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2015-02-28

(泳ぐことの)価値のありか

先月のこと、毎朝通っているフィットネスクラブにテレビ局の取材が入っていて、私もプールの中から数分のインタビューに応じた。ちらっと見えた番組名&健康ネタという観点から、勝手に朝10時からの健全無害な情報番組をイメージしていたのだけど、プールからあがってきてフロントで改めて番組名を確認しネットで調べてみたら、深夜0時過ぎからのエグめなバラエティ番組とわかった。放送日までは何の素材に使われるのかと戦々恐々としていたが、結局ほぼ映らずに済み安堵。取材に応じるときは何の番組かくらい確認しようという学びを得て一件落着した。

それはさておき、プールで訊かれたのは、つまるところ「なんでこんな朝っぱらから毎日泳いでるの?」という質問だった。「なぜか毎朝泳いでいるアラフォー女性」として取材を受けたのだ。

いや、なぜって、健康のためとかも言えなくはないんですけど、正直なところ、とにかく気持ちいいからなんです。水の中って気持ちよくて、水の中を泳いでいると本当に気持ちいいなぁと、泳いでも泳いでも毎日気持ちいいなぁと思うので、それで泳ぎ続けている感じでして…。

こうやって文字に起こしてみるとアラフォーにしては稚拙極まりない感が漂うけれども、とにかく「そんな答えになっちゃいますけど、それでもよければ」と言うと、先方が「いいんです、いいんです、それでいいんです」と言うので取材に応じた。そして放送されなかった…(笑)。まぁ私があの番組のディレクターでも、私の素材は撮るだけ撮っておいて使わない気がするが…。

それもさておいて、ここでの本題は、なぜ私は泳ぐのか、なぜこのアラフォー女性は泳ぐのか、なぜ人は泳ぐのかである。

何かしている人に対して、それをしていない人が「なぜそれをするのか」と理由を問うとき、問われた側に期待されているのは、その有用性はどこにあるのかを答えることだろうと考える。できるだけ簡潔明瞭に「○○のためにやっているんです」と目的を伝える、それを望まれているのだと、その場の自分の役割を位置づける。

だからこそ私は「健康のためとかも言えなくはないんですけど」と前置きしたのだろう。ご期待は、その活動の有用性を明示することにあると思うのですが、正直に第一の、最上位の、真正な理由を答えようとしますと、どうもそこに理由がある気がしないんです。じゃあどこにあるのかと言われても、それをうまいこと言葉に表せない。それでも、どうにか伝えられるかぎりを尽くそうとしたら、出てきたのが「とにかく水の中は気持ちいい」だった…という自分なりの振り返り。

哲学者のマーク・ローランズは、走ることの価値について書いた「哲学者が走る」の中で、こんな前書きを記している。この言葉に乗っからせてもらうなら、私は何かのために泳いでいるのではなくて(いや、それもありつつ)、泳ぐことそれ自体の価値に浸っていると言えそうだ。

わたしたちは、あることを他の何かのためにすることで人生を送っており、その他の何かもまた、別の何かのためにする。際限なく他の何かのために何かをする人生70年、いや80年、何か価値のあるものを追い求めて、ほとんど得られるためしのない何十年。何か他のことのためにだけではなく、それ自体の故に重要であるものに触れれば、このような追い求めを少なくともしばらくは止めることになるだろう。少なくともちょっとの間、価値を追い求めるのではなく、価値の中に浸るのである。*

私は特段、別の何かのために何かすることを悲観してはいないし、何かの目的を定めてそのために仕事する時間に有意義さを感じている面もたぶんにある。けれど、そうした構造をもつ活動だけで、生きる時間のすべてを埋めつくしていると、「それがもたらす他のものの故に価値がある」というものの見方・接触の仕方しか、いつのまにかできなくなってしまう。「それ自体に価値がある」という価値のあり方を、認識したり、理解したりすることすらできなくなってしまう。それはどうも貧しい感じがする。視野の狭さというか、奥行きのなさというか。

