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2012-11-28

想定外を想定内に

「利用されている感じがする」を読んで、ぐっとくる。

人間は十把一絡げにされることを嫌う。「何々とはこういうものだ」とくくられると、自分がくくられた側にいる場合、嫌悪や反発を覚える。なんて、これもまた「十把一絡げにもの言ってる」と言えなくもないのだが…。

この嫌悪感はどこから来るのだろうと考えてみる。私は十把一絡げにとらえられるものじゃない!という認識が、生まれもってそれぞれの根底にあるのだろうか。これまで出会ってきた人は実に多様であったし、自分もまた多様なうちの一つだと感じるし、一緒くたに見るなんて粗雑で不当な扱いだと経験が語るのだろうか。

自分のことはそう思っているのに、人のことは十把一絡げにどうにかしよう、どうにかできると思ってしまうのは、浅はかなことだ。

それでも、ある局面では十把一絡げにものを考えなきゃいけないときがある。ターゲットがどういう特徴をもつ人たちで、それに対応させると、こういうプロダクトがいいのではないか、こういうコミュニケーションを働きかけていくのがいいのではないか。

そんなふうに、仕事場面ではある特定のターゲットの特徴を洗い出して、ある意味十把一絡げに人を語る。そこにきちんと、絞り込んだターゲット向けの価値が生まれれば、それは狙いどおり、とても有意義なことだ。

だから、それが仕事場面のものの考え方として普及しているのはもっともだし、私も学習者をとらえるときには存分に活用している。とすると、そうしたデザインをするときに大事なのは、十把一絡げに人を語りながら、「その人たちのことを決して言いきれていない」という自覚を頭においておくことなんだろうな、と思う。

言葉の力は強いので、「ターゲットはこういう人たちです」と表現してしまうと、頭の中でそういう人に単純化されていく。さらに、関係者間で認識をあわせようとターゲット像を語り合っていくと、ターゲットの「そうではないところ」がどんどん死角に入りやすいんだと思う。

死角に入れて単純化することには、もちろんプラス面もある。そのプラス面を活かしたさまざまなアプローチが、有効なデザイン手法として各所で語られているのだと思う。でも、あらゆることにはプラス面とマイナス面がある。マイナス面も頭においてプラス面を活かすのが本当だ。

「言いきれていない」という認識が片隅にあるかないかで、デザインの仕上がりってだいぶ違う気がする。相手が、一つの刺激を受けて多様な反応を示すということ。共感することもあれば、反発心を覚えることもあること。すでにもっている知識や経験と関連づけて、自分の想定外のことに思いをはせたり、行動につなげることもあること。いろんな発想があって、いろんな創造につながりうること。そういう能力をもった人間を相手にしているという当たり前のこと。

決して、何も独自の加工をせず、こちらが与えたものをそのまま取り込んで、こちらの想定どおり反応するわけじゃないという前提をもって設計したい。相手先に届いて、その手元で広がる可能性の世界まで視野に入れて設計したい。

相手が刺激を受け取り、自分の中で独自の解釈をして、こちらの想定外に発展させることを想定内に含める、というのは、ものすごく大事なことだと思う。そういう相手に対する敬重が前提にあれば、「利用されている感じがする」は少なくとも軽減できるのではないか。

クライアントの事業上の目的を達成するために「ターゲットをどう利用するか」という視座に立っていないか。クライアントの経営理念や社会的ミッションを見上げて「ターゲットの生活をいかに豊かにするか」という視座に立てているか。私は私なりに、いつも学習者の可能性の世界を大事にして設計をしていきたいと思う。

2012-11-27

全体をまるっとみる

小林秀雄さんの講演録「文学の雑感」をiPhoneに入れて、会社帰りの電車の中なんかでときどき聞いている。なんともいえない、おいちゃん語りがなかなか味わい深くてよいのだが、好きな話の一つに「クスリについて」というのがある。

