2019-04-15

研修運営に明け暮れた跡

先週1週間は、クライアント先に通いづめだった。月曜から金曜まで5日間の新卒社員研修を提供していたのだ。朝8時半に先方オフィスに入って、17時過ぎに片づけて表に出てくると、もう日暮れどき。

最終日の金曜は午前中で研修を終えたものの、自分の勤め先が毎期初に行なっている半日の全社員イベントにそのまま向かって合流し、あわただしい1週間が終わった。

移動距離はさほどでもないのだけど、研修に使うあれこれを詰め込んだキャスター付きバッグを引きずって都心を西へ東へ移動し、地下鉄やらJRやら乗り継いで駅を上り下り、立ち仕事が多かったこともあってか、週末になって腰にきた。ご老体である。

が、快い疲労と元気をもらった。もっとあの準備を念入りにやっておけばとか、この辺のすりあわせを講師ともっと詰められていればとか反省もあるのだけど、そういう考えに及ぶのも、みんなによりよい学習機会を提供したいという欲がわいてこそ。

本番1週間を終えた週末に心にぽかんと浮かんだのは、「あぁ、これが私の仕事の原点だよな」という感慨だった。

私の仕事は、研修の相談をクライアントからもらって、調査分析→企画提案→設計して教材開発→研修運営→レビューと全工程にわたる。講師に委託する以外の仕事領域は自分(とクライアント側)でまかなう小規模なプロジェクト、あるいは自分ひとりで風呂敷をたためる提案しか書いていないとも言えるが…。

そのため時期によって、案件によって、自分がやる仕事領域は変わっていく。それでいうと先週はほぼほぼ「現場の研修運営」という1週間だった。当日にクライアント先に行って、受講者に相対して研修を提供する。

その研修では、これからディレクターやデザイナー、コーダーとして働く人たちのWeb制作技能を基礎固めする研修プログラムを提供したのだけど、「作る仕事」をする人の学習・キャリアを支援する仕事の、まさに今・現場に自分が立っていることに強い引力を感じた。20代の頃からずっと、これが自分の仕事の幹にあることを全身で確認する1週間だった。

後ろからみんなのPC画面をみていると、講師がみんなに同じ働きかけをしても、一人ひとりいろんな画面になって、いろんなものを作って、スピードもさまざまで、どこにこだわるかも様々。どんどん先に進んで、あれこれ応用して好きなものを描き出す人もいれば、テキストをみながら先に駒を進める人もいる。いずれにせよ、みんな作っている。

長方形一つ描くのでも、それをどこに、どんな大きさで、どんな縦横比で配置するかはみんな違う。ど真ん中に置く人もいれば、端っこに置く人もいて、でっかいのもあれば、ちっちゃいのもある。塗りの色も、線の色も太さもバラバラだし、中に書くテキストもそれぞれだし、文字の性格の与え方もみんな違う。

同じようなスーツ姿をしていても、個々のディスプレイには、秘めた個性が浮かび上がってくる。私はこうした光景を後ろから眺めるのが昔から好きだった。

一人ひとりの画面からは、どこで理解がつまずいて困っているかも、わりと窺い知れる。そういう情報を汲み取っては、今サポートに動くべきか、しばらく様子をみるべきかと逡巡する。

少しおいておくと、自分で乗り越えていくこともある。いちいち外野からサポートを入れられてもうざったいだろうし、自分で乗り越えて「なるほど!」と突破する体験を奪いたくもない。私が個別に声をかけることは、遅れをとっていることを周囲に知られる副作用ももつので、安易に自己満足的サポートに手を出すことも避けたい。

講師もちょいちょい進行を止められてはやりづらい。あくまで「受講者の学び」と「講師の教え・関わり」を、より能率化するために黒子として自分が何をすると有効で、何をするとマイナスに作用するかを、複雑な変数をあれこれ考慮しながら、素早く一手に決めて、さりげなくサポートを施す必要がある。割って入って悪目立ちするのは最悪だ。

そんなポリシーをもちつつ、受講者の背後に立っていると、PC実習なんかは1日の間に分岐点が何十回も訪れる。ささっとそばにいって個別に声をかけることもあれば、講師に声をかけて全体進行に手を入れるケースもある。一方、黙って見守ることも多い。

最適解を答え合わせできるものは何もなく、運営者の立ち回りはいつだってすごく難しい。頭と心をフル稼働させて、洞察し、推論を立て、判断し、行動したり、踏みとどまったりを繰り返す。1日の終わりには、地味に一人で勝手に疲労している。

研修に参加すると、現場に立ち会う運営者がいるのを見たことがある人は多いと思うけれど、だいたい、そこにさほどの価値は見出していないのが一般的だと思う。始めと終わりにちょっと話をして、あとは後方で何かあったら声をかけてという感じで着席している、あの人である。管理者なり雑務担当として現場に居合わせている「事務局の人」的な感じ。

研修を運営する当事者の中にも、そういうスタンスでとりあえずその場にいる人を見たことは何度となくある。自分が参加者として受講した講座で、運営者が会場後方でノートパソコンを開き、明らかに他の仕事をやっているのを見たことがあるし、ひどいケースだとそのキーボードの打つ音がうるさくて受講者の集中を欠いていることに気づいていない運営者にも遭遇したことがある。

仕事としての市場性もさしてなく、「私が研修当日に張り付かなければ、いくらかお安くなります」と言ったら、多くのクライアントは「じゃあ林さんは当日いらっしゃらなくて結構です」と言うのではないか。「林さんは研修当日、終日いらっしゃるんですか」とクライアントや講師に聞かれたこともある。「大変ですね」という気遣いで訊いてくれているのだけど、なぜ訊くかといえば、私が、あるいは運営者が当日そこにいる意味を特に見出していないからである。

私も言葉を尽くして、自分がそこでどういう働きをしたいと思っているか、あるいは私の出来不出来を別としても、現場に立ち会う運営者がどういう働きをするのかを説明することはしてこなかった。

なんでだろうと改めて考えてみると、「その仕事に価値がある」ことと、「その仕事にお金を支払うだけの市場価値や、時間を割くだけの意義が認められる」ことは別だと割り切っているから、という気がした。

そういうことって、いくらでもある。あらゆる仕事の価値が、きちんと話せばあらゆる人に理解されるとは、とうてい思えない。人の価値観、物さしなんていろいろだし、説いても説いても伝わらないことってある。話せば伝わることや人もあるだろうけれど、そこにはそれなりの労力や頭脳や説得材料や話力が求められる。

