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2012-09-27

人に会えるのはね、

30代も半ばになって親との死別も体験すると、一回一回、大切な人と会って話せたり、場と時間を共有できることが、本当に嬉しいことだなぁと思う。そして、これが最後かもしれない、とも思う。そう毎度切実に思うわけではないけれど、ぼんやりと、時々思う。

伊坂幸太郎の「モダンタイムス」という小説の下巻に、こんなセリフがある。

あなたはまだ実感ないだろうけど、人に会えるのはね、生きている間だけだよ

そうなんだよなぁ。本当に、今だけなのだ。今のうちなのだ。あとどれくらいかはわからないけれど、いつか私たちは、死別してしまう。だから、間違いなく起こってしまうだろう、そのときまで、大切な人たちに会えることを、大切に味わいたいなぁって思う。

そんなことを胸に、改めてこの貴重な時間を振り返ってみると、やっぱり人生ってのは素晴らしく輝かしいもんだなと思う。それはきっと、私の周りにいる人たちが、とてもきらきらしているからなんだろう。効率化も時間短縮も、目的じゃないから、人に会いにいこう。

2012-09-26

JAZZ聴きの首振り

以前から気になっていて未だ解明していないのが、JAZZを聴く人は、なぜ首を左右に揺らすのか問題だ。J POPを聴いている人のそれは見たことはないし、クラシックやフォークソング、ハードロックでもない。たぶん、あの動きはJAZZ特有のものなんだろうと思っているのだけど、音楽に詳しくないので、あるいは他のジャンルでも首を左右に揺らすものがあるかもしれない。しかしJAZZほど当たり前に定着したものではないだろう。

少し前、ブルーノートにJAZZを聴きに行くというありがたい機会があったのだけど、振り返れば奴がいるという感じで満足げに首を揺らしながら聴いているお客さんがいた。視界を広げると、あちらにもこちらにもいる。JAZZ玄人になると自然にそうなってしまうよう人間はつくられているのではないか、というぐらい自然にそれがなされていた。おそらく本人の力をしても、その動きを止めることはできないのであろう。

心なしか笑みを浮かべて、少しうつむき加減になって目を閉じて、顔を左右に揺らしてJAZZを聴く。同じ態勢をとるとJAZZの聴こえ方も違ってくるのだろうかと思って、ひそかに同じような動きをとってみたけれど、まったくぎくしゃくしてダメだった。たぶん、聴けば自然と悦に入る状態までJAZZを愛し聴き込んでからじゃないと、見た目真似しただけでは意味がないってことなんだろう。

この間、三浦しをんのエッセイ集「お友だちからお願いします」を読んでいたら、ボウリングで「ラインまでちょこまかと小走りし、しかしなぜか球を転がす寸前に完全に静止して、助走の意味を無にする戦法」を「フェイント・ペンギン戦法」って紹介していた。深みを知らずして型だけ真似てもダメねってことで、私は心なしか笑みを浮かべて、JAZZ聴きの首振りを愉しんでいる。

2012-09-23

MBTI次の一歩

少し前に書いた「MBTI復活」の続編。そこに、

この後もうお一人練習台を買って出てくれた友人がいるので、こんな感じで細々活動を再開していけたらなと思っている。

と書いたけれども、その「もうお一方」のフィードバックを先日、平日の晩に行った。とても面白かったと言ってもらえて、少し自信がついた。心底ありがたい。分かりやすかったし、もっと広く展開していいと思うと言ってもらえて、次の一歩に進んでいいかなという気持ちになれた。次の一歩をこれと決めていないが…。

あと、妄信的にMBTIって素晴らしいって感じではないスタンスがよかったとのこと。こういうメソッドとか手段って、やる側が妄信的になったら受ける側はたまんないなって思うので、それは絶対ない。MBTIやユングのためにやっているんじゃなくて、その人に利があるためにやっているのだ。

というわけで、誰のどんなシーンにも使える万能薬とはまったく思っていないので、会ったときに勧誘するとか、そんなことはないです(笑)。むしろそれを懸念して私からは一切口に出さないと思うので、興味のある方は気軽に声かけてください…。

さて、このフィードバック、まずはMBTIがどんなもので、どんなふうに人の性格をとらえるのかお話しして、事前にWeb上で受けてもらった性格検査のレポートをお返しした後、レポートはあくまで自己洞察のきっかけに留めて、あれこれ演習をやりながら自分で自分のタイプを検証していったり、そこで自分と他者がどんなふうに違うのか具体的に理解していく時間をもつ。

