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2013-04-19

こだわらない消費

最近、買い物をしていてふと気づいたのだが、ひとり暮らしを始めて以来、日用品の類いはずっと同じ製品を買い続けている。洗剤はアタック、柔軟剤はハミング、歯磨き粉はクリアクリーン、部屋・洗面所・手洗い・風呂・台所掃除はなんちゃらクイックルと、そればかりを買い続けて早16、17年になるだろうか。途中で別のブランドに乗り換えた記憶がない。きれたら前と同じもの(の詰め替え用)を買ってきた。

迷いなし。品質や価格を比較して、毎度より最適なものを勝ち取ろうという気概がなく、日用品の購入にいちいち検討時間を割かない。そう考えると、最初に日用品を買いそろえたときの決断はなかなか大きなものだったんだな。

なんてことを思いながら、これまで買い続けてきた日用品のメーカーを調べてみたら、どれもこれも「花王」製品。そのことに自覚ないまま今日まで来てしまったが、これだけ花王ぞろいの理由とはいったい…。ひとり暮らしを始めた時、私はどんなふうに製品を選んだのだろうか。

一言でいえば「かなり適当に選んだ」ということになるが、その「適当」を言葉に表すなら、子どもの頃からずっとテレビCMで見てきた長寿&メジャー製品を、ドラッグストアだか量販店の店頭で一つこれと選んだ、ということになる。

店頭での決め手までは曖昧すぎてうまく言葉に表せないが、それこそが長年にわたる企業のブランド訴求みたいな取り組みの結実なのかもしれない。その辺は一消費者には想像が難しいけれど。

しかし簡単なところで、物心ついた時からテレビCMで見続けてきた製品・メーカーへの信頼感ははかり知れない。そして長寿であることは、この先もずっとあるだろう、ある日急に生産中止になって再び別の製品を検討する時間をとられるようなことはないだろうという安心感がある。

さらにメジャーなものなら、一般的なドラッグストアや量販店で簡単に入手できる。買いに行ったけど置いていなかったということになると、同じものを探し求めて他店に足を運ぶか、その店で買える別の製品を検討する手間が発生する。いずれにしても時間と意識を使うので困る。毎度同じものを買う想定で、いちいち困らないものにしておきたい、となると。この辺が無意識の判断でなされたんだろう。それが実感としては、一言「かなり適当に選んだ」になっている。

あとは、メジャーなものならどこも一定レベルの品質は確保しているんだろうと勝手に思っていて、それであればどこでも構わないという具合。また、長寿&メジャー製品はたいてい詰め替え用を売っているので、そうするとランニングコストが安くなるのだろうし、買い物も軽く済むんだろうし、環境にもいいんだろうというイメージも後押しした感(これも別に値段を確かめるわけでもなく無意識に漠然と)。

いやはや、適当だな、まったく。と思うが、個人的にこだわりのないものを買う時の温度感というのは、大方こんなものではないだろうか。

ちなみに、もっと日々の暮らしを大事にして生きている人は、日常使うものこそ大事に選ぶかもしれないし、もっと移り気かもしれない。必ずしも日用品だから横着するという話ではないと思っている(日用品選びに横着なのは私の生活力・生活意欲の乏しさによるところが大きい…)。

なにはともあれ、自分がこだわるものについては「悩んでいる時間も楽しい」とか、そこに時間と意識を使うのが有意義になるが、こだわらないものについて時間と意識を使うのは手間に感じる。何にこだわるかは、人によっても違えば、同じ人でもそのときの状況によって違う。

売る側としては、消費活動の少なくない部分がこうした「こだわらない消費」に類する想定で、潜在的なお客さんの動きをイメージしないといかんのだろうなぁと思う。当然といや当然のことだけれども、製品を送り出す側に立つと熱っぽくなりやすいので注意しないと。まとめ、花王はすごい。

