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2016-09-28

記憶は現在に属するもの

先日友人とのおしゃべりで、「記憶」って過去のものじゃなくて、現在に属するものなんだよねって話をした。

最近読んだ本(*1)にあったのだけど、

記憶は現在に属するものであり、現在の自己の掘り出された過去の資源ではない。現在の活動は常に記憶を変えるが、記憶それ自体は常に現在の意味を保持しているのである。

これを説明するのに、著者が「有限パラドックス」の例を挙げているんだけど、これが面白かった。

ウィトゲンシュタインは、有限な数列は、さまざまな方法で続けることができると述べた。たとえば、「2、4、8」という数列は、その後10でも16でもあるいは31でも、規則的に続いているということができる。4番目の数字は、それに先行する数列の意味を変化させるのである。

著者のサビカスは、これって人生でも同じことが言えるとして、「新しい経験は、それに先行する経験の意味を変えることができる」「次に起こることが、それまでに起こったことの意味を再構成する」と続ける。

そうなんだよな。今、8の地点にいるとする。ここから先に進んだとき、10な出来事が起これば、次は14かなぁと思ったり、16な出来事が起これば、次は32かなぁというシナリオを描くかもしれない。でも、8にいる今現在は、10とも16とも31とも思い浮かべることはできるし、自分が行きたいほうに心を決めて舵取りすることもできるし、気分や能力によっては8どまりでふさぎ込むことも起こる。

「過去」には戻れず、過ぎ去ってしまった時を表すとしても、「記憶」は固定的なものじゃない。人の解釈に依拠し、常に再構成されるものとして、今ここにあるのだ。

過去にどんな意味づけをして、どんなシナリオを描くかは、今によって書き換え続けられているし、人によってどんな過去が掘り起こされ、脚色され、どんな未来へ方向づけられるかが異なる。この先にどんな想定外が起こって、今起こっていることの意味が書き換わり、今書いているシナリオがどう書き直されるかもわからない。

これって、少し前に書いた(*2)「マチネの終わりに」の一節ともリンクするなぁと思いながら読んだ。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?

「過去の記憶」とは、よく使う表現だけど、「現在に属する記憶」って捉えてみると、この既成概念の崩壊っぽい感覚はなかなか快い。記憶とは、過去の解釈とは、すごく創造的なものだなと思う。

*1: マーク・L・サビカス「サビカス キャリア・カウンセリング理論」(福村出版)
*2: 過去を変える、未来の作用(心のうち)

2016-09-27

目の手術、再び

ついに、目の手術の決断を下してしまった。前回7月の定期検診で、「次に来る時(2ヶ月後)には手術の決断をしてきて」と、お医者さんに言われていた。カルテには「オペ決心」と書かれて送り出された。

それでも私はこの2ヶ月、真剣にミラクルを期待していた。2ヶ月経過、目を覗き込んだ先生が言う。「あら、なんだか進行が止まってるね。これだったら手術しないで逃げ切りもありかもね」というミラクルを。

来い、ミラクル!そう願いながら昨日、眼科を訪ねた。恐る恐る腰かける私を見て、先生は「さーて」と、来週のサザエさんの予告でもするかのように軽快に、そしてニヤリと笑う。あごを台に乗せるよう指示すると、私の目を、右目、左目と覗き込み、「うーん、やっぱりこれは、手術したほうがいいねぇ」と。ミラクルは、起こらなかった…。

検査器具から目を離すと、先生が4ヶ月前と2ヶ月前に撮った左目の写真を見比べて言う。「ほらね、ここの白いのが広がって、黒目に近づいているでしょう。さらに広がっていくと、鼻側のこっちと、耳側のこっちがつながっちゃう可能性もある」と。さらに「手術を先延ばしにしていくと、進行すればするほど打ち手が少なくなってしまうんだよ」と。この一言に、そりゃそうだよなと納得。先生の手術の自由度を下げたくはない。

ぐぬぬ。これはもう、仕方ないのか、待ったなしか…。と打ちひしがれていると、先生が「じゃあ、また1ヶ月後にいらっしゃい。そのときに決断しておいで」と口にした。そこで、私の中の漢(おとこ)が目覚めた。え、そんなの意味なくない?1ヶ月後に決めるんだったら今日でも同じ。っていうか今日のほうがいいでしょ。ずるずる先延ばしする意味ないでしょ。

