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2016-06-01

「聴覚」が受け止めているもの

先日とあるコーヒー屋のチェーン店に入ったところ、注文を終えて席について程なく、レジの中の店員さんがデッキブラシで床面を掃除し始めた。レジの内側スペースを掃除しているのでブラシそのものは見えないのだけど、水分を含んだデッキブラシ特有のジュワシ、ジュワシ、ジュワシという音が店内に響いて、これにはけっこう参った。プールサイドの掃除の音である。

安価にコーヒーを出す店に入ったので、贅沢を言っちゃいけないのかもしれないが、すぐ目の前でお客さんがコーヒー飲んだり軽食つまみながら本読んだりおしゃべりしたりしている中、そのジュワシ、ジュワシ、ジュワシっていうのは、だいぶ耳に障る感じがあった。

しかも、それを他の店員も一向にとがめる様子がない。何か話しながらやっていたから、この清掃業務は店を開いている時間帯にやってしまうのが、この店の普通なのかもしれなかった。

確か22時閉店で、掃除していたのは20時~21時くらい。これから徐々に客も減ってくる時間帯ではある。とはいえ、閉店まではまだ1~2時間ほどあるし、その時点では6~7割お客さんが入っている状態。

うーん、清潔を保つのはいいことだし、新しい客が来ないからと時間を持て余してだべっているだけより仕事熱心なのかもしれない。けれども、布巾を使ってやるのが小掃除だとしたら、デッキブラシを使ってやるのは大掃除。大掃除は、客が帰った後にやるくらいのバランス分けが按配よろしいのでは、と勝手ながら思ってしまった。まぁ、気にならない客が一定数いれば、私がどう思おうと構わないんだけど。

それはそれとして、それなりにわいわいがやがやしている店内だったのに、どうしてデッキブラシの音があんなに耳に響いたのか。というので、関係あるのかないのかわからないが、なんとなく思い出したのが、精神科医の中井久夫さんの言葉だ。

そもそも、聴覚は視覚よりも警戒のために発達し、そのために使用され、微かな差異、数学的に不完全を承知で「微分回路的な」(実際には差分的というほうが当たっているだろう)という認知に当たっている。(*1)

そう言われるとしっくりくる感じがある。普段から、道を歩いていても後ろから車が近づいているとかは耳を頼りにしているし、何事か!と様子をうかがいたいときにはたいてい自然と耳を澄ます。逆に、安定した静けさは人を無防備にしてリラックスさせる。これは人によるのかもしれないが、私は割りと静けさが好きだ。

だとすると、嫌な音、耳障りな音ほど聴覚がとらえやすく、人の認知に入りこんできやすいとか、あるのかもしれないなぁと。中井久夫さんの言葉は、その後こう続く。

声の微細な個人差を何十年たっても再認して、声の主を当てるのが聴覚である。(*2)

これも、確かに。聴覚って、視覚だけでは特定できない微細な違いをとらえて、カチッとはまるかどうかを確かめてくれる強みをもっている気がする。

直接に会って何度もやりとりある人ならともかく、直接対面した経験がない有名人などは、街中で見かけても、似ている人なのか本人なのか、なかなか特定できない。だけど、声を聴くとそこで、あぁ本物だとか、別人かとか、見分けがつく。視覚情報だけだと、どうも心もとないが、聴覚情報を持つと、そこでカチッと判別がつく。

ちょっと突飛だけど、もし輪廻転生があるとして、魂とかなんだとか内面のもの以外に、人が知覚できる何がしかも前世から引き継いでくるとすれば、それは視覚情報たる「姿・形」ではなく、聴覚情報たる「声」の素じゃないかしら。って、ものすごい想定が入り組んだ話だけど…。

何の根拠もない話だけど、同じ姿・形で生まれ変わってくるっていうよりは、それっぽいではないか。人の声を聴くことによって、その人に深い縁を感じることがある。そう言われれば、そんな気もしてくるじゃないか。

(ちなみに私はオカルトに興味はない、ただ「在るか無いかわからないもの」を無いと決めつけることもしない、不可知論者とかいう立ち位置を好む)

あと昔よく聴いた音楽を久しぶりに耳にすると、一気に自分の身が当時に引き戻されるような感覚を覚えるのも、音なのか聴覚なのか、それ特有の力を感じるところ。このとき、視覚情報はむしろないことによって、感覚が研ぎ澄まされることも多いように思う。

「百聞は一見に如かず」と言うけれど、これにも良い面と悪い面とあって、自分が獲得した「一見」の視覚情報に、過度に信頼を寄せやすい人間の特性を指摘しているようにも思う。「百聞が一見に及ばない」というのは、あくまで人間の特性であって、別に「百聞より一見して受け取った認知のほうが正しい」という話ではない。「一見」は、「百聞」や、自分の想像力とセットで使わないと、むしろ読み違えてしまうリスクを負っている。

と、とりとめない「音」なり「聴覚」の話。以前に宛てもなく「声」の話というのを書いたことがあって、まとまりなくてもいいかと開き直って書いたメモ。「数学的に不完全を承知」で、なお微細な違いを聴き分けることに働く聴覚に、愛おしさとありがたみを感じる。

*1、2:鷲田清一『「聴く」ことの力 ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)

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