2013-04-14

「人のために」という気持ち

「子供とか、まわりのみんなのためにホゲホゲするとかダメ」という話を興味深く読んだ。こちらの趣旨にはまったくもって賛同のうえで思うところを書くのだけど、だからといって、自分のなかに「人のために」という気持ちがわき起こったとき、そんな自分を速攻で卑しく思ったり完全否定しにかかることはないと思う。

そう思った自分を即「自分はなんて卑しい人間なんだ」と断じるようになっては息苦しいばかりだし、人がそう言うのをみて即「なんて卑しい人間なんだ」と蔑むようになるのも偏狭だ。それで、いろんな発言や活動がストップしてしまってはもったいない。

私はこれって階層構造でみている。自分の中にわく「誰かのためになること(仮説)」層の下層には必ず、「自分がやりたくてやっていること」という第一階層がある。そういう階層構造で自分の活動を捉えておければ、「人のために」という思いからとる活動も健全でいられると思う。

第一階層の自覚があれば、それが本当にその人にとって望まれることかはわからない、違ったらやり方を変えるなり踏みとどまったほうがいい、という選択肢も思い浮かびやすい。のめり込むと、途中でその構造を見失うこともあるので注意が必要だが…。いつでも全体構造に立ち返れる認識をもつことは大事だ。

あるいは、もう少し時系列的にみてもいいかもしれない。村上春樹の言葉で「世間の素晴らしい達成の85%までは、不純な動機から始まっています。」というのがある。私はこの言葉に共感する。何に動機づけられて始めるかはなんでもいいじゃないかと。結果的に人のためになる活動に結実したら、やって良かったねということになる。それは結局やってみないとわからないわけだが。

と本筋脱線も含めてだらだら書き連ねたのは、そう思わないと「人のために」と思ってしまうことがある自分がきついからで、自己正当化の文章でしかないかもしれない。けど、そういう指向の人は他にもいるんじゃないか。どうだろう。いるとしたら、同じことをこういう枠組みで捉えてみたらどうだろう、と共有したかった。で、文章に起こしてみた。

とりあえず、私は「人のために」という気持ちは、自分の認識のなかで第二階層以上に配置しておけるかぎりは健全、第一階層が見えない状態だとダメ、という仮説をもって生きてみる。結局、言い方を変えて、もとのお話と同じことを書いているだけな気もする。

研修以外の仕事

ここ最近、企業研修以外の仕事にも多くを割くようになってきた。そういう変化の風が吹いているんだなぁと。クライアントさんから相談を受けて研修を設計する仕事も引き続きやっているのだけど、最近はそれ以外のキャリアカウンセラー仕事が増えた(個人的には研修設計の仕事もキャリアカウンセラーの仕事の一環と思ってやっている)。

経営者や企業人、フリーランスなど年代も立場も志向もさまざまな方に会ってお話を伺う。そうしてWebクリエイティブ職の中長期的なキャリアについて実状を把握したり、問題や支援策の考察を深めたり。また最近いただく組織の相談も、すこし大きな枠組みで構造上の問題をとらえて解決策を検討する仕事が増えてきた。仕事領域が広がり深まりゆく風を感じながら仕事をしている。

風が吹くとともに、その領域までカバーできる人に突然変異するわけでもないので、日々の積み重ねでできることを模索しては仮説立てて実践してみるのに変わりはないのだけど、とにかく「やらなきゃ」役に立つも何もないので、せっかくの機会「やること」が大事だなと。

自分は本当にいい友人に囲まれているな、と思う。辺りを見回すとみんな、「やってる」んだよな。素敵な人ってみんな、自分で「やってる」のだ。頭動かし手を動かし、試行錯誤して、モノを作ってる、コトを動かしてる。そういう人の姿というのは、やっぱりすごくキラキラしていて、素敵だなぁと思う。こもりがちな自分からすると、ちょっとまぶしすぎるくらいだけど、遠くから壇上を眺めつつ、その姿に刺激をもらって、自分のできることを、やっていこうって思う。

