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2013-05-31

前向きに身の程をわきまえる

ここしばらく、ちょっと忙しい日々が続いている。忙しいといっても毎日午前様というわけじゃないが、抱えている案件がどれも分析・設計工程に集中しており、頭フル回転で取り組まないと何も進まない。なので、仕事時間がそのまま集中時間のような感じになる。というとさすがに言い過ぎだ。が、自席にいながら提案書や設計書の世界にトリップしている時間は長い。この没入感はわりかし好きで、やりがいもあるのだが、さすがに20時、21時ともなると頭の中がクタクタになる。それで夜がふける前に潔く帰る、そんな日々である。

この時期にお客さんからのご相談が立て続いたのは、4月1日に各社で組織改編や人事異動があり、4月いっぱい新しい体制で今年度の戦略を議論、4月末から5月にかけてこちらに話がやってきたという感じだろう。

しかし、抱える問題や目的の具合、規模も受講者層も案件ごとに実にさまざま。プロジェクトの時期も、9末までのもの、年末までのもの、年度末までのものと多様である。また、ご相談いただく方も、研修に詳しい人事系の方もあれば、まったく不慣れという現場マネージャーさんもあり、受託案件というのはバラエティ豊かな経験ができて、自分の性に合っているなと思う。

新しいご相談をいただいたときには、ヒアリングの前後にわたって、これはどういう案件なのだろうという全体観と核心を、全身で感じ受けるように努める。私はそう瞬発力が高くないので、直観であたりをつけて、ロジックでじわりじわりと全体観と核心のピントをあわせていく、というやり方をしている気がする。

そんな感じで手探りしながら、このお客さんのこの相談にフィットする提案というのは、どういう課題設定で、どういう企画の骨格で、どういう中身の具象性で、どういう表現で落とし込まれたものなんだろうと、あちらこちら漂いながら一所に着地させていく。そうやって一つのドキュメントにまとめていくのは、なかなか趣きのある作業だ。正解もなければ、常に上には上があって、いつまでたっても100点満点に到達するわけではないのだが、それがまた味わい深い。

この間、白洲正子さんの「白洲正子自伝」を読んでいて、こんな一節に出会った。

修行をつづけていれば「極意はそのうちに、向うから歩み寄ってくるものじゃ」と教えたというのはほんとうのことで、人間が人間に伝えられるのはほんの僅かのことで、何事でも自得する以外に極意に達する道はない。だから型は単純であればあるほど理想的なのではないかと私は思っている。

そうじゃ、そうじゃ。と、私はこの一節を自分を励ますように味わった。アインシュタインも「何かを学ぶためには、自分で体験する以上に良い方法はない」と言っておる。そうじゃ、そうじゃ。

私もいくつかの思考のフレームワークをありがたく使わせてもらっているけれど、比較的単純な汎用性高い型をいくつか自分の中に定着させられれば、あとはまぁ数を頑張って増やすもんでもないかな、と思っている。パラダイムシフトが求められるとき、新しい専門分野をもつときなどは別かもしれないが、たいていのモデルは応用の範囲内であり、たくさんの型を情報あるいは知識として覚え込むより、いくつかの秀逸な型を自分のものとして使いこなせたほうがいいなと。

もちろんそれは、あんまりたくさん知っても、自分の中でうまく咀嚼しきれないという個人的脳のキャパシティ事情が前提になっているのだが。なので、咀嚼できる人は貪欲に吸収したらいいという話でもある。身の程をわきまえるというのは、後ろ向きな言葉に聞こえるかもしれないが、私は後ろ向きな姿勢で使わない限り、なかなか能率よいことだと思うのだ。自分が振り回されない加減で、良いものを取り入れる。自分がいい仕事をできるかぎりにとどめて、良いものを取り入れるのだ。

そうしたら、あとはとにかく一つひとつの案件に真正面から向き合って、その案件の目的にかなった成果を出すためにどうしたらいいかを考え抜くのと、やり抜くにかぎる、と思う。どんな案件にしたって、型にはまりきらない独自性がつきものだし、その独自性に対応できることこそが実務家に求められているところでもあると思う。というわけで、いただけたご相談に対して、時折トリップしながら誠心誠意頑張っております。という月末締めの近況報告。

