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2013-10-25

Facebookの云々

「Facebookで「ウザい」と思われてしまう投稿の特徴7つ」というような記事が、時々ネット上で話題にのぼる。この手のものに言及するのは気が引けるのだが、より本質的な、真理のようなものがあるなら、わかりたいな、と思い、読んで考えたことの走り書き。

問題の置き方が本質的じゃない。「来週からハワイに行ってきまーす!」「うまい餃子、食べた!」をウザいと感じるのは、投稿内容の問題ではない。読み手と書き手の関係性の問題だ。仲良しの「うまい餃子、食べた!」はウザいと感じないから試してみると良い。ウザいと感じない人が誰もいなかったら、表に出てまず仲良しを作ると良い。ウザいのは内容ではなく、相手との関係性に起因する。ウザさを取り除きたいなら、書き手が内容を選ぶのではなく、読み手が自分のSNS相手を選ぶことが問題解決の基本線だ。あるいは、誰の「うまい餃子、食べた!」も受容できる体質を手に入れるか、その相手と仲良しになるか。いずれにしても、コントロールすべきは読み手側にあるのだ。

と、わーっと考えたのだが、これは本質的真理に近いのか、それとも私の個人的見解に過ぎないのか。だとしたら、本質的真理とは何だろう。もし本質的な真理というようなものがあるのだとしたら、それが広く共有されれば、どんなものであれ、無用に書くことに気を遣ったり、疲れたり、腹を立てたりしないで済むと思うのだが。

という反面で、ある言説が表れて、それに反応して、無用に気を遣ったり、疲れたり、腹を立てたりしながら、ある種それをエネルギーにして何かを考えて、別の言説が立ち上がって…。そうやって、少しずつ真理に迫ったり、遠のいたりしつつ、結局真理なんてものはこれと断定できぬまま生きていくのが人間というものじゃないか、という気もしてきた。まぁ、だから、いいのか。

しかし、ウザいという言葉はしいたけと同じくらい身近にあると鳥肌のたつ言葉で、今回自分の書く言葉として使わざるをえなくて、かなりきつかった。やはり、お肌にあわない言葉は極力使わないでおくのが身のためである。

2013-10-23

理由を野放しする

「この曲のどの辺が好きなの?」と問われて「メロディーが」とか「歌詞が」と答えるのをよく聞くが、それは必ずしも実際を言い得ていない。という話を聞いて、なるほどーと膝を打ったことがある。

いわく、それは自分が言葉で表現できるのがそれだったからそう言ったまでで、実際にはメロディーや歌詞とは別の(リズムとかハーモニーとか?)自分では意識化できていないところに、その曲を好きな理由があるってことがあるんだと。もちろん本当にメロディーや歌詞が良いってケースもあるわけだが。

「自分が感覚して味わえるもの」っていうのは、必ずしも「自分が要素分解して意識化できるもの」ではなくて、必ずしも「自分が適切な言葉に言い表せるもの」ではないのだなと。人間が感覚できる領域は、意識できる領域より広いということ?

そうやって考えると、「言葉には表現できないけど、私の中に感覚するもの」という存在が見えてくる。そうすると欲張りなことに、これを無視したくないなぁ、受け止めていきたいなぁと思う。

自分の言葉に表現できないものなんて、無意識のうちに「なかったこと」「なかったもの」にしてささっと片付けてしまいそう。だけど、かすかにでも自分が感覚できたものなら、それをすくって、言葉にできなくてもそこに置いておく、そういう余裕をもちたいものだ。

まぁ、いやなものにまでしぶとく執着したいとは思わないが、「なんだかいい」というものに対して、安易に言葉を与えず、そのまま理由を野放しにしておくというのもやり方だろうなと。いつか、それがきゅっとフィットする言葉に巡り合えたら素敵だ。

