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2012-03-31

社長

昨日は社長の最後の出勤日だった。この節目で、自分の勤める会社の社長が変わる。こうしたことに立ちあう機会、つまり自分が7年以上もお世話になっている会社で、17年にもわたって会社を経営してきた創業者が社長職を離れるのを見送るような機会は、私の人生でこれが最初で最後だろうと思う。

少し前にその通達を目にして、驚きとともにまず思ったのは、社長は今どんな想いだろうかと按じる気持ちだった。明日からは、うちの会社を傘下におさめるグループの別会社の社長になり、社会的には「栄転」といえる人事だ。しかし、自ら創業した会社、17年間浮き沈み激しい市場にもまれながら必死に会社を守り、社員を守り、波瀾万丈な年月を経て今に至るわけで、想いのほどは私などに想像のつくものではない。

ただ、昨日の来期キックオフミーティングでは、社長の伝えていきたいことを皆で受け取ったし、その後のパーティーでは、皆のほんとうにあったかな気持ちが社長に届くのを肌で感じた。それに応える社長の想いも、皆で受け止めていた。とても心豊かなひとときだった。

私が入社したのは2005年で、その頃には社員数もけっこう増えていたから、私が社長と直接お話しする機会はほとんどなかった。入社から数年の間は、社長の立場やそこから見える風景に関心を寄せることもなく、ただただ私は市場をみて現場で働いていただけだった。

そこから数年してようやっと見えてきたのは、社長はマーケティングの仕事をしているんじゃなくて、経営の仕事をしているんだなということだ。おまえは何を言っているのだ…と思うだろうけど、私は本当のところで、それを理解できていなかった。と大きくなってから気がついた(えーと、30歳とか超えてからかもしれない…)。

これに気づくと、自分の勤める会社は船のように見えてくる。経営層というのは、大海といえる市場に船を出し、船を舵取りしている。私は1乗組員として、自分の持ち場から海を見て、自分の役割を日々えんやこらしている。

乗り込んだ船は、風雨や、ときには嵐に見舞われることもあるけれど、私はそれで船が沈んでしまうのではないかとか、吹っ飛ばされて海に放り出されてしまうのではないかとか、そういう危機感を心のど真ん中で抱え込むことなくやってきたんだと思う。あったとしても、経営者のそれとは比にならぬものだ。私はその船に身を委ね、地に足がつくことを当たり前として仕事に励んできたのだ。

昨日のパーティーの席では、意を決して社長をつかまえ、頭を深く下げてお礼を言った。波瀾万丈な中、社長が必死で会社を経営してくださっている中で、少なくとも私はいつも安定して、やりがいのある仕事をさせてもらってきました。そのことを心から感謝しています。そうお伝えして深くお辞儀をした。私が言えることは、それがすべてであり、それだけしかないのだけど、どうにかそれができて、本当に良かったなと思う。

会社っていうものが、自分にとってどういう支えなのかを深く理解させてくれたのは、今の会社だなぁって思う。明後日からまた、よい関係で、支え、支えられてやっていけたらいいなぁと思います。

2012-03-22

お墓参りの初体験

春分の日は朝早く実家に戻り、父を誘ってお墓参りに出かけた。午後は仕事にあてないといけなかったので午前中だけの強行軍帰省だったけど、前日までの雨空とうってかわってぽかぽかした春らしい陽気、のんびりした気持ちで母の眠るお墓を訪れた。

実は私、お墓参りというのが初体験。昨夏からお墓をつくり始めて年末に完成。先月あったのは開眼供養と納骨で、このお彼岸が初めてのお墓参りだった。さほど知識もないけれど、お彼岸といったらお墓参りだろうと思い、少し前に父に声をかけておいた。ちょうど納骨からひと月あまり経って、様子をみにいったほうがいい頃合いでもあったし。

