2019-06-16

粗ではなく意図を探ること

とあるHR系のイベントで、「Newsweek」最新号のリーダー論に関する記事の紹介(*1) があった。「リーダー候補の8つの目標」というリストが興味深かったと言う。

その場で8つの目標を読み上げてくださったのだが、次のように始まる。

1. 毎週、最低3冊の本を読む努力をすること。1冊は伝記もの。1冊は小説や詩など。もう1冊は、あなたが何も知らない分野に関するものであること。
2. できるだけネットではなく紙に書かれた情報源を使うこと。新聞や雑誌、そして書籍などだ。タブレットやスマホなどから離れることは、記憶力や想像力を高める上で有効だ。
3. スマホの使用時間を1日20分以下にすること。意識を分散させてしまうデジタル端末から離れれば集中力を高めることができる。

8まで続くのだが、2で一線を引き、3でドン引いた。第一印象として抱いたのは、今どきデバイスの種類で情報の質の良し悪しを語るのって古くないか?だった。

この後にも、旅先として躊躇しがちな場所を年に2か所訪問するとか、仕事上の人的ネットワークは150人を維持とか、そのうち半分は年1で直接会うとか、最低30人の知人を新しく出会った人に紹介とか、6人の世代が異なるメンターを持てとか、8つの目標が続き、うひゃーと気圧された。

これを全部して成功したリーダーの研究実績が十分あるんだとしても、これをしないで失敗したリーダーの失敗実績はどれくらいあるんだろう…とか。過去の実績上は、それが言えたとしても、紙→デジタルに媒体が移行している現代において、今&これからの若い人たちにもそれが有効だと言うのは、なかなか微妙な提言なのではないか…とか。たたみかけるように反発の声が、私の脳内を駆け巡っていった。

が、待て、待てと。この教授が、どう言うことを言いたくて、結果この具体的なリストになったのかを深掘って、まずは全容を見てみようよと、脳内で別のほうから物言いがついた。

きっと、この8つの目標の根拠が、地の文には書かれているのだろう。根拠となっている情報が何なのかとか、そもそもこの教授が何を意図してこういう発信をしているのかを汲み取ること、そこを受け取ることこそが本質じゃないかと、私の中で私が私をたしなめる。粗ではなく、意図を探ること。

それで「Newsweek」を買ってみた(電子版はたいそう読みづらいが…)。地の文を読んでみると、この8つの目標が、こういう構造で提示されていることがわかる(表をクリック or タップすると読めます)。

8

つまり、「人間の脳がもつ弱点・欠点」は〜で、「放置すると懸念される問題」が〜なので、「リーダーとして克服すべき課題」は〜で、「処方箋」としては〜があります、というふうに、地の文が構成されている。その「処方箋」に基づいて、具体策として提示されたものが、最も目を引く中央においてある図版で、ちょっと眉唾感が漂う「リーダー候補の8つの目標」 なのである。

デバイス関連の話でいうと、私たち人間は新しい刺激に弱いので、スマホの新着メッセージやニュースのアラートなどに注意を奪われがち。一日の長い時間をスマホ接触にあてて、それが習慣化しちゃうと、まとまった時間にわたって集中力を維持することが難しくなり、仕事効率が落ち、大きな問題を解決したり、自分のポテンシャルを発揮したりするのが難しくなる。創造的な仕事は、集中力が持続した結果として生まれるものだから、集中力を低下させる習慣をもつのは回避すべきだと、そういう話のようである。

集中力を低下させない使い方ができれば、スマホの接触時間が一日20分を越えようと、まぁ問題はない、とも言えるのだろう。

人の話の粗探しに意識を奪われて、そこにエネルギーと時間を割いていくのではなくて、その人が何を意図してそれを発信しているのか、そこに力点を置いて向き合っていく基本姿勢を大事にしたいと反省した一件。

とかく、最終コーナーの具体策(ここで言う「リーダー候補の8つの目標」)だけが切り出されて目に飛び込んできやすい世の中では、発信する人の意図するところ、問題視していることは何で、その根拠は何で、だからどういう課題を提示しているのか、全容を丁寧に汲み取る姿勢を大事にしたいもの。

具体策だけ目に入ってきたとき、「私は今、一部だけを摂取していて、全容を捉えきれていない」と認識し、「全容を把握しにでかけていく」行動をとるのが大事な時代なのだ。そういうことをわきまえておかないと、危ない。あっち側に、魂を売り飛ばしてはいけないのだ。

あと、一番キャッチーな具体策は、有効性が人によりけりな気がするので、提示されるものを参考程度に受け取るのが良さそうだ。実際、この8つの目標を読んで全部やり出す人がいるとしたら、その真面目さゆえに窮屈な暮らしを営んで精神をつぶしてしまわないか心配になってしまう。とりあえずやってみる素直さは、それはそれでグッドなのかもしれないが、話半分に聞いて受け取り方を自分でコントロールしたり、具体策は自分で作り出すというスタンスもグッドだと思う。

リーダーシップに長けた人にこの話をしたら、このリストを守るより、意図を汲み取るとか、あなたが反省したことの方がリーダーに必要なことだよねと笑われた。まったくだ…と思った。

*1: 「Newsweek」(2019/6/18号)「特集:米ジョージタウン大学 世界のエリートが学ぶ至高のリーダー論」:29歳のときに「全米最高の教授」の1人に選ばれた気鋭の学者、米国ジョージタウン大学教授サム・ポトリッキオ(現在37歳)の講義を再現した記事

2019-05-15

続:腰痛とフリーアドレス制導入

ゴールデンウィーク中に弱音を書きつづっていた腰痛の件は、その後持ち直している向きはあるものの、まだまだ予断を許さない状態。歩くペースは早まったものの、足早に歩くとか、重たい荷物をもって歩くとかは、なかなか厳しい。その割りに、重たいノートPCを持ち歩いてしまうこともままあって、腰の容態は日ごとに異なる。

整体クリニックには週一ペースで通い続けていて、次で4回目。腕のいい方だなと信頼して通えているものの、毎度支払う額もばかにならないので、今週あたりでストップするなりペースダウンするなり移行したいところ。あとは自然治癒でどうにかなれば嬉しい。水泳の習慣も、早く通常に戻したいけれども、とにかく焦らず着実に…。