2013-05-18

限界に達したGUI

「GUIでできることは、もう限界に達しているのです」という言葉には、なかなかどきっとさせられた。先日、監訳者の @nobsato さんが献本くださった「モバイルフロンティア よりよいモバイルUXを生み出すためのデザインガイド」(Rachel Hinman著/丸善出版)の中の一節だ。

私が最初にパソコンを触り出したのは1991年(学校で)、ネットをつなげて本格的に使い出したのは1996年(会社で)。本格的といったって私が使っていたのは英文タイプとかOfficeとかFilemakerとかクラリスワークスとか(懐かしい…)のビジネスアプリ中心なんだけど、この頃にパソコンのGUI環境はずいぶん整備されたと、一般ユーザーなりに記憶している。

それでも当時はいろいろ手つかずのところがあったので、ド素人ながらコマンドラインインターフェイス(CLI)に触れる機会ももつに至った。会社のWebサーバーにアクセスしてviエディタを開いて新しい会員パスワードを手入力でファイルに書き込んで発行する、という手作業極まりない業務が、1事務社員である私の仕事のひとつだった。なんか、そういう時代だったのだ(あるいは、そういう会社だった…)。毎回恐る恐るやった。

そんな経緯もあって、私の頭の中にはどうも「GUI」と「使いやすさ」がピタッとくっついて登録されていた。そのことに本を読んで気づいた。GUIといえば、相対的に(が転じて絶対的に)使いやすいインターフェイスのことだと、遠い記憶の中で自動登録されていた気がする。

デスクトップパラダイムはグラフィカルユーザーインターフェイス(GUI)を使用することでオフィスでの経験を模倣していました。ユーザーが「ドキュメント」を作ったり、それを「フォルダ」に入れて保存したり、あるいは「ゴミ箱」に捨てられるようにしたのです。

まさに、このデスクトップパラダイムにどっぷり浸かって10数年やってきた。そのことを本の中では、デスクトップパラダイムはもちろん偉大なるステップだけど、一方ではもはや過去の功績となりつつあると説いている。「コンピューターがオフィスの範囲を超えて私たちの暮らし全般に活躍の場を広げ」た現在、デスクトップパラダイムでのインターフェイスデザインからは早々に脱しないといけない、と。

デスクトップパラダイムを具体的なキーワードで挙げると、
●GUI(グラフィカルユーザーインターフェイス)
●WYSIWYG(what you see is what you get; 見たままが得られる)
●デスクトップを模したメタファー(フォルダ・ファイル・階層構造など)
●リアルに見せる外観加工(ドロップシャドウやベベル、模造品のようなコントロール部品、アイコン)
●キーボード・マウスによる入力操作
●絶対空間と絶対時間をもつ

こうした、これまでPC使いには当たり前の大前提だったものが、この先どんどん前時代的のものに位置づけを変えていく。GUIはNUI(ナチュラルユーザーインターフェイス)になり、その先にはOUI(オーガニックユーザーインターフェイス)も控えている。NUIで「見たままが得られる」から「行ったままが得られる」ようになり、OUIで「平面」より「非平面」でシームレスに操作するようになるとの予測。いやはや…。電子書籍リーダーが文庫本のように手の中でくねっと湾曲するようになったら買いたいなと思っているのだけど、そんな日もそう遠くないのだろうか。

閑話休題、インターフェイスの作り手は相当意識して訓練しないと、頭の中に定着しきったノウハウを無自覚に持ち込んで前時代的インターフェイスを作ってしまう危険にさらされている。従来のパラダイムって隙をついてくるから困る。今すぐ、作り物のすべてがモバイルパラダイムに完全シフトということにはならないのだろうけど、だからこそこの時期は、作り手の手腕でもって案件ごとに最適解を導き出していかねばならないんだろうし、大変である。

というこの辺のパラダイムシフト話は、この本の導入部で語られている内容。モバイルUXにフォーカスした上位概念から始まって、UXパターン、デザイン手法、デザイン要素といった実践までまとまっている。