昨日久しぶりに村上春樹の「回転木馬のデッド・ヒート」を読み返してみたらこんな一節があって、そんなことを思った。

「芸術的感動の不便な点は、それをうまく言葉に表現できないという点にあります」と彼女はつづけた。「あるいは表現できたとしても、すごくステレオタイプなものになってしまう。紋切型・大時代・月並……まるで恐竜みたいにね。だからみんなもっと簡潔で簡便なものを求めるんです。自分の表現の入りこむ余地のあるものや、テレビのリモート・コントローラーみたいにパチパチとチャンネルを切りかえられるものをね。皮膚的なショック・感性……呼び方はなんでもいいわ」

「うまく言葉に表現できない私」って捉えるとなんだか残念な感じになるが、「簡潔で簡便なもの以上を感覚できる私」って捉えると健やかである。ものは言いようだ。

2013-10-21

ブログを書いている

「ブログを書いている」というのが、当然のごとく「自己表現」や「他者へのアピール」を目的にしているように語られているのを見かけると、なんだかむずがゆくなってしまう。

いやいや、ブログ書く理由なんて十人十色だし、同じ人間でも動機は一つじゃないし、今日と明日でも変われば、書き始めと書き終わりでも変わる。書き続ける理由も、実際書いてみて残っていくものも、ごっちゃごちゃで曖昧で、そんなの外から一言で言いくるめられて勝手に1枚「自己表現」ラベルぺたって貼っていかれても困りますわ。

と、私のように日々のことをブログに書き付けている一般人は思うのではないか。と、勝手に憶測する私もいかがなものか。いや、そもそも世の中で話題にされる「ブログ」とは、こうした市井のブログを対象に含んでいないのかもしれないが。

ともあれ、最近は「そんなに気分でざくざく人のこと斬りなさんな」と思うことが少なくない。人の属性や行いを十把一絡げにくくって、その周辺にあるイメージと一本線ひいて、そう簡単に因果関係で結びなさんな。人間そんな単純に、一面的に言いくくれやしないのですわ。

ブロガーでもアラフォーでもいいけれども、自分がネタの対象枠に属していて、乱暴な分析で即席ラベル貼り付けられているのを見たら、誰でも大方こんな反応に導かれるのではないか。と、また憶測。

しかし、じゃあ私がブログで「文章を書く」理由は何なのか。「自己表現」か「他者へのアピール」かでくくられるとどうも居心地が悪いんです。そうは言えるけれど、それ以上にうまい説明がつけられない。だからといって、ステレオタイプに片付けられても困るんです。と、まぁまともに反論もできやしないのに文句言って…と言われたら、はい、すみませんとしか言いようがない話ではある。

でも、こういう感じだなぁと共鳴する文章に出会ったことはある。私が村上春樹の作品の中で一番好きなのが「回転木馬のデッド・ヒート」だ(と思う)のだけど、その中の一節だ。

自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。

先にも書いたように、いつもこんな切実な思いをもって書いているわけではない。ふわふわ気分で書いているときもあれば、何かに到達したいような気分で錯覚しながら書いているときもあるかもしれない。それでもこの一節は、私がここに文章を書きつけて十数年の真理を言い表している、少なくともそれに近しいことが書かれている感じがする。

これはもちろん、ごく個人的な感覚だから、ブログを書く人に共通する思いとは思っていない。他の人には他の人の「文章を書く」ことに対するいろんな思いが、その時々であり、また通底する真理のようなものも各々あるかもしれない。

とにかく私にとっては、「文章を書く」って内面的にとても切実な行為なのだ。そういう一面をもつことは間違いない。そんなわけなので、なんだかんだ結局先々も文章を書かないではいられないのだろう。

そして今まさに、こうしてもそもそ書いているわけだが、書けば書いたで文章の中には憶測やら錯覚やらが混じり込んできて、どこかから「ステレオタイプに片付けられても困るんです」と聞こえてきそう。やっぱりブログを書くって難しいご時世だなぁと思う。

そんなわけで、公開しないスケッチ(文章)が手元にたまっていっている。それはそれで、友人と語らうときの酒の肴になったり、私の胸のうちにとどまったりして、それがそのスケッチの適材適所ってことなのかもしれない。

2013-10-20

挨拶のことば

同じマンションの住人に、エレベーターで乗り合わせると挨拶してくれる若者がいる。私などは、その場の雰囲気次第で、挨拶しそうな人にはして、しなさそうな人にはしないくらいの自分のなさ加減なので、率先して挨拶するこの若者には感心してしまう。しかし、今日はその挨拶のことばに違和感を覚えた。

