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2013-09-23

裏方の自己紹介

世の中の仕事は、自分の存在感を示すことを求められるものと、消すことを求められるものとに二分されるのかもしれない。というのは適当な思いつきだが、私の仕事は後者である。簡単にいえば、裏方である。これは私の適性にも合っていると思う。

一方、パートナーとなる講師の仕事というのは、ある意味では前者、存在感を示すことを求められる仕事と言えるかもしれない。学習の場の主人公は、講師でなく受講者であることに疑いの余地はないが、講師が人間モデルとして憧れや敬意を感ずる人であるというのは、学習にも良い効果をもたらすものだ。

小・中学生時代を振り返って、担当の先生がいい先生だったからその教科を好きになった、面白いと感じた経験をもつ人も多いだろう。あるいは大人になってからでも、仕事場での出会い、メディアや講演会・勉強会を通じて「この人のようになりたい」と思い、その人の専門を自分も深堀りしだしたという経験者もあるかもしれない。

講師がそうした役割・効能をもつのであれば尚のこと、裏方は裏方に徹するべきだ。注意を向けるべき登場人物が無駄に増えては学習のじゃまである。

講演会のような案件だと、私は基本的に、一切前に立たない。前説(研修の趣旨説明や講師紹介)は、見知らぬ私がやるより、見知ったクライアント担当者(その案件の起案者)がやったほうが、受講者である社員の心に響くものだ。冒頭から任せたいとクライアント担当者が希望する場合は引き受けるが、たいていの場合、先方担当者が前に立つ。こちらで話すことのセリフを用意して、それを参考にしていただくケースもあるが、それでもパフォーマーとしてその会社の起案者がメッセージを述べることは非常に意義深いと思う。

逆にいえば、私が前説のパフォーマーとして立つことにはほとんど意味を見出せない(話がうまくないということもあるが…)。「この研修は我が社の提供でお送りいたします」みたいなのも、受講者には要らぬ情報だ。自社の営業的側面を考えても、先方担当者ときちんと信頼関係を築けていれば私が前に立たずとも問題はないはずだ。

今扱っているような、連日客先に通って長丁場のトレーニングを提供する案件では、自分がこの件の責任者としてつきっきりで専門的にサポートしますよという安心感を受講者にもっていただく必要があるため、冒頭で簡単な自己紹介をする。けれども、それも長くなっては好ましくない。

私は講師はしないけれども、学習内容の専門家を講師に連れてきて、皆さんが効果的に、能率的に、あるいは楽しくそれを学習する仕掛け・環境づくりをするのだと、自分の役割を説明する。なので、今のよくわからなかったとか、きちんと理解できていない気がするとか、ちょっと困ったことが出てきたとかあれば気軽に声をかけるようにと、自分の活用方法を伝える。あとは始まってからおのずと、どういう時に使える人間なのか見えてくるので、冒頭でそれ以上に自己紹介する必要はない。

目的のあるところには解決すべき問題があり、問題があるところにテンポラリーな私の役割がある。目的を達成するために、自分の役割を学習者に説明することが有効であればその分だけ話すのがよいのであって、それ以上に語ることは求められるところでない。

そうした態度は、仕事の場では分をわきまえていてよろしいということで済むと思っているのだが、プライベートではそういうわけにもいかない。自己紹介を求められたり、その場を盛り上げることが求められたりする場では、非常に良くない。特別こちらに期待がないときには、役にも立たないが邪魔にもならないのでいいのだが、何か漠然とした期待を寄せられてその場に呼ばれたようなときは、何も面白いことを提示できなくて申し訳ない気持ちになる。

私は生来「裏方」適性であり、スター性とは対極に位置している。その自覚は十分にあるし、スター性を期待されてどこかに出向くこともほとんどないので基本困らないのだが、ときどきそういう機会があるとやはり期待に応えられなくて、あーぁという感じになる。かといって、実態伴わぬ状態で役割を演じたり大きく見せようと努めても仕方ない。

そうして結局なんでもない人として終わるので、期待をもって呼んだ側にはつまらない思いをさせてしまうわけだが、まぁある種それこそが自己紹介ではある。なんら問題を抱えていないところで会っても、引っかかりのない、いてもいなくても場に影響を与えない人。なのだから、その通りの認識で間違っていない。