説明が長引いた上に失敗すると、聞き手は不毛に時間を奪われて、はた迷惑に感じるだろうし、白けていくばかり。話し手は話し手で心を消耗する。なにも生産的でない。

となると自分の中で、運営者の立ち回りが学習効果に影響を及ぼすことがわかっていて、それに向けて自分がどうよりよい創意工夫をするかに焦点をあてて頑張れれば御の字。自分が立ち会うことはオプションではなく前提事項として提案すれば、来ないでくださいとは言われないのだし、行ったら行ったで自分なりにいろいろできることはある。

これは、逃げだろうか。もっと、運営という仕事が何を果たすか訴えて、その価値を見積もりに含めるべきなのか。べき論でいったら、まぁそうなんだろうけれど、いやぁ、なかなか、そこに気力がわいてこない…。そうやってさらに自分の腹のうちを探ってみるに…。

自分がタンカを切って価値を説けるほど運営者の働きをできていないのが真因だろうと我が身を振り返る。あれを言えばよかった、あの準備をしておけばよかった、あそこですぐ判断して動くべきだった、あの動きはいらなかったのではないか。そんな反省がごろごろ出てくる。やっぱり自分がまだ運営の仕事を、自分が評価できるレベルでできていないのが一番の課題だな。なんだかいろいろ考えさせられて、春先に姿勢を正してもらえた感じがする。今年度も気持ち新たに頑張ろう。腰痛いけど。

2019-03-23

柿ピーのウラ面を読む

昨日はお客さんとこの会議室で、「柿ピー」メーカーによせる私の切ない思いを熱っぽくしゃべってしまった。

セブンイレブンの店頭に並ぶ、セブンプレミアムの「柿ピー」のパッケージを裏返してみると、なんと通常パッケージはでん六6袋入りは亀田製菓が作っているという衝撃の事実に出くわす。

作り手は違うのに、オモテ面はセブンプレミアムの統一パッケージで、製品名も「こだわりの柿ピー」とまったく同じネーミング。オモテ面だけ見ていると、もう「6袋か1袋の内容量の違いしかありませんよ」というたたずまいである。しかして、その実態は!いや、むしろ実体は!

いや、そりゃセブンさん側からみたら、同じブランドで出してるんだから見た目統一するでしょって道理はわかりますよ、でもウラ面にまわってみると、それはそれでこっちにはこっちの道理というものがありまして…という切なさがこみ上げてくるのだった。

パッケージのウラ面にはウラ面のドラマがある。私は時々こうしてパッケージのウラ面を見ては勝手なドラマを脳内再生して、ぐぬぬっとうなっている。商品の問い合わせ先が、セブンではなく各メーカーのお客様相談室になっているところも胸を熱くするものがある。なんだよー、ウラ面では圧倒的にメーカーが"顔"じゃないかーと。

この6袋入りのウラ面の「メーカー名」を見たときには、「あぁ、亀田さん、ついに」と大変な衝撃を覚えたのだった。というのも、この6袋入りが出たのは(つまり亀田製菓がセブンプレミアムに参戦したのは)、おそらくここ半年の間のこと。それまで、この「こだわりの柿ピー」は「豆はでん六♪」のでん六さんが1袋パッケージ(132g、86g)として一手に引き受けていた(と思う)。ということは、でん六さんはでん六さんで、これじゃあ話が違うじゃないかよーみたいなことになっていないかしらと、これまた勝手な胸騒ぎを覚えたりして。

セブンプレミアムの柿ピー事情については、以前にもここに書いた私の関心事。この間、この亀田製菓の6袋入りを見つけて気がかりが再燃し、「柿ピー セブン 亀田」でGoogle検索したら、検索結果の1ページ目に自分のブログが出てきてびっくりした。そんなニッチなワードで検索する人が、私以外にどれほどいるのか謎だが…。

そういえば、もっと前にユニ・チャームのマスクのセブンプレミアム事情についても書いたのだけど、マスクはこのところセブンプレミアムで出さなくなったんだよな。マスク需要は伸びていると思うのだけど、セブンイレブンは自分のところの「立体型」(メーカーはユニ・チャーム)をやめて、ユニ・チャーム純正の「超立体」と他メーカーを並べて出すようになった。どんなやりとりを経たんだろう。亀田製菓さんやでん六さんは、ユニ・チャームさんを飲みに誘ってみては…などと思ったりする。

まぁ相変わらずセブンイレブンには大変お世話になっており、また亀田製菓の柿ピーとでん六の柿ピー、食べ比べても違いがわからない程度に味音痴のため(どっちもおいしい)、セブンさんに「そういうお客さんのための商品ですよ!」と笑顔で言われたら、ぐうの音も出ず「いつもお世話になっております」と笑顔で返してしまうに違いないのだけど。ますますのご発展を祈念しております。

ちなみに客先でこの話に及んだのは、フェアトレードについて話題にあがって「林さん、こういうの好みでしょう」と振られたので、それに思いきりダイブして支持表明の引き合いに出したまでであって、何の脈絡もなく柿ピー話を始めたわけではない、という弁解を最後に添えておきます。少し興奮して話してはしまったけれども。

2019-03-13

研修の時間配分「90/20/8」の法則

研修プログラムの時間割を考えるとき、「90/20/8」の法則というのが使えそうだ。「研修デザインハンドブック」というノウハウ本で紹介されているものなんだけど、なかなか実践的で面白い。研修に限らず、いろんな時間配分にも応用できそう。

一般に、研修の時間割が「教える側の都合」で組まれがちなところを突いている。

もちろん、参加者側の都合をまったく考えていない研修も、そうそうない。受講対象者が業務時間内に一堂に会せるのは水曜日の午前2時間だけとか、ひと月前から予告したとしても丸一日確保するのがせいぜいとか、時短勤務の人も参加できるように16時までに終えたいとか、実施時期や時間数を「参加者都合」で条件づけることは少なくないだろう。

ただ、「参加者の体があくかどうか」という最低限の条件ではなく、「参加者が集中して確かなインプットをして、研修で得たものを持ち帰って実務に活かせるかどうか」という実施効果に即した面で見直してみると、学習者中心設計には、まだ工夫の余地があるかもしれない。

例えば「10:00-16:00の、昼休憩を除いておおよそ5時間枠」で研修をやるとなったとき、教え手はどのように時間配分を考えるだろう。

この研修でまず教えなきゃいけない概念知識は、説明に2時間はかかる。そうすると10時に始めて12時までは講義をやるでしょ。昼休憩を1時間入れて、午後はグループワークで課題に取り組んでもらおう。そこで、午前中の講義の理解を深めてもらう。このワークショップを、発表やフィードバックも含めて、午後の3時間でやるイメージ。

