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2012-02-26

静と動の風景

先日、通勤途中の乗換駅で電車の最後尾に駆け込んだところ、女性専用車両に一人の男性を発見した。カジュアルな格好をした、比較的がたいのしっかりした30前後の男性。彼もその駅から乗り込んだらしく、私が発見した時にはまだ「動」の余韻を残していた。しかし、つり革の前に立つとにわかに、その余韻が薄まってゆく。ここが女性専用車両だと気づいておらず、腰を落ち着ける様子だ。

その駅は降車客が多く、ここから終点までの数駅は車内も比較的ゆったりしている。椅子は埋まっているが、通路はスタスタ歩けるくらい。女性専用車両の役割が、ぎゅうぎゅう詰めの車内での痴漢防止にあるならば、もはや専用でも兼用でもどっちでもいいんじゃない?くらいの余裕が、この駅を過ぎるとできる。

とはいえ、世の中はそんな本質論だけで整理できない。それが終点まで女性専用車両であることに変わりはなく、周りにいるのもやはり女性だけなのであり、ひとたび視界にとらえてしまうと、やはりその男性が気の毒なのである。私が男性だったら一度や二度で済まないほどやってしまうはず、と思うとなおさら。そんないちいち周囲の男女比なんて気にして電車なんて乗っていられない。いろいろ考えたりぼーっとしたりして心は忙しいのである。

私は駆け込んだ勢いのまま男性がいる進行方向へと車内を歩きながら、1秒くらいの検討の末、これは言おうと思った。男性のところまでやってくると足を止めて、「あの、ここは女性専用車両なんですよ」と残念な面持ちで話しかけた。目を見てゆっくり声をかけ、2、3のやりとりが生まれるよう努めた。注意ではなく会話に聴こえるように。できるだけ心穏やかに気づき、できるだけ穏やかに事が解決されるように。

とはいえ動揺するのは当然である。男性ははっとして「あっ!そうなんすかっ」と辺りを見回し、あわてて今乗り込んだドアからプラットホームに降りようとした。が、ドアはちょうどしまったところで、「あぁっ」と困惑の表情を見せる。

いやいや、落ち着いて!何も降りなくても、あなたにはこの電車に乗る権利が存分にあるわけで…と思い、「あちらに」と腕をのばして、男性がたくさんいる平和な世界へと視線を促した。すると「あ!そうっすね」と言って、彼は隣の車両へと移動していった。

さて、彼を送り出してから私が考え出したのは、以前女性専用車両に乗っている男性を見かけたときは声をかけなかった、声をかけないほうがいいと即決したのに、今回はなぜ声をかけようと即決したのか、ということだった。

以前見かけた時は、終点まではあと数駅だから、その間本人が気づかない可能性も高く、気づかないまま終わるならそれにこしたことはない、そう状況をみたのだ。今回も同じ区間だったのだが、数駅とはいえそこそこの時間があるわけで、動けるなら今動いてしまったほうがいい、腰を落ち着けてから途中ではっと気づいて、移動すべきかこのままやり過ごすべきか苦渋の選択を抱えこむくらいなら、今動いたほうがベターだとみた。

そう、今回と前回で違ったことは、私の視界からみて男性が「動」に見えたか、「静」に見えたかだ。男性が乗り込んだばかりだったのが今回。私が乗るより前から乗っていたのが過去の例だった。

「動」の余韻を残しているものに次なる「動」を働きかけるのは、小さな風を送るような所作で済み、周囲にも大きな波風は立たない。が、すでに「静」の風景におさまっている対象に「動」を働きかけるのは、小さな風で済まされない。その対象に「静」から「動」への大きな転換を迫ることになり、その変容は周囲にも不穏を巻き起こす。事が大きすぎる。むやみに使えない。だから慎重になる。あと数駅という条件下なら、ひっそり事が済むほうがいいだろう、前回はそう考えたのだ。

何が適切な対応なのかは今もってわからない。気遣いとおせっかいの境目は永遠のテーマだ。なんてったって、人によってその境目が違うのだから。私たちにできることは、人によってその境目が違うということをわきまえて行動したり行動を踏みとどまったりすることだけである。