この間乗り合わせたときは平日の晩だったので気にならなかったのだが、今日は休日の朝10時だか11時だか。しかし、挨拶のことばが「お疲れさまです」だったのだ。え?ん?と一瞬頭の中がぐるぐるしたが、とにかくパスを返さなきゃ!という一心で、私の口から咄嗟に出たのも「お疲れさまです」だった。

朝だって!休日だって!ここは家だって!と胸のうちで自分突っ込みしつつも、ほんの数秒で階に到着してしまい、私は彼を残してエレベーターをおりた。そして、落ちついて考える。ああいう時って、普通なんて言うんだっけ。えーと…、あーと…、そうだ「こんにちは」だ!と、そこに至るまでに20秒近くかかってしまった。

挨拶、総「お疲れさまです」時代の到来。そんなタイトルが頭をよぎり、むぐっと反省した。そりゃ、上の世代が豊かな挨拶ことばを使わなけりゃ、あらゆる局面「お疲れさまです」に一本化されるわな。

多様なことばを知る機会、いや直接自分が言われる機会に何度も何度も恵まれてこそ、おのずと人は「ことばの選択肢がある世界」を愉しみ出すってもんだろう、もんだろう?そのためには、やはり自分から言うことである。自分から挨拶することである。

思い起こせば、昔は普段の生活のなかで「おはよう」「いってきます」「こんにちは」「さようなら」「こんばんは」「ただいま」「おかえりなさい」「おやすみなさい」のほか、「ごめんください」「ごきげんよう」くらいは使っていた。それは全部、私の周りの大人たちが快くこうした挨拶ことばを交わしつづけていたからだ。

せっかく一度は覚えたのに、最近使う自分の挨拶ことばの、なんと貧相なことか。まぁ独り住まいでシチュエーションに限りはあるけれども、昔使っていたくらいまでは取り戻したいものだ。ことばを豊かに使うことは、人生を豊かにする。

2013-10-09

骨休めも

この間、関西に住む従兄弟が東京にやってきたので、父と私とでもてなした。渋谷で用事があるというので、彼が用事を済ませた後に待ち合わせて会食。そこで久しぶりに芸能人というものを意識した。

彼は新幹線を品川駅で降り、目的地の渋谷に来る手前で山手線を途中下車したという。もちろん用事まで時間に余裕があったからだけど、目黒駅で降りて、中目黒、広尾あたりを散策して渋谷には歩いてきたのだとか。もう30歳をこえた大人なので不思議というんでもないけれど、これまで東京に住んだこともなく土地勘もないというので、渋谷・新宿あたりをぶらぶらするならともかく、なぜまたそんなお洒落エリアを?と思い、尋ねてみた。

すると「その辺だったら芸能人が普通に歩いているんじゃないかと思って」とのこと。これにはちょっと驚いて、そういえばそういう価値の在り方もあった、と思い出した。家にテレビを置かなくなって早16、17年。数字に表してみると自分でも書いていてびびってしまうが、とにかくそういう価値の在り方から遠ざかって久しかった。

「いやぁ、でも一人も見かけなかった」と残念そうに言うので、「まぁ、そんなにふらふらしてるものでもないのでしょうねぇ」と慰めつつ応じる。それに叶姉妹なりマツコデラックスなりが歩いてりゃわかるってものだけど、普通に歩いていて気づく芸能人というのも珍しいんじゃないかしら。

人間って顔とスタイルと声が一致したときに本人って特定できる感じがして、外見だけでこの人は!と特定できる気がしないのだけど。それは私が鈍いだけかもしれない。形状に関する感度は高くないし。

しかし、その割に私が生まれて初めて見かけた芸能人は斎藤清六である。2番目は大木凡人。改めて考えてみると、ずいぶんと見つけづらそうな人を見つけてる気がする。はて、なんでだろう。子どものときのことだからよく憶えていない。実は2人とも、見えないオーラがぷんぷんしているのかもしれない。

