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2015-07-19

「IA CAMP 2015」後の書き散らかし

「IA CAMP 2015」( #iacamp2015 )というイベントに行ってきた。朝9時半に開始して晩は21時過ぎまでの一日がかりのイベントで、世界的に知られる情報アーキテクチャ(IA)の「神」的なPeter Morville氏に、Dan Klyn氏、Jason Hobbs氏お三方を海外から迎え、国内屈指のIA実践家も登壇する豪華イベントだった。登壇者・関係者の皆さん、ありがとうございました。

私はIAの実務家ではないのだけど、そうした人たちの学習を支援するインストラクショナルデザイン(インタラクションデザインじゃない)を生業にする立場で参加。加えて、情報を構造化するとかってあらゆる仕事で行われていることで、自分の仕事領域でも、プロジェクトを計画するにも、研修プログラムの提案書や設計書を書くにも、計画を推進するにも、直接つながっているところが多分にある興味分野。

以下、だいぶ書き散らかし感があるので、ほとんど自分の思考メモっぽい状態だけど、まぁとりあえず。持ち帰って思索にふけったことを4つに分けて。「同質性を前提とする日本のIA」「事業と組織のグローバル化施策」という話と、「日本人は主観的で、欧米人のほうが客観的か?」「主観と客観は縦関係では」という話。最後まで読んだ人がいたら飴ちゃんあげたい。

●同質性を前提とする日本のIA
海外ゲストを招いていたこともあって、長谷川敦士さんの基調講演は「日本のIA、弱いIA」。長谷川さんとしては、海外ゲストに日本独特のIAの深化の遂げ方を紹介したい思いもありつつ、日本人かつIAでない私も大変興味深く聴いた。

ちなみに「弱い」というのはネガティブな意味ではなく、優劣の意味は含んでいない。あくまでフラットに「弱い」という特徴を仮説立ててみて、何かを生み出せまいかとする、長谷川さんの今思考まっただ中にある事柄をひも解いて紹介くださったという印象。

この「弱さ」を欧米より劣ったものとみてしまうと、欧米に比べて日本の情報アーキテクチャは洗練されていない→雑多で混沌としていて汚い、わかりづらい→これは作り手がきちんと計画立てていないからだ、というような解釈になってしまう。安易にこう読み取っては短絡的だ、という話だろう。

確かに日本は、「ものづくり」における細部へのこだわりや洗練が特徴として語られる一方で、「売りの現場」では一転、券売機にも周囲にぺたぺたと補足説明が張られ、電化製品の量販店売り場も売り文句がペタペタ、こうしたお店のチラシ類も情報量が多く、無計画にぎゅうぎゅうと詰め込まれた感じで、洗練さの真逆をいく雑多な情報提示が特徴的だ。Webサイトでいうと、楽天市場のUIが代表例として挙げられている。

でも、これって情報の送り主にとっては「効率的」「狙った効果をあげている」という側面、そして情報の受け手にとっては「それで許容できちゃう」「情報処理できちゃう」という側面があるのではないか、という話。

特に後者の、消費者がそれでも情報処理できちゃってるという話の展開がおもしろかった。(この後に直結して話されていたわけではないので、多少私が乱暴につなげて解釈してしまっているかもしれないのだけど)なんでこうした雑多な情報を処理できちゃっているかという要因の一つに、日本では、ほぼ情報の送り手=受け手というハイコンテクスチュアルな環境があることを挙げていた。

長谷川さんの言葉で表すと、ほぼ「設計者=利用者」である実態。日本は、島国、単一民族といった背景から同質性が高く、バックグラウンドや宗教観など、いろんな前提を暗黙的に共有しているから、雑多で混沌とした情報提示でもさほど問題が起きず、自然と「利用者への共感を元にしたデザイン」ができている状態。それで、この雑多さのプラス面である「にぎわい、高揚感を与える」恩恵も受けられているってことかもしれない。

ただ「利用者への共感を元にしたデザイン」ができているのは、今のところ、IAのスキルとして達成しているのではなくて、環境の恩恵を受けてできている人が多いとするなら、今後そうではないグローバル環境で仕事していこうとするときに、スキルでそれが達成できるように習得する必要が出てくる。それが意識化・体系化できれば、世界的にも今後より共感性高い情報提示が求められていく中では、日本のそのノウハウを輸出していくこともできるのでは、というような話と解釈した。

●事業と組織のグローバル化施策
このような話を受けて思ったのは、これって「事業をグローバル化していくのか」と「組織をグローバル化していくのか」、それぞれは分けて施策を考えたほうがいいんだろうなということ。つまり、自分が今グローバル化施策として考えようとしているのは、客の話なのか、組織メンバーの話なのか。

