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2014-07-27

AMラジオの現代性

最近は、AMラジオをよく聴く。Radikoでも聴くけれど、番組の一部を切り出したPodcast番組を就寝前に聴いたりする。テレビがなくて家で何をしているのかとは昔からよく聞かれる質問だったけど、最近は「ラジオとか聞いてますよ、ラジオ面白いですよ!」とラジオを推す。しかし、相手はたいてい引きぎみである。「え、えぇ」とか「は、はぁ」とか言う。

AMラジオの面白さの現代性、真正性とはいかなるものか。そんなことをしばらく考えていたのだけど、一言でいうならCGMということか。いわゆるAMラジオ番組は、昔からCGM的な要素を多分に含んでいたと思う。Consumer Generated Media。一般の消費者が自ら情報を発信し、コンテンツを生成するメディア。

パーソナリティーのフリートーク、リスナーのネタ投稿、リスナーの曲リクエストが、いわゆるAMラジオ番組の定番フォーマットとすれば、なんて「リスナーがコンテンツ作りに関わる」ことを当たり前とした番組構成だろうかと思う。

CGMという言葉は、ネット時代に注目されるようになった言葉だと思うけど、そのコンセプトは昔から当然顔でAMラジオ番組がやっていたんだなぁと、なにか敬意のような念を抱かずにはいられない。もともとがそういうフォーマットだったから、ネット時代にも(素人めには)番組の構成に大きな変更を強いられることなく、時代遅れ感もなくやっている気がする。

そのまま新しい技術を取り入れて、これまでハガキと電話・FAXで受けつけていたネタ投稿なり曲のリクエストなりを、メールでもできるようにしたとか。生放送も多いから、メールでもTwitterでも、リスナーとリアルタイムにやりとりできるようにして、Twitterでは、意見に満たない反響や賑わいのようなものも確認できるようになった。他の従来メディアに比べて、そもそもの番組構成をいじることなく、スムーズにインターネット活用している感じがある。

これを下支えしているのは、「消費者は、私たちには生み出しえない多彩な経験・考えや発想をそれぞれにもっており、彼らにはそれをコンテンツとして創造する力がある」という、受け手の多様性・創造力への期待・信頼が、番組の作り手にあることだと思う。

私の聴くAMラジオ番組にはたいてい、番組構成上もパーソナリティーの日々の語りにも、一貫してそれが表れている。パーソナリティーの話を聴いていて、一言の例外も聞こえてこない。「どうせおまえらは受け取るだけだろ、面白いことも言えないのに素人が文句言うな」みたいなスタンスが腹の底にあると、リスナーは敏感に、たった一言だけあっても嗅ぎ取ると思うんだけど、そういうのがない。その一貫性を日々受け取り続けることで、リスナーも番組の作り手に信頼を寄せていく。何かを返したいと思う。それが本来的な人間関係だと思っているから、ラジオはすごく自然に聴けるのかもなぁと思う。

もちろん、そういうスタンスの上に、番組制作者側のプロの仕事がある。番組を面白くするには、放送作家やパーソナリティーの日々のネタ収集も欠かせないだろうし、何のテーマでネタを受けつけたらリスナーの多様性と創造力が開花し、パーソナリティーとの化学反応を楽しめるかも検討されているだろう。

届いた投稿をリアルタイムでどう選ぶか、どう伝えるかによっても、面白さは大きく変わってくる。パーソナリティーの抑揚、声量、話すスピード、間の取り方、投稿に対する絶妙ないじり、パーソナリティーがもつエピソードへの展開、いろんなものが命を吹き込んで、それが一つの番組になっている。

ラジオ番組は、その多くが長尺ながら、ごく少数で番組を作っているよう。パーソナリティーと放送作家、ディレクターに制作スタッフ数名ぐらいだろうか。少数精鋭で、それぞれがすごく濃厚にプロの仕事を果たして番組を作っている感じにも、現代性を感じる。

なにより「音プラットフォーム、番組フォーマット、Cunsumerコンテンツ」という重層性が織りなす番組作品を享受するというところに、すごく現代のものづくり感があって、好みだなぁと思う。

私にはラジオの魅力ってそんなきちんと語れないけど、もっときっといろいろある。「いま、ラジオがおもしろい!」のコピーが表紙を飾る「21世紀ラジオ読本」が洋泉社のムック本で出ていて、そこにあった言葉を2つほどピックアップ。