お知り合いに武田製薬の研究所所長を務めていらした方がいて、その方から聞いたという話を語る。漢方にも科学にも通じた方だったそう。ざっと、こんなお話だ。

にんじんは昔、おなかの薬だった。いろんなものに効くから今じゃ万能薬になっちゃったけど、もともとはおなかの薬だった。おなかがくだったときは、にんじんをのむと止まった。便秘のときも、にんじんをのむと通じがついた。両方に効く、大変便利な薬だった。

にんじんを分析すると、くだりを止めるエレメントも、通じをつかすエレメントも、きちんと出てくる。それを、今のやり方だと、にんじんの中にある2つのエレメントを抽出して、あとは何にも効かないからって捨てちゃうんだ。そして、抽出したエレメントをそれぞれ丸薬に混ぜて、下痢止めと便秘薬をつくる。

昔はそうじゃなくて、おなかが痛くなると、一つでのませていたんだ。どっちのエレメントを選択するか、決めるのは誰か。僕らの体だ。おなかがくだったとき、止めた方がいいかもしれないし、自然現象なんだからそのままにしておいた方がいいかもしれない。どっちのエレメントをとった方が僕の体に有効か、それは体が判断した。

現代は、その判断をとっちゃったんだ。効かないといって捨てた中に、僕らを選択させるなんらかのエレメントがあるに違いない。

こうした説を熱っぽく語るのを、耳をすまして聞く。そして思う。私たちは何ごとかを捉えるとき、特徴的な、明示的なエレメントというのを抽出する。あとは捨てる、あるいは見ない、注目しない、気にとめない。そういう態度を当たり前のものにして、どんどんそちらに傾斜していっていないか。

何かを理解したり評価する方法には、確かに「要素を分解して一つひとつのエレメントを仔細に調べる」ということがあると思う。けれど、その主要エレメントを一通り理解したら、その総体は理解しきれたことになるだろうか。そう考えると、どうも抜け落ちたものがある気がしてならない。

何か大事なものを、いろんなところで見落としていっているのではないか。要素と要素をつないでいるもの、要素と要素の間に好循環をもたらしているもの、今この事案でどちらの要素を使うべきかを判断して送り出しているもの、今は控えるべき要素を判断して留まらせているもの、これという名前をもたぬまま総体を総体として成り立たせているもの。

そういうのって、たぶん、組織やチームのなかのメンバー構成にもあるんだろうし、○○職に必要な能力みたいな考え方にも言えるんだろうなぁと思う。特徴的で、明示的な職種名をもっているわけではないけれど、その組織にいつも好循環をもたらしている人というのは各所にいるものだ。

「社会人としての基礎的能力」とか、「○○職に必須の○○力10選」みたいなものも、それをエレメントとして一通りものにしたら一丁上がりなのかっていうと、どうもそうでもなさそうではないか。

なんでなんだろうってきな臭さの原因をあたってみると、それって「工場のものづくり」発想だからだなぁって思った。人の深淵さを思うと、いやぁ、そういうんじゃ、造れないんじゃないの?と思ってしまう。どこかで破綻して、肝心なときにこそぶっ壊れる危うさがある。果たしてそうなったとき、部品の入れ替えで対応しうるのか。

構成要素を分解してみたらゴツゴツしているけれど、総体として捉えるとすこぶるバランスがよいことってある。そういう価値を認められる力をもっているのが、人間だとも思う。そういう人が集団を形成して人数以上の力を発揮できるのが、人間だとも思う。せっかくそんな力をもっているんだから、もっと総体としてとらえるってことも、意識のなかにバランスよく取り入れたほうが、豊かになれる気がする。

というか、そもそも総体としてみるのが基本にあって、それをより深く知って伸ばしたり活用するために、一時的に要素分解して捉える必要が生まれたのではなかったのか。

社会生活を営む上で、あるいはある組織に属したり、ある仕事に携わるのに最低限押さえたいスペックというのは、それはそれであるだろう。けれど、放っておくとだんだん、すべての要素、あるいは自分の強い要素にばかり偏って、人に高スペックを望みはじめたりする。