お彼岸にはやっぱりみんなお墓参りをしているのねぇという感じで、時間帯は早かったものの墓地はこれまでになく人でにぎわっていた(という表現もなんだけど)。前回からひと月ほどしか経っていないので、さしてよごれた感じもなかったけれど、まずはお掃除しようということで、墓地に設置されたたわしやらほうきやらをもって、手桶に水を汲んでお墓へ向かった。

私が柄杓で水をすくって…とちまちました動きをしていると、父は土足で墓石にのぼって頭っからばっさーと水をかけ出した。もう一杯いくか、そっちの掃除終わったらあともう一杯いくかと、計何杯かけたかわからない。大丈夫なのか、そういうものなのか…。

よくわからなかったので、ふーんと見ていたけど、良くいえば、子どもの頃親にお風呂にいれてもらって頭を洗ってもらった後に洗面器に入ったお湯を頭からばさーっとかけられている感じ。悪くいえば、なんかの罰ゲームで大きなたらいに入った水を頭からぶっかけられている感じで、半分子どもの遊びのような光景だった。

「あなた、墓石に土足で乗らないの!」とか「頭っから思いっきりかけないでよ!」とか、母の突っ込みが聞こえてくるようであった…。まぁでも、ちまちまやるより、すっきりきれいになって、良かったんじゃないかな、きっと…。幸い、先祖代々の墓でもなく、母しか眠っていないので理解もあるだろう。

一通りきれいになると、お花をお供えして、お線香の束を寝かせて、父、私と順番にしゃがんで両手をあわせた。ひざを曲げてしゃがむと、先月遺骨を納めたお墓の底に近づき、目線をあわせる気がして心地が良かった。目を閉じると、背中にぽかぽかの日光を感じる。とても静かで、目を閉じた世界に質感があった。

人の死に直面すると、宗教の意味がよくわかる。信仰の必然性が、すとんと腑に落ちる。私のはつまみぐいのような信仰心だし、これ以上に信仰をあつくする気もないのだけど、大切な人の死を、先人の残したストーリーに頼らずして受け止めることは、ほとんど無理な話なのだった。

いなくなりました、というだけでは整理がつかない。お空で見守っているでも、輪廻転生でも、何か「こうらしいよ」という発展的お話を与えられないとやっていけない。内村鑑三の「死んだものが悲しいのではない。棄てられたものが哀しいのである」とは、それがすべてではないけれど、ある一面を正確に表している感じがする。

頼れるストーリーと、物質を欲する。お墓、遺骨、位牌、遺影と、手に触れられる物質も、それなしには喪失感を支えきれないもんだなぁと思う。物として在るということは、時としてとても大事なものなのだと、世のデジタル化と真逆方向をむいて思うところがある。

お墓参りを終えると、父がぽつり「じゃあ、行くか」と口にした。私がうなづくと、父はまたぽつり、「じゃあね、また来るね」とお墓に声をかけた。お墓にかけるにはあまり似つかわしくない表現で、なのにそれがものすごく自然に感じられて、このお墓は私たちにとって、母なのだな、と思った。

2012-03-16

ネットの最下層

「僕がグーグルを辞めた理由:Why I left Google @docjamesw」を読みつつ、普段思っていたことを走り書いたメモ。

FacebookとGoogle+が横並びに語られるのをみても今のところ違和感ないのだけど、Facebook社とGoogle社を横並びに語っている文章をみると、どうしても違和感がわく。

なぜ違和感がわくのか考えると、たぶん私がGoogle社に期待していることと、Facebook社に期待していることが、(具体的に言い表せないけど)明らかに階層の異なるものだからなんだろうな、と思う。

情報インフラとして捉えると、ソーシャルネットワークが社会の情報インフラの最下層に位置しているというのは、ものすごく軟弱で頼りない気がする。だから、ソーシャルネットワーク層より下に、もう一層、「知ってる人ネットワーク」から影響を一切受けない最下層を敷いておきたい。