そんなふうに、大まかな構成と時間配分を考えてブレイクダウンしていく人が多いのではないか。ここに潜む「教え手都合」を指摘し、「人間の脳がどう学習に対応するかの原理原則に基づいて時間配分を決定してい」くよう、先の本は提案している。

その原理原則を、まずは列挙しちゃうと、次の3つ。

●脳が集中をキープできるのは「90分」まで
●大人が記憶を保持しながら話を聞くことができるのは「20分」
●人間の脳は受け身な状態が「10分」続くと興味を失い始める

そこから導き出したのが「90/20/8」の法則である。上の原理原則を踏まえて、ではどうすればいいかを考えていくと、研修時間をこんな感じで組み立てたらどうかという提案が導き出される。

●脳が集中をキープできるのは「90分」まで
→90分ごとに10〜15分間の休憩を入れよう

●大人が記憶を保持しながら話を聞くことができるのは「20分」
→20分おきにペースを変えたり、明らかに異なった形式にしよう。例えば、この20分の間に話した重要な点を繰り返して確認し、長期記憶への移行を促すなど

●人間の脳は受け身な状態が「10分」続くと興味を失い始める
→情報提供(いわゆる講義)は、8分を一区切りとして話を組み立てよう。8分ごとに参加者が主体的に考えたり話したりする時間を設けるなど

厳密にやろうとして、講師のほうがガチガチに縛られた状態になっても良くないので、あくまで目安として、視点として取り入れればいい話だとは思う。

ただ、話し手は頭フル回転でしゃべっていたりするので、気がつくとあっという間に一人語りが10分、20分、30分続いてしまうことってある。そうなったとしても、自分はフル回転ってことだと、聞き手に退屈を与えている感覚をもちづらい。

が、話し手と聞き手では、まったく脳の状態が違う。聞き手に、自分(話し手)と同じ熱量&集中力をもって話を聞き続けなさいというのは、時間が長くなればなるほど酷な話。それはやる気の問題とか、努力すればとか、興味をもって聴けばとかいうことではなくて、人の脳の作り的に無理があるんだなって話にして、研修の構造を見直したほうが能率が良いのでは、という話である。

では、10分を超える一人語りは、聞き手の主体性をしぼませていく働きももつという認識をもって、研修時間の組み立てを再考してみたい。

とりあえず、10分話したくらいで、「参加者へのちょっとした問いかけを挟む」とか、「これまでのおさらいを挟んで一呼吸つく」という一工夫でも、取り入れるといいと思う。

全体の構造を見直すとすれば、ひとまとまりを90分枠として、オープニングに5分、クロージングに5分とり、残り80分。これをざっくり4等分して、各20分の構成を、

【導入ワーク】学習テーマに関連する、参加者のこれまでの経験や既有知識を振り返ってもらって共有するワークで足場づくり(20分)
【講義】過去の経験や既有知識に関連づけながら、新しい概念知識のインプット(20分)
【実践ワーク】新しい概念知識を活用して、実践的な課題に取り組んでもらう(20分)
【発表】演習の発表、質疑応答、講評(20分)

としてみるとか。もちろん、学習テーマやその複雑性、学習者のレベルやタイプによっても、何を何時間かけてどんなふうに学習してもらうと効果的かはまったく変わってくるので、上のようにきれいに20分でまとまったりはしないだろう。上のはあくまで一例に過ぎない。

でも例えば、これまでは「講義2時間でまるっとインプット、ワーク3時間でまるっとアウトプット」みたいに大雑把に区切っていたものを、もう少しテーマを小分けにしたり、基礎と応用でレベル分けして段階的に学べるようにするなどして、それを90分ごとに割り当てていくようにするとか、上のような原理原則を知ると、いろいろ構成・時間の組み方にも広がりやアイディアが出てくる。

「とにかく最初は講義。知らなきゃ始まらないことを講義して話しきって、もの考えさせるのはそれからだ」とかにこだわらないで、90/20/8の法則の揺さぶりを受けながら、話す順番とか、話すことの区切り方とか、講義と演習の組み合わせ方とか、レベルの段階分けとか、それぞれの時間配分とか、いろいろゆさゆさと再考してみると良さそう、という共有でした。

ご紹介の本は、中村 文子&ボブ・パイク共著「研修デザインハンドブック」(日本能率協会マネジメントセンター)。実践的なノウハウ本ゆえに、「言い切っちゃってるけど、常にこれが最適解というわけじゃないだろう」と思う記述もあるけれど、それゆえ具体的に「こういうやり方もあるんだな」と自分のやり方を見直すネタを拾えて、そういう使い方にとても有用な一冊。

2019-03-11

43歳という立ち位置

この週末に誕生日をむかえて、一つ歳をとった。同世代の友人から「お互い50歳に向けてますますアップデートしていきましょう!」という威勢のいいメッセージをもらい、「ご、ごじゅう…」と一瞬ひるんでしまった。

歳を重ねることに抵抗はないのだけど、自分が50を迎える日が来ることを現実的に想像しようとしても、まだ難しいことに気づく。私の周囲には魅力的な先輩方があちらこちらにいて、あの器には程遠いな…と思う。

まぁ、そういう先輩方とはずっと距離を縮められないまま歳を重ねていくのだろうけれど、そんな人たちと一緒に同じ時代を生きられて、ちょっと前を歩きながら人生を謳歌する様を見せ続けてもらえるのは、たいそう心強い。

とりあえず50まであと何年あるかと慎重に数えてみると、丸7年あった。この7年のうちに、ぐいっと大人になれれば50も怖くない。あと7年あれば、どうにかなるかな…。そう考えると、一年一年、しっかり成長していかないと間に合わないなって気にもなる。

若者からみれば「おばちゃん」でもあり、諸先輩方からみれば「一介のペーペー」でもある40代前半というのは、自分の位置取りにバランス感覚を求められるものだなと思う。いつまでも若い気でふるまわれても若者にはうっとうしいだろうし、おばちゃんおばちゃん言うばかりでも、なんだ40の若造が玄人ぶって生意気に!って感じがある。

私個人的には、どうしても意識が「おばちゃん」より「一介のぺーぺー」感覚に寄りがちだ。放っておくと若者より先輩世代にすり寄っていく傾向があるため、ずっと下っ端の感覚が抜けないし、チームマネジメントを避けてずっとプレイヤーでやってきているので、人材育成には裏方で関わり続けている割りに、自分が直接的に若い人たちに何か教えるとか育てるといった立ち位置は、さほど馴染みがない。「自分に有能感を覚えたら最後、そこが自分の能力の終着点だ」という危機感も体に馴染んでいるため、自分の仕事人生で「一介のぺーぺー」感覚はおそらく一生抜けないだろう。

