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2012-08-31

支援と暴力

よいものを作ってお客さんに届けようという目的のもと、あるプロジェクトのサポートに関わる。そこで自分は支援物資をこしらえたつもりでも、プロジェクトの主体となる受け手の価値観やそのときの心境、そのときの状況や文脈によって、それが支援物資として機能することもあれば、暴力になることもあるんだよな。

自分の為すことが支援として作用するか暴力として作用するかは、その為すこと自体の性質で語れるものではない。送り手の主観で支援だと思えば、そうだというものでもない。「自分の為すこと」の支援か暴力かは、受け手にどのように受け取られ、受け手の手元でどのように作用するかで決まるのだ。私は今回、暴力を働いてしまった。

そこで受け手が潜在的に求めている形、密度、スピード、タイミング、それの渡し方、こうした一つひとつのことがうまくはまったとき、それは支援として成り立つ。はまらなければ、それは送り手にとって支援物資のつもりでも、受け手にとっては無用なものだったり、ときには暴力であったりするのだ。

サポートする対象が、潜在的に今何を求めていて、何を求めていないか、発する言葉にまどわされず心を汲んで、求められる支援のありようを見いだせるようでありたい。あるいは、そのとき自分にサポートできることはほとんどないかもしれない。そのとき、それでも何か…と何かを送りつけたりせず、動かずに留まるとか、まったく別の形の無駄のない支援をする、そういう潔さと柔軟性を大事にしたい。

今回は途中からそのように試みたけれど、それは今自分の力量でできる最良の解と主観で下した判断にすぎず、受け手にとっていいものではなかったかもしれない。もっと力量がついたら、もう少しよいふるまいができるのかもしれない。けれど今の私にはそれが見いだせない。道のりは長い。

そのとき、その人のありようを推し量って、より多くの機会で、より多様な人にうまく届けられるのが、その道のプロの仕事ってやつだろうけれど、今回はまだまだ!というのを実証したようなものだ。時間のかぎり、力のかぎりを出しました、で引き渡していては素人仕事だ。時間のかぎり、力のかぎりを出した後に、それをどう引き渡したら相手の手元で有効な支援になるのかを思慮深く考えて、ものを研ぎすまし、さっと出せるよう。

人をよく知ること、己をよく理解すること、相手をよく観て、その人を誠実に想うこと。そういう積み重ねをしながら、またこつこつ自分なりに支援物資をこしらせて、自己評価して、修正して引き渡してフィードバックを得て、あるいは引き渡すのを踏み留まって、反省して、少し大きくなって…を、やっていくしかないか。

一つのことをまっとうするというのは、本当に大変なことだ。でも、この一つのことを、受け手に意味ある形で引き渡せるように、少しずつ深さと幅をもっていけたらいいなと思う。

2012-08-24

夏季休暇と夏期休暇

さっき会社の後輩君に、「普段hysさんてどんなところに行くんですか?」と問われて、「セブンとローソンとファミマ…」しか思い浮かばなかった程度に会社にこもっている今日この頃。最近のプライベートは…と頭を巡らせたら、会社のお手洗いで歯磨きしている自分の鏡に映る像が浮かんできて、立て込んでいるときの歯磨きは一服の清涼剤だなぁと思いました。

というのが私の近況ですが、ちょっと気になったことがあったので、今朝調べたメモをお昼休みに残しておきます。いつか何かのお役に立てば幸いです。

7月に入るくらいから、社会人の間では「○日から○日まで夏休みをいただきます」という趣旨のメールが飛び交います。社会人ともなると、送る側は「夏休み」ってのも格好がつかないな、というので「かききゅうか」を漢字にして送ってくるのが通例です。

それが人によって「夏季休暇」もあれば「夏期休暇」もあって、「どっち!」という状態になったので、調べてみた結果を共有しますと。

●夏だからってものは「夏季」
●夏だからってわけじゃないけど夏の期間にやりますよってものは「夏期」

前者は「夏季休暇」「夏季水泳大会」とか、冬だと「冬季オリンピック」とか。後者は「夏期講習」「夏期賞与」とか。

学校の夏休みは、学校教育法施行令で「夏季休暇」と表すことが定められているそうで、「暑いから休むのだ!」という並々ならぬ意思が伝わってきます。

一方、私の夏休みなんかは「夏季休暇」と書くにはあまりに季節感がなさ過ぎて、個人的には「夏期休暇」のほうがしっくりいく、というわけで自然とこっちを使ってしまっていました。