音声だけのラジオは理性に訴えかける。耳で聴いた音声は脳でイメージ化され、それから理解がはじまるために、見たままをそのまま理解に結びつける視覚とは違い、一度内容を反芻する時間ができる。(薬師神亮)
ネットは自分からアクセスしようとしないかぎり、情報は手に入らない。でもラジオは一度スイッチをつければ、あとは勝手に流れてきて、TVほどやかましくないし、ごちゃごちゃ感を含めた空気を楽しめる。その点において、ネットはラジオを模倣できていないわけですから、ラジオにしかない力はあるでしょうね。(荻上チキ)

2014-07-25

MBTIを用いたキャリアカウンセリング

●まえがき
ごくごく細々とですが、私とFacebookでつながっているお知り合いの方向けに、個人あるいは6人以内のグループで、MBTIという性格検査(Web受検後のワークショップ含む)を承ります。

MBTIを提供(購入・フィードバック)できる認定ユーザーは国内に900名ほどいるのですが、大手・外資系企業の一部に活用の場が偏っている感があって、私が懇意にしているWeb業界では耳にすることがありません(知らないだけかもしれませんが)。ですから、自分の身近で興味のある方がいたら、受ける機会を提供したいなというのが一つ。

先々の予測がままならない時世・業界では、数年・数十年後の世の中を占う以上に、自分自身のことをより深く理解しておくことが、自分のキャリアを歩むのに有用ではないか、という想いがあります。己を知っていれば、めまぐるしい変化にも都度、自分がどうしたいのか、どうすべきか、柔軟に短期間で見極めて舵取りしやすい。そうであれば、MBTIを受けることが自己理解ひいてはキャリア形成の一助になる方もあるのではという期待が一つ。

いつでも誰にでも有効だから、ぜひ!とは全く思っていません。とりあえずこのページにご案内をおいておきますので、数年先でも何か思うところがあって活用してみたくなったら、気軽にお声がけください。

●MBTIとは
MBTIは世界的に活用されている性格検査の一つです。現在は21言語に翻訳され、50ヶ国以上で利用されています。利用者は米国で年間300万人、世界で年間500万人ほどです。

欧米諸国では学生がキャリアを検討する際の動機分析に使われており、産業界では社員のコミュニケーション力向上、キャリア開発、チームビルディング、多国籍企業における社員間の異文化理解などの研修で活用されています。米国では優良企業番付Fortune100社のうち、7割が研修に利用しているポピュラーなものです。そのほか、コーチングや教育者の訓練、変わり種としてはピッチャーとキャッチャーの相互理解を図る目的でメジャーリーグでも採用されています。

MBTIは、分析心理学の創始者であるカール・グスタフ・ユングが提唱した心理学的タイプ論をベースに開発されており、1956年の初版以来、50年以上の研究開発・活用の歴史があります。

性格検査といっても、MBTIは人の性格を分類するための診断ツールではありません。性格の良し悪し、能力の高い低いを測定するものではなく、選抜や選別、評価の場面で利用することは堅く禁じられています。

MBTIでは検査の結果をあくまできっかけとして使い、ご本人がワークショップを通じて自分のタイプを検証する過程で自己洞察を深めていくことを重視しています。ですから「受検してレポートだけ受け取って終わり」ということはできません。必ずWeb受検の後に、MBTI認定ユーザーと対面でのフィードバックが必要です。
※Web上で簡単に受検できるようになっているものは(アルファベット4文字で分類する性格診断)、この構造が破綻しており、正規のものではありません。

性格診断ツールの類いはネット上でもよく話題になります。それらほど手軽ではありませんが、信頼性・妥当性が適正に検証された心理検査を活用し、ワークショップを通じてじっくり自己洞察を深めてみたいという方は、お気軽にお問い合わせください。

●対象
・自分について理解を深めたい(自分の強みや特徴、らしさを知りたい)
・今後の自己成長に向けた課題を知りたい(死角になっている自分の弱点を知りたい)
・人とのコミュニケーションを円滑にしたい(どうしてうまくいかないのか知りたい)

●前提条件(気になることがあれば、お気軽にご相談ください)
・私とFacebookでつながっているお知り合いの方
・都内で4時間程度のフィードバック時間がとれる方
・18歳以上
・母国語が日本語の方

●費用(MBTI実施にかかる実費は、ご負担いただきます)
MBTIタイプ入門(第6版):2,160円
MBTI Form M Profile(Web版):1,940円
合計:4,100円(税込)
※必要に応じて、フィードバック時の会場費が別途実費でかかります。