何かの目的がある場で、ゆえにそれを達成するのに問題を抱える場で、自分が果たすべきテンポラリーな役割を担って、そこで貢献できることをする。そのときだけ、その役割において裏方で役に立つ(少なくとも役に立とうと働く)。一方、それ以外のところではまったく存在感がない。そういう存在として動と静を行き来しながらやっていけたら、それが一番自分らしいのだろうから、それを全うするほかない。

こういう精神性を自分のなかで穏やかに成り立たせるのは、時としてなかなか難しいものだったが、最近はずいぶん安定した。己の性質・役割を知ってそれを活かそうというスタンスがずいぶん安定した。親からもらった愛情や、会社に雇ってもらっていることとか、そうしたものが下支えしてくれているんだと感謝する。そういうものがなかったら、自分というものをこのようには扱えなかったにちがいない。しかし、そういう環境に恵まれたのだから、そこで得られた安定を私らしい力に変えて、水のような生き様をやっていけたらなぁと、地味にそんなふうに思っている。というわけで自己紹介は下手だ。

2013-09-22

うつろな必然性

サイレンをならして、通りを救急車が走り抜けてゆく。目の前を通り過ぎる前と、通り過ぎた後で、音が変わって聞こえる自分をぼーっと眺める。同じものを感覚しているというのに、物事が起こる前と、起こった後とでは、まったく違うもののように感覚することがあるんだよな。

それが起こる前には、まったく無計画で、行き当たりばったりで、必然性のないものだったのに、それが起こった後には、まるでそうなることが必然であったかのように、前のあれと今のこれがまるで太い因果関係で結ばれていたかのように感じられてくる、なんてこと。

自分の行いであれば因果関係の実感が伴わず下手な解釈をせずに済んでも、周囲がそれを安直に成功モデル化したりして。成功したそれは、前にあった何かと関連づけられ、因果関係を描かれて、成功モデルのお面をつけて世の中をかけまわったりして。

けれど、多くの成功は、そうそう必然性をもってなし得たものではなく、また成功モデルにならったからという、ただそれだけで成功した例もそうそうないのだろう。

成功モデルの知識が役に立ったという場合も、それは複数のモデルを知り、それらを咀嚼して、あるとき自分が置かれた状況で応用的に取り入れつつ、有効な打ち手をオリジナルに編み出したからこそ、それを実践したからこそ、あきらめずにやり続けたからこそ、成功したんだろうと思う。

多くの事柄は必然ではありません。しかし過去の事実をわれわれは必然的に起こったと見なしがちです(このポジショニングだったから成功した、とか)。歴史に学ぶ本当の価値は「似たような状況でもいろいろなことが起こりうるし、いろいろな戦略が有効であり得る」ということを知ることにあるのでしょう。

三谷宏治「経営戦略全史」

歴史に学ぶ本当の価値。たいへん共感する。それじゃなきゃ、つまらないしな。

2013-09-16

3分タクシー劇場

この間終電を逃して、乗り換え駅から数駅分をタクシーで帰ることにした時のこと。駅から大通りに出て、信号待ちしている「空車」タクシーに近づくが、運転手は一向にこちらに視線を向けることなくドアも開かない。後方ドアから中を覗き込んでも反応を示さない。

窓をノックする術もあるが、気づいていないのではなく、気づかぬふりをしている気もして、いやなものを無理に開けても仕方ないかと、すぐ後ろの「空車」タクシーに向かった。そちらはすぐドアを開けてくれたので、乗り込んで行き先を伝える。

車が走り出してほどなく、運転手さんが口を開く。「ああいう乗車拒否って、ほんと嫌ですねぇ」と。そうか、私は乗車拒否にあったのか。今さっきあったことが「乗車拒否」という言葉と結びついていなかった私は、ああいうのを乗車拒否っていうんだなぁと、ふむふむ思いながら「はぁ」だか「ほぅ」だかと応じた。すると、運転手さんが話を続ける。

「気づいてるんですよ。気づいてるけど乗せないって、プロ失格ですよ。でもお客さん、ああいうのには乗らなくて正解。乗ったってどうせ気分悪い対応されるだけなんだから。ああいう同業がいるのは、ほんと嫌ですよ」と、思いの丈を熱く語る彼。私のような客の立場より、こういうのは同業者のほうが腹の立つものなのかもしれないなぁと思いながら話を聴く。