いずれにしても、同じ「男性が女性専用車両に乗っている風景」でも、人はこうした“対象の具合”によって、その風景を全然別ものと無意識に見分け、自分の関わり方も即決で変えていくのだなぁと、その数駅移動中に一人で納得した。

えーと、比較的どうでもいい話を長文に起こしましたが、つまり、こんなことを考えていると、電車の中の男女比なんていちいち気にしていられないよね、という話か。

2012-02-25

気分のもてあまし

今日は、クライアントさんに研修をご提供する本番だった。さっき終えて帰ってきたところだ。準備でここしばらく根を詰めて仕事をしてきたが、本番は気を張りつつも淡々とした心持ちで講師と受講者を見守るのみ。裏方が本番でわさわさするのはあまり良い研修といえない。すると本番が終わって帰宅途中あたりから、よくわからない高揚感で胸がいっぱいになる。これをどうしたものかと気分をもてあましてしまう。

無事終わって良かったとまとめるのは簡単だが、人の気分はそう単純じゃない。本番終了がプロジェクトの終了ではないので、裏方の私が一息つくのも気がとがめる。かといって、週末中ずっと気を張り続けていても埒があかない。今週末は別のお客さんの提案書づくりも進めておく必要があるから、気持ちを整理して、早々に淡々モードに着地して前に進まねばならない。

とりあえず、そんなわけなので、そのことを言葉に表して落ち着きを取り戻そうとしてみた文章です。またぼちぼち、あれやこれやつづってまいります。

2012-02-19

高まるユニ・チャームへの情

今年も順調にインフルエンザが猛威をふるい、私は戦々恐々として会社の中、電車の中をマスクをして過ごしている。絶対仕事を休めない状況下、すでに結構な数の人が身近でインフルエンザにかかっているので、過剰反応といっていられないのだ。

ということで、私はセブンイレブンでマスクを買い求める。マスクの棚には、青色のユニ・チャーム純正マスクと、緑色のセブンプレミアム(セブンイレブンのプライベートブランド)のマスクが隣り合わせて並んでいる。

ともに箱のパッケージで、前者には「超立体」、後者には「立体型」と、ゴシック体の漢字三文字がどどん!と目立つサイズで書かれている。その、どどん!と感は「立体型」すら「超立体」っぽく見える、正々堂々とした佇まいだ。

これ、一見純粋な競合商品として切磋琢磨しているようにみえるけれど、セブンプレミアムのマスクの箱の裏面をみると、販売元「ユニ・チャーム株式会社」と書いてある。両者ともユニ・チャームが販売元なのだ。

しかし、ユニ・チャーム純正は「5枚で398円」、一方のセブンプレミアムは「7枚で298円」で売られている。つまり、セブンプレミアムのほうが2枚多くて100円安い。それが、隣り合わせで売られているのだ。

昨年もそうだったのだけど、今年もまったく同じ棚風景だったので、あんまりユニ・チャームが不憫で、しばらく立ち尽くしてしまった。さりとて、マスクを購入する1消費者としては、これだけの価格差をつけられて、しかも使い捨てのマスクを2枚増量で提示されて、それでもあえて高くて数量の少ないほうを選ぶのも難しい。昨年はあえてユニ・チャーム純正5枚入りを買ってしまったこともあったが(複雑な消費者心理…)、なかなか継続できるものではない。

しかも、セブンプレミアムのマスクも十分に品質良好なのだ。素晴らしいフィット感。長時間くたびれず、手抜きのない誠実なものづくり。まぁそりゃ、品質が悪いとあっちゃ製造/販売元が悪いという評価になるし、手の抜きようもないのだが。

それにしても、これだけの差をつけられても尚、ユニ・チャーム純正がそれはそれとしてセブンイレブンの棚に並び続けるのは、どうしたことなのだろう。セブンプレミアムの引き立て役として置かれているのだろうか。業界事情にうといのでまったくよくわからないが。

作る人も商う人ももちつもたれつ、対等なのが最も健全だと思うけれど、作る人より、それをもって商う人のほうが強者になりやすいのが世の中か。分をわきまえるとかっていうのは、あんまり流行らないか。とか言いながら結局私は日々セブンイレブンのお世話になっている。

