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2012-04-30

家にデスクを置く

この3連休は、私にしては珍しく方々出歩いていて、その間に「家にデスクを置く」というスーパーソリューションに巡りあってしまった。家にデスクを置くなんて当たり前の人には、おまえはその歳になって何を今さら…と思われること請け合いなのだけど、なんだか思考停止になっていて気づかなかったんだなぁ、「我が家にはデスクがない」という驚愕の事実に。

その昔、一人暮らしを始めたときに、この6畳一間にテーブルもデスクも置くのは無理があると思ってデスクをあきらめたところから、引っ越した先でもデスクなしがデフォルトになってしまっていた。それに、当時からごく最近(1〜2年前)までは圧倒的に会社で過ごす時間が長かったから、2択なら家はデスクよりテーブルがいいんじゃないの?という結論の導き方もそうおかしいものではなかったのだ。

しかし、よくよく考えてみると、別に人を呼ぶ家でもないので、最初からテーブルよりデスクを選んでよかった気がする。私の使う時間は、大半がテーブルではなくデスク向きである。本を読むとか、文章を書くとか、ノートとペンでもぞもぞやっているとかいうのは、実にデスク向きのことであり、私の24時間はだいたいこういう地味な作業に割かれている。

が、15年前には自分がどんな生活を営むのかイメージを持ち合わせていなかったし、別のところに引越すときも他の要件はあれこれ見直してきたのに、ことデスクに関しては新たに追加しようという発想がなかった。家にそういう集中空間は作れないことが前提になってしまっていて、本を読むとか文章を書くとかいうときには近所のお店に出かけるのがスタイルとして定着してしまっていた。家にはあまり長居しないのが当たり前になってしまっていたのだ。

いやぁ、しかし、家にそういう空間を作ってしまえれば、閉店時間とか気にしなくていいんだもんなぁ。家にはそんな空間作れないと思ってきたけど、デスクを置くっていうのは、ものすっごいスーパーソリューションじゃないかっ!と、家具屋さんでハッとした。自分の生活をより豊かにしようとかいう心意気をもって家具屋さんとかをぶらつくことが若い時分にできていたら、もっと早く気づけたと思うのだけど。いやぁ、ずいぶん時間がかかってしまった。

というわけで、土曜日にハッとして、日曜日にいいものに出会って、月曜の本日それを買った。なんだか一気にデスクと椅子と、チェストとかいう袖の引き出しと、シェルフとかいう本棚と、4点まとめ買いした。私は家具って買うと、ぼーっとしている間に10年くらい軽く使ってしまうので、最短でも10年使うと考えたら、まぁいいでしょう。

というか相当世の中が激変して、机に向かうとか、椅子に座るとか、引き出しとか本棚に物を収納するとか、何それ意味わかんないわーみたいな時勢にならない限り、一生でも使いたい。今後引越しをすることになっても皆さん引き連れて仲良く暮らしていきたい。

家にデスクのある生活。あぁ、たまらないわー。今さらすぎるわー。久しぶりに、生活っぽいことをテーマに過ごした休暇で新鮮だったなぁ。そんなGW前半戦でした。

2012-04-26

エラー番号「11」

昨晩のこと。お風呂に入ろうと給湯器の電源をオンにして蛇口をひねったのだが、いつまで経ってもお湯にならない。リモコンに目をやると、いつもの温度表示などがすべて消えて「11」の数字だけが点滅表示されている。見るからにエラー番号っぽい訴えだ。洗面所や台所も同じ。電源を入れ直しても変わらない。何度か試しても変化なし。

とりあえず、ルンルンお風呂気分を鎮静させ、肩を落として部屋に戻る。冬じゃなくて良かったよねと自分を慰めつつ、布団にもぐる。翌朝はフィットネスクラブのお風呂に入って出勤すればいいとして、致命傷じゃないが早々に解決したい問題ではある。明朝起きて直っていなかったら、朝一番で管理会社に電話するかーと短い対策会議を終えて、寝て起きてみたら、やっぱり直っていなかった。

フィットネスクラブ経由で出勤し、朝9時にマンションの管理会社に電話。すると、まだ少し早かったのか深夜帯の一次受けサポートセンターのようなところにつながる。あまり要領を得なかったが、とりあえずブレーカーを落として10分おいて立ち上げ直して、それでもダメだったらもう一度管理会社に電話、メーカー名と型番を伝えて修理を依頼するという段取りに。

