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2012-09-13

米国から見た日本の学習者

「有志で集まって勉強会をする」というのを見聞きするようになって久しい。何年も回を重ねてきたものだと、業界内で認知も広まって、参加者が数十人とか百を超えるものもある。

参加人数が増えると、望むと望まざるとに関わらず、「主催者」「登壇者」「参加者」という区分けが明確になってくる。そうすると、特に初期からその場を切り盛りしてきた主催者や登壇者は思う。

人数が増えたからといって別に「登壇者=先生」とか「参加者=生徒」という構図に変わったわけじゃない。同業者としてフラットに意見交換したいし、話し中でもどんどん絡んできてほしい。実際、アメリカのカンファレンスなんかでは、そういうやりとりが一般的だ(私の経験ではなく聞いた話です…)。

というのは、どこの業界でもそうなのかわからないけれど、私がおじゃまするWeb業界のくくりでいうと、主催者や登壇者は概ねそういう思想のように思う。そもそもインターネットがそういう思想なので、インターネット大好きっこたちが集まる場も自然それが普通になるってことなんだろうと解釈している。

とはいえ、参加者の側に立つと、なかなか登壇者の話し中にがつんがつん質問したり意見したり割り込んでいくことはできないものである。私は主催者、登壇者、参加者どの経験もあるが、都合のいいもので参加者側に立つと一気に、臆病者と人見知りを足して2で割ったところに腰をおろす。学習の場の構造を作るのが本業なので、時間割を乱すのは憚れるというのもあるけれど。

回を重ねるごと、参加人数は増え、場の静けさはさらに深まりゆく。主催する側は、日本人はやる気が欧米人に負けているんだろうか、とやきもきしているかもしれない。もっと欧米のようにならんもんかなぁと、会の構造づくりを試行錯誤しているかもしれない。

と勝手に憶測して、そのやきもきをもげるかもしれない話を一つ共有したい。これが本題だ。前置きが長過ぎた。米国学術研究推進会議が編著の「授業を変える」という書籍から引く。つまり、アメリカから見て日本の学習者ってどうなのよ、というふうに視点を逆向きにして一度とらえてみるのだ。アメリカ人いわく。

日本の生徒は人の話をよく聞くことをたいせつなことだと考えているので、たとえ議論に参加する機会が少なくても、他の生徒の意見を聞くだけで多くのことを学ぶことができる。一方、米国の教室文化は、こうした日本の教室文化とは対照的で、正解を答えることや積極的に発言することが重視されている。したがって、こうした学校文化の違いを考慮せずに、日本の教授技術を米国の授業に部分的に導入しても、よい結果は生じないであろう。

私はこれを読んだとき、なるほどねぇ、と日本の個別性をフラットにとらえた。というわけで、ここは一つ視点を変えて、日本という共同体の特徴をうまいこと活用するアプローチをとったほうが話が早いし、すこやかかもしれない。

登壇者が話すとき、参加者が静かに聴くのをやきもきせず良しとする。その後に質疑応答や懇親会の時間があることをあらかじめ明示しておく。安心して心置きなく疑問や意見をしていい場が用意されると、そこでフラットな意見交換がなされるのは、よく見かける光景だ。

もちろん、どういう学習の場の構造設計をするかは、会の思想や狙い・参加者の特性にもよるし、全部が全部これが良しという話ではまったくない。講義中に参加者とのインタラクションを持ち込むことが有効に働くケースは日本にだっていくらでもある(盛り上がるという理由だけでむやみにワークを取り入れるのは、学習の観点では非効率だけど、それもまぁ会の主旨によりけりだ)。

と、うだうだ書いたけれど、大事なことは、より多様な視点でフラットに場をとらえ、より多様な選択肢から最適なやり方を選べること、そうして目的にかなった場を構造設計できることだ。何事も真理は、一つのところに通じているように思えてならない。どうしても最後は、ばくっとしたところに行き着いてしまうな…。

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