原著作は1年前の2012年4月に出たものだけど、いまだ移行期というか混乱期のまっただ中にいる感じだし、この先数年か10数年かかけての比較的大きなパラダイムシフトだと思うので、まったく古びた感じのない有用な一冊だと思う。私はUXデザインの専門家じゃないので、個人的日記の延長でしか紹介できないけれど、ご興味ある方はぜひ手にとってみてください。写真の例示も多いし、読みやすいと思います。自分のユーザー感覚とはちょっと違うかなぁと思う記述もあって、それもまた楽しい。

遅ればせながら、この本の原著者レイチェル・ヒンマンさんは、NokiaやIntelのリサーチラボで活躍するモバイルUX界のオピニオンリーダー、彼女の知見をまとめたモバイル向けユーザーエクスペリエンス(UX)指南書とのこと。書籍の詳細は、同じく監訳者である @yukio_andoh さんの「安藤日記」でどうぞ。改めまして、献本ありがとうございました。

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追記:Facebook上でやりとりして。ユーザーインターフェイスっていうのはそれぞれ良し悪しがあって、何が絶対的に優れてるってものじゃなさそう。レベルじゃなくてタイプで考えたほうが良さそう。案件に応じて最適なタイプを選び、そのタイプで実際に形作れることが大事って思った。

2013-05-12

「客人」パフォーマンス

ここ数年、ビジネス界隈でリフレーミングとかデコンストラクションという言葉を聞く。時代も変わってきているんだから、ビジネスのやり方もこれまでの見方とらえ方を変えて脱構築しないと。

そんな問題提起を聞いて最近考えるのが、となると「主人」ばかりでなく「客人」も時代変化に順応して役割を脱構築せねば、うまいことバランスがとれないのではないか、ということ。

ビジネスの役者っていうのは、主役級でいうと「主人」と「客人」だろう。3Cとか4Cとか、はずせない役者はそれぞれの事業領域にあるだろうけれども、なんにしたってこの二役は欠かせない。

で、あらゆるビジネスがこの二役の「相互作用」を前提に成り立っているとすると、主人のたたずまいやふるまいが変わっても客人のそれが変わらなければ、それは有機的に作用しないんじゃないか。そんなことを考える。

いやいや、客人のそれが変わってきたからこそ、主人もそれに対応して「変わらなきゃ!」と言ってるわけで、客人はすでに変化を遂げてるよ。そう言われればそんな気もするのだけど、わが身を顧みるとどうも疑念がわいてくる。

果たして、長いこと従来型の世界で「客人」を演じてきた私は、その役割を真っ当に変えられているだろうか。まったく変わっていないとは思わないが、いいところ取りしているだけというか、変化しようとする「主人」と有機的に相互作用するまでの「客人」パフォーマンスを発揮しているわけではあるまい、と。

いやいや、なに馬鹿なこと言ってるんだ、「客人」に合わせて「主人」が変化するのが当然だろう。「客人」至上主義からすると、そう思われるかもしれないし、自分も仕事する「主人」側に身をおいて考えれば、その視点は欠かせないものだと思う。けれど、一方で私は一市民であり、「客人」の立場でも生きている。

だから、客人の立場で、この時代に求められるリフレーミングやデコンストラクションを考えることも、それはそれで有意義に感じられる。客人としてどう今の時代変化に順応していくと、変化を志す主人とうまく相互作用して、より良い暮らし、街、社会に通じていくものか。そういう視点でわが身のふるまい方を考えることも、歳を取ると大事に思えてくる(できてないけど)。

何にも変わってないよなぁと自分のふるまいを思うのは、例えば何かのネットサービスを使っていて、もっとこうなったらいいのになぁと思うこととか、あれココおかしくない?とか思うことがある。そのサイトには「ご意見はこちら」のフォームがある。でも、それを利用して直接フィードバックすることってほとんどない。良いわーと思ったときも、その反応をサービス提供者に返すことってなかなかしない。

