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2013-02-24

酷評を読む

ある小説を読んだら、ぼろぼろ涙が落っこちてきた。泣きやすい本というのは、ある。映画にも、音楽にもあるように。心をわかりやすく揺さぶる作品。一方で、涙はこぼれないけど、静かに心に染み入る作品というのもある。泣ければ泣けただけ、よい作品というわけではない。涙の量と作品の評価に相関はないと考えている。けれど、とにもかくにも、今日読んだ本にはぼろぼろ泣いた。

読み終えた後、その本のAmazonのレビューをみてみた。他の人は、どんなふうに感じて読んだのだろう。けっこう派手な帯で平積みされていたから、レビューはそこそこついているはずだ。レビューをみにいく前に本の帯を改めてみてみたら、この本「LINE」で展開された連載小説の書籍化だった。位置づけ的にはケータイ小説に近いってことか。レビューがどんなふうか、なんとなくイメージが浮かぶ。読むの遅い私が、昼に買ってその日の夕方に読み終えたくらい、すぐ読めてわかりやすい本だったし、登場人物に「チャラい」のが出てくるし、その割りに扱っているのは生と死の重厚なテーマだし。これは…

予想どおり、Amazonのレビューには玄人読書家たちの酷評が連なっていた。ケータイ小説が出てきたときによく耳にした、薄っぺらい、深みがない、安っぽい、稚拙、語彙が貧弱、心理描写が浅い、リアリティがない、あの作家を意識している表現だが上っ面をなぞっているだけって感じがする、ゆえに説得力がない、感情移入できなかった…云々。

ぼろぼろ泣かされた後で、兄さま姉さまがたの酷評を読むと、その本に泣いた自分が薄っぺらい、深みがない、安っぽい、稚拙、上っ面しかみえずに生きている重厚感のない人間…と言われているようで、心にひゅるりーと北風吹く思いがするものである。

私はこういうとき、何をー!と息巻くタチでない。逆に、そうした無意識の反発に心奪われて真実を見逃すことがないよう細心の注意を払う。この玄人読者の声をいかに正面から自分の等身大で受け止めるかに意識を集中する。本当に大事なことは、どこにあるのだろうかと。

反発するのとは別に、玄人読者層に同調する逃げ道もある。玄人層の酷評をあびているものを指差して、自分もわかったふうに酷評する、それはそれでたやすいことだ。先人たちの言葉をなぞって、薄っぺらい、深みがない、安っぽい…と書き連ねれば、見ための玄人化は一丁あがりなのだ。

そして気を抜くと、人間の無意識は意識をそちらに引きずり込もうとする、そんな恐怖が私にはある。だからそっちにも行かないよう、無意識の勝手を注意深く監視する。「これを酷いと思わない自分は低レベルの人間なんじゃないか」という不安から逃れようとしたり、「自分は皆と同じ、この作品を酷評できる程度に玄人のはず」と信じようとしたりして、一所懸命だめな作品だと思い込もうとする無意識に気持ちをもっていかれないように。

そんな偽物の安心を、私は欲しない。自分が、自他の偽物の感情に人一倍アレルギー反応を生じやすい体質なのは、いい加減よくわかっている。ならば、そういうものは最初から持たないのが一番健康にいいのだ。

そんなわけで、無意識の勝手に振り回されないよう先手を打つ。この玄人層に比べれば、自分の見えているもの、知っていることというのは、ずいぶんと薄っぺらいものなんだろうなぁと受け入れてしんみりする。ひゅるりーと北風をあびる。早々に意識がしんみりモードに突入していると、無意識はもう手を出さない。遅かったか…と、あっさりその場を後にするのだ。

ここから。過剰にしんみりしていても、それはそれで真実を取り逃してしまう。弱者・被害者思考に陥るのも健全ではないので、慎重に、手探りで、行き過ぎないように、無意識の勝手から解放されたところで腰をおちつけて、抵抗の加減を探りだす。