泳ぐことには、健康、ダイエット、リラクゼーションなど、それがもたらす有用性の機能も確かに認められる。それはそれで、私も十二分に価値を味わっている。けれど、それがすべてではない。人はどうも、一つにしぼろうとか、最上位はどれかを決めたがる感があるが、価値のありかは一つと限らないし、順番も曖昧なものだ。有用性だけにあるのじゃないし、それが最も上位にあるとも限らない。

有用性の価値が語られやすいのは、それが言語化して共有しやすいからではないか。それに内在する価値が語られにくいのは、それが言語化しづらく、ゆえに本人の中でも認識しづらく、認識できても人と共有しづらいからではないか。でも、言い表しやすいものが、最も真正な価値をもつわけじゃない。そこんところを、たとえ人にうまく伝えることができなかったとしても、自分の中では見誤らずにいたい。それに内在する価値の存在に気づけること、その尊さを理解すること、それに直接触れている時間を大事にして生きていきたい。

不思議なことに、泳いでいる間は、その価値に直接触れている感じがするのだけど、泳ぐのをやめてプールから上がり、水の中を離れると、その価値はどうにもつかみどころがなくなってしまう。あったことに覚えはあるのだけど、それがどんな価値だったのか、具体的に掌握できている感じは持続しない。とても曖昧で、しかしながら存在を無しにはできないもの。日常的に触れ続けていないと、きっと損なわれてしまうんだろう。そんな危うさを感じる。

一方で、泳ぐことに内在する価値に触れる時間を持ち続けていれば、自分が体験していない他の人の活動に内在する価値にも、想像力をもって関わっていけるのではないかという期待がある。その存在に気づき、その尊さを理解し、その人の活動を大事にできる気がするのだ。そのためにも、末永く泳ぎ続けられたらいい。という、これは有用性の価値ですな。

*:マーク・ローランズ「哲学者が走る」(白水社)

2015-02-23

自分のスマホのアプリ分類

昨年10月のリリースだけど、ニールセンのスマホアプリ利用状況の調査結果を見ていて、利用頻度を「月1回以上」と「月に10回以上」の2つに分けているのにフムム感を覚えたので(ムフフじゃない)、このフムム感はなんだろうと思って、自分の入れているスマホアプリを見直してみた。

まず調査によると、一般的に「月1回以上使うアプリ」って27個くらいらしい。これは年代問わず、日米問わず、過去の推移をみても増加していないので、今後も「利用されるアプリの個数は27個前後を推移するであろうと予想」されている。

この調査は、スマホに初めからインストールされている「電話」「電話帳」「カメラ」などのアプリを含んでいないようなので、私も含まずに自分でインストールしたアプリで数えてみた。

すると、私が月1回以上使うアプリ(というか、ほぼ入れているアプリ)は18個だった。できるだけ持ち物を少なくとどめたい性格が出ている…。部屋にも最低限の物しか置かず、アクセサリーもつけない(なぜか会社のデスクだけは常に混沌としているのだが…)。スマホに入れるアプリも、少なければ少ないほど気が楽だ。18個、もうこれで十分だ。

続いて、この18個を眺めて、どう分類するのが自分的にしっくりいくかなぁと考えてみた。それで冒頭のフムム感に戻るわけだが、使用頻度としては「毎日」「週1〜2回」「月1回程度」という分け方がちょうど良さそうだった。

冒頭の調査の「月1回以上」と「月に10回以上」の2組だと、「月1回程度」と「週1〜2回」が一緒くたになってしまう。これが、フムム感につながっていたようだ。この2つ、自分とアプリの関係性的には、だいぶ違うものとして感じられるのだ。

「月1回程度」だと、私の場合「Peatix」(イベント・チケット管理)とか、「Dropbox」(クラウド上にファイル保存)とか。用があって立ち上げる感じで、外的に必要が発生しなければ思い出さない。

