、とっても嬉しい。

客の立場からすると、自分たちが前に立って話す時間枠が、外部委託した研修の中に入り込むというのは、その時間ぶんの講師料を無駄に払っているような感覚になるかもしれないし、まぁそこを減額してくれと言われたら、厳密にはそういうことになるのかもしれない。

でも、先方が話す時間枠が有効に作用するように、メインをはる外部講師も、裏方の私も最善を尽くして、その場を取り回すのだし、いずれにせよ、その辺りは構成を練るにあたって本質的な話ではないと思う。

研修をパッケージではなくソリューションと考えて、どう機能させるために、どういう構成がベストなのかを考えるのが基本だ。課題解決に対して、より効果的な骨組み・肉づけは何なのかを練るのが、カリキュラム構成でやる仕事。

なんて、あれこれ考えたことを、冒頭のツイートをみて思い出した次第。いわゆるユーザー体験のデザインに限らず、B2Bのビジネスシーンでも、ユーザーたるクライアントと一緒に作るって流れはあるよな、と。

最近「お客1.0」に対して「お客2.0」とは…いうのをぼんやり考えていて、それで引っかかったのもあるかもしれない。お客1.0は、売り手に「完成度の高いプロダクトの納品」を求める。サービスであっても、プロダクト的にパッケージ化された完成度の高さを求めるきらいがあるのではないか。その完成度の高さは、見方を変えれば汎用的で、画一的で、一様で、標準化された完成品かもしれない。

一方お客2.0は、自分(たち)の参画で、その意味も価値も増幅・拡張できるし、パーソナライズもできる、介入余地が残されたサービスの提供を求める。ただし客がひっちゃかめっちゃかしても、一定条件にそって使うかぎりは基本的価値は損なわれず、想定リスクも回避されるようになっている。そうした「うまくいく」サービスを高く評価する感じかなぁと。プロダクトより1レイヤー抽象度の高い品質保証を預かるような、1レイヤー下の創作プラットフォームを提供するような、そういうサービスをイメージ。

まぁ、もやんとしたイメージを書き起こしたにすぎないのだけど。自分を客の立場とみても、こびりついた「お客1.0」脳だけで性急に新しいサービスをみて「なんだ、お任せできないのか」と低評価を下したくないし、お客さんに対応する売り手の立場としても、従来型の「お客1.0」的な価値基準にとらわれず、本質的に効果的な方法は何なのかを軸において策を練りたい。

それが従来のものさしでみると、サービス提供側の手抜きのように思われる提案になることもあるだろうけど、できるだけ率直に自分の考えを伝えて、何が本質的な効き目をもつのか、お客さんとすり合わせていくコミュニケーションを大事にして仕事をしたいと思った。

2018-10-14

自分のレベルに合った学習方法を選ぶこと

先週は、学習分析学会が主催する「教育効果測定の基本コース」を受講した。2日間のプログラムで、受講料5万円と値は張るが、参加して良かった。狙いどおりで、ちょうどいい講座だった。

ちょうどいいというのは、講座が設定している学習目標やターゲット、そこから落とし込まれたカリキュラム内容、講師の教授スタイルが、今の自分にちょうどフィットしたものだったということだ。お昼以外ほとんど休憩もない感じで、2日連続なのに宿題もあって、ずっと頭に汗かいていた感じだったけれど、自分の求めていた通りだった。

今回の講座の参考書籍にもなっている講師の著書は数年前に読んでいて、以来その方が副理事長を務める同会のメルマガに目を通したりして、この講座の存在は知っていたのだけど、年に1回くらいしか行わないので、タイミングを逃して早数年。

今回行ってみたら、年1開催ながら参加者は4人。だいぶマニアックな講座らしく…。が、おかげで講師を4人で独占でき、数々のケーススタディも個人ワークとペアワークでやって、一人で紙に起こし、二人でホワイトボードで詰めて、双方ペア漏れなく発表しては講師からフィードバックを集中投下してもらえて、だいぶお得だった。

また、この講座は「組織の人材育成部門か、教育ベンダー会社で3年以上の実務経験を有し、自分で研修企画や研修開発を手がけている人」が対象のガチ講座、全員が参考書籍を読んだ上で参加していたので、ぐずぐずっとすることがなく、講師の脱線話はあれこれありつつ、それも楽しみながらアップテンポで進行した。