会社のフリーアドレス制のほうはどうかというと、ゴールデンウィーク明けから予定どおり導入されて、今はみんな手探りで体に慣らしているところ、なのか、たぶん。実際のところ皆がどんな感想をもち、どんな感じで過ごしているのか、よくわかってはいない。

ゴールデンウィーク明けから今日まで、いや、この先もしばらくそうなのだけど、いついつまでに作らなきゃ!仕上げなきゃ!出さなきゃ!な提案書やら原稿やら教材やらに追われて余裕がない。「あれをやったらこれ、これが終わったらあれをやらねば…」と一人で切羽詰まっている。

居場所も、皆がいる大部屋ではなく、(うまくすれば一時的に)集中スペースっぽくなる小部屋にこもって壁に向かっていることが多いので、会社の雰囲気に疎いのは相変わらずだ。

今日は、背中越しのミーティングスペース(が、なぜかある)から、「だいたいこの集中スペースを使う人も決まってきてるよねぇ、林さんとか…」という小声が聞こえてきたので、導入2週目にしてすでに「こもり部屋の住人」認定されつつあると言えよう。

とはいえ、GW前の自分比でいうと、会社の情報がなんとなく入ってきたり、社内の人となんとなく顔を合わす機会が増えた気はする。GW前は、毎日通っているものの本当にほとんど会社との接触がないくらいの勢いだったので、いくらかここの会社員っぽさが増した気がする。

そこそこ古株ではあるものの、長いこと隅っこでひっそり仕事しているので、社内で私のことを知っている人も限られており、さらに外向けの仕事をしていて、あまり社内と絡む用事もなければ、まま自分の仕事でいっぱいいっぱいだったりするので、仕事スタイルはあまり変わらない気もするけれども、余裕が出てきたら同僚とのさりげない会話も楽しみたい…。

戦々恐々としていた「椅子」問題は、初日出勤してみたら逃げ道があって胸をなでおろした。集中スペースにある数席は、前に使っていた椅子よりいいかも?と思えるくらい座りやすいものだったのだ。

GW中は、SNSを通じてアドバイスくださった兄さま姉さまがたの知恵をかりて、椅子にあうクッションなりサポートシートを用意しようか、ノートPC画面と目線の位置合わせをするスタンドも手配しようかと物色していたのだけど、とりあえず、こもり部屋の住人と化して事なきを得ている。

大部屋にある多くの椅子はどうにも体と相性があわないので、その意味でも私は小部屋にこもるほうに流れてしまわざるをえないのだけど、ぼちぼちこの環境に慣れて、うまく活かしていきたい。いつもにまして、だいぶ日記。

2019-05-06

「寛容になろう」が生みだす不寛容

最近は「寛容になろう」とか「多様性を受け入れよう」という発信がいたるところで見られるけれど、「寛容になろう」というスローガンが、かえって不寛容を生みだしている問題というのがあって、なかなか取り扱いが難しい。

TBSラジオリスナーにはおなじみのジェーン・スーさんが出した対談本「私がオバさんになったよ」*の中で、脳科学者で医学博士の中野信子さんと話している内容が分かりやすい。二人がどんな話をしているか、ざっくりその部分を要約しちゃうと、

「寛容になる」の最善の解は「放置」。「仲良くしましょう」じゃなくて「放っておきましょう」「他人のことには口を出さないでおきましょう」なんだけど、そこを放置できないのが、ヒトの脳にある「社会性の罠」で、仲良くしようとしちゃう。そうすると同調圧力が働いてきて、みんなの和を乱したり、和から外れた人を許さないという閉鎖性が生まれる。結果的に、「寛容」になるつもりが「不寛容」になっちゃってる。仲間意識と排外意識はセット。

というような話。中野信子さんいわく、

実際、仲間意識を高めるためのホルモンをヒトに投与すると、みんなのルールに従わない者に対する攻撃が行われる。つまり、逸脱者を排除したいという気持ちも同時に高まることがわかってます。

とのこと。うん、寛容になるって、「仲良く」じゃなくて「放っておく」のほうがフィットするよなっていうのは納得感がある。わりと自分がやっていることだよなって、読んでいて安堵感も覚えた。

一方で、じゃあこれを皆が自覚して「そうですね、放置がいいですね」って一斉にそっちに振り切ったら一件落着するかというと、話はそう単純ではない。

スーさんが問題提起する。放置ってなるとそれはそれで、干渉しないものに対して人はなかなか愛着を持てない、「自己責任」と突き放しがちになる問題が出てくる。「過干渉しない」と「社会で見守り、助ける」をセットにするのは難しいねって話が展開される。

ほんとに人の世界というのは、どっちつかずのバランスをとって舵取りしていく難しさを抱えるのが常だなと思う。その難しさが面白さや豊かさも生んでいるし、ややこしさや争いも生んでいる。

私も、寛容になる訓練は望むと望まざるとに関わらず人並みにはやってきたけれど、寛容になるって、「放置する」「干渉しない」と近しいところに「期待しない」という態度もあって、あんまり振り切りすぎないで途中で踏みとどまったところに健全な立ち方があるんだろうなぁと思うことがある。

放置する態度をズンズン突き進んでいくと、人に期待しなくなる状態に通じる実感があって、そっちの際に近づきすぎるのも不健全な気がするなと警戒心がわいてくる。

たとえば、人に声をかけたら反応を返してほしいと期待する。ごく一般的なことだと思うのだけど、反応が返ってこない、無視されることが続くと、向こうには向こうの事情があるんだろうというので、苛立たずに距離をとって平静に放置することを覚える。寛容であろうとする。連絡が返ってきたら、あら嬉しいわ、くらいの感じにしちゃうのだ。

そうすると、楽は楽である。期待を裏切られて傷つかなくて済む。でも、そこに安住しだすと、何事も誰からも一切の見返りを求めない、人に期待を寄せない、自分にも期待しない、人から称賛されたいとも思わない、人との関わりを絶っていく…と、先へ先へ進んで頑なになっていく病が見え隠れしてくるのだ。例が極端かな。でも、言わばこういうこと。

寛容になろうとして、自分勝手な期待を人に向けなくなる、それはそれで、いいだろう。でも自分勝手かどうかは常に曖昧だから、境い目がわからないだけに、どんどん寛容さを突き詰めていくと、気づいたときには、あれ、これって寛容な態度であってるんだっけ?ってところに流れ着いていたりする。