私がGoogle社に期待しているのは、その最下層情報インフラの整備と充実で、それと全然別のラインでソーシャルネットワークサービスをやる方法はあるかもしれないけど、「連携」という名のもとに、その2層をまぜこぜにされてしまうと、最下層インフラは純度を保って機能しなくなると思う。

なので、Google社には勝手ながら、連携しないで2層やるか、あるいは最下層だけをやってくれたらなぁというのが、素人の個人的な思いだったりする。

最下層ってどういうもんなのっていうと、それもまた言い表すのが難しいけれど、理知的な判断に基づくもので、ユングの分類に頼れば、feeling軸(感情・人の価値観)ではなく、thinking軸(思考・原理原則)にのっとって順位づけ、情報と情報の紐づけがなされた情報インフラという感じ。

なんだか曖昧なイメージだけど、理知的な思想に基づいて構築された情報インフラが純度を保ったまま最下層に整備されていたほうが、世の中の情報流通は豊かになる気がしている。

そして、それって世界最高峰のテクノロジー企業にしか開拓できない領域だと思う。で、それをできるプレイヤーって、Google社しか現実的に思い浮かばないから、ここをやってほしいなぁと思うんだろうなと。

自分が知らない(フォローしていない)人か、知っている(フォローしている)人かに「一切影響を受けない」ことを前提とした、「それ以外の」さまざまな要素から順位づけして情報をつなぎあわせるネットワーク層。社会の拡張性ってそういうところに育まれる気がするんだけど、どうだろう。

2012-03-15

没入としみじみ

このところ、提案書を作ったり原稿を書いたりと、情報を整理して思考を文字に起こして編集してアウトプットを仕上げてどこかに納める系の仕事が立てこんでいる。あれを終えたらこれ、これを終えたらそれ、という感じで、かなり没入状態が続いている。予定は立て込んでいるのだけど、慌ただしい感じはしない。腰をすえて熟考し、深海に潜り込んで拾ってきた思考を、丹念に言葉に起こして形にしていく作業を繰り返している感じだ。

途中途中で、人と打ち合わせをする。あるいは客先でヒアリングする時間をもつ。それもまた静謐なひとときで、一方の私は打ち合わせを進行したり、質問したり意見を出したりしているのだけど、一方の自分はとても静かにそれを聴いていて、何かの気づきを得たり、私の頭の中を整理したりしている。それを持ち帰って、また一人静かに自問自答して、最終形までもっていく。

そういうときって、プールで泳ぎ始めて10分くらい経ったときの真空な感じによく似ていて、自分のいるところがどこだかいまいち忘れてしまっている。だから最近は、席に座っているんだけど会社にいることをほとんど意識できていない時間が長くあったりする…。

これは、つい最近まではほとんどなかったように思う。少なくとも、ここ最近ほど深く長く頻繁に没入状態が繰り返されるというのは、このブログに取り上げるくらいには私にとって特別な出来事だ。どちらかというと、常に周囲に一定の意識が残っていて、没入できる人をうらやましく思っていたぐらいだ。

で、この変化ってなんなんだろうって考えてまず思いついたのが、歳だった。良く言えば、他いろいろ考えてもどうせ中途半端になるだけなんだからと割り切れるようになったってことだろうか。悪く言えば、と考えるのは止めておこう。

ともあれ、これってものすごくありがたい状況だよなぁと、最近しみじみ思う。仕事場を離れてちょっと一息ついたりしたとき、ありがたいことだなぁと、山登りの途中で切り株に腰かけておじいさんがぽろっと思うようにして、しみじみ思うのだった。

この辺で貢献できるのではないかというあたりに仕事の場をもたせてもらって、そのあたりの相談が実際にやってきて、それに対して静かに考えたり、いろんな人の知見をもらって没入して形にしていって、それがきちんとお客さんに届いて一つの価値を生んで、そこに細く長く介在させてもらって、そんな今をおじいさんのような気持ちでしみじみ実感できるという…。

