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2013-08-08

主観的にとらえた世界の見え方

小学生のとき、学校で9月1日に行われる防災訓練が苦手だった。理由は単純で、自分の防災ずきんの柄が好きじゃなかったからだ。

今でも防災ずきんなるものが使われているのかどうか知らないが、私が子どもの頃は布製ヘルメットとでもいうのか、「校内で災害に遭ったら防災ずきんを頭にかぶって校庭に逃げなさい」ということになっており、児童は全員それをたたんで自分の椅子の下に装備していた。おそらく小学校に入学するときに親が用意して子どもに持たせることになっていたのだろう。物心ついたときには、私はそれを所持していた。

防災ずきんは6年間同じものを使った。新学年になったからといって新調する類いのものでもないし、幸いにも6年間、訓練以外で使う機会もなかった(と思う)から傷みもしなかった。だから毎年防災訓練の日が来ると、同じ柄のずきんをかぶって校庭に出て整列、残暑厳しいなか炎天下で校長先生の話を聴き、早く終われー早く終われーと唱えていた(気がする)。

今から思えば実にささいなことだが、その防災ずきんには、なんだったかモンチッチみたいな感じの名もないキャラクターが大きく描かれており、それがちろっとお尻を出していたのだ。お尻丸出しというわけじゃない。あくまで、ちろっという愛嬌のある感じだったのだが、それが当時の私にはダメだった。なんとなく、ハレンチに感じられたのだろう。

6年間誰も気にとめることはなく、友だちにからかわれることもなければ、男子にひやかされることもなかったのだが、私はいつそれについて指摘されるかと内心ひやひやしながら毎年訓練を乗り切った。まったく小さなことだが、当時の世界観に照らすと問題のサイズが大きいことを体感的に思い出せる貴重なエピソードである。

中学に入ると防災ずきん制度はなくなり、そんなことを気にかけていたなんて四半世紀忘れていたのだが、最近小学5年生が主人公の「月と蟹」(道尾秀介著)という小説を読んでいたら、ぽわっとその防災ずきんのことが頭に浮かんできて、うわぁ、そういえば私あの頃すごい気にかけてたなぁと懐かしく思い出したのだった。

別に防災訓練やずきんが出てくる話ではまったくないのだが、そういう子ども時代の世界観、その中での心の揺れやざわめき、戸惑いをていねいに描写している小説だった(主人公はもっと大変な問題に直面するわけだが…)。

私は当時6年間にわたって、誰一人にもそのことを話さなかった。親にも兄弟にも友だちにも話した覚えがない。思えば、私はそうした心の揺れの類いをほとんど人に話すことがなかった気がする。それは、我慢していたというのともちょっと感覚が違う。隠していたとか、抱え込んでいたとか、しまいこんでいたとかいうのともちょっと違うのだ。

隠すとか、抱え込むとか、しまい込むというのは、何かを自分が持っているといういくらかの自覚があり、それを隠さない、抱え込まない、しまい込まないという対極の選択肢が自分の中に見えていてこそ成せる技だと思うのだが、当時の私にとっては、自分が何かを抱えているという自覚すら曖昧な状態ではなかったか。

感じ受けるもの自体は大人と同等の質量である。であるにも関わらず、それを感じ受けているという自覚、それをどうとらえたらいいか、どう対処したらいいかという術は実に貧弱で、ある種無自覚なまま、無意識のままそれに対処していたんだと思う。結果的に、誰にも話さず、自分の中でやり過ごしていた、という按配だ。今だったら早々カミングアウトして楽になる、という術が思い浮かぶが、当時はそういう術をもたなかったし、そういうのが流行る前の時代でもある。

でも、結局のところ誰かに向けて口を開くことなくやり過ごすやり方が、一番自分にとって自然体だったんだろうなぁと今振り返って思う。思い悩むくらいだったら、子どもの頭一つで考えずに親や先生、友だちでもいいから話してみたらいいというのは簡単だが、実際なにかを抱えた一人の人間にとって、それはそんなに簡単なことじゃない。場合によっては、人に話すことで不要に問題の輪郭がはっきり感じられて参ってしまうこともあるだろう。

私の中だけにとどまった不都合を、ただただ不都合だなぁと思いながら受け入れ続けてやり過ごす。それも一つのアプローチなのだ。本人にしてみれば、どうしたってそれしか選びようがないと感じられることもあるし、それが本人にとって一番ラクだったり、後の支えになったり、学びになったりすることもある。本人が主観的にとらえた世界の見え方というのを、軽視してはいけない。

これがまた大人になると、感情を枠組みする言葉のレパートリーが達者になって、自分のなかにわいて出る感情を、なんでもかんでも既成の枠組みのどれかにあてはめてラベルをつけようとし出す。自分の感情を管理・コントロールしたがるようになる。整理がつかない感情に出会っても、どこかの箱に収めないと落ちつかないので、無理やり収めようとしたりする。例えば、この人への思いは恋愛感情の箱に入れるものか、友情の箱に入れるものか。恋愛からの結婚がよいのか、恋愛の成就は結婚なのかとか、そういう類いは巷にあふれている。

しかし、これも通り過ぎると(老いなのかもしれないが…)、もはや自分の感じ受けるものを感じ受けるままに、という状態になる。人間の気持ちってものすごく豊かで複雑で、それが人対人の間に育まれる感情ともなれば、もはや既成の容れ物に一語や二語のタグ付けできれいにより分けることなど無理に決まっているじゃないか、みたいなところにやってくる。やってきてしまった…。

そうするともう、感情なり関係性なりを何か既成の枠組みに分類するとか、キーワードでタグ付けしたいとかいう気もさしてわかず、自分が感じるままに素直に受け止める。それが大事なこととなる。言葉に表そうとしても、自分の知る言葉じゃたりなくて十分には言い表せない。それも含めて素直に受け入れてしまう。それが一番健やかでいい。と個人的に納得する今日この頃だが(ゆえにこんな按配の暮らしぶりだが)、この先はどんなふうに変わっていくのやら。自然に身を任せている。

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