ということで、一通りのフィードバックを終えるのにどうしても4〜5時間かかってしまう。が、前回は朝から始めて10時〜13時、14時半〜16時半の5時間くらい使ったところ、今回は19時半〜23時半の4時間くらいで終えた。個別のフィードバックであれば、平日晩でもやれないことはないか、という感触を得た。個人差もあるので一概には言えないけれど。

あと、グループで行う場合は、やっぱり休日に開いて、朝11時〜13時、14時〜17時の5時間くらいみたほうが良さそうだ。グループセッションでは、6人くらいが上限になる(新米のMBTI認定ユーザーの場合)けれど、実際に同じワークをやってみて、性格タイプの違う人がどんなふうに自分と異なるアウトプットを出してくるかを目の当たりにするのは、自己・他者理解にとても有意義なので、グループセッションもできたらいいなぁと思う。

一旦「MBTIってこんなもの」って話をする場をもって、希望があれば後日Web上で質問紙に回答してもらって、別途フィードバックのセッションをもつというのでもいいか。そういう2回構成だと、平日の晩やるのも個人差なく現実的だ。

と、そんな感じでこつこつ。今回やったフィードバックの経験と反省をもとに改善を加えたので、次の一歩へ進んでいこうと思う。

何を願えばいいのか

のっぴきならない事態が発生して、ここしばらく、いろんな思いが交錯している。だけど、どれも具体的な言葉に表しちゃいけない気がして、ただ頭のなかで、心のなかで、ずっと抱え込んでいる。

自然の流れに身を任せるしかない、実際そういう類いのものなので、ある程度身をゆだねるしかないんだけど、もし一つ願いを叶えてやろうと善良な魔法使いが現れたとしても、こうしてほしい、こうなってほしいとは、簡単に言えない。こっちという答えを、もっていない。どこにも私のこれという答えはつくれない。

人間には答えをつくるのが難しい問いだから、自然が答えを導いてくれるのかもしれない。否応なく、答えは導かれる。

だからやっぱり、自然の成り行きに身を任せるだけなんだとは思うのだけど、といってやっぱり、この胸のうちの交錯はおさまらない。心は大きく、大きく揺れる。

なので感じるままに、揺れるままに、自分の気持ちを見届けている。受け止め続けている。それがきちんとおさまるよう、心の器の容積を大きくしながら。そうして、私の大事にしたいものを、私のできるかぎり精一杯守ること、支えること。強く、しなやかに。なんのこっちゃら。

2012-09-17

個人情報とひざ小僧

1990年、ある町の女子高生の会話。

A子「今日、出がけにおばあちゃんに怒られちゃったよ。なに、その短い丈のスカートは!って」
B子「えぇ、それでー。超フツーじゃん。ミニでもなんでもないじゃん」
A子「でしょー。おばあちゃん的には、ひざ小僧が出てるのが気に食わないらしい」
B子「なにそれー。やめてほしいよねぇ、自分の時代感覚を私たちに押しつけるのっ」
A子「まったくだわ。これくらいの丈だったらお母さんだって履いてるっつうの」

2030年、ある町の男子高生の会話。

A太「今日、出がけにじいちゃんに怒られちゃったよ。なに、Soulbook(Facebookの進化版)にうちの住所とか電話番号垂れ流してるんだ!って」
B太「えぇ、そんなんでー。超フツーじゃん。垂れ流しでもなんでもないじゃん」
A太「だろー。じいちゃん的には、個人情報が出てるのが気に食わないらしい」
B太「なにそれー。やめてほしいよなぁ、自分の時代感覚を俺たちに押しつけるのっ」
A太「まったくだよ。これくらいの情報だったら父さんだって公開してるっつうの」

なんてなったりして、と妄想した。

ちょっと前までハローページに個人宅載せるのも当たり前だったし。世の中の常識は時代によって変わるってこと、自分もなんらかの時代感覚を身につけて生きているってこと、それは生まれが20、30年ずれた時代の人と異なることが大いに想定されること、わきまえておかないと老害になりかねない。

個人情報の一切合切を情報開示っていうのが普通の感覚にはならないとしても、「何の情報まで出すのは普通」とか「誰それまで開示するのは普通」とかは時代感覚によってさまざまだろうし。地域の文化によっても、個々人によっても違うだろうし。

