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2017-08-19

批判も法なら、共感も

「クリティカル・シンキング」とか「批判的思考」とかが大事と説かれて久しいけれど、それ一辺倒では、これまたバランスが悪いんだよな。今読んでいる「逝きし世の面影」(*1)の中の一節に目がとまって、そんなことを思った。

共感は批判におとらず理解の最良の方法である

ふむむーと味わった。なにか対象を批判的に捉えてみるって、確かに大事なアプローチなんだけど、それだけだと片手落ち感がある。

批判的に見たら、あとで反対側にまわって、それに気持ちを寄せて見直してみる。まず共感をもったら、あとで反対側にまわって、それと距離をとって批判的にも見直してみる。片方だけ思い切りやって理解した気になってしまうのは怖い。視野が狭まって大事なことを見落としたり誤解してしまっているのに、それに気づけなさそうで怖い。

道標はきっと、自分はそれを理解したいのだという認識。共感も批判もゴールではなくて、私はそれを手段にして、対象の理解に向かっているのだ。そこを見失わなければ、途中で迷っても戻ってこられそう。「批判も共感も、どちらも理解の方法」という一つの見方を、整理してもらった気がする。

そして今は世の中的に、批判より共感こそ意識的に持ち込まないと危うい感がある。

批判的思考というのは仕事場での馴染みもよく、発揮すれば「鋭い指摘だ」「かしこいね」と評価されやすい類いのスキルだ(発揮の仕方にもよるけれど)。評価されるものには、どんどん傾注していくのが人の常。

また情報過多の世の中では、自分は直接関わりをもたない”遠いもの”の情報の一面に触れる機会が多い。数が多く、一面的で、玉石混淆の情報に触れ続ければ、人は疑心暗鬼になっていく。そういう環境下にいると、情報に触れて最初に発動するのって、共感するより批判的に見るほうへと習慣づけられていくのが必然な気もする。

それに、とくに抽象的・概念的な話になると、自分と反りが合わないものの批判を表明するほうが容易く、目に見えない意味や価値を汲み取ったり、相手の背景や可能性に想像を巡らせて共感を表明するほうが難しかったりするかもなと。まぁこの辺は、気分で書いている…。

ともあれ、自分がそれを理解したくて踏み込んでいるなら、批判と同等かそれ以上の共感をもって、それを丁寧にみることを大事にしたいところ。批判と共感をして、発見できるのはきっと違う領域だ。

一方、そもそも理解したいという気がないものなら、下手にあれもこれも顔を突っ込んで批判だけ散らかしていくのは趣味じゃない。理解したいものに、ていねいに時間を使いたい。

これも先の本の中で引用されている、モース「日本人の住まい」の一節。

他国民を研究するにあたっては、もし可能ならば無色のレンズをとおして観察するようにしなくてはならない。とはいっても、この点での誤謬が避けられないものであるとするならば、せめて、眼鏡の色はばらいろでありたい。そのほうが、偏見の煤(すす)のこびりついた眼鏡よりはましであろう。民俗学(エスノロジー)の研究者は、もし公正中立の立場を取りえないというならば、当面おのれがその風俗および習慣を研究しようとしている国民に対して、好意的かつ肯定的な立場をとり過ぎているという誤謬を犯すほうが、研究戦略(ポリシー)のうえからも、ずっと有利なのである。

色眼鏡は、まずバラ色でって、おもしろい。そこからさらに、あちらこちら目線を移して行き来して、真ん中に戻ってきて、それを理解しようという一番大事な気持ちからぶれずに、共感も批判もひっくるめて、それに向き合っていたいと思った。

*1: 渡辺 京二「逝きし世の面影」(平凡社)

2017-08-15

ラッシュの郷愁

帰省ラッシュ、Uターンラッシュのニュース映像を見るのが好きだ。「お盆をふるさとや行楽地で過ごし…」と始まると、なんだか気持ちを持っていかれて毎回、高速道路、新幹線ホーム、空港の映像を見入ってしまう。

私はラジオを聴くのが常で、映像でニュースを見るのはニュースサイトで気になったものをいくつかという日々なのだけど、お盆と年末年始は必ず帰省ラッシュ、Uターンラッシュのニュース映像を選んで流してしまう。