実は、玄人氏が言うように私にとっても、その本で書かれていることの多くは、新しい気づきを得るものではなかった。そういう意味では、若い人向けの本ということは言えるかもしれない。けれど、私に関していえば「すでに見知った感覚にしか触れられていない小説に、読む価値はない」なんてことはない。

大事なこと、大事にしたいことは、日々私の中に積み重なっていく。すると先に手にしたことが、少しずつ心の底のほうに沈んでいってしまう。意識の上辺から遠のいていってしまう。それを時々、意識の上辺に持ち上げてきて、うん、ほんとこれは大切なことだよなって、見知った感覚を思い返す、そういう再確認の機会も大切なのだ。すぐ読めて、すでに見知った感覚をわかりやすく浮かび上がらせてくれるというのも、それはそれで一つの尊さだ。

世の中には、いろんな価値をもつもの、いろんな意味をもつものがある。あるところ、あるとき、ある人から見れば、ほとんど意味がないように思えることも、あるところ、あるとき、ある人から見れば、尊い価値をもつものだ。人の創り出した作品も、もちろん人間そのものも、そんなたやすく、どこかの誰かがある時点でつくった評価指標で決定的に裁けるものではない。

だから、開放された目で自分の中に起こるものを愉しまねばもったいない。私は、作品を評価するために本を読んでいるのではないのだ。読んで、自分が豊かになれたなら、それでいいじゃないか。たとえ、それがどっからどうみても駄作でも、その中の何かをきっかけに自分の内側から何かが引き出されたなら、それもまた素敵なことなのだ。自分の内側の豊かさこそ、作品の評価と相関するのではないかとも思う(それだけじゃないが)。その掛け合わさる豊かさを存分に享受して、作り手に素直に「ありがとう」って感謝したらいいのだ。

2013-02-23

「口コミ0件」

朝、鏡を見たら目がはれぼったくなっていたので、目医者さんに行くことにした。目のはれはさほどひどいものではなかったのだが、別件の用もあったので、これは目医者に行きなさいという神のお告げだと思ったのだ。

Googleで「最寄駅名 眼科」で検索をすると、上位に来るのは病院情報をまとめたポータルサイトあれこれ。検索結果の1ページ目にあるリンクを、新規タブで上からざざっと開いていって順番にページを見てみる。ポータルサイトも各種あるようだし、隣駅含めると10数件の眼科が近所にあるようだ。

最近は便利になったものだよなぁ、近所の病院を口コミつきで情報検索できるようになったのだから。全部に口コミ情報がついているわけでもないだろうけど、どこかしらのサイトで良い口コミがついているのをピックアップすればいいだろう。

と思って見ていったら、あっけなく全滅した。どのサイトのどの眼科も口コミついていないじゃないか…。いや、もう入れ物はいいんだ。プラットフォームはもう十分数が足りているんだ。中身が欲しいんだ、中身が。というサービスは、病院情報に限らずけっこうあるんじゃなかろうか。

病院名に診察曜日と時間帯、所在地、駅からの距離、地図、電話番号といった基本情報は一通り入っている。もちろん、それはそれでありがたい。が、どのポータルサイトにもそれはある。欲しいのは口コミ情報だ。今なら口コミ件数をあげるだけで他との圧倒的な差別化になるんじゃ…。

口コミサイトで「口コミ0件」「0件の口コミがあります」って、総菜屋で総菜なしの容器陳列しているようなものではないか。いやさ、総菜屋は店員さんが総菜入れるからいいけど、口コミサイトはユーザーに口コミ入れてもらわないといけないから大変なのよ。そりゃーそうかもしれないが、口コミ件数集めて、中身のある口コミ書かせる仕組み含めてのプラットフォームじゃないか。押し合いへし合い。