だけど1割2割、そろそろ若い世代との交流機会ももちつつ、その対話から、自分に何ができるのかを問うて活動していく時間も有意義なんだろうなと、最近若い女子たちとゆっくりしゃべる機会があって、思ったりした。

自分がどういう役に立てるのか、どういう働きができそうかって、文脈や環境に依存するから、その現場の文脈・環境に身をおいてみて、そこで出会う人たちと話してみないことにはわからない。話してみれば、何かできることも発見できたりする。

一人で閉じていると、あるいは固定的で偏った環境下にずっといると、それが見えてこない。自分が知っていることは皆も知っていると思うし、自分ができることは皆もできると思うから、自分は何の役にも立たないようにしか思えないし、人の話を聴いたり読んだりすると、自分の知らないことできないことを、いろんな人が知っていたりできることに圧倒されて、ますます本当に自分は何の役にも立たないなという気がしてくる。

だけど、どこかの場に出ていって、そこに身をおいて、そこにいる人としゃべってみたり、そこで起こっていることを観察してみたり、人や物の動き、事の流れを肌身で感じて追っていると、いろいろ自分ができること、言ってみたら力になれそうなこと、やってみたら役に立ちそうなことを発見できたりする。

それはとてもささいなことで、ちょっと場を和ますだけのことかもしれないし、ちょっと話を前に進めるくらいのことかもしれない。それでも何の役にも立たないだろうというゼロ地点にいるのとは雲泥の差、心が晴れ渡っていく。

そういうのを見つけてはコツコツやっていくことで、きっといいんだよなと思う。自分に過大な期待をかけず等身大で、できること、できそうなこと、ちょっと頑張ったらできそうなことに手を出していけば。

それがきっと積み重なって、ひとまとまりの経験になったり、再現性ある能力になったり、他の場所でも応用がきくノウハウになったりしていくのだ。

最近、むかし自分が書いた自分のキャリア分析の資料を読み返す機会があって、あぁそうだよな、私はいろんな魅力的な人と出会っていくこと、お話しすること、関わって作り手をサポートしていくことを、すごく大事だなって、これが自分のキャリアの幹だって、若くしてわかったんだった。そのときは意識していたけれど、最近はそういう自分の考えに同化しすぎていたのか、そのことを「意識して大事にする」ってことができていなかったかもしれないなって思った。

大事なものをシンプルに、大切にやっていく43歳にしようと思います。ここまで読んでくださった有り難い方、この一年もおつきあいのほど、どうぞよろしくお願いします。

2019-02-25

「ワークショップ課題を作る」という自主トレ

野球選手の素振りのように、インストラクショナルデザイナーはワークショップの演習課題を作る…のかどうかは知らないが、私はWebサイトやら関連書籍やらに目を通しているとき、「おぉ、これは演習課題に使えそうだなぁ」というネタに遭遇すると、素振りがてら演習課題を作ってみたりする。

「誰ターゲットで、こういうスキルを鍛えるための、こんな演習課題に使えるかなぁ」などとぼんやり考えるだけで終わりにしてしまうことも多いのだけど、実際に演習課題の「問い/ワークシート/回答例/時間割」を書き起こしてみることもある。

あるいは関連書籍を読んでいて、この内容の理解度を測定するにとどまらず、理解促進や知識定着を図る筆記テストを作るとしたら、どんな設問が良いだろうと考えてみたりとか。そんなことをしていると、さらに本を読むのが遅くなっていくわけだけど…。

こうした活動はすこぶる創造力を使うもので、自分の力の限りを引き出してくれる、あるいは引き上げてくれるもの(にもなる、頑張れば)。つまり、インストラクショナルデザインを生業とする私の、一種の自主トレになる。

何かを教えるときの講義内容の構成、事例解説のネタ集め、講義スライドの作成などは、その道の実務スペシャリストである講演者・講師役の方が単独でも素晴らしいものを仕上げることが多い。

けれど、それを受講者に「説明して終わり」ではなくて、「どう理解促進を図って知識定着させるか、スキル定着させるか、現場に持ち帰って発揮させるか、発展的な継続学習につなげるか」ということになると、それだけでは足りない。そこが、実務者向け学習を扱うインストラクショナルデザイナーの力の発揮しどころである。

と、大きく出たが、まぁたいそう難しい。難しいけど、それこそいくらでも知恵が絞れる広がりがあり、創造的で面白い活動だ。そして、ロールプレイやシミュレーション課題、理解度テストやパフォーマンステストといった類いが、それに寄与する。

この週末は、「中古車のガリバー」のWebサイトに食指が動くページを見つけて、それをネタに演習課題を作ってみた(暇か…)。情報設計の系列化(どういう順序で情報を並べたら分かりやすいか)を考える課題を皆で取り組むワークショップ形式に仕立ててみた。つまり「このページ、分かりづらくない?」と思ったということなのだけど…。

車の種類を5つに分類して、セダンはこういうので、コンパクトカーはこういうのでと初心者向けに説明してくれるページなのだけど、「順番これが一番いいのかしら?」「どうしてこの順に並んでるのかしら?」と不思議に思ったので課題に展開してみた(暇か…)。

Workshop: 情報設計の系列化

だいぶ狭いところを突いている…。取り扱う範囲が狭いと、自主トレで作ってみようって腰をあげやすいのだ…。ちなみに私が考えた答えは、これ。

Workshop: 情報設計の系列化(回答例)

これは正解(例)ではなく、あくまで一つの回答例にすぎない。実案件でも、自分でたたき台は作るけれど、正解例や問題そのものの監修は必ず、その道の専門家の方にやってもらう。そもそも、この問いに答えることが今回獲得したい知識なりスキル習得にあたって本質的な意味をもつのか含めて、学習テーマ(ここでは情報設計)の専門家の検証は必要だ。

というわけで、どこかに閉じ込められて10分、15分暇を持て余している方とかいたら、ぜひおつきあいいただいて、回答を教えてください…。私はまったく車種に詳しくないので、実案件だったらもう少し調べてから演習づくりに取り掛かるところ、その辺も今回は雑だ。

ちなみに、最近さくっと何か書くのにDropbox Paperをよく使っているのだけど、これがすごく手軽で、ちょうどいい。さくっと!に必要十分な機能と表現力で、複雑すぎず使いやすい。これがあるなら、もうちょっと自主トレ数を増やしていこうって気にすらなる。諸々他のことでも、ちょっと構造化して整理しておきたいってときに、これがあるおかげでちょっと構造化して整理しておくことが増えた。ツールのパワーって、すごい。