諸々家でやらなくてはならないこともあったので、午後半休にして家に帰る。指示通りブレーカーを落として様子をみるが復旧ならず。エラー番号らしき「11」を調べてから管理会社に連絡しようと、取り扱い説明書を開く。どうやらガス系統の問題らしいが、詳しいことはよくわからない。

マンションの管理会社に電話すると、今度は本社につながる。深夜帯のサポートセンターでのやりとりは何も共有されておらず、再び一通り状況説明。メーカーのサポートセンターに連絡をとって、直接こちらに連絡が入るよう手配してくださるとのこと。電話をきって待機。

電話を待っている間、洗濯やら部屋の掃除やらしていると、あれ、この机の上の郵便物の束に。あれ、ガス料金の支払い依頼書類みたいなのが新品状態で。あれ、1枚、2枚、3枚。あれ、3月分払ってない、2月分払ってない。あれ、もしかしてこれなんじゃないの?ガス料金未払いで止められてるだけなんじゃないの?これ払えば、直るんじゃないの?

と胸騒ぎをおぼえたところで電話が鳴る。メーカーのサポートセンターだ。でもな、もしかすると滞納のせいじゃないかもしれないもんな。とりあえず見てもらう日程は押さえておいて、支払って直ったら即キャンセルしよう。そう思って、平静を装い先方の話にあわせて修理の日程調整をする。その後、すかさず先方の連絡先を確認。「日程変更のご希望などありましたら、こちらにご連絡ください」と添えられた一言に癒される。お礼を言って電話を切る。

切るやいなや、コンビニに行って3ヶ月分の支払いを終える(いや、滞納していたのは2ヶ月分だ。3枚目は問題ない4月分)。家に戻り、再挑戦。これで、もしかして直っちゃったりして。淡い期待というより、きっと直っちゃうんだろうと思いつつ、部屋の中に入って電源を入れ、蛇口をひねる。

で、行けるか!と思ったら、なんとダメだった。玄関先にある扉をあけてガスの再始動らしきボタンを押してみたらどうかと思ったけど、これもダメ。なので、やっぱりメーカーさんの修理の予約は有効だったわけだ。が、原因というか、少なからずきっかけは私の滞納にある気がしてならない。とすると、メーカーさんの問題じゃないよね、ガスの問題だよね、と思いつつ修理の日を待つのは罪?まぁ、せっかくだし。

しかしまぁ、この生活に対する無頓着さというかずぼらさというか、相変わらずひどいな、と思った。早く直るといいなぁ。そんなわけで、いまだエラー番号「11」は謎。ガス料金滞納なのだろうか。

2012-04-24

なっぱふみふみ

小説を読んでいると、お話のなかに出てくるあれこれが、自分のなかにあるあれこれと関連づいて、意識の水面に浮き上がってくるような体験をちょこちょこ得るものだ。今日小説を読んでいたら、「どういう字を書くのか、改めて考えたことがなかったが」という一節があって、あぁそういう言葉ってあるよねぇと思いながら、自分のなかにあったある言葉に行き着いた。

それが「ばふいやふいやのなっぱふみふみ」である。「どういう字を書くのか、改めて考えたことがなかった」というより、「どういう意味があるのか、改めて考えたことがなかった」言葉だ。おおいに謎である。

これは父の口癖で、どんな意味があってどこを起源としているのか、まったくわからない。が、物心ついたときから聞いていたので、口癖ともなんとも、「これはなんなのだろう」と考えることがなかった。30数年も、それは何者かと問わずにきてしまったものに対し、これはいったい…と問いを投げかける回路を組んでしまうのが、小説の不思議な力である。

で、今ならば現代テクノロジーを使って起源を調べられるのではないかと思って、Google検索してみた。「ばふいやふいやの」はさすがにわけがわからないので、「なっぱふみふみ」で検索してみると、近しいもので「はっぱふみふみ」が出てきた。

これくらいわけのわからない言葉で、これくらい近しい表現であれば、きっと関わりがあるのではないか。「はっぱふみふみ」を詳しくみてみると、1960年代の流行語で、起源は大橋巨泉の万年筆のCMにあり。で、これもまた、短い時間でわけのわからない言葉を言っているのが話題になったようで、わけがわからないということが共通の肝のようである。