君は仕組み作る側じゃないから簡単に言えるのさ。でも、それわかっててプラットフォーム屋選んだんだろ。それが大変だっていうんだったら、自分たちで総菜作ってつめるメディアサイトやったら良かったじゃないか。編集力や取材力もって自分たちでコンテンツ作って、そこの品質をあげていく。それはそれで大変だけど一つのやり方だ。どちらにせよ、入れ物はもう十分、中身が足りない時代に来てんだよ。なんだ、わかったような口きいて、この素人が。押し合いへし合い。

というわけで、結局とある眼科の公式サイトにとんで、建物の写真の清潔感と、家から徒歩で行ける立地で決めました。町医者感がなかなか良かったです。

2013-02-21

人をみる

小説を読み進めていると、登場人物の人格がなかなか定まらないなぁと思うことがある。いつまでも一人格のジグソーパズルが完成しない感じ。ピースが、左上のほうでひとかたまり、右下のほうでひとかたまりと分断されていって、一枚絵としてはどちらかというと散らかっていくばかりのように感じられる。

それで、これは登場人物の描き方が不自然だとかリアリティがないだとか一刀両断するのはたやすいのだけど、実際のところ人間というのは一個人の中に多様な顔をもっているものだし、見た目と中身もそう一貫性があるわけでもない。そう考えると次第に、このしっくりおさまらない感じをもってリアリティがないという結論づけこそ、おかしい感じがしてくる。

一貫性を求めている自分が、ステレオタイプなものの見方にはまっているだけじゃないか。一個人の中がごった煮に感じられるほうがよっぽどリアルじゃないか。「人格に立体感がある」と言い換えれば、なるほどという感じもしてくるではないか。

なんてことを脳内で議論して、結局は与えられるままに登場人物の印象をひろげながら読み進めていくことになるのだが、人の印象をこれと定めて見切りをつけず、いつまでも変えられるようにずっと開放させておくのは、現実世界でもやっていることだなぁと思い至る。

ものをみるときには、ある時点で見切りをつけてコトを次に進めようとする性向が、けっこうあるような気がするんだけど、人をみることに関してはまったく別物扱いになっている感がある。だって人間だもんな、というだいぶ本能的なところで。

中村勇吾さんが、今六本木ミッドタウンでやっている「デザインあ」展でこどもたちへ送っている「みるのはわたし」。これを読んだとき、私は「人をみる」ことをもっと深く楽しんで、もっと豊かにしていけたらいいな、と読みかえて味わった。私には「ものをみる」センスが呆れるほど無いのだけど、「人」のことなら、わたしだけの目で「みる」ことができるんじゃないかって気がしている。

何をどうみるかは、自分が全部決めている。ほんと、そうなのだ。どこで見切りをつけて、どこを開放しておくか。何を気にとめて、何をスルーするか。気にとめたものをどこからどういう角度でみるか。近づいたり離れてみたり、方角を変えたり姿勢を変えてみたりして、どれだけ熱心に、どれだけ広い視野で、どれだけ深くみられるか。自分の意思と度量で、いくらでも変わる。豊かな目で人をみて、明るいところに焦点をあわせて、なにかをつくっていけたらいいよな、そう思う。

2013-02-18

共感と違和感と

昨日書いた神保町の散策では、紀伊国屋書店がやっている「ほんのまくらフェア全国版」にのって3冊ほど文庫本を買ってきた。

「ほんのまくらフェア全国版」というのは、紀伊国屋書店が全国12店鋪で展開している本の闇鍋みたいなフェアだ。彼らが選書した数十冊の文庫本のカバーに、その本の書き出し(まくら)だけが記された独自のカバーが被せてあり、それをビニールでくるんだものがフェアの棚に並んでいる。買い手はカバーに書かれた「まくら」だけを頼りに本を買う。買った後でビニールをといて、自分が何の本を買ったのかを知るのだ。

これは「偶発的な本との出会い」の具現化として最たるアプローチではないかと思い、のってみた。のだが、そうやって手に入れたものが都合よく「あら、不思議。私の好みにぴったしかんかん!」となるわけでは勿論ない。でも、それでいいんだと思う。