結局、思ったことをぼやんとしたまま脳内イメージに留めてしまうと、全然トレーニングになっていないし、脳内の生産活動になっていないんだよなと、今回書き起こしてみて、すごく思った。きちんと言語化して、構造化して、精緻化するってことをやらないと筋力にならないのだ。

今回は作り込んだと言えるほどじゃないけれど、自主トレとしては良い頭の運動になった。今後は「おっ」と思うネタに出会ったら、もっとフットワーク軽く自主トレしていこうと思う。

追伸:
研修で教えられる講師は社内にいるんだけど、適当なトレーニング課題がないとか、実案件ベースで課題を作ろうとすると、案件の背景事情が複雑すぎて課題想定がややこしくなっちゃって、受講者のスキル習得にちょうどよい&興味をもってやってみようと思えるサイズの演習ができない。

…とかで結局、講義形式で方法論とか事例共有とかする研修に終始しているといったお悩みがあれば、そういう現場の力にこそなれたらなぁという思いが常々ありますので、課題づくりとかテストづくりとかで何か手伝えそうなことがあれば、ぜひお声がけくださいませ。ニッチすぎて、そんな働きに市場はないかもしれませんが…。

2019-02-22

春風ふいて、淡々と

今週は、しばらく待ち状態にあった案件が、まとまって動き出した。

私は一つのことが起こると、それと他との関連性や、それを包含する全体の動きに想いを馳せるほうで(なんだそりゃ)、火曜にお客さんから連絡が入ったときは「おぉ、これは他の待ち案件も動き出すか⁈」と、やっぱり思ってしまった。

が、そういう自分の思考のクセは重々承知しており、仕事場面では根拠のない関連づけや拡大解釈に自制を働かせるクセもある程度ついているので、早合点を退け、居住まいを正し、連絡をくださったお客さんの対応を静々と進めた。

すると木曜に、提案を出していた別のお客さんから連絡がやってきた。再び「ほれ、やっぱりいい風吹いてるんじゃないの?」と、まずは思ってしまう。一旦そう思っちゃうくらいは、まぁいいじゃないか。

2社とも、こちらの出し物を提示してから、そこそこ期間が空いていたので、音信不通のしばらくは「あぁ期待に応えられなかったのかなぁ」と最悪の評価を想定範囲内に入れて過ごしていた。限りなく最悪の事態を想定範囲内に入れておくのが、ディレクターの務めである。

まぁでも、今の自分の精一杯を出して提示していたから悔いもなく、それが役立たないなら、そりゃもう力及ばずってことで仕方ないと腹はくくれており、「自分の力量に対する評価を正面から受け止めて、今の自分が役立てることをやりながら、コツコツできることを増やしていくほかあるまい」と、他の案件にあたりながら静かな心で暮らしていたところ、やってきた反応が2つとも良好なもの。うぉっと両手で受け止めて、まずは胸をなでおろした。

それにしても、何の関係もない2社から同じ週にまとまって反応があるなんて、やっぱり今週は物事が動き出す風が吹いているのではーと、私の中の小人Aが軽やかに歌う。

すると、小人Bが淡々と説き伏せる。いやいや、どちらも年末年始で期が変わる会社でしょ、年末から年始にかけてこちらが提示したものを、先方が社内でもんで、上層部の決裁を取りつけて1月末。2月から具体的な今期の活動を計画して外部に連絡をとりだすと、2月半ばの今週にまとまって連絡がやってくるって、いたって普通でしょう、風とかそういうの関係ないでしょう。

そんなAとBのやりとりを微笑ましくみている小人Cというのもいて、どっちかねぇ、どっちとも言えないねえ、でもまぁ一つの思いこみで凝り固まるより、解釈はいろいろあったほうが健全よね。偶然か必然かなんてのも、同じ対象を指して、人が自分の都合にあわせて名前つけかえてるだけでしょう。なんて言いながら、何はともあれ、いい形でいろいろサポートしていけるといいよねぇなどとお茶をすする。

その間にも小人Aには、「でも、これで明日もう一つ別のお客さんから連絡が入ったら、ちょっとおもしろいよねぇ」という頭がある。それが今日のお昼に本当に起こって、また別のお客さんから連絡があった。こちらも年始にやりとりして、先方社内での検討を待っていた案件だ。

なんだかんだ3つも1週間にまとまって、向こうボールが戻ってきた。この集中を、どう解釈するかって、こんなだらだら書き連ねているわりに、これといった本命の解釈をもっておらず、一つひとつ、いい仕事ができるといいなぁ、頑張らないとなぁという金曜の晩の着地なのだけど。とにかく今週は、わぁっと春風がふいて、空気が動いて、新しいタームが始まったような感じ。そこを淡々と歩いていく。

ワークショップ冒頭に参加者が全員に自己紹介することの考察

「私はワークショップの序盤に参加者全員に自己紹介をしてもらっています」から始まる長谷川恭久さんのブログを興味深く読んだ。こうした時間を冒頭に設けることの意義について、ここに挙げられているポイントはいずれも、私も深く賛同するところ。興味のある方はリンク先の「ワークショップをするときに自己紹介の時間を多く費やす理由」でご一読いただくとして、下に書き連ねるのは、これを読んだ後に自分があれこれ考えたことのメモ。

私も参加者が10名程度までであれば、必要に応じて参加者に自己紹介してもらう時間を入れたりする(私の場合は裏方が専門なので、講師は別にいて、こういうワークショップの構造を設計するという立ち回りが多いけれど)。けれど、「30人前後参加するイベント」でも全員の自己紹介タイムを組み込むというのは、なかなかやらない選択だ。

全体で何時間使えるうちの「20分以上とる」かによってもインパクトが全く変わってくるので、午前に始まって夕方までやるような終日イベントであればありかなとも思うし、参加者同士が初対面のイベントであれば、ネットワーキングの価値も高いとみればありよなぁという気もする。

長谷川さんが今回言及しているのは、このような参加者初対面イベントであることが窺える。一方で私の場合、一社向けの研修を提供する立場でワークショップの構造を組むことが多い。

そうすると、参加者同士はよく知る仲であって、自己紹介タイムを設けるとなると「講師が受講者を把握するためのもの」という意味づけが強まる。それだったら事前にヒアリングして受講者分析しておいて、講師にもあらかじめ整理して共有しておくのが裏方たる私の仕事だろうよという考えになる。受講者も本編に時間を割いてほしいと考える人が多くなるだろう。「講師ではなく参加者同士が、互いの自己紹介を必要としている状態か」というのは、一つのポイントになるだろうなと思った。