そのやりとりの過程でも、一緒にお仕事させていただく方ってほんとみんな聡明で、ご自身の専門に造詣が深くて、建設的で、ユニークで、配慮があって、でも自然体で、あったかくて、生命力があって、こちらの意図するところをキャッチャーミットのど真ん中で受け取ってくれて、返すボールも私のキャッチャーミットのど真ん中におさまるように返してくれて。

横柄な人ってほんと会わないし、なんだか、いくら言葉を尽くしても、そのありがたさを表しきれる感じはしないのだけど、これってすごいことだよなぁと。都合よく忘れっぽいので、そうでないこととか華麗にスルーしていたり忘れていたりするだけかもしれないけど(笑)、まぁでも素敵な人が周囲にうじゃうじゃいることに変わりはない。

私もそういう空気をまとって末永くお仕事ご一緒させていただけるように、すくすく伸びていきたいわーって、最近ほんと、よく思うのだった。

2012-03-10

欲なくない

昨日は誕生日だった。年々、年齢不詳感が増していく気がするのだけど、36歳である。「いつまでも若々しいわ!」というよりは、「あっさり淡白で変化が感じられない」という意味において、実年齢より若く見られることが多いように思うが、それもまた自分らしい齢の重ね方ということになろうか。最近は自分でも自分の年齢を忘れてしまうけど…。

今年は昨年にもまして、Facebook上でお祝いメッセージをたくさんいただいた。なんだかものすごい数なので、私、こんなに友だちいたのか?と驚いてしまった。自分の市場価値が何かのまちがいで急騰し、明日一気に暴落する、みたいな折れ線グラフが頭のなかに描かれて、ここは一人ひとりのメッセージをありがたく頂戴して、数の多さには心惑わされぬようにと脇を引きしめた…。いいですか、これはFacebookの力なんですよ、と。

年を重ねれば重ねるほど、人は複雑になり、多様になり、私はこういう人間ですとは言い表せなくなってくる。自分を優しい人間ですといえば、優しくなかった過去の自分のふるまいが顔を出すし、厳しい人間ですと言えば、あったかいふるまいをした過去の自分が顔を覗かせる。そのまるごと全部を背負って生きていくのだから、年をとればとるほど背負うものは多くなるはずなのに、なんでしょう、36歳にもなると、逆に何も背負っていない感じに自分のことは相当ふわっとしてくる。

家族のこととか、周りの大事な人たちのこと、社会のこととかで、自分がなすべきことに考えを巡らすことはあれこれある。お子さんをもっている方とかは私の比ではないだろう。そういう世界観になってくると、「自分」というものの見え方ってずいぶん軽くなっていくものだ。

もう自分について「何かになりたい」とか思わないのかもしれない。「何かをしたい」とは思う。その一つひとつを積み重ねる日々であって、それが世の中の業界だの職種だの、既成の一つの枠組みにおさまらなくても構わないし、それを気にしてやるのやめるの考える意味も見つからなくなってくる。

若いうちは、あちこち手を出さないで石の上にも三年みたいなことに一定の価値を見いだせるが、年取ると今の自分が貢献できるもの、貢献したいことに身を捧ぐのが合理的と、ある種判断が単純になっていく。

「何かになりたい」という軸がなくても、自分で「何かをしたい」と具体的に生み出せる力もついてくるから、誰かに名づけられた既成の枠組みを目指して、それになるためにその要件を満たしていく、みたいな奮起の仕方をしなくなっていくのかもしれない。歳をとると。昔からさしてあったような気もしないが、それはまぁ個体差ということで…。

肩書きのつかない、大成しない生き方かもしれないけど、やりたいこと、やるべきと自分が思うことを一つひとつ形にしていけたらいいかぁと、そんなふうに思う。

またしばらく仕事が忙しそうなんだけど、大事なものを、大事にしたなぁと振り返れる一日一日が積み重なって、一年を過ごせたらいい。大切な人や大切なことなのに、そうであることを忘れてしまったり、大切だと思っているのに大切にできなかったり、そんなことがないように。それだけで、人生は十分にすばらしい。