途中でバランスを欠いて、何を目指して今どこに自分がいるかわからなくなり、自分の無意識下で働き出した卑屈さとか臆病さとか無知な判断に飲まれて方位磁石がおかしくなっちゃって、だいぶ遠いところまで流されてしまって…みたいなこともあるかなぁと。

まぁ、私はわりと「健全でありたい」欲求が無意識に働くめでたい性格なので、下手に頭使って理屈をこねくり回すより、そこに舵とりを任せているほうが勝手にうまい按配でバランスをとってくれて良さそうという役割分担をしているのだけど、ときどきそこの担当が体調を崩したりすると偏屈おやじ化したりするので、気をつけたいところ。

寛容と不寛容。放置、干渉、期待、見返り。現実世界では、こういう概念・コンセプトが明確に区画整理されているわけじゃない。それどころか、対立する概念とおぼしきものが入り乱れてつながっていたり表裏一体だったりするのが世の常だ。

実際には何の境い目もないぐにゃぐにゃの世界に対して、人が自分都合で名前をつけていて、勝手に名づけて使っているうちに、あれもこれも、さもこの世に人がいるいないに関わらず、もともと存在するかのように捉えてしまっていたりする。

けれど、名前も言葉も概念も、それを分かつ境界線も、どれも人ありきだし、人によっても何を認めて、どういう境界線を引っ張って、何という名前をつけて、あれとこれを区別するかって違う。自分専用のメガネをとおして、自分が指し示したい概念・コンセプトを勝手に知覚して、勝手に自分の解釈を加えているだけだ。

メガネをはずせば、そこにあるのはやっぱりぐにゃぐにゃの境い目ない世界でしかない。自分が自家製メガネをかけて見ていることを忘れずに、自分がどんなメガネをかけて、今何を目指して、どこにいるのか慎重にモニタリングし続けないと、わけがわからなくなってしまう。気づいたときには目指すところと対極に自分が立っているなんてことが簡単に起こってしまう。

抽象と具象世界を行ったり来たり、メガネをとったりはずしたり、人のを借りて見たりしながら、力まず中庸であることを大事にしていきたい。という覚え書き。

*ジェーン・スー他「私がオバさんになったよ」 (幻冬舎)

2019-05-02

「メールが美しい」という褒め言葉

新卒社員研修を提供したお客さんから、振り返りの会の後にお食事をご一緒しませんか?とお誘いいただき、先月末、先方の役員の方、人事の方、私の3人で夕食をともにした。

気さくな飲み会のような感じで、多くは人事の女性の前職の武勇伝をあれこれ聴かせてもらっておしゃべりを堪能する会だったのだけど(めちゃめちゃ面白かった)、今回の仕事のやり取りについても、いくらか話題に挙がった。

その中で、お二人から、私の書くメールがどれも美しいという謎の褒め言葉を頂戴した。メールの文面を美しいと形容されたのはたぶん初めてで、すごい嬉しかったのと同時に、どういう意味なんだろう?と、最初よく意味を汲み取れなかった。

「メールが美しいとは?」と疑問符を打ちながら、続く話を聴いていると、「特に、あのときの…」と例に挙げてくださったのが、研修の助成金について相談されたときに私が返答したメールだった。

助成金について書かれた美しいメール…。謎は深まるばかりだ。これに顕著に出ていたというのであれば、"てにをは"のことを言っているわけではなさそう。あのメールで顕著なのは…と考えてみた。

あれに顕著な特長を挙げるとすれば、自分が調べられるかぎりのことを調べて、表現できるかぎり分かりやすい表現を選んで、その会社の、その研修でどう助成金が使えそうかを、できるだけ個別具体的に絞りこんで、メールにしたためたというところだ。

この会社が今回の研修で国の助成金を使おうとした場合、どの助成金をどの範囲で使えて、どこに対象外となる落とし穴がありうるか、後から「使えなかった」「想定より低い額しかおりなかった」ということがないように、どの部分をどこに直接確認したほうが安全かとか、そういうのをできるだけ具体的に、できるだけ簡潔に、できるだけ平易な言い回しで、対面で直接説明するような流れに構成だてて、仕上げたメールである。

そのお客さんは、新卒社員研修を体系立ててやるのが今回初めてで、助成金の手続きについても手探りなことがうかがえたので、私も勉強がてら厚生労働省のサイトを調べたり、ややこしそうな所を東京労働局に電話して確認したりして整理した結果をメールにしたためた。

それが向こうに届いたとき、「美しい」という印象をもって受け取られるということが起こった。そんな化学反応があるのか…と、不思議な感じがした。

助成金のメールに顕著だったけれど、あれにかぎらず普段のメールのやり取りがどれも美しかったと、お二人に言ってもらえて、気持ちがホクホクした。決して格好よかったり華美な言葉や流麗な表現を採用しているわけではない(当たり前だけど…)、この地味な言葉の連なりに、そんな印象をもってもらえるなんて、ありがたいことだ。

メールは、考えてみると、大事に書くようにはしている。メールって、つまり、お便りである。大事なコミュニケーションが中に収められるもので、何かをわかりやすく伝達したり、教えたり、 教わったり、意識合わせしたり。

だから、これまで一切「メールを処理する」という表現を使ったことはないし、「メール対応だけで1日が終わった」とかで不毛感を覚えたこともない。そこにどれだけの意味を生み出せるかは、書き手にかかっているし、時と場合によっては、何をどう伝えるかという下準備やら推敲やらに、大変な時間がかかったりするものだろうと思っている。

私のアウトプットは、提案書とか設計書とか、メール文面とか、打ち合わせや電話での会話とか、案件途中にあって、次につないでは消えていくものが大半で、最終成果物としては世に出ないことがほとんどだけど、ときどき、こんなふうに言葉をかけてもらえることがあって、なんだか幸せなことだなぁと思う。

でも、もう一歩さがって考えてみれば、こんな地味な働きから、そんな印象を受け取って言葉をかけてくださる方の心の目とかアウトプットのほうが、ずっとずっと美しいよなぁと敬服。気分よくなって、言葉をもらうだけもらってルンルン帰ってきてしまって、まだまだである。

