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2018-06-30

アイデンティティとか個性とか

アイデンティティとか個性とかっていうと、各人がもって生まれた特質だとか、周囲の環境によって揺るがされない確固たる不変性をもつ気がしなくもない。自分の内側を掘って掘っていった先、いずれ確かな直感をもって自ら探し当てる、というような。

けれど実際は、人と関わって環境に影響を受けながら形作られていく、もっと柔らかでオープンなものなんだろうなぁと、そういうことを考える機会が、最近まとまってあった。

といっても最近たまたま手にとった本のどれにも、そういうことが書かれているように読めた、というだけなのだけど、勝手に関連づけては、そんなことを考えた。

一冊あげるなら、阿部智里さんの「玉依姫」の中にある一節。これは別にアイデンティティについて語っているわけじゃないのだけど、勝手にこう置き換えて読んでみた。

自分を自分たらしめているのは何かっていうと、

一番大事なのが自覚で、二番目が他者からの認識なのだ

自分が自分をどういうものと認識しているか、どうとは認識していないか。人が自分をどういうものと認識し、どうとは認識していないか。その相互作用で形作られていくのが、自分のアイデンティティとか個性とかってものかなと。アイデンティティと個性を横並びにおくのが、そもそも雑なのかもしれないけど、どちらも人の認識の外には、置きようのないものではあると思う。って言い出したら、そんなのばっかりだけど…。

閑話休題。元NHKアナウンサーで最近独立した有働由美子さんのエッセイ「ウドウロク」には、個性について書かれた文章があった。

有働さんが、自分はこれから沢山のアナウンサーの中で、どうやって仕事をしていけばいいのだろうと、大勢の中での自分の個性というものを思案しだしたときのこと。

私は、どんな場所に、どんな立場でいて、どういう仕事をしていて、何歳で、どういう容姿なのか。それもこれも含めてすべてみている他人が、私のことをどんな個性の人間だと思っているのか。それさえ掴めていれば、あとは楽になる。仮にそれが、自分が思う本当の自分とは少々ずれていても、それは自分の素を理解されていない、ことにはならない。逆に、なぜ私はこう受け止められているのかを考えると、自分には見えていなかった自分の個性が見えてきたりする。社会の中での個性とは、そういうものじゃないだろうか。

彼女は、それに応えていくことで自分の個性を磨いていった。自分の自覚する個性が人に理解されない、分かってもらえないと嘆くより、もっとオープンに、自分と人との間に認められる個性に目を移してみると、楽になれたり、ほんものの自分に近づけたりするのかもしれない。

河合隼雄さんの「『出会い』の不思議」には、こんな一節がある。

そもそも、アイデンティティというものは「開かれた」ものこそ、ほんものなのだ

自分勝手につなげて解釈しているだけだけど、まとまって読んだ本がなんとなく共鳴しあっているような気がした。

生まれながらにして自分のなかに埋め込まれた種が、ひとりでに個性として花開くわけじゃない。いろんな人と関わりながら、いろいろと変わっていくもの、いろいろと変えられるもの。決して不変性を前提とするものじゃないんだろう。そういうラフさを大事にして、人と関わりながら発見したり育んだりしていくものなんだろう、自分というものは。

2018-06-27

人間はクリエイティブな仕事を

もうずいぶん昔のことになるのだけど、あるクライアントに呼ばれて上司が企業訪問するのに、ついていったことがあった。

当時、私はまだ法人相手の仕事をし始めたかどうかという20代の小僧で、そうした商談の場にはたいそう不慣れ。発言したのは最初と最後の挨拶くらいで、あとはただ上司のとなりに座って先方の話を聴くばかりだった。

社会科見学みたいな感じで、まったくの役立たず。最初から「見学させてもらう」前提で上司が連れていってくれたので(たぶん)、その場の舵取りをすっかり上司にゆだねて、のんきに話を聴いていた。実際はガチガチに緊張していたけれども、今思えばのんきなものだった。

ともあれ、話を聴いていると、どうにも解せないことが出てきた。お客さんは、契約社員にこれをやらせたくて、アルバイトにこれをやらせたくて、外部パートナーにこれをやらせたくて、そこをうまいことうちの会社にハンドリングしてほしいというような相談をしていて、じゃあ、この会社の中の人たちは何をやるのだろうかなと。

なんだか話を聴いていると、事業の根幹まで全部手放して、外にお任せしてしまうように感じられて、そんなふうにしちゃったら、この会社の中は空っぽになってしまうのでは?という疑問が膨らんでいった。