●ステップ
お申込みは、個人・グループ(6名様まで)のご希望に応じて承ります。グループをご希望の場合、受検はお一人ずつWeb上で行い、フィードバックをグループで行います。

1.申し込み、2.実費振込、3.Web上でMBTI受検、4.フィードバックの順で進めます。まずはメール、SNS等で受検の意向をお知らせください。

●申込み・問合せ方法
日頃私と連絡をとっている手段で、お気軽にご連絡ください。

2014-07-23

下の歯の地力

しばらく省エネモードで暮らしている。歳をとるごとに佇まいの淡々とした感じが色濃くなっていき、活動も普段からインドアな過ごし方に偏っているというのに(つまり地味)。今の様子はもう一歩先を行き、一般的にみたらふさぎこんでいるような感じに見えるだろうか。あるいは、いつもと変わらないということになろうか。

ともあれ原因はわかりやすくて、歯の痛みだ。数ヶ月前から歯医者に通っていて、そのグランドフィナーレが親知らず3本抜きだったのだけど、最後の下の歯を抜いたのが、10日以上経った今でも痛む。それより前に抜いた上の歯2本は、痛かったし精神的ショックも大きかったけど、ともかく薬を飲んで3日もすれば落ちついた。けれど、下の歯を抜く痛みはその比ではない。

歯を抜くときの大量の麻酔(上を抜くときよりも麻酔の時間が長くて、それだけでも精神的ダメージが大きい。舌までしびれを感じたときの、精神まで奪われるんじゃないかという恐怖感たるや…)、抜く時間も20分だか30分だか正確な時間はわからないけど、とにかく長かった。ぐいぐいっ、一息ついてはぐぐぐぃっというのが続いて続いて、足腰がくぶる、目に涙。歯や歯ぐきに申し訳が立たず。ごめんよ、ごめんよ、と思いながらも、怖いので脳内には「おお牧場はみどり♪」を流し続ける。それでもなかなか抜けない。下の歯の地力には恐れ入る。

ようやっと「終わりましたよ」と聞こえてきて、はぁーーーと深い息をはき、息を整え、先生にパタパタうちわで扇いでもらい、しばらく休ませてもらって這い出てきた。が、そこからずーっと、ずーっと痛みがあって、痛み止めの薬が切れては、まだ治まりませんと薬をもらいに行く日々。

薬を飲み続けるのも気が滅入るが、痛いので飲まないとやっていられない。1週間して恐怖の抜糸も終えたけれど、相変わらず痛い。糸が抜けて異物から解放されたら一気に元気になるのでは?という謎の仮説に期待を寄せていたけれど、そんなこともなかった。体温も通常34度後半から35度前半というところ、今測ったら36度前半。なんか身体頑張ってる感(夏だからかもしれないが)。

昨日今日くらいで、あれ、すこーしだけど静まってきたかな、という感じがしないでもない、というくらいの小さな変化を感じるのだけど幻覚かもしれない。まだまだ気が抜けない。全治3週間くらいのケガをおったくらいの気構えでいないと、やっていられない。

とにかく右頬内側がずっと泣きべそ状態なので、ここしばらくいつも以上にこもって過ごしている。先週末の3連休も、前からランチを予定していた友人と会った後は身内以外、誰とも話さなかったのではないか。それもまぁ普段と変わらないといえば変わらない暮らしぶりなのだけど。とにかくちょっとふさぎこんだ感じ。

歯が痛いだけで人はなんと気弱になるのだろう

と、脳内に浮かぶ。村上春樹の「雨天炎天—ギリシャ・トルコ辺境紀行」という旅本に、「雨に打たれただけで人はなんと気弱になるのだろう」という言葉がある。これが心に染み入ってずっと頭に残っていたのが持ち出された。

梅雨もあけたことだし、そろそろ気分を上向きにして、いくらか活動的になりたい。とにもかくにも、そろそろ治りたい。

2014-07-14

相談にのる難しさ

今は特にカウンセリング業というのはやっていないんだけど、人の相談をきく機会というのはいくらかある。人の相談をきくというのは、すごく難しい。その難しさを、ものすごく分かりやすく書いてある文章に出会ったのでメモしておく。

これは、私が尊敬する河合隼雄さんの著作「私が語り伝えたかったこと」の一節。心理療法家の河合さんのところに、警察が人を連れて訪ねてきたとして、なかなか人の役に立つのは難しいことを示す例である。