2019-05-01

サポートの原型にふれつつ令和時代へ

平成最後の日は、キャリアカウンセリングを引き受けていた。カウンセリングというか、キャリアカウンセラーとして、MBTIという性格検査のフィードバック・セッションを行っていた。

とある喫茶店の個室を借りて、お昼どきから夕方までの4時間、1対1で話しこんだ。前半はMBTIがどんなふうに性格をとらえるかといった解説が中心、後半はワークを取り入れながらその人の自己洞察をサポートする。

複雑な概念をわかりやすく解説するという難題がまず立ちはだかるのだけど、そこが決してゴールではなく、あくまで、その後その人にとっての発見なり整理なり、自己洞察の深まりがなくては意味がない。

なので、だいぶ知力、体力、精神力を使うのだけど、こうした時間をもつことは自分にとっても、とても豊かに感じられる。ご本人もいろいろ有益なところがあったようで、快い疲労感を覚えつつ、安堵して帰途についた。

自分が解説なりなんなりを提示した後、相手がそれを聞いて考えたこととか、思い出したこととか、これはどういうふうに解釈したらいいんだろうとか、思うところを自由に話してくれて、その受け取り方を一緒にひも解いていくやりとり、そうした時間が、すごく好きだ。

深淵な海に、ゆっくり安全確認しながら一緒に潜っていく感じ。そこに同行して、本人が自分の心の風景を見渡したり仔細に検証したりするさまを、そばでサポートする感じ。

あくまで、本人が見つける、探っていく、その力を信じて、邪魔しないように、勝手な決めつけで誘導しないように、分をわきまえながら丁寧にそばで関わり続ける、なんだかサポートの原型のように感じられる。

平成最後の日とは意図せず、こういう一日になったのだけど、なかなか良い時代の超え方だったなぁと振り返る。

その後、友人とごはんを食べ、おうちに帰ってから少し体(とくに腰)を休めていたら(つまり寝ていた…)、気づいたときには0時をまわっていて、時代が令和に移っていた。

NHKのニュースサイトで、天皇陛下の最後のおことばを拝聴して、街の声なども動画で観た。若者が渋谷や新宿に繰り出し、大きな声でカウントダウンしている。いい時代にしたいですと20代の女性が笑顔で取材に応じている。

そうした映像をみて、あぁこういう国民の笑顔をもって一つの時代の幕を下ろし、新たな時代を迎えられているのは、明仁天皇の大きな、大きなご決断(というか訴えというか)あってのことだなぁと、目頭が熱くなってしまった。最後の最後まで、国民の平和に尽くされた天皇だったなぁと、感謝の念をもって令和を迎えた。平和で、寛容で、多様性豊かな時代となりますように。

2019-04-30

腰痛とフリーアドレス制導入

腰が痛くて、たまらない。数週間前から痛みが出てきて、1週間くらい前から、だいぶひどくなった。よぼよぼとしか歩けない。先日、人生で初めて「よっこいしょういち」と言ってしまった。しかも朝起きあがるとき、一人でいるときにだ。これは相当まずい。

原因は…といって明確に1つ挙げられるものがあるわけじゃないが、そもそもの日頃の姿勢とか歩き方とかストレッチ不足とか体の硬さとかが土台となって、4月上旬に仕事で5日連続キャリーバッグを引きずって都内を行き来していたところ痛みが出てきた。

そこに、5月のゴールデンウィーク(GW)明けから会社がフリーアドレス制になるため、それ関連の対応が積み重なってのイタタタかなと思う。

会社の固定席に置いてある本を整理しなきゃいけないとなると、私物を家に送るかということになり、となると家の本棚をまず片づけなきゃいけないってことになり、家の本棚の整理&数十冊の本の処分を、4月半ばの週末に執り行った。結局、収納スペースを確保できたので会社に置いたままで良くなったのだけど…。

それから、固定席を手放すにあたって、貸与されているパソコンがデスクトップからノートPCに変わり、これもデスクワーク中の姿勢や視線が明らかに下向きになったので影響あるような気がしないでもない。

さらに、GWに入る直前は、これまで固定席に置いていた荷物の処分やら荷づくりの作業があれこれ。

GW明けからは、椅子も変わることになる。これが、私の首と腰と相性が悪く、数十分座っているだけでも体がバキバキになることがわかっている。この椅子は、もう何年も前に会社が一斉導入した椅子なのだけど、私は当時座ってみて数十分で根をあげ、古い椅子のままにさせてもらっていたのだ。

これを今回のフリーアドレス制導入で手放し、5月からは共用の椅子に座ることになる(ことに先週気がついた)。ダンボールか何か積み上げて勝手にスタンディングデスクで仕事することにするか、持ち歩けるクッション的なものでどうにかなるものか、来月に入ったら真剣に考えねばならない課題である。

ともかく、今の腰の状態は改善させてGW明けをむかえたい。というか1日も早く、この状態から脱してGWを過ごしたい。

というわけで、休みに入る前の先週半ば、前に首が痛くなったときに診てもらった整形外科に足を運んだ。

医師の診断は、「椎間板ヘルニアなどの損傷系の問題はない。腕のいいセラピストにかかれば一回の施術で治るかもしれないし、腕の悪いのだと数ヶ月かかるかもしれない」といった微妙なもの。

そこは1Fが診断する医師がいるフロア、2Fがリハビリをする理学療法士がいるフロアで体育館のような設えになっている。患者は1Fの診断の後、2Fに引き渡される。

私は食い下がる。「え、じゃあ、どなたにお願いすれば?」、すると先生「一番うまいのは誰々って副院長。だけど、彼は1ヶ月待ちとかだからね。若い奴の中でうまいのは誰々。こいつは、まぁでもうまいから、今からだとー、4人待ちだね(たぶん2時間以上待つ)。そんなに待てないってことだったら、今日のところは予約なしでとれる人にやってもらって、今日の終わりに受付で、次回の指名予約をとって帰ることもできるから」と。

この日は、会社で所属部署メンバーが集まっての期初ミーティングがあったので、2時間待ちして施術して帰るほどのんびりしているわけにもいかず、結局予約なしで割り振られた人にリハビリをお願いすることに。

これが、首のときにも面倒をみてもらった若手の女性で、お互い顔を覚えていた。私はそのとき、1〜2回で通うのをやめてしまったので、ちょいとばつが悪い。しかし、やっぱり今回も即効性は何もなく、腰にチャンピオンベルトみたいなのを巻いて、とぼとぼ帰途についた。

こうなると、もうここ自体通うのが難しくなる。1Fの医師に紹介してもらった若手の誰々さんに次回から乗り換えるのは、なかなかきつい。乗り換えた私と、乗り換えられた彼女は、そう広くない2Fフロアできっと顔を合わせることになるわけで、そんなの双方めちゃめちゃ居心地悪いではないか。彼女が休みの日を選んで…といっても、ここはGW中休みだから、次は5月7日だしなぁ。

そんな状態で、腰をいたわりながら会社内の引越し作業みたいなあれこれをやって、GWに突入。通勤しているときに比べれば体は安静にできているものの、これでは悪化はせずとも回復もしない感じ。ここはひとつ、面倒くさがらずに攻めの姿勢で打って出ねばなるまい!

