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2014-06-15

父の日デート

会社で招待券をもらったので、興味があれば一緒に行こうと誘って、父とミッション[宇宙×芸術]という展覧会に行ってきた。朝10時に清澄白河の駅で待ち合わせ、夏の太陽に照らされてそびえ立つ高層マンション群と、築50年はくだらない木造2階建ての家々がでこぼこ入り交じる町なみをのんびり歩いた。整備された平たい車通りがまっすぐのびていて、店は駅前にすらほとんど見当たらず静かだった。しばらく歩くと、東京都現代美術館が突如現れる。

立派な建物の中に足を踏み入れると、またずいぶんと静か。サッカーW杯のブラジル大会で日本初戦がちょうど10時開始だというのに出かけたので無理もないか…。二人ともサッカー音痴の上に、芸術音痴。展示物を味わい尽くすことは到底できていないふうで中をぶらぶらしたのだけど、その音痴具合が絶妙に合っていたので気楽に楽しめた。うちの会社が制作協力した展示には「こいつぁ馬鹿には作れねぇな」と感心していた。

観賞途中、すこし開けたガラス張りのスペースに出たときに、父が遠くに目を向けて足を止めた。珍しく何かをじっと見ているから、何か注目の展示でもあったんだろうかと思ったら、「あの洗濯物はみごとなカラーバリエーションだなぁ」と建物の外をみて感心している。「あぁ、そうそう。私も来る途中、あの家見て思った。あれ、鯉のぼりみたいだよねぇ」と返す。なんというか、こっちよりそっちというズレた親子だ。しかしその洗濯物はほんと、赤に青に緑に黄色と示し合わせたようにカラフルで、それが築50年風のくすんだ木造の家々を背景に、夏の日射しを浴びながら風に揺れていて、ちょっと注目せずにはいられない風情が感じられたのだった。

ちょうど展示を見終わった頃に正午をむかえたので、そのまま築地に移動してぶらっと場外市場をひやかした。しばし賑わいを堪能すると(まわる)寿司屋に入ってお昼を食し、そのあと銀座に移動して喫茶。

ここで父、今の想いのたけを小一時間しゃべり続けた。父はよくしゃべるので、会った時にはたいていいろんな話を数時間続けるのだけど、今回はひととおり語り尽くすと、あぁ全部言っちゃったなぁという感じでそれを振り返っていた。表情はすっきりしていて、話したことを後悔しているふうも感じられなかったので、まぁ大丈夫かな、良かったのではないかなと、とりあえず受け止めている。

人の話を聴くときには、「聴きすぎ」が起きないように注意している。この人は、他の人にはなかなか言えないことを自分にはしゃべってくれているというので悦に入ってしまっては、聴き手のプロとしていけない。それは自分の自尊心を満たしたいがための「聴く」であって、相手を軸にした「聴く」になっていない。

自分の好奇心に任せて質問を投げるのも、(もちろん普通の会話ならまったくもって問題ないんだけど)人の相談を真剣に聴く立場からすると思慮が足りない。踏み込んだ質問を投げかけるときには、それに答えることで相手があとで過剰に追いつめられてしまうことがないか、そこへの配慮が欠かせない。安易に答えを言語化させては望ましくないこともある。どんなにそれが自分には本質的な問いに思われても、そこに迫るにはタイミングとして早すぎることだってあるし、自分が本質を見誤っている可能性だってある。

一方でやはり、問題をうやむやにせず本質に迫って解決に向かうには、その掘り下げ質問が欠かせないということもたくさんあるわけで、その関わり方やタイミングの加減は実に難しい。

ただ、問題の本質を見抜いたという自負に心を占拠されて相手を問いただしている状態は、「私はあなたの問題の本質を見抜きましたよ」というのを相手に認めてもらいたがってやっているコミュニケーションにすぎない。そうなっていないか、自分の内側に鋭い評価の目を向けて事前チェックする意識は欠かせない。今は掘り下げない、踏みとどまるという選択肢を、常に自分の身近において選べる状態にしておくよう心がけている。

しかしまぁ、そういう思案をしているだけで完璧じゃないし、自分の見立てが常に正しいともいえない。そして、この慎重さが人とのコミュニケーション上で壁になってしまうこともある。万人に正しいふるまいなんてきっとない前提で、世の中の役割分担でいったら、私の適性は思慮深さを重んじるほうにあり、ある人の適性はもっとエネルギッシュに踏み込んでいくほうに向く、そうやって役割分担して、いろんな人がいろんな人と持ちつ持たれつ相互作用していくのが人間関係ってやつなんだろうなぁなんて思っている。と、ややこしい話を書いてしまった。

母が他界し、私も歳をとり、ここ数年で父はずいぶんと胸のうちを私に話すようになった。「娘」「子ども」というだけでなく、もう少しとらえどころのない話し相手として私との関係性が広がっているなら、それはきっと今の父にとっていいことなんだろうと思う。とにかく「まっすぐにきちんと話を聴く人」として私があったらいい。

別れ際、父が「それで今日は何だったんだっけ」と言うので、とっさに「父の日」と腹の内を明かしてしまって、あぁ失敗したと思った。「6月のとある日曜日」とかなんでもない日と返せたら良かったのに。こういうところがなんというか、洒落てないというか品が足りないというか。己の器の小ささを感じた。

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