もちろん、参加者が互いに知っているつもりでも、実際はそれぞれの仕事について理解が浅いこともあるので、社員研修といえど自己紹介タイムをもつことが有意義なケースもあると思う、その辺は目的次第だし、伝え方次第だ。

長谷川さんの場合、表方も裏方もなく、ご自身で全部をやるのが常という違いもあるだろうし、本人から直接に話してもらうことで得られる情報は、間に人が入ってまとめたものとは違う情報の鮮度や濃度をもっているから、それも優先順位をみての時間配分ということになってくるだろう。

いろんな職場から希望者が集まったイベントということになると、参加者のアイスブレイク的にも、全体で「互いの文脈を共有する」という観点でも、全員に向けて自己紹介しあうことの有用性は高そうだ。また、イベントの当日までに、あらかじめ参加者の情報を詳細には得難いという事情もある。

私が手がけている社員研修案件だと、その組織の職種の定義や、現場の役割分担の実際、それぞれが担う職務や責任範囲、具体的な成果物あたりは、事前に現場マネージャーにヒアリングしておいて、講師にも共有しておくのが常。

その上で当日の冒頭でアイスブレイクを設けるなら、自己紹介のもう一歩先にフォーカスして、今回の研修で学習するテーマに関連するところで自分がどういうことをしているかとか、それにあたっての悩みや気になっていることをざっくばらんに話してもらうとか、そういう展開になる。

そして、その他諸々の優先順位を考慮して研修全体で使える時間を配分すると、参加者30人規模の場合は大方、アイスブレイク部分は数グループに分かれて少人数で話してもらうアプローチをとるだろうと思う。

最近読んだ本(*1)で、グループに小分けして自己紹介するということでは着地点が一緒ながら、その理由において別の視点が提示されているものがあった。ここでは「グループ内など少人数での自己紹介」を推奨し、「全員の前で1人ずつの自己紹介」をNG例として挙げていて、その理由にちょっとはっとさせられた。

全員の前で1人ずつ自己紹介を行うのは、とても緊張感の高いアクティビティです。過度なストレスや緊張状態を和らげるには逆効果と言えるでしょう。また、参加者は自分の話すことを考えるため、ほかの人の自己紹介を聞く余裕がなく、結果として自己紹介を行っても情報共有という観点からは効果が薄くなります。

この部分って、講師をよくする方や、私のように裏方でも前説なりなんだりで、人前に立つこと自体はけっこうやっている人にとって死角になりがちで、経験を積むほど考慮しづらくなる観点かもなぁと思ったのだ。

私の場合、人前で話す能力は決して高いわけではなく、本当にただ人前で話す機会がそこそこあるというだけだけど、いかにうまく伝えられるかという点では相変わらず緊張するものの、人前で話すこと自体に緊張を覚えることはあまりなくなった(相手にもよるが…)。

でも小学生の頃なんかは、数十人の同級生がいる教室の中で発言するだけでも過度な緊張をよくしたもの。顔が赤くなって、手に汗をかいて、そういえば「赤面症」という言葉を、小さい頃はよく使っていたよなって懐かしく思い出した。

つまり、これは慣れの問題ってことで、人前で話す機会が少ない仕事や生活スタイルの人にとっては年齢問わず、人前で話すということに、けっこうな抵抗感を覚える人があるかもしれない。過度なストレスがかかり、緊張状態に陥るということもあるかもしれないという点は、だから全員向けの自己紹介を止めるかどうかを別にして目配せしておきたいところ。

この観点でいうと、社員研修のほうが、そこそこ知り合っている間柄ということでは緊張もほどほどで済むかもしれない。参加者同士が初対面のイベントのほうが緊張を強いられるかも。あるいは強制参加の研修より、自分でエントリーしたイベント参加者のほうが、その場で発言することに前向きな傾向って見方もあるかもなぁ。

また過度な緊張はなかったとしても、何を話そうか…と考えをめぐらせているうちに順番がまわってきて、順番が遅い人なんかは、他の人の自己紹介をほとんど聴けずじまいということもありそうではある。

では、そんな緊張は与えてはならぬものかというと、それも決して答えは一つじゃない。学習活動と緊張度の度合いを示した「ヤーキーズ・ドッドソンの法則」(*2)を振り返ってみる。

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図のとおり、横軸に覚醒レベル(緊張度)、縦軸にパフォーマンスレベルをとっていて、難しい課題にあたるには、「緊張度が低くてもダメだが、高すぎてもダメ。ほどよい緊張感が最大のパフォーマンスを発揮できるのであって、過度な緊張感を与えては逆効果になる」という話だ。

ただ、単純な課題であれば話は別。緊張感が増しても、パフォーマンスは下がらない。取り組む課題が簡単な場合は、多少ぎくしゃくしても何とかなるものだし、むしろ緊張感が足りずに気が緩んでミスをしでかすほうにリスクがある。

さて、じゃあ「冒頭で自己紹介してもらう」課題は、単純なのか、難しいのか。過度な緊張となるのかどうなのか。これはもう相手次第だ。

大人の勉強会ということになると、多くの場合、そこはほどよい緊張感をもって乗り越えよう!というレベルの課題設定とは言えそう。そう無茶を言っているわけではない。でもまぁ、ケースバイケースだ。

つまるところ、やり方は固定ではない。これは何のためにやるのであって、その会終了時点のゴールはどこまでで、集まっている人たちはどういう人たちで、時間や空間などの実施条件を照らし合わせると何が一番いいかという視点をあわせもって、今回はこうしようという最適解を都度決める。

そのとき、いろんな人の緊張のもち方に意識を向けて考えたいし、そこにいる人たちにとって適切な難易度の課題設定を導きたいし、何が参加者にとってより有意義で、能率的で、のめりこめるかというのを軸に据えて、丁寧に構造づくりしていけるように目を肥やし、知識を活かしていかねばと考えたりした。

*1: 中村文子、ボブ・パイク「研修デザインハンドブック」(日本能率協会マネジメントセンター)
*2: Yerkes and Dodson 1908 [CC0]

2019-02-19

歩くペースで本を読む

私は本を読むのが、めっぽう遅い。ただ、本を読んでいる時間は好きだ。なので読書には、そこそこ時間を割いている(読書時間のわりに、あきれるほど読んでいる本の数が少ないということになる)。

本を読んでいるとき独特の、あの感じは、どう表現したらいいのだろう。というのは、ときどき考えることだ。ちなみに、ここで「本」とは、紙に印刷された書籍をざっくりイメージしている。