でも、おっかなびっくりだったので質問できずじまい。今だったら率直に訊いてみるのだろうけど、そのときは、「こういうの訊くのは法人相手に失礼なのかもしれない」とか、「この手の領域は当たり前にアウトソースするもので、もっとこういう上位レイヤーを正社員は担うのだっていうビジネスの常識を私が知らないだけかもしれない」とか思って、口を開けなかった。

それで帰り道に、上司にその疑問を投げてみると、いい質問ですねぇという感じで(当時その言葉はまだ流行っていなかったけど)「そういう疑問、直接訊いていいんだよ」と促された。

そうなのかー、そうだよなぁと思って、それは20代の法人ビジネス駆け出しの私にとって、一つの貴重な学習経験になった。疑問に思ったことは、相手が法人だとか関係なく、直接当事者に訊いちゃうのが一番いいよなって、力みをほどいて考えられるようになった。今でも、あれこれ考えて聞き損ねてしまうことはあるけれど…。

そのときの疑問はそのまま十数年。でも、たまに思い出す。効率を追い求めて、あれもこれも自分から引きはがそうとしているような話に触れると、この思い出が脳裏に浮かびあがってくる。

そこまで効率を追い求めた先で、では何を得ようとしているのか。どんどん手放していって、どんどん効率化していって、手元に何を残したいんだろうなと。それが、話を聴くかぎり見当たらないことがあって、自分で自分の身ぐるみをはぎとっているような不思議な光景に見えることがあったり。きっと答えは間にあるのに、中間地点を通り越して、逆の極まで到達せんとしていないか、とか考えてみたりする。

この先、だいぶ迷い子のような文章を書き連ねて、上と下がつながっているのかわからない感じで最後までいくけれども…。

例えば「会社で」働く前提から解放されて、「自宅でも会社でもどこででも」仕事場を選べることに豊かさがあるのに、必死に会社から自宅に仕事場を移行しようとして、「会社に行かない」環境作りが目的化してしまうとか。

できるだけ人と会わないで済むように、一人で完結するように、外に出ないで済むように。その極をゴールに設定しちゃうと今度、そもそも人は個人ではできないことをチームでならできる可能性に目覚めて組織を形成したのではなかったかとか、直接人と人が空間をともにして交わったときに人間がどれほどの情報、あるいは情報におさまらぬ交信を行って物事をうまく展開していける能力をもつかとか、活力を得ているかとかが軽んじられているのではないかとか、人と人が接触しない世界づくりが大事だったのだっけ?とか、「そもそも何のためだっけ」というのがもみくちゃ状態になっていく。

「ルーチンは機械に任せて、人間はクリエイティブな仕事を」というのもよく聞くけれども、人間は、やることがクリエイティブな仕事だけになったとき、果たしてそんな能率よくクリエイティブな仕事だけぐっとパフォーマンス発揮できるものなのだろうかとか考えてしまう。

私もルーチンワークは遠退けるほうだけど、とはいえ自分がすべき仕事が隙なく創造力を120%発揮して取り組む類いの仕事一色になったら、ちょっとやっていけないだろうなと怖気づいてしまう。

そういう人は淘汰されていくんですよと言われたらそれまでだし、1週間に8時間×5日間働こうという前提で考えるからいけないのであって、その分仕事時間そのものを減らして、あいた時間を自由時間にすれば苦しくないでしょっていうのは、まぁ話としてわかるのだけど。

とはいえ働く時間を何時間に減じようと、自分の仕事の創造力発揮仕事が、自分の仕事全体の100%を占めて、それ以外なしとなると、それって人間の創造活動において現実的な環境なのかなぁと疑問符も。

創造的な力を120%発揮する仕事もあれば、80%くらいの仕事もあれば、30%くらいの作業もあって、そういうごた混ぜの緩みの中にアイディアがさしこんできて、あぁこうしてみたらどうだろうなとか、何かひらめいたり思考が開けていくようなこともあるんじゃないのかなぁと。まぁ、それは20世紀生まれの平凡な人間の生身の感覚の一例にすぎないのだけど。

クリエイティブな仕事っていうのは、それ単体で成立するわけじゃなくて、現場の細々とした一連の仕事の中に生起するような気もして、「ルーチンは機械に任せて、人間はクリエイティブな仕事を」ってコピーには、なんとなく乗り切れない自分がいる。もちろん程度の問題はあって、全然機械化しないのも違うんだけど、完全に手放しちゃうのもどうなのかって、やっぱり答えは間にある気がしている今のところの自分。