オフラインにしても、例えばカフェやコンビニ、スーパーやデパートでお客さんしているとき、電車に乗って乗客しているとき、銀行でATMを利用しているとき、極力寡黙に、手際よく、面倒でない客を演じるのが私のスタンスになっている。手短に注文をまとめ、お会計は素早く、無駄話をせずさっと代金を出してさっと列から抜ける。お昼時の混む時間帯にコンビニのレジで光熱費の清算はしない。いわゆる従来型の客(と思う)。

まぁそれ自体は別にそのままでいい気がするし、自分の性分みたいなものも含むのでいいも悪いもない気がするが、何か特別なことがあったときも客人の私は、それをフィードバックするより極力黙っているほうを採っていると思う。

そこで何か口をはさむのは、店の主人側に対して邪魔をする感じ、どこか無配慮な感じが先に立ってしまう。あちらはあちらの考えで任務を全うしているのだし、こちらにはその任務の全体像が見えていないわけだし、いろいろ優先順位や前提条件もあるだろうし、上からは効果より効率化をうるさく言い渡されているかもしれない。そこで一部だけ切り取って物申すのは、いい迷惑に思われるかもしれないし、気を悪くしてクレーマーのように扱われるのもなんである。

というわけで、こうした商取引では無難にサイレントなマジョリティー客を演じるのが基本性格だ。やりとりは必要最低限にとどめて、控えめに。ひたすら与えられたものを享受し、思うところは思うのみ、自分の思考のネタにするばかり。こういうスタンスが、長年かけてこびりついてしまっている。

時代は「主人」と「客人」が直接関係をもち、活発にコミュニケーションを図り、関係を深化していく方向にあるようだが、それに対応した変化は自分のふるまいに感じられない。なんでもかんでもフィードバックすればいいとも思わないし、SNSに書き込めばいいとも思わない。だからこそ、どういう客としてのあり方が今後にフィットするかは、けっこう手探りだなって思う。

「客人」であるところのConsumer(消費者)を含むビジネスモデルが、B2Cに限らず、マーケットプレイスのようなB2C2Cとか、オークションサービスのようなC2Cとか多様化していて、客人の役割も解釈が広がっている。いろんなあり方、つながり方が出てきた。

こういう時代に、従来の「客人」スタンスのままいるのは、ちょっとズレ感が出てくるよなぁと思う。じゃあ、どう変わっていくのがいいのか。「主人」と「客人」が有機的に相互作用していく健やかなつながりってものを、客人の立場からも考えていきたい。

そしてそんなときには、最もミニマムな「主人」と「客人」の直接関係に原点回帰して、自分の「客人」としてのふるまいを見直していくのがいいんじゃないか、少し時間をかけて。そんな気がするのだ。

昔なじみの近所のクリーニング屋。そこで切り盛りしているおばちゃんと、奥で仕事しているおじちゃん(おばちゃんがいないときだけ表に顔を出す)、客人である私。それくらいのミニマムな中に自然に生まれてくる配慮とか思いやりのある関係性をイメージして、これまでの「客人」スタンスを柔らかい頭でリフレーミングしていけたらと思う。

自分のふるまいが、この先どう変わっていくかはまだわからないし、そう大幅な変更はないかもしれないけれど、今より自然で健やかな「客人」としてのたたずまいは、なんとなくある気がしている。店の主人への心のもち方、向き合い方、たたずまい、ふるまいのようなもの。

2013-05-09

父のタブレット購入

ゴールデンウィークに実家に帰ったとき、父を誘ってタブレットを買いに行った。以前に書いた「古希タブレット」の続きである。

実家最寄りのヤマダ電機におもむき、だだっ広いフロア内をタブレットを求めて歩き回る。郊外の家電量販店は土地に余裕があるためか、訪れた店鋪は家電もパソコンも1フロアに全部入りだ。しばらくうろついたところで父が「うわぁ、このへん全部タブレットかー」と口にしたので視線の先に目をやると…、そこは体重計売り場だった(しかし最近の体重計は驚くほど薄っぺらいですね、とフォロー)。

