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2012-01-31

創作者の仕事に関する最近のもやもや

以前は、あらゆる業界の「編集者の仕事」が今後はアルゴリズムに取って代わられるのかなぁと思ったりした。けど、これだけ玉石混淆あふれる情報/コンテンツが世の中の前提になっては、良質なものを目利きして届けるべき対象にしっかり届ける存在は重要だよね、という雰囲気にもなる。無駄なところの中抜きは起こるだろうけど、きちんとした仕事をなせばさまざまな業界で編集機能は求められ続けるのかな、という気分になってきた。

一方で最近気がかりになってきたのが、編集する以前に、コンテンツそのものを生み出している「創作者の仕事」。あらゆる人が情報/コンテンツを生み出す時代になって、質を問わなければそれらに触れて時間をやり過ごすことはいくらでもできるようになった。しかも無料で。無料コンテンツが飽和状態という感じ。

ゲームも音楽も映像も小説も、デジタルコンテンツはいくらだってある。それが良質なものでなくても、例えば自分の友だちが作ったものとかってつながり感があれば、それを享受する動機付けは成立するから、SNSで流れてくる関わりある人たちの作るコンテンツに触れていたら、あっという間に時間は経過してしまう。

誰々ちゃんの撮影した子どもの写真/動画、誰々ちゃんの作った漫画、誰々ちゃんのお友達の作った音楽を聴いているうちに、一晩二晩、一ヶ月、一年、その人の人生はいくらだって先に進めてしまうのではないか。さらに、広告つきのゲーム、広告つきの音楽、広告つきの映像となれば、触れられるコンテンツの量質はものすごい広がる。

そして人間は、なんてったって一日24時間しかもっておらず、人生は長生きしても100年かそこらという大前提をもっている。

それでいくと、見ず知らずの人が生み出した良質コンテンツに対して対価を払うという前提は、今以上に薄れていくんじゃないかと。今は「良質とは何たるかを知っているから、良いものにはお金を出しても手に入れるさ」と言う人が少なからずいるけれど、この辺の前提が薄れた世界で生まれ育っていくと、どうなるんだろう。そういう時代になっていくだけさと割り切れば話は終わるけど、そうしたら良質なものを生み出す人間の能力は退化していくのかな。

すばらしい創作をなす人が、お金持ちに飼われたり、名の知られた編集者や広告ビジネスに振り回されることなく、自身の創作活動に専念して、その創作そのものによって生計を成り立たせ、それがうまく伝播して人の手にわたっていって、その対価がまた次の作品を生み出すようなサイクルが成り立つ社会だと、豊かだなぁと思うんだけど、難しいのか。私の頭が単純指向すぎるのか。

世の中は、より複雑怪奇になっていくのか、圧倒的にシンプルになっていくのか、まったくよくわからない。ポール・オースターの素晴らしい小説を読む合間合間に最近思っていたことの走り書き。

2012-01-30

お食事にケーキ

休日のお昼どき、私は軽い食事と読書に近所のスターバックスを訪れた。スタバで食事をするならあれかこれ、と注文する品はだいたい決まっており、レジ手前でガラス越しに目当てのものを探した。が、その日はあれもこれも見当たらなかった。

困ったな…と代替の注文に迷って、棚の下段にあるサンドイッチのある辺りを覗き込んだ。すると、レジにいた店員さんがこちら側に出てきて(他に待っている客もいなかった)私の隣に立った。

「お食事ですか?」と声をかけてきたので、「えぇ、そうです」と私。あわわ、レコメンドが始まるか、でもあの辺のサンドイッチは重たそうだし、ここは薦められる前にこれと決めてお会計に進んだほうがいいな、なんて思いながら候補をしぼりにかかった。

少しかがみこんだ姿勢で5秒だか10秒検討。その間にも何か続けて言ってくるかなと思ったけれど、会話はそこで一時停止していた。そして微妙な沈黙の後、店員さんがこう口にした。「こちらのケーキは、ここに出ている以外にも中にいろいろありますので」と。

それは、あたかも先ほどの会話を汲んで不足部分を補うような軽くふわっとした口調だった。決して、先ほどの会話を根底から覆すことを言いますが!という意気込みある物言いではなかった。

私は中腰のまま混乱した。先ほどの会話から5〜10秒しか経っていない。その間「だが、しかし」的な逆説的会話は一切なかった。二人の間にあったのは沈黙であり、風向きを変える会話は何もなかったのだから、先ほどの会話からは順接的な流れが続いているとみるのが順当だった。

「お食事ですか?」「えぇ、そうです」「お食事でしたら…」という展開が想定された。下段のサンドイッチとか、目線を上にもっていかせるにしてもスコーンとかパン類に留まるだけの在庫は十分にあった。

なぜ、ここでケーキなのか。衝撃を受けたまま、それでも何か言葉を返さなきゃと思い、私はとっさに「いや、食事なので」と口にしてしまった。頭の「いや、」と口にしたあたりで、あっ!ストップと思い、後半の「食事なので」は意識的に穏やかな声調にかえてこの一言を着地させた。