今後は個人のキャリアカウンセリングもやっていけたらと思いつつ(今ちょっとやり出した)、それとは別に、業界や組織の問題を構造的にとらえて、今より良い環境づくりに貢献していけたらと思っている。って相当曖昧な書き方だけど、ざっくり言うと「働き方の多様化」に貢献するって志しになるだろうか。まぁ、こつこつ頑張る。

2013-04-06

古希タブレット

先日実家に帰って父としゃべっていたら、「最近はタブレットが売れてるんだってな」と話題に挙げてきた。「テレビでやっていた」とのこと。「でも、難しいんだろ。兄貴が、タブレット買ったけど使いこなせず置いたままになってるって言ってた」と。それで、ちょっと興味わいたのが、また薄れてしまったようだ(が、やっぱり気になる男心…。だからこそ話題に挙げてきたに違いないと読む娘心…)。

若者世代なら「でも、お高いんでしょう」というところ、シニア世代は「でも、難しいんでしょう」なのかもしれない。中流階級のシニア世代が買い物にシビアになる理由って、「高いものを買う」のが嫌なんじゃなくて、「もったいないことをする」のが嫌って感じがする。それなりの額を出して買ったのに使いこなせず放置…という「もったいない」ことを自分がするのが嫌なのだ。父の例を挙げて世代をまるっと語るのも相当乱暴だが、父はよくそういうふうに言う。

しかし、もったいないことにならなきゃ欲しい。のであれば、シニアに最適化したタブレットを作れないものだろうか。「アラサーエアコン」より「古希タブレット」のほうが需要あるんではないか。古希は70歳。

最近縁あって、60代後半から70代前半くらいの方数人とお話ししたり、シニア世代向けサービスに関わる方のお話を伺ったりしたんだけど、この中流階級・古希世代というのは、ほんと元気でエネルギッシュだ。みんながそうとは言わないが、ヨボヨボという擬態語から縁遠い人がうじゃうじゃいるように思えてならない。しかもお金があって時間もあるけど、やること不足というような。

タブレットに詳しい人が集まって(できれば古希世代も一緒に)、既存のタブレット製品を「古希タブレット」にチューニングするワークショップとかやって、それで仕上がった製品を古希世代に使ってもらって(そこら中で老人会がコミュニティ活動しているので、そこに持ち込んだらいろいろ注文つけてくれるのでは)、そこで挙がった意見をとりまとめて「古希タブレット」を商品開発して量産するところとか、ないかしら。

ってかなり単純発想だけど、すでに製造・販売されているのか。あるなら買うのだが、さくっと見たところ見当たらない。では、「古希タブレット」を脳内で勝手にイメージしてみる。やりすぎで鬱陶しい面もあるかもしれないが、それは後で直せばよいよい。