個人をみるときも、集団をみるときも、全体を見つめることを大事にしたい。解体したら、もとに戻す。もとに戻して、全体が見られるところまで戻っていって、そこから全体をまるっと眺めてみる。たぶん、そこにはエレメント単体の善し悪しだけでははかりしれない力学が働いていると思う。その総体としての価値や魅力や可能性を感じ取ったり、考えたりする時間と空間と、心の余裕をもっていたい。

2012-11-23

受け手がコンテンツをリニア化する時代

田端信太郎さんの「MEDIA MAKERS」を読んでいる。田端さんはTwitterやFacebook、ブログなどの情報発信や論考を通じて一方的に存じ上げる方だが、私のなかでは「当代随一の真正なメディア業界人」という印象。メディア業界での第一線の経験を伴って、これほど現代のメディア変化について本質的なことを分かりやすく腑に落ちるように伝えられる人はいないのではないか。

私はメディア業界人ではないし、この個人ブログも本の中で定義されているメディアの位置づけとは趣を異にするので、メディアの発信者という立場ではない。が、この時代に生きるメディアの1受信者として思ったことを書き留める。

本の中に、コンテンツのノンリニア化に関する言及がある。まずリニアなコンテンツって何かというと、「初めから終わりまで一直線に連続した形で見てもらえることを想定したコンテンツのこと」とある。代表例に「映画」や「長編小説」を挙げている。で、その反対の「ノンリニア化」が進んでいるという話。本のもとになった記事がここにあるので良かったら(アドタイの記事へ)。

田端さんは、デジタル化やスマホ化、ソーシャル化の進展が、コンテンツのあり方を「ノンリニア」さらには「マイクロ・コンテンツ化」のほうへと変える「引力」が働いていると言う。抗いようのない時代の力のようなものを「引力」として表したところにうなる。そして確かに、私たちはデジタル化やスマホ化、ソーシャル化によって情報・コンテンツを細切れに摂取するようになっているという実感がある。

で、受け手である私は思うのだ。私たちは「ノンリニア化」の引力が働く時代に生きている。が、その時代性よりももっと根源的なところで、人間は時間軸にのっかって一方向に進む「リニアな世界観」の中に生きている。という枠組みでとらえると、私たちは日々摂取するコンテンツを、それがリニアであろうとノンリニアであろうと、自分の中に取り入れるときリニアなコンテンツとして受け取らざるをえないのではないか。

メディアが台頭して以来これまでは「その道のプロによってリニア化されたコンテンツを摂取し、そのリニア化作業はプロの手に委ねられていた」のが、これからは「ノンリニアなマイクロ・コンテンツを細切れに摂取し、それを自分の手元でリニア化作業していくことになる」。望むと望まざるとに関わらず、どうできるかできぬかに関わらず。できなければ、それは細切れのままに眠る。

例えば、ある日mixiの動向、ある日Twitterの動向、ある日Facebookの動向が耳に届いたとする。日々細切れの情報を摂取するなかで、それを一つのソーシャルメディアの潮流として捉える受け手もいれば、それぞれの動向の差異に着目する人もいれば、ばらばらのマイクロ・コンテンツとしてつまみ食いするだけに終わる受け手もいるのだ。

あらゆる専門分野で高レベルのリニア化作業を自ら行うことは現実的でないだろうが、この時代変化を受けて、1受信者として思うのは、日々摂取していくマイクロ・コンテンツを、より豊かな線をえがいて、その線上に配置し、自分の中でリニア化して味わっていけたらなぁということ。

そう思うとき、「豊かに線をえがける人がリニア化してくれたコンテンツを能動的に摂取していくこと」の尊さを、前時代以上に感じてしまう。映画でも、小説でも、日常のなかで織りなす人の話でも、さまざまなリニアコンテンツに触れる度に思うことだが、世の中には自分には遠く及ばない豊かな線をえがく人たちがわんさかいるのだ。そういう人の生み出すリニアコンテンツに触れ味わう機会を、大切にしていきたい。

私が最近、映画やら本やらを欲する背景には、いろんな人の創り出したリニアコンテンツに触れて、自分のなかで豊かな線をえがく力を育んでいかねばという危機感があったのかもしれない、と思った。