個人情報の開示にナイーブになるって方向自体は、流れとして変わらないんじゃないのってあるかもしれないけど、法整備が進んで、取り締まり体制も整って、本人の望まない漏洩が発生していることを検知して個別通知するロボット「コンドル」も稼働して、教育面も国際教科書センター(ITC)のWebサイトで「個人情報について」って教育コンテンツが配布されて個人のリテラシーもあがって、ある程度安心して扱える環境が整ったところに生まれてきたら、また見え方は違うかもしれない。

何それの個人情報が誰それまで出ているという事象に、「開示」という言葉をあてるか「漏洩」という言葉をあてるか、それは結局当人の意図にそぐうかどうかってことか。事象の捉え方は一様でないなら、ここしばらくはふわふわっとした気持ちで時代感覚の変化を見つめていきたい。比較的おばちゃん寄りの私としては…。おばちゃんと言いきるのはもう少し待たれ。

2012-09-16

過剰なプレゼン評価

自分が本業とする研修ビジネスとかだと話は別なんだけど、同業者が有志で集まって開催する勉強会であれば、個人的には、そんなにプレゼンのうまさにこだわらなくていいんじゃないかって気がしている。

もちろんうまいに越したことはないし、登壇者が練習して臨むことは素晴らしい、ありがたいことだ。なので、これは優先度の問題なのだけど、聞き手が話し手のプレゼン能力に過剰に評価的であると、その空気を読み取った優秀な熟達者は話すのを拒み、多様な熟達者の知見が共有されづらくなっていくのではないか。

そうして敷居をあげてしまうより、同業者の勉強会なら、同業者にとって価値がある、ユニークでより多様な熟達者の知見が共有されていくことを最重要として、聞き手もそこに焦点をあてて話を聞いたほうが、場の価値を最大化できるのではないかと思ったりする。程度の問題はあるだろうけど。

2012-09-13

米国から見た日本の学習者

「有志で集まって勉強会をする」というのを見聞きするようになって久しい。何年も回を重ねてきたものだと、業界内で認知も広まって、参加者が数十人とか百を超えるものもある。

参加人数が増えると、望むと望まざるとに関わらず、「主催者」「登壇者」「参加者」という区分けが明確になってくる。そうすると、特に初期からその場を切り盛りしてきた主催者や登壇者は思う。

人数が増えたからといって別に「登壇者=先生」とか「参加者=生徒」という構図に変わったわけじゃない。同業者としてフラットに意見交換したいし、話し中でもどんどん絡んできてほしい。実際、アメリカのカンファレンスなんかでは、そういうやりとりが一般的だ(私の経験ではなく聞いた話です…)。

というのは、どこの業界でもそうなのかわからないけれど、私がおじゃまするWeb業界のくくりでいうと、主催者や登壇者は概ねそういう思想のように思う。そもそもインターネットがそういう思想なので、インターネット大好きっこたちが集まる場も自然それが普通になるってことなんだろうと解釈している。

とはいえ、参加者の側に立つと、なかなか登壇者の話し中にがつんがつん質問したり意見したり割り込んでいくことはできないものである。私は主催者、登壇者、参加者どの経験もあるが、都合のいいもので参加者側に立つと一気に、臆病者と人見知りを足して2で割ったところに腰をおろす。学習の場の構造を作るのが本業なので、時間割を乱すのは憚れるというのもあるけれど。

回を重ねるごと、参加人数は増え、場の静けさはさらに深まりゆく。主催する側は、日本人はやる気が欧米人に負けているんだろうか、とやきもきしているかもしれない。もっと欧米のようにならんもんかなぁと、会の構造づくりを試行錯誤しているかもしれない。

と勝手に憶測して、そのやきもきをもげるかもしれない話を一つ共有したい。これが本題だ。前置きが長過ぎた。米国学術研究推進会議が編著の「授業を変える」という書籍から引く。つまり、アメリカから見て日本の学習者ってどうなのよ、というふうに視点を逆向きにして一度とらえてみるのだ。アメリカ人いわく。