それに比べると「週1〜2回」使用のアプリはもう少し心理的に身近。用があって立ち上げる類だと、「weathernews」(天気予報)とか「Google Maps」(地図)とか「乗換案内」(交通機関の最適経路案内)とか。これに加えて「週1〜2回」だと、用があってというより、それとなく立ち上げる「radiko.jp」(ラジオが聞ける)とか、「Kindle」(電子書籍が読める)とかが入ってくる。

そして「毎日」使うアプリとなると、用があって立ち上げるアプリより、それとなく立ち上げるアプリに優勢の感が出てきて、「Facebook」「Echofon」「Google+」といったSNS系アプリ、「Feedly」「Smartnews」などのニュース・読み物アプリが台頭。あと、Facebookの「Messenger」とか健康管理の「PopWeight」は、必要があって毎日立ち上げている感じ。

こうやって考えると、私のスマホアプリ分類は「使用頻度」と「立ち上げ動機」に大別され、前者は「毎日」「週1〜2回」「月1回程度」の3分類(「ほぼ不使用」も含めると4分類)、後者はそれとなく立ち上げる「暇(いとま)使用ツール」と、用があって立ち上げる「目的使用ツール」。こう分けると、自分的にしっくり収まる。

同じアプリでも、人によって「使用頻度」「立ち上げ動機」とも、どこに分類されるかは異なるだろうし、そもそも大別する入れ物も、人によってこう分けるのがしっくりいくという軸は、いろいろとあるんだろうなぁと思う。

手持ちの20〜30個以上数があるものを、どんな軸を立てたら意味が見いだせるか(→名前がつけられそうか)を考えてみるのは、(たとえ誰の役に立つこともない分類だとしても…)面白いし、頭の体操になる。他にいくらでもやらねばならないことがあるときこそ、こういうことをやってしまうから人間とはおかしなものだ。

2015-02-21

隠れひそむ前提条件

世のあらゆる主張には、それが通る前提条件が隠れひそんでいて、人が主張することにも自分が主張することにも適用範囲がある。となれば、適用範囲外もある。ということを知っておくことは大事だ。

という主張にもきっと前提条件があるんだろうと考えると、自分にとっては相当に普遍性高そうな主張を言っているときも、そこにはきっと適用範囲外がある。んだとすると、自分の主張に対して健全な懐疑心をもって自問することは重要なことだなぁ。という主張にもきっと前提条件があってだな…略。

例としてわかりやすいわけでもないけど、たまたま今日自分がやった自問を挙げると、「Intertwingled: 錯綜する世界/情報がすべてを変える」という本の中に

肝心なのは、何を作るかではなくて、どんな変化を生み出せるかということ。*

というのがあって、私はこれにものすごく共鳴したのだけど、そこで一呼吸おいて、でも「世の中に変化を生み出そうという前提をもたずに、何かを作ること」が、あらゆる文脈において悪なわけじゃないし、浅はかなことでもないはずだよな、と考えた。

となると、これは「仕事において、社会的価値を生み出すという役割に立ったときには」という前提条件にもとづく主張か…と、適用範囲を模索した。「その主張がすべて」の世界からの脱出を試みた。

この試みが適切かどうかはわからない。けれども、少なくともこうした一呼吸を自分に発動すること自体は、共鳴した言葉をより深く解釈する上でも、無意味なことじゃないだろうと思う。いずれ、より良い境界線が見えたり、人から指摘されて気づくことがあれば、また引き直せばいい。

自分が誰かの主張を「あぁ、これは真理だなぁ」と感じいったとき、それを尊ぶのと別に、自分は今、何の文脈にのって真理だなぁと思っているんだろうって、真理じゃない領域を探ってみる(それを真理と言っていいかはしらないが…)。盲信せず、常にそれの前提条件が何で、それの適用範囲はどこまでなのかを検討する。

逆に、誰かの主張を「これってどうなの?違うんじゃないの?」と批判的に受け取ったとき、自分とは別の立場や文脈で受け取ったら有用なこともあるのかもと問いを立てて、視点を変えてそれの適用範囲を探してみる。もしかすると、自分とは違う立場におかれている人、自分とは違う価値観をもっている人には有用なメッセージかもしれない。頑固な自分フレームをはずして別フレームをあてて見れば、そこに別の価値や意味が見えてくるかもしれない。