つもりだが、それにしたって「いや、食事なので」という台詞自体が、初対面の相手に送る言葉としては決して柔らかくない。その言葉を採用して発言している時点で、内面的に及第点未満なのだった。はぁ、と心の中で自分にため息をつく。とりなすように代替の品をこれと決めて、「これにしますね」と笑顔で返した。

その後席についてから、この一件について腰を落ち着けて考え始めた。そこから数十時間、ふと思い出してはあれやこれや考えている…、もはや出がらしである。ちなみに、私はこういう一件に対して、上辺だけ穏やかに取り繕うことにはさしたる関心がない。こうした事態に直面したとき、自然体の自分がとっさにどういうふるまいをする人間でありたいかというところに関心がある。それに対して、今回の自分がどうであって、何が納得いかなくて、どうあれば納得がいったのか、そのためにはどんなふうに自分の内面を成熟させる必要があって、それはどんなふうに成し遂げられそうかを考えることに意味がある。

閑話休題。少し考えればいくらでも、なぜあそこでケーキの話が登場したかイメージすることはできる。店員さんの側にまわってみれば、とりあえず何か困っているふうの客に対して力になりたいと思って表に出てきて、声はかけてみたものの、その先がなかなか続かなかった(けど支援したい気持ちはあった)ということかもしれない。とにかくお客さんとより良いコミュニケーションを図りたくて、でも言葉が続かなくて…という感じだったかもしれない。食事については客に考えてもらうとして、食後のデザートについてなら、ちょっとした付加情報を提供できると思って口をついて出たのかもしれない。あるいは、ケーキだって腹にたまる立派な食事だと思っていたのかもしれない。

店員側にもっと順当な接客の仕方があるだろうとみれば、それはそれでいくらでも挙げられるわけだけど、私がこうした日常体験で見直したいのは、私という人間のあり方だ。そういうときに、「あっちは商売で、こっちは客なんだから」という違う階層の事情を持ち込んでも、それは自分を守る言い訳にしか働かない。私は一人の客である前に、一人の人間としてどうありたいかを考えたい。

私のふるまいに焦点をあてれば、こちらはこちらでいかようにも店員さん側の思いを汲むことはできたわけで、その思いを汲めば、たとえ文脈がずれていないか?との批判がわいたとしても、あるいはそれを伝えようとしたとしても、「今、食事やて言うたがな」くらいの突っ込み方を選択できたのだ。いや、まぁ言い方はあれだけども…。

そこから反省するに、もっと敏速にその店員さんの立場にまわってイメージを膨らませることができれば、私の心のうちはもっと寛容で、私のふるまいはもっと穏やかなものになったはずである。それが今の私の器では、考えるのにしばしの時間を要し、豊かな選択肢がとっさには得られなかった。プライベートな時間だったとはいえ、キャリアカウンセラーの端くれとして、まだまだ懐が浅い、至らんなと思う。

カウンセラーというのは、外に発する言葉を「伝わる」ように放つのが基本だ。「伝える」ためどまりの言葉では意味がない。常々ってわけじゃないけど、少なくとも自分の言葉が「伝わる」ために発しているものか、「伝える」ためどまりでOKな場面なのかには、言葉を発する手前で意識が及んでいなければならない。

その上で、「伝わる」軸で考えたとき、言うか言わないか、どう言うか、いつ言うか、どんな表情で言うか、どんなスピードで話すか、どんなまなざしで伝えるか、それによって伝わるものはがらっと変わってしまうことを十二分に認識していなければならない。それは能力の領域にも、意識の領域にも関連するけれども、結局は内面の私の懐に帰結するのだと思う。というわけで、もっと懐のでっかい人間になりたいなぁ…。

2012-01-26

言い習わしに従う不自由

人には、知ってしまったが最後、生涯それに従わざるをえないというお約束がある。私にとってそれは、日が暮れてから爪を切らないことであり、霊柩車を見かけたら通り過ぎるまで親指を隠すことなのだけど、この辺りは皆さん徹底されているんだろうか。こんなお約束を、人はどれくらい抱えこんで生きているんだろうか。

特に「爪を切る」というのは日常生活の一コマであり(多くの女子は爪を切ったりしないそうだけど)、その機会は頻繁に訪れる。私の場合、朝プールで泳いだ後そこでお風呂に入ってから出勤しているので、出勤直後は爪が柔らかくなっていて、まさに切りどきだ。なので、爪が伸びてくると、よく会社に出勤して間もない朝時間に会社のお手洗いで爪を切っている。

昨日もそんなわけで、私は会社のお手洗いの隅で爪を切っていた。すると、お手洗いに似つかわしくないぱちんぱちんという音に反応してか、会社の若い女の子が(って、言い回しがおじさんぽいが…)「なぬ?」という視線を送ってきた。「何やってるんですか」と訊くので、かくかくしかじかで日が出ているうちに爪を切っているんだと事情を説明したら思いきり笑われた。最近の若い子はそういうことやらんのかね…。