そこから導き出した私なりの答えとしましては。社会人におかれましては、夏休み中にスイカ食べたり、避暑地に行ったりする人は「夏季休暇をいただきます」とし、夏休みも冬休みも似たような過ごし方の人は「夏期休暇をいただきます」とするのが、用法として正しいのではないか。

そして「夏期休暇をいただきます」と送った人には、休暇明けにお土産やお土産話をせびるような真似はせず、静かに復帰を迎え入れてやるのが、社会人のたしなみではないか。そう私なりに結論しました。

2012-08-19

本屋は散策しに

最近、本屋に行くのがめっぽうたのしい。行ったら必ず何か買ってくる。そして買ってくるものはたいてい、行く前にこれを買うとは思っていなかったもの。というか、そもそもそんな本があること自体知らなかったという場合も多い。まぁあとは、どこかで見かけて知っていたけれど、頭の隅に置いたままになっていて自力でタイトルを再生できるほど記憶状態が良好でなかったものとか。

もちろん目当ての本があって訪れることもあるけれど、それだけならAmazonで買ってしまうことのほうが多いかも。Amazonは検索しに、本屋は散策しに。これといった目当ての本なく、店内をうろうろしに行く、ぶらぶらしに行く。そういう感じで、本屋さんに足を運ぶ。きっといいことあるはず、いい出会いがあるんじゃないかというもやぁーっとした期待をよせて本屋に行くのだ。それが習慣のように定着してきている(本好きの人はもともとそういう習慣があったと思うけど、私はさほど本をよく読む人間じゃなかったので、私の人生史上今が一番本屋に行っているかもしれない)。

ここ最近、Amazonと本屋さんの役割分担が、自分の中で鮮明になってきたって感じがする。役割の混乱期が幕を閉じたというか。それぞれに必要だから、それぞれに自分の生活時間に組み込まれて定着してきたって感じかしら。「本屋オンリー」→「時々Amazonながら習慣をひきずって多くは本屋」→「Amazon依存期」を経て、Amazonだけなのも物足りなさを感じて、ちょいちょい本屋さんに遊びに行くようになった。

そう、買い物しに行くのではなくて、遊びに行く感じ。でも実際いいものに出会えるから買って帰ってくる、その体験の繰り返しで、本屋さんに遊びに行く行為がどんどん強化されていっている感じ。

本屋さん自体もそういうふうに役割を変えてきているし、これからはもっと本屋さんに行くのが愉しくなるんじゃないかと思う。本屋さん界隈はいろいろ大変そうだけど、本のスペシャリストの書店員さんには個人的に期待大なのだ。愉しくなるといいなぁ。

おまけにつけるのもなんだけど、内田樹さんの「街場の文体論」の一節を締めに。

ふつう本屋に入る場合はそれほど明瞭なターゲットがあるわけじゃありません。ぼんやりと「何か面白い本ないかな……」とゆらゆらと歩いている。こういう本がほしいというふうに書物に対する需要が本を買う以前にあらかじめ条件設定されているわけじゃない。僕たちは自分が何を探しているのかわからないままに、読むべき本を探す。ですから、本と出会った瞬間に「あ、私はこの本が読みたかったんだ」というふうに事後的に、遡及的に欲望が形成される。「ずっとその本を探してきた自分」の像がその本と出会ったことによって焦点を結ぶ。

これまでは、こうでない本屋像も人それぞれにいろいろあったと思うけれど、今は、あるいはこれからは本格的にこれが一般の本屋像になっていくのかも。

2012-08-16

MBTI復活

ユングの心理学的タイプ論をベースに開発された「MBTI」という性格検査があって、それの認定ユーザー資格をもっているのだけど、ここ2年ほとんど手をつけずにきてしまった(一般に心理検査の類いは自由な購入ができず、有資格者のみ購入したり受検者にフィードバックできるという規約のもと取り扱われているのです。これも然り)。