なかでも一番好きなのは、高速道路の映像だ。上から車の行列を固定カメラがとらえているだけで、子どもたちの笑顔も、孫に手をふるおじいちゃん、おばあちゃんの姿も映らない。最も淡々としている映像なのだけど、うちは子どもの頃から連休となると、たいてい母の運転で家族旅行に出かけていたので、あの地味な映像にこそ郷愁を覚える。

朝もやの帰省ラッシュ映像にも趣きがあるし、テールランプが光るUターンラッシュ映像も味わい深い。一つひとつの旅行を鮮明に覚えているわけじゃないけど、だからこそ何度も家族とともに行き来した高速道路になじみ深さを感じてしまうのかもしれない。静かな映像に相対するからこそ、自分の内側の動きを感じやすいのかもしれない。

今となっては、それをニュースで眺めて、昔はあの中によくいたよなぁと懐かしむほうが圧倒的に多いのだけど、まれに今でも妹の運転で、父と私と3人で旅する機会をもつと、積み重なった子どもの頃の思い出と入り混じって、なんとも味わい深い時間が流れる。

昨日も、妹の帰省にあわせて、銚子のほうまで父と一緒に日帰り旅行に出かけた(妹がいるとドライブ旅行に出かけられる…)。子どもの頃は、運転席に母、助手席に父、後ろに子ども3人が並んでいたのだけど、今は運転席に妹、助手席に私、後ろに父が座る。

音はラジオ。昔はラジオのほか、母の持ち込んだカセットテープやCDを流していることも多かったけど、音楽はさすがに揺さぶりが強すぎて、まだな、どうかな、と、今のところ持ち込まずじまいでいる。

銚子に着いて、海岸線をドライブして、久しぶりにだだっ広い太平洋を見渡して、素朴な千葉の波音に聴覚を飲み込まれて。展望台にのぼったり、お刺し身食べたり、眼前に海が広がる露天風呂につかったり。

日帰りだったので、のんびりとはいかなかったけど、狙いどおり銚子方面はさほど混雑なく、車通りも人通りも少ない(というか全然いない)通りを走り抜ける時間が長くあって、いい旅だった。お天気はくもり空だったけど、雨にもほぼ降られず済んだし。

地元に帰ってくると、晩は兄一家と落ち合って食事会。孫たちに中華料理の回るテーブルを体験させたいという父の指令を受けて、近場の銀座アスターを手配。予約の電話で「回るテーブルの席を…」とお願いしておいた。甥っ子が楽しげに回していて、ミッション完了。

ちょこちょこと兄一家との食事会は開いているけど、今回は帰省中の妹も参加できて良かった。お盆中だったから、母も参加していたかもしれない。とりあえずお墓参りで会えたので、今夏は家族みんなに会えた感がある。

みんな元気に集まれるのは、身にしみて嬉しい。みんな元気で健康だったら、もう十分だという気持ちで心満たされるようになって早幾年か。この間古い友人と会ったときにも、そんな話をして、歳かねぇと笑った。足るを知るというやつですかな。

2017-08-10

手ぬぐい考

昨年に家族そろって渡英した学生時代の友人が、子どもたちを連れて一時帰国中。実家に帰ったり、再会を果たしたい友人もたくさんいるであろう過密スケジュールに、東京で私たちと会う時間を作ってくれたので、今日は会社を午前休して落ち合う。今回はみんな家族を連れて会う流れとなり、総勢12人が大集合する予定(私は単独参加だが…)。

数日前、子どもたちに何かあげられたらなぁと思い、おもちゃ、おかし、でも荷物になってもいけないしなぁと思案。さりげなく和のものを、なにか持ち帰ってもらえたらと思いついたのが、手ぬぐいだった。日本に住む他の友人たちとも久しぶりに会うので、彼女らの子どもたちにもと思って、神楽坂の「kukuli」というお店で7点の大人買い。

子どもたち、とくに男の子には、ちょっと退屈な贈り物かなと思ったけど、全部ちがう種類を用意して好きなものを選んでもらうことで軽いゲーム性を持ちこみ、どうにかならないかなと…。ピンクのコスモスとか、グリーンの梅とか、グレイの魚とか、ブルーのカモメとか、いろんな色の、いろんな絵柄。でも、どれもやさしい色で、あたたかい絵柄で、やわらかい生地(写真)

風呂敷もそうだけど、手ぬぐいも「一つの主語で、豊かな述語をもつ」和のものって感じが好きだ。何に使うの?と問われれば、なんでもええがなという、意味のふくよかな感じ。ぬぐって良し、拭いて良し、つつんで良し、巻いて良し、かけて良し、敷いて良し、かぶって良し、畳んで良し。