では、鑑賞してみよう。そうしよう。パイロットエリートSという万年筆のCM映像(Youtube)。

「みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ、すぎかきすらの はっぱふみふみ」である。耳になじむ五七五七七。言葉がはちゃめちゃなのに、何がどう素晴らしいのかなんとなく伝わってくるようなこないような大橋巨泉の振る舞い。人間の根源的な力を感じますねぇ。

しかし、ではなぜ「なっぱふみふみ」になまったのか、頭についている「ばふいやふいや」とは何なのか。本当に「なっぱふみふみ」を起源としているのかは、いまだ闇の中である。「ばふいやふいや」は、「はっくしょん、ちくしょうめー」とかいう、無駄に長くしてみました的意味合いに近いのかなとも想像するけれど。でも、あれはくしゃみじゃない。いったいどんなふうに生まれて、どんなときにあれを言っているんだろう。

でも、こういうのってなんか、本人に聞いてすべてがわかってしまうのももったいない気がしますよね。なので、「ねぇ、それって何なの?」とは聞かずに、これからもやっていくと思います。

2012-04-22

プログラミング学習という基礎体力づくり

以前Facebookで、そろそろ義務教育の教科に「プログラミング」を加えたほうがいいような…とぽろりつぶやいたのだけど、そのときはほんとにぽろりだったので、それについて思うところをメモ。

といっても、私はプログラミングができないのであった…。なのであくまで概念的に思っていることなんだけど、結構真剣に思っていることではある。ちなみに、あと2、3年でどうこうという話ではなくて、20年、30年かけてでも整備していくべきじゃないかなぁというイメージ。

では、なんでプログラミングを義務教育の教科に入れたほうがいいと思うのか。一つ思いつきやすいところとしては、日増しにエンジニアの社会的ニーズは高まっており、これは今後も右肩あがりであろうし、それは国内のみならず世界的な傾向といえるでしょうから、という見方だろう。

義務教育の目標の一つとされている「職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと」にどんぴしゃりってことになるだろうか。

国語や数学や社会や理科や音楽や体育と同じレベルで、プログラミングも早いうちから、まずはこういうものがあるんだと存在を知るきっかけが早期に与えられるべき分野になったのではないかという。その存在を知る機会さえ与えてあげれば、興味のある人はずんずんその先に進み、深めていける。ただ、その存在を知る機会がなければ、そのまま子ども時代のつきあいなく時間が過ぎていってしまう。そうなってしまうにはあまりにも重要な分野に成長しているんじゃないかという話だ。

ただ、そうした「適性のある人に早く出会いの機会を」ってことに限らず、私はプログラミングの基礎を学ぶことって、みんなにとって有意義で有効なもんじゃないかなぁと思っている。会得できたかどうかという結果より、学ぶプロセスで得るものへの期待感が個人的には大きい。

プログラミングの特徴というのは、自分の出した指示に、これという反応がかえってくることだと思う。「このときの主人公の心境はどんなものだったと思いますか?」と問われて、「○○と思う一方で、○○という思いもあったと思います」と答えると、「そういう捉え方もありますね」と先生から曖昧な反応が返ってくるとか、そういうとらえどころのなさと真逆にあるというか。

自分の出したとおりに、反応が返ってくる。それ以上でも以下でもない。そこで自分の指示に不備があれば、反応が得られない。あるいは、誤った反応が返ってくる。人のせいにできない。自分の指示がまわりくどければ、指示が遅れ、反応も遅くなる。隣をみると、もっと素早い指示の出し方をしている人がいて、その差異が明示的にわかる。お題が共通していれば、どちらがより効率的かが一目瞭然であり、効率的で合理性が高い解のほうがベターという思想も前提にあるように思う。そういう中で、視覚化されたフィードバック、視覚化されたより合理的な解の導き方に触れながら、人のせいにできない環境で、自分の能力を自覚し、より良い答えを知り得るプロセスは、とても有用な体験だと思う。教育のすべてがそうあるべきとは思わないけど、そういう部分が濃厚な分野も含まれていたほうがいいとは思う。