2012-11-21

分かっても分けない

旅に出たからといって何か悟って帰ってきたわけじゃまったくないのだが、普段はかなりインドアな暮らしぶりなので、山と海と川と空くらいしか分けられない所に体をぽんと置いてみるのもいいもんだな、とは思って帰ってきた。

飛行機で移動中はずっと日本列島を見下ろす状態だったのだけど、その景色があまりに山続きなので驚いた。日本列島、こんなに山だらけだったのか…と。左は海、右は山、それがずーっと続いていた。普段いるところが例外なのであって、この列島の大方はこっちなのか…と今さら感慨にひたってしまった。

上から見ていると、ほんと海、山、空、ときどき川、湖、街ってくらいで、それくらいの要素でしか分けようがないのも、普段の視界とずいぶん違うものだなと思った。

それで、じゃあ普段私は何を見ているのだろうと考えてみると、街中で見慣れたものはもはや物体として捉えることすらなくなっていて、ただ風景の中を行き過ぎているだけって感じだ。私はもともと「形状」に対する意識が鈍く、たいていは頭の中に浮かぶ形のない思索のあれこれに意識の目を向けて街中を歩いている気がする。危ない…。

いや、仕事をしているときで考えよう。とすると、特に学習の現場に立ち会っているときや、客先・講師との打ち合わせの席なんかでは、けっこう感覚器を使っている気がするのだが、そういうときって「分かろう」としているから、おのずと摂取情報を「より詳細に分ける」方向に向かっている気がする。

例えば研修会場で運営なんかしていると、課題の最中に受講者が椅子からふわっと体を浮かす動きを捉えることがある。すると、あれは座り直しただけ、あれは椅子の座り心地が悪くて腰が痛いのかも、あれは消しゴムを借りたい様子、あれは一から書き直したいから新しいワークシートが欲しそうと、一見同じにみえる視覚情報を細かく分類してとらえている(こう書くと気持ち悪いが、ほとんど無意識にやっているので目はギラギラしていないはず…)。

仕事場面での情報摂取シーンを思い浮かべると、多くの人はそんな感じではなかろうか。より詳細に分かろう、分けようと。でも仕事場面のどんなシーンでも、できるだけ事細かに分けることが最善というわけじゃない。分けられることは能力であり、「分かる」分には詳細にできるに超したことはないだろうが、各事案で「分ける」かどうかはまた別の問題だ。

能力は「いつどんなふうに使うか、使わないか」をみずから選択できてこそ活かされるものであって、常に使うことを選択しているうちはまだものにできていないってことにしておいたほうが良さそうだ。

例えば、ある程度抽象度の高いレイヤーで研修の全体設計を考えているとき、受講者一人ひとりの属性を詳細に調べていって、Aさんにあわせるとこう、Bさんにあわせるとこうとやっていたら、いつまで経っても一枚の絵に落とし込めない。

数十人、数百人、ときには千人単位の研修の全体設計をする段階で大事なのは、一人ひとりの属性を詳細に(延々に)調べ上げることではなく、学習者に影響を与える多種多様な学習条件のうち、どの変数とどの変数に細心の注意を払って設計に落とし込めばより実施目的に適うかを能率よく見極めること、その観点をもって研修を構造化し、作り込むことだろう。そのために個人にインタビューを行うこともあるだろうけれど。

どこかで見切りをつけなければ、いつまで経っても分析から設計工程に移れず、受講者のことは一人ひとりよくわかっているかもしれないけど、何の具体的計画も提案できない人になってしまう。「これではAさんに不都合」「これではBさんに不都合」とダメ出しだけする人になってしまう。

これはきっと、いろんな分野の設計仕事に共通するものではないだろうか。いくらでも詳細に分けられることではなく、一定期間内にどれだけ目的に適ったシャープな切り口で分けられるか、その観点をもって設計図に落とし込めるか。って考えると「設計屋にはな、分かっても分けねぇときがあるのよ」と、決め台詞はこんな感じだろうか。どこで使うか知らないが。