なんでこんな話をしたためているかって、どうもここ1ヶ月強の間、猛烈に仕事をしていたので、普通に仕事して生活するってどんな感じだったか、いまいち取り戻せないでいるのだ。今日の午前中くらいまでは引き続き忙しく仕事していたのだけど、レポート作成なども一段落して一息いれて。あれ、この後どんなペースでいったらいいんだっけか…とよくわからなくなってしまった。なので急遽半休をいただいて帰ってきた次第。少し脳みそを休ませてみようと。それで、この骨休めもを書いている。

しかし昨日・今日と日中会社の席に座っていると新しい相談ごとなどもあれこれやってきて、また忙しくなる可能性もある。というありがたい見通しをもって、しばらくは少しゆったり稼働でいいことにしようと思う。

2013-10-07

全身ニュートラル

毎日客先を訪問して朝から晩までトレーニングを提供する1ヶ月強が、今日で一段落。明日からは自分の会社に出勤して、朝から自分の席で仕事をする。引き続きそのお客さんの仕事もするので、今日で締まったという感じはさほどないのだけど、時間の過ごし方として一段落ではある。

連日お客さんのところに通う中では、夜に他のお客さんの研修本番があってはしごしたり、父の癌が再発して手術があったり、不覚にも期間終了間際で風邪をひいたり、なんだかんだと夜も週末も休みなしのフル稼働状態だったけれど、諸々やりきってどうにか着地した。

一日の間でお客さんをはしごする日などは、自分の「身体性」というものを重んじた。毎日通っているお客さんのところには放っておいても気持ちが向くけれど、その日2社目のお客さんのところに向かう際には注意が必要だ。どれだけ純度100%でそのお客さんと向き合えるか、これは意識しないと雑な仕事をしかねないぞ。そんな心のざわざわ感が走って、はしごの日には早めに2社目の客先がある駅まで行って、講師との待ち合わせ場所に立ち、外で20分くらいぼーっと秋風にふかれたりした。一旦全身をニュートラルに入れる、という感覚。

そうしてなぜだか自分の生死のことなど考え始めると、今自分ができること、やらせてもらえる仕事というものが、ありがたく、ものすごく鮮明な解像度で浮かび上がってきたりして、あぁこの機会を活かして今を十二分に生きるだけなのだ、という心持ちになり…。5分経過。

そのうち次の現場への意識と視界がふわーっと開けてきて、依頼主の表情とか問題意識とかが頭の中にわいてきて、それに対して私はこういう解決策を提案したのだったというストーリーが流れ出して、受講者の様子とかも思い出してきて、気持ちが一つに収斂していき…。10分経過。

それからしばらくぼーっとして…。20分経過。そうして全身その案件に向き合っている状態で講師を出迎える。これはなかなか良い。お勧めしたい。

並行で案件を動かしているときに大事な心がけの一つは、その一つひとつの仕事が雑にならないようにすること。そのお客さんに純度100%の気持ちを向けること。そのためにはやっぱり、時間と空間をそこにおくことだなぁと、自分の身体をそこにおくことなんだなぁと、そう思った。

しかしまぁ、ここ最近の自分の心のありようを端から眺めていると、自分がどんどん水のようになっていくのを感じる。私はそれを好ましいものと思っていて、このままもっともっとそうなっていったらいいと思っているので歯止めがきかない。

必要なときに水のような強さをもち、不要なときには水のようにさらさら流れゆく。その根っこにはいつも深い愛情をもって、枯れることなく。それで生きていけたら、もう十分だなぁ、幸せだなぁと思う。まだまだ未熟なところもあるけれど、いろんな経験を積みながらやわらかい強さをもって、水の純度を増していけたらいい。

世間ずれは否めない。が、まぁどうにか生きていけている。こんな私を認めて置いてくれる会社にも、関わってくださる講師の方にも心から感謝している。そして間違いなく、私はお客さんに生かされているのだと思う。ありがとうございます。

そんなことをもそもそ考えているうちに10月到来である。晴れた日には、どの季節より清廉な表情をみせる夕暮れどきの空。秋ですな。

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