そして、別に何かのために働かなくても良し。ただ、つるして愛でる、さわって味わうだけでも良し。「こう使うと役立つのだ」という有用性を箇条書きで挙げきった後に、まだ語りきれていない価値が残されている気がする。有用性の枠外にあって、それ自体に内在する価値を語りそこねている気がする。そうした存在意義を感じさせるゆとりが、心地いい。

私にとっては、水泳とも仕事とも近しい感じがする。毎朝の水泳も、12年勤める会社も、個人的には、これという目標をもっていない。泳ぎが上手くなりたい、早く泳げるようになりたい、ここでキャリアを積んでこういう人間になりたい、そうした目標を全然もっていない。

ただ、泳ぐことは、それ自体が私にとって意味があることで、だから続いている。仕事も、日々やっている一つひとつのことが、私にとって意味があることをやっている。意味があると思うことをやっていると、日が経っていて、結局やり続けている状態が続く。ただ、それだけだ。そこに私の意思がある感覚は乏しく、言わば自然現象のようなものに身を任せて泳ぎ、働いているだけだなと思う。それを私は、今のところ肯定して暮らしている。

こりゃまた、前後つながっているようで(もないか)、全然つながっていない話を書いたな…。この間、目標はないのか、持ったほうがいいのではないか?と問われて、なんとなく最近考えていたことだ。引き続き、答えをこれと定めず自由に変えていく。

とりあえず、手ぬぐいは良い。薄くて、軽くて、畳むとコンパクトで、乾くのが早くて、使いこむほど馴染んで、やわらかくなって。いいなぁと思いつつ、数時間後には一枚も持たない人間になるのだけど…。それもまた良し。

2017-08-08

GameBusiness.jpにイベント記事

先日登壇させていただいたDeNAさんのイベント(*1)について、GameBusiness.jpが記事にしてくださったので、記念にここにも残しておく。こういうときの写真は、いつも耳がひょっこり出ている…。

ゲームクリエイターのステップアップに必要なものとは? 教える側・切り開く側の視点で語られたキャリアセミナー | GameBusiness.jp

参加された方のアンケートの声も後日、主催者の方に見せてもらったのだけど、「とても満足」という声が多くて心底安堵。ジタバタの事前準備が実を結んだ…。

感想コメントで、身にしみた、腑に落ちた、反省したというふうに自分ごととして受け取ってもらえた声を聴けるのは、自分の伝えようとしたことを、きちんと手渡せたのかなと思えて嬉しかった。

5時間くらい聴きたかった、自分の会社にも来てほしいといった声をもらえたのも、めちゃんこ嬉しかった。

声が聞きとりやすい、話が理解しやすかった、好感がもてたといった声も、パフォーマーとしてはぺーぺーなので、ペーペー前提のご評価ながら嬉しかった。

また一方で、理論化してこの話ができる人がいるとはびっくりした、揚げ足のとりどころのない話だった、難しい話だったけど整理されていてわかりやすかったというあたりは、構成とか演出といった、言わば自分の本業ど真ん中のところなので励みにもなりました。本当にありがとうございました。

ってここにお礼書いても大方届かないんだけど、きちんと感謝して、次へ進もう。余韻にひたらず、ありがたいご褒美はここにしまって、また身ひとつで、次へ進むのが好きだ。

*1: DeNA主催「Game Developer's Meeting」シリーズ ゲームクリエイター向けキャリア勉強会Vol.2

2017-07-26

イベント出演録というか、奥手の奥義

昨日は、DeNAさん主催「Game Developer's Meeting」シリーズのゲームクリエイター向けキャリア勉強会Vol.2に登壇。4月にVol.1でお話しさせていただいて、引き続き今回もお話しすることに。私のお題は、クリエイティブ現場の若手育成。

定員60名のところ、早々に70名様の申込みをいただいて締め切り。シリーズ展開していることで、他の回に参加した方もいれば、今回初めてGDMに参加したという方もけっこういらして、当日は大変盛況でした。

Game Developer's Meeting (GDM) ゲームクリエイター向けキャリア勉強会Vol.2
http://gdmcareer02.peatix.com/view

私の話もなんとか無事にまとまり、後半のMeetUpで交流させていただいた感じだと、まずまず好評だったよう。講演内容を肴(さかな)に、現場の皆さんの人材育成に関するお話をたくさん伺うことができて、たいそう有意義に過ごすことができました。