ということで、ネットで検索。都内の整体とかカイロプラクティック系の情報を集め、Googleのレビューなど読んで、怪しくなさそう、痛くなさそう、効果がありそう、さほど移動距離がない、目が飛び出るほど高額じゃない、GW中もやっていそう、っていうかすぐ対応してくれそうなところをいくつかピックアップ。優先順位をつけて、朝一番、連絡を入れてみることに。

即日OKでありますように!と願いながら、受付時刻9時ちょうどに電話を入れると、午後いちでOKという。そんなわけで恐る恐る、代々木のとあるマンションの一室にあるという整体クリニックへ足を運んだ。

最上階までエレベーターで上がり、扉を開けてみると、明るく清潔感があって落ち着いた雰囲気。ほっと胸をなでおろし、問診&施術をしてもらう。

ご指摘がいちいちごもっともで、全身鏡の前に立ち、おろした状態の右手と左手の長さ、全然違うでしょう?と言われて見てみると、ほ、ほんまやー!という驚き。肩が張っているとか、足首が硬いとか、呼吸が浅いとか、あちらもこちらも全身に異常を指摘される始末。

とりあえず、初日は全体のバランスを整えて骨盤を調整するとかで、10分かそこらの施術をしてもらう。肩とかおなかとか、それぞれ数秒程度ポイントを押したりさすったりするだけなのに、確かに施術前と比べると、少し状態が回復している気がする。

一回ですっかり良くなったという魔法はなかったけれども、根本的なところから改善を図ってくれているような気もする。ということで、しばらく通ってみようと思う。次の回で、ぐーんと回復するといいんだけどなぁ。

健康で身軽な状態を保ち、必要なときに、さささっと人知れず動けることが、私の役回りにはとても大事なことだと思っていて、そこが損なわれている状態というのは、非常にまずい。どうにかして早々に、ここを脱却したい。早期回復を祈りつつ、平成から令和へ。

2019-04-28

私のことを「まりりーん」と呼ぶ彼の訃報

4月25日、会社で仕事している昼どきに、元上司から連絡が入った。Facebook Messengerに、今から電話していいか?と。メッセンジャーで言うには躊躇することなのだな…と不穏な空気をよみとり、胸をきゅっとひきしめて電話を受けた。元同僚の訃報だった。私の1学年下で同い年、まだ43歳だ。

その日の午前中に亡くなったと言う。くも膜下出血で3日前に倒れて、そこからおそらく危篤状態が続いて、そのまま亡くなってしまったようなのだと。元上司もそうだったが、私もあまりにびっくりして、言葉がなかった。

彼がうちの会社にいたのは、10年前とか、もうそれくらい昔のことだけれど、同じ部署ではなかったものの、なんだか懐いてくれて、職場でよく声をかけてくれた。彼が転職した後も、数年に一度くらいのペースながら、一緒にご飯を食べる機会をもっていた。

会うといつも、わんころのように人懐こい顔をして、しっぽを振るように手を振って、「まりりーん」と近づいてくるのだった。私のことを「まりりーん」と呼ぶのは彼くらいのもので、私は彼にとってどういうキャラ設定だったんだ?と今さらながら思うけれども、私はその呼びかけにいつも快く応じて、会えばとにかくてんこ盛りのおしゃべりをしてくれる彼の話に耳を傾けた。

数年に一度の"直近"は、つい数ヶ月前のことだ。ちょうど彼が勤める会社から仕事の相談をもらって鎌倉まで行くことになったので、事前に連絡を入れたら、都合がつくので、その打ち合わせの後に一緒にランチをしようと誘ってくれたのだ。

それで昨年末、暮れも押し詰まる12月26日に、鎌倉で一緒にランチをした。今からちょうど4ヶ月前になる。

何を食べたいか訊かれて、たぶん私がお蕎麦とか?と応えたんだろう、彼が少し駅からは離れるけど、いいお店があるというので、観光客の喧騒から遠ざかるようにしばらく歩いたところにある蕎麦屋に連れて行ってくれた。

それは自然と鎌倉散歩になった。天気が良くて、ちょっとした移動なのに、その光景がキラキラした印象として今、思い出される。

彼は向かう道中も、お蕎麦屋さんに着いてからも、やっぱりたくさんたくさん話した。今やっている仕事のこと、鎌倉暮らしの魅力など、あれこれあれこれ、終始はずんだ声で話を聞かせてくれた。

帰り道、私が駅に向かい、彼が会社に向かう分かれ道で、じゃあここで、と私たちは手を振って別れた。まさか、それが最期になるなんて、思いもよらなかった。

「まりりーん」と、また人懐こい顔をして手を振って近づいてきて、たくさんたくさん話を聞かせてくれる日が来ると思っていた。無意識にそう思っていたから、意識的に「思っていた」とは言えないくらい、そう信じていた。

この世界にもういないなんて、二度と会えないなんて、なかなか信じられるものじゃない。3日ほど自問を続けるも、今も了解できていない。

それをきちんと受け止めるために、残された者は儀式を行うのか。お通夜に行くことで、私はいくらかでも、彼の死を受け止めることに近づけるのではないかと思うのだけど、こんなときにかぎって腰痛がかなりひどい。遠出できるかは直前の判断になりそうだ。