いや、私もこれを守らなきゃ大変なことが…とか、気が滅入るほど妄信しているわけじゃないのよ。そういうわけじゃないんだけど、爪を切るタイミングをどうするかっていうくらいのことであれば、むしろ迷信だと思いながらそれに従い続けるくらいの寛容さをもって人生を愉しみたいじゃないのっていう、そういう感じでやってきたのであって。

そうこうしているうちに、「爪を切ろうとしたけど日が暮れているからやめた」という経験がうずたかく積みあがり、いよいよやめるにやめられなくなってきたというか…。なので、こうした経験を踏まえて、その後自らジンクスを作って不自由になるようなことは全力で阻止してきた。

ジンクスっぽいものは作り出すとキリがないし、作り慣れるとなんでもかんでもジンクス化してしまうようになる。この2つだけでも大変なのに、さらなる不自由をしょいこむようなこと、いやいや勘弁。と思うのに、何かあると頭のほうが勝手に一つのことをパターン化して意味づけしてジンクスを作り出そうと動き出すことがあるから厄介。それを察知するやいなや、どどどーっと駆け寄って必死にその活動を食い止めてきた。

ゆえに、上に挙げた2つと、あといくつかすでに作ってしまったジンクスめいたものの不自由をもって、以降数を増やさずにやっていけたらなぁと思いながら、日が暮れぬうちにせっせと爪を切り、霊柩車を見れば親指を隠す日々を送っている。

でもまぁ、爪を切ろうと思ったときに「あ、でも今、夜だわ」と思ってやめるという、その独特な自分の行動の導き方というのは、なかなか乙なものです。自分のごく個人的な暮らしのことだからこそ、そうした判断が成り立つのであり、そうしたことが成り立つところで存分にそれをやっちゃうというのも人生の味わいの一つかなと思ったりするのでした。

今日は、日中に出した提案がクライアントさんのイメージにそったものだったようで、ここ数日の緊張をほどいてのんびりした夜を過ごしているのでして、つまり、さして意味のない文章におつきあいいただき、ありがとうございました。

2012-01-20

学習意欲の高め方

以前「学習意欲と学習成果の関係」について書いたとき、Facebookのほうで「最近、人に学習意欲を持ってもらうにはどうしたらよいかをよく考える。意欲と成果の相関以前に、人が意欲を持ち始めるきっかけは何かを知りたい」といった声をいただきました。

自分というよりは、誰かに学習することを働きかけなくてはならない立場や場面というのが、年をとると…いろいろ出てきますよね。で、「それについては改めて書いてみますね!」と言ったまま年を越してしまった。すみません…。ということで、今日はそれについて書きます(書き出したら止まらなくなってしまったので、とりあえず簡単めに)。

学習意欲を高めるためにどうしたらよいか、これを考えるのに有用なモデルとしては、ジョン・M・ケラー博士が提唱したARCSモデルがあります。ARCS(アークス)は、学習意欲に関連する次の4つの概念の頭文字をとったもの。

  • Attention(注意)
  • Relevance(関連性)
  • Confidence(自信)
  • Satisfaction(満足感)

まず「Attention(注意)」は、学習者の好奇心を刺激して関心を獲得したり、それを保持すること。マーケティングのなんちゃらモデルでも頭にAttentionというのは多用されますが、まぁまずは注意を引きつけなくちゃ始まらないというやつです。学習においては最初の注意喚起だけでなく、学習プロセスを通して注意を持続させるため、どう「保持」するかも重要。教科書開かせて、「じゃあ授業始めまーす」と言って、その分野の歴史、概説と淡々と説明を進めていっても、そりゃ誰も聴かないよねという話です。

どう好奇心を刺激するのかといえば、例えばその学習内容を習得するとできるようになることや、作れるようになるものをまずは見せて「面白そうだな」と思ってもらえる仕掛けを用意するとか。あるいは、超有名人を講師に起用して気をひくのも、映像やゲームっぽい刺激で面白さを演出するのも、これを意図した仕掛けと言えるでしょう。

でもAttentionに限らず、実際に何が有効な施策になるかは、学習者がどんな人物で、学習テーマが何で、何を目的にどこに向かっていくかによって変わってくるので、どれも例えばの話。

「Relevance(関連性)」は、それを学ぶとどう役立つの?ってことです。その学習体験が学習者個人にとって意義のあることだと信じられるようにすること。とりわけ仕事関連の学習では、これがかなり重要な要素になってくると思います。

続いて「Confidence(自信)」。いくら「面白そう」「役立ちそう」と思っても、「自分にはこんなの覚えられない」「身について活用できるまで何年かかるんだか」となると、やる気も減退。「やればできそうだな」という感覚をもってもらうことも、とても大事。

教える側に心の余裕がないと、「そんなに簡単に覚えられるもんじゃないんだよ」と言い放ったり、できていないところをあら探しして指摘したりと、自信をあえてずたずたに引き裂くような鞭の乱用も起こります(笑えない)。教える人は心の余裕をもって臨む、これけっこう大事かなと。

