最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »

2015-11-27

海外に移住する友だちへの餞別

先週末、まもなくイギリスへ移住する友だちに会ってきた。彼女と旦那さん、男の子3人の5人家族。大人になってからというもの、「友だちの家に遊びに行く」機会はとんと少なくなり、しかも家庭をもった友だちの家に遊びに行く機会はまれ。そんな中、彼女の家にはよくお邪魔した。子どもたちにも、顔を覚えてもらえるくらいには会っていた。駅からおうちに向かう線路沿いの道を歩きながら、あぁこの道を歩くことはもうないのだろうなぁと思うと、ちょっぴりさみしい気持ちになった。

それでも、大方のものを船便で送り終えた閑散とした部屋の中、みんなで会って一緒にしゃべっている間は、いつもどおりで、まったく実感もなく。最後のお別れのところで、玄関を出てバイバイするときに、なんだか急に目頭が熱くなったけれど、涙をこぼさず、ハグして笑顔で帰ってきた。

きっと会える。会いに行けばいいのだし。ロンドンなら一度一人で行ったこともあるのだし。それよりは、とにかく海外で新しい生活を始める彼女のこと、家族のことを、心から応援したい。どうか、すばらしい日々を重ねていけますように。

餞別に贈った品は「あかしや 水彩毛筆 彩 20色セット」。友だちも、彼女の子どもも絵を描くのが好きだった(気がした)ので、新宿の世界堂(1F〜6Fまでビル一棟まるまる画材・文房具・額縁の専門店)をふらふらして見つけた。日本の伝統色で構成されていて、筆職人が1本ずつ手造りで穂先を仕上げた、水彩画を描くための筆ペンセット。ちょうど、いいな、と思って。

荷物を増やすのは申し訳なかったのだけど、まぁこれくらいは…。それ自体は小ぶりで軽いんだけど、持ち主によっていくらでも可能性が広がっていくものを、その期待をこめてプレゼントするのって、好きだ。

今日、飛び立つ。いってらっしゃい。

風邪ひき諸君

丸二日、寝続けていた。症状は喉の痛みと熱。わかりやすい風邪症状だ。熱はいちばん高いときで37.7度。子供の頃だったら平熱36.2度くらいだったので高熱とも言えない程度だけど、今は平熱が35.4度くらいなので、平常時より2度も上がっていると考えると、くったりする。

まぁでも、これくらいで済んで良かった。37.4度をしばらくグズグズして、36.4〜36.9度を行き来して、今ようやく35.4度の定位置に着地した。

36度台後半に落ちたところで適当に活動を再開すると、きまって風邪を長引かせるので、今回はとにかく短期決戦となるように、定位置に戻るまで集中して寝続けた。一日で快復とはならなかったが、これまでの戦線を振り返るに、二日で済ませられたのは私的にかなり上出来だ。ここから先、ぶりかえさなければの話だけど。

喉の痛みを感じ出した一昨日の晩から、店のレジを挟んだ店員とのやりとり以外誰とも話していないので、誰にもうつしていないのも今回は評価。

風邪引いてマスクせず仕事に出て…というのは、周りの人にうつす問題が、自分の風邪問題の何倍もの問題を引き起こすので、風邪ひき諸君はそこのところしっかりわきまえて事に当たってほしい。周りは戦々恐々としているのだ。

私は仕事がどうにも都合つかない場合でなければ、風邪のとき、台風のとき、雪のときも早々に家に帰るようにしていて、自然にあらがわないこと、きちんと恐れることをモットーにしている。自分の意識外の、体の言うこと、自然の為すことは、極力素直に受け入れるようにすると、事はスムーズである。「仕事がどうにも都合つかない場合」をどうくくるかという自分の意識内にかかってくるのだけど。

この冬の風邪は、これ一つで終わりといきたいところ。寒くなりました。

2015-11-22

勤労に代わる義務

働き方の未来を考える7日間「Tokyo Work Design Week 2015」( #TWDW2015 )というイベントが、渋谷ヒカリエとその界隈で行われている。勤労感謝の日をまたいだ1週間やっていて、私は土曜のイベントごとに参加してきた。