私はどうにも「裏方が本業」という意識が強くて、表舞台に立つときは毎度おっかなびっくりです。まぁ実際、圧倒的に自分の人生の時間を割いているのが裏方仕事っていうのもあるのですが、性格的に奥手、人見知り、引っ込み思案、臆病者、内気、出不精と、そういった言い訳言葉はつらつら浮かんでくるタチなのも、その背景にあります。

ふだん手がけているクライアントさん向けの社員研修で、講師が話す前後にちょい役で話すことはわりと頻繁にあるのですが、それはあくまで脇役、合いの手。数十分や数時間まとまった話をしてその場をリードするというのは全く別物です。ふだん講師業務はそれぞれの専門家に委託しているだけに、自分には分不相応なのではないかという思いが出てくる心の動きを止められません。

止められないものの、頭で考えると、何が本業だとか言って、自分で自分の枠組みを下手にくくるものではないということもよくわかっている。そういうふうにして、せっかくいただいた機会を無にするのは「違う」なぁと思うので、まれにお話をいただくと引き受ける。

そこで、頭が心に言い聞かせる。別に立派な人じゃなくたって、そのテーマで自分から出せるものを共有して、それがきっかけで、参加してくださった方が考えたり振り返ったり、何か持ち帰れるものがあれば、それでいいのだと。

しかも、私が話すのは「仕事の教え方」だとか「人のキャリア」だとかいう類い、絶対の「こうだ!」という答えがあるような話じゃないのだから、話題提供をして、みんなでわいわい話したことが有意義だったら、それでいいのだ、それがいいのだと。

そうやって、頭が心に説教して度胸を据わらせるわけです。心のほうは、そうか、そういうふうに考えれば、自分は脇役のまま登壇することができる、あくまで私は参加者が本編で話を深めるためのネタ提供者なのであると。これは心の落ち着きを得るのに、だいぶ効果的です。

そうして、参加者が後に交わす話のネタになるように、たとえ初対面の人同士でもすぐに「さっき講演の中で出てた、あの話さー」というところから一気に深い情報・意見交換ができるように、自分の話すことをあれこれ考えます。

それで実際イベントでお話をさせていただいた後、そういう光景が見られたり、自分も輪の中に交わっていろいろお話しさせていただけたりすると、あぁ良かったなぁと。今回もMeetUpで、皆さんが自分の育て方の悩みとか、自分はこういうふうにやっているとかって意見交換しているのをみて、また私も話に加わっていろいろお話しできて、あぁ良かったなぁと思いました。

経験を重ねても肝っ玉は小さいままで、こうした機会をいただく度、本番直前に足がつったり、身の周りの空気が薄く感じたりを繰り返しているのですが、まぁお手洗いが近くなるよりはいいのかもしれません。

それで今回やってみて思ったのは、肝っ玉が小さく奥手な人間ほど、思いきって話し手を務めちゃうと、その後の交流会でみんなと話しやすくていいなぁということ。

奥手な自分が、交流会からいきなり、その場にいる参加者の方々と関係づくりをして、意見交換を繰り広げるというのは相当に難儀です。それより最初に自分の知っていること、そのネタで共有したいこと、思いとか考えとかしゃべっちゃって、それに意見をもらえたり、それに興味ある方にお声がけいただくとか、そこから徐々におしゃべりの輪が広がっていくとか、いやぁ、ありがたすぎる…。

だからこうしていこうという教訓は何も得られない心のうちですが、今回も前回も、別のイベントで少しお話をさせていただいたときにもこれで救われて、有意義な交流をもたせていただいたので、なんとなくメモに残しました。まぁ、やっぱり基本は裏方が合っている人間なんだなぁとも毎度思いますが…。

昨晩もほくほくした気持ちで帰途に着き、ご参加者の皆さま、主催者の皆さまに、心から感謝しています。ありがとうございました。

2017-07-01

学び手と教え手を支援する、外野仕事の面白み

この7週間は、平日35日のうち研修本番が16日と詰まっていて、その準備と実施と評価で目まぐるしく働いていた。まだ研修後のスキルチェック課題の評価、7月以降の案件などあれこれ残っているけれど、ちょいと一息、久しぶりに仕事しない週末を迎えている。