気を取り直して先へずんずん進み、本物のタブレット売り場に到着。あれこれ種類はあるけれど、とりあえず娘が初期設定を一通りして、使い方もなんとなく教えられそうなのがiPadだけ(そういえば私、タブレットを持っていなかった。が、スマホはiPhoneなのでなんとなく勝手がわかりそうな気がした)なので、iPadにしぼって物をみる。ずんずん。

iPad売り場前に立つと、何はともあれ父にiPadを触ってもらった。これをしたらこうなる、これをしたらこうなるを体験。しかし、ボタンのように強く押し込むので反応しなかったり、アイコンの上のほうを押しがちで反応しなかったり…。

う、ちょっと反応しなさいよ、iPad。ここで関係構築しないでどうするのよ。触れたのに反応しないって、コミュニケーション上の無視と同じよ。傷つくのよ。と、いくらiPadに言っても仕方ないので、父にさりげなく言う。画面には軽く触る、アイコンはきもち下を触ると反応するよ。少しずつ、二人の会話が成立してくる。

SafariでYahoo! Japanを開いて馴染みのページを検索してみたり、拡大したり縮小したり、あれこれ操作。で、5分ほど経過したところで、父の買う気は…高まったというより、全部が新しい体験すぎて困惑ぎみ。「疲れた、休憩しよう」と、とにかく売り場から一旦離れたがったので後をついていく。適当な椅子に腰かけるやいなや、父が口を開く。

父:なんかさー、何か買うときって頭の中に、これはできるか、あれはどれくらいできるかって条件があって、それを確認しながら物を選ぶじゃないか。タブレットは、そういうことを考えられる前提知識が自分にないから、買っていいのかどうなのか判断つかないよなぁ。

私:ふんふん。でもさ、何かすでに使っているものの買い替えとかならそういう買い方できるけど、まったく新しい類いの買い物って、そういう買い方ができないわけじゃない。

父:そういうことだよな、つまり触ってみないとわかんないんだから、とにかく買って持ち帰って使ってみろっておまえは言ってるわけだろ。

私:そうそう、そういうこと。

父:んーー、そうするか。

私:うん。

と数分の親子会議。父も私も決めたら早いので、再び売り場に戻って「iPad mini」「iPad Retinaディスプレイモデル」どっちにするかの検討に入る。まぁ、どう使うかも手探り状態だし、とりあえず家で使う前提で見やすい大きいサイズのがいいかね、と後者に決定。データ容量はさしていらないだろうと、16GBの一番安いもの。あわせて無線LAN機器を買う。これは店員さんに相談して、私が勝手に決める。お買い上げ。

家に帰ると、父がテレビを観ている脇で、ごそごそ無線LAN環境をつくる。続いてiPad開封。箱を開ける儀式は父にやってもらわねばなるまい。Appleはみんなに「わぁ」って感動してもらおうと思って箱にもお金かけてるんだよ。その気持ちを汲んで、さぁ自分で箱開けて「わぁ」って!と促す(が「ふーん」と静かに開けていた)。

その後「よぅわからん」と再び本体が戻ってきたので、引き取ってiPadを起動、初期設定を一通りこちらで進める(私も手探りだが…)。それからパソコンのお気に入りに入っているサイトをSafariのブックマークに登録したり、文字サイズを一つばかり大きくしたり(あまり大きくすると各所崩れて読みづらかった)。

簡単なチューニングだけして、とりあえず触ってもらう。Webサイトをみたり、メールを受信したり、始めから入っているアプリを触りながら勝手を覚えていく。NHKのニュースもブックマークからたどって行けるようにして、これなら見たい時に見られるでしょうとニュース映像を一つ見せてみると、たいそう感心していた。

音声入力もお気に入りだ。音声で入力できることを知ると、キーボードを全然使わずに音声入力ばかり使っていた。私が洗面所にいるときも、居間のほうから「○○を教えてください」と大きな声で丁寧に質問する父の声が聞こえてきて、なんだかほっこり。好調な滑り出しである。

今回、あんまり初期に投入する情報量が多いと疲れてしまうと思ってSiriには触れなかったのだけど、次の機会に紹介するつもり。その次に会った時には、父とSiriはマブダチ(古)になっているかもしれない。キーボード入力が達者でない分、私より父のほうがデスクトップからモバイルへのパラダイムシフトが容易な世代なのかもしれないなぁ、と思ったりした。