儀式を目の当たりにしないと、私は彼の死を曖昧なものにしてしまうのではないか。信じたくないもの、信じられないものを曖昧な記憶にして、受け止めたような受け止めていないような状態で時間を送ってやり過ごしてしまうのではないかと、それを恐れている。それをするのは違う気がすると、働きかける自分がいる。

あなたが確かに生きたこと、私の人生にも登場してくれて、そう長い時間ではなかったにせよ一緒に過ごす尊い時間をもてたことを曖昧にしないために、私はあなたの死を今きちんと受け止めるよう促されている。あなたが確かに生きたから、私は今あなたの死を悲しんでいる。その悲しみを遠のけたら、あなたが生きたことに対する感謝や、出会えた喜びも一緒に遠のけてしまう気がして、それは違うよなって気がしている。それなら感謝と喜びと一緒に、この悲しい気持ちもまるっと全部ひきうけて、この先もずっと大切に私の中に抱えていくほうが、自分の答えだというふうに感じる。だから、ここに書いている。やっぱりまだ全然信じていない気持ちのまま。

当たり前が、どんどん当たり前じゃなくなっていく。当たり前が、どんどん尊くなっていくなぁ。

2019-04-15

研修運営に明け暮れた跡

先週1週間は、クライアント先に通いづめだった。月曜から金曜まで5日間の新卒社員研修を提供していたのだ。朝8時半に先方オフィスに入って、17時過ぎに片づけて表に出てくると、もう日暮れどき。

最終日の金曜は午前中で研修を終えたものの、自分の勤め先が毎期初に行なっている半日の全社員イベントにそのまま向かって合流し、あわただしい1週間が終わった。

移動距離はさほどでもないのだけど、研修に使うあれこれを詰め込んだキャスター付きバッグを引きずって都心を西へ東へ移動し、地下鉄やらJRやら乗り継いで駅を上り下り、立ち仕事が多かったこともあってか、週末になって腰にきた。ご老体である。

が、快い疲労と元気をもらった。もっとあの準備を念入りにやっておけばとか、この辺のすりあわせを講師ともっと詰められていればとか反省もあるのだけど、そういう考えに及ぶのも、みんなによりよい学習機会を提供したいという欲がわいてこそ。

本番1週間を終えた週末に心にぽかんと浮かんだのは、「あぁ、これが私の仕事の原点だよな」という感慨だった。

私の仕事は、研修の相談をクライアントからもらって、調査分析→企画提案→設計して教材開発→研修運営→レビューと全工程にわたる。講師に委託する以外の仕事領域は自分(とクライアント側)でまかなう小規模なプロジェクト、あるいは自分ひとりで風呂敷をたためる提案しか書いていないとも言えるが…。

そのため時期によって、案件によって、自分がやる仕事領域は変わっていく。それでいうと先週はほぼほぼ「現場の研修運営」という1週間だった。当日にクライアント先に行って、受講者に相対して研修を提供する。

その研修では、これからディレクターやデザイナー、コーダーとして働く人たちのWeb制作技能を基礎固めする研修プログラムを提供したのだけど、「作る仕事」をする人の学習・キャリアを支援する仕事の、まさに今・現場に自分が立っていることに強い引力を感じた。20代の頃からずっと、これが自分の仕事の幹にあることを全身で確認する1週間だった。

後ろからみんなのPC画面をみていると、講師がみんなに同じ働きかけをしても、一人ひとりいろんな画面になって、いろんなものを作って、スピードもさまざまで、どこにこだわるかも様々。どんどん先に進んで、あれこれ応用して好きなものを描き出す人もいれば、テキストをみながら先に駒を進める人もいる。いずれにせよ、みんな作っている。

長方形一つ描くのでも、それをどこに、どんな大きさで、どんな縦横比で配置するかはみんな違う。ど真ん中に置く人もいれば、端っこに置く人もいて、でっかいのもあれば、ちっちゃいのもある。塗りの色も、線の色も太さもバラバラだし、中に書くテキストもそれぞれだし、文字の性格の与え方もみんな違う。

同じようなスーツ姿をしていても、個々のディスプレイには、秘めた個性が浮かび上がってくる。私はこうした光景を後ろから眺めるのが昔から好きだった。

一人ひとりの画面からは、どこで理解がつまずいて困っているかも、わりと窺い知れる。そういう情報を汲み取っては、今サポートに動くべきか、しばらく様子をみるべきかと逡巡する。

少しおいておくと、自分で乗り越えていくこともある。いちいち外野からサポートを入れられてもうざったいだろうし、自分で乗り越えて「なるほど!」と突破する体験を奪いたくもない。私が個別に声をかけることは、遅れをとっていることを周囲に知られる副作用ももつので、安易に自己満足的サポートに手を出すことも避けたい。

講師もちょいちょい進行を止められてはやりづらい。あくまで「受講者の学び」と「講師の教え・関わり」を、より能率化するために黒子として自分が何をすると有効で、何をするとマイナスに作用するかを、複雑な変数をあれこれ考慮しながら、素早く一手に決めて、さりげなくサポートを施す必要がある。割って入って悪目立ちするのは最悪だ。

そんなポリシーをもちつつ、受講者の背後に立っていると、PC実習なんかは1日の間に分岐点が何十回も訪れる。ささっとそばにいって個別に声をかけることもあれば、講師に声をかけて全体進行に手を入れるケースもある。一方、黙って見守ることも多い。

最適解を答え合わせできるものは何もなく、運営者の立ち回りはいつだってすごく難しい。頭と心をフル稼働させて、洞察し、推論を立て、判断し、行動したり、踏みとどまったりを繰り返す。1日の終わりには、地味に一人で勝手に疲労している。

研修に参加すると、現場に立ち会う運営者がいるのを見たことがある人は多いと思うけれど、だいたい、そこにさほどの価値は見出していないのが一般的だと思う。始めと終わりにちょっと話をして、あとは後方で何かあったら声をかけてという感じで着席している、あの人である。管理者なり雑務担当として現場に居合わせている「事務局の人」的な感じ。

研修を運営する当事者の中にも、そういうスタンスでとりあえずその場にいる人を見たことは何度となくある。自分が参加者として受講した講座で、運営者が会場後方でノートパソコンを開き、明らかに他の仕事をやっているのを見たことがあるし、ひどいケースだとそのキーボードの打つ音がうるさくて受講者の集中を欠いていることに気づいていない運営者にも遭遇したことがある。