そんなこんなで、セブンイレブンのマスク棚の前に立つ度、私はユニ・チャームへの思いを熱くする。安いほうを購入して口元に装着したときの良質さ加減に触れる度、ユニ・チャームへの情は深まるばかりである。大好きだよ、ユニ・チャーム。私の生活はユニ・チャームに守られています。

2012-02-17

内省のなかみ

久しぶりにどっぷり反省することがあった。その過程で「人に迷惑をかけてしまったとき、自分が自分に対してしていること」を、なんとなく自己観察していたので、それをメモに残す。外側の世界で打開策を講じるのとは別に、自分の内側で何をどう内省していたか。

人に迷惑がかかった原因探しは、まず「自分の力量不足」からあたる。ここを棚上げして、まず周辺の事情なり環境から原因を探り始めると、それだけで結構な数の「事情」が集められるので、反省材料としては十分な量が集まり、それで反省会は成立してしまう。

結果、「自分の力量不足」に起因する原因究明は手つかずのまま反省を終えてしまう。そのほうが精神的にも安泰なので、放っておけば人間は自ずとそうなるものだと思っている。

なので、まず最初に「自分にどんな能力がもっとあったら、今回の迷惑は生じなかったのか」という観点で原因を洗い出していく。事情のほうは後からでも冷静に洗い出せるだろう。すると、あれこれ出てくるんだな。日々の習慣にも見いだせるし、具体的なスキル不足にも思い当たるところが出てくる。自分の仕事のやり方の甘いところも見えてくるし、その問題が起こったときの自分の初動の、人への配慮の至らなさ加減にもげんなりしてへこむ。

「自分がもっとこうであったら、こうはならなかった」という要素を、一人ブレストのように洗い出す。あの時点で、この時点で、自分の領域でできたこと、だけど自分の力量不足でできなかったこと、気づけなかったことに焦点をあてて一通り書き出す。

そうやって、えぐれるだけえぐると、自分はこれを持っていない、この能力が低いということが、だいぶ具体的に把握できる。もっとこうしたら、もっとこういう能力を高められたら、もっと日頃からこういうことをしていれば、ということがわかる。

ということで、しっかり反省して、しっかり今の力量を理解して、さじを投げず、自分を見放さず、また頑張ろうと思う。それしかできないもの。そうやって頑張ろう。問題がわかれば、少なくとも昨日の自分よりはいい仕事ができるんだし。自分の至らぬところに気づけぬまま思い上がるよりは、成長の見込みありなんだし。そうやって励ます。そうして内省を終える。

内省を終えたら、ちょっと放心状態で時間をやり過ごし、うるうるしたり、しくしくしたり、泳いだり本読んだりして、しばらくして元通りに戻る。といっても、全部元に戻っちゃだめなのだ。この経験を無駄にしないようにしないと。やれやれ。

2012-02-12

買わなくなる

これまで購入して所有していたものって今後は、広告つきで無料のモノを得るか、提供者側からモノを借りて使用できるライセンスを支払うか、いずれにしても「購入して所有するもの」ってものすごく少なくなっていくんじゃないかなぁと妄想が広がる。

流れは法人客が先行して個人客へかな。物質的なもので、最後まで買われ続けるのは、食物、日用品、消耗品とかかな。ものが豊かになって飽和状態が当たり前になると、人間の所有欲はおとなしくなっていって、より合理的な扱いやすさを求めだすってことかな。

すでにいろいろ買わなくなっているけれど、これから買って所有しなくなっていくものは何だろう。

布団とか?夏は夏用、冬は冬用で、使わないときは部屋にないとすっきりしていいなぁ。それでいったら、暖房器具とか扇風機とかもそうか。服もインナーは別として、そこそこしっかりしたものはレンタルがもっと活用されるようになるとか。服を季節ごとに入れ替えてしまえる収納スペースもレンタルか。すると部屋の収納スペースも少なくて済む。本も音楽CDも所有するってものじゃなくなるし。生涯賃貸住宅で、ソファ、テーブル、照明などなど家具もレンタル。冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、炊飯器といった家電もレンタル。

借りたり返したり、壊れたら代替品をすぐ手配して、新しいものが出たら新しいのにさくっと交換しちゃう。なんていうふうになっていくのかなぁ。そうなったとき、決定的に失うものは、なんだろう。