日本の生徒は人の話をよく聞くことをたいせつなことだと考えているので、たとえ議論に参加する機会が少なくても、他の生徒の意見を聞くだけで多くのことを学ぶことができる。一方、米国の教室文化は、こうした日本の教室文化とは対照的で、正解を答えることや積極的に発言することが重視されている。したがって、こうした学校文化の違いを考慮せずに、日本の教授技術を米国の授業に部分的に導入しても、よい結果は生じないであろう。

私はこれを読んだとき、なるほどねぇ、と日本の個別性をフラットにとらえた。というわけで、ここは一つ視点を変えて、日本という共同体の特徴をうまいこと活用するアプローチをとったほうが話が早いし、すこやかかもしれない。

登壇者が話すとき、参加者が静かに聴くのをやきもきせず良しとする。その後に質疑応答や懇親会の時間があることをあらかじめ明示しておく。安心して心置きなく疑問や意見をしていい場が用意されると、そこでフラットな意見交換がなされるのは、よく見かける光景だ。

もちろん、どういう学習の場の構造設計をするかは、会の思想や狙い・参加者の特性にもよるし、全部が全部これが良しという話ではまったくない。講義中に参加者とのインタラクションを持ち込むことが有効に働くケースは日本にだっていくらでもある(盛り上がるという理由だけでむやみにワークを取り入れるのは、学習の観点では非効率だけど、それもまぁ会の主旨によりけりだ)。

と、うだうだ書いたけれど、大事なことは、より多様な視点でフラットに場をとらえ、より多様な選択肢から最適なやり方を選べること、そうして目的にかなった場を構造設計できることだ。何事も真理は、一つのところに通じているように思えてならない。どうしても最後は、ばくっとしたところに行き着いてしまうな…。

2012-09-11

「イベント」のシニア用語

少し前のことになるけれど、今年の夏の始まり頃だったか、父が「どこかで何かやってないかなぁと思ってインターネットで検索をした」というので、へぇ、そういうので検索するんだーと思って、「なんてキーワードで検索したの?」って聞いたら、「催事」って返ってきた。びっくりしたなぁ、もう。

私は父の答えを聞く前に「イベント」とか「お祭り」とか「花火」とか、そういうものをイメージしていて、それがはらほろひれはれと頭のなかで散っていった。人の頭のなかにある言葉、聞いてみないとわからないものだなぁと。人間、放っておくと勝手にわかったつもりになってしまうから、ほんと自分に対する健やかな懐疑心は意識して持ち続けねばなりません。

でもこれからの時代は、別に一つひとつのサイトオーナーがそんな関連づけに四苦八苦しなくても、検索エンジンがうまいこと関連づけて導いてくれるようになっていくんだろうか。当人が表明する検索キーワードに限らず、その人の意識の及ばぬところまでも言語化して関連づけて導いていくのかもしれない。

「催事」ってきたら「イベント」、夏場なら「お祭り」とか「花火大会」とも関連づけて、さらにこの人は千葉にいるから、千葉の情報を優先度高くして提示して、その下に東京の情報もつけておきましょうか、とか。年齢も考慮すると、シニア層が楽しめる催しものがいいねぇとか。でも結構活動的で、過去の検索履歴からすると山登りとかも好きそうだから、そっち系も織り交ぜて、とか。でもこの人、情報が多くありすぎるとうんざりして聞く耳もたなくなるから、5つほどタイプの違う情報を選りすぐって、まずは提示してみるのがいいんじゃないかしら、とか。それくらいは近い将来、朝飯前という感じではないか。

とか、この間日吉の中華屋で皆でわいわいおしゃべりしていたときに話したこと、その後思ったことなどメモ。

かみあわない会話

立場が違えば、直面している問題も違うし、人それぞれに関心事も価値観も主張も違う。それは周知の事実だ。それでも話をかみあわせる事ができるし、その会話の過程やその先に意味を生み出せるのが人間のすごいところだと思っている。

だけど、それを成り立たせるには知性と感受性が必要だ。優しいという性質だけじゃ足りない。今語るべきテーマの本質をとらえる知性と、そこで語られている話のレイヤーに周波数をあわせる感受性、会話の前提となる言語能力も必要になる。

知性と、感受性と、言語能力と、という言い回しが適切かどうかわからないけれど、そういったもので立場の違う人同士が有意義な会話を成り立たせることはできると思う。そして、それは素敵なことだと思う。全部にかみあわせる気も力量もないけれど、全部をあきらめたくはない。だから、そう信じて知性と感受性のどちらも磨きつづけたいと思う。

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