いくつかの研修プログラムを並行で走らせていたのだけど、大方は完全オリジナルのオーダーメイド。一般の受託ビジネスと同じだ。与件を整理して、要件を定義して、コンセプト立ててプログラムを構成し、講義・演習を設計して教材を開発し、研修を運営して、結果を振り返って効果や課題点をレポートする。私は講師以外の裏方仕事をする。

昨今は、実務コミュニティの間で勉強会イベントが活発だ。それを教えられる人が起案して、学びたい人を集め、勉強会を開くということが、すごくやりやすくなった。参加者を募集するイベント開催支援サービスは「Peatix」とか「Connpass」とかあるし、事前に参加費や受講料を徴収することもできる。無料や、当日払いでやっているのも多い。

私は、それ自体すごくいい流れだと思っている。テクノロジーを活用して、楽に集い、教え合うことができるようになっている。だからこそ、中身を教えられるわけじゃない外野の自分が、ぽつんとそこに立ち、学習の場をデザインする立場から役立てることはなんだろうと考える。私は外野から補完したら現場が有意義なことをしたい。

そうすると、セミナー形式で伝えるだけでは成し得ない構造をいかに作り込んで、学習効果をあげられる仕組みづくりに貢献できるかということになる。与件をしっかり整理して、スコープをしっかり定義して、どう作り込んだら、学び手の実務のパフォーマンスがぐいっと上がるかを、その人たちのモチベーションや業務環境などもしっかりイメージしながら考えて作っていく。

必ずしも、そういうことを丁寧にやっていける案件ばかりではない。そういう意味で今回は、すごくそこに力を注げる案件でよかった。こういうことに柔軟に対応してくれる講師に参画していただいて、一方的に教えるのではなく、押さえるべきポイントはプチ講義した上で、鍛えたい能力に焦点を絞った課題を作り込んで、それを受講者にやってもらう。

そのアウトプットを個別に評価して、全体的に何が理解できていないのか、個別には誰が何を理解できていないのか、何を教えてどんなアドバイスをしたら、それが理解できるか、アウトプットが変わるかを整理していって、それをもとに補講プログラムを組んで講義を行ったり、みんなのアウトプットを見比べながら表現のバリエーションを学び合ってもらったり。

実際に受講者が作ったものをもとに、ここでこういうアウトプットになっているのは、こういう観点でまずくて、それはこういうことが理解できていないからなので、こういうふうに改めるとよいと、そういうステップを踏めた。

それは、ものすごく骨が折れる仕事であるけれども、それが私のやりたい丁寧な仕事であり、中身は教えられないけど、教え学ぶ構造を作る、私のような人間が骨をおってやるべき仕事なのだと思っている。

一般の勉強会では、なかなかその部分はケアするのが難しい。あるいは、現場でもそうかもしれない。自分のアウトプットに対して、自分の能力の観点から適切なフィードバックを返してくれるメンターに恵まれている人は少ないのではないか。

ワークショップは流行りでもあるけれど、必ずしも能力開発のために開催されているわけじゃないし。参加者の不足スキルを特定して、そこに焦点化して特定の知識やスキルを身につけるための演習課題を設計するのは、事前調査も必要なら、適切なネタを課題化するのも骨が折れる。

受講者がすぐにでも手がけそうな案件想定を起こすとなれば、そこで担当している案件をヒアリングして、実案件の資料を読み込んで課題に起こし直したり。そうやって学習効果性と、リアリティと、課題として適切な複雑性のチューニングとをやりくりしながら演習課題をこしらえる。それはそれで専門性も求められる。

さらに、出てきたアウトプット一つずつを見て評価して、それについて個別に評価を数字と所見コメントを起こして返していくのも大変だ。

わかる人(講師)が、ここができてないんだよなぁというのは、それをわからない人(受講者)がそのまま聞いても、何がよくないのかわからなかったりする。だから、どうできていないのかを、わからない人に伝わる言葉に翻訳していくことを、私はよくやる。

さらに、わかる人は、ここができていないという指摘をすれば、そこを意識してできるようになると思ってしまいがちだが、まだそれをできるようになっていない人からすると、その視界はまだ開通していないので、できていないことを指摘されたからといって、それができるようになる方法を同時に会得できるわけじゃない。できていないところはココ、それができるようになる方法はこう、それは別物として教えるなり、考えさせるなりのステップが必要だ。