パウダールームも使いよう

通っているフィットネスクラブのパウダールームには、1席ごとにドライヤーが、2〜3席ごとに基礎化粧品やら綿棒やらが設置されている。ここに時々、それらのサンプル品らしきものが置かれる。メーカーさんなりが「こういうのって使ってみないとわからないでしょ、試しに使ってみてください、良かったら買ってください、口コミしてください」と置いていくのだろう。

今日行ってみたら、いくつかの席のドライヤーがサンプル品ぽいものに入れ替わっていた。いつものドライヤーでないとダメ!などといったこだわりもなく、そっちのほうが空いていたので、入れ替わった席の一つに座ってドライヤーを使ってみた。どこのメーカーだろうなぁと思って見てみたら、これまでに聞いたことがないメーカーだった(ので覚えていない)。

とりあえず、ものすごい軽かったから、「軽いなぁ。安っぽい軽さだけど、この軽さが売りなんだろうなぁ、実際首痛めている私にはありがたいし」と思いながら髪を乾かした。まずまず乾いたかなというところで、ドライヤーをOFFにした。

ちょうど同じタイミングで、もう一人そのサンプルのドライヤーを使っているおばさまもドライヤーをOFFにして、パウダールームに静寂が訪れた。おばさまがOFFにするやいなや「うるさいわねぇ、頭ガンガンするわ」と吐き捨てるように言った。な、、なるほど。「音の静かさ」という観点がドライヤーには求められるのねぇ、とはっとした。ドライヤーなんて、うるさいものだと思っていた。

これを受けて、別のおばさまが「それ、うるさいわよねぇ。それに、全然乾かなくない?」と返す。ほほぅ、「乾きの速さ」という観点も。全部乾ききるまでドライヤーかける気なんて毛頭なかったから(いつも適当なところでやめて、あとは自然の力に任せている…)、なるほどねぇ、やっぱりいろいろな評価の観点があるのねぇ、と感心。私はこのパウダールームで常々、こういうことを学ばせてもらっている。

そして、いやぁ、こういうものはこういう人に事前評価してもらうべきよねぇ、と一人納得。私は、少なくともこっち系(生活/暮らし系?)の調査に協力するとか、絶対やっちゃいけないわーと思った。

で結局、このおばさまの使用感はこの密室に留まってしまうのだけど、まぁうるさいのと乾きが悪いのはメーカーさんだって百も承知だろう。これは軽いのと安さが売りなんだろう。ならば、金額もどこかに示しておいたほうがいい気はしたけれども。どこかで、このおばさまと別の客層のハートをつかんでいることを願う。

別に、これといって立派な締めの言葉を用意できる話でもないのだけど、知ってもらう、使ってもらう、買ってもらうための仕掛けというのは、いろんなところに作れるもんなんだなぁと、こういう機会に遭遇するたび思うのだった。いろんな仕掛けがいろんなところに張り巡らされている感じ。

2012-02-06

小説の読後に残るもの

なんの自慢にもならないが、私は読んだ小説のあらすじをあらかた覚えていない。あらすじをあらかた、というのだから、ほとんど覚えていない。自分でも恐ろしくなるほど読んだそばから忘れてしまう。2週間前に読み終えた本も、昨日読み終えた本すら、どんな本?と訊かれて説明できる自信がない。

じゃあ、何のために読んでいるのか、ということになるけれども、読んでいるときは楽しい。当たり前か…。あと、しばらく仕事関係の実務書ばかり読んでいると、なんとなくバランス悪いなぁというか、喉が渇いたなぁという気がしてきて、小説の類いを読みたくなる。から、手に取って読む。すると実際、バランスを取り戻した気分を味わえる…。

それじゃ別に、時折読みたくなって読んでみるけど、読んでいる間だけ楽しくて、後に何も残っていないのねってことになって、それはさすがに参るなぁと思い、改めて自問してみた。後に残っているものは何もないのか。

すると、何もってことはないなとひらめいた。あらすじはいまいち残らないんだけど、文体や文脈のようなものが残るのだ。うまく言えないんだけど、例えば最近読んだポール・オースターの「幻影の書」でいうと、