●まず電源を入れると「ホームページをみる」「メールをみる」「メニューをみる」くらいの3択ナビゲーション
●デフォルトの文字サイズが大きい
●情報検索は、キーボード入力と同等扱いで、音声認識による方法も示される。「何をお探しですか?」と声をかけてくれる。好きな方を初期設定できてもいい
●情報入手は、「自分で読む」のと同等扱いで、読み上げてくれる方法が示される。「私が読みましょうか?」と声をかけてくれて読みあげてくれる。ニュース記事とかブログ記事とか長文だと楽ちん。これも好きな方を初期設定できてもいい
●お気に入りのサイトを見つけたとき「定期購読」ボタンをタップすると、RSSリーダー「新聞アプリ」に登録されて、以降「新聞アプリ」を立ち上げると各種の更新情報を読める(登録できない静的なサイトだった場合、ブブーとエラー音がなって「お気に入りに登録しますか?」と代替案を提示してくれる
●「家族とテレビ電話」アプリもプリインストール
●「簡単アルバム」アプリも。デジカメつなぐと「保存しますか?」「する」の簡単操作で自動保存してくれるとか、アプリ立ち上げるとすぐ写真が見られるとか、メールで簡単に送れるとか
●最寄り駅の時刻表、簡単チェックとか。乗換時間が標準よりスローテンポで歩いた「ゆっくり移動時間」を選べるとか
●「健康管理」アプリがプリインストール。体重とか万歩計とか血圧とか、食生活とか、運動記録とか記録。更新が滞ると、家族のメールアドレスに連絡がいくとか(任意)
●散歩アプリ。歩きたい距離や時間を入力すると、現在位置からちょうど良い散歩コースを提案してくれるとか
●ゲームアプリ。囲碁、将棋、カードゲームなど慣れ親しんだものを中心に
●その他シニア向けSNS、アプリストア、Podcast番組一覧(寄席とか旅行とか食とか)、iTunesU生涯学習、死ぬ前に観なおしたい(笑)名作映画、名作文学などのコンテンツストア
●緊急連絡したいとき、家族、110、119番に1タッチで連絡がいくとか
●銀行の振込手続きやら買い物なども簡単にできるなら…
●セキュリティはデフォルト堅めに設定
●音声によるナビゲーション、ヘルプ機能がある
●「直接教えて」ボタンをタップすると、サポートセンターにつながって個別対応
●地域の老人会コミュニティなどに呼ぶと、タブレット勉強会講師を派遣してくれる。勉強会中は一人一台タブレット貸し出し(タブレット買う気になった人は、そこで触った製品と同じの買うのでは。即売会で割引販売してもいい)
●無線LAN設置の自宅訪問サービスもあるとよい
●街中にサポートセンターをもっていたら、希望をききながら初期設定をやってくれるのもありがたい。映画好き、本好き、買い物好きなどにあわせて専門のニュースサイトやレビューサイトをお気に入りに登録してくれたり
などなど。

で、シニア向けのWebサービスやアプリを提供する事業体を増やしていくと、ユーザーや事業主と年齢が近いことを強みに40〜50代のコンテンツ制作者層の雇用市場も活性化しないだろうか、という一石二鳥な目論みなのだが…。シニア層の仕事をつくる、その年輪こそが強みになる仕事を増やしていくことが重要だと考える今日この頃。

なんてことを妄想しつつ、とりあえず素人なりにできるかぎりのチューニングをして父にタブレットをプレゼントしてみようかなぁと思っている。妄想は大きく、やることは細々ぃ。

2013-04-02

機械と競争して家族が拡張する

週末、実家近くの大型スーパー(イオン)に立ち寄ったら、レジの半分が「セルフレジ」に変わっていた。半分は人力レジのままなんだけど、半分(10コくらい)は客が自分でカゴの中の商品をかざして機械にバーコードを読み取らせてお会計するスタイルになっていた。

せっかくなのでセルフレジに挑戦してみたら、いとも簡単にできてしまって、またびっくり(私は機械音痴だ)。銀行のATMみたいに、画面と声のナレーションで操作をナビゲートしてくれるんだけど、いやぁ、わかりやすい。さっさとできて待ち時間もない。

父に訊いたら、他のイオンの店鋪でもセルフレジが導入されているのを見かけたとか。こういうのは郊外のほうが進みが早いのかもしれない。まぁ、すでにそこら中でデジタル・オートメーション化は進んでいるわけだけど、あぁついにここまで来たか、という感じ。

ちょうど「機械との競争」を読んだばかりで、この一節が脳裏によみがえる。

未来のいつかの時点で、それは数年先かもしれないし数十年先かもしれないが、ともかくいつかの時点で、"平均的な"人間の大多数が従事している仕事を機械がこなせるようになるだろう。そしてこの人たちは、新たな職を見つけることはできまい

最後の一言がまた、ひどいのなんの…。本文中で引用されていたマーティン・フォード「トンネルの先の灯り」(未邦訳)より、テクノロジーが人手を駆逐する雇用喪失説。

「機械との競争」は米国の本の翻訳なんだけど、著者いわく。

アメリカではここ数十年を振り返って、技術の進歩も富の創造も停滞していない。ただ、国民の所得が伸びているのは「平均値」で、「中央値」で見ると停滞している。つまり、富の分配が偏っていて、儲けているのはごく一部、あとはさっぱりの状態。ざっくり言って、ここ30年くらいで富が増えたのはアメリカの2割の世帯、残り8割の世帯の富は減っている。労働の対価だけでなく、雇用の数(求人数)も低迷しているという話。