気づいたときには、漢が口を出していた。「いや、だったら今決めます」と。あぁ、言っちゃったよ。言っちゃったもんはしょうがない。やるっきゃない。俺も男だ!決めたものは決めた。女だけど。男に二言はない!男は黙ってオペ決心。女だけど。ほろり。

というわけで、手術することが決まり、また幼子に戻って恐る恐る質問。私「今は、前に手術した右目と同じくらいの進行具合ってことですかね。あれよりひどいってことは?」、先生「今は、右目を手術したときに近づいてきているくらい」。ということは、あれと同等であって、あれを上回る恐怖&痛みではないということか。いや、あれよりものすごい体験なんてありえないんだけど。

振り返ると、私はこの翼状片(よくじょうへん)の手術を、ちょうど2年前にやっている。右目の翼状片を切除したのだ。両目にあったんだけど、右のほうが進行していてよろしくなかったから取ることになった。大変な思いをしたので、左目は逃げ切りたかったが、目薬を指していてもやっぱり進行はしているというので、今回左目の手術も決断することに相なった。

翼状片とは、欠片が白目にあって、それが広がってきて黒目に覆いかぶさると、視力に影響が出るというもの。紫外線が原因なので、テニスプレイヤーとか漁師とかがなりやすい病気らしいけど、インドアな私は単純に紫外線に弱くてなったっぽい(あと極度のドライアイ)。

左目の手術を回避したいのと、術後の再発率が高い病気なので右目も紫外線を避け続ける必要があって、この2年間はだいぶ気をつかって朝から日が暮れるまで、表を歩くときはちょっとした距離でも、ごっついサングラスに帽子、日傘をかかさず、「自意識過剰な一般人」ふぜいを甘んじて受け入れてきたのに、努力の甲斐もむなしく…。いや、それはそれでやっていなければもっと大変なことになっていたに違いなく、この先もずっと続けていく覚悟はあるのだけど。

ともかく、手術を逃げ切れないとあらば、打ち手の選択肢が多く先生の自由度が高いうちに、信頼のおける先生が執刀してくれるうちに。先生は、ちょうど私の右目の手術を2年前にやった直後、60歳か65歳か迎えられて大きな病院を勇退された。今は都内の小さな眼科医院で院長をされている。手術となると、その大きな病院を使っているようだけど。先生が現役のうちに、良い環境でやってもらうのが良いんだろう。もはや、あの手術を他の先生にやってもらう気にもなれないし。

しかし、右目の手術経験があるだけに、何をされるか、どれだけ恐ろしい目にあって、どれだけ痛んでもがき苦しむか、一部始終を知っている。目の中を切ったり縫ったり抜糸したり。ご興味のある方は、今やGoogleで「目の手術 怖い」って検索すると第2位に掲載されるヒット?コンテンツがこちらにあるので、お楽しみください…。

2014/9/5「目の手術を受けた」

はぁ、あとは、その日まで、忘れよう。

2016-09-25

思いこみの検証項目

不安や恐怖心、憂うつな気分に捕らわれてしまったとき、それを下支えしている「自分の考え」が閉じたものになっていないか、背景を探ってみるのは有効な検証アプローチだ。

何かにチャレンジするときの「失敗するんじゃないか」って不安だったり、苦手な人を相手にしたときの「何を言っても取り合ってもらえないだろう」って恐怖心だったり、自分がどうにも無能で無価値に感じられて仕方なくなってしまったとき、その背景を探ると、どこか偏狭な考えに自分が絡み取られてしまっていることがある。

心理カウンセラーで臨床心理士の杉原保史氏の著書(*1)によれば、こうした不健全な考えって、自分の意志で考えた考えではなく、勝手に浮かんできてしまう考えであることが普通で、そのことについて本人はほとんど意識していないことも多い。というので、「自動思考」と呼ばれているのだとか。自動的に思いこんで、自動的に不安・憂うつになっちゃっている。

こうした不健全な自動思考は、正すまでせず、ただありのままに認識するだけでも、厄介な感情が和らぐことが分かってきたのだとか。自動思考を自覚することで客観的に見られるようになって、不安感情や気分に捕らわれることが減ってくればしめたもの。