その辺を丁寧に構造だてていく仕事は、外野のほうがやりやすいことも多い気がしていて、その辺の現場の補完機能として働ける仕事は、すごくニッチな気はするけれども、すごく面白かったり、やりがいを感じたりする。学ぶ側、教える側が一人で奮闘するよりも、学ぶ側が学びやすかったり、教える側が教えやすかったりするサポートができたら、すごく嬉しい。

私の仕事はそういう小さな仕事の集合体でできているのだけど、人からみれば、ささやかすぎるちょこまかした働きでも、私は私の仕事が楽しい。今の環境がいつまで維持されるかわからないけれど、許されているうちは頑張っていたい。

2017-06-26

仕事は人のため

久しぶりにブログを書きつけている。前の話が「忙しいよー」という話で、それからもずっと「忙しいよー」の日々だった。朝7時過ぎからあれこれやり出して、週に2〜3日は朝から研修を納めにいき、帰ってくると研修を作ったり、演習課題を作ったり、課題の評価をまとめたり、提案書や設計書やレポートを作ったり、それをもってプレゼンやレビューや打ち合わせに行ったりして夜が更ける。ゴールデンウィーク明けから昨日まで、ほぼほぼ休みなく仕事に明け暮れていて、気がついたら6月も最終週である。

今9割がた我が身を捧げているクライアントさんは、当初は6月までに全部!という案件だったけど、おおもとの案件を走らせている間に、中堅向けも、役員向けも、子会社向けも、研修後のスキルチェックも…と、いろいろ別件のご相談をいただいて、一つひとつ提案しているうち、7月以降も継続してサポートさせていただく感じに。なので、7月に入っても、呑めや歌えやという感じにはならなさそうだ(いや、もともとそういうキャラじゃないけど)。

とはいえ、ここんとこの土日なし、平日も遅くまで働きづくめみたいな日々は、昨日をもってちょいと落ち着いた気がしないでもない(けど油断大敵なので、気ははったまま)。5、6月よりは、いくらか穏やかにいけるかもしれない見通し。朝プールも再開できそうだ。

さて、こうして働きづくめでしばらく仕事している中で、自分にとっての仕事っていうものが、すごくシンプルに見えた。やりたい仕事を長くやらせてもらっているので、もともと私にとっての仕事は相当シンプルに位置づけられていたのだけど、このもみくちゃ状態を駆け抜けながら最近ぽつんと思ったのは、仕事は人のためにやるという、私にとっての当たり前だった。

「人は何のために仕事するのか」という問いを立てて、「自己実現」とか「生計を立てるため」とかいう論争を展開したいわけじゃない。人は人。何か掲げたければ掲げればいいし、掲げたくなければ掲げなくていい。そういうのに巻き込まれる系の話じゃなくて、私にとっての仕事の話だ。

あれやこれや、仕事するメリットとかはもう置いておいて、もっとプリミティブで、もっと大前提にあるもの。「人のために仕事する」っていうのが自然で、素朴で、自分にフィットして、もうそれで十分というか。

もちろん、それは、とはいえ体を壊さない程度のバランスをとってやれているとか、会社がきちんとお給料を毎月くれて安定的に生活できているとか、やりたい仕事をやらせてもらえているとか、そういう前提があって思えていることだと思うんだけど。

ただ、仕事の過程や結果を通じて、自分のスキルが上がるかとか、会社から特別な評価をされることに主眼を置いて仕事しているわけじゃないし、できるだけそういう説明に時間を費やさず、お客さんのために働く時間に仕事時間をあてたい。

相談くださったクライアントさんの役に立ったら嬉しいし、そのクライアントさんが果たす社会的役割が社会の誰かの役に立ったら嬉しい。そして、参加した一人ひとりが、それに対する興味・知識・スキル・経験値を高めて、その人のキャリア形成に良い風を送れたら、こんなに嬉しいことはない。

自分の仕事が、社会の利益や組織の事業と、個人のキャリアの両立に貢献するなら、こんなにありがたいことはない。私の仕事観は、そういうもんだなと、なんかすごくすっきりと心のうちに感じとれて、今の仕事、そういう働き方を許してくれている今の職場環境をすごくありがたく思った。

私も20代の頃は、もっと専門的に人のキャリアをサポートできるようになりたいとか、キャリアカウンセラーの資格を取ろうとか、自分の側に目を向けて仕事との関係を考えていた時期が多少はあった気がするんだけど、今はお客さんが叶えたいことや抱えている問題に目を向けて、その人のために自分ができることをやれるだけするというだけになって、すっきり自然体、すごく楽である。

