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2015-10-20

答えが見えたときに問題がわかる

「答えがわかってはじめて、それがどういう問題だったのかもわかる」(*1)という「問いのパラドクス」がある。この間「頭の外で考える」の最後で中途半端に触れた、このことがどうにも気になってしまって、改めてここに書き起こしてみるのだけど、なかなか難しい。

私たちが直面する問題の多くは、問いのかたちがはっきりしておらず、「何が問題か」がもやんとしている。逆の言い方をすると、「これが問題」というネタはいくらでも挙げられる。

例えば会社の業績が悪いのを、景気のせいにもできるし、うちは斜陽産業だからとも言えるかもしれない。経営手腕のせいにもできるし、投資判断を誤ったからと断じることもできるかもしれない。社員のパフォーマンスのせいにもできるし、社員教育が不十分とか、変化を受け容れない社風のせいにもできるかもしれない。採用活動のせいにもできれば、人事評価制度のせいにもできるし、不十分な福利厚生のせいにもできるかもしれない。無理をいうクライアント、時代遅れのお客さん、足を引っ張る取引先のせいにもできるかもしれない。いろんな観点から、「これが問題」と言ってみる道筋は、論理的にいくらでも引ける。

そこで挙げられるだけ挙げて、「全部問題です、全部解決しましょう」と言っていても埒があかない。自分(自社)にはどうしようもないことだってあるわけで、それは「問題」ではなく「環境」として位置づけないと話が進まない。たとえ「これこそが真因だろう」というものが分析的に導き出されたとしても、その真因に対抗できる解決策がないなら、それはやっぱり「環境」と割りきってしまったほうが、駒を先に進められる。

じゃあ「自分でコントロールできないものは問題じゃない。環境であり、前提条件である」と切り分けて受け入れたとしよう。それでもやっぱり、問題の切り口はいろいろと想定できる。なかなか収拾がつかない。社内に限って問題探しをしても、採用活動のせいとも、社員教育のせいとも、人事評価制度のせいとも言えなくはない。こっちのほうが核心ついてそうだが、あっちのほうが手が打ちやすそうだとか、あれやこれやもやんとしたものがまとわりついてくる。今は思いついていない何かのせいかもしれないという囁きが聞こえてきて、さらに行く手をはばむ。

そんなふうにみていくと、(1)問題を特定して、(2)その問題の解決策を考えるという手順をたどるのは、あんまり現実的な道筋に思われない。それよりも、自分たちに解決策の講じようがありそうな「答え」を探り当てて、探り当てた段階で、その答えと対称性をもった「問題」をこれと逆引きするほうが、現実的な流れに思われる。

採用活動の見直しって毎年手を変え品を変えやっているけど、結局どうにも抜本的な改善になっていないし、やっぱり今いる人たちの基本的な顧客提案力をどうにかするほかないんじゃないの?とか、そういう直感のようなもので答えが決まって、決まった後に、わが社の問題は「営業社員の顧客提案力不足」とかに設定される。

別に、答えに「人事評価制度の改善」を持ってきても「組織風土の改善」を持ってきてもいいんだけど、どうもピンとこない。ピンとくるのが「人材育成」だった。あるいは、うちは人材育成が役割だから、これを答えにする。答えが決まったから、問題は「営業社員の顧客提案力不足」になる、そうだとわかる、そういうことにする。

提案書の書き手は、マッチポンプ的に「具体策→課題→問題点」の順で書き、提案するときには「問題点→課題→具体策」の順に話す。こういうアプローチがあることは、十数年前に「提案書を書く」師匠からこっそり教わっていたことなんだけど、あんまり公けに記すものでもないかなと思って静かにありがたく受け取っていた。

けど、この哲学の本を読んで思ったのだ。これって別に聞き手をだましているわけではなくて、ビジネスに限ったことじゃなくて、人間が問題解決のシナリオを書く場合、そのようにしか書き起こせないんじゃないかしらと。

師匠はそれもよくよくわかった上で教えてくれていたんだろうし、私も決してだましのテクニックとして受け止めていたわけじゃないんだけど、この本を読んで一抹の後ろめたさから解放された気がする。だからここに書いてるんだけど、とはいえ書くのにためらいがないわけじゃない。けど、私だけじゃなく多くの人が師匠からこっそり教わるのに立ち会ってきたし、ここはひっそりしたブログなのできっと大丈夫…ということにする。

もしかしたら、こうした文脈に乗らないシナリオも、それはそれであるかもしれない。その辺は出てきたら出てきたで、快く受け容れていこう。

考えるということ。問題を考えるということ。それは問題そのものを問うことだ。(*1)

*1:野矢茂樹「はじめて考えるときのように」(PHP文庫)

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コメント

そう、マッチポンプの話は案外深いんですよ(笑)。原因と結果についての論は、ニーチェの得意技。そうだなぁ、こうとも書けるな、というのを2つほど。

http://adv.yomiuri.co.jp/ojo/02number/200906/06markebon.php

http://adv.yomiuri.co.jp/ojo/02number/201002/02markebon.php

うわぁ、ひらつかさん!師匠降臨…笑
ありがとうございます。
ニーチェかぁ。今度新書でも開いてみよう。
コラムのご紹介も感謝です。一つ目は、「青空人生相談所」をひらつかさんのご紹介で読んで、私は橋本治氏の「さもしい」指摘の数々に腰をぬかすばかりでした…(笑)。これ読んで「回答の見事さ」に着眼できるひらつかさん、やっぱりすごいなぁ…と感服したのをよく憶えています。
「ある相談に対する回答のオリジナリティーというのは、その相談をどういう問題として把握するかにかかっている」って、改めて拝読して、この直観も実に独創的かつ的確だなぁと思いました。
二つ目の「フロイト入門」は実は読めていないので、ダイバーの気持ちで読んでみます。
いやぁ、ものの見方って深い…。

「結果から原因を」は、「未来から現在を」とも書けるので、その方が後ろめたさが軽減するんじゃないかな…と思って二つ目にリンクを貼りました。フロイトはあまりに晦渋で何言ってるんだかよくわかんないので読まなくても…(笑)。

「未来から現在を」、なるほど確かに。すっきり後ろめたさからも解放されますね。笑
この哲学の本にも、「論理的に考える」ってよく言うけど、それは実はおかしくて、「論理的に」やったら「考える」余地なんてないのだから、それは考えるとは言わない、というような話があって目から鱗だったのですが、ひらつかさんのコラムの指摘と重なってみえます。
問題の描写技術とか、論理的思考とか。そこには、まだ見ぬ未来を見るってところが欠けているのですよね。
じゃあフロイト入門は…余裕あるときに開いてみます。笑

どこまでを環境として、どこまでを対峙する問題とするかの線引きのセンス、ありますよね。。
どちらかというと地道な改善活動のサイクルに身を置いている生活を送っていますが、最近はみんな新しい世界観が未来から扉をトントン叩いている様子を感じ取っているような、誰かそこの小さな鍵穴の鍵を持っていませんかと探している様な、そんな雰囲気を職場からは感じます。閉塞感とはまた少し違うけれど。根底にあるのは何なのかな。
未来から現在。色んな人の声をヒントに仮説としての答えが自分に漠と浮かんできたら、問題を肉づけして検証していく、仮説と検証に近いのかな。また違うのかな。
今日はcocoroさんとひらつかさんの文章に出会えて嬉しくなりました。プロデュースとは マクロとミクロを行ったり来たり この言葉に何度助けられたことか、これはあおしまさんだったと思うけど、としみじみ感じながら、私も細々生活しています。はじめて考えるときのようにを買ってみます!

kazeさん!以前にも何度か、私の文章にコメントを残してくれましたね。cocoroで声をかけてくださるなんて、お懐かしい。。なんだかプチ同窓会のようです。
線引のセンスは、ほんとありますよねぇ。それから、未来から現在を読み解くのって、どこか背後に「こう読み解きたい」「こういう方向にもっていきたい」という個人的な意思の作用ありきでやっているところがあって、それがない状態で「冷静に、論理的に」事にあたっていると、閉塞感に近い、どこに答えがあるのだろう、どう読み解けばいいのだろうという袋小路に入ってしまうのかもな、とも思いました。
10数年前に講師陣に与えてもらった物事の見方・とらえ方に助けられている部分って、事務局の立場だった私にもたくさんあります(なんてありがたいお仕事…)。「マクロとミクロを行ったり来たり」は、そうそう、あおしまさんですね。
kazeさんの思考を言葉に表したコメント、久しぶりに触れて懐かしさを覚えました。
「はじめて考えるときのように」ぜひ!
また、お目にかかる機会があれば幸いです。

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