自動思考の代表的なパターンは、次のものだそう。こうやって見てみると、自分が「一旦は落ち込んだものの、少し時間をおいて気持ちを持ち直す」ときによく使っている検証項目がずらっとランクインしていて、ですよねぇ…と思う。

[自動思考の代表的なパターン]
●全か無か思考…全か無か、白か黒か。中間を認められない考え方。こちらでなければあちらと両極に振れてしまう。
●破局視…常に大げさに破局的、破滅的に考える。
●肯定的側面の否認…肯定的な出来事や自分の側面に対して選択的に不注意で、否定的な出来事や自分の側面には常に選択的に注目している。肯定的な出来事や自分の側面を指摘されても認めない。
●感情的理由づけ…そういう感じがするからそれが事実である。
●レッテル貼り…単純で固定的なレッテルを貼る。
●読心術的思考…人の心理をあらかじめ決めつけてしまう。
●過度の一般化…一つの事例を不適切に一般化して断定する。
●自己への関連づけ…周囲で起きていることを不適切に自分のせいだと考える。過剰に自分の責任だと考える。
●べき思考…いつも自分自身に「〜べき」「〜ねばならない」と言い聞かせている。行動の背景にある考えがいつも「〜したいなあ」ではなく「〜すべき」である。

※先の書籍より引用。「例」は省略。

しかし実際落ち込んだとき、こうしたことは、なかなか一人での探索が難しい面もある。不安だからこうなるみたいな鶏と卵の関係にも感じられるし。とはいえ他人に探索を同行願うのも気後れしたりプライドが邪魔したり。こうした探索活動に、静かに同行して、穏やかに探り当てて、丁寧にほどいていくキャリアカウンセラーでありたい。その訓練も兼ねて、自分の検証は日常的に抜かりなくやり続けていきたいところ。

*1: 杉原保史「キャリアコンサルタントのためのカウンセリング入門」(北大路書房)

2016-09-17

スライド共有:みんなで市場変化を予測する会

「みんなで市場変化を予測して自分のキャリアを考える会」というお題で、ワークショップ用の進行スライドを作ってみました。

みんなで市場変化を予測して自分のキャリアを考える会

これは、どこかでやってみたワークショップではなく、こういうのができたらいいんじゃないかというアウトプットです。Slideshareに公開してありますので、ご興味のある方は見てみてください。そして、もしやってみたら、意味があったとかなかったとか、ここをこうアレンジするといいとか、共有いただければ幸いです(他力頼み)。まぁ実際のところ、現時点で名前負けしているところは自覚していて、「自分のキャリアを考える」ところまで内包できず、そのネタを持ち帰るところまでしか無理なのですが。名前のつけ方をしくじった。

以下は、Slideshareに載せているご案内の転載。

IT/Web業界に限らず、あらゆる業界で仕事の性質が急速に変化しつつあります。業界、組織、個人の役割や職務も、境界線が曖昧になるばかり。 自分のキャリアの行方を考えるとき、自分の希望・条件だけでなく、市場変化を見据えてステークホルダーが自分に期待する職務や役割」がどう変化していくかを明らかにし、これに適応していく必要があります。 しかし、難しい…。視界はもやもやしていて、なかなか一人では先を見通せません。こういうことは、とりあえずワイワイ語り合ってみるのがいいのではないか。ということで、ワークショップの体裁でスライドを用意しました。
※進め方のアレンジ方法をスライドに添えています。開催趣旨、集まるメンバーの構成や人数、割ける時間枠に応じて、ちょうどいい按配に調整して進めてみてください。

ということで、以下に「編集後記」的な話をさくっと書こうと思ったのですが、全然さくっとまとまらなかった…。ということで、ここからが話の始まりと思っていただければ。

自分のキャリア、あるいは自社の社員・部下のキャリアについて考えるとき、「当人の希望・条件」ばかりでなく、「市場・組織の要請」をかけ合わせて落としどころを見出していく必要がありますよね。当人がやりたいことでも、世の中にニーズがなければ仕事にはなりません。

その役割・職務が固定的なものなら、わりと話は単純に済むかもしれません。一度誰かがしっかり考え抜いて明快な指針が導き出せれば、あとはそれに沿って皆やっていけばいい。そういう時代背景にあれば、会社や業界の中に2〜3本の典型的なキャリアパスをこしらえて、「あなたにはA、B、Cのうち、どのコースが合うでしょうね」という与え・与えられる関係も成立する。不動のゴールを掲げて、自分自身、あるいは自社の社員・部下を育てていくこともできる。少なくとも、計画はできる。もちろん、そんなゴールは己の望むところではない!とはみ出したい人は、はみ出せばいい。それも「俺は通常のコースからはみ出して、こっちを行くぞ」と自覚的にできる。

昨今は、そうも言っていられなくなりました。急速な技術進化で、市場や組織が個人に期待するパフォーマンスも何度となく変化を余儀なくされます。自分が得意なことでも、世の中にニーズがなくなれば仕事ではなくなります。走っている間にゴール位置が変わっていく。しかも、変動性(Volatility)、不確実性(Uncertainty)、複雑性(Complexity)、曖昧性(Ambiguity)が高いVUCAの時代なんて言われて、先々の予測も困難。ゴールが遠くに伸びたり方角が変わったり消えたり、これまでなかったものが出現したりします。仕事に求められる能力は流動的で、なおかつ先々の見通しの不確かなもの。そういう前提で、走りながらダイナミックにゴール設定や計画を作り変えていく基礎体力が求められています。

その上、これまで社会的に好ましいとされてきた価値観すら、その立場は曖昧になり、捉えられ方も多様化しているように思います。自分が矜持をもって取り組んできたことが、世に称賛される「職人のこだわり」として評価されるのではなく、合理性を欠いた「老害」として認定される変化すら起こりうる、人によっては残酷この上ない時代変化です。

個人的には、老子のいう「無名天地之始、有名萬物之母」を実感させられるこの時代感は、好みだったりもします。既成概念が溶解して、これまでの言葉が意味をなさなくなり、名ある世界から名なき世界へと揺り戻しが起きている。もう一度、名なき世界からものを見て、ゼロからこの世界の本質と、今の時代にあったものの見方・捉え方・関わり方を手探りしていく感じ。自分だって決してうまいこと、それを為しているわけじゃないけれど。

一人の人間に求められる役割や職務の境界線も曖昧なら、業界や組織の垣根も崩れてきている。会社は会社で、業界は業界で、自分たちが追求したい本質的な価値は何なのかを手探りしながら、時代に対応した舵取りを求められている。そんなふうに捉えています。

つまり、そういう時代にあって、少し先の未来がどう変化していくのか見通してみるワークショップは有用かなと思ったのです。3年後、5年後の見通しといったって、後から振り返ってみれば全然当てずっぽうのことしか考えられないかもしれない。それでも、というよりは、それだからこそ、当人が自分でいろんな予測を試みるプロセスを体験することに意味があるんじゃないかなと。

当たっていようがいまいが関係なく、人に予測してもらった出来合いのキャリアパスで考えるんじゃなくて、自分で予測してみるということが、今の時代を生きるに適した基礎体力づくりじゃないかなと。いくら予測したところで、誰が予測したところで、未来予測の不確実性から逃れることはできないわけで、そうなんだったら、不確実な行く末をもって今を楽しく生きられる基礎体力づくりが意味をもつんじゃないかなと。

しかし、とにかくお題が難しいので、楽しくそれに取り組むためにも、より有意義な予測を導き出すためにも、みんなでやるのがいいよね、と。そういうわけで、そういう時間をちょっとみんなで持ってみようと、とっかかりやすい枠組みを、ワークショップという体裁に落とし込んだのが、今回の試みです。

普段からそういうことはやっているという人には不要かと思いますが、そうじゃないという方、こういう枠組みがあったほうが周囲を巻き込んで機会を設けやすいという方に、お役立ていただければ幸いです。

できるだけ、いろんな年代の人、いろんな志向・関心事をもつ人をごちゃまぜに取り入れて、自分より視座が高そうな人を巻き込んでできるといいと思います。なかなか難しいという場合は、スライドに載せているように事前の課題図書(*1)を取り入れて、先見性高い著者を間接的なオブザーバーに据えてやってみるのもありかなと。

