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2015-02-16

読まない小説の読み方

タイトルから想定されるとおり、これから書くのは四方山話にすぎないと宣言して心置きなく書くけれども、私は気が向くと近くの大型書店に行って文庫本をジャケ買い(表紙買い)する。それでちょいちょい小説を読んでいるのだけど、改めて振り返ってみると、私は本当に小説の内容を覚えていない。登場人物の名前も、筋書きも場面設定も何もかも。その本の好ましさの度合いが、なんとなく後に残っているくらいがせいぜいだ。

読んで日が経つと忘れてしまって…という人は多いと思うのだけど、今読んでいる真っ最中の小説でも私はそうだ(まったくえばれない)。あらすじも、登場人物の名前も、本のタイトルすら危うい。説明が難しいとか、覚えていないとか以前の問題で、読んでいる最中から、これがどういう物語なのか把握しようという意識が働いておらず、だらだら読み進めているというのが一番いい得ている気がする。あんまりひどくてにわかには信じられないかもしれないが。

そこにどんな面白みがあって読んでいるのかって話だけど、読書中はただただその物語の中を漂っている感覚で、その漂っている感じを(おそらく)味わっているんだと思う。で、それがどんな構造のお話なのかとか、あまり意識して読んでいないのだ。意識的に読もうとすれば、ペンを片手に図式化でもしながらやれないことはないのだろうけど、小説を読むというのは私にとって余暇活動なので、仕事モードと対極の脳内活動を自然としている。

そうやって考えてみると、小説を読んでいるときというのは、気のぬけた日常時間の拡張版という感があるなと思った。日常ぶらぶら表を歩いているときなども、私の脳内はその辺を漂っているだけである。小説を読んでいるときも同じように、その辺を漂っているだけである。そして気のぬけた日常時間と同じように、概ねその辺を漂いながら、時おり何かに気をとめて、それについてあれやこれや考えるのだ。

作家が小説の中で、非常に些細な出来事や何気ない風景について、わざわざ文字に書き起こしているのをみると、日常のなかでこういうシーンに気をとめながら暮らしている人間がいるんだなぁと感心してみたりして。こういう端っこのことを、わりあい気にとめて読んでいる気もする。

物語に没入するということが、なかなかできないタチだとも言えるかもしれない。あちらとこちらの世界を行ったり来たり、登場人物と作家と自分の頭のなかを行ったり来たりしながら、こんなふうな世の中の出来事の切り取り方、意識の向け方、とらえ方、受け止め方もあるんだなぁと、とにかくいろんな種類の世の中との接触の仕方を、多様な人の心の反応の仕方を、ただただ口をあけて受け入れ続けているという感もある。

物語に没入したり、物語構造を捉えながら読めば、それこそ(そうしたものがあるならば)本来的な小説の楽しみ方ができる気もするけれど、小説そのものは読んでいないのだくらいに割りきってしまえば、こういうのもありか。そんなわけで、読んだという小説の感想もあらすじも説明できない。読んだような、読んでいないような本ばかりである。

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