あと私がプログラミング学習で個人的に一番関心をもっているのは、省察やメタ認知力を鍛える効果についてだ。現代の基礎教育は、固定的な知識を得ることより、知識を入れ替えさし替え生涯を通じて継続的に学んでいけるよう「学び方を学ぶ」方法が問われる。そんな中で、省察やメタ認知は非常に重要な基礎体力だと思う。Papertは、プログラミング学習の中で、それを学ぶことができると説いている。

Papertは、子どもたちがプログラミングを学習する中で、手続きを詳述すること、繰り返しを見いだすこと、そして、プログラムが期待したとおりに動かなかったときに、自分自身の考えを「デバック」することを学ぶと主張している。

『学習科学ハンドブック』R.K.ソーヤー編、培風館

さらに、こうして何らかの役割を果たすものづくりを手がける一連のプロセスで、プロジェクトとか、ものづくりにおけるスコープというものを学ぶことになると思う。何が機能するようになったら、これは一旦「できた」ということになるのかという範囲だったり、いつまでに作るのかとか、どうしたら効率的に作れるのかとか、あちらを立てるとこちらが立たないけど、さてどちらを採ったらいいのかとか折衷案で何かよい策はないかとか、ものづくりを完成に至らせるまでに人はいろんなことを考える。俯瞰的に一連のプロセスをみて省察することも自然とやる。それは、必ずしもプログラミングで学ぶ必要はないと思うけれど、比較的そういうものをミニマムに学ぶのに相性のよい分野だと思う。

そんなこんなで、そろそろ義務教育の教科に「プログラミング」を加えたほうがいいような…と思っている。そろそろ来るんだろうか。私立の学校とかが成功事例を出していってって感じになるんだろうか。できないくせに、そんなことをもやもや考えたりする。

追記:あとあと、作って楽しい、作り途中の模索も楽しい、人と話すとまた発見があって楽しい、出来上がって嬉しい、を体験できるのも、もちろん大きいなぁと。ものをつくることの感情体験というかなぁ、これってすごく大切と思う。

2012-04-21

軽はずむ言葉

ブログを書き続けていると、山谷が巡ってくる。なんだか立て続けに書きたいことがわいてきて、毎日のように更新してしまうときもあれば、全然書くことがひとまとまりとなっては浮上してこずに、しばらく更新が滞るときもある。

それを「書けないとき」と表してもいいのだけど、個人的には「書かないとき」というほうがしっくりいくかなと思っている。仕事じゃ締め切りがあるからそうはいかないだろうけど、これはただのブログである。書く気にならないときは、普通に書かないことにしている。一方、書くことがぼこぼこわいてくるとき、書かずにはおれん!という衝動が走るときは、それも制限せず、そのまま書いてしまうようにしている。力量不足で形にならないことも多いけれど…。

どうして書かないときは書かないでいい、書かないのがいいと思うか。それについて書いてみる。そもそも、定期的な更新を前提として始めたわけではない気ままなブログという前提はあるのだけど、それとは別軸で私の根底にあるのが、言葉は上滑りを始めるものだからという認識である。

言葉を日々書き連ねていき、それがナチュラルハイみたいな状態に達すると、なにか自分より自分の発する言葉のほうが主導権を握り出して、自分の頭で自分ごととして考えたり実感できていないものも、何かの流れにのって言葉が勝手に暴走しだしたりする。主従逆転現象というのかな。そういうのを、昔なんとなく予感したことがあった。

言葉は、中身がなくても言い表せたり書き表せたりする面がある。そこから何かが創造されることもあるから、一概にそれが悪いことだとは思っていない。ただ、自分の発する言葉に我が身を預けて放っておくと、自分が思うより、自分のはく言葉のほうが立派になってしまって、これが人に誤解を与えたり、おいおい実際の己とつじつまが合わなくなったりもする。

何より怖いのは、自分自身が自分を見誤ってしまうことである。言葉に表したことで、さも自分がそれをわかっている、そう思っている、それについて一家言もっていると無意識のうちに思い込んでしまう。中身は薄っぺらいままなのに。自分で自分を見誤ると、これはなかなか歯止めがきかない。そこに飲み込まれるのは、ちょっとご免だなぁと思うので、自分がはく言葉の暴走には細心の注意をはらっている。

言ってしまってから反省することもあるけれど、それはそれで自分の言葉として発した責任を負う覚悟はある。「確かにそう言いました。でも、違いました。ごめんなさい」というだけかもしれないけど(笑)、まぁそれも大事なことだ。