放っておくと期待感というのは、無意識に「私が共感できるもの」に向かっていってしまうものかもしれないが、ソーシャルなんちゃらなこのご時世に、これ以上「私が共感できるもの」を追い求めることもあるまい。

確かに「共感できるもの」との出会いやふれあいは心地よい。100%それで満たされたら、その瞬間からしばらくは極楽かもしれない。が、人間ってどちらかというと、物事への違和感や不一致感によって己を知る生き物だと思うし、そういう環境下でこそ集団の中で己を生かせる生き物なんだと思う。

違和感や不一致、異臭や不協和音は、自分が嫌いなもの、苦手なもの、無関心なもの、未知のものを教えてくれる。すると自然、自分が好きなもの、守りたいもの、育てたいもの、取り入れたいものにも気づく。自分が周りの人とどう違うか、ならばどんなふうにお互いの違いを生かしたら有意義だろうかと考える機会を与えてくれる。同じものの中では、自分の固有性はうずもれてしまうばかりだ。見つけようもないし、生かしようもない。

似ている、共通している、共有できる、共感するって感覚は、やさしいし、あたたかいけれど、度を越すと生やさしかったり、生あたたかくもあって、あんまりつかりすぎるのも怖い。自分のこと、相手のことを、もっとよく見えるところに出て行ってお互いを生かし合えるなら、その風に触れていたい。

といって、共感ゼロのところに身をおくのもさすがにつらいわけで…。とすると、自分の身をおく環境っていうのは、共感と違和感のバランスがどれくらいのさじ加減になっているとちょうどいいんだろうなぁ、というのを考えていた。

どんな比率が好ましいかには個人差があると思うけど、どっちが多いにせよ、8:2までいくと結構バランス悪いんじゃないかしら。5:5か、多少どちらかを多めに偏らせるとしても6:4か、7:3までかなとか。8:2は、けっこう「ぬるすぎる」か「きつすぎる」んじゃないかなぁとか。とりあえず、共感できるものに囲まれて過ごす「10:0」を目指していくのは、極端にすぎるかなぁという印象だ。

というわけで今、私の手元には宗教性と生と死とボーイズラブが複雑に絡み合った、ドイツの上流階級の男子学園もの漫画がある(昨日読み切った)。確かにこりゃ自分じゃ買わんな…。文庫サイズの漫画本も含まれていたとは、予想外だった。

2013-02-17

つなぐ仕事

土曜日、昼過ぎから御茶の水で予定があったので、少し早めに家を出て神保町を散策した。地下鉄の神保町駅から地上にあがってきて、駿河台下の三省堂書店のほうへ裏通りを行く。人の歩くテンポがゆったりしていて、それが誰の迷惑にもなっていないふうが心地よい。建ち並ぶ小さな本屋の店先で、各々興味をひかれるままに足を止めては本を拾い上げ物色している。

最近は、何か目当てのものがあって本屋に行くということがなくなった。目当てのものはたいていAmazonで買ってしまう。本屋には、目当てをもたずに行く。棚と棚の間を下向きかげんにうろうろし、ピンと来たものを買う。私がよく買うのは小説の類いだが、ジャケ買いならぬ表紙買い、帯買いをよくするようになった。

見るものは、平積みされているものにほぼ限定される。残された人生の時間と、私の読むスピードを考慮するに、平積みされているものだけでも、それを全部読むことはまず無理だ。そして新しい本は次々に出てくる。棚に並んでいる背表紙の本を手にとる余地はない。

だから割り切って、私より書物に造詣の深いその店の書店員さんが「これお薦め」という意図をもって平積み配置しているものに焦点をしぼる。そこから、表紙、帯、POP広告など見て、ピンと来たものを買って帰る。

なんだかワクワクしていろいろ買いたくなるときと、そうでないときとある。それが私とその本屋の相性によるものなのか、本屋の優秀さや匠の技によるものなのか、私個人のそのときの状態が影響しているのかは、まだいまいちわかっていない。