いや、わからない。私はああいう状況にあったとき、運転手がどうこうではなく、環境として受け止めるように回路がなっており、「腹が立つ」という方向に向かわないように構造を作ってあるのだが、世の中そんなタイプばかりではない。腹が立って嫌な思いをする客もあるだろう。

しかし、我ながらそう素行が悪い感じではなかったと思うし、「空車」にしてあったし、どういう理由で乗車拒否にあうのでしょう?と素朴な疑問をもち、運転手さんに理由を尋ねてみた。

すると、「女性だからでしょう」と運転手さん。「女性は移動距離が短いから、お金にならないって思ってるんでしょう。そんなこと言ってられる時代でもないのにねぇ。長距離しか乗せたくないんだったら、そう張り紙出しておけばいいんですよ。そしたらそもそも誰も車止めなくなると思いますけどね」と続ける運転手。そして彼が乗せている私の行き先は、性別と時代を象徴するように2〜3km先の超近場。ビンゴだなぁと感心しつつ、「なるほどー」と返す。

それで会話が途切れるかと思ったら、再び運転手さんが口を開く。あるいは、結局、これを言いたかったのかもしれないが。「仕事はね、前向きに楽しくやるべきなんですよ。ほら、ここと、そっちにも、倖田來未のライブ映像流れてるでしょ。これ、お客さん向けのサービスだと思われるんだけど、違うんですよ。僕が好きだから流してるんです♪」と満足げに語る彼。

運転席のほうと、後部座席のほうと、両方に小さな液晶モニタをつけて倖田來未のライブ映像を流している。「他で、こういうの流してるのって見ないでしょ」と言うので、「そうですね、あんまり見かけないですよね。タクシーでライブ映像とかって」と返す。「でしょう。こういうふうに工夫してね、仕事楽しまなきゃ」「そうですねぇ。いいですねぇ」というところで、目的地到着。

タクシー乗車3分だか5分の間。わずかな時間をより良い舞台に仕立てるには、乗客である私が、「ああいう同業がいるのは、ほんと嫌ですよ」の後に「いや、でもあなたのような人がいてくれれば安心ですよ」と返すべきだったのかもしれない。タクシーに乗るやいなや、「お、なんです?倖田來未のライブ映像じゃあないですかっ」と驚きがあってしかるべきだったか。と、よくわからない一人反省会をして床についた。

2013-09-15

ちょい買いの決済方法

コンビニやキヨスク、スーパーでのちょっとした買い物を、何で支払っているか。というのは、日常生活なだけに、多くの人が「自分のやり方が当たり前のやり方」と思いこんでいるのではないか。多くの人は、自分と同じやり方で買い物している。そう無意識に思っているけれども、実際はけっこういろいろなやり方でなされている。そんな過渡期ではないかと最近思った。

というのも、私はこうしたちょっとした買い物を、ずっと現金で支払ってきて、無意識にそれが多くの人の当たり前だと思いこんでいた。思い返してみれば、コンビニでレジ待ちしているときなど、しゃりーんとか音が聞こえてきて、電子マネーで決済しているのを日常的に見かけてはいた。けれど、それはそれ、これはこれという感じで、「基本は現金である」と、なんとなくそういう感覚でいた。進んでいる人が一部で電子マネーを使い始めているんだ、みたいな。ここで話しているのは、数百円の買い物についての話だが。

しかし、最近仕事の都合でEdyカードが必要になって、カルワザカードというのを持つようになったのだ。サンクスで300円で買える、特別な申請手続きが不要のプリペイドカードだ。サンクスのレジに行って、「カルワザカードください」というと「300円です」と返ってくる。切手のごとくレジの引き出しからカードが出てきて、「とりあえず2千円チャージします」とか言うと、「カード代とあわせて2,300円になります」となって、お代を支払うと、2千円チャージされたカードがその場ですぐ発行してもらえる(って、そんな説明、不要かもしれないが)。

