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2011-12-07

「老害」について

30代も半ばを迎えると、「若い世代のふるまいを見聞きして一時停止する」という経験をもつようになる。

まず最近聞いた話を2つほど。1つ目は、その方が自社の2012年度新卒採用の会社説明会を開いたときのこと。前で会社の人間がしゃべっているのに、学生がみんな話し手のほうを見ずに、ずーっと下を向いたままスマホの画面を指でつぃーつぃーと上下にさすっていたという話。2つ目は、本業のかたわら大学で教鞭を執っている方の話。最近の学生はノートをとらない、机の上にはスマホとタブレットとノートPC。「ここは重要だ」と言うと、にゅっと腕をのばして写真におさめるという。もちろん、これが日本全国で行われているわけではないだろうけれど、とりあえずそういう現実があるという。

私が印象的だったのは、このお話をされたお二方とも「自分世代には信じられない光景」と感想をもらしつつも、「こういう世代を受け入れていかないといけない」といったニュアンスでエピソードを披露されたことだ。自分とは違う時代に育った若い世代のふるまいを目の当たりにして、一つ手前の時代に育った私たちは唖然とし、一時停止する。では、一時停止した後どうするか。ある人は叱り飛ばし、ある人は不快感を示すかもしれない。けれど、私たちの世代で意外と多いのが「黙してまず考える」なのかもしれないと思った。そして「自分のほうがそれを時代変化として受け入れていく必要があるのではないか」と考える人が少なくないのではないかと。

Web業界界隈で働く人の話を聴いていると、「老害」に対して敏感すぎやしないかと思うことがある。かくいう私も、自分が「老害」の加害者になってしまうことを恐れているところがあって、細心の注意を払っている。めまぐるしく変化していくこの世界に長く身を置いていることで、変化に対してはまず受け入れてみるという態度形成が自然となされるのかもしれない。あるいは過去に老害の被害者体験をもっていて、自分はこうはなるまいという反面教師をもっているのかもしれない。

でも、もし目の前の事態に違和感を覚えているなら、真っ向から否定するのでもなく、黙って受け入れるのでもなく、もっと率直に世代の異なる若者と意見交換してみてもいいのではないか。別段これという正解があるわけでもないのだし、どっちのほうが良さそうか、お互いの考えを出してみて、良いとこ悪いとこ議論してみたほうが結果として残っていくものは良質になるのではとないかと。

古代ローマの時代からごく最近まで、文化的変化がこんなに短期サイクルでめぐってくることはなかったのだ。一人の人間がその生涯を終えるまでに、こんなに劇的な文化的変化に複数回出くわすことはそうなかっただろう。そう考えると、私たち世代はそれを体験する最初の世代として、もっとじっくりこれの変えるの変えないの、何を取り入れて何を置いてくの、この時代特有のチャレンジとして愉しんではどうかと思う。

例えば、説明会場に来ているからこそ五感なり六感なりをフルに使って得られる情報があるのに、なぜ下を向いて画面をみることに専念しているのか。それはもったいなくないのかと。どんな会社なのか見に来たのなら、会場の様子、そこで働く社員たち、話し手の話しぶり、目の強さ、そういうものを自分の感覚器フルに使って持ち帰ったほうが目的に適っているのではないかと。

そういう議論を持ちかけて、いやいや姉さん、人間はもはやテクノロジーを体に身につけて、それとセットで能力を発揮するのが前提の生き物に変わったんですよと、そういう進化の遂げ方を選んだんですよと。だから、こういうふうに情報を摂取しているんですと披露してもらえれば、なるほどーと思うかもしれないし、いやいややっぱり昭和人間からすると、なんかもったいないし、危なっかしいと思うかもしれない。ある日それがぼんとなくなって自分の血肉となっている部分が薄っぺらかったら心細くない?とか思ってしまう。でもまぁ、そんなこんなも議論を深められたら楽しいじゃないですかっ!と思う。

もう一方で、説明会を主催するなら、説明会に足を運んで画面だけ見て帰られて、伝え損ねたことがあるとは思わないのかとも思う。もし思わないなら、それこそ新しいテクノロジーを取り入れてやり方を再考し、Ustreamとかで会場来ずに参加できるようにすれば効率良くなるかもしれないし。会場に来てもらってこそ伝えられるメッセージ、築ける関係性を意図して会社説明会を開いているというなら、下を向き続ける彼/彼女らに対して、新しい世代のふるまいを受け入れねばならないと黙ってそれに従うのは理にかなっていない気がする。