前提条件は、必ずしも主張する人が明示してくれるわけじゃない。主張する人が適用範囲を誤解釈している場合もあるし、すべてにあてはまる主張だと盲信している場合もあるし、言葉足らずで範囲が前置きされていないこともある。意図的に隠していることも。

ゆえに自分が発信者側でなく、情報を受けとる側のときも(つまり日常的に)、どういうところでその主張は生きるのだろう、どういうところではその主張は通らないのだろうとフラットに考える一呼吸を大事にしたい。という主張にもきっと前提条件があってだな…略。

混沌とした情報化社会だけど、そこで受け手に求められてくる人への寛容さ、状況への柔軟さ、物事に向ける批判的思考力を発揮するのは、人間らしくて楽しくもある。

*: ピーター モービル (著), 大林 寛 (編集), 浅野 紀予 (翻訳)「Intertwingled: 錯綜する世界/情報がすべてを変える」(Semantic Studios)

2015-02-16

読まない小説の読み方

タイトルから想定されるとおり、これから書くのは四方山話にすぎないと宣言して心置きなく書くけれども、私は気が向くと近くの大型書店に行って文庫本をジャケ買い(表紙買い)する。それでちょいちょい小説を読んでいるのだけど、改めて振り返ってみると、私は本当に小説の内容を覚えていない。登場人物の名前も、筋書きも場面設定も何もかも。その本の好ましさの度合いが、なんとなく後に残っているくらいがせいぜいだ。

読んで日が経つと忘れてしまって…という人は多いと思うのだけど、今読んでいる真っ最中の小説でも私はそうだ(まったくえばれない)。あらすじも、登場人物の名前も、本のタイトルすら危うい。説明が難しいとか、覚えていないとか以前の問題で、読んでいる最中から、これがどういう物語なのか把握しようという意識が働いておらず、だらだら読み進めているというのが一番いい得ている気がする。あんまりひどくてにわかには信じられないかもしれないが。

そこにどんな面白みがあって読んでいるのかって話だけど、読書中はただただその物語の中を漂っている感覚で、その漂っている感じを(おそらく)味わっているんだと思う。で、それがどんな構造のお話なのかとか、あまり意識して読んでいないのだ。意識的に読もうとすれば、ペンを片手に図式化でもしながらやれないことはないのだろうけど、小説を読むというのは私にとって余暇活動なので、仕事モードと対極の脳内活動を自然としている。

そうやって考えてみると、小説を読んでいるときというのは、気のぬけた日常時間の拡張版という感があるなと思った。日常ぶらぶら表を歩いているときなども、私の脳内はその辺を漂っているだけである。小説を読んでいるときも同じように、その辺を漂っているだけである。そして気のぬけた日常時間と同じように、概ねその辺を漂いながら、時おり何かに気をとめて、それについてあれやこれや考えるのだ。

作家が小説の中で、非常に些細な出来事や何気ない風景について、わざわざ文字に書き起こしているのをみると、日常のなかでこういうシーンに気をとめながら暮らしている人間がいるんだなぁと感心してみたりして。こういう端っこのことを、わりあい気にとめて読んでいる気もする。

物語に没入するということが、なかなかできないタチだとも言えるかもしれない。あちらとこちらの世界を行ったり来たり、登場人物と作家と自分の頭のなかを行ったり来たりしながら、こんなふうな世の中の出来事の切り取り方、意識の向け方、とらえ方、受け止め方もあるんだなぁと、とにかくいろんな種類の世の中との接触の仕方を、多様な人の心の反応の仕方を、ただただ口をあけて受け入れ続けているという感もある。

物語に没入したり、物語構造を捉えながら読めば、それこそ(そうしたものがあるならば)本来的な小説の楽しみ方ができる気もするけれど、小説そのものは読んでいないのだくらいに割りきってしまえば、こういうのもありか。そんなわけで、読んだという小説の感想もあらすじも説明できない。読んだような、読んでいないような本ばかりである。