それから、自信不足ではなく自信過剰によって学習効果が阻害されることもあります。「そんなこと知ってるよ」と本人が過剰に自信満々だと、学習すべき要素を見落としてしまっていっこうに身につかないことも起こりうるので、これも注意が必要。

最後に「満足感(Satisfaction)」。一連の学習プロセスを通じて内的あるいは外的な報酬を得られること。「やってよかったな」という感覚をもてれば、学習意欲の持続が期待できます。他者が一時的に有効な学習体験を仕組みづくっても、本人の学習意欲が持続しなければ、そのまますっからかんになってしまう。持続を仕掛けづくるのも大事。

※参照書籍は「学習意欲をデザインする」。私も研究者じゃなく学習の場づくりに励む1実務家なので、どっぷり知りたい方はこちらを。

単に「学習者にやる気がない」といっても、その理由はさまざま。その学習テーマが難しそうだから乗り気になれないのかもしれないし、学ぶことでどんな個人的メリットがあり、学ばないことでどんな個人的危機に陥るか見通せていないケースもある。

「自分はもうそんなこと知ってるから学習なんて不要だ」と思っていることもあるし、「どうせあれでしょ、眠たい講義をたらたら聴くだけでしょ!」という研修への先入観をもっていることもある。「仕事ってのは現場で覚えるもので研修で覚えられることなど一つもない」という俺教育論が背景にあるかもしれない。あるいは、そもそも仕事にやる気がないとか、主幹する組織や人物に対して反感をもっていて、その組織/人物主導の取り組みに参画することに抵抗が働いているかもしれない。

何が学習意欲を阻害しているのかによって、どうしたら学習意欲を高められるかの施策の方向性も変わってくるわけで、こうしたことをしっかり見極めていくことが大事かなと思います。

例えば、学習テーマに対してすでに高い関心がある学習者に対して、講師がアイスブレイクに時間を取りすぎたり、「これからの時代に今回の学習はとても重要なんだ」とくどくど話し続けたりすると、学習者は「早く本題に入ってくれ」と苛立ちを覚えることになります。これでは、むしろ学習意欲を減退させてしまうことになる。

こうしたことにならないようにするためには、やっぱり、学習者をよく観る、よく知ることかなと。で、この「よく」に貢献してくれるのが、こうしたモデル(4つに分けて考えることを提案してくれる)なんだと思います。

モデルを知っていること(知識)と、モデルを適切に適用できること(スキル)は別物なので、これを知ったからといって学習意欲の有効な高め方を会得できるものでもありませんが、まずは自分自身が学習者に対する関心を高めること、学習テーマを学ぶことの意義をより深く吟味することを通じて、学習者のために何をすべきかの具体的アイディアはそれぞれの立場でいろいろと出てくるかなと思っています。

こういうアイディアを交換できると、また有意義ですね。1実務者の走り書きですみませんが、とりあえず共有。何かアイディアを練るきっかけになれば幸いです。

2012-01-18

傭兵的国民性という思いつき

フレームワークを作るとか、グランドデザインを描くとか、これまでにないプロダクトを生み出すとか、苦手なんだったら苦手で、もう日本はそこで戦わなくてもいいんじゃないかとか、ふと思ったりする。抽象の世界で戦うより、具象の世界で戦ったほうが肌にあっているんじゃないかという。

もちろん個人や各組織、各業界の志向は尊重されるべきだと思っているので、それはそれ、これはこれ(ざっくり日本)ということで…。

もうフレームワーク作りとかは、そういうの大好きな海外勢に任せてしまって、とにかくいいプロダクトを作ることに集中してしまうとか。もっと言えば、プロダクトを作るのはそういうの大好きな海外勢に任せてしまって、超高精度な「部品」をありえないほど速く正確に作ることに集中してしまうとか(もちろんそこにもフレーム作りの仕事はあるわけだけど、それは現場が見える範囲の抽象度に留まったフレームワーク作りだ)。

もう「部品」を作らせたら右に出るものはない国としてプレゼンスを発揮しまくるという。各国の「こうしたい」「ああしたい」というグランドデザインに対して、高い技術力と、相手の意向を奥深くまで汲む能力と、献身の心でもっていくらでも願いを叶えてあげますよという、ものすごいデキル傭兵という立ち位置をとってみるのはどうだろうかと。

私は仕事していると、個人的に受託産業って肌にあっているなぁと思うのだけど、それは自分のなかの「傭兵」的志向に起因しているとみている。これは人によって相当好き嫌いの分かれるところだと思うけれど、私は事業としてこういうことをやりたい、育てたいというよりも、よそから問題が持ち込まれる環境に身を置いておいて、持ち込まれたらそれに対して全力で、より高い自分の専門性をもって応えられるようにしておく、という仕事スタイルがすごくあっていると思っている。受託人間だなぁと。アーティスト志向でなくデザイナー志向?、起業家精神というより職人魂?という感じ。もちろん、その専門性の軸をここに置きたい、ここを育てたいってのはあるんだけど。