そんな彼を、卑怯者となじるのはたやすいが、と同時に、葛藤を抱えていた人間だと擁護することも等しく容易なはずである。

みたいなところが、ものすごい残るんだなぁ。といって、これも急に「そらで言え」と言われて口にできるわけじゃない。もっと正確に言うなら、「〜のはたやすいが、と同時に、〜ことも等しく容易なはずである」という、こういう事象の捉え方、言わば方略のようなものが残るのだ。人によっちゃほとんど空っぽじゃないかと思うかもしれないが、小説を読んだ後に自分の中に蓄積されていっているのって、こういうもののような気がする。

あとはもう、ただただ、シーンごと、ある出来事に対してどんな登場人物がどんな感情を抱き、どんな行動に出るのか、あるいは感情を抱きつつ行動に出ないか、その感情に自覚的か無自覚か、どれだけ深いところまで感情を深堀りしていって、そこからどんなふうに感情を変容させていくのか、その変化は一瞬のことかじわじわ変化していくものか、そういうのを起こるままに、ふむふむと受け入れていく感じがよい。

自分の想像しうる世界が読むごとに拡張していく、自分が到達しうる心の深度が読むごとにさらなる深海を開拓していく感じがよい。それで、とにかくふむふむと読んで、ふむふむと受け入れて、ふむふむと本を閉じ、あらすじはあらかた忘れてしまうのだった。

2012-02-05

思慮深さと率直さ

昨日は母の一周忌だった。それとあわせて、開眼供養と納骨、そしてお斎(お食事)。身内だけのささやかなものだったが、京都や奈良からも親戚が参列くださって、昨日のお天気のようにほがらかに執り行われた。

うちはお墓をもっていなかったので、母の遺骨はこの1年おうちにあった。夏に手配したお墓が12月に出来上がって、昨日ようやくお墓に遺骨をおさめた。位牌、遺影、遺骨が長く一緒にあったので、遺骨を手放すのは少なからず喪失感を伴うものだった。お墓の事情ということもあったけれど、1年おうちにあったのはかえって良かったのかもしれない。そして、納骨後も家に残ってくれる位牌と遺影のありがたさを感じた。

一通りの儀式を終え、あと数日で命日がやってくる。1年前、母を亡くした晩に書いた文章がここにある。

本当に美しい人だったのだ。人の心を思いやること、言葉を大切にすること、善良であること。そうやって生きていくのが、当たり前のことなのだと教えてくれたのが母だったと思う。会話やふるまい、人への向き合い方、日々のことを通して彼女は私にそれを示し続けた。親から自然と、そして無自覚に譲り受けるのは、「自分にとっての当たり前は何か」ということなのかもしれない。

この時はこの時の精一杯で、自分が思うことを言葉に表した。しかしその後も、彼女はどういう人だったのか、私は彼女から何を引き継いだのか思いを巡らすことがあった。

そしてある時、あぁこれかもな、彼女が私に示し続けたもの、彼女の魅力を下支えしていた核はこれかもしれないと思うことが見つかった。それが、思慮深さと率直さをバランスさせることだ。

彼女は、あるときは思慮深く、あるときは率直にふるまった。常に控えめというのでもなかったし、常に威勢よくモノを言う人でもなかった。どちらかに常に振れているのではなく、かといってどちらも持ち合わせていないのでもない、どちら側に振れた彼女も頻繁に見かけた。必要なときに必要なだけ、必要なほうの所作をとっていたように思う。

この状況だったら、今は何も言わないでそっとしておいたほうがいいとふるまったこともあっただろうし、察した誰かの思いをさりげなく他の人に伝えて物事がうまく運ぶようにふるまったことも数知れなかったと思う。それをして、自分の手柄をひけらかすようなこともなかった。

一方で、必要なときには物怖じせずモノを言い、その場ですぐ判断して事態を前進させた。そこで生じる誰かの心のざわめきにも敏感だったし、そうした感情を認めて自然に心配りをする人だったとも思う。

それがどんなふうに彼女の中でなされていたのかは、勝手に妄想するほかないけれど、なんとなく私が思うのは、頭でっかちに自分はどうあるべきかとか、どうありたいとか考えていなかったのではないかと思う。私は思慮深い人間でありたいとか、率直でありたいとか、そんな抽象的な言葉を頭のなかに掲げて、その言葉に向かって自分作りするような感じはなかった。