で、とりあえず仕事先でしゃりーんしゃりーんと毎日使って慣らしている。なるほどまぁ便利な世の中ねぇと思い、仕事先以外でも意を決して時々使ってみる。ここはEdyカード使えるのかしら…とレジ前でどきどきしながらEdyカードマークを探し、マークを見つけると店員さんに「Edyカードで」と伝える(余裕があるときのみ)。「あ、はい」と普通に返ってくると、まず受け入れられたことにほっとするのだが、そこから第二の関門。

どのタイミングでどうやったら自然なカード使いふうを装えるのか、まだよくわかっていない。カードをこの皿に置けばいいはずだと思い、カードを乗せたところで「料金をご確認の上、カードを置いてください」と案内されたり。料金を確認してからカードを皿に乗せればいいんでしょと、料金表示の画面をじーっと見つめていると、一歩下がってレジ前のタッチパネルの画面でまず「Edyカード」というボタンにタッチしなきゃいけなかったり。今はまだ、「あ、はい」「あ、はい」と萎縮しながら経験を積んでいる真っ最中だ。少し慣れてきたが、いまだ初めてのおつかいみたいなドキドキ感がやまない。

しかし元来生活に対して無頓着なので、こういう機会でも捉えないとそのまま先々まで現金払いでいってしまいそうであり、また元来こうした外からの風にのって吹かれて生活をいくらか進化させてきたところがあるので、今がちょい買い決済方法の変えどきなのではないかと思い、変化を試みている。

とはいえ、全部のちょい買い系店鋪でEdyカードが使えるわけでもなく、私もカードの存在を思い出したり出さなかったりで、今のところ中途半端。いずれ、電車の運賃はICカードが当たり前になったように、小銭の買い物もICカードが当たり前になるんだろうかなぁ。あるいは、もうけっこうな割合で、皆乗り換え済みなのかもしれない。その辺が今一つよくわかっていないが、まぁ良い機会なのでちょい買いの仕方を変えてみようかと思ったりしている。ゆるい意思だが。

2013-09-14

またとない忙しさ

たいそう忙しい日々が続いている。ここ2週間ほどは、7時から24時くらいまでずっと仕事である。家に帰るとばたんきゅーして体力を回復させ、翌朝の早起きに備える日々。

これだけやって、この精神状態でいられるって、やっぱり私この仕事が好きなんだなぁと思う。好きだなぁというか、意義深いなぁというか。そしてさすがにこれだけ忙しい日々は、これが一段落すると我が人生にまたとないんだろうなぁとも思うので、今のうちに頑張っておこうと思う。

ブログもなかなか書く時間がないなぁと思っているうちに日が流れたが、時間がないというより、日常の中での洞察行為みたいなのがほとんど機能していないのが根本かも、と思った。何か書きたいことがあるのに書く時間がないのではなく、そもそも書くことを持っていないのだろうと。

平常時に発揮されている洞察エネルギーみたいなのが、最近は120%客先で発揮されており、客先に提出するレポート文書に書き起こされている。あるいは、翌日以降の仕事の方略・施策に展開される。なので、具体的な案件以外の日々のことについて、最近はほとんど何も考えていない、捉えられていない気がする。

移動中は会社のメールをチェックしているか、目を閉じて省エネモードに入っている。電車内はもとより、早朝や夜更けの人通りの少ない通りでは歩きながら寝る。10歩くらいは寝られる。これがなかなか良い。最近はSNSもほとんど触れておらず、友人の様子や世の中のこともよくわかっていない(2020年東京オリンピックのことは知っている)。

毎日仕事で力尽きてしまう日々だが、そういう時期もあっていいよなと思う。いくらかでも自分が貢献できる仕事があるのはありがたいことだし、とにかく今は外に向けてエネルギーを使い果たす時期なんだろうと。それを、責任をもって全うしたい。

そして、このまたとない忙しさを抜けたとき、以前より人間が大きくなった状態で友人と再会し、ゆっくりおしゃべりできたらいいなぁと楽しみにしている(というわけで、しばらく寡黙ですが、その節はよろしくお願いします)。

それにしても、最近朝7時前後に山手線に乗る生活をしていて思うことだが、なんで7時なんて早朝に、都会のど真ん中を走っている山手線車内があんな混んでいるのだろう。みんな何時に何処に行く必要があるのか。不思議でならない。

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