で、本当にただ肌感覚で直観的に思っただけなんだけど、日本もそうなってみたら、けっこう肌にあったりしてなぁと。なんか、自国ではこれといって熱っぽくやりたいことがあるわけじゃないんだけど、他国の○○さんが「あれしたい」「これ作りたい」という欲求をもっているなら、それが叶うように力になりたいなぁ、できるかぎりの高い専門性を発揮して誠心誠意仕えます。というのは、けっこう日本の精神性にあっているんじゃないかと。

でも、こういうこと書くと、いやいやそんなことないんじゃないのーみたいな気分も生まれてくるのがアンビバレンスという人の性。結局のところ、個々人がやりたいことやればいいじゃない!やるしかないじゃない!ということでお茶を濁してこのまま走り去ろうとしていますが。すみません、基本どっちつかずなもので。「国」という概念と実際も、そのうち今とは違う形に変容していくのかもしれないし。もう変わり始めているのかもしれないし。でも、それがわかるのは100〜200年後とかかな。

編集後記どまり

gihyo.jpで連載している「Webクリエイティブ職の学び場研究」の新しい記事が公開されました。今回の取材先はIMJモバイルさんです。

第7回(前編)- 「Webサイトを作る」から「デジタルマーケティングをサポートする」企業への進化
第8回(後編)- これまでの強みが一気に弱みに転じる過渡期を生き抜く

連載タイトルを「Webクリエイティブ職〜」としておきながら、これまで一度も(といってもまだ始まって間もないけれど)ある種ど真ん中の「Web制作会社」を取材先に選んでこなかったのは、ちょっと踏み込むのが怖かったからという思いもあってのことでした。

今の時代のWeb制作会社、特に大規模化した組織は大変そうだなぁという…。取材を依頼したとして、この取材趣旨でOKをいただけるもんだろうか?、何をどう取材できるだろう?、それをどう読者の皆さんに共有して価値を生み出すコンテンツに展開できるだろう?、というところがいまいち具体的にイメージできなかったというか。もごもご。

そんなときに、ある場所で今回取材にご協力いただいた川畑さんのお話を伺う機会があって、あぁこの方ならきっと率直に、抱えている問題やそれに向けた取り組みをお話しくださるだろう、それを読んでくださる方に共有することはきっと有意義なものになるんじゃないかと思ったのでした。

それがきちんと引き出せているか、それをきちんと文章に起こせているかどうかは、にんともかんとも読んでくださる方一人ひとりのご判断になるわけですが、とりあえず今出せるかぎりの力でご理解を仰ぎたく…。

これまで取材してきたWebサービス事業会社さんと比べると、独自性を強調したような話は少なく感じられるかもしれません。でも、ある種Web制作業界の縮図として、問題意識や課題解決への取り組みみたいなものを共有できたらと思って書きました。何か少しでも考えや思いを生むきっかけが入っていれば嬉しいです。ということで、よろしければお二つどうぞ。

2012-01-15

ルールを作りながらゲームをする時代

「○○に言及するなら××を読んでからにしろ」とか「○○も知らないで××を語るな」といった台詞を一度でも見聞きしたことがある人は少なくないと思う。私もそこそこある。と改めて振り返ってみたら、声を通して聞いたことはない気もしてきた。思い出せるかぎり、文字として吐かれたものを見たことしかないかもしれない。

まぁでもこういうのってネット上で、ある人がそんなに親しくない別のある人に向けて発しているのを時々見かける。これについて内田樹さんが著書「呪いの時代」の中で鋭い指摘をされていて、感じ入ったというか、言葉のシャープさに萌えた…。

(前略)学会発表後の質疑応答で、「あなたは……の論文を読んでいないのではないか」とか「周知の……についての言及がないのはなぜか」といった、「そこで論じられていないこと」を持ち出して、「こんなことも知らない人間に、この論件について語る資格はない」と切り捨てる態度に出る学者がたくさんいました。 僕はそういう「突っ込み」を見るたびに、どうして彼らは「自分の知っている情報」の価値を高く格付けする一方、「自分の知らない情報」が知るに値しないものだとあれほど無邪気に信じていられるのか、その理由がよくわかりませんでした。 (中略)「君は『こんなこと』も知らんのか」と気色ばむ学者たちは「こんなこと」が議論の始点になければならない理由について、ほとんど説明責任を感じていないようでした。 (中略)ネット論壇で頻用される「こんなことも知らない人間には、この論件について語る資格はない」という切り捨て方はこの手の「学者の腐ったようなやつ」のやり方をそのまま踏襲しています。

とはいえ、自分の周辺を見渡すかぎりでは「○○も知らないで××を語るな」的発言をする人ってそう見当たらないのだけど、じゃあ「言うか言わないか」「書くか書かないか」の問題じゃなくて、「思うか思わないか」の問題だったらどうだろう、というのを自分ごととして考えてみた。

自分がある程度精通していると言える分野について、ほとんど無知と言っていい人が知ったような顔で何かを語り出したら、その持論を自分だけでなく専門外の人たちに向けても壇上で得意げに語り始めたら、それでも「○○も知らないで××を語るな」という思いは一切心のうちに浮かばないだろうか。