その晩、父が使いそうな無料アプリをいくつかダウンロードして入れておいた。天気とかラジオとか乗換案内とか。翌朝それらを触ってもらったが、Google Earthに最も感動していた。ちょうど最近買ったばかりだという紙の「現代地図帳」がテーブルにのっており、地図アプリはいろいろ活用シーンがあるんじゃないかと思われる。

私なんかよりずっと政治、経済、地理、文化など通じているので、そういう人たちがこういう道具を手にするのは、可能性が広がってすごく有意義なことだよなぁと思う。少しずつ、マイペースで活用の幅を広げていけるようにサポートしていけたらと思っている。

2013-05-08

乗り換え駅の四方山話

私が通勤に利用する駅は、この春に大幅な構内の改装があって、人の流れは未だ混乱ぎみである。乗り換えの移動距離が異常に長くなってしまい、一旦改札を出て階段を昇り降りしないと乗り換えができない。

朝の通勤時間帯には、制服を来た人たちがわんさかいて、方々で大声をはりあげている。こっちの通路は一方通行で使えないだとか、どこそこ方面に行きたい人はこっちの通路を通ってくれだとか誘導するようになって、もうひと月以上経つ。これは、この先もずっとずっと続くのだろうか。

声をはりあげて案内していることが仕事していることになっている感あって、皆負けじと大声で叫ぶので、同じことを言う声が二重三重にかさなって騒音っぽくなっている。アナウンスは一所に一つのほうがすっきりして聞きやすいのだが、先輩が叫んでいるのに俺が叫ばないわけにはいかない…という事情を察するので、これは当面続くのだろう。先輩が疲れて「役割分担しよう!」と切り出すまで、のんびり待とうと思う。

というのは本題ではなかった。今朝の乗り換えのときのエピソードを書こうと思っていたのだった。今日も混雑した駅の中を昇り降りして乗り換え。ちょうどプラットフォームに乗り入れていた電車に一歩足を踏み入れた。すると、すれ違いに一人の女性が電車から片足を出してきて、プラットフォームにいる警備のお姉さんに声をかけた。

この前の駅で開いた反対側のドアに荷物をはさんでしまった女の子がいるようだ。その子がこの駅で下車したくて困っている、ということらしい。乗り込んだのと逆側のドア前には確かに、制服を来た高校生らしき女の子がカバンをもって困り顔をしている。

警備のお姉さんは、問題は理解したものの動きがとれない。電車の中には基本入れないのだと言う。ドアが締まったら自分も次の駅に運ばれてしまう。彼女は困った様子で、とりあえず電車がドアを閉めて発車しないよう両手を高くあげて、駅にいる他の関係者に合図を送った。

ドアがしまらない状態にして警備のお姉さんが電車に乗り込んでくる。向かい側のドアまで行って、カバンの紐がはさまってしまった女の子に声をかけ、カバンを引っ張ってみる。とれない。ドアの向こう側にカバンの金具が出てしまっている状態なので、ドアをあけない限り、カバンはとれないのだ。

警備のお姉さんが女の子に、次の駅まで行っても大丈夫か確認する。女の子は問題ないと言う。ただ、次の駅でこちらのドアが開くのかを知りたいと言う。警備の女性はわからない様子で、その問いには答えずに電車を降りて他の関係者のところへ連絡に向かう。

しばらくすると、警備会社の他の男性がやってきて、電車に乗り込み、カバンを引っ張る。とれない。次の駅まで行っても大丈夫かと確認する。女の子は、問題ないと答える。ただ、次の駅でこちらのドアが開くのかを知りたいと言う。警備の男性はその問いには答えず、電車を降りてどこかへ行く。

しばらくすると、制服を来た男性が4〜5人集まってくる。先ほどのお姉さんもいる。わんさかいるが、全員警備会社の人のようだ。荷物を引っ張ることはできても、ドアを開閉できるわけではない。発車の判断ができるわけでもない。

「ただいま、駅の係員を呼び出しています」と車内に放送が流れる。駅の係員がプラットフォームには一人もいないのかもなぁと思う。いつも駅のプラットフォームにいたのは全員警備会社の人だったのか…。

