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2016-01-15

人の性格をタイプで語るうさんくささ

先日、人の依頼を受けて久しぶりにMBTIのフィードバック・カウンセリングを行った。MBTIについては以前こちらに概要をまとめているけれども、一言でいえば「ユングが提唱した心理学的タイプ論に基づく性格検査」ということになる(いかつい)。

性格検査といっても、検査単体ではMBTIとしての体をなさず、検査結果をきっかけにして自己洞察を深めるセッション(有資格者のサポートをFace to Faceで受けながら、自分でタイプ検証を行う)まで行って、はじめてMBTIの構造が成り立つ。Web上で検査だけ受けて「当たってる/当たってない」で終わってしまうと、それはMBTIの中核部分が抜け落ちた状態と言える。MBTIは性格検査というより、人の理解を深めるためのメソッドといったほうが適切なものだ。

…なんてくどくど語ると、“たかがツール”に心酔した有資格者の盲目的発言に聞こえて、うさんくささを覚えるかもしれない。

私ももともと「MBTIがいつでも誰にでも役立つからみんなやるべき!」とは思っていないので(まともな有資格者は、そんなこと言わないが)、先述したページに概要・案内をまとめて以降は、依頼があった際にお引き受けするにとどめている(まともな有資格者なら、そこまで控えめにすべきと考えているわけじゃない)。安易に方々でしゃべっても、有用性よりはうさんくささのほうが先に立つだろうなぁという思いがあって、話題をふられないかぎり人に話すことはしていない(臆病ともいう)。

かといって、全然使えないメソッドだと思っているわけでももちろんなくて、非常に有意義なものだと内々には思っている。そんな立場から、この「うさんくささ」について、ちょっと考えてみたい。

人の性格や資質からタイプ(類型)を見出そうという試みは古くからあるらしいのだけど、こうしたものにふれて、まず人の頭に思い浮かぶ一般的な抵抗は、「世の中いろんな人がいて、それこそが素晴らしいのに、多種多様な個別の人間をたかだか何個か何十個かに分類するなんて無理だし、不毛だ。専門づらして、人間を物のように扱うな」という反応じゃないかと思う。

その一方で、こうした性格タイプ論なりメソッドなり診断ツールなりを前にすると、これに関心を示す気持ちも生じるのが人の常だ。自分のことをより深く知りたいという気持ちはたいていの人にあり、SNSで自己診断ツールの類がよく流行るのは、その表れである。

つまりは、一人の人間のうちには「不毛だ」と「興味あり」のアンビバレントな(相反する)感情が生じていて、そのどちらを本人が意識するか、表に出すかが人によって違うだけなのかもしれない。

ここでは、そのうち前者の「不毛だ、馬鹿馬鹿しい」という気持ちにフォーカスして考えてみたい。というのは、そこには一つ、性格タイプ論に対する誤解があると思うからだ。

人の性格タイプ(類型)論を説く人も馬鹿じゃない、というか、その道の専門家だ。一般の人がぱっと思いつく疑念などは、最初のうちに検討済みである。つまり、個々人がそれぞれにユニークな存在であるということは当たり前とした上での、タイプ論なのだ。少なくともMBTIはそういう前提に立っている。

しかし、受け手側が受け取り方をまちがってしまっては、使えるものも使えない、有益なものも不毛に映るのは当然。「あなたのタイプはこれ」というのをそのまま受けとって、自分をそういう人格に固定化する診断のように受け止めてしまう。

大衆的なタイプ分けとして血液型を例にとるなら、たとえばO型が全員おおらか、A型が全員神経質なんてことないだろうことは、ちょいと考えればわかる。そんなの当たり前という人もいれば、「A型の割りに細かくないのよ」という人もいるけれども、とにかく現実として、血液のタイプによって性格が決定づけられたり、血液のタイプによって行動が一様に固定されるなどということはない(ちなみに、血液型と性格の相関関係は今のところ証明されていないと6~7年前に聞いた)。

完全に何タイプの行動をとる人間というのは(精神が健常な状態であれば)いないわけで、人が生来的な性格タイプをもつとしても、それだけで行動を選ぶわけじゃない。その人の知能や発達段階(5歳か20歳か50歳か)によっても選択は変わるし、それまでの人生経験によっても、そのとき置かれている状況によっても選択は変わる。誰かのタイプをこれと特定することによって、その人の行動を予測できると考えるのは愚かなことだ。

MBTIのフィードバック・カウンセリングを行うにあたって、年末年始に「ユング心理学入門」を読み返していたのだけど、著者の河合隼雄さんが、この点に言及していて、ふむふむと感じ入った。

まず、タイプを分けることは、ある個人の人格に接近するための方向づけを与える座標軸の設定であり、個人を分類するための分類箱を設定するものではないことを強調したい。類型論の本を初めて読んだようなひとがおかしやすい誤りは、後者のような考えにとらわれてしまって、すぐに人間をA型とかB型とかにきめつけてしまうことである。こうなると個々の人間は分類箱にピンでとめられた昆虫の標本のように動きを失ってしまって、少なくともわれわれ心理療法家にとっては役立たないものとなってしまう。(*1)

人の性格を類型化するタイプ論というのは、個人の人格をより深く理解するための「座標軸」を提供するもので、個人を分類するための「標本箱」ではないのだ。今ここに生きている人の考え方や行動を決めつけるような理論、メソッド、ツールではない。送り手はそういう取り扱いをしてはならないし、受け手もそういう受け取り方をしてはならないのだ。絵にすると、こんな感じかな。

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*1: 河合隼雄「ユング心理学入門」(培風館)

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