もう一つ、書かないときは書かないでいいと思うわけは、焦らずともまた、四季が巡るように、書くことがぼこぼこわいてくる時期も巡ってくるのだろうと思っているからだ。一日一日を大切に生きていれば、おのずといろんな人の言葉や思いや考えやふるまいに触れることになる。本を読めば、また違う世界に触れられて刺激を受ける。そういう日々の生活の中でまた、いろんなことが心のうちでゆっくり一つのかたまりをなしてきて、いずれまた言葉がわいてくるのではないかなと。

どうも私は、そういうのを文章に表したい衝動が働くタチらしいし。実際どうなるか未来のことはわからないけど、漠然とそう信じているところがある。それを書き表す過程で、自分自身が深まっていくのがこの場に求めるところであって、それをできるだけ頻繁に起こすことはさして重要ではない。だから、無理くり何かをアウトプットしなくても、肩の力を抜いて、日々の生活を大切に営んでいればいいかと。

不器用だなぁと思うこともあるし、日々散らかり続ける手書きのメモをもっとまとまった思考で文章に起こせるだけの力量があったらと思うこともしばしばなのだけど、まぁ自分らしく模索しながらやっていく。そういうのがいいかなと。

2012-04-14

「くださる」の奨め

最近、「〜が〜いただく」という誤用をよく耳にする。「○○さんが著書を提供いただきまして〜」「○○さんがお話しいただいた先ほどの件は〜」みたいな。書くとさすがに、おかしいと伝わるだろうか。でも、話し言葉の中ではけっこう頻繁に使われているのだ。

「〜いただく」というのは謙譲語で、自分の行いをへりくだって表現することで、相対的に相手を上に持ち上げる敬語表現だ。「〜(して)いただく」は「〜(して)もらう」をへりくだった言い方だと覚えておけばいい。「本をもらった」は「本をいただいた」になり、「本を提供してもらった」は「本を提供していただいた」になる。

主語は、私だ。私が「本を提供してもらった」のだ。「私が本を提供してもらった」のだから、「私が本を提供していただいた」のであって、「○○さんが本を提供していただいた」にはならない。もし「○○さんが本を提供していただいた」が成立するシーンを考えるとすれば、私から見て、○○さんよりさらに敬うべき第三者がいて、その人に敬意を表すために○○さんの行いをへりくだった言い方にしているということになる。

別に目くじらたてることでもないと言われればそうかもしれないし、私も特別、敬語の誤用を見聞きした現場で、目くじらをたててどうこう責め立てたりはしない。敬語を大事に使いたいのは私の個人的なこだわりなので、その度合いを人にそのまま求めるものでもなかろうとも思っている。ただ、きちんと使いたいとは思っているけれど、人の使うのを見聞きして誤用を覚えてしまっただけだったらもったいないので書いている。敬語を使うなんて、それこそ人に伝わってこそ意味があるものだろうと思うし。

さて、実はこれが言いたいことの核心ではなくて、私が書きたいのは「くださる」の奨めだった。前段が長くなってしまった…。「〜いただく」というのは、「〜もらう」の謙譲語だ。「〜もらう」とか「〜してもらう」というのは、こちら側がしてもらいたいなぁと思って、してもらうことだ。しかし、それ以外にも、相手側がしてあげたいなぁと思って、してくれることというのがある。これをしてもらったときに、「いただく」を使うと、ちょっとしたニュアンスのズレが生じてしまう。

どういうことかというと、「○○さんに本を提供いただいた」と「○○さんが本を提供くださった」ではニュアンスが違うということだ。前者では「私が本が欲しいなぁと思っていて、○○さんがくれた」ことが窺えるが、後者では「○○さんが私に本をあげたいなぁと思って、率先して本をくれた」というニュアンスになる。誰の意思によってそれがなされたのか、というところが「いただく」で表した場合と「くださる」で表した場合とでは違うのだ。

「いただく」は「私は○○さんに××していただく」という当方主体の表現、「くださる」は「○○さんは私に××してくださる」という相手方主体の表現だ。その××という行いの意思は、主語に宿っている。「〜(して)くださる」は「〜(して)あげる」の尊敬語だ。相手の行いを上に引き上げることで、自分の位置を相対的に下げて相手を敬う表現だ。