2012-03-07

辞書の見出し語

この間、本屋さんで雑誌をぺらぺらめくっていたら「出版社の辞書編集部を舞台にした小説」って本の紹介文が目にとびこんできた。「辞書編集部」という設定に心奪われて、そのまま小説のコーナーに行って本を手にとりレジ直行、三浦しをんの「舟を編む」を買ってきて一気に読んだ。面白かったなぁ。

久しぶりに女性向けっぽい本を読んだのでそれも新鮮だったけど、やっぱり辞書編集部って設定が何よりツボだ。人のえがき方もあったかくて良かった。軽快なテンポで読めるのも良かった。このところ内省モードが続いていたんだけど、気分をふわっと軽くしてくれた。

辞書のエピソードがいちいちしみる。子どもの頃、英語の教科書に『fish&chips』って出てきて、意味がわからなかったので辞書で調べたら、『フィッシュ&チップス』って書いてあって残念極まりなかったとか、【男】を「女ではないほう」、【女】を「男ではないほう」としてある語釈へのがっかり感とか。軽快にして絶妙なんだよなぁ。

ちなみに「〜でないほう」って語釈は辞書の常套句らしい。そんなの読んじゃうと、これを使っていない語釈に、辞書をつくる人の熱っぽさを感じて、胸ときめいてしまう。

辞書を使う側は、語釈の答えをもっていないからこそ辞書を引くわけだけど、こう書いてあってほしいって勝手に期待している領域みたいなものはあるのだ。で、「〜ではないほう」というのはやっぱり期待の的をはずしてしまっている感じ。「こういうものだ」と何かに言語化してほしいのだ。

でも、それに応えるのはすごく難しいことで、専門性を要求されるし、知性と信念、冷静さと情熱をもってあたらないと書き記せない。それをして辞書の価値が生まれる。うー、深い。熱いなぁ。

こういうのって、他のサービスでも一緒だよなぁと。使い手の曖昧な期待に応えること。ときには使い手が、曖昧でなく具体的な要望をあげてくることもあるけど、それも一旦曖昧な期待にこちらで抽象化して、提供者側が咀嚼した上で具体化したほうが、実は本質的求めに応じられることになったりする。

【西行】(さいぎょう)には、人物としての西行さんのほか、「不死身」という意味やら、「あちこちを遍歴するひと」「流れもの」の意もある。もはやほとんど使われていないけど「タニシ」という意味もあったり、能の作品に「西行桜」があったり、「西行被き」「西行背負い」「西行忌」なんて言い回しもある。けれど、このすべての意味を載せるスペースはとれない。

そのとき、その辞書にどの意味を載せ、どれを載せないか。語釈の内容以前に、見出し語の採否だけで途方に暮れてしまう仕事である。今の時代にどれだけ求められるものなのかとか、【西行】を知っていれば文脈から意味をたどれそうかとか。加えて、その辞書が読み手に何を届けたいか、何として世の中に価値を提供したいかといったことも判断の重要な軸になる。

このお話では、「実際の流れものが、図書館かなんかで、なんとなく辞書を眺めてるところを想像して(略)【西行】の項目に、『(西行が諸国を遍歴したことから)遍歴するひと、流れものの意。』って書いてあるのを発見したら?そいつはきっと、心強く感じるはずだ」って、すこし軽薄な役柄を演じる西岡さんの台詞がある。ちなみに、この西岡さんのえがき方がとてもいい。

その辞書で言葉を調べた人の曖昧な期待に、どう応えられるように言葉を編むか。冷静な言葉選びの底に熱っぽさが帯びている。いやー、小説って本当にいいものですね、という気分。

