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2013-10-21

ブログを書いている

「ブログを書いている」というのが、当然のごとく「自己表現」や「他者へのアピール」を目的にしているように語られているのを見かけると、なんだかむずがゆくなってしまう。

いやいや、ブログ書く理由なんて十人十色だし、同じ人間でも動機は一つじゃないし、今日と明日でも変われば、書き始めと書き終わりでも変わる。書き続ける理由も、実際書いてみて残っていくものも、ごっちゃごちゃで曖昧で、そんなの外から一言で言いくるめられて勝手に1枚「自己表現」ラベルぺたって貼っていかれても困りますわ。

と、私のように日々のことをブログに書き付けている一般人は思うのではないか。と、勝手に憶測する私もいかがなものか。いや、そもそも世の中で話題にされる「ブログ」とは、こうした市井のブログを対象に含んでいないのかもしれないが。

ともあれ、最近は「そんなに気分でざくざく人のこと斬りなさんな」と思うことが少なくない。人の属性や行いを十把一絡げにくくって、その周辺にあるイメージと一本線ひいて、そう簡単に因果関係で結びなさんな。人間そんな単純に、一面的に言いくくれやしないのですわ。

ブロガーでもアラフォーでもいいけれども、自分がネタの対象枠に属していて、乱暴な分析で即席ラベル貼り付けられているのを見たら、誰でも大方こんな反応に導かれるのではないか。と、また憶測。

しかし、じゃあ私がブログで「文章を書く」理由は何なのか。「自己表現」か「他者へのアピール」かでくくられるとどうも居心地が悪いんです。そうは言えるけれど、それ以上にうまい説明がつけられない。だからといって、ステレオタイプに片付けられても困るんです。と、まぁまともに反論もできやしないのに文句言って…と言われたら、はい、すみませんとしか言いようがない話ではある。

でも、こういう感じだなぁと共鳴する文章に出会ったことはある。私が村上春樹の作品の中で一番好きなのが「回転木馬のデッド・ヒート」だ(と思う)のだけど、その中の一節だ。

自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。

先にも書いたように、いつもこんな切実な思いをもって書いているわけではない。ふわふわ気分で書いているときもあれば、何かに到達したいような気分で錯覚しながら書いているときもあるかもしれない。それでもこの一節は、私がここに文章を書きつけて十数年の真理を言い表している、少なくともそれに近しいことが書かれている感じがする。

これはもちろん、ごく個人的な感覚だから、ブログを書く人に共通する思いとは思っていない。他の人には他の人の「文章を書く」ことに対するいろんな思いが、その時々であり、また通底する真理のようなものも各々あるかもしれない。

とにかく私にとっては、「文章を書く」って内面的にとても切実な行為なのだ。そういう一面をもつことは間違いない。そんなわけなので、なんだかんだ結局先々も文章を書かないではいられないのだろう。

そして今まさに、こうしてもそもそ書いているわけだが、書けば書いたで文章の中には憶測やら錯覚やらが混じり込んできて、どこかから「ステレオタイプに片付けられても困るんです」と聞こえてきそう。やっぱりブログを書くって難しいご時世だなぁと思う。

そんなわけで、公開しないスケッチ(文章)が手元にたまっていっている。それはそれで、友人と語らうときの酒の肴になったり、私の胸のうちにとどまったりして、それがそのスケッチの適材適所ってことなのかもしれない。

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