「いただく」と「くださる」はどちらも使う用途があり、今世の中はどこもかしこも「いただく」のオンパレードになっている感があるけれども、「くださる」が出てくるとちょっと表現が豊かになるし、またちょっと、こちらからのお願いでなく相手の善意によって事がなされたという背景が伝わりやすくなるんじゃないかと思う。説明がわかりづらかったかもしれないけど、時々そんなことをぶつぶつ思っている。

2012-04-06

育てるより、育つ仕組み

gihyo.jpで連載している「Webクリエイティブ職の学び場研究」に、NHN Japan執行役員/CTO 池邉智洋さんを取材した記事が公開されました。お時間のあるときに、ご一読いただけたら幸いです。

第9回(前編)―「放置」と「無茶ぶり」の裏に隠されたNHN Japan流の学習環境
第10回(後編)―個人も組織も,”なんでもあり”の多様性の中で強くなる

今回の見所は、私にしてはタイトルがメディアのそれっぽい!(前編のみ)というのは置いておいて、いやほんとに、独特の組織風土や池邉さんの魅力がてんこもりです。取材で得た魅力のほどをそのままに、きちんと読んでくださる方にお伝えせねば!と、今回もあーじゃこーじゃうなりながら構成して原稿を仕上げましたが、皆さんのtweetやはてなブックマークを覗き見るかぎり、きちんと魅力が伝えられた感があってほっとしました。

今回の取材先は特徴的にそうだったと思うのですが、企業にはそれぞれに「人を育てる」仕組みだけでなく、「人が育つ」仕組みが暗黙的にひそんでいると思うのですよね。その「人が育つ」仕組みが現場でどんなふうにまわっているのか、場合によっては中の人すら意識していない各社の好循環を取材して、言葉に起こして、読んでくださる方に共有していけたらいいなぁと思っています。今後とも、どうかごひいきに。

2012-04-04

新京成線が止まらぬからくり

昨日の「春の嵐」のさなかに、気づいたことがある。どんな嵐に見舞われても、東京都近郊ほとんどの路線が根をあげて運行を見合わせようとも、新京成線だけは決して運行を止めず走り続けることは、千葉県民の間では広く知れ渡っているのだが、そのからくり。

多くの人には自明のことかもしれない、考えてみれば当たり前のことなのだが、私はすっかり見落としていた。いや、だからといって運行を見合わせる在来線を責める気は毛頭なかったけど、いつも単純に新京成線えらいなぁ、けなげだなぁと思っていた。私は生まれも育ちも千葉県で、新京成線には古くからお世話になってきたのだ。通学に電車を使い出した20年前(ぎょっ)から、どんな暴風雨、大雪に見舞われても新京成線は止まらなかった。

昨日は、京葉線、武蔵野線、京成線、東洋高速鉄道、総武快速線、中央緩行線、東西線、久留里線、常磐線が軒並みダウン。Twitter上には「#千葉県民終了のお知らせ」というハッシュタグができて盛り上がっていた…。風が強いと、東京都と千葉県の間を流れる江戸川を渡れないのだから仕方がない。そんな中で、新京成線は昨日も運行し続けていた。

と、ここで気がついた。新京成線は川も渡らなければ、海岸線を走るわけでもない。なだらかな起伏が続く下総台地を、ゴトンゴトン走り続ける鈍行電車なのだ。

もちろんだからといって、嵐の中の運行がへっちゃらなわけじゃなかろうし、新京成線利用者にとってかけがえのない存在なのも変わりない。どんな悪天候でも平常通りの運行を続けよう、乗客を家に送り届けようとする姿勢にも心打たれる。それもまた変わりない。

しかし、川を越える路線や海岸線を走る路線と(暗黙のうちに)比較して、新京成線を讃えるというのはちょっと浅薄であるなと反省した。それぞれの路線がさまざまな自然環境にさらされながら、精一杯のことをしているのだ(たぶん)。

ちょっと気を抜くと、表面だけみてあーだこーだ勝手なことを思ってしまうのが人の常ではあるけれども、自然体で自分の目に映る世界が、もっともっと奥行き豊かな人間になりたいと思った一件。そして、どんなに目を凝らしたところで結局、自分には見えていない死角があることをわきまえて、いつでも「なるほど」「あぁ、そうか」と考えを改められる頭と心の柔らかさを大切にしたいもの。

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