2012-03-06

あやふやなことを言う

一つ前の話で、ずいぶんとあやふやなことを書いた。あやふやなことをあやふやなままアップした。かろうじて救われるところがあるとすれば、筆者にあやふやなことを書いたという自覚があるらしいことだが、一方で、自分があやふやなことを言っているのは承知しておるのですと随所に弁明されているのが、この文章のうっとうしさにもつながっており、どっちに転んでも痛い、切ない仕上がりだ。では、なぜこんな状態でアップしたのか、それが本論である。つまり自分救済コンテンツだ。

多くを語るまでもなく、社会において「あやふやなことを言う」の立場は弱い。「あやふやなことを言うな」ととがめられることはあっても、「あやふなことを言ってくれ」とせがまれることはない。「ポイントを3点に絞って話せ」とか「考えをまとめてからもってきてちょうだい」とか、世の中はそんな指導であふれている。

しかし、では「あやふやなことを言う」には何のとりえもないのかというと、そんなことはない。あやふやが「許容」されるだけでなく、「推奨」される場だってあることを見逃してはならない。何事にも裏があり、自分が裏側にまわればそちらが表側になることを忘れてはならない。なんのこっちゃ。

人は何事も、最初から「きっぱり」わかっているわけじゃない。「あやふや」過程を経由してこそ「きっぱり」に到達する。「あやふや」過程なく「きっぱり」に到達したという事柄があるとすれば、それは自分で考えて到達したのではなく、出来合いの知識を人から譲り受けただけじゃないだろうかと、まずは疑ってみる必要がある。その知識は、どれだけ自分の血肉となって日常的に発揮されているだろう。

最もよい学習は、学習者が自身のまだあやふやな段階の思考過程を明示化し、学習過程を通して明示化し続けるときに起こる。 多くの場合、学習者が実際に何かを学ぶのは、それを明示化し始めてからである。つまり、人は自分の考えを外に出すこと(外化)によって、静かに学んでいるときよりもすばやく、そして深く学ぶことができるのである。

R.K.ソーヤー「学習科学ハンドブック」より。なんと頼もしい言葉。そう、私は学習過程なのである、と開き直る。

人があやふやなことを言うのを、TPO問わず糾弾するのでは、「あやふやなことを言う」が不憫である。「あやふやなことを言う」に、まるでその存在価値が一切ないみたいじゃないか。オンラインでもオフラインでも、もちろんTPOに応じて、きっぱりしたこと以外言わないほうがいいこともあるけれど、あやふやなことでも言うべきとき、むしろあやふやな状態でこそ一旦言葉に表す努力をして有効なときがあるのだ。

文章は、完成された人が完成したものを披露するって枠組みだけで語れるものじゃない。人はみな道半ばにあって、学習過程の人が途中経過のものを表出化しているという枠組みで捉えたなら、あやふやなことを書いた文章にも意味は生まれるし、さてこの混沌をどう整理していけるかと考える道具になる。

まぁ文章だと、あやふやもほどほどに…という気分にならざるをえない部分もあるけど(すみません…)、口頭であやふやなことを言っている状態なんかは、許容されるべきだったり、実は推奨されるべき場面も多いのではないかと思う。というわけで、まぁ昨晩ブログであやふや言った本人的には恥ずかしい思いがないとは言えないけど、元気出していこう。「あやふやなことを言う」にも尊厳を!

ターゲット

ワークショップなどでマーケティングプランなりプロモーションプランを考えるお題が出ると、決まって「誰に向けて?」という設定をすることになる。それで「ターゲットの設定」について人の意見や発表を聴いていて、ちょっと薄気味悪さを覚えることがある。

それはどんなときだろうと考えてみると、そのターゲティングしている対象に対して、発言者の共感性や敬意が感じられないときだと思った。単に言い方の問題かもしれないし、そういう意味じゃ私も人にその薄気味悪さを感じさせてしまっているかもしれない。