2017-05-18

余生ではなかった

ゴールデンウィーク後半は喫茶店をはしごしながら、カズオ・イシグロの「日の名残り」に読みふけっていて、ほとんど英国の執事と二人きりだった。スティーブンスが「〜ではありますまい」とか言いながら執事のなんたるかをひとり語りするのに、静かに耳を傾け(実際は読んでいたのだけど)、だいぶくったりと過ごしていた。

自分の社会的役割など「喫茶店の客」以外の何者でもないと余生感漂いまくっていたのだけど、あの日々も遠い昔となり、連休があけた初日からなかなか忙しい。

毎日3、4点作っては納品、作っては納品の日々(私が作るのはドキュメントだけど)。また、ここのところ数日にいっぺんのペースでお客さんが新たな相談をくださるので、それのヒアリングから提案作りの仕事も加わって、週ごとに案件が増え続けている。

週末は他のお客さんの調べ物をしたり提案書や教材を作ったりしていて、あっという間のような、いつもより長いような濃厚な一週間を過ごしている。一週間が7日あるって、すばらしい。

4月半ば頃からにわかに忙しくなって、以来社内にいるときはほとんど集中が途切れることがない。それはそれで、なかなか爽快である。もともと寡黙に働くタチなので、従来とあまり変化はないのだけど、それにしたって…という感じで、席に座っているときは、ほぼずっと自分の頭の中に居る感じだ。

一方で、席を立つと、フロア内を移動しているときなど、わりと空っぽである。お手洗いに向かっているときとか、お昼を買いにいくときとか。お手洗いで歯を磨いているときなど、本当に何も考えていない。

ただ、急いでいる。席に戻ったらあれをやらなきゃ、あれをやったら今度あれをやらなきゃ、という頭があるから、社内にいるときは基本的に余裕がない。複合機で印刷して戻ってくるときなど、ときどき小走りでさえある。

表に出たときも、道を歩いているときというのは、ものすごいすっからかんだ。だいたい何も考えていない。ほぼ何者でもなく「街を歩く人」でしかない。

ただ、電車に乗ると、考え出す。客先に向かうとき、その帰り道も、これから打ち合わせで話すことの要旨とか、打ち合わせを受けてこの先どういう段取りで進めようかとかを具体的に考えたり、メモをとったりしている。

日に何度かは、まるで「街を歩く人」になりに行くように表に出る。ノートをもって会社の近所に行き、その道中で「街を歩く人」をやる。それを挟んでから、近所であれこれノートに書きとめて、また、「街を歩く人」を挟んでから会社の席につくと、ことが一歩二歩とスムーズに進む。

これまで、近所でノートに向かうと、ことが一歩二歩進むと思っていたのだけど、近所に向かう途中で「ただの人」をやるから、ことが一歩二歩進むのかもしれないな、とも思う。プールで泳いでいるとき、お風呂に入っているとき、会社から家に帰る途中も、たいてい何も考えていない。「ただの人」だ。

だけど、空気にふれて歩いている。水にふれて泳いでいる。体は体で、なにかを外から受け取ってバランスよく生きているようだ。私にはよくわからないけど。

ともかく、まだ余生ではなかった。やることがあって、ありがたい。一つひとつ丁寧にやって、一つひとつ、やれるかぎりのことをやったなと振り返れるようにしたい。

2017-04-30

ワーホリハイ

4月半ばまで、わりと長いこと定時あがりが基本だったのだけど、半ばから一気に忙しくなった。といって午前様になるほどではないのだけど、平日22時くらいまでと土日の日中も使って、ちょうど収まる感じ。久しぶりに長い時間働いている。まだこれくらいは集中して働けるんだなと、帰りの電車で自分に感心してしまったりしている。目の前に取り組みたい課題があるとタフにやり続けられるものなんだな。

案件もA社とB社に加え、C社とD社案件も登場し、うまく時間を割りふって全部をよい感じに進行させていかねばという感じになった。と言いつつ、この一週間は平日のほとんどを一社にかかりきり。ちょっと急ぐ案件で、日ごとに話が進行しては次の提案をまとめる必要が出てくるので、客先で話を聴いては持ち帰って考えて提案書作って出して、またその日のうちに客先に行って説明して意向を聴いて、また持ち帰って別の提案書も作って出したり、役員向けにもこういう観点で説明してほしいという依頼をいただいてプレゼン資料作りこんだり。