のだけど、うーん、そろそろ時期だなぁという風を感じて7月の頭くらいから準備を始め、いろいろ勉強し直したり、ワークショップの資料を整えたりしてきた。それで今日が実践再始動日。事前にWeb上での検査を受けてもらっていた方と時間をもって、久しぶりにフィードバックを行った。

久しぶりといっても、そもそも2年前に資格を取った直後にフィードバックを手がけたのが2名だけなので、今回が実践の始まりといっていいくらいなのだけど…。とにかく今日お一人やって、この後もうお一人練習台を買って出てくれた友人がいるので、こんな感じで細々活動を再開していけたらなと思っている。

特に本業に取り入れる具体的な計画を立てているわけでもなく、自分の人生の中のどこかにそういう活動時間を組み込んでいく頃合いだな、という風をどこからともなく感じたので、それに素直に応えて復活させただけなのだけど、まぁたぶん間違っていない。

本業の「研修を作る」って仕事は、対象者が「集団」になるので、分析するときって、その集団にどんな「共通点」があるかが大きなポイントになる。共通で抱える問題点は何で、共通で目指すゴールはどこで、その受講者属性にはどんな類似性が認められるか。それを踏まえて、どういうアプローチで研修プログラムを組んでいくのがよいかを検討して設計する。これはこれで、提案書や設計図を模索する中でずいぶん鍛えられたし、問題解決の大事なアプローチの一つだと思っている。

けれど、対象者が「集団」ではなく「個人」であるという、そこにはまた別のアプローチが必要だし、そこにはそこの意義がある。そのときに必要なのは、とことんその個人の個別性に迫っていくこと。その人個人に深くもぐっていくこと。

そこのサポートに自分の人生の中の時間をいくらかでももちたいという思いが、一定の形をなして浮上してきたということなのか。もともと個人に向き合う仕事をしてきた期間はけっこう長いので、ここしばらく法人の問題解決に集中して時間を割いてきて、ここらで「個人」「法人」双方に目を向けたくなったのかもしれない。

かもしれない、くらいでしかないけれど。それに、5割5割で両立できるほど簡単な仕事じゃないし器用でも有能でもないので、今のところのイメージは本業でこれまでどおり法人のお仕事をしつつ、個人に向き合うところは自分の時間の中でできることを細々やっていけたらなぁというイメージではある。

いずれそのバランスを見直す時期がやってくるかもしれないけれど、そのときにはまたそのときで風が吹くんだろう。とりあえず、自分のなす仕事がきちんと意味あるサポートになるように、そっちの仕事力も磨いていかねば…。

特段MBTIにこだわるわけではなく、キャリアカウンセラーとして個人と向き合うことを大事にしていきたいなという思いなんだと思う。ただMBTIは従来の性格検査とちがって、自分のことや人を深く理解するのにとても有効なメソッドだと思うので、こういう枠組みにも必要に応じて力を借りながら、キャリアカウンセラーとしてできることをしていけたらなと思う。

ちなみに、MBTIが従来の性格検査とちがってユニークなところを2つ挙げると、後天的に身につけた役割性格(パーソナリティ)ではなく、もって生まれた性格(キャラクター)をとらえる点。それから「積極性」とか「協調性」とかいうように、何らかの集団の中の基準と照らし合わせて程度が高いか低いかで相対評価する特性論ではなく、その対象がもつ個別性で類型化するタイプ論であるところ。相対的ではなく、絶対的なものの見方をするところが気にいっている。気になるわーという方、私が成長した暁にはぜひ…。

2012-08-14

ひとり暮らしと先々と

ときどき、このまま一生ひとり暮らしなのかなぁと思うと、いや、でもこのままずっと健康で老衰というわけにもいかないだろうし、そうすると一人で病院の手続きとかして、おぉそろそろ最期だーとかいうときには自分でその辺の施設の手続きとかしないといけないのかとか、いろいろ大変そうだなぁと思う。その頃にはもう少し、ひとり暮らしな人用のサービスが充実しているだろうか。

家族、特に子どもがいるとそういうとき支えになるものだろうけれど、私は結局所帯をもつことなく人生を終えそうな気配が年々濃厚になるばかりなので、普通に生きられてもそろそろ人生後半とあって、ときどきそんなことを考える。

