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2015-03-16

人の書いた提案書を見る

ごく稀に「書いた提案書を見てほしい」という相談をもらうことがある。私は受託稼業なので「提案書」はもっぱら書いて提出する立場。今の日常のなかで、人の作った提案書をみる機会はほとんどない。チームで分担して作るというのもなく、お客さんからヒアリングした後はいったん自己完結的に作ってしまう。その後、関係者と内容をすり合わせて仕上げ→お客さんに出して直接フィードバックをもらう、というミニマムな進め方が常だ。

私が最も「人の書いた提案書」をじっくり見ていたのは、もはや十数年前のことではないか。隣りで働いていた姉御がものすごい仕事ができる人で、すんばらしい提案書を書き上げては、ねぇねぇちょっとこれ見てくれる?と言って私に見せてくれた。私は、申し訳程度の自分なりに気になるところ、あと文字校正をして返した。彼女は私の気になるところを受け止めては、提案内容に昇華して仕上げていた。どういう思考プロセスで彼女が提案をまとめているかも、おしゃべり的に話を聴いていた気がする。これが大変有意義な観察学習だったのだと、後になって振り返った。

自分が企業に提案書を書く仕事をするとは当時まったく想定外だったが、流れ流れてそういう役回りとなり、自分がいっちょまえに提案を出す立場になってからというもの、「彼女のあれ」という具体的な品質レベルを指標に事にあたれていることに気づく。

あともう一人、その当時から講師でお世話になっているものすごい男性がいて、この兄さん姉さん二人が「提案書とはこういうふうに書くのだ」というクオリティを、具体的イメージとして私に授けた。十年二十年経っても、それは私の価値基準を支え続ける。

もちろん二人ほど素晴らしい提案書は到底書けないのだけど、自分の言葉選びがまだまだシャープでないこと、提案の骨組みがゆるいことなど、うまく書けないながらも自己評価を厳しめにできるのは、二人のおかげだ。基準値は「平均」でもっちゃダメなのだ。「一流」でもたせておかないと使えない。

提案の骨格を覚えて、良い見本をすりこんだら、あとはひたすら書いて直して、出して直しての繰り返し。長期的に実践のなかで鍛錬していくほかないのだと思いつつ奮闘しているうち、人の書いた提案書を見る機会はぐっと減り、いまや新鮮な体験となった。しかし時折、人が書いた提案書を見てフィードバックする機会がある。これはこれで、けっこう良いトレーニングになる。

「これは素敵だと思う。コンセプトがシャープだし、社会的に意義があるし、メッセージも胸にぐっとくる!」くらいしか返せないこともあるんだけど…、一方で、ひと通り見てもつかみどころがなく、提案内容まで踏み込んでフィードバックできないケースもある。

そういうときは、まず気になるポイントをざざーっと書き出してみる。手を動かさずして脳内処理できればスマートなのだけど、私にはどうも一人でじっくり見て、メモをとりながら脳内整理する時間が必要だ。例えば次のような感じで、とりあえず遠慮なく書き出してみる。

●全体所感…提案内容がない。ページ数的にはそこそこ書いてあるのだけど、中身が見当たらない
●何も言っていない…書いてあることの抽象度が高く一般論すぎて、理論書か啓蒙書か教科書か参考書か、みたいな内容になっている
●全部入り…ゆえに「Webでできること全部やります」「人材派遣業がやるべきこと全部やります」みたいな内容になっていて、問題点も提案内容もフォーカスが絞られていない
●現実味がない…本当に全部を“まっとうなレベルで”やろうとしたら、使えるリソースとか期間とか考えると非現実的すぎる
●話に一貫性がない…それっぽい見出しでページ構成されているんだけど、中身をみると前後の話がつながっておらず、ストーリー性がない
●妥当性を評価できない…そこに書いてあることの根拠が、前のページを探しても先のページをめくっても見当たらない。一つひとつの素材が唐突にあって捉えどころがなく、本当にやりたいことの核心がつかめない。核を定めてから構成を立て直し、妥当性を評価する必要がある

ここまでは大方、誰でもやりたい放題にできる。ここからが大事だ。「じゃあ、自分だったらどう書くの?」という脳内ツッコミを展開するのだ。言うは易し、行うは難し。逆に、この先に進まなければ、ほとんどトレーニングの意味はなさない。

だいたいにおいて人の成果物を評価するときは、“自分のことを棚に上げて”手厳しい評価を下すものだ。あれが足りぬ、ここが曖昧、ここに妥当性が感じられぬと、脳が好き勝手に突っ込みを入れまくり、それらはどんどん抽象化されていって、上に記したとおりのエラそうな評価言語が展開される。自分の提案書に置き換えてみれば、自分だってどんだけできてるんだ?というものになっている。

そこからである。散々脳内で意地悪を言った後に、「じゃあ自分だったらどうするのよ?」と問い、それに応えられる提案を考えるのだ。これは相当に良い。“何をクリアしなきゃ相手が納得しないか”が手に取るようにわかる。なにせ、さっきまで自分だった相手だ。

自分の成果物を見ているときには通常出現しない鬼監督みたいなのが脳内に残像として配置されていて、「さっきおまえ、ここがなってなきゃ提案にならないって言ってたよな!」と目を光らせている。先ほど自分の書いたメモをひらひらとちらつかせている。なんて素晴らしき、逃げ場のない環境!

そこから、粛々と人の書いた提案書に改めて向き合う。中をじっくり眺め直し、提案の核らしき素材を探り当て、現実的で、社会的価値があり、具体的で、一貫性ある提案の骨格を構成だてていく。とりあえず一枚の紙に書いてみる。本業は別にあるから、これをかなり限られた時間で集中的にやる。かなり良いトレーニングになる。

これをやった後に相手にフィードバックをすると、上の箇条書きメモだけ返しているのとは一段違う思いと考えをもって話し合うことができるし、提案づくりの難しさに直面する相手と(それをやらぬよりは)心を通わせながら話もできる。

フィードバックを聞いた相手とすり合わせるなかで、当然こちらの仮説と違うところに提案の主軸が見出されることもあるし、見えていなかった難しさが汲み取れてゆくこともある。そういうものを膝突き合わせて受け取りながら、その場で一緒に考えることができれば、それもまたトレーニング観点でも意味をもつだろう。

提案書に限らずだけど、自分が人のを見て何か指摘したくなるときというのは、それを受けて我がアウトプットを振り返るのが良い学習機会になる。自分がそこにコンプレックスをもっているからこそ、人のそれが気になることも多い。

また「自分はできている」という評価は主観を完全には排除しきれないので、見る人が見れば「あなた全然できてないけど…」と思われている。SNSに書いた他人への指摘とかって、自分と一緒に仕事したことがない人は「いいね!」してくれるかもしれないけど、一緒に仕事したことがある人は「自分のこと棚に上げて何言っちゃってんの!」と思ってるかもしれない。くらいのスタンスでいたほうが自分を見誤らないで精進し続けられそうである。

いろいろ話がよそ行ったけども…、「自分だってどれほどのものか」と振り返れる自分を常に確保しておくことは肝要であるな、と思うのである。

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