そこに向かう道すがら、「働き方」以前に「働く」ことの未来についてぼーっと考えていたのだけど、あれ?と思ったのが、そういえば日本国憲法の三大義務に「勤労の義務」ってあったよなと。あれって、この先「働くのが基本」という一様の価値観が薄まっていくと、ちょっと浮いた感じになっていくんじゃないかしらと。

それで、いや、待てよと。そもそも義務教育と納税の義務はしっくり感あるけど、勤労が義務っていうのは、ちょっと不思議感あるなぁと。それでちょっと検索してみたら、その不思議について語られている記事があった。

実は、現在の我が国のように自由と民主主義に立脚する体制をとる国の憲法に勤労が国民の義務として規定されているのは異例なのです。(中略)自由主義の体制では、納税の義務が規定されればよく、どのように収入を得るかは自由でなければならないからです。*1

読んでみると、この勤労の義務というのは、ロシアのスターリン憲法から持ち込まれたものらしい。社会主義国であれば、なるほどしっくりいく。日本でもこれまでは、「働かざる者は食うべからず」って勤勉な日本人にさほど違和感なく受け容れられてきた感があるけれど、この先はなかなか。

じゃあ、無くすんじゃなくて、何かに入れ替えるとしたら何になるかねぇと考えてみた。勤労に代わって、うーん例の「活躍」の義務じゃ荷が重い。 じゃあ「活動」の義務?社会とはとりあえず何らかつながった活動をしましょうよと、そういうニュアンスを残すか。じゃあ「社会参加」の義務?などなど。

ビジネスがやりたい人、稼ぎたい人、自分のやりたいことがビジネスと親和性高い人、自分の得意なこと・専門分野を社会的価値に還元して資本主義にのせていくのが自分にも世の中にとっても合理的だと思う人、仕事を通じて社会とつながったり社会的意義がある活動をしたい人は、そのまま働いたらいい。

一方で、極力仕事したくない人とか、不労所得や財産が十分にある人とか、ビジネスに乗っからないけど他に自分のやりたいことがあって、仕事やらなくてもまぁどうにか暮らしていける人とかは、時代変化とともに勤労の義務ってちょっとそぐわない感が強まっていくのでは。

あと、働くことの未来を考えると、そこそこ難しいことまで機械が対応できるようになると、「人間にやってほしい仕事」が高度化してしまって、そんじょそこらの人間には仕事の割当がなくなってしまって、そうすると、いくら社会参加したくても労働市場にはそれが用意できないってことになってくる。

そうすると、仕事じゃない方法を通じて社会参加せざるをえないことも出てくるかなと。だとしたら、「せざるをえない」んじゃなくて、仕事は機械にまかせて人間は、仕事を「やりたきゃやる、やりたくなきゃやらない」、「やる人はやる、やらない人もそれはそれでいる」くらいの価値観に、今時分から標準を切り替えていかないと、自尊心が保てなくなるかもなぁとか。

当たり前にしっくり行き続けると思っていた憲法の条文が、なんだかそぐわない気がしてくる感にふれて、やっぱり価値観が大きく変化あるいは多様化している過渡期のただ中にいるのかなぁなんてことを思う。

*1:【中高生のための国民の憲法講座】第27講「国民の三大義務」の不思議八木秀次先生(産経ニュース)

2015-11-20

話すことで聴ける話

この間、7人に向けて30分プレゼンする機会があった。7人×30分で3時間半もの人様の時間を、自分の話を聴かせる時間に消費してしまうというのは、私にとってえらいこっちゃであった。

それで、とにかく自分の言葉で、自分の文脈で、自分の考えを話すことだけは成し遂げた。スライドに振り回されないこと。これをどうにかやった。あと、ややまぐれの感があるけれど…、30分きっかりに話し終えた。

その後の30分でいろいろとフィードバックや質問をいただいて対応し、1時間のミーティングが終了。その後にもメールでいろいろフィードバックをいただけて、こりゃすごいなって正直思った。

日常やっているクライアント案件で、客先がこのくらいの人数出てきて30分くらい自分が話すことも過去あったはあったけど、今回は自社内の案件で、いつもとちょっと勝手が違うプレゼンだった。それで新鮮なものの見方ができたところもあるのだけど、自分の話に対して、人がそれまでの人生で経験したこととか、その人のもっている視点とか知見とかを総動員して、各々考えたこと、気づいたこと、思うことを話して聴かせてくれるのって、こりゃすごいと思ったのだ。