2018-06-23

ひと月遅れた母のお墓参り

うわわ、ごめん、ごめんと思った。母のお墓の前に立って、あぁ来るの遅くなってしまったと、まず詫びた。お墓が、なんとなくくたびれて見えたのだ。自分の目に、母のお墓があのように映ったのは初めてだった。

悠長に構えている場合ではないと、さしていた傘をたたんでそばに置くと、以前に供えたお花のくたびれたのを、まず花筒から取り出した。父がなみなみと水をはった手桶を両手に1つずつさげて持ってきた。私はそれを全部使って、お墓をきれいにした。全身をお風呂に入れるようにして、きれいにした。

持ってきた向日葵(ひまわり)を供えると、ぱっと華やいだ。きれいになって、ほっとしたところで雨がやんだ。

父がお線香に火をつけてもってきて、手を合わせる頃には薄曇りの空から陽がさした。

ほんの5分前には雨が降っていたのにな…と思いながら、薄く陽がさす中、墓前で手を合わせる父の背中を見守った。

父が終えると、私もしゃがんで手を合わせた。まず謝った。目をつぶっている間に、わだかまりが解けたような気持ちになった。ここひと月くらいは、母のお墓参りに来られていないことが、ずっと気にかかっていた。なのに、来ていなかったのだった。

4ヶ月あけるのは、ないなと、よくわかった。これまでだいたい3ヶ月以内に足を運んでいたと思うのだけど、もうひと月、間があくと、いけないのだった。ということが、今回はっきりわかった。

行ったら、ぱっとわかるのだな、と思った。按配というのは、頭でもなく、心でもなく、分離して語れぬ自分の全部を丸ごと現地に持ち込めば、すぐ答えがわかるのだなと、なんとなくそういうことを了解して帰途についた。

「また来るね」と父が言い、私も「またね」と声をかけた。お墓から車へ向かう間も、薄日がさしていた。車に乗って走り出すと、また雨が戻ってきた。笑ってしまった。

2018-06-21

「Web系キャリア探訪」第3回掲載に寄せて

今年の初めから連載しているWeb担当者Forum「Web系キャリア探訪」の第3回が掲載されました。

変化激しいSEMの世界「自分の成功体験は正解じゃない」 個性を生かすチーム運営とは?

初回の掲載時にここで触れましたが、1回目が、14年転職を選ばずに1社で挑戦を続ける岩崎電気の新井隆之さん、2回目が、50歳を目前に日立製作所から大日本印刷に転職された西田健さん

これまで企業のWebマスター的立場の方にインタビューしてきたところで今回。3回目は、事業会社サイドではなく、彼ら事業会社のサポーターとして働くSEMコンサルタントの寳洋平さんを取材しました。

真剣に小説家を志す時期、占いコンテンツのライターなどを経てのSEMコンサルタントというキャリアは、一見すると異色の経歴と語りたくなりますが、ご本人にお話を伺っていると、ごく自然な成り行きのように、一つひとつが関連性をもってつながりあっている確かさを覚えました。静謐で、深みがあって、独創的な文学作品を愉しむような、趣きあるインタビュー時間でした。

昨今は「仕事」とか「働く」とかっていうと、はなからマイナスの印象をもたれかねない危うさを感じたりもしますが、私の中の「仕事」イメージは、誰かのためになることが、自分の成長をももたらす素朴な日々の営み、といったものであり続けています。また「仕事」って言葉に、「労働」とか「作業」と一線を画す、創造的で尊いイメージももっています。

この連載のインタビューは毎度、そういう自分の心持ちのまま出かけていって、とくに途中で違和感を覚えることもなく話を堪能して帰ってこられていることを、3回振り返ってみて改めて思いました。三者三様のキャリアながら、それぞれにご自分の仕事を尊び楽しむ人たちの等身大のお話を聴かせていただいてきたからこそのことだなぁと。

誰かの仕事を外野から見てどうこう評するのではなく、自分の仕事・自分のキャリアを、自分の言葉で語る人たちの、こうした思いや考えを起こして、この連載を読んでくださる方に今後も届けていけたらなぁと思います。「仕事」とか「働く」とかの、素朴で個人的で多面的な、それぞれの解釈を、豊かな表現でシェアしていけたらいいなと。