これはなかなか、どうだろうな。なんてことを掘り下げ出したのは、今日深津さん(@fladdict)のこのtweetを目にして。

何だろうな、ソーシャルゲーのインターフェース。野生のインターフェースというかなんというか、専門知識なしに統計と自然淘汰だけで最適化された武骨な機能美というか、そういう世界観があって面白い。こっからさらにインターフェースマニアが仮説立ててチューニングしたら、おもしろそう。

その道を究めるには、確かに先人の知見は役に立つし、足場固めの学習にとっても能率的だと思う。けれど、その道をとにかく突き進むにあたって、必ずしも先人の知見を学ぶところから始めなきゃいけないって法はないし、それが唯一学習の能率を最大化するやり方とは言い切れないよな、と。けっこう断定的に信じられてきた気がするけど。

とりわけ、すでにものすごいボリュームで先人のなしたことが残されている分野だったり、今まさにものすごいスピードで変化していっている分野だったり、そのためさまざまなことが未整理で混沌としていて検証もままならない状態にある分野なんかでは、必ずしも歴史に学び、先人に学ぶことが最短の道じゃないかもしれないなと。

もう体当たりで、やりたいことや実現したいことに向かって試行錯誤で道を切り拓いていくような野生のアプローチっていうのもあるかもなぁと思った。野生といったって、結局100%野生ってことはなくて、これまで各々が歴史や先人に学んできたことを取り入れつつ推し進めることになるのは必然だし。

その分野の歴史やら専門知識をもつオトナから見たら、そりゃあ無謀に見えて危なっかしかったり、あさっての方に向かっていて馬鹿馬鹿しく見えたり、自分たちの拓いてきた道を荒らされているように思えてうとましかったりするかもしれない。

でもまぁ、過去あらゆる分野の先人が発見したものすべてを踏襲して生きている人なんて一人もいないわけで、五十歩百歩といえばそれまでだなぁとも思えてくる。何事もバランスで、極端に出ると社会的に良くないということもあるんだろうけど。

でも、現代はルールを作りながらゲームをする時代とはよく言ったものだなぁと思うのだ。今ってそういう時代だよなぁと。誰が言ったんだっけな。

2012-01-14

「生産的な対話」をなす能力

一つ前の話で、書きたいと思っていた本筋をすっ飛ばしてしまったので、リベンジ的に書く…。「論理的に(あるいは客観的に、あるいは倫理的に)考えたら、こうすべきだよ」といった言い回しはよく使われるけれど、そう考えたらこれが唯一の正解でしょうと自分では思うことも、結局は主観を排除しきれない人間の、ある1個体の1つの見解にすぎないと思う。

「自殺すべきでない」という普遍性高そうな主張すら、「武士の自害」という文脈を与えれば、それを他者がとがめることについて多少なりとも心持ちが変わったりする。ジャングルの奥地に迷い込み一人ぼっちで昼夜をやり過ごし半年経過して狂ってしまいそうになっている人をイメージしたら、「とにかく生きろ」とはそう簡単に言えない気分になる。

見解が文脈によってどう変わるかは人それぞれだけど、少なくともいつの時代にも、どこの地域にも、どんな境遇のどんな対象にも通じる唯一無二の「べきだ」はそうそう導けるもんじゃないという身の程をわきまえて生きていきたいと思っている。

地球生命46億年…とまで言わないまでも、人類誕生からの歴史に照らしあわせて検証してみるくらいの懐の深さをもって、目の前の事実を見つめたいと思う。宇宙…とまで言わないまでも、遠く南半球の大陸にある一国の常識までイメージを膨らませてみて、あるいは同じ国の同じ地域にいても、その人が自分と異なるどんな境遇のもとに生まれ育ち、どんなふうに自身のことや世の中を見ているのかに思いを巡らせながら、目の前の人と対話したいと思う。

そういう心持ちを常とすれば、自分の心のうちにわく「べきだ」はあくまで自分の考えや価値観に基づく主張であって、唯一無二ってことではなさそうだと自然に思えるはずだから。

といって、「私たちには正解は導き出せない」と及び腰になって、何も答えを生み出さない人にはなりたくない。絶対の正解なんてない前提で、今目の前の案件を、何のために、誰のために、どんな条件のもとやっているかを踏まえて、私はこれが最適解だと思うというふうに、自己責任、自己選択的に自分の答えを表明して、それに関わる人と対話していきたい。

そうすると、相手の意見をきいて「なるほど、それは一理あるな」とか「その視点は抜け落ちていたな」ということを率直に受け入れていける。その場では視野が狭くなっていてうまく受け取れないことも、少し時間を経てはっと気づけたりする。そうしていろんな人の思いや気づきを統合していくことが、より目的にかなった活動につながっていく。

クライアントさんや講師の方と話をする場面では、だいたいにおいて、この「生産的な対話」が当たり前に成立するのがよい。もちろん相手にあわせて配慮しながら話はするけれど、基本的に、目的のために最良のことを一緒に見いだしていこうという前提を共有できている感じがある。