デジタルメディアに取って代わられたり、映像や音声メディアに全面的に移行したら困ることって何なんだろうか。逆に言えば、本というメディアのどんな特性が引き継がれるなら、従来の「本」という媒体が、デジタルメディアや映像・音声メディアに形を変えても、さしたる損失はないのだろうか。

それが最近、「こういうことかもなぁ」と合点がいくような一節に出会った。なんとなく気分転換に買ってみた苅谷剛彦さんの「知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ」*の中にあった。

本を通じて得られるものは、知識、情報、教養、楽しみ、興奮、感動など、いろいろあるけれど、そういうものはどれも本でなくとも得られると前置きをした上で、

それでも本でなければ得られないものは何か。それは、知識の獲得の過程を通じて、じっくり考える機会を得ることにある─つまり、考える力を養うための情報や知識との格闘の時間を与えてくれるということだと私は思います。

本を読むのが遅い私には、とりわけ、この「じっくり考える機会を得ることにある」という本の特性の表しようが、染み入るように本質的に感じられた。心にやさしく響いた。

苅谷さんは「受け手のペースに合わせて、メッセージを追っていくことができ」る、とも書いている。文章を行ったり来たりできるし、斜め読みもできる、一足飛びに別の章を開くこともできるし、途中で放り出すこともできると。

確かに、自分が意識を閉ざした瞬間に、ぱっと本から自分の脳内への情報の流れが止まる。これは、どんどんお話が進んでいく映像や音声メディアにはないことだなと思う。自分と本の関係って、自分主導&手動でいかようにも、かなり感覚的に瞬時に操作できる感じがある。

私の大好きなラジオも、映像メディアに比べると、こうした自在性が高いメディアだと思うのだけど、「意識を他へ向けたかったら、スパッと遮断できる」切り離し自在性の高さがラジオだとしたら、本というのは、「本の中身に意識を向けたまま、それについて深堀りしたり、少し離れた所からみてみたり、別の角度からみてみたり」そのテーマであれこれじっくり考えられる自在性が高いように感じられる。

活字メディアの場合、読み手が自分のペースで、文章を行ったり来たりしながら、「行間を読んだり」「論の進め方をたどったり」することができるのです。いい換えれば、他のメディアに比べて、時間のかけかたが自由であるということです。

立ち止まってじっくり考えることもできるし、もっともらしいせりふを十分吟味しないまま納得してしまわずに疑ってかかることもできるし、これまで読んできたところを読み返して、この著者がこれから何をいおうとしているのか予想を立てることもできる、そうした余裕がある、と説く。

これは電車や車、自転車などの乗り物を使わず、自分の足で歩いているときの自在感に近しい。立ち止まりたければ、すぐ立ち止まれる。目に止まった何かに近寄りたければ、すぐ体をそれに近寄せられる。

歩くペースで本を読む。道草しながら、ゆっくり読む。それでいいじゃないか、それしかできないし、そういうふうに読んでいこうと、まぁもうずいぶん前から開き直ってはいたのだけど、これを読んで救われたような、許されたような気持ちになった。

…のと、映像や音声メディアと活字メディアでは、やはりそれぞれに独自の魅力があるから共存していったほうがいいよなと思う一方、紙メディアかデジタルメディアかということでいうと、デジタルに移行しようと、ここで挙げた性質は確保できるかなと思った。

慣れの問題はあるけれど、じっくり考える機会を得ること、時間のかけかたの自由を確保することは、デジタルメディアでもできるかなと。あとは、読むデジタルデバイス&メディアに「文章を行ったり来たりできる」「一足飛びに別の章を開くこともできる」あたりの自由が紙レベルで利くといいのだけど。

*苅谷剛彦「知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ」(講談社)

2019-02-11

母の命日、あれから8年

昨日は母の命日だった。あの日から、まる8年経った。もう8年も会っていない。声も、聴いていない。久しぶりに、亡くなるひと月ほど前に撮った写真を見てみたが、歳とっていないんだな。あのときのまま、きれいで、やさしい顔をしていた。

今年はなんでだか、命日の数週間前から何度か、母が私の夢に登場した。私はあまり夢をみる(憶えている)ほうではないけれど、このところはちょこちょこ夢をみた。ウイルス性胃腸炎にかかって、そのうち数日はよく寝ていたこともあるだろうけれど…。

胃腸炎にかかる前、だから2週間ほど前にみた夢は、今でも描かれていた風景を思い出せるし、思い出す。私がみる夢にしては、ずいぶんと彩り豊かで、その着色はディズニー映画のようだった。「ファインディング・ニモ」が住んでいそうな青々とした海が、えんえんと遠くまで広がっていて、きらきらしていた。

私はどこかの島にいたのか、陸のほうから海に視線を向けていると、海の際からオットセイのような生き物が数頭、顔を出して、こちらに視線を向けてきた。大きいのと、子どものと、家族らしき何頭かがみんなこっちを向いて、雰囲気でいうと笑顔だった。

海面から急に顔を出したので、私は「おっ」と思って、そちらに目を向け顔を合わせた。彼らの背景に目をやると、40〜50メートルくらい先の海底まで、ぜんぶが透き通って見えた。一面ブルーの世界で、とにかく美しく、開放的なところだった。

そこから、ぽんと話はとんで、いや、とんでいないかもしれないが、絵が変わった。私は自分の家族と一緒にいた。さっきまでの絵をディズニー映画の人が担当していたとしたら、雰囲気が変わって今度は「ドラえもん」の人が担当しているような絵とアニメーションになった。

まさに「ドラえもん」に出てきそうなミニ潜水艦のような乗り物に、ぽんと飛び乗ると、一気にみんなの体が小さくそれに収まって、その乗り物は宙に飛び上がったかと思うと、きれいな水面に勢いよく飛び込んでいく。昔、家族旅行でボートに乗って川下りしたときの風景を思い出した。

というところで夢は終わった。人が読んでも、え、だから?という話だが、その風景と、色合い、ものの動きのコミカルさのようなものが頭に残っている。頭にあるうちに、とりあえずスケッチしておく。

あれは、久しぶりの家族旅行の夢ということだったのかしら。私たちが子どもの頃は、盆暮れ正月、少し長い休みがあると、たいてい旅行に出かけた。宿の手配、車の運転、旅の計画、なんでも母がやっていた。おんぶにだっこだったな。