つかんだ知見と、もらった知見

とある経験を積んで、それを後から振り返って、そこに何らかの「知見」を見出した人がありました。その人は、これからそこへ行こうとする人に、その「知見」を語り聞かせました。その「知見」を伝えておけば、それを知らぬよりも能率良くそこへたどりつくことができるだろうと期待してのことです。果たして、語り聞かせた「知見」は本当にその人を能率良くそこへ導くことができたでしょうか。

という問いを自分に投げてみる。そう改めて考えてみると、「演繹的に人から学ぶことで、学習が能率化するもの」と「帰納的に自ら経験しないと獲得しがたいもの」とあるんだろうなって思う。

世の中を見渡してみれば、先人が必死に語り聞かせてきた教訓でも、後世に引き継ぐこと叶わず同じ過ちを繰り返してきたことっていくらでもあるように思われる。過ちをどう定義するか問題がつきまとうが。ともあれ、人から演繹的に知識を授かっても、自分で経験しないことにはどうにも獲得しえない類のことって、けっこう広範囲に渡って想定できるのではないか。

自ら経験してつかんだ知見は、人に語り聞かせた時点で変容を遂げており、ある人が「つかんだ知見」と、ある人が「もらった知見」は質的に別のものになっているんだろうと考えてみる。

そしておそらく、その2つのどちらのアプローチで得たら能率が良いかって、伝授する内容によっても、相手によっても、伝え方によっても答えが変わるのだ。いろんな変数が複雑に絡み合っていて、どちらのアプローチが有効なのかは一概にはいえない。けれど、知見を受け渡すなら、ここのアプローチの良し悪しを意識してかからないと、かえって相手の学習効率を下げてしまうことにもなる。学習設計を生業にする立場としては、そこを慎重に考える必要がある。

演繹的に人から学ぶことで、「深く体系的に理解できた→できるようになった」気にさせてしまうとか。逆に、「これは大変に難しいことだ」と萎縮させるばかりで、経験する前におじけづかせてしまうとか。頭でっかちにさせるだけで、実際に自分で経験することを遠のけてしまっているとしたら本末転倒だ。

全体像が見えないまま走ることも時には必要であり、人が生きるときの基本的な視界ってそういうものだとも思う。後から時間を遡ってみれば見えるけれども、今から見ている限りは確認できないものの中で生きている。って、そこまで広げると身の丈にあわない壮大な話になってしまうけれど。

「じゃあもう教えなきゃいい」って極論じゃなくて、加減の問題を丁寧に扱いたい。微妙な加減を扱えることこそがデザインの仕事だろう。何をどう教えて、何は教えないで経験させるか、その経験はどうきっかけを与え、どう経験させたら有効か。ここのところを綿密に考えて、演繹と帰納の両アプローチを効果的に組み合わせる。私のように、学習内容の専門家ではなく、学習設計を生業とする仲介人の働きどころは、そこだろうよと再確認した次第。

2015-02-11

死別から四年

母が他界して丸四年が過ぎた。今日は祝日、父と兄一家を誘ってお墓参りに行ってきた。ここ数日の寒波が少しだけ和らぎ、空は晴れわたっていた。甥っ子たちと一緒にお墓をきれいにして、お花をそなえて、お線香をあげて、手を合わせた。

一周忌、三回忌を経て、昨年は初めて周忌も回忌もつかない「命日」を経験した。今年はそんな命日も二回目で、丸四年かぁと穏やかな気持ちでお墓に向き合う。

今読んでいる小説の中に、

会えない人と死んだ人と、全然違うとしたら、どこに決定的な違いがあるのか。*

というのがあるんだけど、こんな問いに片足つっこみながら一人電車に揺られていると、常識的なものの見方の境界がどんどん曖昧になってゆく(気は確か)。

余命宣告から亡くなるまでのひと月半は、あぁ亡くなったらもう二度と会えなくなっちゃうんだというのでたいそう困惑した。亡くなってからしばらくは、もう二度と会えないのかとひどく悲しんだ。昨年あたりは、もう長いこと母と会っていないなぁと、ぼんやりそんなふうに考えたりもした。