自分が話したことに対して、返してもらえる話がある。なんだ、このありがたいコミュニケーションは…と。お前は小学生か!という感じなんだけど、この一連の出来事に、私は原初的な人と人のコミュニケーションの感動を体験した。

私は歳をおうごと引っ込み思案になっていく気がしているのだけど、 自分が話すことで、だからこそ人から聴かせてもらえる話もあるんだよなって、なんかものすごく心が揺れた体験だった。

私は、人の話を聴くのが好きだ。人の中には、自分と違うものがつまっていて、それ自体が面白いし、時折それが自分と同じものだったり似たものだったりするのも面白い。人の話を受けとると、おのずと自分の中のそれと相手のそれを照合することになって、その刺激によってものを考えたり感化されたり、あるいはスルーしていたり。

そうした自分の反応を観察できるのも、相手の話を受けとればこそで面白い。こんなことに自分は関心を示すんだとか、この辺には興味が向かないんだなとか、この手のことには過剰とも言える反応を示して、いきなりまくしたてるように話しだすんだな、自分は…とか、その熱血ぶりに我ながらあっけにとられることもある。新たな自分を発見させてくれるのは、いつだって他者である。

一方、自分から話を持ち出して聴かせるのは、どちらかというと苦手意識がある。気のおけない人に、ほとんどネタ選びのプロセスなく思いつくまま話していることもなくはないけれど、多くは必要以上に吟味して、これによってこの人の時間を奪っていいのだろうかと出し損ねてしまう。これまでを振り返ると、話しすぎた失敗より、話し損ねた失敗のほうが多いと思う。

仕事のプレゼンともなると、たいそう緊張する。ある程度「緊張した自分」とのつきあいには慣れていて(緊張は避けるべきものではなく、慣れるべきものだと思っている)、しどろもどろということにはならないのだけど、プレゼン慣れしているかというと、まったくそんなことはない。

だけど、自分の考えをひとまとまりにして話して伝えるということは、それによってしか得られない相手の話を受け取ることにもなって、ものすごく大切なことなのだなと思った。相手にそれなりの時間はとらせてはしまうけれど、それが無駄に思われないよう自分ができるかぎりの準備をして臨めば、許される機会は意外とあるのかもしれない。そう、引っ込み思案はおっかなびっくり考える。小学生みたいだな。

2015-11-18

ファジーな目覚まし

私の家の置き時計はアナログだ。アルネ・ヤコブセンという建築家がデザインしたもの(の復刻版)らしく、1万いくらとけっこうな値段がしたのだけど、数年前それが置いてあるセレクトショップの割引券だか商品券だかを数千円分持っていて、これを何に使おうかと店内をぶらぶらしていたときに目についたこの時計を気分で買ったのだ。

ちょうど家に時計というものがなかったし(うちには一般家庭にあるべき、いろんなものがない)、目覚ましがiPhone以外に置き時計でもあるといいかなと思っていたところだった。値ははるけど、この先30年使うなら安いものだし、ここまでくると生きているかぎりは使い続けるだろうから、まぁいいかと脳内決着してレジに向かった。

成人女性の手のひらにちょうど都合よく乗っかるくらいのサイズで、黒い縁した丸っこい置き時計。白い文字盤の上に、黒のローマ数字が並んでいて、その上を短針と長針がまわっている。秒針はない。時を刻むほかは、アラーム機能のみ。それ以外に、これといった機能はない。

買ったときは、シンプルでいいかなというくらいで買ったのだけど、使って数年経ってみて、この時計はなかなかいいなぁと、しみじみ眺めている。時おり、その丸っこい頭をなでる。

どこが愛らしいって、目覚ましのアラームがファジーなところだ。アラームの針は、よくある銀色の細い棒で、私は「まぁだいたい6:10手前くらいかな」というところに合わせているのだけど、時計のほうも毎朝「まぁだいたい6:10手前くらいかな」というところで音をならす。

音のなる時刻が、日によって違うのだ。いつも6:10手前ではあるのだけど、6:05くらいだったり、6:09くらいだったり、そこには日によって3〜4分の開きがある。

私は念のため、iPhoneにも6:10のアラームをセットしていて、毎朝、両方から起こされるのだけど、もちろんのことiPhoneは毎朝6:10きっかりに私を起こす。ヤコブセンに起こされた直後に、iPhoneに起こされるというのを毎朝やっているのだけど、その間隔が1分ほどしかあかない時もあれば、3〜4分あくこともあって、そこはヤコブセンの気持ち一つだ。