取材現場では相変わらず、舵取りするなど程遠く、お話に聴き入るばかりなのですが、一通りの取材を終えて思うところを、記事の終わりに「二人の帰り道」として記していますので、ぜひ最後の一文までおつきあいいただければ幸いです。

2018-06-19

「具体例」には階層がある

研修やセミナーのアンケートでは、「具体例がたくさんあって良かった」「話が抽象的で分かりづらかった」「もっと事例を聞きたい」といった受講者の感想が定番である。

これは言わば、表層的な意見の表明であって、必ずしも事例を増やしたら、これを書いた人の満足度や理解度が上がるわけではない。この人の抱える問題が「○○が十分に理解できなかった」のだとして、「より豊富な具体例のインプット」があれば本当に十分な理解に到達するのかはわからない。解決策として有効か、それはそれで議論はある。が、今回はそれはそれとして、別の論点を取り上げたい。

講師は、豊富な具体例を盛り込みながら話しているつもり。なのに、受講者側から、話が抽象的、具体例がもっと欲しいと言われるケースがある。これは、講師が提示する「具体例」と、受講者が望んでいる「具体例」に、階層のズレがあるからだろうと思う。

例えば企業のマーケティング手法かなにかをテーマにした講座で、講師が「とあるドラッグストアの売上が低下している要因を考えてみましょう」と、具体的に考えてみる手引きをしたとする。講師は、具体的なイメージをもってもらおう、具体例を示して理解を深めてもらおうとして、みんなに身近な「ドラッグストア」を引き合いに出す。

確かに、これは「企業の売上が低下している要因を考えてみましょう」よりも、「小売業の売上が〜」よりも具体性が高い。しかし、「マツキヨの売上が低下している要因を考えてみましょう」と比べると抽象的であり、これと比べると「具体例」には一歩届いていない気がしてくる。

最も抽象度が高い層を「抽象名詞レベル」だとすると、間に「具象名詞レベル」、一番低い層が「固有名詞レベル」という感じだろうか。

企業
小売業
ドラッグストア
マツモトキヨシ

というように、抽象度には階層があり、具体例にも階層がある(分けようによって、何層にも分けられる)。なので、固有名詞レベルの具体例を求めている受講者にとって、具象名詞レベルの具体例を提示する講師の話は抽象的に感じられる。

もちろん、あらゆる解説に「固有名詞レベル」の具体例が求められるわけではない。どこがちょうど良い加減かは、目的や相手や状況によりけりなので、一定の抽象度を保ったレベルのほうが適していることもある。

ただ、ここの認識のずれを双方がわかっていないためにすれ違っているケースがなきにしもあらずなので、とりあえず文章にしてみることにした。

演習課題などで、「とあるドラッグストア」とするか「マツキヨ」とするか「あなたは、くすりの福太郎 西船橋4丁目店の店長です」とするかじゃ、問題が大きく違う。全然違う問題になるから、状況設定には細心の注意が必要だ。

「とあるドラッグストア」に比べると「マツキヨ」の付帯情報の多さは圧倒的だ。全国区でドラッグストアをやっているとか、今は業界3位に転落しているとか、競合にウエルシアとかツルハとかサンドラッグがあって、ウエルシアとツルハはM&Aを活発にやっているけどマツキヨはやっていないんだなとか、そういう情報がごろごろ調べられる。

に比べると「とあるドラッグストア」は、極めて前提情報が曖昧だし、調べようがないから、なんでもありになってしまわざるを得ない。「とあるドラッグストアで売上が低下している要因を考えてみましょう」は、ああかもしれない、こうかもしれないと発想法を鍛えるような課題には有効かもしれない。その場合、「できるだけたくさん、ありうる要因を書き出してください」といった問い方が妥当だろう。

が、発想法とかではなく、ある企業とか店舗、あるいは商品の状況をしっかり読み取って、それを踏まえたマーケティング課題を設定して具体的な提案を作り出すスキルを磨く目的なら、企業や地域や店舗や商品を特定して話を進めないと、どうしようもなかったりする。