だから「いや、それも考えたんですけど、そうするとここに問題が発生するので、今回はこっちのやり方のほうが良くないですか」という話もできる。目的と対象に目線をあわせて、条件も考慮すると、どこを落としどころにするのがいいかねぇと対等に話し合える。そのコミュニケーション時間を、私はとても健やかだなぁと思う。

こうした生産的対話が成り立たないケースを3つ挙げてみる。(1)一方あるいは両者が、自分の主張だけが絶対正しいと思い込んでいる場合(未来のことを検討する際、絶対正しいは原理的にありえない)。(2)一方あるいは両者が、自分の主張が通らないことイコール自分の人格を否定されたように感じてしまう場合。(3)一方が何事にも同調するばかりで意見が一切ない場合(考えていないか、主張して否定されることが人格否定に感じられるため自己防衛している)。

こうしたケースに該当する人はいずれも「目的より自分のことが勝っちゃってる人」と暗黙のうちに理解され、周囲から議論を持ちかけられることが自然と減っていくことになる。生産的な対話を常とする人は、生産的な対話が成り立つ人/成り立たない人を嗅覚で無意識により分ける。

生産的な対話ができない背景には多くの場合、スキルというより心の問題が作用していると私は思っているので、一朝一夕にどうこうできるものではないことも多いだろうけど、協同でいい仕事をしていくためには、自分に焦点をあわせるのではなくて、共通の目的に目を向けて自分の力を注いでいくことが必要だと思う。そういう姿勢でもって生産的な対話をなすことが仕事に欠かせない要素の一つだと思う。とりあえず、前の話で書きたかったのはこういうことだった、たぶん。

2012-01-11

「である文」と「べきだ文」

スターバックスに行くと、たいてい紅茶を頼む。コーヒー屋で紅茶を頼むなんて、焼き肉屋で焼き魚を頼むようなもんじゃないか!と思うむきもあるかもしれないが、私は一回頼むと毎回同じものを頼み続ける(面倒くさがり)習性があるので、どうせ常習化するなら薄めの飲み物のほうが健康にいいだろうということで、薄めといえばコーヒーより紅茶のほうが透明度が高いな、という。まったく気分の判断だ。

それはさておき、スタバで紅茶を頼み、席についてそろそろティーバッグを引き上げようとすると、3回に1回はひもがちぎれる。ティーバッグのひもが、水分を含んで重くなった茶葉の袋を支えきれないのだ。それで、ドボンと袋がマグカップの中に落ちる。そのままにしていては紅茶が濃く苦くなるばかりなので、私は席を立ち、プラスチックのスプーンを取りにいって、それで袋をすくいあげ難を逃れる。これをまぁ3回に1回はやっている。で、トレイはこんな感じになる。

さて、ここで人は何を思うか。「スタバのティーバッグは、取り出そうとすると3回に1回はひもがちぎれてマグカップの中にドボンと落ちる」という事実から人は何を引き出すか。そんなことを考えながら、私は休日にスタバで紅茶を飲んでいる(暇人だ)。

「当然だろ、スタバはティーバッグのひもを改善すべきだ」という軸に立ち、人によっては具体策に踏み込んで「ひもを太くすべきだ」とか「ひもの粘着性を高めるべきだ」なんてアイディアを出すかもしれない。

しかし、この方向は唯一無二の正しい答えじゃない。私はヒュームの言った「けっして『である文』から『べきだ文』は結論できない」という言葉が好きだ。事実を記述する文から、行動方針を命じる文あるいは規範を示す文を決定づけることはできない。

といって、ここで終わっちゃお話が続かないし、何らかの「べきだ」と方針を引き出してこそ人間じゃないかとも思っている。思っているけれど、「けっして『である文』から『べきだ文』は結論できない」という前提に立って「でも、私はこういう理由でこうすべきだと思う」というのと、はなから「これこれである。ならば、こうすべきだ。それ以外の選択肢は断じてありえない」というのとでは、ずいぶん違う。

「3回に1回なら過半数超えていないんだし、いいんじゃないの? そんなことで苛立つなら、そんなことに苛立つ世の中のほうが問題だ」という捉え方だってあるかもしれないし、「ティーバッグを改良するのは大変だから、プラスチックのスプーンをつけてあげたら」というのも一つの策かもしれない。改良コストを考慮したら「ティーバッグに入れる茶葉の量を減らすべきだ」というのも一つの策だ(以前より茶葉の量が増えて、ひもがちぎれやすくなったというような気もするんだな)。

最近は、なんでもかんでも収束させるほう、させるほうへと足早に向かっていくけれど、とりあえずいったん拡散させるという筋肉も使っていかないと、そっちの筋肉がどんどん縮んでいっちゃうんじゃないかなーとか思ったりする。いろんな事実の捉え方があって、いろんな策の導き方がある。その中で、視野を広くもって現実を捉えて、アイディアを拡散させた上で、一つのストーリーに収束させるやり方がいいなと。