こちらはもちろん、日ごとにアラーム針をいじっているわけじゃない。一切触っていないのに、日ごとに発生するずれ。昨今のデジタルな時間さばきに慣れていると、むしろこの3〜4分ずれるという誤差を生み出せるほうが、なんかすごい!と感心してしまう。それで、けっこう気に入っているのだ。こういうとぼけた具合が、人がものに愛着をもつ動機なんだろうか。

アラームの手をかりて一人で起きるようになって久しいけれど、そういえば私も子供のころは、1階から叫ぶ「まりこ、起きなさーい」の声に起こされていた。母の声が届く時刻もファジーだった。そういう昔の馴染みもあるのかもしれない。

ちなみに、ファジーというのは「あいまいさ」を表し、一昔前に流行った言葉だ。昨日若者との会話で、ファジー洗濯機など知らないと言われたので、ここに刻んでおくことにする…。汚れ具合をみて洗濯時間を決める洗濯機とか、調理対象をみて加熱時間を調節する電子レンジなど、あいまいさを扱えるファジー家電が話題になり、1990年は「ファジィ」が流行語大賞だったとか。

あいまいさを主体的に扱えるシステム的な機能と、あいまいさを相手に許容させてしまえる人間的な愛嬌と、大きく違うもののような気もするし、見方を変えれば結果的に同じようなものかという気もする。

2015-11-14

小説を読む

仕事社会で生活していると「木を見て森を見ず」に陥らぬことを説くメッセージにふれる機会は多く、大局観や構造的に捉えることが重要というのはもっともな話と、私も思う。その一方で「木を知らぬ人間に森は語れぬ」ところもあって、それはそれで、大局を捉えることと、間違いなく“同等の”の価値をもって説かれるべきことと、私は考える。

木の枝の先の葉の一枚まで見ていかないと、感じ得ない大事なこともあることを、小説は実感させてくれる。一人の人間の、中の、中のほうまで、言葉にしてたどっていく。頭のなかに、登場人物の内側の世界が広がっていく。その人の目からみた世界の見え方が、物語を通じて自分の脳内に映し出される。

一人の人間のなかには、宇宙までひろがる外側の世界と同じだけの奥行きをもった、内側の世界が広がっている。少なくとも私は、そのように認識している。

実際がどうかはわからない。証明のしようもない。ただ、そういうふうに一人の人間というものの深淵さを捉えておいたほうが、人への向き合い方として、世の中とのつきあい方として、間違いがない。

人の心のうちを、実際より軽んじてしまうくらいなら、実際より重んじてしまう過ちのほうが、ずっといい。そういう意味では、個人的な信念や価値観を別にしても、人の捉え方として合理的な見方だと思う。

最近、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいて、そんなことを考えた。その浮遊感の中につかって書いているから、だいぶ素っ頓狂な文章になっているかもしれない。いつも通りといえば、そのような気もする…。

なんだかんだ村上春樹を話題に挙げる割に、この代表作を初めて読んでいるんだけど、これは夢中になって読んでしまう。今、2冊目に入ったところ。読むのが遅い私にしては、ページをめくるスピードが速い。人物描写が、ものすごいな。

2015-11-13

あるいは、ひょっとすると

「あるいは」を「ひょっとすると」という意味で使う人を、村上春樹以外に知らない。「コーヒーあるいは紅茶」ではなく、「あるいは、そうかもしれない」と自然に使う人なんて、村上春樹と村上春樹の小説に出てくる登場人物以外にいない、そう思い込んできた。ここ最近になって、それは自分の偏狭さによって生み出されたまやかしだったことに思い当たった。

まず、もともとの首根っこをつかまえておくと、村上春樹が最初に「あるいは」を「or」だけじゃなくて「ひょっとすると」の意味でも使うというふうに決めたのでないかぎり、それよりも以前に、それをそういう意味で使う人がいたわけだ。

おそらくはそれを書物に使った人がいて、それを国語辞典の語釈に記した人がいる。村上春樹はそうしたものに触れ、それにならって、それをそういう意味で使い出したのだ。というのも憶測にすぎないで書いている適当さだが、たぶんそうだ。

