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2016-02-05

設計というより編集するキャリアデザイン

「映画を一本撮るときに、監督が考えること」という副題にひかれて「観察する男」という本を読んだ。

ひとつの映画をつくるのに、どういう経緯で思いたち、どんなふうに撮影に入り、撮る対象を決め、現場のダイナミズムを取り入れて広げ、フォーカスを絞っていくのか。台本やナレーション、BGMなどを排した「観察映画」と呼ぶドキュメンタリー映画を提唱・実践する映画監督、想田和弘氏のインタビューをまとめた一冊。

想田監督は、事前の計画をほとんど立てず、テーマもキャストも何日撮影するかも決めずに撮影を始める。取材も交渉も撮影も録音も編集も一人で手がける、ゆえに実践できるやり方とも言える。

何が撮れるかわからない。そこで偶然撮れてしまったシーンが1つ、2つ、出てくる。2つの出来事が監督の頭のなかで関連づくと、それがレイヤー構造で見えてくる。キーワードが頭の中に浮かびあがってくる。キーワードを意識してカメラを回しだす。問題意識が生まれてくる。コンセプトが立ってくる。それでも撮影中からテーマを絞り込みすぎないで、いろんなつながりや可能性に目を向ける。じっくり、丁寧にとらえていく。撮影を終えると、一通りのログを何ヶ月もかけてテキストに起こし、撮った素材を振り返る。そこに物語を描き出していく、あるいは物語を読み取っていく。編集という作業も、何回何十回と作りかえて、完成に至る。

完成した映画は、最初からそうやってつくったように見えると思いますが、全然違うんですよ*

映画にかぎらず、文章でも提案書でも作り手にまわってみれば、この一言にうなずかないわけにはいかない。自分の仕事で久しぶりにちょっと潮目が変わる感覚を覚えていたところ、これは「キャリアデザイン」にも通じるなと思った。

「デザイン」を日本語に置き換えると、真っ先に思い浮かぶのが昨今は「設計」という言葉だけど、「キャリアを設計する」となると、どうも荷が重くなってしまう。スコープを定めた数ヶ月のプロジェクトだって全うに設計するのは難しいのに、人生だのキャリアの設計だなんて。先のことなんて世の中どうなるかわからない、今の自分のことだって把握が難しいのに。

そう思うのは、私にとって「設計」という言葉が、直感的に“鳥の目”のイメージに結びついているからかもしれない。明確なゴールを定めて、そこから論理的にゴールまでのプロセスを落とし込んでいく感じ。それに沿って仕上げると、ゴールに到達する。

一方で、“虫の目”に結びついているのが「編集」という言葉だ。あくまで個人的にだけど、編集は、自分の身の周りに今すでにある素材をあれこれ見渡してみて、これとあれをくっつけたら?とか、あれとそれをくっつけたら?とかやって浮かび上がってくるものをとらえ、未来につなげていく感じがある。

「設計」も「編集」も同じように、何かの軸をもって意図的に活動していくプロセスを表わしていると思うんだけど、「設計」のほうにはある程度明確なゴール設定が求められる感があり、「編集」のほうにはゴールというより作る過程の方針を置く感がある。一定の方針を定めたら、その方針にそってプロセスを歩んでいく、結果としてゴールに到着する。当初ゴールはイメージできていなかったけど、方針にそった先にたどり着いたゴールだ、これでいいのだ!みたいな。

キャリアに関していえば、手元の素材を編集していく、これまでの経験や目の前の興味関心をいろいろつなぎあわせたり組み替えたりして、浮かび上がってくるものをとらえるというほうが、肌にあって無理がない人が多い感じがする。自分がそうだからというだけかもしれないけど。

ちっちゃい頃から、野球選手になりたい!とか、恐竜博士になりたい!とか、医者になる!とか、漫画家になる!とか、自分の将来やりたいことが明確にあったり、自分の興味と世の中の職業との結びつきがわかりやすかったりすると、「設計」でも違和感がないのかもしれない。けれど私のように、別段自分のやりたいこととか、就きたい仕事のイメージをもたずに社会人になってしまった場合、設計というのはちょっと重たい、どっからどうしていいかわからない感じがある。

映像をさわりながら意味が浮かび上がってくる感覚というのはおもしろいです。こういう作業は、やっている時には苦しいですけどね。見えてしまえば語れますけど、見えないから苦しいわけで。やっている時は本当に暗中模索で苦しいんです。*

自分のキャリアでいえば、実体験をさわりながら意味が浮かび上がってくるのを読み解いて歩いてきたとしかいいようがない。

またキャリアカウンセラーとして、暗中模索中の人の相談を聴いたときは自然と、その人がもつ素材に自分なりの意味づけをしてみたり、複数の素材がつながりあって頭に浮かんだシナリオを仮説として提示してみたりしている。それがそのまま本人の中で価値づけられることもあれば、その話を受けて本人自ら肉づけしたり言い換えていくこともある。

いずれにせよ、今手元にある素材をさわりながら、自分の中で意味が浮かび上がってくるのをつかまえて「編集する」ほうが、10年後の自分をむりくりゴール設定して、そこまでのプロセスを「設計する」より、あるいはそれができずに立ち止まっているより、ずっとたのしく人生を過ごせそうな感はある。

昔、withDというWebマガジンの連載で書いた「キャリアをデザインしすぎるな」というコラムを思い出した。長いことドリフトしてきた感があるけれど、この数年ぶりの潮目はどう作用するのやら。

*: 想田和弘 (著), ミシマ社 (編集)「観察する男−映画を一本撮るときに、監督が考えること」(ミシマ社)

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