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2015-03-24

研修屋を脱して

呼び名はなんでもいいのだけど、というか外からわかりやすいし、下手に大きく出てかっちょいい名前をつけても身の丈にあわず心折れるのでそのままでいいのだけど。自分の内面的に、ここを節目に脱研修屋をかかげて仕事しようと思う2015年春うらら。

私がやっている仕事は、オーダーメイドで1社向けに研修をつくっておさめるという仕事で、それがお客さんの要望に応じてOJTプログラムになったりモバイルラーニングになったりもしたけれど、多くはトレーニング、ワークショップの類と講義からなる、いわゆる研修プログラムを提供してきた。

いろいろと研修の発注者にヒアリングをして、その会社の現場にそくした研修になるよう力を注いできたけれど、ちょっと改まって、自分にえぐるような視線を向けてみると、やりきれていなかったな…と思う領域が確かにそこに広がっているのだった。うん、甘かったなと。

やりきれていなかったな…と思う領域というのは、自分がもっとやり尽くしたい領域があるというふうに、言い換えていいんじゃないかと思うのだ。暗そうでいて基本的に発想は前向きなのだ、私は…。

その会社の実務を変えること、仕事のやり方、ふるまい、アウトプットの精度、人のパフォーマンスが前より価値をあげ、売りに貢献するものに変わっている状態にすること。一般のセミナーやOff-JTの研修を受けたのと同じ刺激しか持ち帰れないなら、そこにオーダーメイドの付加価値はほとんどない。

業務委託契約を結んで、その会社の問題意識や現状を把握させてもらうならば、それにふさわしくもっと踏み込める余地があってしかるべき。研修の領域にとどまらず、研修の前・後をどうデザインするか。とくに後をどう実務に直結させるか。

今ちょうど、発注者たるマネージャー陣だけじゃなくて、現場の人たちにも業務のヒアリングをする機会をもらって、そこからどう現場の仕事に直接的に接続させられるか考えながら演習を作りこんでいる案件があるんだけど、そういうことをもっと丹念にやっていきたい。ご要望に応じてじゃなくて、今回みたいに自分で機会を作っていかないと。

マネージャーさんは現場の方々に業務ヒアリングする時間を快く作ってくださるし、現場の方々も協力的にお話ししてくださる。一緒に、どういうふうに現場の仕事につないでいったら一番いいのか現実的な道筋を考えていけたりする。

そうやって具体的な機会を探り当てて、一本筋道を見出して、持ち帰って精緻に構成立てていく作業は、すごく楽しいし面白いなとも感じる。超裏方ながら、私にとってたいそう創造的な仕事でもある。

他のお客さんでも、そういう機会はいくらでも作れる手がかりはすでにあるし、ちょうど、そういう領域を掘り下げていきたい案件がいくつか目の前にぶらさがっている状態。あとは自分が拡張する気があるか、具体的に考えて作って提案できるかって問題だ。なので、まずはこれらを一つひとつ形にしていこうと思う。

そうして、直接的に現場の変化につながる研修を作りたいし、その会社のどの仕事から着手していったら、その能力を段階的に獲得していけるのか、会社の売りに着実に貢献していけるのかを、現実をとらまえて具体的に提案していけるように。そこを、これまで以上にきちんと時間をとってこだわっていこうと思う。

しばし、自分の提供しているもののレイヤーが凝り固まっているような停滞感があった気もするんだけど、ちょっとその感じが晴れた。これこそが講師ではない私の果たすべき役割の核だし。上から見れば、狭い領域の地味な働きの変化になるだろうけど、私は私なりにこの仕事を大事に務めあげたい。

こんなふうに会社の期の節目に、心のうちから目標らしきものを掲げたのって(実は)あんまりないのだけど、ちょうど良い節目。来期は一つ上のことを提供するように意識を変えてみようと思う。

2015-03-21

休日のアラフォー妄想

ルミネのCMが炎上した件は、TogetterよりNaverまとめより、ここのスレッド(矢野りんさんのFacebookの投稿と一連のコメント)が勉強になった。いろいろと視野が広がって、ありがたし。自分なりのポイントを抜き出すと、こんな感じ。