それはそれとして、私が村上春樹以外の使い手を知らないと思い込んでいたのは、私が圧倒的に本を読む数が少ないからで、加えて言うならば、村上春樹の本は数十冊読んでいるが、読書の母数が少ない分、全体における村上春樹比率が高い状態になっている。そりゃ、そういうまやかしにはまるのも自明の理という感じである。

さらに言えば、実は村上春樹以外の人が使っている「あるいは」の「ひょっとすると」活用事例に、私はこれまで何度も遭遇していた。遭遇していたのだが、それは全部「村上春樹ふうを装って意識的に、あるいは彼にかぶれて無意識的に使っている」というように自動認識され、その人独自の言葉として認識されていなかった。これが一番びっくりだ。

「あるいは」という言葉を「ひょっとすると」の意で文中に用いると、もうそれだけで村上春樹ふうの文体にすることができる。こういう使い方で話す人がいたら、それは村上春樹が好きか、少なくとも抵抗がないことを示唆しているのかもしれないぐらいは先読みして、いずれ話題に挙がることになるだろうとすら思っていたフシがある。

それくらい私の中では、純粋に「ひょっとすると」の意で「あるいは」を使っている人は、村上春樹ただ一人ということになっていた。そのことに、ここ最近になって気づいた。

死角はいたるところにあるものだ。それは自分の偏狭さによって生み出されている。しかし、自分の死角を発見する機会も、実はいたるところにあるものだよな、と思った。あまり目立たないところに隠れ潜んでいるふうなのだけど、例えばクロールを泳ぎ始めて数十分後の水の中とか、文庫本を読み始めて百数十ページあたりの行間とか、あるいは小説の一巻と二巻の間に挟まっていたりするから思いがけない。意図的にはつかまえられないようなところに、ぽつんと落ちている。思いがけないことは、思いがけないところにあるのだな。当たり前だけど。

追記:自分がそうだからといって、他の人の使用も村上春樹に起因すると、勝手に一本の紐で結びつけていたところが元凶。たとえ自分と人とでアウトプットが同じでも、そこに至るまでにたどった軌跡は人それぞれなのだ。それを前提にして、その人の背景や意図に想像をめぐらせる自由をいつも心にもっておきたいじゃないか。と、これ書いた後、今朝のプールで思い当たった。

2015-11-08

「ネット依存」という言葉

つい最近、高校生のネット依存を問題視するニュースが流れてきて、「ネット依存」って言葉はまだ現役なのかと驚いた。インターネットはもはや無くてはならない通信インフラで、ネットを通じてコンテンツやサービスを享受するのは当たり前の時代になった。真面目なニュースも学習コンテンツもひっくるめて、さまざまなコンテンツがネット上に乗っかっているのだから、「ネット依存」って言葉はさすがにそろそろどうにかしたほうがいいのではないか。

言葉は生き物というから、「インターネット」という言葉が、通信インフラを指すほかにいろいろな語釈をもつようになってきている(スマホでゲームやSNSをだらだらな語釈をもつようになった)と見るのも一つなんだろうけど、「ネット依存」というのはやっぱり、どうかなぁ、なんか乱暴な気がする。

新しめの言葉をこうざっくり使い続けちゃうと、人による解釈のずれが広がってしまって、インターネット上に乗っかっているものが全般的にアクセスすべきものではない危険なもの、不毛なもの、真偽があやふやなものと捉え続けてしまう人を生み出しかねない。

でも、いい加減そういう時代ではない。自覚の有無に関わらず、すでに大方の人がインターネットの恩恵を受けて生活しているのだし、もう少し丁寧に言葉を分けていったほうがいいよなと。「インターネット依存度テスト」の質問項目など読んでみると、あんまりざっくりで、さすがに2015年に使うにはちょっとなと。

先のニュース記事も、読めば問題の核は「インターネットへの接続」そのものではなさそうだ。

家族との会話や読書などの時間がスマホに取って代わり、“隙間の時間”もゲームやラインで埋められれば、何となく何かを考えるという子どもにとって大切な時間が失われてしまう。情緒不安定や睡眠不足などの影響も出る。(*1)