講師は、日立グループの人材開発を手がける研究所を基本の職場としていて、学会などでアカデミックなところと交流しつつも、思想としては完全に実務畑の人。フィードバックに一つ「ん?」と思ったところもあったけど、あれはきっと宗派の違い…、全体的にはすごく性に合った。

ズバズバ物言うところも、ダメなところ抜けているところを雄弁に指摘してくれるので、人によってはきつそうだったけれど、弱点を突かれに行った私としては願ったり叶ったり。

いいのか悪いのかを誤魔化したようなフィードバックや、アカデミックな型にはめてみてどうかというフィードバックだったら期待はずれだったが、実務的にみて不備不足がどこにあるか、良いところは良いと褒めてくれた上で、さらに実務的なテクニックとしてはこういう観点も押さえたらいいなどのアドバイスをくれて、自分のアウトプットのレベル感も把握しやすかった。

本を読めば知れることは本を読めばいいのだけど、その次のステップとして、その本の内容を本当に理解できているのか?ズレなく認識しているのか?実践はできているのか?を確かめるのは、自己評価では無理がある。自分の死角になっているところも、人に指摘してもらわないかぎり一向にわからないままだ。

実務で得られるクライアントや、講師(研修テーマの専門家)、社内の評価は、プロジェクトや業績に対するフィードバックであって、私の職能を対象にしたものではない。それは同職種で働く人がいない環境でやっているのだから、そのほうが健全だと思っているし構わない。

だけど、自分の職能に対する適切なフィードバックがない状態でずっとやっているのもいかんなって思う。自分で、自分が納得いく客観的評価を得られる場に出ていって、自分の職能レベルを評価してもらって、自己評価力を洗練させる必要があるよなと。成長を自己管理していくというか。

自分のように職場内外と問わず同職種とのつきあいがなくて、なんとなく環境から自分の能力を相対評価して認識することができない環境にある場合、自分が一番全うに自分の能力を冷静に適正に絶対評価できる状態を、自分で作らないと不健全に感じる。

今の自分にどういう死角があり、何はきちんと理解していて、何はそこそこできるけれど、どの辺に詰めの甘さがあるみたいなことを、へたに低くも高くも見積もることなく客観的に評価できる環境整備を怠らないようにしたい。

これを得るには、人材開発系のセミナーに足を運んで人の話を聴いたり、懇親会などで同職種の人たちと交流してもあまり意味はなくて、実案件とはいかなくとも具体的なケースで自分の力量をアウトプットして適切な講師からフィードバックをもらえる講座を見定めて参加する。これが手っ取り早い。ものによるので吟味が必要だが。

私は実際講座に出てみて、この人に評価してもらいたいという一線の実務家に自分のアウトプットを見てもらって、まずまずな評価を得られた(ふうな)のにはほっとしたし、詰めの甘いところも具体的に指摘してもらえて、こういうところの詰めが甘いよなっていう「こういうところ」がわかったのも良かった。

あと、やっぱり瞬時にぽんぽんと高いレベルで情報を整理したりアイディアをまとめていくのは難しくて、精緻化するのに時間かかっちゃうなぁという再認識。これはあまり速くできるイメージがなく、自分は時間のかかる人間だから、時間をかけて丁寧に仕事しようと開き直ってしまっているけれど、まぁそれはそれでいいではないか。

他の人とのペアワークのやりとりや、もう一つのペアの発表を受けて自分が気づいたことを指摘したり、講師が指摘を加えるやりとりからも、なんとなく自分がどれくらい見通しよく物事が見えていて、どれくらい気づけない粗さをもっているかの感覚的な理解が進んだ。

またしばらくはコツコツ実践を積んでいこうと思うけれど、これをもって自己評価の解像度を一段高めて、都度振り返りから自分ツッコミを入れつつレベルアップしていけたらと思う。

そうそう。自分が受講する講座選びって、本当に大事だ。「人は学習の目標設定が下手」って話があって(*1)、コロンビア大学の心理学教授ジャネット・メトカルフェ氏によれば、

人は新しいことを学ぼうとするとき「すでに知っていることか、自分にとって難しすぎること」をめざしがちだ

なんか、ものすごい言い当てられた感があって、この一節が気に入ってしまった。

自分が、あぁその辺は全部知ってる、わかってるーと思いながら本読んだり人の話聴いたりしているときは、自分が有能なんじゃなくて、自分が学習レベルをあげずに同じところに停滞しているのだと、まずは疑ってかかったほうがいいだろうって思った。

自分が「理解している範囲の少し先にある教材」に取り組む選択を、できているかどうか。

学習の絶好の機会は常に動いている。たえず変わり続けるので、スキルを一つ学んだら、次のスキルにステップアップしなければならない

*1: アーリック・ボーザー「Learn Better――頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ」(英治出版)

2018-10-07

サプライズよりワクワクを

半日がかりで旅行の手配をした。父と一緒に九州を訪ねて、あちらに住む妹とおちあって、3人で二泊三日の長崎旅行をする計画を立てた。妹があちらに住むようになって、一度父と一緒に訪れて同じように3人で旅行したことがあるのだけど、それが熊本地震の1年前だから2015年のこと。

となると、3年ぶりの家族旅行。3年前は湯布院でゆったり温泉につかった後、南下して阿蘇のカルデラの雄大さにびっくりたまげて帰ってきたので、今回は長崎に行ってみることに。

旅プランは最初、旅行に良さそうな日程に当てをつけて、今から宿が押さえられそうか楽天トラベルで様子うかがいつつ、父と妹に候補日の都合を確認。双方ともOKだったので、とりあえず飛行機の往復チケットを、父と私の2人分ネットで手配してしまう。

妹のパートナーが、それなら最終日の午後に大相撲の九州場所を一緒に見に行かないかと誘ってくれたので、それはいい!と二つ返事で旅程に組み込む。

3日目の午前中に福岡に移動して4人でランチしてから観戦する前提で、1日目と2日目の行き先を妹に情報もらいつつざっくり目処つけて、近くの宿を押さえた。車は妹がレンタカーを押さえて、長崎の間は妹の運転ですいすいすい。あとはまぁ、なんとかなるさ。

それにしても、最終日に大相撲の九州場所というのは良い。妹のパートナーにも久しぶりに会えるし、父も快い時間を過ごせるだろう。

相撲観戦の誘いを妹から聞いたとき、これを父にだまっておいて、当日サプライズで連れて行くっていうのをふっと思いついたのだけど、すぐに、それはないなって却下した。

せっかくの旅の予定。行く前から、みんな同じだけ実の詰まったワクワク時間を共有できたほうがいいではないか。当日直前にワクワクが始まって、すぐに終わっちゃうなんてもったいない。仕掛けた側だけ楽しみが長くて、プレゼントされる側が楽しみ時間が短いなんて不公平だ。一瞬のサプライズより、支度から始まるワクワクを。そう思うのは庶民思考ゆえか、あるいは一通りを想定内に収めておきたいディレクター脳の所以かも。

まぁ好みは人それぞれだろうけど、もう父に言っちゃったからいいのだ。電話の声が嬉しそうだったからいいのだ。楽しみに待って、みんなでゆったり、いい時間を一緒に過ごしてきたい。

2018-09-26

問題をじっくり決める感覚

私とはまったく別の業界で専門家として働いている友人とゴハンを食べていたときのこと。友人の話の中に「自分よりもずっと手際よく筋道を固めてゴールまでもっていけちゃう人がいて、いいなぁって思うんだけど」って一言がはさまった。

あれはきっと「はさまった」というくらいが正しい。それで卑屈になっていたり、羨ましがる気持ちに足元をすくわれている感じではない。私が書きたいのは、そういうことではなくて、それを受けて私が考えたことのほうだ。

私たちはその前からあれやこれや話し込んでいて、その一言を聞いたときに私がまず思ったのは、それは友人が手際が悪いからではないだろうな、ということだった。

なぜか。それまでの話を聴くに、友人がゴールをすぐに固めないのは、一つもこれというゴールが思いつかないからではなく、他にもゴールの見出しようがあるという可能性に目を向けて、時間の許すかぎり考え抜いて最良のものを選ぼうとしているからだった。それは手際の悪さによるものではなく、妥協のなさによるものだ。

過去の経験則から、瞬時にゴールをこれと決めこんで解決の道筋を既知のパターンに当てはめるのは、経験を積めば積むほど易しくなる。そこで易きに流れることなく毎回新しい案件として向き合い、拙速に目的地を決めようとする自分に抗うのは、経験を重ねるごとに難しくなっていくのかもしれない。

友人は丁寧だった。相当に難しい問題を、相当に短期間で対処しているのは想像に難くないのだけど、本当にこれか?こういう捉え方もできるのではないか?と、一つひとつ慎重に事にあたっていることが窺えた。

私はそういうふうに思うので、それは大事にしたままでいいのでは、と門外漢ながら応じて、またあれやこれやとおしゃべりに興じた。

それから日が経ち、次のような一節に出くわした。

このようなメタ認知を専門家は容易に行っている。スペシャリストがある課題に取り組むときには、問題をどのような視点からとらえるかをじっくり考える。自分の考えに筋が通っているかどうかに感覚を研ぎすませる。どうやって答えにたどりついたかを内省する。*1

あぁ、まさにこれだなと思い、その友人のことを思い出した。

「これはどういう問題なんだろう?」というステイタスはフワフワしていて、不安に駆られると早々に問題を特定して目的地を定めてしまいたくもなる。そこをちょいと踏みとどまって、一度アイデアを拡散する可能性の旅に出てみる冒険家の精神は尊い。期限内におさまるように探索の旅から戻ってきて一つに収束させる仕事もあわせもってなんぼなんだけど。しかも旅に出られる時間はかぎりなく短いのが常だけど…。

もちろん、ゴールをどこに定めるのか検討した上で結論を出すのがものすごく速い人もいるだろう。ゴールをどこに定めるのか検討しなくてもそのとき最善のゴールをパッと導き出せる人もいるのかもしれない。

でもまぁ無い物ねだりはやめて、自分なりの歩幅で、自分なりに感覚を研ぎすませて、じっくり丁寧な仕事をしていこう。歳を重ねて経験を積むほどに、既知のパターンに瞬時に当てはめられる直観力が磨かれていくなら、未知の可能性を探索しにいく冒険心も意識的にもちこんで、うまいことバランスさせていきたい。

*関連リンク:「問題と課題を区別する話」(問題も課題も自分で決めるものだよなという4コマ話)
*1: アーリック・ボーザー「Learn Better―頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ」(英治出版)

2018-09-17

棚に上がる前のセブンプレミアム事情

セブンイレブンの、というかセブン&アイのプライベートブランド「セブンプレミアム」は12年目を迎えているようだけど、私には長いこと、ちょっと気がかりな相手である。6年前にユニ・チャームが不憫である旨は、このブログにも書いたのだけど、あのあたりからずっと気にかけている。

ユニ・チャームの件はざっくりいうと、セブンイレブンに行くとマスクの棚にユニ・チャームの「超立体」と、セブンプレミアムの「立体型」と、ともに極太ゴシック体で書かれたパッケージが並べて陳列されていて、セブンプレミアムのほうが枚数が多くて価格が安い状態で売られているんだけど、箱の裏をみてみるとこっちもユニ・チャームが作っていて不憫である、という話。しかもユニ・チャーム純正は「5枚で398円」、セブンプレミアムは「7枚で298円」。しかも当然セブンプレミアムも手を抜かずに作っているから、ユニ・チャーム品質で素晴らしく使い心地が良い。「これで十分」な品質なのだ。

あれから6年、その後もセブンプレミアムはぐんぐん商品数を増やしてきて、最上級ブランドと位置づける「金のハンバーグ」とか「金の食パン」なんかも出てきて、2019年度には売上1兆5000億円を目指し、4200品目へ拡大すると発表している。生鮮食品、洗剤などの日用品や衣類まで扱うらしい。ノリノリなのだ。

私の行きつけのセブンイレブンは、レジ待ちしてぼーっとしているときに目に入る棚がおつまみ系である。柿ピーとか、さきいかとか、あたりめとか、ビーフジャーキーとか。この辺は全部セブンプレミアムで出ていて、自然と目に入る高さは今や一帯セブンプレミアム商品群が掛けられている。しょんぼりして目線を下に向けると、しゃがんだ最下層に平積みされているのが、ナショナルブランドの豆菓子だ。