ともかく、ここ数年で私にとっての本屋は、偶発的な本との出会いの場として役割を確立しつつある。今の自分は知らないけど、知ればとても素敵な世界、あるいは知るべき世界がある。そういう前提認識が、私を本屋にいざなう。

この認識は私がとても大事にしているものだ。自分の見えていない広大で深遠な世界が、途方に暮れるほど果てしなく残されていることをわきまえて最期まで生きていきたい。物事への思慮深さと、他者の仕事への敬意を持ちつづけて生涯を終えたい。

そんなわけで、本屋さんに行くと、本屋さんの薦めるもの、つまり平積みされている本に、とても素直に注意を向ける。そして、表紙や帯文、POP広告などを見て、著者と読者を仲立ちする出版社や書店の人の専門性に、存分に自分の身をゆだねる。生産者と消費者をつなぐ仕事に敬意をもち、信頼をもち、本を買う。曖昧な期待感をもって本屋さんに行く。それが最近は、とくに愉しい。

2013-02-12

郊外スケッチ

母の三回忌を終え、翌日の日曜の朝、父と妹と私で実家近くの天然温泉施設に行った。父と妹が連れ立って行くのをいつもは見送っていたのだが、今回は流れで一緒に行くことになった。

最近の郊外には、街道沿いに朝早くからやっているパン屋さんがあるらしく、そこでパンを買ってテラスで朝食をとるって家族の過ごし方があるらしい。パン屋さんはそうしたお客さんにセルフサービスで無料コーヒーをふるまう。そこで朝食をとろうというので着いていき、そのままお風呂にも着いていくことに。そんなわけで実に四半世紀ぶりに、妹と一緒にお風呂に入った…。

郊外には最近、こうした「○○の湯」っぽいものも点在しているようだ。佇まいに仰々しさはなく、ちょっと大きい銭湯かと思いきや、中身の充実っぷりはなかなかのもので、これまた街道沿いにいきなりポンとある。

中は大浴場のほか、ジェットバス、サウナにミストサウナ、露天風呂も岩風呂・樽風呂といくつか種類があって、ちょっとしたアミューズメント施設になっている。2階が一帯風呂フロアになっていて、1階は受付のほか、数台のマッサージ機、気合いはないが混雑もない食事処なんかがある。全体的に力の抜けた庶民的風情で、お客さんは半径10km圏内に住む人という感じ。みんな適当な格好をして、タオル片手に車でやってくるようだ。

食事処、脱衣所、サウナの中まで、これでもか!というくらい至る所にテレビがあったのも印象に残る。日曜お昼のバラエティ番組は、ウナギを食べて有名人が口々に「うまい」というもので、20年前と何ら変わっていなかった気がするが、20年前は近隣の人と集って裸でテレビを観ることもなかっただろうから、観る側の環境が変わったということで、新鮮さはあるかもしれない。

この施設のメインのお客さんは、なんといっても60〜70代だ。父も会員になっており、最近お風呂といえばジムか、ここのお風呂。家のお風呂は長いこと使っていないらしい。

大浴場にはこの世代の女性たちが10数人、輪になって湯につかっており、私がいる間ずっとずっとそこを動かなかった。ほんのり顔の赤いはだかんぼが、輪をつくってのんびり湯につかっている。これを向かいのジェットバスにつかって見るともなく眺めていると、猿の集団を連想せずにはいられない。

失礼な!と思うかもしれないけど、この連想を途中で食い止められる日本人などいくらもいないだろう。隣のジェットバスに妹がやってきたので、「ありゃ、猿の集団だねぇ」とつぶやいたら、「だよねぇ、私もここに来るといつもそう思う」と言っていた。大方の人が、そう思いながら湯につかっているのではないか。

皆なにやらおしゃべりをしているが、内容まではわからない。ただ表情は柔らかく、重たい議論をしているわけではなさそうだ。10数人の集団が形成されれば、きまってボスオーラを放つ人が浮かび上がるもので、あぁこの大浴場に足を踏み入れるなら、彼女に挨拶してからのほうが良さそうだなと野生の直感が働く(入らなかったけど)。