「事業をグローバル化していく」ときに、これまでよりずっと同質性の低い顧客相手に、より深く顧客の文脈を汲んでいく必要が出てくるというのは、その通りとして。

そうだとしても「組織をグローバル化する」のでなければ、そこは同質性高い仲間とやりとりできる恩恵を十二分に活かしたほうが効率的ではないかと思った。むやみに組織づくりやワークフローもグローバル化しようとして、ローコンテクスチュアル前提の「欧米の仕事のやり方」を真似ては、非効率になるばかりということもあろうなと。

もし日本人同士で、しかもみんな都内にいるとか同世代とかで、膝つきあわせて数人で作れるとかって環境なら、それを強みにはしょれるところどんどんはしょって開発していったほうが合理的で能率が良く、日本的な強みを活かせるってこともあるだろうなと。

あるいは、日本に向けたサービスで、お客が日本人のみ、言語が日本語のみでの提供ということだったら、お客が情報処理してくれちゃう前提で、にぎわいや高揚感を狙った雑多デザインをとったほうが合理性高いとか、あるのかもしれない。なんでもかんでも洗練化に向かえばいいというのでもないんだろうと。

逆に「組織をグローバル化する」、多国籍のチームを組んで、仕事のやりとりに異文化でのコミュニケーションが出てくるなら、ローコンテクスチュアル前提の組織づくりやワークフローに変える必要も出てくるのではないか。と思ったが、どうだろう。実際、自分の仕事がグローバルじゃないので、見当違いなことを言っているかもしれない。

いずれにせよ、グローバル化に対応すべく施策を考えるときは、客をグローバル化する話か、チームを多国籍化する話か、それぞれは別に考えたほうが効率を落とさない気がした。

●日本人は主観的で、欧米人のほうが客観的か?
これは誰かがそう言っていたという話じゃないんだけど、「日本人は主観的に、欧米人は客観的に捉える傾向がある」という個人とか民族的な特性の話にしちゃうと、個人的には仮説としてあまりピンとこない。

民族的な違いではなくて、「どういうシナリオで合意形成を働きかけたほうが通りやすいかは、文化圏によって違いがある」という組織のありようでとらえたほうがしっくりいく気がした。

「合意形成や判断の際に、日本の組織では関係者の納得感や価値観を重んじるのに対し、欧米の組織ではそうしたステークホルダーの意向に左右されない原理原則にもとづいて結論を導く傾向がある」とか。

日本人は単一民族で同質性が高く、ハイコンテクスチュアルにやりとりできる前提があるから、関係者の納得感ある結論を出そうと考えても、現実的にできそうな期待がもてる。実際はできなくても。一方で、欧米は多民族、そもそも全員のバックグラウンドを踏まえた納得感高い結論など導きようもないローコンテクスチュアル環境を前提にしているので、一つの答えを出さないといけない局面では、さまざまなステークホルダーの意向に振り回されないで説明しうる原理原則を起点に結論を導こうとする傾向がある。そういう説明でいくと、あるかもなぁという気がする。

●主観と客観は縦関係では
しかし、そもそも論を持ち出すと、私の理解ではまず前提に「人間は主観の生き物」というのがある。概念としてみれば、主観と客観て横並びに対置するけれど、人間からすると、その特性上「自分の主観」からは逃れられない前提で「客観的であろうとすることはできる」という縦の関係に階層化して捉えている。完全なる「客観の生き物」にはなりきれない、だから人間は主観ー客観を横に行き来することはできないんじゃないかなと。

もちろん日常的なシーンで、主観ー客観的な見方を横移動させて思考をめぐらしているような場面はある。だからこれは究極の話というか、厳密にいうと、という感じなんだけれども。少し掘り下げてみる。

「客観的な事実にもとづいて結論を導き出す」とはよく言う。けれど、「客観的な事実」ってそこら中に散らばっているので、そのうちどの「客観的な事実」を集めてくるか絞り込んでいくかという舵取りに、その人の主観が入り込んでいる。別の「客観的な事実」をもってくれば、その結論にはいくらでもぐらつきを与えることができるし、そうした別の「客観的な事実」はそこら中にある。一つの分野に相反する理論が存在するのも、よくあることだ。つまり、自分がどこかから持ってきた「客観的な事実」より下の階層で、自分の「主観的な選択」が働いていて、「客観的な事実」の取捨選択は、その主観の影響を受けざるをえないという感じ。

そういう構造を前提に人間にできることって考えると、自分が主観から切り離れることはできない前提をわきまえた上で、自分にどういう主観が働いているかを意識化して理解すること、それに振り回されないように意識しながら理にかなった結論を導かんとすることだけだと、そんなふうに思っている。「自分は深い見識から公平に客観的に合理的に結論を導き出せている」と思えるときは、一番最下層の主観が見えていないのかもしれない、と自分を疑ってみることが大事だなと。エネルギー枯渇…、しまりないけど、ここらで終了。

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