ものすごいアメリカアメリカした本で(個人的イメージ)、データを挙げて、どこそこの経済学者はこう言っていた、どこそこの経営者はこう言っていたと扇情的な物言いが続くので、「まぁそういう事象の見方もできる」という偏った部分もあるかもしれないけれど、とりあえず著者はさまざまな根拠を示してこう説く。

端的に言って、中間層の労働者はテクノロジーとの競争に負けつつある。

さて、どうしよう。というときに、こちらも最近読んだばかりの「評価と贈与の経済学」の対談が頭に浮かぶ。人の話のつぎはぎでなんだが、思い浮かんじゃったんだからしょうがない。

この本の中で内田樹さんと岡田斗司夫さんは「拡張型家族」を提案している。これは、機械との競争って文脈ではなく、少子・高齢化など受けて日本社会全体がゆっくり勢いを失っていくことを背景に語られている内容なのだけど。

拡張型家族というのは、もう一回、大正時代のように「一人が働いて数十人を食わせる体制」に戻ったらいいんですよ、という提案。

アメリカと同じように日本も、ごく一部の人はより高い報酬で稼ぎをあげ、そうでない平均的な人は徐々に職を失っていくという二極化を想定すると、旦那様が一家を構えて数十人を養うってモデルはなるほど合理的な感じがしてくる。

役割や立場には名前を与えると市民権を得られるマジックが働いたりするので、昔でいうところの「執事」「女中」「書生」「居候」に変わるような、養われる立場の現代風名を用意したらどうか。

大所帯で住むとなると、世帯のシステム管理者がいるとありがたいし、その土地の文化を理解して近所の人とうまいことやってくれたり、役所手続きをやってくれたり、さまざまな家事をひとまとめにやってくれたり、奥さんの育児を手伝ってくれたり、多言語・文化に堪能で教えてくれたり通訳してくれたり、普段何もしないんだけど顔の広い人で必要なときにはコネが使いたい放題とか、基本的にだるいだるい言っているんだけど気は優しく頭のいい人で、相談するといろいろためになることを教えてくれるとか。何か狭く偏ったところで優れた知識・技能・技術をもっている人だとか。とにかく強面だとか、手先が器用だとか、体が強いだとか。

もちろん全部が拡張型家族に移行するっていうんじゃなくて、1割とかの話かもしれないが。移行じゃなくて、ある程度市民権を得た生き方の選択肢が増えるという感じ。「より豊かな社会」っていうのは、「より多くの選択肢から、より自分好みの解を自由に選べる社会」って考えると、社会に負い目を感じることなく選べる選択肢が増えるのは豊かさの追求ってことになるかなぁと。

大人になったら全員働くっていうのが基本で、それにもれると大変に後ろめたい思いをしなくてはならないっていうんではなくて(就活の失敗を苦に…みたいな)、市民権を得たいろいろな選択肢から一つ「拡張型家族で養われる」というスタイルを選べるっていうのは、ありなのかもしれないなぁと、もやもや考えた。今は「商業的な舞台で仕事ができる=名誉と稼ぎがある=人として優秀」みたいな見方に偏りすぎている気もする。もう少しゆるふわでもいいのかもなぁと。

あと、こうした拡張型家族の中で養われる中で、少しずつ実際的な役割というのをもって、役割を果たすことのやりがいを実感する機会を得て、そこからもう少し広い社会の中で役割を担って働きたいという気持ちが導出されることもあるかなぁと。そのほうが健全かもなーとも。

とりあえず、こんな感じでもやもやしているときは、下手に体系化して結論づけようとするより、多様化・個別化に向かったほうがいいんだろう。まとめられない話はまとめない、ということで、このまま終わる。

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