とりあえず、「である文」から一つの「べきだ文」しか思いつかない自分に気がついたら、それは自分が拡散せずに一気に収束に向かっている証拠とみて、視野をががっと広げてみる時間を1分でも挟みたい。結局は使わないものだとしても。なんか散漫な文章になってしまった…。

2012-01-07

表現すればするほど

ずいぶん前に心に響いたと記憶する言葉が、最近Facebook上で話題になっているのを目にした。

正気を失った人間の抱く幻想ほど美しいものは、現実世界のどこにも存在しない。

これは、村上春樹さんが「走ることについて語るときに僕の語ること」のなかで記した一文で、ビール飲みたいなぁ、飲みたいなぁと思いながらギリシャのオリジナル・マラソン・コースを42kmほど走り終えて、へっとへとになってビールを飲み終えた村上さんが、実際ビールを飲んでみたら、確かにおいしかったけど、走っているとき幻想に抱いたビールほどではない、という話をした後の一文だ。そこから、ここへ言葉が運ばれるところが村上春樹である。

で、これをもとに作られたサッポロビールのCM「走ることについて語ること」が箱根駅伝のテレビ中継時に放送されたそうで、2012年1月末までここで観られるようになっているのだとか。私がFacebookで見かけたのは、このサイトへの反応だった。

おそるおそる観てみると、ある程度予想はしていたんだけど、やはり感じてしまった物足りなさ。初めてこの言葉に触れた人には十分に響いているようだったので、自分の感じる物足りなさについてちょっと掘り下げて考えてみた。

つまり、こういうことではないかと思ったのは、私はこのもととなった本のほうを、これが出版されたときに読んでいて、自分の中にはすでに、そのとき自分が勝手に作り上げた壮大な本の世界観、完成イメージができあがってしまっているってことなのではないか。私含め、誰にもそれを超える“具現化”をなすことはできないということではないかということ。

原作を読んだ人が、その後映画化された作品を観ると、多くの場合それが自分の読書体験よりチープに感じられてしまうのは、もはや仕方ないことなのではないか。どんな見事な映像化も、人の脳内に完成された形をもたないイメージには太刀打ちできないのではないか。

正気を失わずとも、人間の抱く幻想ほど美しいものは、現実世界のどこにも存在しないのかもしれないなぁとか勝手に思い巡らせつつ、ふと思い出したのが内田樹さんの「呪いの時代」にある次の一節。関係しているのかしていないのか、よくわからないけど…。

「記述」することによって僕たちは何かを確定し、獲得し、固定するのではなく、むしろ記述すればするほど記述の対象が記述し切れないほどの奥行きと広がりをもつものであることを知る。
写生が僕たちに教えてくれるのは「なまもの」の無限性、開放性と、それに対する人間の記号化能力の恐るべき貧しさです。

「記述」や「写生」という言葉を、“表現”に変換してみる。表現すればするほど、その対象が表現し切れないほどの奥行きと広がりをもつものであることを知る。表現することで私たちが悟るのは、人間が想像するイメージの無限性、開放性と、それに対する人間の記号化能力の恐るべき貧しさ。人間も自然界に生きる「なまもの」だから、私たちの想像は果てしないなぁと。

だから、何なのだ…と言われると、いやぁそう思っただけだし、論理だてて何かしゃべれている気もまったくしないのだけど。ただ、まぁなんらかまとめっぽいことを書くなら、そんなことをわきまえつつ、私たちはなお、表現をしていくべきなのだと思う。実際に表現することで初めて感じることができる、「なまもの」の無限性、開放性と、人間の記号化能力の恐るべき貧しさを味わうことは、けっこう意味深い行いだよなぁと、まとまりなくぼんやり思う休日。

2012-01-03

明るいほうへ

上には上があり、きりがない。
下には下があり、きりがない。
下にあるものを掘り起こし、ダメだダメだと指摘するのは素人でもできる。
上にあるものを探り出し、これが良い、このように良いと分析するのは玄人にしかできない。

ならば、私は上を探りたい。
何が良いのか、なぜ良いのかを探ることに時間を使いたい。
上に手を伸ばし、上の空気に触れながら生きていきたい。

世の中の問題に着眼し、それを批判的に捉え、それがなぜだめかを検討することは大事だ。
批判という行為そのものは、創造に欠かせないものだと思っている。
だけど、批判は常に自分のコントロール下においておきたい。
明るいほうへ向かうために、批判を使いたい。
その見通しをもたない、気分任せの批判に時間を使うのはもったいない。

私は人生に意味を欲する。
何に意味があって、何に意味がないかは、結局自分にしか決められない。
人それぞれに、何に意味を感じるかは違う。
私は自分が有意味だなぁと思うことに時間を使いたい。
明るいほうへ向かうために時間を使いたい。

暗いほうへ向かう言葉や行動を起こしている時間を使うには、人の一生は有限すぎるのだ。
明るいほうへ、明るいほうへ、目を向け、言葉を発し、行動していきたい。

別になんら変わらないと思いますが(笑)、今年もよろしくお願いします。

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