同じドラッグストア想定の課題でも、どういう前提情報を提示して、誰を主人公にして、どういう問いに対して答えを考えてもらうかで、鍛えるスキルはまったくずれてしまう。

マツキヨならマツキヨ、サンドラッグならサンドラッグと、具体的な企業名が出てこそ、実務的な演習課題として使い物になる。

とはいえ、企業や商品を特定すれば、そこにある程度、講師や運営する側が通じておかないと話にならない。マツキヨのお題にするなら、マツキヨの市場でのポジションとか、ドラッグストアのコンビニ・スーパーマーケット化とか、ネットでの医薬品の取り扱いスタートとか、市場動向をある程度は把握しておく必要が出てくる。自分ならこう考えるな、という回答例もこしらえないことには、なかなかどうして。

となると、下調べ、下準備が大変になる。手間暇がかかる。億劫である。時間がない。そんなこんなで、一段、二段、抽象度が高い事例解説や、演習課題の想定に着地することもあると思うのだけど、その抽象レベルの選択が、今回の学習テーマを習得するための事例や演習課題の提示の仕方として適切なのかどうかは、目を凝らして見定めないといけない。

必要なら、やっぱり下調べ・下準備して、筋の通った想定、問い、回答例をこしらえないと、鍛えるべきスキルを鍛える演習課題にならない(もちろん、そういうのではないワークショップもあるので、それはこの話の範囲外)。あと、講師が過去に手がけた案件を引き合いに出すなら、それをもとに十分通じた解説ができるだろうし、だからこそその講師が講師として立っているということも往々にしてあるだろう。

ともかく、実際に手がけた案件ではないものから具体例を示そうとするときには、抽象レベルの設定が妥当かというのをちょっと気にかけてみると良いのでは、という話でした。長く書いたわりに、言いたいことは小さい。

2018-06-11

知識の伝承より、気持ちの伝染

部下や後輩に「教える仕組み」をいくら作っても、社内で「学び合う場」をいくら設けても、そこに学ぶ対象そのものをおろしろがっている人がいなければ循環しないだろうなぁと思う。逆に、それをとことんおもしろがっている人が一人そこに入れば、仕組みは未整備でも、その場の影響力は計り知れなくなる。

そんなことを考えさせられたのが、森毅(もりつよし)さんが「河合雅雄著作集十 学問の冒険」の月報に書かれたという次の一節だ。

学問というものは、伝承よりは、おもしろがることで伝染するものだろう

自分の学問を、後継者に伝承する気などない。「おもしろくてたまらぬ」から研究をする。すると、その傍にいる人に、その「おもしろさ」が伝染する。伝染した側は、別にうつした人の真似をするというのでなく、自分がおもしろいと思うことを、自分がおもしろいようにやる。そうすると、それぞれが自分の個性に従って独創的なことをしているんだけど、グループとしての相乗効果をもつことになる。

そういうことが述べられていて、すごくしっくりきた。「学問」を「仕事」に、「研究」を「学習」に置き換えても同じことが言えるよなって思う。この一節に私が触れたのは、河合隼雄氏の著書「『出会い』の不思議」(*1)を読んでのことだけど、河合先生も、この話を紹介した上で次のように述べていた。

学問研究にかぎらず、すべての創造性を必要とする領域に通じることである。知識を伝えるのではなく、態度が自然に伝わるのだ。

少人数で集まった空間に、そのテーマをめちゃめちゃおもしろがっている人がいるとか、いつも会社で斜め向かいに座っている人がめちゃめちゃ仕事楽しそうにしてるとかの影響力とかって軽視できない。会社の席の配置なんかは、考える人は相当に考えて人材育成施策に含んでいるだろう。

私もオーダーメイド研修を扱う仕事がら、人に講師をお願いするときには、やっぱりその研修テーマをおもしろがっている実務エキスパートに講師をお願いしたいって思う。あぁ、あの人を今回の受講者の皆さんに引き合わせたいって思って、お声がけすることが多い。そうして引き合わせた現場で、講師と受講者の間に生まれるもの、知識やノウハウを超えて講師から受講者に伝わっていくものを肌で感じると、すごく幸せな気分になる。

オンラインで学べる仕組みも、一斉に人を集めて講義をするのも、効率の良さを考えると良い仕組みなんだけど、効率がいいからといって、「全部これでやろう」とか「一元管理しよう」とかいって一つの手段にこだわりだすと、手段が目的化してバランスを崩す。狙う効果によって手段を選択できるのが良いのであって、効率的な手段に全面移行して、非効率だけどユニークな効果を生む手段を手放してしまっては、結局選択肢は豊かになっていないのだ。

少人数で人が人と直接会ったときに受け渡しできるものの計り知れなさを大事にして(合理化も、もちろん大事にして)、うまいバランスをとって学習環境をデザインできる仕事人でありたい。