直接会って話を聞き、そこで築いた関係性があるからこそ、隣のB社よりこの会社に入りたいという思いを持ち帰ってもらえるのではないか。そのために足を運んでもらっているのではないか。ならば、帰すべきは自分たちは何を伝えたくて、そのためにはどういうコミュニケーションを説明会の中で築かないといけないかってことかもしれない。議論すべき本質はそこにあるのかもしれないとも思う。

学校の授業にしても同じことで、「ここは重要だ」というポイントを写真におさめるのって、「テストに出るところを記録して、テスト勉強を効率化する」以外の何の価値があるんだろうって考えると、答えが浮かんでこない。テストでいい点とる、じゃなくて、本質的にそれを学習することの楽しみとか、それを自分の血肉とすることの有意義さとかを共有できずじまいに授業が進行しているとしたら、それこそが問題の本質ではないか。

であれば、原点に立ち返ってそれを学習する意味を共有しながら、もっといい授業の参加の仕方とかを一緒に議論していってもいいんじゃないかなぁと思う。きれいごと?昭和っぽい?かもしれないけど、まぁ私は昭和生まれ昭和育ちなので…。いいものは取り入れたいし、変に固執することなくしなやかに変わっていきたいと思っているけど、変わることが目的化して、今あるものの価値をむやみに捨てることもしたくない。両方を、力まずよく見たい。よく見て、生かしたいと思う。それでどっちつかずになるのもいやだけど、良いとこどりして新しいものを生み出すことこそ、人間の創造力の発揮しどころじゃないかなと思う。

自分とは異なる時代に育った人たちが、どう時代からの影響を受けてきたのかを受容する構えは大事だ。けれど、受容することと同調することはイコールではない。「老害」を働くことに必要以上におっかなびっくりにならず、もう少し、自分たちが自然としてきたことの価値を言語化して共有してみて、次の世代の人たちに吟味してもらうステップを踏んでもいいんじゃないかなと、そんなことを思う。対等の立場にある、ただのA世代、B世代として議論してみても面白いんじゃないかなと思う。

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コメント

面白いね老害に対する考え方。
人の受容の仕方と意識なので、ある一面だけ捉えて各種情報デバイスとの「一体化」を語るのは首を傾げるけれど…

ひとつ思うのは、デバイスの中身に引き込まれ過ぎて、自分の現実側との切り替えが上手く出来ない場面を良く見るので、それが身につくような「作法」の教育が必要なのかも?と言う事。

『ゲーム脳』と言う言葉が過去に流行ったのだけれど、結局気持ちが「子供のまま」で発達して無いことを象徴的な用語で指し示しているだけで、明確な解決法を示唆できない。
極論、躾の問題なのだと思うね。

親が『デバイス』と言うものに振り回されて、子の行動に対しての正誤を判断できない。
老害と言うよりは、意識の中で根本のものに置き換えられない力不足なのじゃないかな…


色々なものが生み出される、でも人の本質は変わらない。
デバイスでデジタルスナップしている彼らも、他の面では普通に人の顔をしている筈。
それを見落とし、思考停止に陥りたくないねぇ〜

hirojkさん、こんにちは!コメントありがとうございます。
デバイスと人が一体化して強みを発揮するのは、ほんとにデバイスが脳にぐさっと組み込まれる時代になってからかなぁとか思っていますが(それまでにはこの世を退散したい気が…)。
現実側との切り替えがうまくできない場面をよく見るっていうのは、リアルとバーチャルを切り分けるレイヤーを捉え違えちゃっているからかもしれないと思ったりします。実際の世界は全部リアルなわけで、そのレイヤーをしてリアルとバーチャルに分けられるような見方をしてしまうと、バーチャルでやっていたつもりが実はリアルでやってしまっていたということになるのでは、ってわけがわからないですね…。図を描きたい。
基本、人はすでに今の技術進化についていけていないよなぁと思っているので、最後のくだりにすごい共感。それでも、技術に引っ張られながら変容を遂げていくのが必然とすれば、それが少なからず進化の方向であるように心がけたいなぁと思っています。

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