家族といったって冷えきった家族関係だったら意味ないんじゃない?という意見もあるかもしれないが、私がなんとなく思うのは、そういうときこそ淡々とでも一つ屋根の下で長く一緒に暮らしたという事実そのものがものを言いそうな気がする。自分のコントロール下にない「情」というのは、そういうとき強大な力をもって人を動かすんじゃないかという気が(いや、もちろんそういうのばかりじゃないだろうけど)。

という自分のことの前に、親を守るというのがある。私は所帯をもっていないので、自分の家庭を守るという身の上ではない。私がいなくなると、この人の暮らしが成り立たないということがない。

話が脱線するけど、ひとり暮らしというのは、自分がいなくなっても世の中の誰しも大勢には影響なくやっていけることを実証しつづける日々だなぁとこの間思った。私がいなくなって涙してくれる人はいる…ことを願いたいが、決定的に自分の人生が損なわれると感覚する人はいないだろう。それが「ひとり暮らしをしている」ということなんだなぁと。そう考えると、ひとり暮らしというのは気楽なことこの上ない一方で、ずいぶんともろい環境下でもある。

といって、生活レベルで人の人生に介入する暮らしを営むのは、それはそれで大変なことで、子どもをもつ同世代の友人たちには本当に感服脱帽するばかりだ。そういう人たちに囲まれながら、私は私なりに、親を大事に、身近な人を大事にしていこうとひっそり思う。言ったり思ったりするだけでなく、大事にしようと。

というわけで親の話に戻すと、もはやここまで来ると3人兄妹のうち一人ぐらい所帯をもたず自由に動ける子どもがいたほうがこの先都合がいいのでは、とも思ったりする。今の見通しで先々まで一番自由に動けるのは私だ。親に状況変化があれば、それに一番柔軟に対応できそうな子どもということになる。

とすると、場合によっては千葉に住まいを移すこともあるのだろうかとか、30代のうちにもう一度車に乗れるようにしておいたほうがいいだろうかとか、そういう状態になるとどうしたって人が遠のいていくのだろうけど、それでもある種の孤独感に苛まれず生きていけるだけの精神力を今から鍛え上げておく必要があるんだろうとか、いろいろ考えてしまう。

きっと今は気楽な時期なんだろうなぁと思うので、まぁいずれ来る環境変化までの間、これを堪能しつつ、ずっとこれが続くわけではないことを覚悟しつつって感じかなぁと思うのだけど、この辺の世代は皆それぞれに、それぞれの環境をもちながらいろいろ考えているものなのだろうか。まぁ、それも人それぞれですよね。私はこんなことを書きつつ、肝を据えるため一番底っぽいところをときどき妄想しつつも、結局今は今って感じで楽観的に暮らしちゃったりしている。

まっとうに人間という生物をやっていくんだったら、20代半ばくらいまでに結婚して子どもをつくり、子どもを育てながら自分も成熟していって、45歳くらいに子どもが成人して、50〜55歳くらいまでに孫の顔をみて、おばあちゃんしながら60〜65歳くらいでさようならーというのがイメージにあるんだけど(体力的な問題だけでいってる)。そこからすでに大きく逸脱しているので、完全に逸脱した人生をどうまっとうするか。まぁ特に何の結論もない話です。

話散らばったついでに、最近読んだ「高校生のための批評入門」の中にこういうのがあったけど。

ヨーロッパの人々の「孤独」の裏には、「人間は究極において一人で生きるものだ」という並々ならぬ心が潜んでいる。これは、肉親を頼り、寄りそい、「孤独」をまぎらせて生きようとすることの多い日本人には、なかなか理解できないことだ。

地球規模でみた人生観の地域差っていうのは、いろいろあるんだろうなぁと思うし、それもまた輸出入があって、日本人は生活が西洋化する一方、心はそのままで、まだしっくりいっていないとかもあるのかなぁとか。まったく結論のないまま終わりますが、ごきげんよう。

2012-08-12

ドタバタ帰省ながら

なんだか今回の帰省は大変にあわただしい。今日は日曜出勤して猛烈仕事、16時にぎりぎり切り上げて、大荷物引きずって実家に向かう。父が外出先から19時頃家に戻るというので、それより先に帰ってプレゼントを完成させておかねば、なのだった。