今はなんとなく、私の中のどこでもないどこかに、形なく有るという感覚が近いかもしれない。彼女に対して何を問うでもなく、何をお願いするでもなく。なんとなく、母を感じながら日常を生きている。

時が経つにつれ、私の内側の世界では、母という人間が「在る」という存在感より、母という概念が「有る」という所有感のほうが強まっているのかもしれない。もちろん、そんな簡単に言い切れることじゃないんだけど。まぁなんとなく。

*柴崎友香「わたしがいなかった街で」(新潮文庫)

2015-02-04

学習セルフマネジメントのすすめ

今日と数日前に2つほどSlideshareで共有した「Web制作者に向けた学習セルフマネジメントのすすめ」というスライドの編集後記的メモ(Facebookで共有したときのやりとりを整理したようなもの)。

共有したのはWeb制作の実務者に向けた「学習」に関するプチスライドで、日頃それなりにインプットしているつもりだけど、どうも停滞感があるという方(あるいは、その上司や先輩にあたる方、組織的に問題意識をおもちの方)が、その状態をより深く探って打開策を見出す一助になればと思って作りました。

煽る意図はないので、できれば淡々と見ていただいて、学習が停滞しているボトルネックの把握、学習方法の見直しに役立つところがあれば嬉しいかぎりです。

Web制作者に向けた学習セルフマネジメントのすすめ
1.現状を把握する
2.経験学習サイクルをまわす

なお、今回はWeb制作者の継続的な「学習」をテーマとして、「キャリア」よりは範囲をしぼる感じで問いを立てました。キャリアというテーマでも、自分なりにいろいろ考えてはきたのですが(*1)、枠組みが大きすぎて、また個人によって解が違いすぎるため、広く伝播する媒体にのせて意味ある共有をするのに限界を感じています。自分の力量的に、これ以上の言及がすごく難しい。

*1:過去にキャリアについて言及したスライドはSlideshareの一覧にあります。

市場の変化が激しく、先々不安定な業界特性。先々不透明なのは業界問わずのご時世でもありますが、これに加え個々の多様性が重視される時代背景を踏まえても、Web制作者のキャリアや業界のキャリアパスを有意味に語ることがたいそう難しく感じられます。

なのでキャリアについては、自分の力量で安易に「モデル」や「タイプ」の言語化・視覚化に走るよりは、個々人と向き合ったキャリアカウンセリングとしてやっていったほうがご本人にとっての意味を見出しやすく、自分の身の丈にあっているように思う今日この頃。個人的には細々やっています。

もちろん有意義なモデルができれば、その共有は素晴らしいと思うし、いろいろな人と話をさせていただく中で、最近は、初期の立ち上がり数年に限定すれば、Web制作者のキャリアパスの構築・共有も有用ではないか、という見解にあるのですが。

できるだけ使い道のある共有を考えたとき、今回はWeb実務者の継続学習にフォーカスしてまとめたいと思ったのですが、自身の長期的な取り組みとしては、引き続きキャリアという枠組みでどういうことが本質的なサポートになるのか、自分なりに考え続けて動いていきたいと思っています。

最近は、電気毛布を買っただの、実家の書類整理をしただの、翻訳本を読んでいると脳内再生される著者の声が日曜洋画劇場の吹き替えの人になっていて驚いちゃうねだの、気のぬけた話ばかり書き連ねていたので、ここでいきなり仕事モードなスライド共有もなんなんですが、なにぶん仕事も日常もごった煮のブログ。

そもそも私自身が仕事とプライベートに明確な境い目のない生き方をしているのだから、これこそが自然とも思う。人間、個々人も多様ならば、一個人の中身もまた多様性をもつもの。あれも私、これも私。それでいいじゃあないのと。

分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂という(*2)

とは河合隼雄さんの言葉。すごいこと言葉に表すものだなぁと感服。

*2:小川洋子・河合隼雄「生きるとは、自分の物語をつくること」(新潮文庫)より

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