ジェットバスの後は露天風呂のほうに出て、ひとり用の樽風呂につかって快晴の空をぽかーんと眺めていた。すると、遠くのほうを小さな飛行機がゆっくり縦断していくのが見えて、あぁ、あっちから見たら、私は樽につかった猿だなぁと思った。

2013-02-10

自分の素

しばらく迷子のようになっていたんだけど、今日、なんだかすっきりして、自分の立っているところ、向かっている先を取り戻したような気がする。とても抽象的な位置と方角だから、またいつ迷子になるかわからないけれど、とにかく良かった。

どうありたいのか、どういきたいのか、ものすごく素の自分に立ち帰れた気がする。自分の素の状態のことなんだから、すっといつでもそこに立ち帰れればいいのに、なかなかそうもいかないのはなんでなんだろうな。なんか知らないけど、ふと迷子になっちゃったりする。で、しばらく、何やってるんだろうなぁ、自分は…という状態で時間をやり過ごす。

文章も書けないし、書いても血の通っていない文章にしかならず、それを読んで改めて、何やってるんだろうなぁ、自分は…と思う。自分がそういう状態に陥っていることを自覚する意味では、その文章を書くことにも意味を見いだせるのだけど(むなしい)。

すごく当たり前の、自分の素の状態に帰ればいいだけなのに、それが結構難しいときがある。自分の素の声が、周波数があわなくて聴こえなくなっちゃう感じ。それって、そのことを自覚できたからといって治せるわけでもなくて、結局、なんだかすっきりする一日を待つほかなかったりするんだけど。

それが今日やってきて、ほっとした。あぁ、そうだ、これだ、これだ。なんで、こんな当たり前のことわからなくなっていたんだろう、と。やっと帰ってこられた。すごく単純な、自分の素に戻ってこられた。でも、わかった状態はスタート地点。これを体現して生きていくことこそ大事なのであり、また大変なのだ。これから、これからである。

2013-02-09

母の三回忌の挨拶

亡くなってから1年後に一周忌があるのはわかりやすいが、その1年後に三回忌があるのは、なかなかわかりづらい。○周忌は○年目が終わるときに執り行われ、○回忌は○年目が始まるときに執り行われるので、一周忌の1年後には三回忌がやってくる。

今日は母の三回忌だった。あれから2年。

法要とお墓参りを終えて、お斎(おとき)の時間。皆で談笑しながら食事を終えると、父が「たまには長女が締めに挨拶したらどうだ」と言い出した。酔っぱらいの思いつきだ、無茶ぶりだ。が、これまでずっと挨拶は父と兄に任せてきたので、一度くらい自分の思いを話してみるのも良い機会かと思い、20人ほどの親戚を前に話をさせてもらった。

2年という時間の力は相当なものだなと思います。ちょうど2年前はひたすら悲しみに暮れていて、それから半年したくらいの時期は、悲しみが薄れていくのが悔しくて、それが悲しくて泣いていました。それが今は、そういう悲しみや悔しさを覚える気配もなく、落ちついた母との関係がここにあるように思います。近づくことも、ないのだろうけれど、これ以上離れることもない、穏やかな関係になったのかなと。

今もちょくちょく母のことを思い出します。彼女は本当に凛とした女性で、言葉を大切にする人で、言うべきだと思うことはしっかり言うし、言わないほうが人に優しいと思うときには、安易に言葉にせず、言わないという選択をする人でした。私はこの先も、折にふれ母のことを思い出し、そんな母のように生きていきたいと思います。皆さんも、今後も、折にふれ母のことを思い出してくださったら嬉しいです。

そんな話をした。みんなすごく素敵な表情で話を聴いてくださったのが印象的で、あぁ、なんか、良い機会をいただいたな、と思った。お天気も晴れて、良かった。

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