2〜3ヶ月前、いやもっと前か、父がもう少し家族の写真を家に飾りたい(けど自分でやるっていうのもなんなので、おまえがやってくれたらなー、いや急がないよ、急がないけどみんなの笑ってる写真あったらいいなぁ)とぶつぶつ言っていたので、昨日でっかいフォトフレームを買ったのだけど、それに飾る4枚の写真を何十冊あるかわからないアルバムの束からピックアップして、できあがった状態で19時を迎えなくてはならないのだ。というか、19時というのも不確かなので、せめて18時半には完成させておきたい。

ということで急いで家に帰ると、なんと居間の写真が明らかに増えている。前は2つ、3つくらいだったのが、7つ、8つくらいになっていて、あぁ自分でやらせてしまった…と反省。その光景を思うと、なんだか目頭が熱くなってきてしまって、いやはや歳とると…、ねぇ。千葉に戻って父とちょこちょこ食事はしていたのだけど、実家に帰るというのが数ヶ月できていなかったので、久しぶりに仏壇の前に座って、家に一人なのをいいことにボロボロこぼしてしまった。

というのを3分ほどで切り上げて顔をごしごし洗って、私たちが生まれて以降の母のアルバム10数冊にしぼって写真を吟味。1枚は、これをぜひ部屋に飾ってあげたい、これをアルバムに眠らせておくなんてもったいないと以前から思っていたもの。それ以外の3つをあれかこれかとしぼりこんで、予定どおり18時半頃に完成。ふぃーと一息。

ちょうど19時頃に父が帰ってきたので、挨拶もそこそこにプレゼントを見せたら、おぉと言って喜んでくれたふう。ソファに腰かけて老眼鏡をかけて、じっくり見ていた。

私がこれをぜひ!と思っていた1枚をさして、この頃が一番、なんか一所懸命働いて仕事ばかりしていたりもしたけど、お母さんも子育てに奮闘していて、みんなでいろんなところに出かけてって頃だよなぁと言って懐かしそうに見ていた。そう、この頃の写真は、家族の写真のなかでもとびきりキラキラした感じのする写真なのだ。そういう空気感ってなんとなく家族皆で共有できているのだろうか。やっぱりこの写真アルバムから取り出してよかったなぁと思った。いい笑顔だ。

しばらくすると、これをどこに置こうかとあれこれ思案して、居間の一番よいところをあけて飾ってくれた。

そして明日は朝からお墓参りに行って、午後は実家に戻って兄一家と母の姉夫婦をお迎えして、程よいところで東京に戻って会社に行って、24時までに最終調整したファイルをお客さんに納めなければ。今年はほんとにドタバタだ。こうして7、8月でつまみ食いしてきた今年の夏休みが終わる。

2012-08-10

分けて戻って

心とからだっていうのは、なんとなく対照的なイメージがある。この2つの言葉を頭に思い浮かべると、知らず知らず対置させてしまう。けれど、谷川俊太郎さんの「ひとり暮らし」というエッセイに、

心とからだはただことばの上で区別されるだけで、本来はひとつのものだ。

とあって、ですよねぇと我に返る思いがした。少し前に読んだ「日本の文脈」でも、内田樹さんがこんな話をしていた。

どうしても人間は自分のからだを同心円的に把握しますよね。中心に心というか自我、主体があって、そのまわりに骨格や筋肉という生物学的な器官が外付けされていて、そのさらに外側には他者がいて、社会関係があって……というふうに図像的に理解しているでしょう。

「でも」と続いて…

主体という中心なんか存在しないんです。あるのは精密な関係の網の目だけで。

これまた、そう言われてみると…と思った。

私たちは、例えば「人間」のようなちょっと複雑そうなものを理解しようとするとき、それそのものをまるっと観るだけじゃ不足感があって、それを分解して観ようとする。いくつかの構成要素に分けて、分けたそれぞれの特徴を分析してみたりして。そして、その一つひとつに名前をつけて定義を設けて、その言葉をつかって人と議論をしたり、実用的に役立てようとしたりする。実際それはいろんな分野で役に立っているわけで、分解して踏み込んでみるって有意義なことだねっていう大方の合意がある。