締めくくりに金曜はおっきいビルの最上階で役員の方にプレゼン。一通り聴きおえた役員の方から、ホッとした、安心した、よろしくお願いしますと言葉をもらえたときの安堵と、この信頼にしっかり応えていかねばという緊張と混じり合って、なんか生きているなぁと感慨を覚えるプレミアムなフライデーとなった。

こんなのが日常茶飯事なわけではなく、久しぶりにいろいろ動いて、いい汗をかかせてもらっている感じだ。私は仕事以外、ほんとぼんやりと何の役にも立たない感じで暮らしているので、こうやって働ける機会をお客さんに与えてもらえるのはありがたいなぁと思う。

自分が自分の取り組みたいと思える仕事を役割にして働かせてくれる会社にも感謝だ。自分が有意義だなぁと思う仕事をして、それをやると会社が期待する役割を全うしたと思ってくれるなら、こんなにありがたい環境はない。

この一週間は家とプールと会社と客先とコンビニをぐるぐるまわっていて、へたをするとワーカホリックハイみたいな状態になりかねないなと週末、自分に警戒心。そんな罠にはまって視野が狭くなって浮足立った仕事をしたくない。外に慌ただしさのある中でも、内はできるだけ穏やかに保って、静かな目線で思慮深く構えて、お客さんにとって、いい仕事をしたい。

2017-04-23

仕事な週末、仕事な春

この週末は、ひたすら仕事。土曜日は10時半にスタート。何度か場所を変えながらペンと紙で情報整理を繰り返し、提案の中身を作ってだいたいの目処が立つと、夕方から会社の自席でPC作業に突入。23時ごろまで集中してカタカタするも、終わらなくて日曜日に続く…。

ざわざわした喫茶店から始めたのだけど、思考が集中しだすと、次第に人の話し声が音に変わっていって、いつしか聞こえなくなる。ふと我にかえると、そこそこ時間が過ぎていて、しばし紙とペンの世界に滞在していたことを知る。プールで泳いでいるときの龍宮城体験にも近い。これはなかなか贅沢な時間である。なかなか集中できない人間であるがゆえ…とも言えるが。

この一週間は、木曜のイベント登壇を控えてどきどきしつつも、メインの裏方仕事がそれはそれで大きな宿題を抱えていて、頭に汗をかきかき提案作りに勤しんでいた。

先々週に訪問したA社の提案骨子を粗く紙に書きあげて、参画してほしい方に相談して講師依頼、諸々すり合わせて承諾のご連絡をいただけると、テンションがまたぐっとあがる。この人たちと受講者をぜひとも良い形で引き合わせたい!と腕まくり。提案書の締め切りを一昨日の金曜に設定していたので、とりあえず最優先。

その先週半ば、別に引き合いいただいていたB社を訪問。腹を割ってお話しくださって2時間近く話しこむ。いろんな問題意識を聴かせてもらったので、来週末までに課題を整理してご提示しますねと持ち帰ってきて、きちんと形にして力になれたらなぁという思いを抱えたまま、ひとまずA社の提案書作成に戻る。

木曜のイベント登壇を終えてほっと一息すると、あとは今日中にA社の提案書を仕上げて提出だ!という金曜の朝、A社から状況に変更が生じたとの報。もうひと枠大きな&急ぐ相談ごとに進化したもよう。その日の夕方、直接その進化版を聴きに行くことに。

もともと作っていた提案書を午前中に仕上げ、出来たてのほやほやのそれを持参しつつ、大きくなった話のほう中心に、あれやこれや話しこむ。これもまた2時間近くに及ぶ。じゃあこうしませんか?という全体の方針とか設計図とかを可能なかぎりドキュメントに起こして、来週月曜の会議までに用意してもらえないかというので、お引き受けして客先を後にした金曜の夜。

からの週末。この感じ、久しぶりである。締め切り迫る中、お客さんに喜んでもらえる提案を模索して頭の中が活性化し、緊張と高揚と集中が入り混じったような静けさ。私的には、人の相談ごとに自分のやりたいことを作ってもらっているような仕事人生なので、これだけで十分ありがたいが、自社に貢献する上ではきちんと案件化もしないと。日曜のうちにA社の着地点をみて、B社に入っていけますように。この仕事、やっぱり春に引き合いが多いのだろうか?と今さら…。というわけで、変わらず受託仕事に励んでおります。

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