私の子どもの頃に置き換えると、テレビばっかり見て、マンガばっかり読んで、ゲームばっかりやって、長電話ばっかりしてというのが問題視されたのと同じことで、それが技術の進歩で全部スマホの中に収まったと考えたらよいんだろうか。それとも事態は20〜30年前の子供らよりもっと悪くなっているということなのか。

全部スマホで済んでしまうと、一つの小さい画面を凝視するばかりになって、よりだらだらと時間を消耗してしまいやすいとか、気持ちが閉塞しがちになったり、睡眠不足や情緒不安定になりやすいとかあるのだろうか。画面の外に目を向けて、手さぐりしたり足を使ったりきょろきょろ周囲を観察したりアウトプットしたりする時間が失われているということなのか。

まぁまぁ堅いこと言わずに、「ネット」以外にこの辺を内包する適当な短い言葉も見当たらないし、言わんとしていることは今のとこ一番伝わりやすいでしょ、だからいいじゃないですか、とりあえずは…と言われれば、そのような気もしないではないけれども。

でも実際、高校生がスマホで何をやっているのかが記事では曖昧なので、いろいろ調べ物していたり、世の中のニュースに触れていたり、英単語覚えていたり、友だちの相談にのっていたり、年齢や地域の枠を越えていろんな人とコミュニケーションをとっていたりも、このネット時間に含んでいるのであれば…と思うと、なんともいえない感がある。

今日もコーヒー屋さんで本を読んでいたら、これまでネットでだけ会話してきたふうの高校1年生(2000年生まれ)と大学1年生が、私の近くの席で初対面する場に遭遇して、なかなか興味深かった。

挨拶もそこそこに大学生18歳男子が話をリードし、高校生15歳男子にバイオに興味があるんだって?ミドリムシに?と話をふる。大学生は文系で、バイオは専門外というが、興味深げに高校生の話を掘り下げる。高校生が純粋な目をして、ミドリムシへの興味を語り始める。将来のこと、食糧問題や遺伝子組み換えへの関心、親や友だちに恵まれていろんな機会やサポートがあって興味分野を掘り下げてきたんだねってな話、イノベーションを起こすにはPDCAって改善活動だけじゃ足りなくて、そこでU理論について興味をもっている話などなど、お互いすごく自然体で等身大で、話に花が咲いていた。私は双方の聡明さと健全さに終始感服。年齢や属性を越えて、人と人が出会ったり、興味分野を掘り下げていく。今インターネットは、若者に対して多大な貢献をしている。そういう面も間違いなくあると思う一幕だった。

とか見ていると、やっぱり「ネット依存」って名称はざっくりしすぎているんじゃないかというふうに思えてしまう。

で、毎回「ネット依存」のニュースに触れるたびに、どうも違和感を覚えるなと思っていて、この違和感をうまいこと別のもので言い換えられないものかと長いこといろいろ考えていた(暇な頭だ…)。それで今日一つこれだと思いついたものが!

デジタルネイティブに対してネット依存を問題視するのは、日本人に対して和食依存を問題視するのと同じ滑稽さがある

というやつなのだけど、どうだろう。あさっての方からもってきた割りに、今までで一番うまいこと言えた気が(一瞬)したんだけど、まったくはずしてしまってわけがわからなくなってしまった駄作という気もする。まぁいい、とりあえず記念に残しておこうということで、この話を書いたのだった。

*1:ネット依存の記事(神戸新聞NEXT)

2015-11-02

ビジネス教養としてのデザイン

佐藤好彦さんの「ビジネス教養としてのデザイン 資料作成で活きるシンプルデザインの考え方」を読んだ感想メモ。まさしく本のタイトルどおりを体現していて、期待を裏切らない。ビジネスシーンに焦点をあてて、解説も具体例も「ビジネスパーソン向け」に絶妙なチューニングを施してある。説明する言葉選びがシャープで、分かりやすい比喩が散りばめられていて、具体例は明日から使えるシンプルな落とし込み。相性もあると思うけど、読者ターゲットどんぴしゃりの私にとって、これはかなり良書だった。

パソコンでドキュメントを作成するときって、意識していようといまいと、いろんな視覚的表現を自分で選んでしまっている。フォントも、行間も、ものの配置も、色も、枠線の有り無しも、線の太さも、隣りとの余白の取り方も。