でも、ばらして分解したものは、またひとまとまりに戻せるようにしておかないとなって思った。「心」と「からだ」、分けてとらえるのが普通になってしまうと、逆にそれを一個体としてみることがなかなかできなくなってしまう。その双方に、自然とピントをあわせ直して行ったり来たりできるのが理想だと思うんだけど、けっこうできていないもの。パーツについて深堀りしていくうち、そっちで焦点が固まってしまって、全体を見る焦点のあわせ方を忘れてしまっている、というのに自分で気づくのはなかなか難しそうだ。

Web業界の発展にともなう職能の専門高度化→職種分化みたいな話も、いくら職種分化しようと、まず「そのプロジェクトの一員として果たすべきこと」みたいな前提を見失わないようにしないと、仕事に貢献するどころか自分の役割分担とか職種定義にこだわって足引っ張る人になりかねない。

会社員というくくりでみても、どこ部署のミッションとか、私の今期の目標はこれだとかいうところだけに焦点化していては、部署に分化する前の「その会社の一社員としてやるべきこと」に対して逆走した行いをしていたりする。

あるものを細かく分けて、それぞれをじっくり観察したり分析したり、人と議論したり実用に役立てるのは大変有意義なことに違いないけど、分けた後はまた全体をひとまとまりに見られるようにしておくって大事なことだなーと思った。その視点の切り替えを、自然に当たり前にできるようにしておくっていうのが大事だなーと思った。

2012-08-05

「例外」を語りあう会

この間、ちょっと意を決して、「36歳からの女の人生」という飲み会を開きたいと、Facebookのウォールに「友だち」の範囲で書き込んだら、なんと20数名の方が「いいね!」を押してくれて、数名の方は参加表明や賛同コメントを残してくれた。

思った以上に反応いただけて、えぇ、そうなんだ、そういう集いに関心をもたれる方ってけっこういるものなんだなぁと驚いた。関心をもった背景もまた、人それぞれなんだろうと思うと、そこから話を聴いてみたい。男性も女性もバランスよく反応があったのも興味深いし、既婚未婚やお子さんのある方ない方によってもいろいろ見える風景が違うんだろうし。もちろん、人それぞれに価値観や指向するところも違うと思うので、その辺もじっくり聴いてみたい。

「36歳からの女の人生」という飲み会を開きたい。参加資格:36歳から(60歳くらいまで)の女の人生について一家言ある方、あるいは人の一家言を聞きたい方、あるいは聞かれればなんかもってそうだと思う方。年齢・性別問わず、常識人から異端児まで幅広く歓迎。最低施行人数2人。

と書き込んだのだけど、「参加資格」は気分で書いた割りに、こういう感じで開きたいのです、という意思がけっこう切実に埋め込まれている気がする(のは私だけかもしれないが)。

どうも「女」とつく会のイメージが、ものすごく鼻息のあらい女性が「立ち上がれ、乙女たち!」とか叫んでいる絵になってしまって(偏見です)、いや、そっち系じゃないんです、ただ部屋の隅っこで、だよねぇ、そうなのかー、へぇとか言いながら、冷や奴とか茄子のおひたしとか野菜の焚き合わせとかつついて飲み語らいたいだけなんです、と。

1対多で、何か体系立てたモデルや基準を共有する場も有意義だけど、それと同等に、対極の集いも大事だと思うのです。話散らかってなんぼという集いも。だって自分ごとというのはたいていの場合、汎用的なモデルや基準の「例外」でしょう。ユングの言葉にこんなのがあって、そのとおりだなって思う。

Every individual is an exception to the rule.(すべての人は例外である。)

モデルや基準というのは、いろんな人のいろんな事情を削って構築されている。それは抽象化して汎用化してこそ意味があるのだし、そうすることによって多くの人が恩恵を受けられるようになる。

個々の事情を見さだめて削ぎ落し、汎用的なモデルや基準を提唱してくれる人があるから、それに同意したり反発を覚えたり、カスタマイズしたり真逆の方向に駆け出したりと、引き出される反応がなんであれ、自分の事案を一歩踏み込んで考えられる。