●例えばこれを、4月入社前の新卒ターゲットに、狭く深く刺したマーケティングとみる
●最近のうまくできてるやつほどターゲット以外に対して脊髄反射的に憎悪を呼んでしまう諸刃の剣
●しかし私たちがいろいろと格付けしあうからこそ広告というものが機能するのかも
●ファッションはコンプレックスの上に成り立っていると考えている。そこを直接的にえぐった感じ。言ってることは当たっているかもだけどそんな言い方はないだろう、という反応か
●ボーダー寝不足女子と、巻き髪女子は同じ女優さん(追記:これは違うとの情報あり)
●あなたのとりようによってメッセージはかわりますよ、という広告

ボーダー寝不足女子と、巻き髪女子は同じ女優さんって、気づかなかったなぁ。ルミネ的には所定期間いっぱい流れつづける中で、「わー、ほんとだ。おんなじ女優さんだー」って伝播していくとこまで期待していたんだと思うと、途中で非公開になっちゃったのは、そういう意味でも残念だったんだろう。(追記:これは違うとの情報あり)

私はファッションにもセクハラにも時代性にも疎いので…、脊髄反射が機能しなかったアラフォーなのだけども、この話題には上記のような広告・マーケティング寄りの観点から興味を覚えた。

といって私は広告業界の人間でもない一社会人だけども、この手のことを広告業界寄りの人が取り上げるときに出てくるのが、まず「時代をわかってない。古い。老舗はダメだ。広告屋もマスコミももう終わった」みたいな問題指摘。

で、これが波紋を呼ぶかたちで「ターゲット以外の人が脊髄反射的に憎悪を抱いて、ターゲットに届いたかを無視してそれを社会問題として取り上げて、広告主や、ひろく広告業界を相手に袋だたくのってどうなの?」みたいな問題返し。

その後に、双方を遠くから眺めた見解が出てくる一連の流れがある気がするのだけど、それはそれとして。もう少し広告の現場から離れて、人の意識ではなく仕組みの観点から考えてみられないだろうか、と考えてみたのが一つ。

で、思いついたのが、今は「広告がターゲット以外にも見えすぎている」というストレスを問題点として置けまいかと。とすると、「広告の流通経路を、ターゲット以外には今ほど触れないように、どういう施策を打てるか」っていうのも一つの課題に設定できるかもなと。関係ない人の目に触れない仕組みづくり。それは広告のインフラを整備するあたりの人の仕事として。まぁ、きっといろんなところでそれを洗練させる人がすでに動いている課題と思われるけれども。

あと、もう一つ考えたのは、ターゲット以外で批判的に反応した世代は、セクハラが社会問題化してきたここ何十年かを、その意識の高まりとともに大人として生きてきたという前提があるからこそ、無意識に「いまさらこれ?古くない?ダメじゃない?20年前ならわかるけど」と見えたのではないかというもの。

そういう構造で仮に捉えてみると、自動的に対比されてしまう「20年前の世の中」の記憶をもたない二十歳そこそこの女子は、「20年前の世の中」と「今」における女性のあり方という時間的な対立軸から、これを見ないんじゃないかと。

その時間軸にのって見ないとすると、ある種シンプルに「自然派?ファッション(低関与)」と「きらきら?ファッション(高関与)」というジャンル(または関与度)の対比で、このCMを見るのかもなと(ファッション名のつけ方がひどいのは私がファッションに疎い表れ…)。

で、ルミネが売ってるところの「きらきらファッションのほうがいいよね!こんなふうに大人を楽しみたいよね!」という呼びかけに「うんうん」と頷く人が店に来てくれたらいい、という、そういう単純な構造で、広告主とターゲットの間のコミュニケーションは成立しうるのかもしれないと。

実は、その世代に近いルミネ宣伝部の若手が中心になってあれを作り、宣伝課長は「んー、こりゃ自分ら世代がセクハラだ女性差別だと時代しょった複雑な見方をして噛み付いてくるかもしれないぞー」と忠告した。しかし若手は「ターゲット以外のそうした見方を汲むことで、ターゲットに狭く深く刺さるメッセージを避けていたら、いつまで経っても届けたい人に到達できないじゃないですか。アラフォーのおっさん、おばさんなんて(おっと失礼)放っときゃいいんです。どうせ、うちの商品買わないんだから」と返した。アラフィフの宣伝部長は、「とにかく若いもんにやらせてみたらどうだ」と宣伝課長を諭した。というやりとりがあったとしたら…。なんてことを一人妄想する休日のアラフォーであった。んな単純じゃないか…。

2015-03-19

記憶と記録

過去にアクセスする方法として、記憶と記録ってあるじゃないですか。マシンは記録を残して、あるとき関連する記録を引っ張りだす。人間は記憶を残して、あるとき関連する記憶を引っ張りだす。なんとなく、そんなイメージをもって生きてゆく。

そうしてゆくうちに、「記憶には長期記憶と短期記憶、作業記憶とあってだな」みたいな知識を授かる機会に巡りあう。短期記憶を通過して長期記憶にそれをしまっておき、必要があったら作業記憶(作業メモリ)に持ってきて処理をする。そんな知識を得て、なるほどと理解する。

そうすると、もともとあったイメージが知識の裏づけを得て具体的な像をもち、ものすごい強固な信念に育つ。ひとたび人間の記憶を、コンピューターの記録と同じような構造で理解する情報処理モデルを知ってしまうと、なるほどなるほどと納得してすっきりしちゃって、その知識の芝生に腰おろして落ち着いちゃって、それが全部になってしまう。そういう無意識の罠に、昨日はっとさせられた。

しかも記憶(きおく)と記録(きろく)って、ひらがなにすると同じ三文字だし、「き」で始まって「く」で終わるし、真ん中も母音にしたら「お」で一緒だし、漢字で書いても「記」まで一緒って5割一緒だし。聞こえ方や見た目が似ていると、無意識のうちに構造のありようも似ている気にさせられてしまう。無意識は怖いというか、私って単純というか。

でも、ここで今一度、人間の記憶というのを考えてみると、今まで見てきた境界がいろいろ曖昧になって見えてくる。いつでも自在に思い出せるわけではなくて「今、何かを見て」からしかアクセスできない記憶が、どこにどう保存されているというのかとか。それを想起したときに起こった心のなかのざわざわ感は今の感情100%なのか、いくらかは記憶の中にあったざわざわ感なのかとか。同じ記憶の中の1シーンに居合わせた私とAさんの記憶の「まったく別物」感っていったい…とか。同じ過去の1シーンを残す私の記憶とデジカメの記録のはざまにある異次元っていったい…とか。

記憶というものの曖昧さに焦点をあわせてぼーっと追っていくと(怪しいほうへ)、記録と同じような構造では捉えようのない別の見方がいろいろありそうな気がしてくる(正気に戻る)。これまで捉えてきた見方の前提になっていた知識が「ある一つの知識」に階層を下げ、別の見方の余地が生まれてくる。これまで枠組みしていた境界がほどけてゆく感じがする。

知識というのは人間が体系化して作っているものだから、基本的に人間の何らかの企てに基づいている。いわば人間の策略ありき。人間の策略がない見方を自然というなら、何らかの知識体系で物事を捉えているとは、何らかの不自然が埋め込まれた状態と言えて、いつだって私たちはそこから見える部分をそこから見る構造で捉えている、そこにはいつも取り逃しがあるとも言えまいか(怪しいほうへ)。

理解できればすっきりする。だから、それらしき何かの知識を得ると、すっかりそれを理解した気になってしまう。そこに働く絶対視、全体と部分の同一視みたいな無意識から極力逃れて、混沌とした自然を残して、自分の認識とその限界をできるだけ適切に把握しておきたいと思う(比較的まともに戻る)。

2015-03-16

人の書いた提案書を見る

ごく稀に「書いた提案書を見てほしい」という相談をもらうことがある。私は受託稼業なので「提案書」はもっぱら書いて提出する立場。今の日常のなかで、人の作った提案書をみる機会はほとんどない。チームで分担して作るというのもなく、お客さんからヒアリングした後はいったん自己完結的に作ってしまう。その後、関係者と内容をすり合わせて仕上げ→お客さんに出して直接フィードバックをもらう、というミニマムな進め方が常だ。

私が最も「人の書いた提案書」をじっくり見ていたのは、もはや十数年前のことではないか。隣りで働いていた姉御がものすごい仕事ができる人で、すんばらしい提案書を書き上げては、ねぇねぇちょっとこれ見てくれる?と言って私に見せてくれた。私は、申し訳程度の自分なりに気になるところ、あと文字校正をして返した。彼女は私の気になるところを受け止めては、提案内容に昇華して仕上げていた。どういう思考プロセスで彼女が提案をまとめているかも、おしゃべり的に話を聴いていた気がする。これが大変有意義な観察学習だったのだと、後になって振り返った。

自分が企業に提案書を書く仕事をするとは当時まったく想定外だったが、流れ流れてそういう役回りとなり、自分がいっちょまえに提案を出す立場になってからというもの、「彼女のあれ」という具体的な品質レベルを指標に事にあたれていることに気づく。

あともう一人、その当時から講師でお世話になっているものすごい男性がいて、この兄さん姉さん二人が「提案書とはこういうふうに書くのだ」というクオリティを、具体的イメージとして私に授けた。十年二十年経っても、それは私の価値基準を支え続ける。

もちろん二人ほど素晴らしい提案書は到底書けないのだけど、自分の言葉選びがまだまだシャープでないこと、提案の骨組みがゆるいことなど、うまく書けないながらも自己評価を厳しめにできるのは、二人のおかげだ。基準値は「平均」でもっちゃダメなのだ。「一流」でもたせておかないと使えない。

提案の骨格を覚えて、良い見本をすりこんだら、あとはひたすら書いて直して、出して直しての繰り返し。長期的に実践のなかで鍛錬していくほかないのだと思いつつ奮闘しているうち、人の書いた提案書を見る機会はぐっと減り、いまや新鮮な体験となった。しかし時折、人が書いた提案書を見てフィードバックする機会がある。これはこれで、けっこう良いトレーニングになる。

「これは素敵だと思う。コンセプトがシャープだし、社会的に意義があるし、メッセージも胸にぐっとくる!」くらいしか返せないこともあるんだけど…、一方で、ひと通り見てもつかみどころがなく、提案内容まで踏み込んでフィードバックできないケースもある。

そういうときは、まず気になるポイントをざざーっと書き出してみる。手を動かさずして脳内処理できればスマートなのだけど、私にはどうも一人でじっくり見て、メモをとりながら脳内整理する時間が必要だ。例えば次のような感じで、とりあえず遠慮なく書き出してみる。

●全体所感…提案内容がない。ページ数的にはそこそこ書いてあるのだけど、中身が見当たらない
●何も言っていない…書いてあることの抽象度が高く一般論すぎて、理論書か啓蒙書か教科書か参考書か、みたいな内容になっている
●全部入り…ゆえに「Webでできること全部やります」「人材派遣業がやるべきこと全部やります」みたいな内容になっていて、問題点も提案内容もフォーカスが絞られていない
●現実味がない…本当に全部を“まっとうなレベルで”やろうとしたら、使えるリソースとか期間とか考えると非現実的すぎる
●話に一貫性がない…それっぽい見出しでページ構成されているんだけど、中身をみると前後の話がつながっておらず、ストーリー性がない
●妥当性を評価できない…そこに書いてあることの根拠が、前のページを探しても先のページをめくっても見当たらない。一つひとつの素材が唐突にあって捉えどころがなく、本当にやりたいことの核心がつかめない。核を定めてから構成を立て直し、妥当性を評価する必要がある

ここまでは大方、誰でもやりたい放題にできる。ここからが大事だ。「じゃあ、自分だったらどう書くの?」という脳内ツッコミを展開するのだ。言うは易し、行うは難し。逆に、この先に進まなければ、ほとんどトレーニングの意味はなさない。

だいたいにおいて人の成果物を評価するときは、“自分のことを棚に上げて”手厳しい評価を下すものだ。あれが足りぬ、ここが曖昧、ここに妥当性が感じられぬと、脳が好き勝手に突っ込みを入れまくり、それらはどんどん抽象化されていって、上に記したとおりのエラそうな評価言語が展開される。自分の提案書に置き換えてみれば、自分だってどんだけできてるんだ?というものになっている。

そこからである。散々脳内で意地悪を言った後に、「じゃあ自分だったらどうするのよ?」と問い、それに応えられる提案を考えるのだ。これは相当に良い。“何をクリアしなきゃ相手が納得しないか”が手に取るようにわかる。なにせ、さっきまで自分だった相手だ。

自分の成果物を見ているときには通常出現しない鬼監督みたいなのが脳内に残像として配置されていて、「さっきおまえ、ここがなってなきゃ提案にならないって言ってたよな!」と目を光らせている。先ほど自分の書いたメモをひらひらとちらつかせている。なんて素晴らしき、逃げ場のない環境!

そこから、粛々と人の書いた提案書に改めて向き合う。中をじっくり眺め直し、提案の核らしき素材を探り当て、現実的で、社会的価値があり、具体的で、一貫性ある提案の骨格を構成だてていく。とりあえず一枚の紙に書いてみる。本業は別にあるから、これをかなり限られた時間で集中的にやる。かなり良いトレーニングになる。

これをやった後に相手にフィードバックをすると、上の箇条書きメモだけ返しているのとは一段違う思いと考えをもって話し合うことができるし、提案づくりの難しさに直面する相手と(それをやらぬよりは)心を通わせながら話もできる。

フィードバックを聞いた相手とすり合わせるなかで、当然こちらの仮説と違うところに提案の主軸が見出されることもあるし、見えていなかった難しさが汲み取れてゆくこともある。そういうものを膝突き合わせて受け取りながら、その場で一緒に考えることができれば、それもまたトレーニング観点でも意味をもつだろう。

提案書に限らずだけど、自分が人のを見て何か指摘したくなるときというのは、それを受けて我がアウトプットを振り返るのが良い学習機会になる。自分がそこにコンプレックスをもっているからこそ、人のそれが気になることも多い。

また「自分はできている」という評価は主観を完全には排除しきれないので、見る人が見れば「あなた全然できてないけど…」と思われている。SNSに書いた他人への指摘とかって、自分と一緒に仕事したことがない人は「いいね!」してくれるかもしれないけど、一緒に仕事したことがある人は「自分のこと棚に上げて何言っちゃってんの!」と思ってるかもしれない。くらいのスタンスでいたほうが自分を見誤らないで精進し続けられそうである。

いろいろ話がよそ行ったけども…、「自分だってどれほどのものか」と振り返れる自分を常に確保しておくことは肝要であるな、と思うのである。

2015-03-15

Kindle Voyageの使用実感メモ

電子書籍リーダーの「Kindle Voyage(Wi-Fiモデル)」を使い始めたので、その使用実感メモ。といっても、すでに世の中で挙がっている一般的なユーザーの声が多くを占めると思うので特別新しいことは書いていないと思うけど、自分用の簡単な記録と、最近使い始めた1ユーザーの感想メモとして。

ちなみに、手にしてまだ日は浅く、数冊ダウンロードして持ち歩き、縦書き・横書きをいくつか併読中。200ページ強のビジネス書(横書き)1冊を数日かけて読み終えたところ。まだ小説やマンガは読んでいない。

[第一印象]
手ざわりも見た目も高級感があって良い感じ。軽い。本の持ち歩きが楽になりそう。

[持ち歩いてみて]
これまで比較的厚い本を1-2冊入れて歩くことが多かったので、カバンはだいぶ軽くなった感あり。スペースにも余裕ができた。期待どおり。

[読書してみて]
・薄くて持ちやすい
なので、座った状態でも手に持って読んでいることがけっこうある。

・読みにくい感じもない
集中して何時間も読み続けられる感じがしないんだけど、私の場合それは紙の本でもそうなので、今のところ電子書籍リーダーだからどうこうという不快感はないんじゃないかという気がしている。

・曲がらない違和感
もう少し柔らかく、文庫本ほどでなくともぐねっと曲がる感じがあると、より肌になじんで読み進めやすい気もするけど(言うは易し)、一方で…

・置いても閉じないという便利
硬さがあって自立的にページが開いていてくれるので、置いて読んでも閉じないのは大変便利。手が楽だし、手を他のことに当てながらも読める。食べながら、飲みながら、キーボードたたきながらもOK。

ちなみに、紙の本でも閉じない本は実現でき「計算ドリル」とかあると思うんだけど、コードとか書かせる技術系入門書が「一緒にやってみよう!」と語りかけつつも、手を放すと閉じちゃう作りになっているのはなぜだろうと逆に思った。

・ページめくりのもたつきストレス
ページめくりの度に表示がにじんで、もたつく。ちょっと前のページに戻るという動作を面倒に感じてしまうレベル。表示領域が限られていて、ページをめくる頻度が高いだけに気になると言えば気になる。これはよく聞いていた話なので、今もがんばって改良中なのだろう。

・ハイライト、検索、引用できない本が混じる
古い本など書籍によっては、紙をスキャンしただけの状態で売られていて、ハイライト(線を引く)、検索、引用ができない。Amazonサイトのその書籍の「商品の説明」欄に注意書きがあったんだけど、「商品の説明」を書いた人(出版社?)の善意によってわかるようになっているだけなので、Amazonの仕組み上は区別されていないようだ(あるいは明記するよう運用ルールを設けているのか)。私は買って読み始めてから気づいた(紙よりは400円安かった)。

・人の「ハイライト」が見えるという新しい体験
ハイライトできる本だと、その本を読んだ別の人の何人が、この部分に線を引いたという情報がさりげなく記され、これはこれまでにない体験だなと、その部分を興味深く読んでしまう。逆に、自分がハイライトしたい箇所で、他の人が特にハイライトしていないのを、「私が初めて線を引く人」的に誇らしく感じる気持ちも。

・「ページをめくる」というメタファがしっくりこない
横書きの本を画面下まで読んで、次のページに行くとき、「下に送る」のではなく「右にめくる」という動きがしっくりこない。縦に長いWebページをスマホで読むように、縦長なり横長の1枚の巻物構造になっているイメージで、行を指で送っていくほうが自然に感じる。

見せ方の移行期なのだろうけど、古い本のスキャンデータならともかく、新しく出た本でも今のところそうなのか。もう少し楽に紙とデジタルと作り分けできるようになると変わるのか、あるいはもう少しデジタルファーストっぽく作るようになると変わるのか。

・現在地の把握が直感的にできない
今読んでいるところが「全体の中の」あるいは「今の章の中の」どの辺なのかという把握が直感的にできない。ここも今後改良していくのであろう道半ば感がある。すでに読んだ側と、これから読む側で、巻物の巻の厚みが違う表示とかがあるとわかりやすいと思うんだけど…と素人発想。

[読み終えた後]
・物理的に本が狭い部屋を圧迫しないのは良い。良いのだが…

・「読み終えた本」という物質が残らない虚無感?がなんとなく漂う。慣れかしら。

[使ってみて]
・Wi-Fiモデル(3Gなし)なので、同期はそんなにスムーズでない。主に家の外で使うのでネットにつながらない状態で使っており、Wi-Fi接続する家の中では立ち上げないことが多いから、読んだ最終ページが更新されない。だから、iPhoneで開いても最終ページは同期されないのがたいてい。

・スマホに比べてバッテリー長持ち、頻繁な充電が不要という取り扱いやすさを感じる。

以上、メモ書き。電子書籍リーダーが出始めた頃に比べると、だいぶ読みたい本が電子書籍として出てきている感はあり、紙と電子と併用していく感じで行きそう。そうしているうちに、こういう本は紙がいいなとか、こういうのはデジタルがいいなとか、もう少し体感的に整理されてくるかもしれないなぁという気がしている。

2015-03-10

30代最後の一年

誕生日を迎えて、30代最後の一年が始まった。39年も生きていると、たいていのことは「私」が勝手にやっている感じがする。もはや「意志をもってどうこうする」といった新たな挑戦ごとも含めて、「私」が勝手に決断してチャレンジしている感じがする。

自分のいいと思っていることも、こういうところが自分はどうもなぁと思っていることも、結局のところ気づいたときにはすでにやっていて、後から振り返って、あぁやっぱり私はこういう人間なのだ…と再認識したり反省することしかできなかったりする。

めぐってくる状況、向き合うべきお題は日々変わってゆくから、自分がやること自体に変化はあるし、それによる学びや成長も多分にあるんだけど、つどつど状況に向き合っている自分の根本の性質っぽいものは割りに頑固でどうにも手の出しようがなく、もうなんか「あぁ、そういう人ですよねぇ、あなたって」と外から他人を見ているような感じだ。

「私」はこちらのコントロール下になく、勝手に生きている「私」を、こちらはそばで見守ったり、ハラハラしたり、叱ったり、なだめたり、問い詰めたり、励ましたり。こちらが誰なのか、それはそれでよくわからないんだけど…。でも、このブログは「こちら」の人が書いている気がする。

こちらから見ている「私」は、悪い人じゃないし、基本的に善良であることを好むし、前向きに物事を考えようとする。CPUのスペックとかハードディスク・メモリ容量はあれだけど、とりあえず自分なりに一所懸命に事にあたろうとはする。曖昧でもなんでも、外から困った問題や相談ごとが持ち込まれると、自分に何ができるか考えてアウトプットしようとする。

一方、相談ごとや問題が外から持ち込まれないかぎり、対外的な活動は消極的で、内にこもりがちで、腰が重たい。理想型というのは人によってさまざまだからな…というベースがあり、特定の時代や地域にポピュラーな価値観にもとづいて、さもそれが普遍的で万人に共通の理想型や問題点であると捉えて何か判断することに違和感をもつ。

目的のないところに問題は生起しないと思っている。具体的な人が、ある目的を胸のうちに抱いて、その達成に際して問題を抱えて困っているという状況が目の前に起ち上がったとき初めて、自分に何かできることがあったら働きたいという活動エネルギーがむくむくとわいてくる。

引っ込み思案で、臆病で、人見知りで、歳をとるごとにそういう自分を許してしまっている嫌いがある。自分に無理なく、自然体でいいのだという加齢に伴う甘えが年々強まっている。

果たすべき役割を自分のなかでこれと位置づけると、大胆ともとれる行動も厭わずできたりするが、これという役割がない場ではまったく存在感がなく、水や空気のようだといえば格好もつくが、ほとんど何にも機能していないといえばそれまで。実際には、後者の感覚を覚えることのほうが過去多かったので、所在ない社交の場に出向くことがどんどん少なくなり、ひっそりとした暮らしを営む傾向が強まっている。

人の親にもならず、商売は受託稼業、テンポラリーに部分的にしか役立たない自分の生き方は重々承知しているので、その部分でできることをきちんと全うできるように、日頃はできるだけ身軽に、健康に、穏やかに暮らしていつでも動けるようにしておき、洞察力や思慮深さを鍛えて、いくらかでも前より良い仕事ができるよう、静かにできることを増やしておこうと思っている。

泳いだり本を読んだり思索にふけったり(いくらか消極的に)勉強したり。あとは、ごくまれに現れる自分を好いてくれるマニアックな友人たちと膝つきあわせ、時折おしゃべりする時間を楽しんだりして、のらりくらり暮らしている。そんな地味に癖のある「私」ですが、マニアックな友よ、この一年もどうぞよろしくお願いします。

2015-03-04

母とタバコと

私は一度もタバコを吸ったことがない。私が子どもの頃は、「もてあました口に大人はタバコ、子どもはガム」くらいの勢いでタバコはごく身近な存在だったから、私の世代以上だと習慣化はせずとも興味本位で一度は口にくわえたことがある人が大勢いると思うんだけど、私にはその経験もない。

別段お嬢様だったわけではなく、縁遠い存在だったというよりは、むしろ身近にありすぎた。物心ついたときから父が吸っていて、うちの隣の家に設置されている自販機に、缶ジュース感覚でタバコを買いに行かされていた(そういうことに目くじら立てる時代でもなかった)。タバコは父も愛用する「大人の嗜好品」の一つであり、私にとってはそれ以上でも以下でもなかった。

中学に入ると、先輩や同級生がタバコを吸っているのを目にすることもままあったけれど(いわゆる田舎の公立中学とはそういうもの、たぶん)、それも不良というのは大人の嗜好品をくわえたくなるものなのだなぁと、肯定するでもなく否定するでもなく人類のありようとしてぼんやり眺めていた。

ただ自分が吸うのはないなと。「あれは一度覚えると止められなくなるらしい。でも健康を害するのでしょ。だったら最初から覚えなきゃ一番楽ちんじゃないの」というので、この事案は私のなかで1秒かからず一件落着していた。好奇心が不足しているというのか淡白というのか、いいも悪いもなくもともとそういうタチだったのだ。

そんな中学時代のある日。夕方に学校から帰ってきて2階の自分の部屋に向かうところで、私は一瞬立ち止まり、息を呑んだ。階段を昇りきったところで、親の部屋の扉が少しだけ開いていたのでちらと目をやると、薄暗い部屋の中、電気もつけず音もたてずに母が立っていて、左手の指の先からタバコの煙をくゆらせていたのだ。

母とタバコはどうにも結びつかず、一瞬ぎょっとした。ぎょっとしたけれど、それ以上に、その光景の静けさ、暗がり、疲憊の象徴としてのタバコに、私は釘づけにされたのだと思う。何かがあったのだ。そう察して、私は静かにその場を後にし、自分の部屋に身をひそめた。

その頃は父方の祖父が京都からやってきて、しばらくうちに滞在しているときで、後で話を聴いたところによれば、その日の日中に大雨の中、祖父がステテコ姿かなにかで表に飛び出していって、長いことあれやこれや叫び続ける一波乱があったらしい。たぶん祖父は祖父で、京都でストレスを抱えてこちらにやってきていたのだろう。そのとき父は会社、子どもたちは皆学校で、家には母しかいなかった。おのずから母は一人で表に出ていって、一緒に雨に打たれてずぶぬれになり、どうにか祖父を説得して家の中に戻して気を落ち着かせるまでを一手に引き受けた。

その事件が一段落し、ようやく部屋でひとりになった母の背中を、私はどうやら見たらしかった。その後ろ姿を見たことは、生前母に言ったことはなかったと思うけれど。母は、若い頃はタバコを吸っていたようで、子どもができてからはずっと止めていたみたいだ。子どもたちが大人になると再び吸うようになり、結局晩年病気が発覚するまでずっと吸っていた。

考えてみると、あの時代の女性で若い頃からタバコを吸っていて、車の運転免許も10代でとってずっと乗り回していて、若い頃の写真にはミニスカート姿も多く、化粧もしっかりしていて、装飾品もあれこれ持っていてよく身につけていて、なんか地味路線まっしぐらな自分とはけっこう違うところがたくさんあったんだよなぁと今さら確認。

それはそれとして、とにかくタバコの煙をくゆらせていたシーンは、静かながら確かな衝撃力をもち、ひとつの大事な発見を私に与えた。私はこの時に、「あぁこの人も一人の女性として生きているのだ、私の親というだけでなく一人の人間として生きているのだ」と、はっきり認識したのだ。私はその瞬間から母を、自分の親ではない面ももって生きている一人の女性、一人の人間としても見るようになった。つきあうようになった。愛するようになった。

今日は、亡き母の誕生日だ。あなたはきっと「生きていたら何歳だね」と言われるのを嫌うだろう。「私はもうずっと歳を取らないのよ」と言って微笑むだろう。だから計算するのはやめておきます。いつまでも美しく、いつまでも温かく。お誕生日に感謝をこめて、ありがとう。

*あれ…と思って調べてみたら、ほとんど同じことを(別の角度から)書いた昔のエントリーがあった。まぁいいか。既視感があった方は、その感覚、正解です。

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