なんというかな、自分はその対象に含まれないのが大前提というふうで、「世の中にこういう人っているじゃん」的に、そのターゲットの本質を掌握したような語り口になってしまっているとき。ターゲティングとかしているときって語り口がそうなりがちだし、自分の過去の発言を思い起こしても、ちょっと寒気がする。

ターゲットの設定について議論しているうち、どんどんわかりやすい、つまり表現しやすい人物像に収斂していって、ものすごく薄っぺらい人物描写に終わってしまう。時間内に収斂させなきゃいけない面もあって、んなわかりやすく三流漫画の登場人物みたいなキャラクターいるのか…っていうところに収まってしまう。

現実にいるかより、キャラクターとして立っているか。現実世界に一定数確保できるかどうかより、キャラクターとして表現でき、人にそのキャラをイメージさせられるかどうか。そういう軸にすり替わってしまうと、企画する側の人間の捉え方や表現力が貧弱であればあるほど、リアリティのない架空世界の話に終わってしまう。

「ターゲット」というのは、事業主にしてみればまさにお客さんなわけで、自分たちが手間ひまかけて作った製品なりサービスをど真ん中で届けたい人たちってことだし、それがどこの層になるにせよ、その一人ひとりが実在し、自分なりの人生を生きている、尊い存在だ。

そこを、型通り「何歳から何歳くらいの、こんな属性の、こんなこと思ってる人いるよね」と捉えて語ってしまうのは、すごく前時代的ではないか。多様性が説かれる時代に、旧来のマス広告的やり方に学ぶべきじゃない一番のポイントじゃないか。

伝えたいことを書くだけの文章力がなくてすごくはがゆいんだけど、人間、普通に生きていれば誰しも、一定量の自尊心だとか自負心だとか名誉心だとかプライドだとかってもつと思うし、時には人に羨望のまなざしを向けたり、嫉妬、焦り、苛立ちを自分の心のうちに認めて、自分で自分がいやになったりもする。人と比べて卑屈になる自分、衝動に振り回される自分、やり過ごす自分、やるせない自分を相手に格闘した体験だって、多くの人がもっているはず。

そういったものを、あたかも自分にはないけど、この層にはこんな感情あるよねぇって人物描写した「ターゲット設定」を聴くと、あれ、なんかものすごく高尚な人間が低俗な人間を描写しているふうに聴こえるけど、人間ってあなたも私もそういう低俗な生き物だよねぇって確認したくなる感じ。ターゲット設定を見誤ってもメッセージって伝わらないんだろうけど、発信者である自分自身を見誤っていても、届けたい相手へのメッセージは伝わらないんじゃないかな、と思う。

どんどん話が散漫になっていくけど…、どんなターゲット設定でも、抽象度をチューニングすれば自分が共感をもてるポイントってあると思うし、そういうものを感じられる域までもぐってみないことには、人の描き方としては浅薄すぎるのかなと思う。いい小説を読んでいると、年齢性別性格問わず、どの登場人物にも共感できるところが出てくる。あれってまさに、人間社会のリアルを描いているよなぁって思うのだ。深く潜り込んで人を捉え、それを表現する力を備えていれば、いろんなパーツパーツでどんな人とも共感をもってつながれるんだろうって。

で、ターゲットの設定に、何となくリアリティや真正性を感じないときって、その対象に対する語り手の敬意とか共感性に不足感があって、掘り深めるところまでまだおりていっていないってことなんじゃないかなぁと。よくわからないで感覚的に書いているだけなんだけど、なんとなくそんなことを思った。はぁ、全然うまいこと書きたいことが書けない…。とりあえずもう、この話は散漫なまま終わっていいと割り切ったのだ。最後までおつきあいありがとうございます。