「なんとなくで、特に選んでいない」という場合、WordやPowerpointのデフォルト設定をそのまま、自分は選んでいるということになる。そうすると、どうなるか。決まって、ださくなる。デフォルトのままで作っていくと、ださく仕上がるようにできている(気がする)。そういう環境を前提とするならば、ドキュメントを作成する自分のところで、ある程度は選択してデザインすることが必要になる。

ださいというと印象論に終わってしまう感があるが、読みやすさ、分かりやすさといった機能面でも、視覚的表現は思いのほか影響力が大きい。しかし、ださいこと、読みにくいこと、分かりにくいことがわかっても、それを直すことができないということはよくある。受け手としてデザインの良し悪しを感じることと、作り手としてデザインを選べるかどうかは別ものなのだ。

この本は、一般のビジネスパーソンが作り手としてデザインを選べるようになるためのエッセンスを、論理的に、簡潔に説いている。76のヒントが、1トピック見開き2ページにまとまっていて、コラムのような感覚で読み進められる。右側の本文で、そのデザイン表現が受け手にとってどういう影響を与える機能をもっているかを手短に示す。

初心者がやりがちなことにもしっかり言及してくれている。なんでもかんでも中央揃えにしちゃうとか、安易に太い枠線つけちゃうとか、コントラストをつけないとか、行間がつまっているとか。そうするとどう良くないのかも端的に説明してある。

そういうことに言及してもらうことで、読み手たる私たちはそれを意識化し、そこを自分で選ぶって選択肢をもてるようになる。黒じゃなくてグレイを選ぶとか、枠線を1ポイントじゃなく0.25ポイントに細くするとか、枠線を引くんじゃなくて余白をとることで隣りの情報との区分けをするとかができるようになる。

左側の具体例も、シンプルで良い。文章を読むのに苦手意識がある人も、左ページの具体例を絵として見ていくだけで、エッセンスがつかめると思う。それぐらい具体例が良質。具体例を見ていって、興味があるものは補足的に文章も読んでみようってスタンスで開いてもいいと思う。

本文ではシンプルを説いているのに、そえられた具体例はゴテゴテで萎える…といったこともない。明日から普通に取り入れたいと思える自然な具体例だ。また、この本の作り自体が全体を通して、著者が大事だと説いていることを実践していて、非常に読みやすく仕上がっている。

本職のデザイナーさんで、客先での説明に苦労している人にも良いのではないか。私のようなデザイン素人の立場からすると、こんなふうに機能的にデザイン意図を説明してくれたらすっきりわかるという言葉の宝庫になっている。自分のデザイン説明のボキャブラリー不足に困っているなら、これはかなり使えるんじゃないかと思う。

あと、誤植が少ない。技術ノウハウ系の本だと、けっこう誤植が多いものも少なくない。これは極めて少なく、文字が間違っていないというのは、読みやすさの観点で大変に重要だなぁと、丁寧な仕事をありがたく思った。

見つけた箇所としては、P114「補色の色を組み合わせは」→「補色の色の組み合わせは」と、P160「低くくなります」→「低くなります」の2点。

あ、あと、私はKindleで読んだのだけど、P183、P185、P187だけ電子書籍の文章のデザインが他と違っているのは、ここだけ左ページ調整を落としてしまったからなのか?紙の本でも、こうなっているってことはないだろうなぁと思ったのだけど(うまく説明できないが)。

私は過去、同じターゲット向けの本を何冊か読んだことがあり、新発見というよりおさらい的な要素が多かったけど、わかっているつもりなのにできていないこともあり、そういうものを発見するのに役立った。

特に「多すぎる情報は無に等しい」というのは、ほんと毎回こういう再確認の機会に反省するところ。よくよくわかっているつもりなのに、やっぱり自分が「伝える側」に立っているときには、ボリューム過多に陥ってしまいがち。気をつけねば。って、これまで何度自分に言い聞かせたことか。

なんだかべた褒めな感じの文章になってしまったが、相性はあると思うので、興味をもった方は数トピック読んでみて、良さそうだったら買ってみてもいいかも。この手の本を一度も読んだことがない人は一冊読んでみると楽しめるし、使えると思う。

追記:なんか、この文章が「多すぎる情報は無に等しい」を体現しているようで恥ずかしい…

« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »