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2015-02-16

つかんだ知見と、もらった知見

とある経験を積んで、それを後から振り返って、そこに何らかの「知見」を見出した人がありました。その人は、これからそこへ行こうとする人に、その「知見」を語り聞かせました。その「知見」を伝えておけば、それを知らぬよりも能率良くそこへたどりつくことができるだろうと期待してのことです。果たして、語り聞かせた「知見」は本当にその人を能率良くそこへ導くことができたでしょうか。

という問いを自分に投げてみる。そう改めて考えてみると、「演繹的に人から学ぶことで、学習が能率化するもの」と「帰納的に自ら経験しないと獲得しがたいもの」とあるんだろうなって思う。

世の中を見渡してみれば、先人が必死に語り聞かせてきた教訓でも、後世に引き継ぐこと叶わず同じ過ちを繰り返してきたことっていくらでもあるように思われる。過ちをどう定義するか問題がつきまとうが。ともあれ、人から演繹的に知識を授かっても、自分で経験しないことにはどうにも獲得しえない類のことって、けっこう広範囲に渡って想定できるのではないか。

自ら経験してつかんだ知見は、人に語り聞かせた時点で変容を遂げており、ある人が「つかんだ知見」と、ある人が「もらった知見」は質的に別のものになっているんだろうと考えてみる。

そしておそらく、その2つのどちらのアプローチで得たら能率が良いかって、伝授する内容によっても、相手によっても、伝え方によっても答えが変わるのだ。いろんな変数が複雑に絡み合っていて、どちらのアプローチが有効なのかは一概にはいえない。けれど、知見を受け渡すなら、ここのアプローチの良し悪しを意識してかからないと、かえって相手の学習効率を下げてしまうことにもなる。学習設計を生業にする立場としては、そこを慎重に考える必要がある。

演繹的に人から学ぶことで、「深く体系的に理解できた→できるようになった」気にさせてしまうとか。逆に、「これは大変に難しいことだ」と萎縮させるばかりで、経験する前におじけづかせてしまうとか。頭でっかちにさせるだけで、実際に自分で経験することを遠のけてしまっているとしたら本末転倒だ。

全体像が見えないまま走ることも時には必要であり、人が生きるときの基本的な視界ってそういうものだとも思う。後から時間を遡ってみれば見えるけれども、今から見ている限りは確認できないものの中で生きている。って、そこまで広げると身の丈にあわない壮大な話になってしまうけれど。

「じゃあもう教えなきゃいい」って極論じゃなくて、加減の問題を丁寧に扱いたい。微妙な加減を扱えることこそがデザインの仕事だろう。何をどう教えて、何は教えないで経験させるか、その経験はどうきっかけを与え、どう経験させたら有効か。ここのところを綿密に考えて、演繹と帰納の両アプローチを効果的に組み合わせる。私のように、学習内容の専門家ではなく、学習設計を生業とする仲介人の働きどころは、そこだろうよと再確認した次第。

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コメント

> 加減の問題

ここですよねー

で,加減って感覚でまかなえるケースもありますけど,一般論で言うと経験値が高いほうが加減の幅が広いようにも思います.世界が広がっているというか.

馮さん、コメントありがとうございますー。加減、大事ですよねぇ。
経験も含めたところに、直感じゃなくて直観が働くんだと私も思っています!

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