で、シャープな切り口を実現する上では、どれだけ自在に時空をこえて物事の分け方を操れるかが大事になってくると思われ、飛行機から見る感じとか、宇宙船から見る感じとか、数千年・数万年前から今までを俯瞰する感じとか、いろいろな視野・視点をもっておきたいなと。そう考えると、実際にその身をもって飛行機に乗って上空から日本列島を見下ろしてみるのもなかなかいい体験だなと。一応、私の中では前後のお話がつながっているのだが、果たして。

2012-11-19

熊野ひとり旅

和歌山県は熊野のほうへ、ひとり旅をした。熊野に行ったのも、ひとり旅をしたのも、これといって理由と言えるものはないのだが、足が向いたのだから仕方ない。前日に決めて発った。吹いてくる風の意向に沿うことは、比較的大事にしている。

それにしたって、いたるところ、ひとりが多い旅だった。ひとり旅だから当然といえばそうかもしれないが、行く先々どこもかしこも人がいないか少ないか。もっと観光客がうようよしていると思っていたのだが、バスでも駅でも通りでも、浜でも河原でも崖っぷちでも、参道から神社にいたるまで、そこら中でひとりになった。

Img2_2まず南紀白浜の空港から目と鼻の先にある白良浜に出たのだが、浜辺には人が数人しかおらず、一人あたり何百メートルか割り当てられる感じ。文字通り波の音だけを聴きながら、透き通る海をしばし眺めて過ごした。

その後、三段壁洞窟・千畳敷のほうへ海岸にそって2kmほどてくてく歩いたが、その間もあるのは車の往来のみ、歩きの人にはほとんど出くわさなかった。

Img_0423_2洞窟の中では1人、2人すれ違ったが、日の入りを眺めに千畳敷の崖っぷちに出ると、またひとり。遠くのほうに2人ほど地元ふうのおじさんを確認したが、あっちから見た私は身投げでもしにきたように見えたんじゃなかろうか。というほど、ひとりぽつねんと断崖絶壁に立っていた。が、そこから水平線に沈む夕日をひとり眺めるのは実に贅沢なものだった。

そこからまた空いた特急列車に乗って夜遅くに熊野入り。翌朝、熊野速玉大社に向かうが参道にも人影なし。鳥居をくぐってもひとり。社殿の前まで来てもひとり(巫女さんはいた)。

Img4_7Img5_6Img6_6

ここまで来ると、こりゃ実はなにか縁の深い場所で、いたるところ神秘的な力によって私ひとりの空間が意図的につくられているのでは…と妄想の一つも膨らませたくなったが、まぁ単純に人が少ないんだろう…と現実に着地。

Img7_2近くに熊野川が流れているなと思い河原に出てみた。しかし、ここもひとり。あっちからこっちまで、ものすっごーいただっ広く続いているのに、誰1人いなかった。

それから熊野本宮大社に向かうため山道を行くバスに乗るが、こちらも1時間半ほどの道中で1時間は乗客ひとり。町中から山道に入る手前でもう1人いた乗客が降りていき、偉大なる熊野川にそって山道をあがっていく間ずっと、ひとりでその景色を堪能した。図らずもバス貸し切り状態、これも贅沢すぎた。

Img9_4本宮大社の中はそこそこ人がいたのだが、そこからほど近い旧地(水害に遭う前はそこにあった)の大斎原に興味を引かれて足を運んでみると、こちらはまた人がいない。途中で2人組、3人組のグループとすれ違いはしたが、鳥居の奥に進んで神さまに手をあわせている間に誰もいなくなっていた。

Img10_4目をあけて向き直ってみたら、ただっ広い社地に人影なし。旧地は、通ってきた林の向こう数百メートル先まで様子が見えるのだが、人っ子ひとりおらず。跡地なので管理する人も特に置いておらず、神さまと私、以上という感じ。そんなわけで、そこを後にするのももったいない気がして、次の参拝客が来るまでしばしそこで過ごした。雨が降っていた。

Img_0453_3あくる日は結局、時間がなくて那智大社を詣でることができなかったのだが、とりあえずバスに乗って那智駅には行った(行く途中で、こりゃ時間がないと気づいた…)。那智駅は無人駅で、駅員さんだけでなく乗客もいなかったから、ここでもまた駅に私ひとり。

Photo_3窓の向こうには海が広がっていた。

2012-11-08

21世紀型の医療を夢見る

今日は健康診断だった。健康診断といえば採血。もうこれ以外の検査項目は目に入らない。それくらい採血は苦手だ。でも健康診断は午前中にあり、もう終わったからいい。過去のことは振り返らない。思い出したくない。終わったのだ。私はやりきったのだ。

それは良いとして、健康診断の間、憂鬱を抱えながらずっと考えていたのは、「こんなはずじゃなかった、21世紀の医療!」21世紀型の医療といえば…という20世紀生まれの妄想だ。なんとなく消化器系イメージで言葉にしてみた(最初に断っておくけれど、何の役にも立たない)。

21世紀が到来する頃には、西洋に負けじと東洋医学が台頭、その後しばらくして東洋とも西洋ともつかぬ進化系医学が出現。凄腕医学者のスゴい研究・開発をへて、ちちんぷいぷい療法がついに実用化。

検査は、患部に手をあてて「見えます」とか言いながら内臓の様子を先生が診察。スゴい先生でなくても見えるように「見えますメガネ」とか商品化。治療は、患部に手をかざして「ハーッ」とか言いながら悪いところをくしゅっと瞬間消滅。あるいは、悪いところをぐわっと気で引き寄せ、体の中から別の時空を通じてぽんっと瞬間移動させる。移動先は宇宙とか。これも、スゴい先生でなくとも治療できるように「消えます手袋」「移ルンです」セット売り。購入には医師免許が必要。

いや、「気」は22世紀か。もう少しメカニックなアプローチも考えてみよう。空港の検査みたいな感じで、体に探知機をかざしたり、X線検査装置みたいなのをくぐり抜けて検査。治療は、飴サイズの小型ラジコンカーを口から飲み込んで、体外から人間医師が操縦して目的地へ。到着すると、プチサイズの人工知能医師がウィーンとドアをあけて悪いところに降り立つ。あれこれ中で人工知能医師が治療し、外の人間医師はスーパーバイザーとして必要時指示を与える。

中で治療を終えると人口知能医師はラジコンカーの中に戻る。ウィーンとドアを閉めて、レポートを無線で人間医師に送る。送信完了したら赤く点滅する自滅ボタンを押す。ボタンを押すとラジコンカーの車体から何かの気体が出てきて胃液なんかとまじりあい、ラジコンカーごと数分のうちに溶けてなくなる。さようなら、ロボコン。ありがとう、ロボコーン。完

2012-11-07

やわらかい設計

レオ・レオニという絵本作家が描いた「さかなはさかな」という作品がある。「授業を変える」という認知心理学系の教育本に紹介されていたのを興味深く読んだだけなので、絵本自体はまだ手に取っていないのだけど、素敵そうな物語だ。

おたまじゃくしと魚が池に住んでいた。ふたりはとても仲良しだった。けれど、おたまじゃくしはやがて蛙になって、池を出て行った。ある日、陸の暮らしを経て池に戻ってきた蛙は、陸で見聞きしたことを魚にお話しする。人間や鳥や牛のこと。陸に出たことがない魚は、蛙の話をきいて「尾ひれで立って歩く魚の体型をした人間」「翼のある魚の体型をした鳥」「乳房のある魚の体型をした牛」を思い浮かべる。こうした全部「魚の体型をした」絵が色彩豊かに描かれている。

これは途中までのあらまし。絵本のメインメッセージはこの先にありそうだけど、「授業を変える」の本ではここにフォーカスして取り上げられていた。

この童話は、既有知識を基礎にして新しい知識を構築することに内在する創造的な側面と誤解をもたらす危険性の両面を如実に示している。

一気に言葉が堅いが…、非常に示唆に富んだお話。ここから考えたことを3つ挙げるなら、1つ目は人に話をするとき、ものを教えるときのこと。こっちは「正しく伝えた」つもりでも、受けとる人の前提知識や世界観は実に多様なのであって、伝わり方によっては相手を全然違う認識へ導くということが、いくらでも起こりうるってこと。