警察の人が、「ちょっとこの人、困ってるんです」というので連れて来られる。見たら服装は変な、汚いのを着ている。「どうしたのですか」と言ったら、「自分の住んでる所が分からない。自分の家が分からない。家が分からないけど、家に帰りたいんでどうしたらいいか」といって警察へ入って来た。そんな人、どう話をしていいか分からない。しかも、どうも耳もあまり聞こえないみたいだし筆談をやっていたら、自分の名前も「何だったかなぁ」などというぐらいになってくる。「結婚してるのですか、お宅は?家族は?」と言うと、「五十近いけど、結婚していない。恋愛はしたことはあるけども、失恋して、もう死のうと思って遺書も書いた」。「そうすると、一人でいるんですか」と言うと、「いや、養子といるんだけども、養子の家とめちゃめちゃもめて、けんかばかりしてる」と。そういうふうに何を聞いてもいいこと一つもないのですね。そういうおじさんが警察に連れられてやって来た。そういうときに皆さんはどうしますか、と。その人に、「もうちょっと普通の服を着るようにして、できたら結婚でもして、養子とも仲良くなって暮らしたらどうですか」というふうなことをいうほうがいいのか、悪いのか、なかなか難しい。

「この人の名前を聞いたら、みんな迷うと思います」と続けて正体を明かす。答えは、ルードビッヒ・バン・ベートーベン。

このベートーベンさんが私のところへ来られて、私も一生懸命になって、とうとう服装もちゃんとされて、みんなとニコニコ話をするし、養子とも仲良くなる、そして結婚もされまして、非常にめでたいとなったとします。もう作曲は全然おやりにならなくなりました。ということになるのではないでしょうか。そう思いませんか。
私はベートーベンの伝記を読んでいて思ったのは、何かベートーベンが自分で自分を縛っているというか、自分を不幸なほうに不幸なほうに追いやっているような、「もうちょっと、あんた、うまいことやったらいいのに」と言いたくなるようなときに、だいたい下手なことをして、ふと気が付くと、八方ふさがりという言葉がありますが、七方ふさがりにしてしまって一方だけ開いているのです。何が開いているといえば音楽です。その全部を込めたものすごい大変な人生を、ただ音楽という世界だけにちゃんと表現していて、その表現はベートーベンが死んでから、いまだにわれわれはそれを聞いてものすごく感激するというものを、あの人は作ったわけですね。だから、そういう人が来られた場合に、僕らは何ができるだろうというふうに考えると、これはすごく難しいことです。

相談を聞いているときというのは、とにかく目の前で相談者が話をしているとか、そういう状態なわけで、それ以外に「目の前の事実」というのはない。そういう状態で、単に「目の前の事実」だけをもとに、その時代その文化圏にポピュラーな解答を示しても、なかなか本質的にその人の役に立つことは叶わない。

どれだけ時間の尺を広げたり狭めたり調整しながら、その人の直近の問題、数年先の現実的な問題、人生の問題、時には時代を超えてその人の死後も含めた可能性を見据えて話を聴けるかということになってくる。

そういう時間の尺の話もあれば、その相談をどんなフレームで捉えるかという話もある。局所的で小さいけれども奥行きのあるフレームで捉えるべきか、とにかく広大なフレームで捉えたらいいか。そこにも、いくらでも段階は設けられて、1mm単位で大きさを調整しながら、こんな枠組みかなぁと頭を巡らしつつ話を聴く。

はなから「できっこない」という偏見があったら話にならないし、現実的な難しさを無視して「できる、できるよ」と励ましても相談は煮詰まらない。その人の想定している大きさや深さを、漠然とでもイメージを共にできなければ、相談以前に話が噛み合わない。

その人が何を大事にしたいのかという焦点を見誤ってもキャッチボールにならないし、その人が潜在的にもつ可能性というものに信頼をおかなかったら、見えるものも見えてこない。相手の心に手を伸ばすようにしてすくい取りながら(イメージです)、フレームを入れ替え差し替え、物差しを伸ばし縮み伸ばし縮み、フォーカスをあわせて話を聴く。受け取って、返す。これは、相当に難しいことだ。

この本の別の章で「アイデンティティ」についても言及がある。アイデンティティって「私は私である。私以外の何ものでもない」という単純なものではなくて、「私は私であって、私でないものでもある」というふうに西洋でも考える向きが出てきているし、日本人はもともとそういうふうに自分のアイデンティティをイメージする人が多いようだ。