あと、会社でやりたいという場合。社内の上層部の人たちに「今後、起こりうる環境変化」の部分を壇上で公開討論会してもらって、それを受けて社員みんなでこのグループワークをやるような二段構えにしてもいいかもしれません。そうすると、社員の人たちは上層部の人たちの視座をもって未来予測ができて視野も広がるし、上層部の人たちに抜けている観点があれば、それを部下の人たちにフィードバックしてもらう機会にもなります。ここで部下が臆して語らず、活発な意見交換ができない状態であれば、まずは組織のフラット化をどう推し進めるかが優先課題になるやもしれません。それはそれで健全。言うは易し…ですが。

会社ごとに考え方はいろいろあると思うけど、会議室で一部の人たちが「我が社のキャリアパス」をこしらえて出来合いのものを配って選ばせるのを従来型とすれば、社員全員(あるいはできるだけ多くの人たち)に「今後、起こりうる環境変化」を予測する機会を設けて、それが自分たちの仕事にどう影響してくるかを段階的に考えていく力を養う施策のほうが、今の時代にあった強い組織づくりになるかもなぁなどと、今のところ机上の空論で考えたりしています。

*1: ケヴィン・ケリー著「〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則」(NHK出版)

2016-09-10

互いの仕事を知り合うこと

人の仕事の話を聴き、自分の仕事の話をすること。互いの仕事を知り合うことって大事だなぁと思う今日この頃。これって、直接仕事で関わるクライアントや外部パートナー、社内の人とはやっていても、そこをちょっとはずれると私は全然だ。

と思ったけど、よく考えてみると、直接仕事で関わる人とすら具体的な案件の話ばかりで、自分の仕事の話はしていなかったりする。自分で考えられること、まとめられることは自己完結でやってなんぼの仕事だから、そこについてくどくど説明を浴びせては編集・仲介役の意味がない。そういう前提があるから、極力自分の仕事自体の話はしないように、しないようにという意識が働く。相手とは自分が考えたこと、まとめたことの確認・検証なり、その先の話をするのが肝要なのだと。

具体的な一つの案件から離れて「こういう仕事をしています」という話をするのも、営業フェーズでは必要に応じてクライアントさんに話すけど、それ以外だと外部パートナーにも社内の人にもほとんど話す機会がない。仕事領域もわかりにくいし、私も説明ベタだし、さして注目される仕事でもない。ここ数年で社内で話した相手というと、メンターしている新卒の子くらいじゃなかろうか(新卒の子に、自分が最近面白いと思っている仕事の話を、自分の言葉で伝えるのは大事だと思っていて、わりと遠慮せず話題にあげる)。

そこにちょっとした風が吹いた。この夏ある会合で知り合いになった方から、なんか一緒に仕事ができそうな気がするから一度情報交換の場をもちませんか?とお声がけいただき、その方のオフィスにおじゃまする機会をもったのだ。やる人はそういうことを、具体的な案件がなくてもやっているのだなぁと感服。

なんでもかんでも場を持てばいいというものでもないが、私もその会合でお話をうかがっているとき、この人はもしや私のメンター的存在ではないかと感じるところがあり、この機会を大変ありがたく思った。活動領域は違うのだけど、少し抽象度をあげて解釈すると共通項がある感じ。ゆえにお仕事をご一緒できたら、いろいろと広がりがあるような、気づきや学びをいろいろいただけそうな感じがした。

実際お会いしてみたら本当にそうで、1時間半ほどだったか互いの仕事の話をしてみると、案件の規模感やバラエティの豊かさ、スコープの広大さには、ただただ敬服するばかりだったけど、自分の仕事との共通項を感じるところも多くあった。あぁ、別領域でこんなふうに仕事をしている人がいるのだなと大変刺激的だった。

すごく曖昧で柔らかい領域に立ち、案件ごとに自分の役割を探り探り当てていって、ときに踏み込んだり身を引いたりしながら、振り返れば少しずつ自分の活動領域を広げてきた感じとか。

クライアントの話を聴いて、こちらで答えをどれだけ完璧に作り上げられるかというところを重視しているのではなくて、勘どころの冴えたたたき台を提示してみて、クライアントと一緒に考える、そのやりとりを踏まえて、また能率よく前進するようにアウトプットをこしらえて一つひとつ言葉にしていって、再び先方に提示して「こういうことですかね?」というやりとりを通じて、言葉・捉え方を精緻化していこうというスタンスとか。できるだけ問題の本質をつかんで、そこからブレイクダウンして具体的施策を講じたいという意識とか。

