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2011-08-05

新盆前夜

母が亡くなって、初めてのお盆を迎える。去年は普通にお母さんいたのになぁと、ぽかんと思う。あんまり普通にいたから、どんなふうに昨夏を過ごしたかも思い出せない。子どもの頃からずっと、お盆といえば夏休みを意味していたのに、今年は文字どおりのお盆だ。

かなしみが薄れていくことが、くやしい。かなしみではない何かに、感情が移り変わっていくように感じられるのが、くやしい。今はいなくなったことより、そのくやしさで涙が出る。それもまた、くやしい。

母が亡くなった直後は、実家に帰ってくる度、遺影を前にぼろぼろ泣いていた。堰を切ったように涙があふれた。それが今は、あのときのどうしようもせき止めようのない感情が遠のいていっているのを感じる。それがくやしくて、涙が出てくる。くやしいなぁ、ちっぽけだなぁ、人間は…と思う。

いずれ生前の体温を、忘れてしまうのだろうか。笑顔もそのうち、自分の記憶からじゃなく写真をみて思い出すようになってしまうんじゃないか。そんなことが頭によぎって、ありえないことじゃないと思う自分にまた、くやし涙が出る。ちっぽけだなぁ、私は…と。

母の表情、母の姿は、私が終わるときまで、写真を見てじゃなくて、私の記憶から思い出し続けたい。失ったかなしみは背負ったままでいいから、母の記憶をそんなに遠のけないでねって祈る。どこかにもっていかないでねって祈る。結局こういう次元のことは、祈るくらいしか法がない。

自然の思うがままなんだな、私の中のほうまで全部、と思う。ちっぽけな人間が太刀打ちできないものに、逆らう気などわいてこないのが普段だけど、こればっかりはやっぱり、くやしさを味わう。この自分をわきまえて、最期まで生きていきたいと思う。

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コメント

分かってあげられる自信はありませんが・・・。
私の師、倉本聰が言うには、人間にはふたつの死があるのだそうです。ひとつは肉体の死、もうひとつは人々の記憶から忘れ去られる死。
なので自分が生きている限り、自分を可愛がってくれた親類のことを日々の生活の中で想い出して、心の中で手を合わせようと努めています。「それでいいのだ」と思っています。

Rさん
あったかい言葉、ありがとうございます。そうですね、日々の生活のなかで思い出す。というのが、とてもしっくりいきます。よく、ふいにそれをやっていますが、そのときが一番、しっくりいく感じがします。ずっと、そうありたいなと、無意識に思い出している日々がずっと続くといいなと思います。ほんとに、ありがとうございます。

お気持ち、とてもよく分かるような気がします。

私の場合は猫ですが、昨年2月に不慮の事故で亡くなった子の声や姿がだんだんとおぼろげにしか思いだせなくなってくることがたまらなく寂しい。
あつい悲しみが消えることに抵抗したくなる気持ちも、自分のことのように分かります。

そして昨日、16年一緒に過ごしてきたもう1匹の猫が病気で静かに息を引き取りました。この子の記憶もいずれはおぼろげになっていくんだろうと思うと恐怖さえ感じます。

でも一方で、形や出来事の記憶ってそんなに大事なのかな、と思ったりもします。
それよりも、その人(や猫)と過ごした時間を全部ひっくるめて、そこから生まれた気持ちや学びの方がずっと確かなんじゃないかと。これまでのhysさんの人生で、お母さまから得たものは、たぶん他の誰からもらったものよりたくさんあるんじゃないでしょうか。そしてそれらは絶対に消えませんよね。

自分にとって大切な記憶はおのずと鮮明に残っていくだろうし、それよりもっと確かなものはhysさんの中に丸ごと残っていると思います。

せんがんさん
メッセージありがとうございます。全部ひっくるめて、丸ごと、うん、そうですね。それはきっと、ずっと消えないし、私のなかにあり続けると思います。そのことを、今と同じようにずっと、ふいに思い出してはありがとうって思う、そういう気持ちを持ち続けたいですね。自分がそうやって生かされていることを感謝しながら生きていきたいなぁと思います。

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