仕事としての市場性もさしてなく、「私が研修当日に張り付かなければ、いくらかお安くなります」と言ったら、多くのクライアントは「じゃあ林さんは当日いらっしゃらなくて結構です」と言うのではないか。「林さんは研修当日、終日いらっしゃるんですか」とクライアントや講師に聞かれたこともある。「大変ですね」という気遣いで訊いてくれているのだけど、なぜ訊くかといえば、私が、あるいは運営者が当日そこにいる意味を特に見出していないからである。

私も言葉を尽くして、自分がそこでどういう働きをしたいと思っているか、あるいは私の出来不出来を別としても、現場に立ち会う運営者がどういう働きをするのかを説明することはしてこなかった。

なんでだろうと改めて考えてみると、「その仕事に価値がある」ことと、「その仕事にお金を支払うだけの市場価値や、時間を割くだけの意義が認められる」ことは別だと割り切っているから、という気がした。

そういうことって、いくらでもある。あらゆる仕事の価値が、きちんと話せばあらゆる人に理解されるとは、とうてい思えない。人の価値観、物さしなんていろいろだし、説いても説いても伝わらないことってある。話せば伝わることや人もあるだろうけれど、そこにはそれなりの労力や頭脳や説得材料や話力が求められる。

説明が長引いた上に失敗すると、聞き手は不毛に時間を奪われて、はた迷惑に感じるだろうし、白けていくばかり。話し手は話し手で心を消耗する。なにも生産的でない。

となると自分の中で、運営者の立ち回りが学習効果に影響を及ぼすことがわかっていて、それに向けて自分がどうよりよい創意工夫をするかに焦点をあてて頑張れれば御の字。自分が立ち会うことはオプションではなく前提事項として提案すれば、来ないでくださいとは言われないのだし、行ったら行ったで自分なりにいろいろできることはある。

これは、逃げだろうか。もっと、運営という仕事が何を果たすか訴えて、その価値を見積もりに含めるべきなのか。べき論でいったら、まぁそうなんだろうけれど、いやぁ、なかなか、そこに気力がわいてこない…。そうやってさらに自分の腹のうちを探ってみるに…。

自分がタンカを切って価値を説けるほど運営者の働きをできていないのが真因だろうと我が身を振り返る。あれを言えばよかった、あの準備をしておけばよかった、あそこですぐ判断して動くべきだった、あの動きはいらなかったのではないか。そんな反省がごろごろ出てくる。やっぱり自分がまだ運営の仕事を、自分が評価できるレベルでできていないのが一番の課題だな。なんだかいろいろ考えさせられて、春先に姿勢を正してもらえた感じがする。今年度も気持ち新たに頑張ろう。腰痛いけど。

2019-03-23

柿ピーのウラ面を読む

昨日はお客さんとこの会議室で、「柿ピー」メーカーによせる私の切ない思いを熱っぽくしゃべってしまった。

セブンイレブンの店頭に並ぶ、セブンプレミアムの「柿ピー」のパッケージを裏返してみると、なんと通常パッケージはでん六6袋入りは亀田製菓が作っているという衝撃の事実に出くわす。

作り手は違うのに、オモテ面はセブンプレミアムの統一パッケージで、製品名も「こだわりの柿ピー」とまったく同じネーミング。オモテ面だけ見ていると、もう「6袋か1袋の内容量の違いしかありませんよ」というたたずまいである。しかして、その実態は!いや、むしろ実体は!

いや、そりゃセブンさん側からみたら、同じブランドで出してるんだから見た目統一するでしょって道理はわかりますよ、でもウラ面にまわってみると、それはそれでこっちにはこっちの道理というものがありまして…という切なさがこみ上げてくるのだった。

パッケージのウラ面にはウラ面のドラマがある。私は時々こうしてパッケージのウラ面を見ては勝手なドラマを脳内再生して、ぐぬぬっとうなっている。商品の問い合わせ先が、セブンではなく各メーカーのお客様相談室になっているところも胸を熱くするものがある。なんだよー、ウラ面では圧倒的にメーカーが"顔"じゃないかーと。

この6袋入りのウラ面の「メーカー名」を見たときには、「あぁ、亀田さん、ついに」と大変な衝撃を覚えたのだった。というのも、この6袋入りが出たのは(つまり亀田製菓がセブンプレミアムに参戦したのは)、おそらくここ半年の間のこと。それまで、この「こだわりの柿ピー」は「豆はでん六♪」のでん六さんが1袋パッケージ(132g、86g)として一手に引き受けていた(と思う)。ということは、でん六さんはでん六さんで、これじゃあ話が違うじゃないかよーみたいなことになっていないかしらと、これまた勝手な胸騒ぎを覚えたりして。

セブンプレミアムの柿ピー事情については、以前にもここに書いた私の関心事。この間、この亀田製菓の6袋入りを見つけて気がかりが再燃し、「柿ピー セブン 亀田」でGoogle検索したら、検索結果の1ページ目に自分のブログが出てきてびっくりした。そんなニッチなワードで検索する人が、私以外にどれほどいるのか謎だが…。

そういえば、もっと前にユニ・チャームのマスクのセブンプレミアム事情についても書いたのだけど、マスクはこのところセブンプレミアムで出さなくなったんだよな。マスク需要は伸びていると思うのだけど、セブンイレブンは自分のところの「立体型」(メーカーはユニ・チャーム)をやめて、ユニ・チャーム純正の「超立体」と他メーカーを並べて出すようになった。どんなやりとりを経たんだろう。亀田製菓さんやでん六さんは、ユニ・チャームさんを飲みに誘ってみては…などと思ったりする。

まぁ相変わらずセブンイレブンには大変お世話になっており、また亀田製菓の柿ピーとでん六の柿ピー、食べ比べても違いがわからない程度に味音痴のため(どっちもおいしい)、セブンさんに「そういうお客さんのための商品ですよ!」と笑顔で言われたら、ぐうの音も出ず「いつもお世話になっております」と笑顔で返してしまうに違いないのだけど。ますますのご発展を祈念しております。

ちなみに客先でこの話に及んだのは、フェアトレードについて話題にあがって「林さん、こういうの好みでしょう」と振られたので、それに思いきりダイブして支持表明の引き合いに出したまでであって、何の脈絡もなく柿ピー話を始めたわけではない、という弁解を最後に添えておきます。少し興奮して話してはしまったけれども。