自分が大事に思うとおりに生きていたら、結果的にその表れが思慮深く、率直なふるまいになっていたという具合ではないか。自分が思慮深くあることにも率直であることにも、さしてこだわりをもっていなかったように思われる。だからこそ、自然体のバランスがうまく機能していた、というような。

私が無意識に教わっていたことの一番は、どちらか一方に傾倒せず両方を自在に行き来できることの意義深さであり、それを成すためには、どちらも自在に扱えるよう両方の力を蓄えておくこと。それを自然体で成すには、どちらか一方のやり方にこだわったり、それが癖になってしまわないよう、気持ちが特定の手段から解放されている状態を大事に保つこと。

あえて言葉にするならそういうことを、なんとなく吸収しながら生きてきたような気がする。私がこんなわかりにくいところに母の魅力の核を見いだすのは、ここのところをこそ、母から引き継いでいきたいと私が思っているってことなんだろうなぁ。四苦八苦して言葉に表しながら、そう思った。

2012-02-02

主張三兄弟

ある主張(A)が出てくると、きまってAと対立する主張(B)が出てくるのが人間社会だ。一人の頭の中でさえ、Aと思った矢先それと真逆のBという考えが頭に浮かんできたという経験は、誰しももっているんじゃないか。私は5万とある。

ヘーゲルはAを「肯定」、対立するBを「否定」と呼び、これの橋渡し役Cを「否定の否定」と呼んだ。Cは「AもBも一理あるよ。どちらも正しいところはあるけど、間違っているところもある」と説き、A/Bを統合する新しい主張を生み出す。

この3段階を「テーゼ(定立)」「アンチテーゼ(半定立)」「ジンテーゼ(総合)」とも言い表した。ジンテーゼ(C)は、真っ向から対立するテーゼ(A)とアンチテーゼ(B)の緊張関係を発展的に解消する役回りだ。

こう表すと、なんだかジンテーゼが全部おいしいとこもっていくヒーローっぽく見えてしまうけれど、ジンテーゼ(C)は、また別のテーゼ(A')となって、そこにまた新しいアンチテーゼ(B')が立ち上がる。その繰り返しで人間は歴史を通じて理性を発達させてきたのだ。(「ソフィーの世界」参照)

自分の主張をもち、人の主張に触れ、発展的に物事を考えていく上で大切なことは、自分の主張や人の主張をA/Bの対立軸だけで捉えないこと、それで鳥瞰的に捉えられていると見誤らないことだ。対立した意見には、Cの余地を残して向き合うことが大事だと思う。

生きていれば、自分がA/B/Cどの立場になることもある。例えば、自分が主張者Aの立場だと思う場面では、対立するBを正面から受け止める気構えをもって、A/Bを改めて吟味し、まだ見ぬ主張Cを自ら模索する姿勢をもちたい。

自分が主張者Bの立場だと思う場面では、Aを否定するだけでなく、まずはAが既にあったから自分の中にBが芽生えたのだということを認めたい。さらにA同様、A/Bを吟味し、統合する主張Cを模索する目をもちたい。

Cの立場にしても、まずA/Bの主張が既にあったからこそ、自分がCの主張を導き出せたことを認め、A/Bに敬意を払う人間でありたい。そうしたA/B/C同等の貢献があって、物事は過去より鮮明になっているんだと、そういう目で世の中を見つめていきたいと思う。

加えてCの立場では、自分の主張したジンテーゼがまた別の話のA(テーゼ)となり、そこに新しいB(アンチテーゼ)が立ち上がるという連なりをわきまえておきたい。でないと、既に周囲は別のテーマに移っているのに自分一人だけ前のテーマに留まってしまって、新しいテーマの対立意見を前のテーマの話の蒸し返しやすり替えに感じてしまうかもしれない。過去の主張にしがみつかず、話は次へ、時代は先へ展開していることに、いつも心を開いていたい。

あるテーマでわき起こる主張をみんなで交換できるのは、とても有意義なことだ。そのとき、自分の主張も人の主張もA/Bの対立軸だけで見ずに、人の歴史の中に組み込まれた1プロセスというくらいざっくり捉える目をもって視点移動させながらお話しできれば、それぞれの意見に対等な意義を認め合えて、健やかなんじゃないかなぁと思う。

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