また2分ほどしてか、駅員さんらしき別の制服を着た男性がやってくる。警備会社の人からどこまでどういう報告を受けてきたのかわからないが、やはり電車に乗り込んで、カバンを引っ張る。人間、これはどうにも自分の身をもってやらずにはおれない生き物らしい、などと思いながら様子を見守る。

とれない。金具が引っかかっていて腕力でどうにかなるものじゃないらしいと認識する(あるいは納得する)。次の駅まで行っても大丈夫かと乗客の女の子に訊く。女の子は、それは問題ないと言う。ただ、次の駅でこちらのドアが開くのかを知りたいと言う。その駅員もその問いには答えず、電車を降りていく。

もう、ゆうに5分以上は停車している。この停車時間は、この混雑した路線・時間帯ではだいぶ痛いはずだ。他の車線の次の乗り換え客も乗り込んできて、車内はどんどん混雑していく。駅員さんも来たし、もう発車判断でいいじゃないか、というふうに、外の警備会社の人と駅員さんの間で合意形成されている感じを受ける。

するとまた、もう少し年配の駅員さんがやってきた。他の人からどこまでどういう報告を受けてきたのかわからないが、やはり電車に乗り込んできた。ドア外の警備員さんがたが、またやるのか…と苦笑いぎみの表情をして眺めている。カバンを引っ張る。とれない。金具が引っかかっていて腕力でどうにかなるものじゃないらしいと認識する(あるいは納得する)。次の駅まで行っても大丈夫かと乗客の女の子に訊く。女の子は、それは問題ないと言う。ただ、次の駅でこちらのドアが開くのかを知りたいと言う。

駅員の男性は「次の駅でこちらのドアが開くから大丈夫」と言う。おぉ、来たー!と私は胸のうちで思う。駅員さんが電車を降りていく。電車は発車準備に入り、動き出す。のち、次の駅で無事、カバンをつかまえていたドアが開いた。

引っ張るのは一人でOKで、警備のお姉さんが駅員さんに「金具が引っかかっているので引っ張っても無理なんです。これだけ乗客がある状態で、反対側のドアを開閉するのは危険ですし、彼女も次の駅まで行って構わないと了承していますから人的トラブルもありません。ただお客さんは、次の駅であちらのドアが開くかどうかを心配しています。それを教えてあげて、すぐ発車のご判断を」とか言ったら、2〜3分くらいで対処できるかなぁとか思ったりもするけれども。

一方で、人間、やっぱり、自分で引っ張ってみるということを止められない生き物なのかもしれない、とも思いながら移動した…。となると、カバン引っ張って、そのまま即時判断がくだせる駅員さんを一人はプラットフォームに配置するっていうのが現実的な解であろうなぁと。朝のできごとに思った。

2013-05-06

この目を通して

ゴールデンウィーク後半は、千葉の実家に帰った。帰省途中でカーネーションを買った。最寄り駅まで父が車で迎えにきてくれ、そのままお墓参りに行った。すこし早いけれど、母にカーネーションを贈りに行く。

私は母の眠る墓地が好きだ。毎度そう長居するわけではないけれど、そんなにだだっ広くなく、かといってせせこましくもなく、開放感があって居心地のいいところだ。比較的新しいこともあって、あんまり墓地墓地していないし(おどろおどろしくないの意)、足を運ぶ時はたいてい快晴のお天気で迎えてくれる。墓地だから当然といえば当然だが、空が全方位にひらけていて360度見渡せるのもよい。お墓のメンテナンスも良くやってくださるので、いつ行ってもきれいだ。

今回も澄み渡る空のもと、5月の陽光をさんさんと浴びながら簡単なおそうじをして、お墓にカーネーションを飾った。水を浴びた墓石がきらきらと輝く。墓石は濃いグレイ、中にブルーの小石がちりばめられていて、陽の光を浴びるとそれが上品に光る。

私はまるでアクセサリーに関心がないが、母はよく身につける人だった。彼女が上品な宝石を身につけ、笑ってカーネーションを受け取ってくれているような心持ちになり、しばしそのたたずまいを眺めた。