2019-03-13

研修の時間配分「90/20/8」の法則

研修プログラムの時間割を考えるとき、「90/20/8」の法則というのが使えそうだ。「研修デザインハンドブック」というノウハウ本で紹介されているものなんだけど、なかなか実践的で面白い。研修に限らず、いろんな時間配分にも応用できそう。

一般に、研修の時間割が「教える側の都合」で組まれがちなところを突いている。

もちろん、参加者側の都合をまったく考えていない研修も、そうそうない。受講対象者が業務時間内に一堂に会せるのは水曜日の午前2時間だけとか、ひと月前から予告したとしても丸一日確保するのがせいぜいとか、時短勤務の人も参加できるように16時までに終えたいとか、実施時期や時間数を「参加者都合」で条件づけることは少なくないだろう。

ただ、「参加者の体があくかどうか」という最低限の条件ではなく、「参加者が集中して確かなインプットをして、研修で得たものを持ち帰って実務に活かせるかどうか」という実施効果に即した面で見直してみると、学習者中心設計には、まだ工夫の余地があるかもしれない。

例えば「10:00-16:00の、昼休憩を除いておおよそ5時間枠」で研修をやるとなったとき、教え手はどのように時間配分を考えるだろう。

この研修でまず教えなきゃいけない概念知識は、説明に2時間はかかる。そうすると10時に始めて12時までは講義をやるでしょ。昼休憩を1時間入れて、午後はグループワークで課題に取り組んでもらおう。そこで、午前中の講義の理解を深めてもらう。このワークショップを、発表やフィードバックも含めて、午後の3時間でやるイメージ。

そんなふうに、大まかな構成と時間配分を考えてブレイクダウンしていく人が多いのではないか。ここに潜む「教え手都合」を指摘し、「人間の脳がどう学習に対応するかの原理原則に基づいて時間配分を決定してい」くよう、先の本は提案している。

その原理原則を、まずは列挙しちゃうと、次の3つ。

●脳が集中をキープできるのは「90分」まで
●大人が記憶を保持しながら話を聞くことができるのは「20分」
●人間の脳は受け身な状態が「10分」続くと興味を失い始める

そこから導き出したのが「90/20/8」の法則である。上の原理原則を踏まえて、ではどうすればいいかを考えていくと、研修時間をこんな感じで組み立てたらどうかという提案が導き出される。

●脳が集中をキープできるのは「90分」まで
→90分ごとに10〜15分間の休憩を入れよう

●大人が記憶を保持しながら話を聞くことができるのは「20分」
→20分おきにペースを変えたり、明らかに異なった形式にしよう。例えば、この20分の間に話した重要な点を繰り返して確認し、長期記憶への移行を促すなど

●人間の脳は受け身な状態が「10分」続くと興味を失い始める
→情報提供(いわゆる講義)は、8分を一区切りとして話を組み立てよう。8分ごとに参加者が主体的に考えたり話したりする時間を設けるなど

厳密にやろうとして、講師のほうがガチガチに縛られた状態になっても良くないので、あくまで目安として、視点として取り入れればいい話だとは思う。

ただ、話し手は頭フル回転でしゃべっていたりするので、気がつくとあっという間に一人語りが10分、20分、30分続いてしまうことってある。そうなったとしても、自分はフル回転ってことだと、聞き手に退屈を与えている感覚をもちづらい。

が、話し手と聞き手では、まったく脳の状態が違う。聞き手に、自分(話し手)と同じ熱量&集中力をもって話を聞き続けなさいというのは、時間が長くなればなるほど酷な話。それはやる気の問題とか、努力すればとか、興味をもって聴けばとかいうことではなくて、人の脳の作り的に無理があるんだなって話にして、研修の構造を見直したほうが能率が良いのでは、という話である。

では、10分を超える一人語りは、聞き手の主体性をしぼませていく働きももつという認識をもって、研修時間の組み立てを再考してみたい。

とりあえず、10分話したくらいで、「参加者へのちょっとした問いかけを挟む」とか、「これまでのおさらいを挟んで一呼吸つく」という一工夫でも、取り入れるといいと思う。

全体の構造を見直すとすれば、ひとまとまりを90分枠として、オープニングに5分、クロージングに5分とり、残り80分。これをざっくり4等分して、各20分の構成を、

【導入ワーク】学習テーマに関連する、参加者のこれまでの経験や既有知識を振り返ってもらって共有するワークで足場づくり(20分)
【講義】過去の経験や既有知識に関連づけながら、新しい概念知識のインプット(20分)
【実践ワーク】新しい概念知識を活用して、実践的な課題に取り組んでもらう(20分)
【発表】演習の発表、質疑応答、講評(20分)

としてみるとか。もちろん、学習テーマやその複雑性、学習者のレベルやタイプによっても、何を何時間かけてどんなふうに学習してもらうと効果的かはまったく変わってくるので、上のようにきれいに20分でまとまったりはしないだろう。上のはあくまで一例に過ぎない。

でも例えば、これまでは「講義2時間でまるっとインプット、ワーク3時間でまるっとアウトプット」みたいに大雑把に区切っていたものを、もう少しテーマを小分けにしたり、基礎と応用でレベル分けして段階的に学べるようにするなどして、それを90分ごとに割り当てていくようにするとか、上のような原理原則を知ると、いろいろ構成・時間の組み方にも広がりやアイディアが出てくる。

「とにかく最初は講義。知らなきゃ始まらないことを講義して話しきって、もの考えさせるのはそれからだ」とかにこだわらないで、90/20/8の法則の揺さぶりを受けながら、話す順番とか、話すことの区切り方とか、講義と演習の組み合わせ方とか、レベルの段階分けとか、それぞれの時間配分とか、いろいろゆさゆさと再考してみると良さそう、という共有でした。

ご紹介の本は、中村 文子&ボブ・パイク共著「研修デザインハンドブック」(日本能率協会マネジメントセンター)。実践的なノウハウ本ゆえに、「言い切っちゃってるけど、常にこれが最適解というわけじゃないだろう」と思う記述もあるけれど、それゆえ具体的に「こういうやり方もあるんだな」と自分のやり方を見直すネタを拾えて、そういう使い方にとても有用な一冊。

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