柿ピーといえば幼少の頃からお世話になってきたのが亀田製菓の柿ピー(オレンジ色の)だけれど、これはずっと目にすることがなかった。

それが最近、亀田製菓のオレンジ色が陳列されるようになり、しかも自然と目に入る高さの上等な席次になっている。これは!と目に止まったのだけど、なんと“ピーナッツなしの”柿の種だけが袋詰めされている商品である。そしてすかさず、その隣りには、セブンプレミアムのバタピー(柿の種なしでビーナッツだけが詰まっているもの)が掛かっている。

なんだろう、これは。柿の種だけで食べる人ってどれくらいいるのだろうか。柿ピーに一方を追加補充したい人用としても、ピーナッツ比率を高めたい人はいる気がするけれど、柿の種比率を高めたい人ってどれくらいいるのだろうか。まぁいろんな趣味があるからなんとも言えないけれども。

亀田製菓にユニ・チャームと同じ想いが募る。それでもセブンプレミアムと、何らかの関係をもっておいて機会を狙うのが得策ということなのか。ちなみに現在、柿ピーのセブンプレミアムを作っているのは亀田製菓ではなく、でん六である。

セブンさんの弁では、セブンプレミアムは「各商品分野で技術力のあるNBメーカーとの共同開発」「そのクオリティの証しとしてあえて生産者(製造元)のメーカー名を商品に明記」しているとのこと。販売者名だけを表示した従来のPBの常識を打ち破るものと評されているのだけど、でもなぁ、お客さんの問合せ先だってセブンではなくて製造・販売元が負っているわけで、いいとこ取りって気もしないではない。

製造・販売元、セブン&アイ、消費者の「三方良し」なのかっていうと、んんーというところもあるんだけど、まぁ強いからこそできているわけで、その強さを築いてきたのは他ならぬ彼ら自身なのであって、強さを存分に活かしていますねってことでしかないのかもしれない。大変お世話になっているし。とにかく、そんなこんなで、気になる相手であり続けているのだった。

そこで近況をざざっと調べてみると、本当にいろんなところと共同開発していて、ポテトチップスはカルビーだし、バタークッキーはブルボンだし、ビーフジャーキーは伊藤ハムだし、チーズタルトは不二家、羊羹は井村屋だ。

調味料はさらに混沌としていて、マヨネーズは味の素、こしょうと唐がらしはハウス食品、みりんとトマトケチャップはキッコーマン食品、ソース類はカゴメ、みりんはミツカン、すき焼きのたれとごまだれはエバラ食品工業、だしの素はヤマキ。ここまでは、まだ良いとして。

キャノーラ油とオリーブオイルはJ-オイルミルズなんだけど、ごま油はかどや製油。しょうゆと白だしとそばつゆはヤマサ醤油なんだけど、こいくちしょうゆと味付けぽんずはヒゲタ醤油。そして生にんにくのチューブはエスビー食品なんだけど、生しょうがと練りからしのチューブはハウス食品。

味噌に至っては、何の味噌だったらココという分けもなく、赤だしもこうじもマルサンアイ、ハナマルキともに出していて、さらにフンドーキン醤油とか、山永味噌とかもあって、勝手な妄想だけど熾烈な競争を強いられているのかしらとそわそわしてしまう。

商品棚で戦わせるのではなく、店頭に並ぶ前のほうが主戦場なんじゃないかしら…。まぁそっちのリングで戦わせたほうが自社のコントロール下においてレフリー役をしやすいのか。

これだけえげつないことするなら(って勝手な妄想で書いているだけだけど)、いっそのこと複数のメーカーの商品を少量ずつ詰め合わせて飲み比べ、食べ比べ、使い比べできるセット売りとかしてくれたらユニークなのに…とか思ってしまうが、まぁ言うは易しというものかしら。

個包装できるものに限られるかもしれないけれど、ドリップコーヒーの飲み比べ詰め合わせセットとか、おつまみ豆菓子の食べ比べセットとか、ヨーグルト食べ比べセットとか?

習慣的に買うからちょっとこだわりたい、けど買い回るほどではないという、買い回り品と最寄り品のちょうど間くらいのもの。飲み食べ続けたいブランド探しする買い物客にはありがたいのでは。まぁ手間ばかりかかって儲からないか。ともあれ、いろいろ取りそろえて、私の暮らしを応援していただいており、感謝しております。

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