すると一輪だけ、こちらに背を向けているカーネーションが目に入る。私は一歩前に出て、こっちに向けたほうがいいなと手をかけた。が、いや母が喜んで匂いをかいでいるのかもしれない。とすると、花はこちらから見ると背を向いていたほうがいいか、と思い踏みとどまる。んー、じゃあ他のも?いや、全部を墓石のほうに向けたら、それはそれで「それじゃあ、そっちから見てきれいに見えないでしょう。そのままでいいのよ」と突っ込まれそう。とか、ぐちゃぐちゃ頭のなかで考えて、結局一輪だけ墓石のほうに顔が向いているままにした。無造作に挿しても、花は自然にうまいこと収まってくれるものだ。

お線香をあげて、父、私と順にしゃがんで手を合わせる。何か、伝わるのだろうか。それとも父と私は、父と私のために、手を合わせているのだろうか。それは死ぬまでどころか、死んでもわからないんだろうが。世の中には、ただ導かれるままにやるってことがあるものだな。ただ、そむかないだけ。自然が導くままに、手を合わせる。

助手席から車窓をながめる。まさに5月という若葉が駈けていく。こちらも陽の光を浴びて、きらきら感が半端ない。すごい緑だねぇと言うと、そう見えるのはおまえが若葉をみる目をもっているからだと父。若いとそういうのが見えるんだろうね、と自虐的なニュアンスだったが、私もそう若くはない…。むしろ、こんなに若葉がきらきら見えるのは年を取ったからこそではないか、とも思う。

どんな景色も、どんな出来事も、どんな人間模様も、人間は「そのときの自分」フィルターを通してそれをとらえたり、あるいは取り逃したりする。私たちは、自分フィルターを通さずに外から情報を受け取ることができないのだ。自分がどんなフィルターを通してこの世界をとらえているのか、私はそれに自覚的でありたい。そして、できるだけ健やかに、できるだけ私らしく、より豊かな目で、この世界をとらえていきたい。そんなふうに思っている。

2013-05-01

中間層のWebクリエイティブ職キャリア(続編)

今さらですが、以前このブログでも言及した「中堅Webクリエイティブ職のキャリアを考える」(序章)に続く(希望編)(条件・市場性編)を公開していたご報告。

Slideshareには3月のうちに公開していたのですが、いろんな人と話しながら内容をブラッシュアップしていこうと思って、このブログでは触れずじまいになっていました。ご興味あれば、ぜひご覧ください。ちなみに直していないけれど、「中堅」という言葉は「中間」に直したいと思っております(なら直せと)。

で、この後をどう展開させるかはいろいろ悩んだりもしたのですが、とにかく机上で考えをまとめる作業は一旦引き上げて、当面は自分ができることを現場で一つひとつやっていくのが良いんじゃないかと、そんなふうに思っています。仮説ながら抽象化してまとめられそうな見解は「第1章」に書き出したし、これ以上足りない経験をかき集めてブレイクダウンした仮説を空想しても、そんな「第2章」に意味ないな、と。

「第1章」のスライドを公開したことで、問題意識に共鳴くださる企業やコミュニティからのお声がけもいくつかあり、直接Webクリエイティブ職の方々とキャリアをテーマにお話しする場ももてそうなので、そういうところで各自がキャリアを考える場を設けたり、一緒にできることを話し合ったり。あるいは個別のキャリアカウンセリングに従事する中で、現場で自分ができることを一つひとつやっていこうと。

また、普段自分がメイン業務としている法人向けの人材育成サポートにおいても、最近は専門知識・技能を習得する研修ばかりでなく、こうした問題を背景としたキャリア開発系に、クライアント案件も広がりを見せています。なので、そういうご相談に対して現場で望まれる実効性ある解決策を一つひとつ講じていくことが大事なんだと思っています。

自分が関わる機会を得られたところで、小さくとも手応えあるものを、具体的に納めていくこと。1実務者としてできることを模索しながらやっていきます。この間「スライド見たよ」と声をかけてくださった方、いろいろ情報・意見交換してくださった方に心から感謝。今後ともよろしくお願いします。

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