こういうのを言葉にしている時点で、そうとう曖昧で、何言ってんの…という感じかもしれないけど、なんかその辺を大事にしていそうなところに、すごく共感を覚えたのだった。

自分の働きが、最終成果物ではなくプロセスにこそ宿るみたいな仕事領域の人ほど、ちょっとまとまった時間をとって、言語化して有形化して、自分の仕事を人に伝えていく時間をもつことは、意識的にやったほうがいいのかもなぁと思ったりした。エンドユーザーのお客さんに示すことはないんだけど、一緒に仕事する相手、一緒に仕事できたらなぁと思う相手と共有することは、意識的に時間をとってやったほうが発展的に仕事していけるんだろうなぁと。

2016-09-08

人材開発からキャリア開発へ

先日ある会社の人事部門の方から、このブログを読んで…というのでプライベートのアドレスに相談メールをいただいた。このブログきっかけで、法人の面識ない方からお問い合わせをいただくというのは、これまでなかったんじゃないかしら(たぶん)。あと法人のお客さんから「人材開発」ではなく「キャリア開発」の相談をいただくというのも新鮮だった。

勤め先の仕事でも、法人のお客さんからいただく相談は、研修を中心に「人材開発」に類するものが基本だ。今の会社に来てからは概ね軸足をそっちにおいているので、当然といえば当然なのだけど。「キャリア開発」に類する相談は、ごく稀に個人的にはいただくけれど、実務者コミュニティの主宰者や、もともと知り合いの友人知人からの声がけで、キャリアカウンセリングやキャリア形成に関する講演など単発のものだ。

今回お問い合わせいただいたのは勤め先のクライアントさんでもあったので、私も会社の人間として訪問してお話をうかがったのだけど、訪問してみたら「人材開発」の相談ごとにも発展して、いろいろつながっていくことの面白さを感じた。

じっくりお話をうかがって意見交換しているうち、先方の静なる熱に打たれて、何か自分にお手伝いできたらなぁとか、お仕事ご一緒できたらなぁという思いを強くして帰ってくる。最近、お客さんにせよパートナーにせよ、こうした思いに駆られる機会がちょこちょこ続いていて、その巡り合わせに感謝する。

ビジネス的には案件とれてから言いなさいよという話だろうけど、個人的には、ひょんなことからお声がけいただいて、お話を伺いに行って、意見交換したり情報交換したり、持ち帰って先方の課題を整理したり、どうしたらいいかなぁと提案を練ったりして、考えた提案を出してみたら、なかなか良い反応をいただけて、信頼関係でつながった感じが(一方的に)あって。この時点で、ものすごーくありがたい気持ちになる。ほくほく。人生の味わいとしては、だいぶこの上ない。

私は「キャリア支援」を自分の仕事の幹とみていて、その一環として長く「人材開発」の仕事を専門的にやるようにしてきているのだけど、ここで「キャリア開発」のご相談をいただいたというのは、なんとなく、そろそろ…という風向きの変化か。ここしばらくやってきた「学習/育成」から少し幅を広げていく頃合いなのかもしれないなと。しばらくぶりに「揺さぶり」のような風を感じる。

そんなこんなで、最近は「キャリア開発」の脳みそと感受性を活性化させるようにしている。ちょうど2016年度からキャリアコンサルタントが国家資格化され、それもこれを機に重たい腰をあげて申請手続きした。CDA資格をもつ人は申請して登録できるようなのだけど、調べてみたら期限が今月までだった…(*1)。危ない、危ない。手続きに数週間かかるようだけど、ぎりぎりセーフかな。

*1: 質問いただいたので今一度調べたのですが、CDAなどの有資格者がキャリアコンサルタントになる登録申請は、平成28年4月から5年間のうちに指定の手続きを行えばOK。ただ、「現在、いわゆる標準レベルのキャリア・コンサルタントである方については、平成28年4月から9月末までの間にキャリアコンサルタント名簿に登録して頂く必要があります」ということで、今月中にその名簿登録手続きをしないと、「キャリアコンサルタント」、あるいはこれに紛らわしい名称を用いることができないというものらしく。名乗るなら今月中に名簿登録手続きを完了させなさいよ、ということのようです。詳しくはこちらをご確認くださいませ。
「キャリアコンサルタント」について(厚生労働省)

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