うちは父も母も、「子どもの人生は、子どもの人生」と、親と子の人生を同一視せずに別人格として扱うのを当然としている感じで育ててもらった。でも、そんなこと一度も、「そう考えて育てています」なんて教育方針を語られたこともないから、大人になるまで、その貴重さやありがたさに気づかなかった。

大人になって、友人や知人から親とのあれこれに苦労した話を聴いたり、ニュースで取り上げられる親子間の問題にふれると、決してそれが当たり前ではないことがわかってきた。

うちは、私の人生について、こうしなさいとか、こうしてほしいとか言ってくることがなかったように思うし、無言のうちに「自分の人生でできなかったことをもって、親が自分にのしかかってくる」ようなことが何もなかった。

親がどれだけ意識的に、どれだけ半ば無意識にそうしていたのかはわからない。いずれにしても、自分の親の「育て方ポリシー」のようなものが私の中に意識化される機会が最近は多くあり、そのたびに、ははぁと頭を垂れるのだった。

この三連休は土曜と月曜に雪が降ったが、中日の日曜だけは晴れて、私は父と兄と一緒に、母のお墓参りにでかけた。今回は、チューリップの花束を贈った。稲の緑がきいている。

2019-02-06

「ここはスマホ禁止」の再考

ある朝のプールあがり、フィットネスクラブのロッカールームで、スマホの写真をめくりめくり眺めている女の子がいた。丸椅子に腰掛けてのんびりと、私のロッカーのすぐ隣りでやっていた。

どうしようかなぁと迷ったのだけれど、無防備なところを攻撃的なおばさまにいきなり雷落とされるよりは(そういうリスクを伴う行為)…と思い、意を決して声をかけた。

これ以上ないというくらい“さりげない”声の調子と視線と表情を整えて、「あの、ここスマホ禁止なんですよ」と一言。すると、向こうから「え、そうなんですか!」と、驚きの表情が返ってきた。

え、そんな驚くことか!?と、少々こちらも驚く。が、このシーンは“さりげなさ”が肝なので、表情そのままに「えぇ」と穏やかな返事をして会話を終え、私は自分のロッカーに向き直った。

そそくさとスマホをしまう彼女。私はその隣りで、「もう全然気にしていませんから、ちょっと声をかけただけで、もう自分の時間に戻って支度に専念していますから、後ひきずらずに」という風情を装って(心中はだいぶ騒がしい…)、静かに着替えをして表に出てきた。

そこからである。あの驚きように、後ひきずったのは私のほうだ。不安になって、まず帰るときにロッカールーム内の「スマホ禁止マーク」を探してしまった(確かにあって安堵した)。

私のような「携帯なし→携帯→スマホ」時代を渡り歩いてきた年代にとっては、なんとなく「このスペースはスマホ禁止じゃないの?」って感覚が働きやすいと思うんだけど、もしかすると「いきなりスマホ」な若い世代にとっては、そんなことないのかもしれない。

世の中に「スマホ禁止」のスペースがわりとちょこちょこあるということ自体が認知されていなかったり、認知されているとしても納得いかなかったりすることがあるのかもなぁと思ったのだ。

納得いかないってほうを掘り下げてみると、確かに今の時代、スマホと人間が一体化して事を為していることは多く、使えないと困ることも多い。メモをとりたい、記録を見返したい、何かを調べたい、ちょっとしたことにスマホを取り出して、ほとんど体の一部のように使っていることは多い。

これが使えないスペースが日常シーンの至るところにあっては、都合が悪い。ということで、改めて「なぜロッカールームでスマホ使用全般が禁止されているのか」を考えてみたけれど、とくに「○○のため」という具体的な理由は、そこでは周知されていない気がする。

電話の長話は、まぁ気分的には「外でやってくれ」という感じはある。携帯の操作も長いことやるなら「表でやったら?」という感じはある。要は、「ここはそういうスペースではないので、目的外で長居しないでください」というのは、決して広々したスペースではない以上、理由の一つかもしれない。混雑度にもよるが。でも、これなら「ちょっとならいいじゃない」ということになる。

あるいは、スマホは多機能なので、「人が全裸になるようなところでカメラを持ち出さないでください。誤作動で写真でも撮れちゃったらどうするんですか」っていうリスク回避の線もある。こういうところでカメラ付きのデバイスなど表に持ち出さないのがエチケットだろうと。

となると、一般にスマホ使用を禁止されるようなスペースでも使える、スマホから一部都合の悪い機能をなくしたネット端末というのも、うまくすれば売れるプロダクトになるのかなぁと思ったりする。ロッカールームでも、スマートウォッチなら使っても良さそうである。

ともあれ、もともと国や地域によって常識が違いそうな「スマホ使用の取り決め」というのは、時代変化にあわせても各所でアップデートしていく必要があるのかもと思った。「ここは本当に、スマホ使用禁止でいいのか?」と。通話を禁止にするのか、使用全般を禁止にするのか、持ち込みを禁止にするのか、という分けようもある。

というのも、スマホ禁止にするというのは、「これより先は、一部の脳を置いてからお入りください」というに近しい特別感が出てきつつあると思うからだ。今やスマホは、人間の「補助脳」の一種とも言われている。(*)

美術館で見た絵画は写真に撮ると記憶に残りにくい。脳は画像をデジタル端末に保存したと考えるらしい。

私はあまり写真を撮らない人間だが、なんとなくわかる気がする。気に入った本の一節でも、どこかに書き留めるとそれで安心してしまって脳みそには刻まれない、それと同じ感覚だ。「記録すると、記憶に残りにくい」という、我が身を振り返ると“あるある”な体験を、これを読んで再認識したのだった…。

ともあれ、こうしてスマホが身体化していくさなかでは、「スマホ禁止」の重みも増していくばかりなわけで、記録もとれないし、一部の記憶もたどれない不自由を与えるからには相応の理由も求められてくる。ネット端末と共生する時代に「ここでのスマホ使用をどう扱うか」というのは、各所で今一度見直してみる必要があるのかもと思った次第。今後はもっと適材適所なIoT端末が出てきて、うまいこと使い分けていくのかもしれないけれど。

あとやっぱり、自分の体内をどう経由させて脳内の長期記憶と外部の記録装置にふりわけていくのかってことには慎重でありたい。一切合切、外部の記憶装置に流し込んで楽ちんになっても、自分の中身が薄っぺらでは意味がない。自分の感覚器や直観を通じて得られる味わいを丁寧に受け取って、今ここで自分が考えること、思うこと、感じることを手放さず、より豊かな思考と感情を獲得するのに新しいツールを取り入れていけるのが理想だが…。なかなか、むつかしそうである。

*アーリック・ボーザー「Learn Better 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ」(英治出版)

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