先の本は、このくだりの後に、次のような一節が続いた。

グループとして共に仕事をしているものの、各人は別個の個性を生きる者として、強い孤独を感じる。共におもしろがりつつ孤独に耐える力をもつことが独創性を養うことになろう。

この一文には「孤独」の肯定的なとらえ方が感じられる。ひとつ前の話に、自立と依存は反対概念ではない、一切の依存をしないのは孤立だという話を書いたけど、それにのせて言えば、孤独と孤立は別物なんだよなって整理させてくれる一節でもある。孤独を抱えながら自立して生きるときに、人と健やかな依存関係をもって支え合えるのが自分の交友関係かなぁなどと思い、親しき友たちにありがとうって思った。

*1: 河合隼雄氏:「『出会い』の不思議」(創元こころ文庫)

2018-06-08

必要な経由地

最短距離を狙うと、そんな所に立ち寄るのは無駄にしか感じられないのだけど、そこを経由せずしては、目的地にたどり着けないということが、あるんだろうなぁ。

必要な経由地、必要なまわり道。河合隼雄さんの「対話する人間」を読んでいて、そんなことを思った。

河合先生のところに、ある母親が幼稚園児の息子を連れて相談に来た。来訪理由は、その子が知能がおくれているとは思えないのに、言語に著しい障害が見られるためと言う。確かにその子はまったくことばがうまく話せないので不思議に思って、母親と話し合ってみると、こんなことが分かった。

母親は子どもを早くから「自立」させようと思って、なるべく抱かないようにし、寝るときも幼いときから一人で寝させるようにした。はじめのうちは子どもも泣いていたが、ほうっておくと慣れて泣かずに寝るようになり、親類の人たちもそれを見て「よい子」に育っていると評判だったという。

河合先生の見立てでは、このことこそが、子どものことばの発達をおくらせる大きな要因だった。子どもは発達に従って自立していく。母と子が肌を触れ合って感じる一体感こそ、子どもが健康に育っていくための土台になるのだけど、子どもの自立をあせりすぎたため問題が生じてきた。

親離れ、子離れということばにおびやかされて、親のほうが性急に親子の絆を切ろうとしてしまうことから生じる問題は大変多いのだという。

実際、この話に納得した母親が関わり方を改めると、この子はだんだん母親に甘えるようになり、赤ん坊に立ち返ったように母親に甘え、その後にだんだんと普通に育っていくようになった。

甘えるという所を通過しなかったために、幼稚園児から赤ん坊のところまで引き返して、そこから戻ってきたのだ。

十分に接触を体験したものこそが、うまく離れることができるという、一種の逆説めいた真理

を河合先生は指摘する。

最短距離を目指すと、最初から自立の道へまっしぐらという頭になるが、それに必要不可欠な経由地は案外、反対側のほうにあるというのは、わりといろいろな分野に潜んでいそうだ。

まぁ多くのことには個人差があって、誰しもに必要な経由地ということではないだろうけど、だからこそ取り扱いに慎重を期する。

例えば学生が起業したいと言ったときに、「起業したいなら、今すぐ起業したほうがいい」と説く大人と、「一度就職したほうがいい、それからでも遅くない」と説く大人といる。「どっちでも選んで、選んだほうを正解だったと思えるように生きていけばいい」みたいな話もあるが、あぁあのときやっぱりこうしておけば…と後悔するのも人生で、それを次の原動力にすることも経験価値だ。

ともあれ頭ごなしに、「起業したいなら、すぐ起業する以外ないっしょ」という一択でもなくて、人それぞれに、場合によっちゃ真反対に思われるような経由地を挟むことが無駄じゃないってケースもあるって見方は、含んでおいていいんじゃないかなと思う。もちろん、すぐ起業もありという前提である。

ちなみに、自立と依存の関係についても、よくある誤解を、先の本の中で河合先生は指摘していた。

自立と依存は反対概念ではない。

依存しないのが自立だと思うのは大間違いで、それは孤立だという。自立している人は、自分がどこにどういうふうに依存しているかに自覚的で、依存の自覚と感謝がある。そういう人を自立している人というのだ、と。

人間がそもそも矛盾的存在であることをわきまえるなら、按配というのは常に大事にしたいところ。いいかげんを自分でバランスさせるというのは、いつも、いつも、大事なことだ。それは、誰かじゃなくて、自分でやることなのだ。

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