一方で、仕事の進め方にしても「でも今回の案件では」「でもこのお客さんの場合」が出てくるように、人のキャリアとか人生にしても「でも私の場合」がつきものなのだ。というか、人の生きる道なんて、モデルや基準と照らしてみて例外的な要素があるのが前提であって、「私には例外的な要素がまるでない、まったく基準にのっとった人生だ」というのは、むしろそのほうが例外的だと思う。

だから、スーパーの職業的発達段階とかキャリアのモデルや基準を知るのも有意義だけど、それと同等に、いろんな人の話をじっくり聴くことが、とても尊いことのように思う。まぁ単純に、身近にいるいろんな人たちのお話をじっくり聴いてみたいなぁという思いもあるのだけど。

で、そういう会の場合、少人数で実際に会って話しこむって構造を守ることが、けっこう大事になるので、とりあえず2人〜4人、特大スペシャルでも6人くらいで(増やすなら回数を増やして)、夏は冷や奴とか、冬は煮物とかつつきながら、深く息してのんびりひっそりほんとのことを語らう、みたいなのをやっていけたらなぁと。

まとまらないものは、まとまらないままに。そうしていくうちに、いずれ何かが浮き上がって見えてくることがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。それはそれで、どちらでも素敵だなと思う。

「言えないコトバ」

このところのあれこれで手元のメモに反省文とかなんだとかいろいろ書き過ぎてヘトヘトになってしまったので、そろそろ気晴らしに…と笑える本を手にとった。益田ミリの「言えないコトバ」というコミックエッセイ集。これが面白かった。ツボだった。書き出しに、

口に出しているコトバよりも、あえて口に出していないコトバのほうが、その人物を知ることができるんじゃないだろうか?

とあるんだけど、確かに一理あるかもと思う。というのは、やはり私も「あえて口に出していないコトバ」がけっこうあるからなんだけど。上のは言い過ぎとしても、「あえて口に出していないコトバ」は、その人があえてそれについて語らない限りたいていわからないままなので、わかりづらい分興味深い。

これがまぁ、著者と年齢が近いこともあってか、「言えないコトバ」がものすごい勢いでかぶっていた。

チャリに原チャリ、カフェ、スイーツ、フィー、リスペクト、ハッピー…、基本的にカタカナっぽいものは、気恥ずかしさから使えない。あ、チャリは気恥ずかしさとは違うか。やっぱりなんとなく、自転車、原付バイク、喫茶店、デザートとんで「甘いもの」、○○料、尊敬、幸せと言ったほうが落ち着く。しっくりくる。人が使うのには特に引っかかりも覚えないけど、自分が使うにはこそばゆくていけない。

しかし、「言えないコトバ」というのは、何も気恥ずかしさに起因するものばかりではない。「あえて言わないコトバ」もあるわけで、人に対して使う「痛い」「寒い」「つかえない」とかはその類いの代表格だ。こうしたものの一つひとつ、使われるシーンのえがき方がまた絶妙なのだけど、これに触れる著者の話にも共感するものが多い。

以前は、「気がきかない人」とか「段取りが悪い人」とか「要領の悪い人」くらいで済んでいた感情なのに、それが「つかえない人」という表現に切り替わったとたん、そこにはひんやりとした暗さが宿る。たとえ、苛立ちに任せて口にしているだけであっても、こういうコトバを使いつづけていると、それが自分の考え方として沈殿してしまうのではないか。

「使う言葉が人をつくる」部分はたぶんにあると思っているので、何を言って何を言わないか、それをどう言い表すかは大事にして暮らしている。

これも話のなかに出てくるけれど、たとえば「しばらく入院してたもので」と言われたとき、「どうしたんですか?」とか「どこが悪かったんですか?」と返さず、「今は、お加減いかがなんですか?」と返す、そういう静かな心配りを当たり前にもっていたい。

あと、これは書かれていなかったけど、私はトイレって言うのが苦手で、お手洗いという。「お手洗いはどちらですか」というふうに、もうかれこれ何十年も言っている気がするけど、これは、つまり、単純に日本語が好きなだけかもしれない。まぁ、ともあれ、いい気分転換になりました。

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