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2018-03-02

駅員さんの声がかぶるネタ

混雑した渋谷駅の改札口付近で、2人の駅員さんが右から左から、拡声器をもって張り合うように声を出している。その日は事故か何かがあって、駅構内は混雑というより混乱状態だった。人がごった返す中、駅員さんが必死に乗降客の誘導にあたっていた。

改札口のあっち側とこっち側、数メートルしか離れていないところで同時に叫ぶものだから、おたがいの声をかき消し合って、どっちも聞こえない。両方とも声はしっかり聞こえるのだけど、両方とも何を言っているかはわからない。

こういうことは、過去に何度も経験がある。駅のプラットフォームでも、電車が遅延しているときなどは、自動放送の案内に駅員さんのマイクの声が乗っかってきて、さらに上りと下りの自動放送が入り混じって、何が何やら。もはや自分に最も必要な情報の聞き分け能力を試されているかのようである。

あれは、やっぱり、気がついていないということなのだろうか。わざとかぶせても仕方ないし。話す側に立っていると、聞く側の立場に気が回らなくなる。伝えることに精一杯になってしまうと、周囲の状況が見えなくなり、それが伝わっているかどうかまで気が回らなくなる。自然といえば、自然なことかもしれない。

一人の人が案内しているときには、ゆずって終わるのを待つというルールなりマニュアルなり指導なりがあれば変わるのか。あるいは、もうひとり世話役みたいな人がいれば、そばで気づいて、順番に言いなさいとか、一人でまとめてやりなさいとか声をかけられるのでは。そんなことも思うけれど、あいにくそういう役どころはなかなか登場しない。1人は東京メトロの人、1人は東急の人だったりするのかもしれない。

などと、どこにも到達しそうにないようなことを考えながら、ちょっとした引っかかりを得ると、なんとなく観察して、時おりメモにとってみたりする。今、上に書いたようなメモだ。

取り立てて何かに展開する見通しも意図もない、書くことで期待できる収穫もないまま、ただ気にとまったシーンを言葉でスケッチしてみる。

何か気に止まったことを、そのまま忘れてしまうよりメモにでもしてみたほうが、何かの足しになるかもしれない。なんとなく気に止まったということは、何かしら意味があるのかもしれないし。

そうして書いているうちに本当に何かしらの気づきを得ることもあるし、別の何かと結びついて、ほとんどそれと関係ないようなところに考えが及ぶこともある。

あるいは、知覚したイメージを言葉で描写していく過程で、あれ?あれって何ていうんだっけ、どっちの漢字だっけ、この言葉って本当にこういう意味で使っていいんだっけ…などと日本語の勉強に移っていることもある。書くからこそ「わからない」が出てきて、わからないに至れるからこそ「調べる」に到達するのだ、これでいいのだ、と思う。

それすらもなく、何にも展開しない、ただシーンを描写するに留まることもある。書いたこともいずれ忘れてしまって、何にもなっていないというメモもたくさんある。

でも、何にも展開しなかったからといって無駄なことをしたという気もしない。後になって、また掘り起こす日が来たりするかもしれないし、まぁ一生来なかったとしても、それはそれでいいじゃないかと。そうして満足できちゃうところに、自分の凡人性を感じる。

というわけで、冒頭の渋谷駅の話も、ずっと何にもならずに眠り続けていた凡メモである。それをなぜ今さら引っ張り上げるに至ったのかというと、この間たまたまお笑い芸人の「中川家」が、自動放送と駅員さんの声がかぶるネタを笑いにしているのを見つけたからだ。

これを見て、日々の引っかかりをもって、こんな見事にコンテンツを創造する人がいるのだなぁと、笑いながら感服。非凡の極み。それで、自分の手元にある何にもならなかったスケッチを、この笑いにお供えして成仏をはかるというか、なんというか…。

それでも、明確なねらいも期待ももたず、何にも到達しないかもしれないスケッチも、のんびり続けていきましょう。そんな言葉の散歩もいいでしょう。

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