2012-03-04

「ECサイトはネットショップなのか」

WebSig会議( #websig )に参加して、「北欧、暮らしの道具店」を運営するクラシコム代表取締役の青木耕平さんのお話を拝聴した。面白かった。

別に成功したという結果の話をするわけじゃない、今は仮説に基づく検証を繰り返しているまっただ中だという前提でお話を始めた青木さん。だけど、ものすごいシャープで実の詰まったお話だった。お題は、中小〜中堅ECサイトのメディア化戦略。弱者の戦略、のび太の戦略と言っていたけど、こんな知的なのび太があっていいのか。

内容のレポートは他所に任せるとして、私のは講演前半に偏った個人的脱線文。ぐっと引き込まれたのは、事業の経緯や現況の話を終え、さて本題というところで切り出された「ECサイトはネットショップなのか」という禅問答のような問いかけ。

青木さんいわく、「ECサイトはネット上のお店です」というのは、ECサイトの黎明期、その概念をわかりやすく理解・普及させるための一つのコンセプト立てだった。ネット上の買い物機能付き「宅配便」とも「カタログ」とも、いくらでもコンセプトの立て方はできる中での、一つのアプローチだった。

というところから、自分たちは「EC=買い物ができるメディア」として、カートボタンのついた雑誌のようなものを作りたいと考えた、というふうに話が展開する。買いに行く場ではなく、楽しみに行く場を作ろうと。で、この後に、独立系の小規模ECサイトがメディア化戦略をとる必然性だったり、いかにメディア化するかといった話が濃厚に続くわけだけど、そのレポートは他所に任せて…。

(ここから一気に講演の本題からそれて脱線を本線としますが…)こういう禅問答って、ほんと大事だよなと。新しい概念を最初に覚えたとき、教えられるままに単一の定義で鵜呑みにしてしまったものって私にはたくさんあって、それを年を重ねた今でも疑いなく使っていることに時々はっとさせられる。

新しい概念を取り入れるとき、自分なりに試行錯誤して定義するように頭が切り替わってきたのって、私はたぶん10年くらい前から?もういい大人になってからだから、それ以前に覚えた単語とか概念って、ことごとく教わったまま頭に定着していたりするのだ。

まぁでも覚えた時期に関わらず、今見える風景をベースに既習の概念のコンセプトを見直したり再定義してみる頭は大事にし続けたい。時代が移り変わり、市場環境が変われば、知らぬ間にその存在意義みたいなものも変化を迫られるわけで、こうしたことはずっと続くんだろう。

そう考えると、何も中小のECサイトに限らず、昔ながらの「お店」も、今や「買い物できる場所」からの脱却を迫られているところが少なくないだろう。というのも今さら感のある問題提起だけど、「買い物できる」っていうのはあくまで付加機能であって、そこで別のコンセプト立てが必要になっている「お店」がほとんどではないか。今生き残っている「お店」は、こうした時代変化を踏まえてリアル店舗の再定義をここ10年程でしてきたところなんだろう。

リアル店舗もネット上のECサイトも含めて、自分のところの取り扱い商品がどれだけどんなふうに売られているのか見渡してみる。その市場環境の変化を踏まえて、うちは何がユニークなポイントになりうるのか見直してみる。買い物機能付き地元のアフターサポートセンターになるのかもしれないし、それこそリアル店舗をメディア化して名物店員/看板娘によるコンテンツ提供+買い物もできる場ってことになるのかもしれない。

こうざっくり言うのはたやすいけれど、どこを売りに…というのは、取り扱い商品の単価とか粗利率とか型番指定で買えるものなのかとか高関与度の買い回り品なのかとかいう商品特性にも依存するし、どんな資質と能力をもった人が店主・店員として動けるのかとか、かけられる予算とかにもよるからいろいろ…。だけど、この辺の問題解決にあたっている方の仕事は、とても創造的で意義深いものだと思う。

って話がリアル店舗の話だらけになっていて全然WebSigしていないけれども、いやはや、とにかく面白かった。内容はtogetterとかで。ほんと、面白かったです。青木さん、モデレーターの皆さん、ご参加者の皆さんに感謝感謝。

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