ニュートン、ガリレオが言い残したことも「私」の意見の中に入っているし、父や母がかつて生きた生き方も、「私」の中に入っている。「私は私であって、私以外のたくさんの何ものかでもある」というふうに捉えたほうが、「アイデンティティの問題はもっとおもしろくなる」し、「私、私といっているアイデンティティよりももっと広くなってくる」のではないかと書いている。

私はこってり日本人性質なので、こういう「私」の捉え方が大変しっくり来た。こんな壮大な話をまとめる気もないけれど、そういう広がりをもって人のアイデンティティを感じながら、人の相談を聴きたい。そのためには、長さを自在に調整できる長尺で目の細かい物差しと、形や大きさを自在に変えられる柔軟なフレームが必要だ。それを使って入れ替え差し替えしながら、中心をはずさず話を聴くこと。そういう道具を磨きながら、相談してくれる人との間に見えるものを少しずつでも豊かにしていけたらと思う。

2014-07-12

子どもと遊ぶ

このあいだ友だちの家に遊びに行って、彼女の子どもたちと遊んだ。何度か顔を合わせてはいるものの、そんなに頻繁におじゃましているわけでもないので、最初は子どもたちもおっかなびっくり。でも、あのね、あのねと話しかけてくれるので、目をみて、うん、うんと話を聴いていると、粘土で遊ぼうとか、ウルトラマンで遊ぶのだと言って、いろいろおもちゃを持ってくる。

上の子が粘土の固まりを、丸形とか星形の枠でくりぬいて、面に顔を描いて遊ぶので、私も真似して残りの粘土を使って素手で人型を作ってみる。顔の部分に目と鼻と口を描いて、頭の上に波平さんのような髪の毛を一本のばして見せると、「何これ?」と彼。「髪の毛」というと、ケラケラ笑って喜んでくれた。お姉ちゃん、嬉しい。

何にでもなるけど、何になるともわからない粘土という固まり。こういうもので遊ぶのは、すごく楽しいもんだなと思った。できあがっている形を選んで遊ぶのではなくて、なんとも意味をもたない固まりを使って、自分なりの想像力をもって形作るということ。選べる選択肢が限りなく無数になったとき、それを創作というのかなと、ぼんやり思った。

程なくその人型粘土は彼の手によって引きちぎられ、痛いよーというと、またケラケラと笑っていた。

下の子に「こっち来てー」と呼ばれ、ついていくと洗面所。彼が蛇口をひねり、じゃぶじゃぶ水をためて、ウルトラマンやら何やらを水面に泳がす。向かいの部屋のおもちゃ箱から、大きいの小さいの、いろんなフィギュアが登場する。ウルトラマンの黒いやつを渡され、「これは弱いの」といって黒い役を仰せつかる。弱いからにはブクブクーと溺れてみたりして、赤いウルトラマンに助けを求めたりした。助けてくれなかったが…。

しばらく水遊びした後、居間に戻って一休みすると、「ねぇねぇ、さっきの水の大冒険、もう一回やろうよー」と、下の子から声がかかる。あのさっきの遊びに「水の大冒険」なる壮大なタイトルがつけられていることに、お姉ちゃんは感動を覚える。嬉々として、再び洗面所へ。

自然と「ぶくぶくー」とか「助けてー」とか口をついて出るのに気づいて、そういえば昔、妹とよくお人形さんごっこをしていたっけと思い出した。わが家にはなぜかぬいぐるみだけはたくさんあって、よく2人で遊んだ。あのとき、2人でものすごくたくさんの物語を即興で作っていたんだなと、今さら感動してしまった。幼稚園生から小学生の低学年くらいまでだろうか、何年間かにわたって私はずっと日常的にそれをやっていたのだな。それで妹を泣かしたこともたくさんあった気がするけど、そういう中で培われたものがお互いに(ということにする)いろいろあったんだろう。

兄とは近所の子らと連れ立って沼地におりていってザリガニやらおたまじゃくしやら蛙やら取りに行き、どろんこになって遊んだ。兄にはよく泣かされ、妹はよく泣かした。けろっとして、また少し後には一緒に遊び出した。こういうのは、本当にありがたい経験だったなと、今にして改めて感じ入る。

子どもと遊んでいると、いろいろ追体験するようだ。子どものない私には貴重な体験。そして楽しい。が、使う体力はんぱない。世のお父さんお母さんには恐れ入る。改めて脱帽です。

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