いくらその事柄に精通していても、伝える相手に関心をもち、伝える相手のことを知らなければ、その事柄について「伝える」ことはなかなかできないもの(とか書くとどうしても長嶋茂雄監督が選手にバッティング指導するモノマネ芸人の姿が脳裏に浮かぶ…)。学習科学の世界にも「学習者中心設計」という言葉があるけれど、相手をおもうことの大切さはどの分野でも共通だ。

2つ目は、自分が人の話をきいたり、何かを教わる側にまわってみて考える。人の話をきいてその事柄をわかった気になっても、自分にはその背景や奥行き情報、周辺の知識が不足していたり、逆にその話のスムーズな理解を妨げる知識や価値観なんかがまとわりついていて、誤認する危険を負っているということ。自分に見えないものは不足に気づきづらいし、一旦自分に定着したものはまとわりついていることを自覚しづらい。というわけで、人の話をきいて「正しく理解した」つもりなのに、まるですっとんきょうな認識に陥っていることも、いくらでも起こりうる。くわばら、くわばら。

と「誤解をもたらす危険性」の話で終わっちゃいけない。対極の側面を見落としちゃいけない。3つ目。何かを知らないことで想像が働いて、何かを創造することもあるということ。逆に話し手の知らない何かを聞き手が知っていることで、話し手の想定外に聞き手の学びが広がることもあるということ。聞き手がその話を受け取って、話し手の想定範囲を超えた何かを創造することも多分にあるのだ。そして、こうした想定外を起こすのも、かけがえのない人の尊さである。

学習の場づくりをする立場としては、「創造的な側面と誤解をもたらす危険性の両面」を踏まえてつくりたいと切に思う。むやみに学習者の想像力・創造力をおしつぶさない、やわらかな設計をしたい。

2012-11-03

心のうち

この間、ブログを書く頻度に忙しさとの相関はあるのかという質問を受けたのだけど、ある感じしないなぁと思ってそう答えた。書きたい衝動がはしったときには忙しくても書いている気がするし、書くネタがなければ暇だからといって書くこともない。

基本的なスタンスは、書くことがなければ無理に書こうとしない。それでストレスためるのもどこか違う気がするしなと気持ちを開放してやっている。それでもなんだか、放っておくといずれ、文章に起こしたいと衝動の働く日が、どうも自分にはやってくるみたいだ、というのを経験的に知って惑わなくなったというのもあるかもしれない。

時に、時間があるので何か書こうかなと思うことはある。でも、そういうときってどこか、読む人を過剰に意識した文章を書いてしまいそうな気がして怖くなって止めておく。書くことより読んでもらうことに軸が移って主従関係が逆転しちゃうと、このブログの本質がそがれてしまう気がしてダメなのだ。

もっと気楽にいろいろ書いては出し、書いては出しとできたら、それはそれでいいだろうなとも思うのだけど、とりあえずこれまでは、自分が「何か書きたい」と思うときは書かない、「これを書きたい」という衝動が私を突き動かすときに書く、という感じでやってきている。

時間があるので何か書きたいなと思ったときは、だいたいパソコンを閉じて本を読んだりする。何か自分の状態が損なわれている気さえするので、おっきなおっきなおいちゃんが鷹揚に語らうような本を手にとって、自分のちっぽけさを堪能すると気持ちがよい。

それからまた、人と会っておしゃべりしたり、映画を観にいったり、Podcastを聴いたりして(テレビがない)日々が流れてゆく。そうした出来事そのものを取り上げて文章を書くことはあまりないが、こうしたものがあれこれと積み重なっていき自分の中にあるものとつながり合って、いずれまた、書きたい衝動に突き動かされる日がやってくる。このブログは、その繰り返しで続いている気がする。

別に、そんなストイックな場でもない個人ブログなのだから、もっとゆったりやったらいいと思うんだけど、なんでなんだろうな。これは。自分でもよくわからない。いずれ崩せる日がきたら、これまでの蓄積にこだわらず崩すと思うし、今すでにそういう文章も内包しているとは思うのだけど。

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